プロローグ


 天に掲げられた悪夢が、無色であるはずもない。

 背景の赤い白鳥が崩れ落ちた時、僕は下された裁きが死刑宣告だったことを理解した。


 二〇一四年、八月三十一日、日曜日。

 テレビ中継もされる高校サッカー界、最大の祭典、冬の『全国高校選手権』を目指すための県予選に、私立赤羽高等学校は二回戦から登場した。

 舞台は新潟市、東海スポーツセンター人工芝サッカー場。

 キックオフからわずか十五分、赤羽高校には二枚目のレッドカードが突き付けられていた。

 試合中に二枚提示されることで退場となるイエローカードと異なり、レッドカードは恩情無き一発退場を意味している。ゲームはまだ六十分以上残っているのに、早くも九対十一という数的不利が生じていた。そのプレーで与えてしまったPKにより、あっさりと先制点が生まれ……。

「納得いかねえよ。あんなのどう見たってダイブじゃねえか」

 桐原伊織の唇から、憤りが零れ落ちる。

 僕らが座しているのは、試合に直接関わることを許されないスタンドだ。

 目の前の光景にどれだけの義憤を感じていても、抗議の声さえ届かない。

「主審はそう思わなかった。フットボールじゃ、それがすべてさ」

 そっけなく答えたのは、右隣に座す九条圭士朗。

 ベンチ入り出来なかったメンバーは、スタンドから声援を送ることしか出来ない。赤羽高校サッカー部、通称『レッドスワン』に入部し、五ヶ月が経ったけれど、これが今の僕らに突き付けられている現実である。

 理不尽な惨劇に伊織は怒りを隠せずにいたが、対照的なまでに僕の心は平生のままだった。チームメイトが苦境に立たされているというのに、憤りも、悔しさも、沸き上がってこない。今日も現実は、ただの事象でしかなかった。

 センセーショナルな場面に直面した時、僕はいつだって自分が『可哀想な子ども』だったことを思い出す。感情が壊れた欠陥品。それが、十六歳の高槻優雅という人間だった。


 赤羽高校は九度の全国大会出場経験を持つ古豪であり、五月に行われたインターハイ予選では、ベスト4まで勝ち残っている。二回戦なんて突破して当たり前という空気が蔓延していたし、目標は遥か高い位置に設定されていた。

 三年生と二年生には、チームを長く指揮してきた芦沢平蔵監督を崇拝している者が多い。

 定年が迫る監督に花道を用意するため、もう一度、全国へ行く。先輩たちはそう固く決意しており、この大会にかける気迫は鬼気迫るものがあった。進学校である赤羽高校では大半の生徒が大学進学を希望するが、今年度はほとんどの三年生が部に残っている。

 毎日、一番遅くまで残って練習していたのがサッカー部だ。走り込んだ量だって、どんなチームにも負けないはずだったのに、今、目の前で起きている惨状は……。


 対戦相手の長潟工業高校を、新興勢力とあなどっていたのだろうか。

 キックオフの前から嫌な予感はあった。長潟工業の応援席からは品のない野次が飛び続けていたし、ウォームアップの段階からハーフウェイラインを挟んで低俗な挑発行為が散見されていた。

 最初に頭に血を上らせたのは、キャプテンだったように思う。キックオフからわずかに五分、失ったボールを奪取するために、スパイクの裏を見せてスライディングにいったキャプテンに主審が提示したのは、問答無用での退場を意味するレッドカードだった。

 キャプテンはディフェンスの要、CBである。審判に対する抗議で、もう一人のCBもイエローカードをもらってしまい、赤羽高校の守備陣形はいきなりずたずたになってしまった。

 数的不利に追い込まれたのであれば、引き分け狙いでPK戦に持ち込むのも一つの戦術だ。インターハイ予選で大会得点王だった僕は、現在、松葉杖生活を余儀なくされている。退場者を出した上、攻撃まで噛み合わないのであれば、守備に重きを置くべきだろう。

