結論から言うと、化け猫と同居することになった。

 正確には化け猫たちだ。

 この世に生を受けて二十七年と六ヶ月、愛も友情も幽霊も信じていない俺が、まさか妖怪と暮らすことになろうとは。



 ビジネスパートナーに裏切られ、起業した会社が二年弱で倒産。

 仕事を失い、借金返済のために貯金をも失った俺は麻布のマンションを引き払い、人生の立て直しを図るために東京のはずれにある親族の持つ物件に身を寄せることになった。

 駅の改札から出た瞬間、目の前に広がる寂れた風景を目にして「都落ち」という言葉が頭に浮かび、大きな溜息が出てしまう。そんな、二十七歳の春。

 活気が感じられない街。どこからか錆びた鉄と腐葉土のにおいがしてきた。

 まさか二十三区を出て行かなくてはならない日が来るとは。

 沈む気持ちに逆らうように顔を上げれば、あまりにも空が広くて余計に侘びしさが募った。

 いやいや、と首を振る。

 東京が高層ビルに覆われた緑のない場所というのは、東京を知らない者の発想だ。

 美しい海に囲まれた伊豆大島諸島だって、山林と清流に囲まれた奥多摩だって東京なのだ。

 つい昨日までの生活圏内であった新宿や六本木、渋谷だけが東京じゃない。

 と、思ってみたところで虚しさは変わらない。

 ここには一秒を争うようなスピード感も、人と情報が行き交う混沌とした昂揚感もない。

 のどかな……と言えば聞こえはいいが、時代から取り残された閉塞感が漂っている。

 まあいい。出直すなら知り合いに会いそうもない寂れた街のほうがきっと集中できる。なによりも家賃を浮かせられるのが有り難い。今の自分の経済状況では一円だって倹約し、再起に向けた運転資金を貯めたいところだ。

 シャッター通りとまではいかないが、かろうじて営業しているとわかる店が並ぶ商店街を抜けて、住宅地へと進んでいく。

 古びた一軒家が並ぶ街並みは昭和初期の雰囲気を漂わせ、牧歌的でどこか懐かしい。劣化したアスファルトの道はところどころひび割れたり陥没したりして、引き摺っているトラベルケースのゴトンゴト、ゴトンゴトという音が「都落ち、都落ち」と聞こえて歩くごとに気が滅入る。くそっ。

 爽快な五月の青空の下、正反対に薄暗く曇った気持ちで二十分ほど歩き、ようやく目的の鳥居が見えてきた。

 そう。これからの俺の住処はこの神社だ。といっても境内で野宿するわけじゃない。

 角が取れて丸みを帯びた石階段を上りながら、その先にある鳥居を見上げてなんだかがっかりする。

「こんなに小さかったっけ」

 子どもの頃は大きく見えたんだけどなぁ。身長一六五センチの小柄な俺でも腕を伸ばせば手が届きそうだ。

 そんなことを思いながら鳥居をくぐろうとした時、石階段の最上段の端に灰色の毛玉がちょこんと乗っていることに気づいた。

 灰色の毛玉は微かに膨らんだり縮んだりしている。二匹の仔猫がお互いを抱くようにして眠っていた。

 うららかな午後の日差しが当たる石段が温かくて気持ちがよいのか、仔猫たちは俺の足音にも目を覚ます気配がまるでない。

 くっそ、可愛いな。だがエサはやらんぞ。

 鳥居をくぐるとすぐ右手に手水舎があり、真っ直ぐ伸びた石畳の先には本殿がある。

 本殿は通常の造りよりもずっと屋根が大きく前に伸びていて、階段はもちろんその前に置いてある賽銭箱の上まで覆っている。

 賽銭箱に百万円ぐらい入っていねーかなと冗談半分、期待しないでのぞき込むが真っ暗な闇がぽっかりと口を開いているだけ。こんななんちゃって無人神社、賽銭どころか参拝者がいるのかもあやしい。

 本殿そのものは小さな鳥居にふさわしく、家庭用物置程度の大きさで屋根ばかりが目立ち、今は扉が閉じて見えないが、中には様々な招き猫が祀られている。

 これが『招き猫神社』と呼ばれる由縁。

 母方の曾祖母が、助けてくれた猫に感謝して建てたと聞いている。家の敷地に稲荷を奉るようなものだ。資格を持った神主が常在しているわけでもなく、当然、神社本社に登録だってしていない。

