小さな歪みは十三年前、見知らぬ誰かの七回忌が発端だった。

 少女の父親の親友が、死後満六年目を迎え、生前親交があった両親は揃って法事に参列しに行った。地区の子どもバレーボールクラブに所属していた少女は、翌日に試合を控えていたため家でひとり留守番をすることになった。

 女の子が一人きりで留守番だなんてあまりにも物騒である。しかも、少女はまだ小学生だ、何か間違いがあってはならないと、当初両親は置いて行くことに反対していた。目に入れても痛くない一人娘を一人きりになんてさせられない――両親は、子煩悩で善良な人間であり、悪く言えば過保護でもあった。

 少女はそんな両親からの生暖かい束縛に嫌気が差していた。良い子でいるのも楽ではない。偶には、両親の目が届かない場所で思い切り羽目を外したかった。

 留守番と言ってもたった一夜限りである。翌日の夕方には両親は帰ってくる予定で、小学生でも一晩を乗り切るのは何ら難しいことではない。

「大丈夫よ。わたし、ひとりでも平気だわ」

 少女は渋る両親をなんとか説得し、一日限りの自由を手に入れるのだった。

 初めての一人きりに浮かれた。家中を好き放題使えた。お菓子を食べ散らかし、漫画とゲーム機を一緒にリビングに持ち込んで思いのままに遊び倒し、だらしない格好でテレビを見ていても叱られない。注意されない。見咎められない。後にその痕跡を片付けなければならない面倒臭さがあるにはあったが、二度と無いかもしれない機会である、この欲求には抗えなかった。おかげで心ゆくまで自由を満喫できた。

 しかし、昼を過ぎ、午後五時を迎えた頃、少女の気持ちにも変化が訪れる。

 寂しくなったのだ。当初は怖くなんてない、へっちゃらだと余裕ぶっていたけれど、徐々に近づいてくる夜の気配に急に心細くなってしまった。自分以外に誰もいない一軒屋は、無人の空間の方が多くなる。電灯が点くのは少女が居る部屋だけで、扉の向こう、廊下とその先にある各部屋に灯りが点ることはない。子供にとっては広すぎる家の中、暗闇が占める割合は必然的に高くなる。

 灯りだけの問題じゃない。静けさは底冷えを漂わせた。肌に感じる人の温もりの無さに一人きりをやけに意識させられた。いつもなら書斎には父が、台所には母が居て、少女は夕飯を待つ間自室でのんびりしているはずだった。在るはずの息遣いが皆無という不自然さが、異様過ぎて不気味である。

 まるで別世界に呑み込まれたかのよう。

「……」

 どうしよう。

 この家で一人きりで過ごすのが怖い。

 誰か。誰でもいい。一緒に夜を明かしてはもらえないだろうか。

 思い立って、学校の友達やバレーボールクラブのチームメイトに片っ端から電話を掛け、お泊まり会を開こうと提案して回ってみた。少女は頭が良くそこそこ容姿も整っているので、どんなグループでもリーダーとして立ち回ることができた。自分が言えば、何人かは誘いに乗ってくれるだろうという目算があったのだ。

 しかし、誰も快い返事をくれなかった。親に、保護者のいない家に子供だけで過ごすのを良しとされないようだ。逆に、少女をお泊まりに誘ってくれる子が居てくれたのだが、それは断った。誘いに乗ってしまうと怖がっていることを認めてしまいそうで嫌だった。そのように思われたくないし、プライドが許さなかったのだ。

 めぼしい相手から悉く断られ、いよいよ一人きりで夜を過ごす羽目になった少女は、苦渋の選択を迫られることになる。

 すごく嫌そうな顔つきで連絡網のある一点を睨み下ろした。

「……」

 そこにある名前。

 少女がとても嫌っているクラスメイトの女子だった。

 華があって、誰からも好かれて、少女とクラスの人気を二分するほどの人格者。認めたくないが、少女にとってはライバルと言える存在である。

 しかし、相容れない気質の持ち主だが、一方的に嫌っているのは少女だけで、彼女の方は少女に好意的だった。他人の悪意には無頓着で、少女がこっそりイタズラや意地悪を行ってもいつもいつでもにこにこ笑って受け流した。何があっても余裕綽々っていう顔が鼻につく。

 彼女ならば、誘えばもしかしたらやって来るかもしれない。

「あの子を家に上げるなんて死んでも御免だわ」

 でも、誘える相手はもう彼女しか残っていない。他の子同様断られる可能性が高く、どうせ断られるならばそもそもお誘いなんてしたくないけれど、友達からの度重なる辞退に気持ちはすっかり落ち込み、孤独感がいよいよ寂しさを絶頂へと押し上げ、もはや四の五の言っていられる場合ではなくなっていた。可能性がほんの少しでもあるのなら、たとえ憎き仇敵であっても縋らずにはいられない。

