部屋が揺れている。一瞬そう感じたけど、すぐにその揺れの震源が地下数十キロにあるプレートではなく、わたし自身の核であることを理解した。一月の後半、室内とはいえ気温は低い。けど、わたしの震えは凍えといった類のものじゃない。全身の毛は逆立ち、血液は逃げ惑うように高速で体内を駆け回っている。風邪を引いた時の悪寒に似てるけど、身体は芯まで冷え切っていて、頭は憎らしいくらいに沍えていた。

 どうして、こんなことになったんだろう。

 何度も脳裏を過ぎった言葉を反芻してみる。散らかったワンルームマンションの自室で、パジャマ姿のまま後ろ手に手錠を掛けられた自分。乳液と化粧水とマニキュアと空のペットボトルが置かれた小さな薄ピンクのテーブルの下に、『火気厳禁』と書かれた赤い携行缶が転がっている。中身は空だ。確認する必要がないのは、その内容物をわたしが全身に浴びているからに他ならない。小刻みに震えるたび、髪の毛を伝って灯油の雫がカーペットに落下する。手首に触れる硬質な感触と化石燃料の悪臭が、現状の深刻さを物語り、わたしの未来を暗示しているようだった。諦念にも似た思いを抱きながら、ゆっくりと視線を上げた。その先に、全ての元凶がいる。

 目の前には、美しい少女がいた。

 少女は、腰まである長い白髪に白いドレスを纏っている。そして、長い睫毛の下にある瞳は、燃え盛る業火のように赤い。少女とわたしの周りを無数の白い蝶が舞っていた。蝶の大群が、旋風に吹き上げられた木の葉のように天井を旋回している。

 大きなクマのぬいぐるみに腰掛けた白い少女は、ジッポのライターを手の平で遊ばせながらわたしを睨みつけた。少女が纏う得体の知れない威圧感と向けられた明確な敵意に、わたしは完全に萎縮し、赤い瞳から逃れるように顔を伏せた。

 悄然としていると、前からカチカチという小さな金属音が聞こえた。視線を戻すと、白い少女がわたしの目の前でジッポの火を点けたり消したりしていた。ゆらゆらと揺れる小さな火が、灯油でてかったわたしの頬を仄明るく照らしている。わたしは、目を見開いて戦慄した。少女の行為が意味するものは、一つしかない。

「おい。もういっぺん言うてみろ」

 抑揚のない声で白い少女が凄む。それに呼応して、わたしの震度も二つほど跳ね上がった。



 遡ること、約二ヶ月前。


『ポルトフォイユ・ジョゼフィーヌ』『ジッピー・オーガナイザー』『ポルトフォイユ・スクレットロン』『ポルトフォイユ・ドフィーヌ』

 商品棚に陳列された長財布を眺めてみるも、つい値段に目が行ってしまう。コストパフォーマンスを最優先するなら、ジョゼフィーヌかオーガナイザー。でも、どっちもわたしの感性に合わない。てゆーか、ジョゼフィーヌに関してはもう持ってるし。いちいち値札を気にしなきゃ買い物出来ない自分の懐事情が恨めしい。

 何も買わずに帰るなんて選択肢は、わたしの中には存在しない。冬のボーナスが口座に振り込まれる今日という日をどれだけ待ち望んでいたことか。一ヶ月以上も前からお預け食らった犬みたいな気分で、行きたくもない会社でやりたくもない仕事を頑張ってきたんだ。それも全て、この表参道にあるルイ・ヴィトンのお店に来るため。

 棚の端から端まで視線を一周させた後、わたしは意を決したように頷いた。

 うん、やっぱりドフィーヌだ。ぶっちゃけ、ここへ来る前から決めていたけど、二十万くらいするからなかなか踏ん切りがつかなかった。一時は値段の高さに圧倒されて別の物にしようかとも思ったけど、実物を見てそんな躊躇も吹き飛んだ。

 ドフィーヌが欲しい。他の代替品じゃ我慢出来ない。

「あの、これください」

 頭の片隅にある何かを説き伏せ、わたしは店員の前でお目当ての商品を指差した。

 ブランドのロゴが入った紙袋を抱えてお店を出た瞬間、わたしの多幸感は最高潮を迎えた。ほっぺに力を入れないと笑みが漏れてしまう。夜風の冷たさを肌が認識出来なくなるほど、わたしの気分は高揚していた。この世界がきらきらして見える感覚は、物欲を満たす高い買い物をした後、決まって訪れた。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、この感覚を味わっている時だけ、わたしは『生』を実感できる。

 でも、この多幸感は長く続かない。

 外気に晒された鉄が急速に熱を失っていくみたいに、この昂りも電車に乗っているうちにどんどん萎んでいき、自宅最寄の北千住駅に到着した頃には高い財布を買った満足感よりも、その買い物のせいでボーナスの大半が吹き飛んでしまったという後悔の方が勝っていた。この短時間で世界が反転するような嫌な気分も、高い買い物をした後に必ず訪れた。

 自宅のあるワンルームマンションに到着したわたしは、部屋へ向かう前に玄関に備え付けられた郵便ポストを開けた。中には、封書が四通入っていた。それらを手に取りながら、わざとらしく溜息をついてみる。自室へ着くと、わたしは靴を脱ぎ捨て紙袋と封書の束を部屋の中央にある小さな薄ピンクのテーブルの上に置いた。カーペットに腰掛け、壁にもたれながらぼーっと天井を仰いだ。しばらくこうしていたかったけど、すぐに封書のことが気になってテーブルに手を伸ばした。

 四通の内、二通はカード会社から送られてきたもので、内容は以前クレジット決済して買ったバッグに対する請求書。そして、残り二通の送り主は、どちらも消費者金融だ。封書を開け、中に入っていた紙を取り出すと、そこには『今月分の返済が確認されていません。○○日までに入金をお願いします』というようなことが書かれていた。

「……はあ、また督促か」

 ドフィーヌを買うことばかり考えていたから、返済日のことなんてすっかり忘れていた。

 嘆息しながら、わたしは督促状と請求書をテレビの横にある小物入れにしまった。中には、同じような内容の封書がぎっしり詰まっている。それらを一瞥してから、今度は紙袋からドフィーヌを取り出し、それを手にしながらクローゼットを開けた。