 しかし、死神が振るう鎌は、レッドスワンの首元にすぐに突き付けられることになる。


 キャプテンの退場から、わずか十分後。

 守備陣が相手の二年生エース、蛇島宗助に突破され、GKとの一対一を作られる。

 絶対に先制点を許すわけにはいかない。三年生、副キャプテンでもあったGKが一気に前へ走り出す。距離を詰めれば、シュートを打てる角度を狭めることが出来るからだ。

 GKを避けるため、ドリブルで突っ込んできた蛇島はボールを右にずらし、反応した副キャプテンが、横っ跳びでボールに食らいつく。そして……。

 悲鳴にも似た笛の音が、フィールドを切り裂いた。

「ダイブだ! ボールにしか触ってねえ!」

 隣の席で伊織がそう叫んだし、僕もそう思った。蛇島の倒れ方は不自然なものだ。人間はあんな風にバランスを崩したりしない。審判を欺く行為、シミュレーションで間違いないだろう。ゴール前で犯されたファウルには、決まる確率の高いPKが与えられる。彼はわざと転倒したのだ。

 シミュレーション行為には、イエローカードが提示される。当然、蛇島にカードが提示されると思ったのに……。ホイッスルの後で主審が指差したのは、ゴール前方、PKを蹴るためのボールをセットするペナルティスポットだった。

 主審はズボンのポケットに手を伸ばし、何かを宙に提示する。

 その時、一瞬、僕には主審が何も持っていないように見えた。

 赤羽高校サッカー部は、赤い白鳥『レッドスワン』の愛称を持っている。審判が掲げた手の背景に、赤と白を基調としたユニフォームを着用するチームメイトがいたせいで、カードの色が見えなかったのだ。

 しかし、いつだって真実なんてものは、見えなくともそこに厳然と存在している。

 得点機会の阻止に対して下される判決は、ルールで決まっている。キャプテンに続き、提示されたのは、本日、二枚目のレッドカードだった。


「悪い夢でも見てんのかな」

 力の抜けた声で、左の席から伊織が呟いた。

 僕らは全国大会出場を目指していたはずだ。芦沢監督に花道を用意するため、先輩たちは受験勉強も二の次にして、血反吐を吐くまで練習を繰り返してきたのに……。

 二人の選手を退場で失った上に、PKで先制点まで許してしまった。

 サッカーは一つのチームが、十一人で構成されるスポーツである。退場者を出したチームの結束が固まり、予想外の方向にゲームが転ぶことも珍しくないが、二人が退場した以上、パワーバランスは大きく崩れることになるだろう。

 今後は残り時間で何度も窮地に陥るはずだ。退場した二人はキャプテンと副キャプテンであり、守備の要でもある。チームの瓦解は容易に予測出来た。

 一年生の僕にインターハイ予選で与えられた背番号は、エースナンバーの10だった。そういう信頼を預けてもらえていたのに、今はスタンドから観戦することしか出来ない。

 こんな場面でも他人事のように世界を見つめてしまう自分に、吐き気さえ覚えた。


 先制点が生まれて以降、レッドスワンは自陣にくぎ付けにされ、残りの時間、一方的な攻撃を受け続ける。相手コートまでボールを運ぶ余裕がない。この窮状を跳ね返す力が、チームには残っていなかったのだ。そして、致命的とも言える二点目が生まれてしまう。

 前半戦の終了を告げるホイッスルが鳴り響いた時、顔を上げていたチームメイトは、フィールドに誰一人として存在していなかった。




 今年度、公式戦でベンチ入りを果たした一年生は三人いる。榊原楓と時任穂高は本日の試合に先発していたが、僕、高槻優雅は怪我でベンチにも入っていない。

 十分間のハーフタイム。炎天下の草熱れに包まれながらスタンド観戦をする十七名の一年生は、眼前で繰り広げられた惨劇に、何を思えば良いかも分かっていなかった。

「審判が酷過ぎる。最初のレッドカードはともかく、二枚目は誰が見たってシミュレーションだろ。眼球が腐ってんじゃねえのか。低レベルな主審のせいで試合はぶち壊しだ」

 吐き捨てながら、伊織は手にしていた大会パンフレットを地面に叩きつける。

「事実上の終戦だろうな。優雅に頼り過ぎたつけさ。先輩たちはもう勝負する気持ちを失っている。敗戦を受け入れたチームに声援を送ることほど、むなしいことはない」

 眼鏡の下に冷ややかな眼差しを覗かせながら、圭士朗さんがそっけなく答えた。


 後半戦が始まり、チームが意地を見せたのは、ほんの二、三分だったように思う。

 少ない人数で猛烈なプレスをかけ、開始当初は押し込んだものの、あっという間にその時が訪れた。後半開始から、わずか六分。裏に抜け出した敵のエースに、三度ゴールを叩き込まれる。