 少女は覚悟を決めて受話器を持ち上げ、連絡網に記された彼女の家の電話番号を押した。

 三度目のコール音が鳴り終わる前に、相手が出た。

 声で電話に出たのが彼女だとわかった。少女は頭の中で練り上げた誘い文句を渋々といった声音で口にし、彼女の返答を待つ。

 しばしの沈黙の後、彼女は静かにこう言った。

『お泊まりするのはいいけれど、一つだけお願い聞いてくれる?』


 少女は名前を『飯倉幸香』と云った。

 当時、その名前は大きく取り沙汰されたが、話題そのものが風化すると、やがて忘れ去られてしまった。失踪から七年が経過し死亡認定されたとき、捜査は完全に打ち切られた。

 あの日を境にして、幸香を見た者は誰もいない。


      *   *   *


『飯倉幸香』という名前を知ったのはつい最近のことだ。

 土井潤一の現在付き合っている恋人が、世間話の一つにその名前を口にしたのがきっかけだった。なんでも件の少女は小学校時代の同級生で、失踪当時あまりにもご近所を賑わせたものだから、十年以上経った今でも強烈に印象に残っているのだという。

 気になったので仕事の合間に捜査記録を調べてみたところ、行方不明となった少女の足取りはまったくと言っていいほど掴めていなかった。事件(と言えるかどうか定かでないが)現場には誘拐を匂わす手掛かりは皆無であり、しかし少女が家出をする動機も無かったため、捜査は暗礁に乗り上げた。まるで神隠しにでも遭ったかのように少女は忽然と姿を消したのである。

 この手の未解決事件は、実はさほど珍しいことではない。事件性の有る無しにかかわらず、人が唐突にいなくなるのはよくあることだ。大抵が借金苦や痴情の縺れに因る高飛びで、逃げ回っていることがほとんどである。それ以外だと突発的な事故に遭い、遺体となったまま発見されないケースである。

 少女の場合は事故の可能性が高い。川に足を滑らせて落ち、溺死したまま川底に沈んでいることだって大いにあり得た。もちろん当時動員された捜索隊員たちもあらゆる可能性を考慮して、近所の川底まで徹底的に捜索したはずである。それでも見つかっていないとなると、少女はまだ生きているか、どこか人目に付かない場所で白骨化でもしているのだろう。……。

 想像してみると、なんとも言えない鬱屈とした気分になった。

 よくあることで片付けてしまうとそこら辺にも白骨死体が埋まっているような気になってくる。潤一は捜査記録の閲覧をそこで止めた。怖くなったからでは断じてない。過去の事件を興味本位で軽々しく調べるのは良くないと自らを戒めたのだ。

 その甲斐あって、数日後には『飯倉幸香失踪事件』のことは頭から消えていた。


 早朝。県警本部捜査一課では、当直の刑事が日勤の連中との交替を待っていた。申し送りが済まされなければ非番は始まらない。

 どこのパチンコ店の何番台が出るかで盛り上がる他の当直を尻目に、土井潤一は欠伸を噛み殺した。夜勤明けは眠くて当然だが、少しでも弛んだ様子を見せていると上司に「若いくせに情けない!」と嬉々として説教されてしまうのだ。説教が長引けばその分交替するのも遅くなる。面倒はなんとしても避けたいので意識して背筋を伸ばした。

 背後を颯爽と人影が横切った。

「おはよう。まだまだ元気そうだな」

 感心したように挨拶してきたのは同僚の増子すみれだった。彼女はいつも凛としていて隙が無く、男臭い職場にも無理なく溶け込めるほど毅然として見えた。性別を意識させない力強さが彼女にはあったのだ。

「……おはようございます」

 遠慮がちに挨拶を返すと、増子は片手を上げて応えつつ自分のデスクに向かっていく。華奢なはずの背中が潤一には広く巨大に感じられた。

 土井潤一巡査部長は増子すみれ警部補が苦手だった。別部署に勤務していた増子すみれが刑事部に配属されたとき、刑事部のイロハを叩き込むべく教育係としてタッグを組まされたのが潤一であった。歳も階級も増子の方が上だが、上司でも部下でもなく『同僚』という立ち位置にあるのはそれが理由だ。しかし、積み上げてきたキャリアに差があるせいか同格として振る舞えず、自然と増子の後ろを歩くようになっていた。女性であることも扱いづらさに拍車を掛けている。

 いや、キャリアや性別が問題なのではない。苦手なのはその気質だ。

 仕事に懸ける執念は同年代からかけ離れて強く、その廉潔ぶりには同じ警察官である潤一すら犯罪者になったような気にさせられてしまう。増子の前ではどんな不義さえも見逃されない感じがして、正直、息が詰まった。

 見てくれが美人なだけに勿体ない。増子を意識するたびにそう思うのだった。

 窓の外を見た。曇天で薄暗く、今にも雨が降り出しそうである。夜が明けた清々しさは皆無だ。帰り道に雨に降られないかと心配し、せっかくの非番も外出できずに家で寝るだけで消化することになりそうだ、と憂鬱になった。

 しばらくぼーっとしていると、次第に日勤の職員が出勤してきた。

「おう、おはよう。おお、お疲れさん。今日も寒いねえ」

 人の良さそうな笑みを振りまきながら皆と挨拶を交わしているのは築地警部である。短足小太りでいつも笑顔を絶やさないところから『えびす様』と呼び慕われていた。築地が出勤してきたことで刑事部は全員が揃った。