 クローゼットの中には、大量のバッグや財布が箱に収納された状態で押し込まれていた。堆く積まれた箱全てに各種有名ブランドのロゴが刻まれている。

 昔、ブランド品に興味のない妹から、何で何個も財布とかバッグを買うの? って聞かれたことがある。その質問をされた時、わたしは曖昧なリアクションをするだけで答えられなかった。考えたけど、わたしにもわからない。だって、何で欲しいの? って聞かれても、欲しいからとしか答えられないんだ。ドフィーヌの時もそうだけど、一度欲しいと思ったら自分でもブレーキが効かなくなる。でも不思議なことに、買ってしまうとそれまであった物欲が一気に消えてしまう。何でこんなの買っちゃったんだろう。支払いを終えた瞬間に、そう思ったことだって一度や二度じゃない。

 シャワーを浴びてから、部屋着に着替えて遅い夕食を取っていると、玄関脇のインターホンが鳴った。わたしは、相手を確認せずにオートロックの解除ボタンを押した。この時間、ここへ来る人間なんて一人しかいない。

「おっす! 澪ちゃん、こんばんはっす」

 上機嫌な表情を浮かべた保坂隼人が部屋になだれ込んできた。

「あれ? 今日もカップ麺?」

「……う、うん。ダイエット中」

 隼人は、背負っていたギターを床に置いて適当な場所に座った。

 保坂隼人は、同い年の二十四歳。高校の同級生で、当時から何となく仲が良かった。彼は高校卒業と同時にミュージシャンを目指し上京。その四年後、わたしも就職を理由に地元を離れ東京にやって来た。お互いの住所が偶然近かったということから、何となく連絡を取り合うようになり、その後何となく付き合うようになった。

「今日は何してたの?」

「バイトだよ、普通に。二十分遅刻しただけなのに店長すげーキレてさ、マジで落ちたわー。リアルにあの店辞めようかな?」

「バイトの後は? 今日ライブハウスで知り合った人と路上演奏するって言ってたじゃん。そっちはどうだったの?」

 わたしの問いに、隼人は頬を掻きながら曖昧な表情を浮かべる。それを見たわたしは、またか、とがっかりした。

「俺思ったんだけどさ、やっぱ路上って違うと思うんだよね」

「違うって?」

「ぶっちゃけ路上でやる意味ってなくね? だってさ、あそこで聴いてる奴なんて全員通りがかりの素人っしょ? あいつらに俺の才能なんてわかるわけないじゃん。あんなのに時間費やすくらいなら、ライブハウスで実績積んでいった方が堅実だって」

 隼人の言葉を聴きながら、わたしはうんざりした顔でカップ麺を啜った。アーティストのCDを買うのも、ライブに行くのもみんな素人だ。何が堅実なんだか。もっともらしいこと言ってるけど、単にバイト先の店長に怒られて気分が乗らなかっただけでしょ? あと、今日寒かったし。

 交際当初から隼人はこんな感じだった。立ち居振る舞いに夢に対する真摯さが感じられない。豆一つ出来ていない隼人の綺麗な手を見るたびに、本当に音楽活動をしているのかすら疑いたくなった。最近、言い訳ばかりして面倒事を先送りにしている隼人にイラついている自分がいる。でも、その苛立ちの源泉がよくわからない。

「あのさ」隼人が急に畏まる。「澪ちゃんにお願いがあるんだけど」

「お願い?」

 わたしが首を傾げると、隼人は困った表情を作って拝むような仕草をした。

「この通りです! お金を貸してください。僕困ってます!」

 こちらがむっとした顔で睨むと、隼人は慌てて取り繕った。

「いやいや、遊び目的じゃないよ。明日さ、T・REXってインディーズバンドと飲むことになってね。その席にさ、メンバー以外にもレコード会社の人とかも来るらしいのよ。やっぱ、努力以外にも人脈とかって大事じゃん? そういう分野でも頑張っていかないとプロへの道は厳しいと思うんだよね。だから三万、いや二万でいいから貸してよ。澪ちゃんが貸してくれないと、やばいところから借りちゃうよ? マジで!」

 金を無心する彼氏の長台詞を聞いて、どっと疲労感が込み上げてきた。なるほどね。隼人がここへ来た目的はこれですか。何だかいろんなことが煩わしくなってきたわたしは、黙って財布から万札を二枚取り出し、彼に渡した。

「ありがとう、マジ感謝!」

 金を受け取ると、隼人はそそくさと帰り支度を始めた。滞在時間わずか二十分。満面の笑みで彼が腰を上げた時、タイミング良くインターホンが鳴った。隼人に確認させると相手は郵便配達だった。動くのも億劫なわたしは、応対を隼人に任せることにした。

「澪ちゃーん。なんか封筒きてるよ? 受け取りのサイン欲しいって」

 配達員と接している隼人がわたしに向かって叫んだ。……封筒? はあ、また督促状? 本当にうざい。何通送れば気が済むの?

「サインして玄関に置いといて! 後で見るから」

 苛立ちを含んだ声を発してから程なくして、配達員の後を追うように隼人も部屋から出て行った。

 再び一人になったワンルームで、わたしは隼人が忘れていったギターとブランド品が詰まったクローゼットを交互に見つめながら、深々と溜息をついた。

 今日、わたしは何のためにお金を使ったんだろう。



 会社に行きたくない。

 でも、会社に行かないとお仕事が出来ない。お仕事をしないとお給料が貰えない。お給料を貰えないと買い物が出来ない。買い物が出来ないと死んじゃう。

 だからわたしは、行きたくもない会社へ行ってやりたくもない仕事をしている。朝八時に出社して、机に座って、パソコンの前でカタカタやっている。エクセルに数字を打ち込んで、それをコピーして、上司のところへ持っていく。これをひたすら朝九時から夕方六時まで、週五日間、一年中繰り返す。

 はあ、つまらない。早く帰りたい。宝くじ、当たらないかなあ。

「八重樫さん」

 不意に声を掛けられ、はっとパソコン画面から視線を離した。顔を上げると、わたしの横に濃紺のスーツを着たキャリアウーマン風の女性が腕組みをして立っていた。声の主は、相川主任だったみたい。

「八重樫さん、頼んでた見積もり依頼、もう出してくれた?」

「いえ、まだです」

 わたしが首を振ると、相川主任は露骨に不機嫌な顔をした。

「ちょっと仕事が遅いんじゃないの? どうしてやってくれてないのよ」

「……え。だって、主任が今日中でいいって言ってたから」

 口ごたえしたのが気に入らなかったのか、主任はこれ見よがしに溜息をつく。

「言ったから何? 見積もり依頼なんてメーカーに連絡すればすぐに済むことでしょ? 今日中でいいって言われたからってぎりぎりまで後回しにしていいってことじゃないのよ。頼まれた仕事はすぐにこなすこと。あなた、入社二年目なのにまだ学生気分が抜けきってないんじゃないの?」