 それからは、もうみじめなまでに一方的な展開だった。

 何とかして点を取りたいオフェンス陣と、これ以上の失態を晒したくないディフェンス陣の意思がばらけ、中盤が間延びする。典型的な負の連鎖だった。

 芦沢監督は最後まで交代のカードを切れず、赤羽高校は屈辱的な大敗を喫する。

 最終的なスコアは〇対六。選手権予選に登場した試合での敗北。それは、監督が指揮した三十二年の歴史の中で、最悪の結果だった。


 試合後には全部員が、ミーティングのためにロッカールームへ集合することになっている。

 無残な終戦を迎え、ベンチ入り出来なかった部員たちにも重苦しい空気が流れていた。引退を次年度に控えた芦沢監督は、敗戦の後でどんな言葉を選手にかけるのだろう。

 腕の力を使って立ち上がると、隣から圭士朗さんが松葉杖を差し出してくれた。

 僕は両膝を痛めているため、緩慢な移動しか出来ないのだが、頼まずとも伊織も圭士朗さんも歩みを合わせてくれる。二人はナチュラルにそういう気遣いを示してくれる友人だった。

 仲間たちから遅れて、三人でロッカールームへ向かっていたら……。

「おい、優雅。待てよ」

 不意に声をかけられ、振り返ると偕成学園に進学した加賀屋晃が立っていた。

 中学生の頃は、試合で勝ち進めば何処かで必ずと言って良いほどに彼の学校とぶつかっていた。必然的に好敵手として顔見知りになり、会えば雑談を交わす程度の仲になっている。

 偕成学園は例年、王者の美波高校に全国大会出場を阻まれているが、新潟県の圧倒的二強の一校である。僕らも今年のインターハイ予選では、準決勝で彼らに敗北している。

「偕成が二回戦から偵察に来るなんて意外だったな」

 伊織の言葉に、加賀屋は露骨に不満そうな表情を見せた。

「お前らなんか偵察するか。ただの課題だ。どの試合でも良いから、同じブロックのゲームを見て、スカウティングレポートを提出しなきゃならねえんだよ」

「やっぱり偵察じゃねえか」

「だから違うって言ってんだろ。優雅がいないレッドスワンなんざ相手にもならねえ。こいつが怪我をした瞬間に、うちはマークから外している」

 同じ総合病院を利用しているため、加賀屋は他校ではあるものの僕の怪我の具合を知っていた。選手権予選どころか、来年のインターハイ予選にも間に合わない。それが僕の現状である。

「見るに堪えない試合だった。レポートは適当に書くさ。レッドスワンは遅攻ばかりで前線にアイデアがない。采配も凡庸でエースがいなきゃ退屈なゲームすら演じられない。そんなとこだろ」

「わざわざ他人の試合を観に来て喧嘩売ってんのか?」

「喧嘩を売って欲しいなら、まずはゲームに出ろよ。ベンチ外」

「てめえもレギュラーじゃねえだろ。控えが偉そうに吼えてんじゃねえよ」

 加賀屋は舌打ちをした後で、再び僕を見据える。

「優雅。俺は中学時代の借りを、高校で返すつもりだったんだ。ようやくスタメンを勝ち取れそうだってのに、下らねえ怪我で時間を無駄にしやがって」

「別に望んで怪我をしたわけじゃないよ」

「お前を見てると、マジで苛々するぜ。インハイ予選でうちが勝ったのは、優雅が怪我でベンチに下がったからだ。適当な生き方ばかりしやがって。本当にサッカーが好きなら少しは執着しろよ。何でそんなに淡泊なんだ。俺にはお前が欠陥人間にしか見えねえ」

 僕らの間に身体を割りこませ、伊織が無理やり会話を遮る。

「てめえに何が分かる。優雅の人生を知らねえ奴が、好き勝手にほざいてんじゃねえぞ」

「分かるわけねえだろ。こいつは何も言わねえじゃねえか。喋らない奴をどうやって理解しろって言うんだ。大体、お前が庇ってるのが滑稽なんだよ。伊織、俺はお前のことを絶対に許さねえ」