 申し送りが始まり業務の引継ぎが行われ、最後に築地が皆に注意を呼び掛けた。

「近頃、鳥羽組んところの羽扇会が何やら怪しい動きを見せている。まあ、ドンパチは無いだろうが、各々気に掛けておいてくれ」

 力強い返事が全員の口から飛び出した。交替で気が緩んだとはいえ、潤一も尊敬する築地からの呼び掛けには気合を入れて応える。こうして一体感を得たときこそ自分が刑事であることを改めて実感できるのだ。

 帰り支度を整えたときだった。

「――爆破予告?」

 ざわついていたオフィスが一瞬で静まりかえった。声の主は職員の一人で、受話器を耳に当てながら険しい顔つきでボールペンを握った。

「各報道機関に? ……脅迫状を転送」

 通信司令室からの連絡事項を復唱しつつ、メモを取っている。オフィスに残っていた全員がにわかに緊張した。爆破、というフレーズに反応したのだ。注目を集めた職員は電話を切るとすぐさま築地の元へと走った。

「今朝方、テレビ局や新聞社など各報道機関に同じ文面の脅迫状が送りつけられていました。じきにFAXでコピーが転送されます」

「聞こえていたよ。……爆弾かい?」

「はい。文面には市内の地名を挙げて標的にすると書かれてあったそうです」

「それでウチに通報があったわけか。どうしてウチの県ばっか狙われるんかねえ?」

 えびす様の顔に翳りが浮かぶ。築地だけでなく誰もが、またか、という思いに駆られていた。ぴりぴりとした緊張感が場に溢れ出す。

 爆破テロが県内で起きるのはこれで都合三度目だった。一度目は複合型商業施設アリーナパークを標的にした金銭目的によるテロ行為。二度目は一月半前の元日に清角デパートで立て籠もり事件と併発した。どちらも国際犯罪組織『天空の爪』の構成員が起こした事件で、警察が犯人を確保したことで終結している。

 二度の失敗により『天空の爪』は弱体化、今年に入ってからは構成員・準構成員を全国的に一斉摘発しており、組織はほぼ壊滅状態にあった。

「余力を残していたとは思えんがなあ」

「二度のテロ事件で『天空の爪』は有名になりましたからね。模倣犯である可能性もあります。イタズラということも」

「ううむ」

 しかし、築地は唸った。もしプロによる目眩ましも含んだテロ行為であるとすれば、イタズラどころではない、事件はより難解さを増す。

 テロリストは世界中にごまんと存在するのだ、いくら日本が平和だとはいえテロリストが『天空の爪』しかいないというのは虫が良すぎるだろう。爆弾の製造はさほど難しいことではないし、きっかけと道具さえあれば誰でもテロリストになれるからだ。超々小規模集団が有名どころの『天空の爪』の犯行と見せかけて事件を起こしている可能性も十分に考えられた。

 潤一は鞄を机の上に一旦戻した。

 いつの間にか、増子が隣に立っていた。

「まだ帰らないように。事件性があればすぐに呼び戻されるぞ」

「わかってますよ」

 警察に休暇など有って無いようなものである。緊急時にはいつでも出動できるよう体は調整されている。意識さえ瞬時に切り替えられるのだ。

 とはいえ、蓄積された眠気と疲労までは拭えない。増子もその辺りは考慮しているはずで、もしも事件性があったとしても潤一に重要な任務が与えられることはない。

 固唾を呑んで動きがあるのを待っていると、FAXが作動した。一枚の紙を吐き出し終えたとき、周囲を職員たちが囲んだ。

 代表して手に取った築地の顔に険が宿る。

「読むぞ。『以下の文章を報道せよ。――本日、○○市内数箇所に爆弾を仕掛けた。心当たりのある者は至急要求を呑むように。さもなければ、さらなる犠牲者を生むことだろう』だとさ。全文ワープロで打ってある」

「……なんか、特定の個人に宛てた脅迫状みたいですね。内容も漠然としてますし」

「うん。でも、個人宛てにしては大掛かりだな。脅迫内容が無差別テロなのも気になる。不特定多数の他人を人質に取るというのは、テロなら基本だが、個人に宛てるとなると違和感しかない」

 普通、特定の個人を脅迫するならば、その人物に縁のある人間を人質に取るものだ。言うとおりにしなければテロを起こす、というのは個人に向けた脅迫文として成立しにくいはずである。実際にテロを起こした場合、リスクを負うのは犯人側だけなのだから。

 国や警察に向けた声明文ならばもっともらしい内容だが、それならばわざわざマスコミに送りつける必要がない。そこには騒ぎ立てたいという思惑しか見えてこない。

「やはりイタズラでしょう。確信犯ならばそれなりの要求をしてくるものです。『天空の爪』ではないと断言できます」

「そうだなあ。奴さんらなら国を相手取ってもうちょいド派手にしでかすだろうしなあ。ウチの県を標的にするようなみみっちい真似はせんだろう」

「いえ、そうとも限りません」

 異を唱えたのは増子である。

「特定の個人が要人だったとしたらどうでしょう。たとえば知事や、標的に挙げられた市の市長、……あるいは資産家か。県内には全国区に名を馳せる名士が少なからずおります。マスコミを介したのは伝達手段以外にその者に風評被害を与える効果を狙ったとも考えられます」