 この国には信仰の自由がある。何を神として崇め祀っても構わないのだ。

 曾祖父母の時代はどうだったか知らないが、今では母方の伯父が月に三、四回掃除に訪れる程度のお荷物物件。

 そして、今日からは俺が伯父に代わって、この神社の管理をすることになる。

 その見返りに手にした鍵をポケットから取り出しながら、本殿から少し離れて建つ社務所、ということになっている平屋の玄関へ向かう。

 築百年近く経っているであろう家は堅牢な日本家屋で、小さいながらも不思議な威厳とも呼べる存在感を保っていた。

 そう。ここが今日から俺の住処。

 がっしりとした頑丈な造り、どこはかとなく漂うモダンな雰囲気。建てられた当時は、最先端のお洒落な家だったに違いない。

 あまりにも古い家屋で心配だったが、鍵を鍵穴に挿すと何の抵抗もなく開き、横開きの扉も少し音がうるさいだけで、意外なほどすんなりと俺を家に招き入れた。

 家の奥から流れてきた空気は、思いの外澄んでいて驚く。ずっと空き家にしていたとは思えない。

 靴を脱いで床板に足を乗せると、じんわりと温かさを感じた。

 不思議な温もりは、懐かしさから生まれてくるのか。

 俺の家族はいろいろと複雑で、幼い頃に伯父の家に預けられていた時期もあり、彼と一緒に何度もこの神社に来たことがある。時にはこっそりひとりで来たことも。ここは俺の唯一心休まる場だった。

 玄関は台所と繋がっていて、大きく立派な流し台の上にある窓からは、小さな裏庭に咲き誇る躑躅の花が見下ろせた。

 流し台の反対側には四枚の襖。日に焼けて多少黄ばんでいるが、激しい傷みはない。

 真ん中の二枚を思い切りよく開くと十二畳の部屋が広がり、障子越しに差し込む午後の日の光が、柔らかく畳の目を照らしていた。お日様に焼けた枯れ草に似たにおいがして、頬がふと緩む。

 何もかも変わっていない。幼い頃のままだ。全体がなんとなく小さく見えるのは、自分が大きくなったからかな。

 和室を横切り障子を開けると縁側があり、その向こうにガラス戸。境内がほぼ見渡せる。

「お?」

 縁側の隅、くしゃくしゃに丸まった藍色の布にくるまれて、大きな虎柄の毛玉が呼吸している。

「どっから入り込んだんだ?」

 俺の声に猫がむくりと顔を上げた。

「うわ、ぶっさいくな猫」

 逆三角形に近い目、少し潰れた鼻。いかつくて一ミリの可愛げもない顔だ。

 眠りを邪魔されて怒ったのか、シャーと鋭い牙を見せて威嚇する。

 猫は俺を睨みながら、のっそりと立ち上がり藍色の布から出てきた。

 なんだか凄く迫力があって、つい一歩下がってしまった。ずいぶんと体格のいい虎猫だ。そこらへんで見掛ける野良猫よりも、一・五倍ぐらいでかい。全身を覆っている黒と茶の縞々の毛並みは艶やかで、ぶっとい手足はいかにも屈強な感じ。そこいらの猫はもちろん、犬にも勝てそうだ。

 虎猫は俺の足下に来ると、クンクンと鼻を鳴らしながら回り出す。

 なんだ? 俺の足、臭いか?

 虎猫はきっかり一周すると、長くて太い立派なしっぽでパシッと右ふくらはぎを叩いた。

「いてっ!」

 本当に痛かったわけではないが、鞭のような素早い攻撃に思わず声が出てしまった。

 雌雄は決したとでも言いたげに、虎猫は満足げにフウっと小さく鳴くと、ベッド代わりであろう藍染めの布の中に戻り、再び丸まって眠ってしまった。

 たかが猫に、なんとも言えない敗北感に囚われる。

「い、今のところはこれで勘弁してやる。夜までには追い出すからな」

 我ながら大人げないと思う捨て台詞を吐いて、とりあえず荷物の整理を始めることにした。中身は一週間分の着替えとノートパソコン、書籍数冊、日用雑貨、日持ちする食料。かさばる布団や洋服などは宅配で今夜届く手はずになっている。