 は? なにそれ。別にミスしたわけじゃないのに、何でそこまで言われなきゃいけないの? そんな細かいことぐちぐち言って。だからオバサンって嫌い。

「……すみません」

 主任とのやり取りを一秒でも早く終わらせたいわたしは、イライラをぐっと堪え、しおらしく謝ることにした。

「ふん。しっかりして頂戴ね」

 大きなお尻をぷりぷり振りながら、相川主任は遠ざかっていった。主任の姿が見えなくなったのを確認してから、わたしはふうっと息を吐いた。すると、

「いやー、災難だったね。八重樫ちゃん」

 隣の席の江崎さんがにやにやしながら話し掛けてきた。

「客観的に見ても、今のは完全に言いがかりでしょ。まあ、あれかな。あの人も色々あるから八つ当たりでもしたかったのかな?」

「八つ当たり?」

 江崎さんは、剃り残しを調べるように顎を擦りながら言う。

「相川さん、付き合ってた七歳年下の男と最近別れたらしいよ。それにほら、同期の大河内さんがキャリアクリエイト部に異動させられたじゃない。あの世代の人で会社に残ってるの、もう相川さんだけでしょ? 内心焦りとかあるんじゃないのー?」

 キャリアクリエイト部。名前は立派だけど、そこの部署へ異動した人達は、何の仕事も与えられず、ただ退社時間まで着席していることを命じられる。会社にとって不要になった人間を集め、自主退職を促す場所。キャリアクリエイト部とは、いわゆる『追い出し部屋』だ。確かに、同期の人がそんなところに飛ばされちゃったら心中穏やかじゃないだろうな。だからって、八つ当たりされても困るけど。

「最近思うんだけどさ」

 自分のパソコンに顔を向けながら、江崎さんは呟いた。

「大河内さんも含めてだけど、元気なうちは目いっぱい働かされて、要らなくなったらすぐ始末されるのってさ、なんか切ないよね。俺達って奴隷みたいだ」


 長い午前の部が終って、ようやく昼休みになった。けど、わたしにとって、社員食堂で同僚の女子社員と昼食を取るこの時間が一番きつい。リーダー格の河西さんが席の中央を陣取り、彼女を起点に会話が始まる。わたしは端に座って、それを聞きながら黙々と食べ物を口に運ぶ。

 河西さんがテーブルに肘をつきながら口を開いた。

「正月休みに海外行こうと思ってんだけど、最近の飛行機代って安過ぎない?」

 その言葉に、他の同僚達も頷く。

「わかるー。こないだネットで見たら往復三万とか普通にあったし。場所によっては、国内旅行の方が高いよ」

「でもさ、格安航空ってちょっと怖くない? 何であんな安いわけ?」

 周囲で笑いが起きると、わたしもそれに合わせて作り笑いを浮かべる。昼休みの一時間、河西さん達はいつも旅行の話や代官山とか白金にある高いお店の話なんかで盛り上がってる。どちらもお金のないわたしには無縁で、会話に入ることすら出来ない。彼女達は全員東京育ちで実家住まいだ。一人暮らしのわたしとは、使える金と時間が圧倒的に違う。

 この集団に馴染めていないのは嫌というほど理解している。おそらく向こうも。でも職場で孤立したくないから、わたしは居心地の悪さを堪え彼女達のコミュニティーにしがみついてる。

「なんかさ、大学生の時はキャリアウーマンとか憧れてたけど、いざ社会人やってみると、私専業主婦の方がいいわ」

 最年長の堤さんが、頬杖をつきながら言った。

「ここ大手だけど、追い出し部屋あったり男性社員の残業週十五時間以上当たり前とか、結構ブラックじゃん。定年までここにいるとか考えたらマジでへこむよ。相川主任見てたら最近特にそう思うわ」

 堤さんの発言に河西さんが同意する。

「あ、それわかります。私も二十歳くらいで結婚した高校の友達とかが、幼稚園の話とかしてると、ちょっと羨ましく思う時あるんですよね」

「まあ、私は先に彼氏作らないとだけど。河西ちゃん、今度一緒に街コン行く?」

「いや、彼氏いるんで」

「いいじゃん。今よりいいの探しなよ!」

 河西さんと堤さんの掛け合いを聞いて、他の人達が一斉に笑いだした。……結婚か。考えたことないけど、少なくとも隼人は論外。あいつが売れっ子ミュージシャンになるのを待つくらいなら、ツチノコを探しに行った方が建設的だ。

「あの、私昨日ネットで面白い噂見つけたんですけど、これ知ってます?」

 後輩の春日さんが、スマホ片手に河西さんに話し掛けた。

「願い事を叶えてくれる悪魔と会う方法って都市伝説なんですけど」

「はは、ミクちゃんって本当そういうの好きだよね?」河西さんが八重歯を覗かせて笑う。「で、どういう噂なの?」

「深夜零時から一時の間に願い事と名前を書いた紙を封筒に入れるんです。あ、封筒になんか呪文書くみたいなんですけど、それはちょっと忘れちゃって。その後に、悪魔がやって来て願いを叶えてくれるみたいです」

「ふーん。で、ミクちゃんはどんなお願いしたの? まあ、見た感じ悪魔には会えてないっぽいけど」

 河西さんが尋ねると、春日さんは恥ずかしそうに俯いた。

「あの、その。三キロ痩せたいって」

「願い事ちっちゃ!」

 河西さん達が爆笑した。その後、しばらくこの都市伝説の話題で盛り上がり、各々悪魔と出会ったらどんな願い事をするか発表しあったけど、わたしにだけは振られなかった。


 仕事を終えたわたしは、銀行のATMに向かい、そこで通帳残高を見て愕然とした。五百三十七円。何かの間違いかと思って何度も確認したけど、通帳に記載された額は変わらない。このあいだ振り込まれたボーナスの残りは、見事にカード会社から引き落とされていた。……やばい。今月どうやって生活すればいいの? 給料日までまだ二週間以上あるのに。やばい、本当にやばい。

 家に着くまでの間、わたしは隼人のケータイに三回着信を入れけど、あいつは一度も出なかった。遊んでて気付いてないのか、わたしからの電話が昨日貸した二万への催促だと察して無視してるのか。

 通りかかったスーパーでセール品のお惣菜でも買おうかと思ったけど、すぐに頭を振って早足で過ぎ去った。手元にはもう、数千円しか残っていない。晩御飯すら自由に買えない自分が、どうしようもなく惨めだ。

 誰もいないワンルームでテレビから流れる映像を漫然と見ながら、買い置きしていたカップ麺を啜る。ふと、最近化粧の乗りが悪いことを思い出した。きっと食生活が原因なんだろう。ここ何ヶ月、まともに料理を作った記憶がない。