「ふん、なるほど。政治家と有名人が一番嫌うのは悪評が立つことだ。たとえイタズラでもマスコミに吊り上げられればとことん追い詰められるしな。何も国や警察に喧嘩を売らんでもいいわけか」

「弱体化した今の『天空の爪』にできる最大限のハッタリ――、確かにそう考えることもできますね」

「一応、『天空の爪』と繋がりがあったと思しき人物を洗い出してみましょう。おそらく金銭を要求されているはずですから資産家を中心に」

「……仕方ない。公安に問い合わせてみよう。おい」

「はい」

 二人の職員が渋い表情を見せながら出て行った。公安部とのパイプがあるのかもしれない。

「増子さんは『天空の爪』が怪しいと睨んでいるんですね」

 潤一が尋ねると、増子は小さく首を振った。

「いや、可能性はかなり低いと思う。やり方が『天空の爪』らしくない」

「え? じゃあ、どうして?」

「あくまでも可能性の話だ。無いと決め付けてしまえばそれまでだが、予防線を張っておけばもしものときに挽回の芽となる。築地警部もおそらく『天空の爪』ではないとお考えのはずだ」

 それでも『天空の爪』を疑うのは、公安部との連携を早い段階から取っておこうという意図があってのことだった。警察組織は縦割りで、別部署とは基本的に仲が悪い。情報の開示請求は頭を下げるに等しい行為なので本来やりたがらないのだが、緊急時にはそうも言っていられなくなる。

「今ならまだ公安を突付いて反応を見るだけでも収穫があるのだし、頭を下げずに済む。手遅れになったときに頭を下げるのが一番痛いものね」

 つまり、刑事部の面々に公安部と連携するよう煽るためにテロリストの可能性を示唆したということか。増子は面子やプライドを守るよりも事件を未然に防ぐことを優先し、築地もそれを理解した上で方針を変えたのである。

 そもそも増子が刑事部に転属されたのには、それまでの縦割り体質を改善する目的も含んでいるのだが、多くの職員はそのことを知らない。

「……でも、やっぱり、『天空の爪』じゃないんですよね」

「そうね。そう思う。イタズラの可能性が一番高い。そもそもあの脅迫文が素直に報道されると思うか? 市民の不安を徒に煽るだけだからな。マスコミはこの場合、警察に委ねて指示を仰ぐのが処置として適切だ。犯人もそこまでは考えているはず。だから、イタズラだ。警察が慌てふためく様を拝みたいだけなのかもしれん。だが、もしも犯人が本気で報道されるものと信じているのなら、……どちらにせよ大した犯人じゃない」

 初手からミスをするような犯罪者は怖くない、そういうことだろう。

「でも、爆弾を仕掛けたっていうのは気になりませんか? 脅迫文が報道されないにしても、時限式の爆弾なら所構わず爆発しちゃいますよ」

「だからこその予防策だよ。公安は思想犯を調べることを職務としている。『天空の爪』だけじゃなくあらゆる組織・個人の動向も追っているからな。情報を持っているし、向こうの人員を動かして人海戦術に使えれば爆弾探しも楽になる。……それ以前にね、犯人は要求に対して期日を指定していない。いつ報じられるかもわからないのよ? 脅迫自体が不確実性を帯びているのに時限式だとは考えづらいわ」

 それもそうか、と潤一は納得した。報じられる前に爆発してしまえば脅迫する意味がなくなってしまうし、要求が通らなくなる恐れがある。そうなると、爆弾そのものが虚偽である可能性も出てくる。『心当たりのある者』なんていう存在しているかどうかもわからない人物に宛てた脅迫状なんて、考えるまでも無く、端から疑わしかったのだ。やはりイタズラか。

 再びFAXが作動した。FAX機器の傍に居た職員たちは、新たに吐き出されたコピー紙を一瞥するや怪訝な表情を浮かべた。

 手に取った築地は目を見開き、すぐさま増子を探した。

「すみれちゃん、ちょっと」

「? 何でしょう?」

 指名された増子は人垣を掻き分けて築地の元へと移動した。

 コピー紙に目を通した途端、その顔が怪訝なものに変わった。

 潤一の立ち位置からではどんな内容なのかまったく見えず、同じように輪の外にいた職員が「何が書かれてあるんですか?」と声を上げた。

「脅迫文が入っていた封筒のコピーだそうだ。表には放送局の住所、そして裏には差出人と思しき氏名が綴ってある」

 築地がそう言うと、増子が引き継いだ。

「日にちの『日』に夕暮れの『暮』、そして『旅人』という漢字が綴られてあります。私の知る人物のことだとすれば『ヒグラシタビト』と読むことができます」

 奇妙な沈黙が降りた。その名前を職員全員が知っていた。

 一月半前、『天空の爪』の構成員がデパート立て籠もり事件を引き起こした際、現場に居合わせたのが彼、探偵・日暮旅人であった。その五感を一手に宿した特異な目を活用してテロリストたちを攪乱し、事件解決に大いに貢献してくれたのだった。『天空の爪』の逆恨みに遭わないよう保護する名目で彼の名前は一切世間には公表されなかったのだが、現場に居た捜査員たちはその容姿とともにはっきりと記憶していた。