 整理と言ってもトラベルケースから荷物を出して適当に和室に並べ、パソコンが無事なのを確かめるだけだから、十分もかからずに終わる。

 改めてしばらく住まうことになった家の中を見回す。

 代々の管理者の手入れがよかったのか、修繕が必要な箇所もなく、清潔に保たれている。

 古いがボロくはない。そこはかとなく歴史を感じさせる天井や柱を眺めていると、不思議と落ち着き、心慰められる。

「いい家だ」

 風呂はないが水洗トイレはある。ひとりで住むには十分な広さもある。何よりも家賃無料。素晴らしい。

 腕時計を見ると午後三時。宅配便が来るまでに今夜の食事と明日の朝食ぐらいは、近くのコンビニかスーパーで調達しなければ。

 ヤカンや鍋、食器なども必要か。なにしろこの家にはなにもない。

 かつては誰かが住んで境内の手入れをし、御守りや札を販売し、ちょっとした祭事も行っていたと伯父から聞いたことがある。

 だが伯父の代にはすでに無人神社で、この屋敷兼社務所もただの空き家になっていた。

 家具もなにもない十二畳の部屋は、襖を取り付ければ東西六畳二間に仕切ることができる。西側の六畳には押し入れがあって、子どもの頃は少し恐くてワクワクした。

 ふと、押し入れにはかつての住人が置いていった物があったのを思い出す。

 使える物があるかもしれない。

 少々の期待を持って押し入れを開ければ、見覚えのある大きな竹行李が二つ入っていた。押し入れの中に入っていたせいか、それとも伯父が手入れをしていたのか、思ったほど埃も積もってない。

 子どもの頃には引き出せなかった大きな行李は、ちょっと力を入れたらすんなり押し入れから出てきた。埃が飛ばないよう慎重に蓋を開けると、中には着物が入っていた。上から取り出してみれば、男物と子ども用の着物ばかりが現れる。なぜか女物はない。他にタオルケットや毛布。

 さらに奥にはいくつかの箱があり、その一つを開けて見ればはぎれ布で作った小さな猫型の御守りが出てきた。御守りはかつて神社で販売していたものだろうか。

「男物の着物は部屋着として使えそうだな」

 試しに芥子色の着物を服の上から羽織ってみる。

 少し丈が長いが裾がずるほどではないし、部屋着としては十分だ。家賃が無料だけでなく部屋着まであるとは。本当にいい物件だ。

 縁側のガラス戸を開けると、柔らかい日差しと涼やかな風が入ってきた。

 心地よい風に押されて、着物を羽織ったまま畳の上に寝転び大きくあくびをする。

 微かに木と草のにおいがした。

 辛い子ども時代。毎日がしんどかった。それでも心折れずに、一応まともに成長できたのは、この逃げ場があったお陰だと思う。

 参詣者など滅多に訪れない静かな境内で、よく膝を抱えて空を眺めていた。

「そういえば、いつも猫がいたな」

 誰かが餌をやっている痕跡はないが、訪れると必ず猫に遭遇した。猫の愛らしい仕草にも慰められたものだ。縁側に我が物顔で居座っている不細工な虎猫に似た猫も見た記憶がある。もしかして、そいつの子どもかな。藍色に包まれて眠っている虎猫を見て口元が緩む。

 招き猫神社というだけのことはある。いや、人間がいないから猫の巣窟になりやすいのかも。

 家の中までいたのは驚きだったが。

 神とか信じていないが、招き猫神社内で猫を無下に扱うことはなるべくしたくない。それに猫は嫌いじゃない。動物の中では好きなほうだ。まあ、動物自体そんなに好きではないが。