「意味が分かんねえ。何で俺が恨まれなきゃならねえんだ」

「説明なんかしてやるかよ。お前は何も知らないまま、蚊帳の外で苛立ってりゃ良いんだ。レッドスワンのFWはゴミばかりだ。優雅がいなきゃ何にも出来やしねえ。そんなFWにすら勝てないのが、今のお前じゃないか。負け犬には吼える資格もねえんだよ」

 挑発に乗った伊織が、加賀屋に掴みかかろうとしたその時、

「そのくらいで良いだろ。ミーティングが始まる」

 圭士朗さんの眼鏡の下に覗く怜悧な瞳が、二人を射貫く。

「加賀屋晃、君が言っていることは概ね正しい。だけど、弱者と言うなら君だってそうだ。トップクラブが存在する街では、才能がある人間は高校サッカーなんてやらない。俺たちを見下したいなら、せめてクラブユースに所属してくれ。同じ舞台に立っている間は、君のレベルも俺たちと大差がない」

 圭士朗さんの正論を受けて加賀屋は口をつぐむ。

 本当に才能がある者は、設備も指導も優れているクラブチームのユースに所属するため、そもそも高校サッカーの舞台には出て来ない。Jリーグの下部組織で経験を重ね、十六歳にもなれば、トップチームの試合に出場する者だっている。十代を待たずに、レアルマドリードやバルセロナといった海外トップクラブと契約する日本人だって存在する時代だ。高校サッカーはユース年代が目指す最高峰の舞台ではない。そんな時代はとっくの昔に過ぎ去っている。

「俺はいつかプロになる。夢を諦められねえから偕成に進学したんだ。優雅、お前は屑だよ。それだけの才能がありながら、すべてを無駄にしたどうしようもない屑だ」

「行こう。これ以上、相手にしなくて良い」

 圭士朗さんに促され、ロッカールームへ続く廊下へと入ったけれど、加賀屋の憎々しげな眼差しが、いつまでも背中に張り付いているような気がした。


 四十五名の生徒が集まっているのに、ロッカールームは静まり返っていた。

 徹底的に蹂躙された後では涙も乾くのだろう。お通夜のようなロッカールームに、泣いている者は一人もいなかった。誰もが悲壮な顔で呆然と立ち尽くしている。

 監督はパイプ椅子に座り、真っ赤な顔で宙を見据えていた。その唇が小刻みに震えている。

 怒りか、ショックか、心中は監督が口を開くまで分からない。

 赤羽高校は三十年以上、監督がたった一人で指導してきたチームであり、アシスタントコーチが存在しない。強豪校では異例ともいえる体制で全国大会へ勝ち進んだ手腕は、当時、驚きと共に各方面から賞賛されたと聞く。

 チームにはサポート役の副顧問が一人いるだけだ。インターハイ予選に敗退した直後の六月に、前任の副顧問が体調を崩して休職したため、現在は常勤講師として赴任してきた舞原世怜奈という女性が後任を務めている。

「先生、全員が集まりました」

 いつまでも口を開かない監督に業を煮やしたのか、世怜奈先生が言葉を促す。

 聞こえているのか、いないのか。真っ赤な顔で芦沢監督はゆっくりと立ち上がり……。


 次の瞬間、監督は冗談みたいに仰向けに倒れていった。




 時刻は午後八時を回っていた。

 あと数時間で葉月が終わるが、きっと長月が始まってもこの悪夢は覚めないだろう。


 高槻優雅と桐原伊織は二十棟の高層マンションが立ち並ぶ、いわゆる団地の子どもだ。

 僕らが暮らすマンションは、地方公共団体が建設した公営住宅であり、低所得の世帯が審査と抽選を経て入居出来る物件である。入居世帯の所得によって家賃は異なるものの、一般的なマンションやアパートに比べて格安であることは間違いない。

 十二年前に建造された市営住宅は美しい外観を保ったままだが、住民たちは決して富裕層ではない。様々な問題を抱える家庭が、至るところに点在していた。

 小学校に上がる前から、伊織は団地の子どもたちの中心だった。誰よりも情熱的だったし、『可哀想な子ども』でしかなかった僕を、サッカーに誘ってくれたのも彼である。

 団地の脇には阿賀野川という一級河川が流れている。川沿いの河川敷には多くの公園が作られており、子どもの頃から、僕らはそこでボールをよく蹴っていた。土手に等間隔で立つ街灯の灯りが届くため、日が沈んでからもサッカーに興じることが出来るのだ。