「彼はこんな異様な真似をするような人だったのかい?」

 築地の質問に、増子は頭を振った。

「存在自体、異様ではありますが。しかし、こんなことをする理由が見当たらない」

 彼の周りには子供やパートナーや恋人がいる。過酷な人生を経てようやく手に入れたまともな暮らしを今になって放棄する理由がなかった。それに、爆破テロならば去年暴力団組員の熊谷が起こした事件の際に未遂で終えている。同じ手段を二度も講じるのはあまりに芸がないし、こうして世間に晒されるような真似までするとも思えない。

 だが、こんな突飛なこともあるいはしでかすかも、と増子は思い直す。そういえば、正月に最後に見掛けたとき、日暮旅人はどこか様子がおかしかった。

「すみれちゃんの目から見て彼が脅迫状を送ったとは考えにくい?」

「ええ、……そうですね」

 訂正すると余計な混乱を招きそうなので、懸念を口にはしなかった。

「じゃあ、誰かが彼を貶めるために脅迫状をマスコミに送りつけたってところかな」

 イタズラにしては悪質だが、爆破テロよりはよほど現実的な見方であった。

「本人によるものか、あるいは日暮旅人に恨みを抱えている者の犯行か。どちらにせよ、本人に当たってみるのが一番手っ取り早そうですね」

 幸い、警察はその名前はおろか住所も職業も知っているのだ。

 直接会いに行けばいい。

「日暮旅人のことはすみれちゃんに任せる。大至急、彼と連絡を取って居所を突き止めてくれ。万が一にも『天空の爪』の復讐とも考えられるから、他の者は駅や人が賑わいそうな場所に行って不審物が無いかどうか探り、テロに備えてくれ。施設ごとに注意喚起も忘れずにな」

 散会の号令とともに職員たちが思い思いに散っていく。『天空の爪』が関わっているとなれば国を揺るがす大事件に発展しかねない。一度は懐疑的になったことが振り幅となり、職員たちの緊張感はいや増した。誰もが険しい顔で捜査に臨む。

「増子さん、これ、もしかして……」

 潤一は、築地や他の職員に比べれば、日暮旅人との接触は増子に次いで多い。約三年前の宮川さくら誘拐事件のときから先月のデパート立て籠もり事件まで、何度となく顔を合わせてきた。彼の人となりを知るからこそ別の可能性も考慮できた。

「……『天空の爪』だとは思わないけれど、奴に恨みを抱える人間は他にもいるでしょうね。いろいろと首を突っ込みたがるから。それに……」

「その上、あの性格ですからね。そりゃ敵も多いに決まっています」

 気障ったらしい物腰。整った顔立ちとすらりと伸びた長身。同性から見てこれ以上ないほど嫌味な男であった。完全に僻みから来る決めつけであったが、増子もその点は否定しなかった。

「とにかく、奴の事務所に行くぞ。『天空の爪』が絡んでいるかどうかだけでもはっきりさせないと」

 たとえ爆破予告がブラフであろうとも、潤一の非番が遠退いたのは明らかに日暮旅人が原因である。完全に筋違いだが、文句の一つも言わないと気が済まない。

 潤一はコートを羽織ると、増子の後について憤然と歩き出した。


 そうして駅裏の歓楽街の一角にある『探し物探偵事務所』が入った雑居ビルに到着したときだった。エレベーターに入り六階を目指して上昇し始めた直後、増子の携帯電話に築地から連絡が入った。

「もしもし、増子です。何かありましたか?」

『大変だよ。捜査し始めた途端に爆発しちまった。あの脅迫状は本物だったんだ』

 増子の息を呑む気配に潤一は敏感に反応した。築地の声は届いていないが、良くない事態が発生したことだけは察することができた。

 間もなくエレベーターの扉が開いた。六階フロアに降り立つと、正面には『探し物探偵事務所』の入り口が見える。足早に近づいたとき、潤一も増子もすぐさま異変に気がついた。

『詳細はわからん。だが、死者は出ていないようだ。これから現場に行く。君たちは何としても日暮旅人を確保しろ。今や重要参考人だ』

 増子は携帯電話を耳から離し、まだ会話が途中であるにもかかわらず通話を切った。潤一と目配せを交わす。二人は事務所の扉を挟むようにして左右の壁際に立ち、開かれたままの扉をそっと覗き込む。

『OPEN・CLOSED』の札が、血と思しき赤い液体に塗れた床に転がっていた。血溜まりは入り口付近に多く、中へと引き摺られたように延びている。負傷者が這って出来た跡か、あるいは何者かによって中へと引っ張り込まれて出来た跡か。後者ならば、最悪の場合、加害者がまだ中に潜伏している可能性がある。

 中から物音が聞こえた。

「警察だ! 誰かいるのか!?」

 威嚇を兼ねた呼び掛けに、呻き声による応えが返ってきた。微かに、助けて、という言葉が聞こえると、増子は身を低くしつつも俊敏な動作で事務所の中へと突入した。潤一は増子の後に続き、背後を警戒する。何者かが潜伏している気配はなかった。