 カップ麺を食べ終え、わたしはごろんと横になった。テレビでモデルの女とお笑い芸人が自分達の恋愛感について語ってる。

「……お金、どうしよう」

 部屋干ししたままの洗濯物を見上げながら、うわ言のように呟いた。

 初めて借金したのは、二十二の冬。昔から内在していたわたしの浪費癖は、上京して一人暮らしを始めてから悪化した。地元と違い、東京にはブランド品の直営店なんかが至る所にある。そんな環境がわたしの欲求を刺激した。最初は給料の中でやりくりしていたけど、すぐにそれも不可能になった。以降の決済はカードを利用した。限度額を貯金残高と錯覚していたわたしは見境なく買い物をして、結果、莫大な額のローンを抱えてしまう。そして、その支払いのため、消費者金融に手を出した。

 借金を背負った後も、わたしの買い物したいという欲求は消えなかった。ブランド品をカードで買って、その返済のために借金をする自転車操業。ダメだと解っていても浪費をやめられない。気がつけば四つの消費者金融から借り入れ、総額は百万を超えてしまった。ぶっちゃけ、借金の正確な額はわからない。知るのが怖いから。

「……ふう」

 沈んだ気持ちを紛らわすため、わたしはテーブルの上に置いてあったスマホを手に取った。画面をタッチしてSNSを起動させると、高校時代の友人達が各々に呟きを書き込んでいた。わたしも、

『仕事終わったー。超疲れたー』

 みたいなことを適当に書き込んだ。読み進めていくと、高校の頃一番仲が良かった三枝伊織が、『今日は菜乃、二歳の誕生日!』というコメントをくっつけて子供と誕生日ケーキを囲んだ画像をアップしていた。

 伊織は、二年前に職場の同僚と結婚した。彼女とは、結婚式以降会っていない。画像に写っている伊織は、記憶に残る姿よりもかなりふっくらしている。

 実家を離れ、一人暮らしをしながら働いているのはわたしだけ。伊織を含む友人全員が地元に残って就職し、そこで見つけた男性と付き合っている。うちの会社から内定を貰った時は、飛び跳ねるくらい嬉しかったけど、正直今は微妙だ。

『明日、あそこに出来たパスタ屋行くけど、どう?』『私行けるー』『午前中仕事。一時過ぎからだったら行ける。それでもいいなら、私が車で拾ってくけど』『いいよー。んじゃ、迎えよろしく』『はーい』

 上京したばっかりの頃は、みんな興味津々でこっちの生活のことを聞いてきた。でも、それも最初のうちだけで、就職したり結婚したりして自分達の生活が確立された途端、誰もわたしに関心を示さなくなった。こんな風に地元ネタで盛り上がるのを見るたびに、もやもやした苛立ちと孤立感を募らせる。

 気晴らしのつもりで開いたSNSのせいで、何だか更に暗い気持ちになった。スマホを枕代わりにしていたクッションの横に置き、再びテレビに視線を向ける。画面には、頭の悪そうな茶髪のモデルが偉そうに足を組んでいる姿が映っていた。

「私、五万以下のクリスマスプレゼント渡してくる男って、マジ無理なんですよー」

「はあ! 何言ってんだ、お前?」モデルの発言を聞いた芸人が噛みつく。「何でお前みたいなぽっと出タレントに五万も出さなきゃいけねえんだよ! お前なんか、サンタさんだって敬遠するわ!」

「えー、ひどいー」

 クリスマスかあ。すっかり忘れてたけど、あと二週間もすればクリスマスなんだよね。わたしだったら、サンタさんに何をお願いしよう。やっぱりお金かな。靴下いっぱいに一万円札を詰めてくれたら最高だな。

 ……お願い。願い事。

 その言葉が、頭の中にある何かに引っ掛かった。……あ、そうだ。思い出した。昼休みに春日さんが言ってた話。願い事を叶えてくれる悪魔の噂だ。

 少しだけ興味を持ったわたしは、スマホでちょっと調べてみることにした。『願い事を叶えてくれる悪魔の噂』と打ち込んだら、検索数は二百万件近くに上った。わたしが知らなかっただけで、結構有名な都市伝説だったみたい。検索されたサイトの中に、比較的有名なニュースサイトが含まれていたので、それにアクセスしてみることにした。

『危険な噂? 願いを叶える悪魔について』という見出しの記事には、次のようなことが書かれていた。


〈危険な噂? 願いを叶える悪魔について

 最近、ネットで話題のこの都市伝説。バラエティー番組でも取り上げられたりしているので、ご存知の方も多いでしょう。『願いを叶えてくれる悪魔』と会う方法はいくつかあるのですが、その中でも比較的有名なものを紹介したいと思います。悪魔と会う手順は以下の通り。

①深夜零時から一時の間に、願い事と自分の氏名を紙に記入する。

②その紙を封筒に入れる。そして、封筒の表側に「EMETH」という呪文を書く。

③そのまま寝る。悪魔と会えるかは運次第。失敗した場合、何も起こらずに朝を迎える。成功した場合、願い事を叶えに悪魔がやって来る。

 この都市伝説で判然としているのは、この部分のみ。悪魔がどんな姿をしていて、どんな風にして願いを叶えてくれるのか、などの詳細は一切不明。正直、巷で広まっているこういった類の噂の中ではかなり作りが簡素で、胡散臭い印象は拭えません。しかし、この噂には不気味な点もあります、それは、ディテールが甘い割に流布している範囲がかなり広域だということ。調査したところ、非常に類似した噂が欧米やアフリカにも存在しているのです。

 未だ、この方法で悪魔と接触したという人間には巡り会っていません。それは、この都市伝説が単なる噂に過ぎないからなのか。あるいは、悪魔と会ってしまった人間は皆、不幸な末路を辿ってしまうからなのか。真相は定かではありませんが、お試しになられる際は、くれぐれもご用心を。たとえ願いを叶えてくれるのだとしても、相手は悪魔を冠する存在なのだから。

二00六年五月二十四日 井上 環〉


 思いのほか長かった記事を読み終え、わたしは目頭を指で押さえた。携帯小説が許容範囲の読書嫌いなわたしにとっては、この程度の分量を読み進めるのもちょっとした苦行だ。でも、その頑張りの甲斐あって、春日さんが話してた都市伝説の全体像は掴めた。要するに、これってよくあるベタな降霊術の一種でしょ?