 夜になれば餌でも探しに出て行くだろう。

 ガラス越しに境内を眺めれば、団子のようになっていた灰色の仔猫たちの姿は消えていた。

「さて、買い出しに行かなきゃ」

 気合いを入れるように口にしたが、光と風の気持ちよさにいつしか眠ってしまった。



「この荷物はなんだ?」

「なんだ?」

「ここに住むつもりなのか?」

「住むつもりなのか?」

 ザワザワと頭上が姦しい。俺は無理矢理眠りの世界から引き戻され、重たい瞼を開ける。

 視界いっぱいに二人の幼児。推定三歳。

 愛らしい顔も身につけている着物もまったく同じ。一卵性双生児というよりも、クローンもしくはドッペルゲンガーな二人の子どもが俺の顔をのぞき込んでいた。

「……どこの子だ?」

 勝手に他人の家に入ってくるとは、最近の親の躾はどうなっているんだ。

「お前こそどこの誰だ?」

「どこの誰だ?」

 叱りつけようとして、逆に叱られた。幼児とは思えない、大人びたしっかりした口調。

 祭りでもあるのか、二人は金魚柄の着物を身につけている。裾は短く、小さな膝小僧が見える。大きな目、少し長めの坊ちゃんカット、男の子なのか女の子なのか見た目では判別できない。

 俺は上半身を起こし、大人の威厳をもって双子に向き合う。賢しいこの子たちなら、きちんと話をすればわかってくれそうだ。

「ここは俺の家だ。正確には俺の伯父の所有だが、俺が管理を任されここに住むように言われた。きみたちは近所の子か? 勝手に他人様の家にあがるのはよくないだろう。ほら、もう夕方だ。自分のお家に帰りなさい」

 なるべくわかりやすく、穏やかに諭したつもりだった。だが、相手はわかってくれなかった。

「俺の家とは図々しい」

「図々しい」

 双子は考えることまで似ているのか、セリフがまるで木霊だ。

「ここは我々の住処だ」

「我々のための住処だ」

「はあ!?」

 賢しいのではなく、逆に頭のおかしい子なのだろうか? だとしたらやっかいだ。警察を呼ぶか、とポケットの携帯に手を伸ばそうとした時、別の声が響いた。

「姦しいぞ、てめぇら」

 目の前の子どもたちとは明らかに違う、低い大人の男の声に戦き振り返ると、着流し姿の若い男が立っていた。

 目つきの悪い色男。長身で野生の豹を思わせるすらりとしなやかな筋肉を纏った美丈夫。二枚目俳優が時代劇の悪役やったらきっとこんな感じ。凶暴さとそこはかとなく漂う色気。

 思わず目を奪われ、つい何者かと問うのも忘れていたら、男が剣呑な表情をして近づいてきた。

 すっと細められた目が微かに金色に光って見えた、のは気のせいか。凶悪な目が醸し出す艶っぽさが半端なく、俺の動きが止まる。

「てめぇ、誰がその着物に腕を通していいと言った」

「は?」

「返しやがれ」

 怒りを含んだ低い声。男はいきなり俺が羽織っていた着物の襟元を掴んだ。何するんだと口を開く間もなく着物を剥ぎ取られ、俺は悪代官に帯を引っ張られる女官のごとく、くるりと一回転して畳に倒れ込む。

 これ以上身ぐるみ剥がされてたまるかと、俺はTシャツを死守するように裾を両手で握って男を睨みつける。

「いきなり何すんだ! っていうか、お前誰だ。痴漢、不審者、不法侵入者。警察呼ぶぞ!」

「何だと?」

 男がしゃがんで俺に視線を合わせ凄む。やだ、恐い。俺と同じ歳ぐらいに見えるけど、なんだろう彼から滲み出る迫力は。

 藍色の着物がはだけて、逞しい胸元が見えた。

 今流行の痩せマッチョ的な? いろんな意味でむかつくわ。

 身長、筋肉を自分と比べて、たぶん殴り合いでは勝てないと判断する。

 顔のいい奴は、せめて頭が悪くあってくれ。

 穏便に出て行ってもらうにはどう説得すべきかと、交渉術のノウハウを脳みその引き出しを漁っていると、奴が目を眇めて顔を近づけてきた。

 鼻と鼻がぶつかりそうな距離で、奴は犬のように鼻を鳴らした。そして、にやりと口の端を上げて、俺から離れて座り直す。八重歯、というには大きすぎる牙のような犬歯が見えた。