 リビングに辿り着くと大柄な男が倒れていた。確か、亀吉と呼ばれていた、雪路雅彦の舎弟である。スキンヘッドの厳つい顔つきには見覚えがあった。

 その強面も今や苦痛に歪んでいる。

「しっかりしろ! 何があった!?」

 増子は亀吉の傍らに屈み込み、容態を看た。腹部から大量に出血している。血の気が引いて蒼白とした表情から命に関わるものと判断した。

「救急車を!」

「増子さん、あれ……」

 振り返ると、潤一が点けっぱなしにされていたテレビ画面を凝視していた。先ほどから聞こえていた雑音はテレビに映るレポーターの叫び声で、画面上には『緊急速報! ○○駅構内で爆破テロ!』と銘打ったテロップが表示されてある。


『――各局の報道部に送りつけられた爆破予告の脅迫状の、封筒に記されたこの「ヒグレタビビト」についてですが、早朝からネットの巨大掲示板にも爆破予告が書き込まれ、この名前も同じように明記されてあったとのことです! 個人名なのか団体名なのか、まだ詳しい情報は入っておりません!』


「報道されちゃってますよ!? 大丈夫なんですか、これ!?」

 狼狽する潤一とは対照的に、増子は冷静に状況を分析した。

 放送局には脅迫状に関して報道規制を掛けている。しかし、同一の脅迫文がネット上にまで書き込まれていたのならもはや隠し通す意味がなくなり、むしろ混乱による二次被害を避けるためにも情報を開示する必要があったのだろう。おそらくは放送局の独断で、まだ報道に踏み切れていない他局もあるはずだ。『日暮旅人』という文字までテロップ表示されているが、救いがあるとすればその名前を団体名と見る向きが強いことだろうか。しばらくは旅人個人が特定される心配はあるまい。駄洒落のような名前が都合良く作用した形だ。

「そのことはいい! すぐに救急車を呼べ! 早く!」

 怒鳴りつけると、潤一は慌てて携帯電話を取り出し119番をプッシュした。増子は応急処置を施そうと亀吉の上着をまくり上げた。

「ぐううあああっ!」

「大人しくしていろ! 体力を消耗するぞ!」

 やたらと上体を起こそうとする亀吉を押さえ付け、傷口にハンカチを宛がい、常備している包帯をきつめに巻き付けて止血する。

 その間にも増子は周囲に気を配った。フローリングの隅、凶器に使われたと思しきナイフが落ちていた。亀吉が自ら引き抜いて投げたようだ。そして、亀吉が伸ばした腕の先にはキッチンテーブルがあり、その上には携帯電話が一台置かれていた。

「ユ、ユキチさんに知らせねえと……ッ! テ、テイちゃんが……」

「あの子がどうかしたのか!?」

「さらわれ……た……、スカジャン、の、……男」

 亀吉の意識はそこで途切れた。誰かに伝えられたことで気が緩んだのだろう。

「……」

 想いを託された増子はしかし、淡々と亀吉の応急処置を済ました。

 血塗れになった両手も厭わずに、懐から携帯電話を取り出し通話履歴を開く。掛ける相手は雪路ではなく築地であった。

『すみれちゃん? 急に電話が切れちまったから心配したよ』

「申し訳ありません。緊急だったものですから」

『何かあったのかい?』

 簡潔に状況を説明する。百代灯衣が誘拐されたことを告げたとき、増子は無意識に唇を噛んでいた。思い出されるのは今から三年前に起きた、日暮旅人と初めて出会うきっかけとなった宮川さくら誘拐事件だ。あのときの失態が脳裏を過ぎった。

 まだ見ぬスカジャン男に敵意が湧いた。

『なんだかキナ臭いねえ。日暮旅人は一体誰に目を付けられたのやら』

「本人は不在のようです。すぐに奴の関係者に聞き込みを開始します。爆破テロとも連動している。早く奴を見つけないと」

『そうそう。それでね、こっちはこっちで新情報だ。公安がとっくに動いていたんだ。今朝の話じゃないぞ? どうも数日前からこそこそと動き回っていたらしい』

「公安が?」

『爆弾騒ぎにいち早く駆けつけたのも公安だし、連携もスムーズだ。もしかしたら、今、何が起こっているかも把握しているんじゃないだろうか』

 増子は眉根を顰めた。以前公安部に属していたときの元同僚からは何も聞かされていない。昨日今日の話でなく、それだけの期間動いていたのなら、気配だけでも察知できたはずである。増子にも嗅ぎ取らせないほどの隠密性、それはきっと捜査記録にさえ残らない極秘捜査に違いない。

「……わかりました。捜査に戻ります」

『頼んだよ』

 通話を切る。築地が信頼を寄せているのは増子の情報網である。公安部から情報を引き出し犯人への手掛かりにしたいのだ。

 犯人……。――犯人とは何だ? 爆弾魔か? 誘拐犯か? 二つの事件は偶然か?

 何が目的だ?