 普段ならこんな都市伝説のことなんてすぐ忘れちゃうけど、今日は少し違った。家に帰ってからずっと、わたしの脳裏には五百三十七円という貯金残高と昨日届いた督促状ばかりが浮かんでいる。

 お金が欲しい。所持金を気にせずに買い物がしたい。

 わたしはバッグから手帳を引っ張り出し、ページを一枚破った。そして、手帳の切れ端に自分の名前と、『お金が欲しい』という願い事を書いてみた。

 封筒はどうしよう。しばらく部屋を見渡してから、昔アルバイトを掛け持ちしようとして買った履歴書があったことを思い出した。結局、土壇場でダブルワークするのが面倒になって面接すら行かなかったけど。ベッドの下に眠っていた『履歴書在中』と書かれた封筒に願い事を書いた紙を入れ、表に『EMETH』という呪文を記してから、それをテーブルの上に置いた。

 これで、悪魔と会うためのお膳立ては揃ったわけだけど、特にこれといって感想はない。てか、こんな噂に一ミリでも縋ってしまってる自分がちょっと哀れだ。

「……アホくさ。何やってんだろ、わたし」

 テレビをつけっぱなしにして、わたしはベッドに潜り込んだ。

 薄明るい天井を見上げていると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。今頃、伊織は誕生日パーティの片付けでもしてるのかな。

 不意に溜息が出た。明日は休み。けど、何の予定もない。何となく一人で家にいたくない。気を紛らわせるために何かしたい。けど、何をするにもお金がいる。

 普段の週末に比べるとやや早い就寝だけど、瞼を閉じたらすぐに睡魔はやって来た。そして、十五分も経たないうちに、わたしの意識は現実からログアウトした。

 まどろみの中で、わたしは夢を見た。それも凄く怖い夢。詳細は思い出せないけど、悪夢を見た後特有の後味の悪さは残っている。どんな内容だったか、わたしは目を瞑りながら思い出そうとするけど、小さな夢の砕片すら見つけられなかった。

 ふと、右頬に何かが触れた。硬質で先端が少し尖っているものだ。その感触は、わたしから離れたり触れたりを繰り返している。……指で突かれてる?

 目を開けると、笑顔のショートカットの若い女性が前かがみになってわたしの顔を覗き込んでいた。女性は、わたしと同い年かちょっと下くらいに見える。服装は、赤いミニスカートに丈の短いキャミソール。露出度はかなり高めだ。そして、見間違いでなければ、女性の栗色の頭からは猫のような耳が、ミニスカートからは長くて綺麗な足の他に尻尾のようなものが生えている。

 女性から視線を逸らしてみた。すると、そこには驚くような光景が広がっていた。ここは、わたしの部屋じゃない。わたしは何故か、見知らぬ街の薄暗い裏路地にいた。……これも夢? でも、身につけてる部屋着は、寝る前に着てたものだ。

 目を泳がせているわたしに、猫耳の女性は人懐っこい笑みを向けた。

「ようこそ、常闇の街へ!」



「いやー、この前はごめんね澪ちゃん! 電話に出れなくってさ。あの日、俺超ハードスケジュールでさ、折り返し電話も入れられないほど多忙だったの!」

「もういいよ」

「にしても、澪ちゃんどうしちゃったの?」

「え、何が?」

「だって、澪ちゃんから飯誘ってくれるなんて、ここ最近なかったよ?」

「そうだっけ?」

「それにさ、ここの焼肉屋結構高くない? マジでお金大丈夫? 澪ちゃんがああ言ったから、俺リアルに財布持ってきてないんだけど」

「う、うん。大丈夫。えと、その、ボーナス入ったから。……臨時の」

「へえー、さすが大手の会社員!」

 わたしが曖昧な返事をしても、隼人は特に不審がることもなく、能天気な顔で網に載った肉をトングでひっくり返している。

 店員に案内された個室を、何の気なしに見回してみた。部屋の作りはとても質素だ。テーブルと座布団以外、特に目につくものがない。てっきり高級店というのは、高そうな骨董品や芸能人のサインがたくさん飾られているんだと思っていた。

「ちょっとトイレ」

 一通り肉を平らげた隼人が立ち上がる。

「澪ちゃん知ってる? 高いお店ってさ、トイレにコンシェルジュがいるらしいよ」

「ふふ、そんなわけないじゃん」

 満を持してといった表情で寒いギャグを言った後、隼人は個室から出て行った。彼の足音が遠ざかるのを確認してから、わたしはバッグから『履歴書在中』と書かれた封筒を取り出した。封筒を手に取って厚みと重量を確認すると、わたしの表情は自然と緩んだ。二百万円、この中に入っている。札束から三枚ほど紙幣を抜いて、再びバッグにしまった。

 やっぱり、お金があると安心する。けど、そう思うのも束の間、すぐにわたしの心には小さな不安が発芽した。

 ……あんなことをして、本当によかったのかな。

 あの日、あの瞬間から何度も自問している言葉がまた頭を過ぎった。

『願いを叶えてくれる悪魔』と会う方法を試したあの日。わたしは、本当に悪魔と出会った。夢でも見ていたんだ、最初はそう思った。でも違う。『あそこ』で見た非日常は紛れもない現実で、わたし達が暮らす日常の裏で確実に存在している。

 網の下で燻るオレンジの火をぼんやりと眺めながら、わたしはあの日起きた出来事を思い返した。

 確かにわたしは悪魔と出会い、願いを叶えて貰った。……けど、問題はその後だ。


「……常闇の、街?」

 頭の整理がつかないままのわたしは、ただ困惑しながら彼女の言葉を繰り返した。

「はい!」

 猫耳の女性が元気に頷く。

「あ、申し遅れました。私はマスターにお仕えするチシャ猫という者です。主にマスターの身の回りのお世話をしています。以後、お見知りおきを!」

 チシャ猫と名乗る女性は、わたしの手を強引に握り、ぶんぶんと乱暴に振った。

「あ、あの、だからここは何なんですか? それにマスターって?」

「マスターはマスターですよ。あー、八重樫さんには、『願いを叶えてくれる悪魔』って言った方がわかりやすいですかねー?」

 チシャ猫の発言と彼女がわたしの名前を知っていることから、ようやく事態が飲み込めてきた。

「ここはマスターが統治している街です。マスターの言葉だけが唯一の法律」

 常闇の街とは、『願いを叶えてくれる悪魔』が支配する街。チシャ猫がわたしの元へやって来たのは、十中八九そいつに指示されたからだ。わたしの願いは受け入れられた。だからこそ、私はここにいる。