 一人、また一人と、親に呼ばれて仲間が帰っていく。そうやって最後の友達が消えても、僕は毎日、河川敷でボールを蹴っていた。しかし……。

 迎えに来てくれる親がいない。そんな僕の事情を知って以降、伊織は母親にどれだけ叱られても、何時まででも付き合ってくれるようになった。そして、それが決して同情ゆえの行動ではなかったことが、僕にはたまらなく嬉しかった。いつだって伊織はサッカーを僕と一緒にやりたくて、ただ、それだけを動機として傍にいてくれた。

 僕のことを『可哀想な子ども』と思わずに友達でいてくれたのは、伊織だけだったのだ。


 庭石菖が群生する丸太階段の脇で、青薄が伸び放題になっている。

 この河川敷に降りるのも随分と久しぶりだ。高校に入学して以来、練習が休みの日なんてなかったから、いつしかここでボールを蹴ることもなくなってしまった。

 星空の下、湿った川風を受けながら、伊織は一人、リフティングを続けていた。

「怪我人を呼び出しちまって悪かったな」

「松葉杖でも五分とかからない。目と鼻の先だよ」

 呼び出しを受けたのは十分前のことだ。外出するには遅い時刻だが、僕のことを心配する人間はいない。この時刻の川縁は冷えるかもしれないと思い、パーカーを羽織ってすぐに家を出て来た。

「夕飯はもう食ったか?」

「この時刻だしね」

 肩でトラップしたボールを左手でキャッチし、もう片方の手で、伊織は足下に置かれていたナップザックを差し出してくる。

「サンドウィッチが入ってる。母親がお前に渡せってさ。明日の朝飯にしろよ」

「ありがと。今日はパンを買い忘れたから助かるよ」

 十二号棟の一〇三号室で暮らす住人は、僕一人だけだ。もう何年も前から、三部屋もあるあの家に一人きりであり、時々、僕は食事の準備を忘れてしまう。

「優雅。祖母ちゃんの具合はどうなんだ?」

「変わらないよ。治るような病気じゃないしね」

「……そっか。辛いな」

「期待はしない。悲観もしない。お祖母ちゃんが家を出た時に、そう決めてる」


 松葉杖を脇に置き、ガーデンベンチに腰掛ける。

 隣に座った伊織からは、夏が染み付いた汗の匂いがした。

「監督、もう現場には復帰出来ないってよ」

「……そっか。確か二〇〇七年にオシム監督が倒れた時と同じ病気だよね」

 本日、試合後のロッカールームで倒れた芦沢監督は、東桜医療大学へと緊急搬送され、そのまま救急治療を受けている。下されたのは急性脳梗塞という診断だった。

 速やかな対応で一命は取り留めたものの、一ヶ月以上の入院とリハビリが必要とされ、回復後も指揮官として現場に復帰することは叶わないらしい。

「結局、俺は一度もあの人に認めてもらえなかったよ」

「そういうルールを監督が作っていたんだから仕方ないさ」

 夏休みまで一年生はサッカー推薦で入学した者以外、ベンチ入りさせない。それが芦沢監督の方針だった。中学時代に推薦入学の打診を受けていた僕は、例外的にベンチ入りを認められたが、他の生徒には一切の特例が適用されなかった。

「ルールは言い訳にならねえよ。俺には監督の決定を覆させるだけの力がなかった。それだけのことだ。あの鬼監督に認めてもらえりゃ、自信になると思ったんだけどな」


 芦沢平蔵が赤羽高校の監督に就任したのは一九八二年、今から三十二年前の春である。

 当時の日本サッカー界は、完全なる冬の時代だった。

 Jリーグが開幕するのは十一年後の一九九三年であり、国内の頂点を競う日本サッカーリーグですら集客を見込めず、日本代表が国立競技場で試合をしても閑古鳥が鳴く有様だったらしい。

 しかし、その時代、高校サッカーだけは別だった。冬の全国大会、いわゆる『高校選手権』は突出して高い注目度を誇っており、Jリーグが誕生するまで、スポーツ紙の一面を飾る可能性のあるサッカーの国内大会は、高校選手権以外になかったと聞く。