「どっかで嗅いだニオイだと思ったら、おまえ、あん時の洟垂れ小僧だろ」

「は、洟垂れ小僧!?」

「なんだ忘れたのか? お前はよくこの神社で猫を抱きながら泣きじゃくっていたガキだろ? 少しは大きくなったな」

「な、なんで知っている!?」

 俺が幼少の頃、たびたびひとりで神社に来て泣いていたことを。伯父だって知らないはずだ。伯父と来た時は、泣かずに掃除を手伝っていた。参拝者とかち会ったこともない。

「虎は、この人間を知っているのか?」

「知っているのか?」

 男の背後からぴょこぴょこと双子が顔を出す。

 虎? 男の名前は虎というのか。

 無人家に住み着いたホームレスの父子か? とにかくこの三人を追い出さなくては。

 俺はパニクっている頭をフル回転させる。

 交渉術基本その一。イエスしかない二択を選択させる。

 相手に選択を与え、選ばせておきながらどちらにころんでも自分にとってイエスの言質をとる手法だ。

 例えば、服を買うかどうか迷っている客に対して「ホワイトがいいですか? それともブルーのほうがお好きですか?」と尋ねて、購入しないという選択をはじき、どれを購入したいという意識に移行させる手法だ。

 慶應義塾大学に現役で入学し、マッキンゼーに入社五年で独立した俺をなめるなよ。

 俺はジーンズのポケットから携帯を取り出した。

「いいか、警察に強制的に出て行かされるか、それとも平和的に出て行くか、どちらでも好きなほうを――」

「ごちゃごちゃうるせぇ!」

 最後まで言わせてくれなかった。美形に凄まれ怯んだ俺に追い打ちをかけるがごとく、まったく同じ顔をした双子が男の背後から出てきて甲高い声で責め立てる。

「警察だと?」

「出てけだと?」

「お前が出て行けばいいではないか」

「お前が出て行くという選択肢があるではないか」

 くりんとした大きな目には凄まじい目力があった。たがが三歳児相手に腰が引ける。迫ってくる双子に対して、俺はずるずると尻で後ずさってしまう。

「なっ、なんなんだお前ら。こっち来るな」

 背中が壁にくっついた。

「こいつさっさと食っちまうか?」

「食っちまうか」

「な、なんだよ食うって」

 情けないと思うが、真っ黒な四つの瞳に睨まれて全身に鳥肌が立ち、体の中心から力が抜けていく。瞳からスーっとなにかを抜かれていくような感じ。

 あれ、頭がクラクラしてきた。貧血?

 意識が引っ張られるように抜けていく。

「そこらへんにしておけ」

 男の声は今までと違い、家屋を揺らすような重さを持っていた。その重さが抜けかけた俺の意識を留まらせた。

 そして、目の前の双子が突然消えた。パサリと金魚柄の着物が畳の上に落ちる。

 なにっ! なんなの? なんてイリュージョン!?

 何度も目を擦るが、畳の上にはくしゃくしゃになった双子の着物だけ。呆然と浅黄色の中で泳ぐ色とりどりの金魚を見つめる。

 俺はおずおずと着物に手を伸ばす。もぞもぞと金魚が動き出した。

「ひっ!」

 な、なんだ。またイリュージョンか!?