「では、八重樫澪さん。マスターがお待ちですので、ご案内させていただきます」

 わたしに手招きをしてから、チシャ猫はくるっと踵を返し軽やかな足取りで歩き始めた。

 鼻歌を唄ってマイペースに歩くチシャ猫と一定の間隔を空けて移動しながら、わたしは街の風景を眺めた。常闇の街は、文字通り真っ暗だ。等間隔に街灯が点っていたけれど、その光はとても頼りなく、そこから発せられる仄明るさが却って不気味さを増長させていた。石造りの道路を五、六階建ての古い建物が囲っている。道路や建物の感じは中世ヨーロッパっぽいけど、わたしがこの街を見て最初に抱いた感想は、財政破綻してゴーストタウンになったアメリカの地方都市みたい、だった。

「あれが、マスターの住むお城です」

 チシャ猫が足を止め、遠くの空を指差した。古い建物を超えた先に、二等辺三角形の形をした屋根と思しき城の一部が見えた。その時点ではまだわからなかったけど、近付くにつれ、わたしは城の規模に息を飲んだ。闇に浮かぶ白い古城は、最初に見た街の外観とは対照的に絢爛豪華な作りだった。お城について詳しくないから上手く例えられないけど、少しシンデレラ城っぽい。でも、大きさは全然違う。悪魔が住む城というからもっとおどろおどろしい物を想像してたけど、ライトアップされた白い外壁からは、そういう禍々しさは感じられない。

 関所のような門を潜り、野球場くらいある庭園を横切って、わたしとチシャ猫は城の正面入口に立った。

「今から城内に入りますが、決して私から離れないでくださいね」

「え? どうしてですか?」

「護衛が内部を徘徊しています。一人で歩き回ってるの見つかったら、狼藉者と見なされて殺されちゃいますよ?」

 その発言に、思わず体が強張る。

「基本城内への立ち入りは、『私達』以外厳禁です。覚えておいてくださいね」

 照明が完備された城内は、眩しいくらいに明るく、目に留まるもの全てが白で統一されていた。巨大なエントランスの床も壁も上層へ通じる階段も全てが白一色だ。陰湿な感じはしないけど、なんだか目がチカチカする。

 新築の病院みたいな長い廊下をしばらく進むと、やや狭い広間に出た。広間の奥には、このクラシックな空間には不釣り合いな存在、エレベーターがあった。エレベーターの扉は例の如く真っ白で、表面には蝶の模様が刻まれていた。エレベーターの上には、『4F』という表示がある。ここは四階だったみたい。何度か階段を上った記憶はあるけど、ここが城のどこに位置しているのか見当すらつかなかった。

「マスターは、この先の最上階にいます」

 エレベーターの内部は全面ガラス張りで、外を一望できるようになっていた。扉脇に設置されたボタンを確認したら、最上階は四十四階だった。

「ここから先はこれで行きましょう。文明の利器でひとっ飛びです!」

 わたしが乗った後、チシャ猫は『閉』と『44F』のボタンを押した。

 外を眺めると、上空から見える常闇の街も、やはり薄暗くて陰気だった。歩いている時には気づかなかったけど、よく見ると建物の至る所から明かりが漏れている。

 ……いるんだ、この街で生活している人達が。

 高速で上昇するエレベーターは、あっという間にわたしを最上階へ連れていった。

「はーい、着きましたよ。この先が玉座の間です」

 玉座の間。そこに悪魔がいる。そう思った途端、背筋に冷たい汗が滲み出た。ここまでなし崩し的に来てしまったけど、普通に考えたら、わたしはとんでもない事態に直面しているんだ。行かない方がいい、そう警告する自分がいる一方、何かを期待している自分もいる。

「あ、そうだ」エレベーターから降りたチシャ猫が、何かを思い出したように声を上げた。「マスターに会う前に一つだけ注意点が」

「注意点?」

「はい。マスターってドSで短気で我が儘で気分屋さんで怒ると何するかわからないくらい凶暴な方なんですよー。なので、会話する際はくれぐれも言葉を選んでくださいね。いいですね? これ、チシャ猫との約束!」

 ドSで短気で我が儘で気分屋で凶暴という、何一つ良いところがない紹介を聞かされ、わたしは更に不安な気持ちになった。

 エレベーターの先には、幅の広い廊下が広がっており、その奥に重厚な造りの扉が一つだけある。最上階には、玉座の間しかないようだ。絵画や骨董品が無数に飾られた廊下を、わたしとチシャ猫は無言で歩いていく。エレベーターから五十メートルほど進み、薔薇の彫刻が施された分厚い扉の前に立った。チシャ猫が、扉を三回ノックする。

「マスター。連れて来ましたよー」

 中からの返事を待たずに、チシャ猫は勢いよく扉を開けた。

 恐る恐る室内を覗くと、そこに広がるのは真っ白な世界。室内は広いだけで調度品の類はほとんどなく、巨大な四つのステンドグラスの前に高級そうな大きいソファとアンティークテーブルが一組ぽつんと置いてあった。

 そして、玉座の間の中央に悪魔はいた。

 ここでも、わたしはある種の期待を裏切られた。悪魔という存在に対する漠然としたイメージ。角が生えてたり、黒い翼を持ったりした異形の怪物、そんなものがわたしを待ち構えているのかと思っていた。けど、事実は空想とだいぶ異なっていた。

 悪魔は、美しい少女だった。腰まである長くて綺麗な白髪に、気品に満ちた純白のドレスを纏っている。悪魔という言葉には、およそ似つかわしくない姿だ。

「……あの子が悪魔?」

 神秘的な魅力を放つ彼女の端正な顔立ちに、わたしは不覚にも目を奪われてしまった。……可愛い。てか、白い羽とかついてたら完璧天使じゃん。白い少女を視界に捕らえながら、そんなことを呑気に考えていた。

 が、すぐにその認識が誤りであったことを悟らされる。

 悪魔の姿をよく見ると、彼女の右手には大きな拳銃が握られており、それを部屋の奥に向けていたのだ。銃口の先を追うと、そこには猿ぐつわをされた中年男性がいて、彼は目を見開きながら小刻みに首を振り続けていた。そして、何故か男性の頭の上には、林檎が載っていた。

「じっとしていろ、ハヤシダ。動くと顔の穴が一つ増えるぞ」

 そう言って、白い少女は八重歯を覗かせて笑う。

「安心しろ。わらわはウイリアム・テル。射撃の名手だ。必ずや頭上の林檎を撃ち抜いてみせよう」

「も、もがもが!」

 撃鉄を指で下ろす仕草を見た男性が、言葉にならない悲鳴を上げた。しかし、少女はそんな彼を無視し、ゆっくりとした口調で語り始める。声質は、やや低音の気だるそうな少女のものなのに、彼女の発する言葉には得体の知れない威圧感があった。