 芦沢監督の全盛期は、まさにそういう時代だった。八十年代後半から九十年代前半にかけて、高校サッカーが最大の華であった一時期に、レッドスワンは新潟県で最強を誇る。

 六度の選手権大会出場。美波高校に破られるまで、県勢の最高記録だった全国ベスト8。

 一時代を築いた芦沢監督だったが、二十一世紀になり、美波高校と偕成学園が台頭するようになると、レッドスワンは一気に平凡な古豪へと成り下がってしまった。

 県大会で決勝まで進んだのは十二年前が最後だし、今年のインターハイ予選で記録したベスト4は、過去五年間で最高の成績である。赤羽高校はサッカー部に最も力を注いでいるが、近年は結果が伴っていない。スポーツ推薦による特待生を募っても、今や例外なく、才能ある若者は別の高校へ進学してしまう。


 月鈴子の音の狭間に、伊織の携帯電話が着信音を鳴らした。

 ベンチから立ち上がり、伊織は川に向かって歩きながら電話を耳に当てる。

 通話は三分ほど続いただろうか。

「先輩からの連絡網だった。最悪だ」

 振り返った伊織は青褪めた顔をしていた。

「今日、監督が救急車で運ばれた後で、そのまま解散になっただろ」

 三年生にとっては今日の敗戦が引退試合である。本来であれば相応しい幕引きが用意されたのだろうが、副顧問も付き添いで救急車に乗り込んだため、あの時、場を仕切れる教師はいなかった。戦犯であるキャプテンと副キャプテンから適切な言葉が出てくるはずもなく、結局、微妙な空気のままサッカー部はその場で解散することになった。

「試合帰りに駅で先輩たちが長潟工業の奴らと鉢合わせしたらしい。蛇島に挑発されて、キャプテンたちが手を出しちまったみたいだ」

「手を出したって、殴ったってこと?」

「多分な。すぐに駅員に取り押さえられたみたいだし、警察にも届けずに済ませてもらえたって話だけど、相手の一人が病院送りになっていて、両校にきっちり連絡が入ったみたいだ。今日は日曜日だから、明日、処分が決まるらしい」

 キックオフ直後から続いたラフプレー。汚いシミュレーション。言い訳を探すには十分過ぎるほどの出来事があったゲームだが、敗者が何を叫んだところで、みじめな負け惜しみにしかならない。暴力なんてもってのほかだ。


 崩れ落ちるようにして、伊織は再びガーデンベンチに腰を掛けた。

「……サッカー部が廃部になったらどうしよう」

 その横顔に拭えない不安が張り付いている。

「俺、サッカーが出来なくなっちまったら、何のために生きてるか分かんねえよ」

「処分のためには事件を公にしなきゃならない。うちも長潟工業もそれは望まないはずさ」

「でも、新人戦とか来年の大会が出場停止になったら……」

 入学から五ヶ月間、ベンチ入り出来ずに過ごしてきた伊織は、試合に飢えている。

 行き場のない情熱は、やがて心を噛むのだ。練習だけじゃ満たされない。フィールドに立たない限り、報われない想いもある。

「問題を起こしたのは三年生だろ。僕らがペナルティを受ける意味が分からない。杞憂だよ」

 動揺する伊織を励ましたくて言葉を続けたけれど、自らの言葉に信憑性を見出せていなかった。残る部員に何一つ瑕疵がなかったとしても、下るべき時に裁きは下るだろう。


 この世界は不公正で満ちている。僕らはもう、それを嫌というほどに知っている。

 敗者の暴力で、愚者の蛮行で、伊織からサッカーが奪われて良いはずがない。

 世界を愛せなかった僕に、一つでも赦せないことがあるとすれば、それは、桐原伊織の想いが、踏みにじられることだけだったのに……。


 この日、伊織が描いた悪夢は、僕の願いを嘲笑うかのように結実することになる。



 私立赤羽高等学校には一学年に七つのクラスが存在する。すべて普通科だが、一つだけスポーツ推薦で入学した生徒を集めたクラスがあり、残りは音楽、美術、書道、芸術科目の選択によって分けられている。僕は中学生の時、スポーツ推薦の話をもらっているが、最後まで進路に迷っていたため、一般入試を経て通常のクラスに入学していた。

 赤羽高校は二学期制を採用しており、短い秋休みがある代わりに、夏休みは八月の後半に終わってしまう。平常授業は選手権予選の数日前から再開されていた。

「圭士朗さん。優雅君。サッカー部、大変みたいだけど大丈夫?」

 お昼休み、クラスメイトの九条圭士朗と机を突き合わせてお弁当を食べていたら、傍にやって来た藤咲真扶由に声をかけられた。真扶由さんは雪のように白い肌と艶やかな黒髪を持つ、うちのクラスの委員長である。圭士朗さんとは小学生時代からの知り合いらしい。