「……一体何が起こっている?」

 思わず溢れた呟きは、近づいてくる救急車のサイレンによって掻き消された。


 救急隊員と所轄の警察官が『探し物探偵事務所』を慌しく出入りしている。同じビルのテナントや関係者もひっきりなしに見物に訪れるが、ただの野次馬根性というわけではなく、テレビで騒がれている爆弾魔『日暮旅人』が探偵事務所の所長と同一人物か否かを確認したがっているようだった。爆弾がビル内にあるかもしれないと不安になっているのだろう。

 あるいは、彼はテロを起こすような人間ではない、と弁護する人まで現れた。

「チンピラみたいだけれどね、いい子たちよ。本当に。名前を悪用されたんだわ」

 同ビル内でキャバクラを経営している女主人の証言だ。現場した警察官は傷害事件の捜査に当たっていたため、第三者による人物評は聞き流した。欲しいのは亀吉を襲った犯人への手掛かりだけである。

 スカジャンを着た人物を目撃した人間はいなかった。リビングに落ちていたナイフからは当然の如く亀吉の指紋以外は検出されなかった。

 重傷を負った亀吉は市内の病院へと搬送された。応急処置が良かったのか、亀吉の気力に因るものか、なんとか一命を取り留めた。

 病院からの報告を受けた潤一は、増子にこのことを伝えようとした。しかし、増子はずっと誰かと連絡を取り合っていて話し掛ける隙さえ見せない。

「……」

 潤一の体が不意に傾いだ。夜通し勤務した上にこんな重大事件にまで関わってしまったのだ、あまりの疲労感に目眩を起こしても仕方が無かった。捜査員の邪魔にならないようにリビングの隅の方に移動し、一息吐く。数分だけでもいいので休憩しておこう。でなければ、集中力が持続しない。

 清涼剤が欲しかった。気がつけば、潤一は恋人に電話を掛けていた。

 メールでは足りない。声が聞きたかった。

「――あ、もしもし、みーちゃん?」

 彼女の声が耳をくすぐる。それだけで潤一の頬はだらしなく緩んだ。

 最愛の彼女とはちょうど一年前のバレンタインデーに付き合い始めた。出会ったのはそこからさらに二ヶ月遡った一昨年の十二月。プライベートでよく通っていたバーで彼女と知り合った。声を掛けてきたのは彼女の方からだったが、恋に落ちたのは潤一の方が先だった。とにかく人目を惹き付けるほどの美人で、知的で、清楚で、なのに笑った顔はとても人懐っこくて、優しくて、面白くて、でもどことなく儚さもあって――数え上げれば切りが無いくらいたくさんの魅力を持った女性である。

 ちょうどテレビを見ていたのか、駅構内爆破事件のことを尋ねてきた。

「うん。そのことで電話したんだ。俺も非番を返上して捜査に駆り出されてる。今日はずっと忙しいだろうからあまりメールできないかも」

 彼女とのメール交換は楽しい。彼女は潤一から頻繁に送られるメールに一つ一つ丁寧に返してくれるのだ。こんなに通じ合えた恋人は生まれて初めてだった。

 潤一自身はさほど自覚していないが、彼には恋人の行動を逐一知っておかないと不安になる傾向があった。束縛が強いせいで過去に何度振られたか知れない。しかし、潤一は振られた原因がそこにあるとは思いもしていなかった。

 今の彼女とは相性が良い。潤一に不安を覚えさせない細やかさがあった。

 結婚も考えていた。

 本当に大切に思っているのだ。

「テレビでも言ってると思うけどさ、テロを起こした犯人は他の場所にも爆弾を仕掛けているかもしれないんだ。市内はどこもかしこも地雷原だと思った方がいい。危ないから外出は控えてほしい。今日休みでしょ、仕事。どこにも行かないでよ。もしもみーちゃんがテロに巻き込まれたらと思うと、俺もう怖くて」

 彼女は明るい声で、けれども真摯に応えてくれた。

 ――ありがとう、ジュンちゃんの言うとおりにするね。お仕事がんばってね。

 潤一は目を細めた。最愛の彼女の励ましはいつも心を温かにしてくれる。

 ――ねえ、ジュンちゃん。ジュンちゃんは……いなくならないでね。

「え?」

 一瞬、彼女の声のトーンが少しだけ低くなった気がした。おかげで後に続いた言葉が聞き取れなかった。改めて「今、なんて言ったの?」訊き返すと、今度はとても弾んだ声音でこう言った。

 言い直した。

 気をつけてね、と。

 まるで楽しんでいるかのような調子で、囁いた。

『人って簡単にいなくなっちゃうものだから』


         *


 電話口の向こうで土井潤一が怪訝そうな声を上げた。イタズラが過ぎたか、と土井潤一の恋人は愉快そうに舌を出した。

「ごめんね、ジュンちゃん。今日でお別れしましょう。私、必要があったから貴方に近づいただけだったの。今まで騙してきて本当にごめんなさい。でも、貴方と過ごした一年間はとても楽しかったわ」

『みーちゃん? ちょ、ちょっと待って!? みーちゃん、何言って、』

 嘘偽りない本音を口にして、――見生美月は一方的に通話を切った。

 電源までオフにして完全に連絡を絶つ。復讐が開始された今、土井潤一と恋人関係にある必要はもはやない。

「いろいろと助かっちゃった。白石元警部のこととか、朝倉権兵衛さんのこととか、貴方のおかげで辿り着けたのだから」

 美月はそう呟くと、両手で肩を抱き自らを慰めた。

 感謝の気持ちは本当。騙してきたことへの罪悪感も、本当だ。本当で、本物だからこそ、胸が張り裂けんばかりに苦しかった。なんだったら涙だって込み上げてきちゃいそう。彼と過ごした甘ったるくも窮屈だった恋人期間は、美月の波乱に満ちた人生の中では間違いなく至福の時間であった。それを手放してしまった。予想だにしていなかった喪失感に、美月は自らの行いを後悔しそうになる。