「ハヤシダよ。お前は、この街に来てもう三年になるか。その間、実によく働いてくれた。お前の働きぶりをわらわは買っていた。いずれ直属の部下にしたいと思っていたほどにな。しかし、お前はわらわの目を盗んで農場で採れた『商品』を着服していた。がっかりだ。失望したよ。この街にある物、いる者は全てわらわの所有物だ。貴様の行為が何を意味するかわかっておるな?」

 少女は、鋭い眼光で男性を睨みつけた。

「わらわに歯向かうとは良い度胸をしているな」

 銃口から火花が上がった瞬間、男性の頭上にあった林檎が木っ端微塵に吹き飛んだ。激しい破裂音が室内を反響した後、男性は呆けた顔で尻餅をついた。少女は引き金に指を掛けたまま腰を抜かした男性に近付き、彼を見下ろしながら冷たく言い放った。

「一度失った信頼は元には戻らない。お前から全ての休暇を取り上げる。文字通り死ぬまで働け」

 顔に林檎の破片をくっつけた中年男性は、悄然としながら玉座の間を後にした。唐突に目の前で繰り広げられた衝撃映像に、わたしは完全にフリーズ状態だ。しかし、悪魔は硬直して戦慄するわたしには目もくれず、深々とソファに腰掛けテーブルに置いてあったクッキーを頬張り始めた。どうしていいかわからず、きょろきょろと視線を泳がせていると、白い少女は面倒くさそうに声を上げた。

「用があってここへ来たのだろう。突っ立ってないでこっちへ来い」

 そう促され、わたしはそそくさと彼女の元へ駆け寄る。

「あ、あの。あなたが願いを叶えてくれる悪魔、ですか?」

 まだ頭が少し混乱しているわたしは、とりあえずぱっと浮かんだ質問を口にした。

「いかにも。わらわには、一応『白姫』という通り名があるが、周りの連中はシロと呼んでおる。まあ、白姫でもシロでも悪魔でも、好きな風に呼べ」

 シロは、皿からクッキーを一つ摘み、上目遣いでわたしを見つめた。

「早速だが本題に入る。お前の願いは、『金が欲しい』でいいのだな?」

「え?」

 クッキーを持っていない方の手で、胸元からメモの切れ端を取り出し、わたしの前で振ってみせた。シロが持っている切れ端は、わたしが寝る前に願い事を書いたものだ。ちらちらと視界に入る皿の横に置かれた拳銃に不吉なものを感じながら、わたしはこくりと頷いた。

 こちらの返答を確認したシロは、切れ端をテーブルに置き、スカートのポケットから黒いトランプの束と、拳くらいある大きさの十面体のダイスを取り出した。……どうでもいいことだけど、そんな大きな物よく入るな。

「願いは叶えてやる。ただし、その前に一つ条件がある」

「条件?」

 シロの赤い瞳がわたしに照準を合わせる。

「願望を成就する対価として、お前にはわらわの奴隷となってもらう」

 奴隷という物騒な単語を聞き、わたしの身体は硬直した。

「心配するな。願いが叶った段階では、まだ奴隷にはならない。これからお前にある『制約』を課す。それを遵守すれば、奴隷となる運命を永遠に回避出来る」

 シロは隣にいたチシャ猫に目配せをし、それに呼応して彼女は頷いた。

「うおっほん! えー、ではマスターに代わりまして、不肖チシャ猫がご説明をさせていただきます」

 チシャ猫が胸を張りながら元気よく話し始める。

「まず、マスターは人間の願いを叶える魔法が使えます。そして、その見返りとして願いを叶えてあげた人間を奴隷として使役することが出来ます。言い方を変えるなら、マスターの奴隷となる契約をした人間のみが、願いを叶えてもらう権利を得ることが出来るのです。ここまでは、理解出来ましたかー?」

「は、はい」

「契約した人間が奴隷となってしまう条件はただ一つ。先程マスターが仰った『制約』を破ることです。その制約を設定するのに必要なのが、このダイスとトランプ」

 説明しながらチシャ猫は、テーブルに置いてあった十面体の黒いダイスと黒いトランプを交互に指差した。

「まず、八重樫さんにダイスを振ってもらいます。そして、出た目に応じて黒いトランプをマスターが配ります。トランプには、それぞれ破ってはいけない『決まり事』が書かれています。制約とは、すなわちその『決まり事』です。ルールは至ってシンプル。八重樫さんはただ、その『決まり事』を破らなければいいのです。遵守し続ければ、八重樫さんはずっと普段通りの日常を謳歌できます」

 わたしはふと、エレベーターに乗ってる時に見た建物の明かりを思い出した。そうか、あそこで生活している人間は皆、制約を破って奴隷になった人達なんだ。

「八重樫さん、ここに『決まり事』に関する詳しいルールが書かれています。契約される前に、一度目を通しておいてください」

 チシャ猫から渡されたA4サイズの紙には、こんなことが書かれていた。


〈黒いトランプに関するルール〉

①トランプは、ハート、スペード、ダイヤ、クローバーの四種類、それらがA、2、3、4、5、6、7、8、9、10、J、Q、Kの十三枚ずつあり、ジョーカー一枚を含む計五十三枚で構成されている。願いを叶えて貰った人間(以下、依頼人)に渡されるトランプは、その中のどれかで同じカードが重複することはない。依頼人が受け取れるトランプの枚数は五十三枚までで、課せられる『決まり事』の上限も五十三である。

②トランプの数字が大きいほど、記されている『決まり事』の難易度も高くなる。

③『決まり事』は、依頼人に渡されるまで表示されない。どんな決まり事が課せられるかは完全にランダムで、それは白姫にもわからない。

④願い事と『決まり事』に直接的な因果関係はない。しかし、願い事が大きければ大きいほど、難易度の高い『決まり事』が出やすくなる。

⑤課せられた『決まり事』は、依頼人が破るか死ぬまで消えない。一度成立した契約は、白姫にも解約出来ない。

⑥ジョーカーには数字も『決まり事』も記されていない。このカードだけは特殊で、『決まり事』を白姫が自由に設定することが出来る。

⑦黒いトランプに書かれている『決まり事』は、同じ種類同じ数字であっても依頼人によって内容は変わる。


 とりあえず読んではみたものの、内容が全然頭に入ってこない。すると、読み終えたのを確認したチシャ猫が、返却するよう手を出してきた。どうやら、この説明文は持って帰っちゃダメみたい。

「ルールは理解したか?」

 ダイスを持ったシロが尋ねた。

「今一度確認する。お前の願いは金。それでいいな?」

 わたしは否定も肯定もせず、ただシロの顔を見つめていた。

 ……本当にいいの? こんな契約、本当にしちゃって大丈夫なの? 下手したら、わたしは一生こんなところで生活しなきゃいけなくなるんだよ?