「もう噂が広まっているんだね。誰に聞いたの?」

「大会が近いから、うちは昨日も練習があったの。夕方に顧問の先生が」

 真扶由さんが所属する吹奏楽部も、赤羽高校が力を入れている部活動の一つである。音楽室が第一グラウンドに面する校舎の四階にあるため、彼女たちの演奏は練習中のBGMだ。

「圭士朗さんを筆頭に、一年生は成績上位者をサッカー部が独占しているでしょ。二年生も文系の一位がサッカー部らしいし、何でこんなに両極端なんだって、うちの顧問も嘆いていたよ」

 圭士朗さんは一般入試以来、常に首席の地位をキープしている俊才だ。シャープな眼鏡の下にいつも涼しげな眼差しが覗いており、理知的という言葉がよく似合う。アレルギー性結膜炎の問題でコンタクトレンズを使用出来ず、部活動の際にはスポーツゴーグルを着用している。

 常に冷静さを失わない性格故だろう。中学時代も『圭士朗さん』と呼ばれていたらしく、旧友の呼び方が伝染して、自然と彼は高校でも敬称をつけて呼ばれるようになっていた。

「二年生もトップってサッカー部だったんだ。圭士朗さん、誰のことか分かる?」

「森越先輩じゃないかな。掲示板に貼り出されたランキングを見たことがある」

 それはベンチにも入ったことがない先輩だった。プレーの印象もほとんど記憶に残っていない。

 一年生の成績上位者は入学以来、上から圭士朗さん、伊織、僕で不動であり、ワースト3は楓、穂高、リオの推薦組、三馬鹿トリオが独占している。学力面でも、素行面でも、サッカー部には両極端な生徒が多い。

「圭士朗さんや優雅君は何か特別な勉強をしてる? サッカー部ってテスト前も部活が休みにならないよね。毎日、あんなに遅くまで練習しているのに、いつ勉強しているの?」

 部員には塾に通う時間なんてないし、僕ら三人は誰も特別なことはしていない気がする。

「前に土曜の夜にうちに集まったことがあったけど、結局、映画を観ちゃって意味なかったよね」

「それは伊織のせいだろ。あいつは人が集まると必ずDVDを持ってくるからな」

「男子って面白いね。それであの成績なんだもんな。羨ましいよ」

 五月のゴールデンウィーク合宿で、夜に一年生で集まって映画を観た後、物語の流れから好きな女子の話になったことがある。僕や伊織は初恋というものをまだ経験していない。女子に告白される機会は小学生の頃から何度かあったが、恋愛なる概念の本質は輪郭さえ見えていない。

 一方、圭士朗さんは幼馴染の真扶由さんに、ずっと想いを寄せていたという。恋愛感情を心の異変と理解していた僕にとって、常に冷静な彼が誰かに想いを寄せているという事実は、単純に驚きだった。真扶由さんを前にしても、圭士朗さんの態度が変わる瞬間は見たことがなかったからだ。

「……そうだ。監督も倒れたんでしょ? 容体も心配だけど、部員の皆も残念だよね。名物監督に教えてもらいたくて、赤羽高校に入学して来る生徒もいるって聞いたことがある」

「監督に傾倒していた先輩たちなら、落胆しているかもね」

 圭士朗さんの回答は含みのあるものだった。

「ベンチ外の人間が言っても説得力がないけど、俺は監督の指導法に疑問を感じることがあった。むしろチームが変わるきっかけになったら良いって思ってる」

「そんなこと考えてたんだ。初耳だよ」

「優雅は練習メニューに疑問を感じたことがないのか?」

「言われたことを忠実にやっていただけだしね。そんなこと考えたこともなかった」

 圭士朗さんは他の同級生とは質の違う知性を持っている。興味深い話でもあるし、今度、もう少し掘り下げて聞いてみよう。

「サッカー部、活動は問題なく続けられるの?」

「正式な処分は今日の放課後に決まるみたい。視聴覚室に五時に集まれって言われてる。引退する先輩の不祥事だし、僕らが責任を取らなきゃならない理由も分からない。厳重注意で済むような気がしてるけど、最悪、一週間くらいは部活動停止を覚悟しなきゃかな」