 最後に聞こえた潤一の慌てた声が彼から受けた愛情の深さの証である。

 幸せだったのに……。

 ぶるりと全身が震えた。

「やっば。私、いよいよキテるかも……っ!」

 しかし、湧き上がってきた感情は愉悦と興奮だけだった。後悔しかけた自分を客観的に見つめて、そんな可愛そうな自分にときめいた。

 良心の呵責など喜楽をより深く味わうためのスパイスでしかない。

 精神異常を来しているという自覚はあるが、それがいつから始まったのかは定かでない。きちんと自覚したのは中学時代だ。一つ下の学年に転校してきた日暮旅人と知り合い、生徒会長として周囲から孤立しがちな彼を更生させようと躍起になったあのときに、美月は自分の精神性を把握した。

 日暮旅人に心を奪われ、その運命に恋をした。

 異常であったが故に、彼に固執したのである。

 では、その異常性はいつどこで芽生えたのか。

「やっぱり、さっちゃんのせいだろうなあ……」

 十年以上も前に行方不明になった少女を思い出す。『飯倉幸香』の顔なら今でも鮮明に思い出せる。瞼の裏にはいつだってあの日の彼女が浮かんで見えた。

 笑えてくる。

「さっちゃんはね、さちかってゆーんだほーんとーはねー」

 失踪以降、彼女のことを思い出すたびに、有名な童謡の歌詞を変えて、こうしてよく歌ったっけ。ほんと悪趣味。そんな自分も大好きだ。

 いつまでも大事そうに携帯電話を握っていたことにふと気づく。もっぱら潤一と連絡を取り合うためだけに使っていた物だ、手持ちにはまだ二台ある、これはもう要らない。

 掌を緩めて携帯電話を真下に落下させた。コンクリートの床に弾かれて固い音を響かせた。携帯電話が割れて転がって行ったその先では、小さな人影がびくりと肩を震わせていた。怯えた目つきで携帯電話を一瞥し、顔を上げる。

 今にも泣き出してしまいそうなその表情に、美月は恍惚となった。

「あら? どうしたの? 何か怖いことあった? ねえ? ――テイちゃん?」

 膝を抱えて蹲っていたのは園児服を着た百代灯衣だった。事務所から連れ出され、すぐに旅行鞄に詰め込まれてここまで運ばれた。そのときには亀吉を刺した男はもうおらず、代わりに現れた美月によって殺風景な部屋に監禁されていた。

 猫撫で声で語り掛けてくる美月を、無言でキッと睨み付けた。怖いだろうに。泣き叫びたいのも我慢して、健気にも警戒心を剥き出しにしている。人形のように美しい少女が懸命に恐怖に堪え忍んでいる様は、形容しがたい衝動を掻き立てるほどに、犯罪的だった。旅人が溺愛しているのもわかる気がする。

「心配しなくていいよ。あの怖いオジサンはどっかに行っちゃったからね。ここには私とテイちゃんと、あと別の部屋にもう一人しかいないし。痛いこともしないから」

 微笑みかけても灯衣は表情を変えなかった。なかなか強情ね。さすがは旅人と言ったところか、まったく甘やかして育てたというわけではなさそうだ。

「復讐を遂げるまでの辛抱よ」

 五歳児に事情を説明するだけ無駄である。灯衣への語り掛けは、自分への言い聞かせと半分は退屈凌ぎであった。灯衣の反応が薄いとつまらないばかりだが。

 だから、少しだけ意地悪を言ってみたくなった。

「もしも復讐が遂行できなかったら、そのときはパパと一緒に」

 殺してあげるね。

 顔を寄せて耳元で囁くと、ようやく灯衣の顔が恐怖に歪んだ。それでもしゃくり上げるだけで泣き叫ばないのだから大したものである。

 静々と流れる涙は宝石みたいに美しい。

「ま、そうは言ってもすべては旅ちゃん次第よ。彼ならきっとテイちゃんのこと探し出して助けに来てくれるわ。ここで一緒にパパのこと応援していましょうね」

 灯衣はますます泣き出した。本気とも冗談とも取れない態度がより恐ろしさを増長させているのだが、美月は「なんでー? 優しく言ってるのにー?」それらの機微にまるで気づいていなかった。

 すべて本気で本心だった。旅人にはしっかりしてもらいたかったし、応援する気持ちにも偽りはない。

「頑張れ、旅ちゃん」

 灯衣ではなく、今頃きっと必死に走り回っているであろう旅人に向けて呟いた。

 彼がここに辿り着けたときがすべての幕切れだ。ただそのときを待ち望む。

 最後の一日が始まった。

 それはきっと誰にも理解されることのない見生美月の人生を賭けた物語の始まり。

 そしてそれは、日暮旅人の人生の終焉の始まりでもあった。