 くしゃくしゃになっている着物から、ぴょこぴょこと灰色の毛玉が顔を出す。小さい二つの仔猫の頭。ギラリと光る緑色の瞳。

 灰色の毛が少し青みがかって紫色に見える。その毛が凶暴に毛羽立っている。

 仔猫が怒りを露わに、シャーっと真横に口を開き小さな牙を見せ前傾姿勢になる。

 俺はとっさに両腕で顔と頭を庇う。

 ミャウと低い唸り声を上げて、仔猫たちが飛びかかった。

「いってーな!」

 声を荒らげたのは俺ではなく男だった。

 恐る恐る指の隙間からのぞき見ると、なぜか男が仔猫たちの攻撃に晒されていた。一匹は太もも、もう一匹は肩の辺り、藍色の着物に爪をたてて噛みついている。

「離れやがれっ」

 男は片手で一匹ずつ仔猫を引きはがし、そのまま枯れ葉でも払うように――投げ捨てたぁー! 仔猫なのに容赦ねぇぇぇ。

 ぽぽーんと仲良く宙に舞った二つの毛玉は、くるっと回って仔猫になり部屋の隅に着地した。よかった。

 ホッとしたのも束の間、男が俺の荷物を一瞥して問う。

「で、てめぇはここに住むつもりなのか? あの時の恩を返しに?」

「あの時の恩?」

「背中の毛を涙と鼻水でビショビショにしやがっただろ。よくも自慢の毛を手ぬぐい代わりにしやがったな」

「え?」

 藍色の着物にくるまっていた虎猫はいない。そして、その着物を着た男。

「まさかあの時の……」

 虎猫で、さっきまで縁側で寝ていた虎猫? 猫の寿命ってそんなに長いのか?

 思考がまとまらないまま、意志に反して馬鹿みたいに口だけが酸素を求める金魚のようにパクパクと動く。

「感動の再会だろ?」

 ニヤッと笑った男が口の端から牙のような八重歯が見えた瞬間それは消え、代わりに崩れ落ちた藍色の着物にでっかい虎猫が現れる。

 虎猫は堂々たる姿で唸るように鳴き、威嚇するよう鋭い爪を見せた。

 なんだ、なんだ、なんだこれは。

 俺、夢見ているのか?

 それとも事業に失敗したショックで幻が見えてしまっているのか?

 視界がゆらゆらと揺れる。いや、揺れているのは俺の体か?

「まさか虎、この人間を住まわせるのか?」

「住まわせるのか?」

 ステレオのような幼子たちの声に、俺は我を取り戻す。

 部屋の端、仔猫が着地した場所には裸の双子が立っていて、大きな目を吊り上げて俺を睨んでいた。

 まったく同じ外見だと思っていたが、ひとりは男児でもうひとりは女児だった。と気がつく程度にはまだ冷静だな俺。褒めてやる。

 子どもたちは俺の前に落ちていた着物を手にとっていそいそと身につけ始める。

「全身に毛がないというのは、今でも心許ないな」

「心許ないな」

 大人っぽい口調とは裏腹に、着物を纏う様子は子どもらしく少しぎこちない。わたわたと頼りない手つきで帯を締める。

「お、お前たちは猫……猫なのか、人なのか……」

「猫と呼ばれていた」

 目付きの悪い猫が再び男の姿になって、畳に落ちた着物の上に片膝を立てて座っていた。

「今は俺たちのことを妖猫、化け猫と呼ぶんだろ。どうでもいいことだ」

 金魚柄の着物をようやく身につけた子どもたちが俺を睨みつけつつ男に訴える。

「今さら人間などいらん」

「いらん」

「追い出せ」

「追い出せ」

 男は煩わしそうに子どもたちを手で払う。

「鼻水垂らしていたガキなら、亜子の子孫だろ。ならそう無下にはできまい」

 亜子って誰だ?

「亜子の子孫? 本当に?」

「本当に?」

 子どもたちがちょこちょこと俺との間合いを詰める。なんて黒くて大きな瞳。

「確かに小さいな」

「亜子も小さかったな」

「小さいっていうな!」

 背が低いのは中学生の頃からコンプレックスだ。だが俺の言葉は双子の耳には届いていないようで、ますます顔を近づけてくる。

「目が似ているか?」

「鼻が似ているか?」

「本当に亜子の子孫か?」

「亜子の子孫か?」

 どんどん詰め寄られ、圧迫面接でも受けているような気分になる。

「管理ってことは境内の掃除や家の手入れをするんだろ。便利じゃねーか。ちゃきちゃき働いてもらう」

 思いっきり不服そうな子どもたちの視線を、男は大きなあくびで蹴散らした。

 どうやら力関係は見た目の通り大人>子どものようだ。

 虎、と呼ばれる男は険しい目つきで俺を睨む。

「住ませてやるからにはこちらの道理に従え。何か言いたいことはあるか?」

 腰を抜かしたまま俺は答える。

「……とりあえず、服を着てください」



 家賃を浮かせるつもりだった。

 あわよくば、子どものいない伯父からこの土地を相続できないかと目論んでいた。

 まさか化け猫付きなんて不良物件だったとは。

 ただより高いものはない。

 昔の人は素晴らしい名言を残してくれたものだ。