 それに、どうしてもさっき見た『ウイリアム・テル』を思い出してしまう。あの中年男性は、多分シロの奴隷だ。ここへ来たら、自分もあんな目に遭うかもしれない。

 すると、シロはこちらの迷いを見透かしたようにこんな言葉を投げ掛けてきた。

「奴隷は嫌か?」

「……え? ま、まあ、はい。誰だって嫌だと思いますけど」

 シロは、空になった皿を持ち上げ、それをひっくり返してテーブルに置いた。

「わらわからすれば、今の生活も大して変わらんと思うがな」

「そ、それはどういう意味ですか?」

「所詮、ここへ来る連中は皆、搾取される側の人間だ。国、会社、家族。相手がそれらから、わらわにシフトするだけの話ではないか」

 裏側になった皿を再度持ち上げると、その下から一万円札の束が現れた。手品のようにして出現した札束を見て、わたしは無意識に生唾を飲み込んだ。

「奴隷はいつまでも奴隷。大差がないと言うたのはそういう意味だ」

 テーブルに置かれた札束は、おそらく百万くらいはあるだろう。あれだけあれば、ドフィーヌ以上の物も余裕で買える。買い換えたかったコートだって楽勝だ。シロが現金を見せて揺さぶりを掛けてきてるのは間違いない。なのに、相手の意図がわかってるのに、わたしは頭の中でそろばんを弾いてしまう。

「で、でも。……やっぱり奴隷はちょっと」

 何とか物欲をねじ伏せ、拒否の言葉を口にした。

「そうか」シロが素っ気なく頷く。「まあ、嫌というなら仕方がない。わらわは、来る者は拒まんが、去る者も追わん。やらぬという者に無理強いはしない。ただ、一つだけ最後に言わせて欲しい」

 わたしの目を見つめ、シロは微笑んだ。その笑顔は、彼女が悪魔であることを忘れてしまうほど可愛かった。

「奴隷となった者は、この街で永遠にわらわのために働いてもらうわけだが、最近『ビジネス』が好調過ぎてな。慢性的な労働力不足に悩まされておる。当初、お前の『金が欲しい』という願いには百万で応じるつもりだったが……」

 シロが緩慢な動きで札束を皿で隠す。そして、それを退けると札束は二つに増えていた。

「諸事情からこちらとしても、お前ら奴隷予備軍には気前良くならざるを得ないのだ」

 テーブルの上にいる二人の福沢諭吉がわたしを見つめている。二百万。目の前にあるダイスを振れば、この二百万はわたしの物になる。倍額を提示された途端、さっきまで脳内で鳴っていた警報アラームが急に小さくなった。二百万。奴隷。ウイリアム・テル。二百万。督促状。ローン。買い物。買い物。二百万。

「八重樫さーん」チシャ猫の明るい声が鼓膜に届いた。「お悩みのところ申し訳ないんですが、今夜は次の依頼人も控えてるんで、そろそろ決断してもらえます?」

 震える手で黒いダイスを握り、わたしはシロに尋ねた。

「き、決まり事ってどんなやつなんですか? 人を殺せ、とか?」

「いや。基本的には簡単なものばかりだ。そうだったな、チシャ猫」

「はい! 何時から何時までテレビ見ちゃダメーとか、そんなんばっかです」

「……そうですか。じゃあ、危険なものはないんですね?」

「まあ、なくはないんですけど。出る確率はかなり低いですよー」

 チシャ猫の人懐っこい笑顔を見て、わたしも少し頬を緩めた。大丈夫、なのかな。死ぬほど怖いけど、二百万が網膜に焼き付いて離れない。瞳を閉じ、深呼吸をしてから、わたしはゆっくりと頷いた。

「……わ、わたし。やります」

 わたしは、ついに奴隷となる契約をしてしまった。

「そうか。なら振れ」

 シロに促されて投げたダイスは、綺麗な放物線を描きアンティークテーブルに着地した。ダイスの目は『3』。それを見ていたシロが、手にした黒いトランプの山札からカードを三枚抜き、わたしに渡した。

 黒いトランプの裏には、白い蝶のイラストが描かれている。表には何も書かれていない。が、トランプを手にした数秒後、表面に白い文字が浮かび上がってきた。この文字が、わたしに課せられた『決まり事』のようだ。

 受け取った三枚には、こんな文字が表示されている。

〈♣8 自宅を基点とする半径三十キロ以内から出てはいけない〉

〈♥2 一日一回笑う〉

〈♦5 五分以上連続して自転車に乗ってはいけない〉

「な? 言った通りだろ?」

 シロの言葉にわたしは素直に頷く。

「こんな簡単なのを守るだけで二百万貰えるんですね」

 正直な感想を口にすると、チシャ猫がけらけらと笑い声を上げた。

「にゃはは。でしょー? 楽勝でしょー? ぼろ儲けでしょー?」

「はい。何か、悩んでた自分が馬鹿みたい」

「にゃはははー」

 チシャ猫につられて、わたしも笑みを浮かべた。ここへ来た時からの緊張が一気に解けた瞬間だった。

「ふふ、でも大丈夫なんですか?」

「んー? 何がですかにゃ?」

「皆さんは、奴隷を集めてるんですよね? でも、『決まり事』がこの難易度じゃ集まらないんじゃないかなって」

「にゃははー。あー、そーいう心配ですか」

「ぶっちゃけ、結構いるんじゃないですか? 願い事叶えてもらうだけ叶えてもらって奴隷になってない人」

 わたしがその台詞を発した瞬間、チシャ猫は笑うのをやめた。その代わり、今度はシロが失笑した。

「ふっふっふ。そうだな、現れるといいな」

「……え、それはどういう」

 怪訝そうな顔をするわたしを無視して、シロはパチンと指を鳴らした。その動作に呼応して、わたしの視界は突如歪み、意識は闇に呑まれていった。

 目が覚めた時、わたしは自室のベッドで横になっていた。カーテンから朝日が漏れている。夢? そう思った矢先、すぐに異変に気付いた。昨夜、テーブルに置いたはずの封筒が、何故か枕元にあったのだ。不自然に厚みを増して。開けると、中には一万円札の束が入っていた。額はぴったり二百万円。

 そして、万札に挟まれる形で蝶のイラストが描かれた黒いトランプが三枚入っていた。