 あの頃、大半の部員は似たようなことを考えていたように思う。先輩の他校との小競り合いなんて、後輩にとっては瑣末な事件でしかなかったからだ。

 しかし、その日の放課後、僕らは想像もしていなかった現実と直面することになる。




 午後五時、教室で時間を潰した後、圭士朗さんと共に、部会が行われる視聴覚室へと向かう。

 教室には引退した三年生も全員が集合していた。暴力事件の当事者であるキャプテンたちも後方に陣取っている。個別に下されたお咎めはなかったのだろうか。

 現在のサッカー部には、学年を隔てる明確な溝が存在している。典型的な体育会系ノリの三年生と二年生は仲が良いが、一年生は『ウドの大木世代』などと揶揄されることが多かった。

 僕らの学年には百八十センチ台の生徒がずらりと並ぶものの、恵まれた体格とは裏腹に、良く言えば優等生、悪く言えば小心者が集まっている。監督に求められても厳しいファウルにいけない。声で相手を威嚇するなんて、命令されても出来ない生徒が大半だった。

 視聴覚室に集まった生徒たちは、自然と二分されている。三年生と彼らを慕う二年生は後方に、一年生は極端なほど教室前方に位置していた。

 さすがに問題を起こしたキャプテンたちは最後尾で大人しくしていたが、他の先輩たちは下世話な芸能人の噂話で馬鹿騒ぎをしている。話題に上っているのは櫻沢七海とかいう名前の、最近よくCMで見かけるティーンエイジャーの人気女優だった。

 一年生で口を開いているのは、楓、穂高、リオの三馬鹿トリオしかいない。


 時計の針が五時を回っても教室に現れる者はいなかった。

 処分を下すための職員会議が長引いているのだろうか。

 五時二十分を過ぎた頃、前方の扉が半分ほど開き、小柄な女子生徒が一人で入って来た。

 突然の女子の登場に、一瞬、室内のざわめきが消える。見かけた記憶のない生徒だが、靴紐の色で一年生だと分かった。誰とも目を合わせずに、少女は扉から一番近い席に腰掛ける。

「あれ、うちのクラスの転校生だ」

 彼女を見つめながら、伊織が呟く。

「転校って言うか編入? 親の転勤で夏休みに東京から引っ越して来たらしい。書道選択だったから、うちのクラスに入ってきたんだ。楠井華代っていったかな」

 楠井と呼ばれた少女は、うつむいたまま誰とも目を合わせようとしていない。

「何をしに来たんだろう」

 後方に陣取る先輩たちも明らかに戸惑っている。

「さあ。寡黙な子でさ。編入だからってのもあるんだろうけど、教室でいつも一人なんだよ」


 僕らの疑問が解消されるより、事態が動く方が早かった。

 楠井華代の登場から一分もしない内に、再び視聴覚室の扉が開く。現れたのは、六月に常勤講師として赴任し、そのまま副顧問に就任した舞原世怜奈だった。監督が復帰出来ない以上、彼女が正顧問に昇格するのだろうけれど、女性が名門校を指揮するなんて話は聞いたことがない。

 白いコットンブラウスに青いサーキュラースカート。お嬢様然とした格好で現れた世怜奈先生の名字は、あの『舞原』だ。新潟の人間なら知らない者はいない名門の旧家である。比喩ではなく文字通りの意味でお嬢様なのだ。

 美しさは突き詰めると、張りつめたような緊張感を伴う。あまりにも容姿が整い過ぎているせいで、当初は部員たちにも遠巻きにされていたが、実際の世怜奈先生は天然気味のふわふわとした空気感を持つ女性だった。

「先生。処分決まった? 早く教えてくれよ」

「廃部? 休部? 活動停止? とりあえず今週は休みで良いっすか?」

「ビューティー? キューティー? マリーミー?」

 矢継ぎ早に質問を口にしながら、三馬鹿トリオが犬のように先生に駆け寄った。約一名、意味不明な奇声をあげている外国人もいたが……。

「順番に説明するから席についてね。部員は全員集まってる?」

 三馬鹿トリオを笑顔でいなしてから、世怜奈先生は教壇に立つ。

「……全部員、四十五名揃っています」

 キャプテンが反応しないのを確認してから、二年生のFW、鬼武慎之介が口を開いた。鬼武先輩は芦沢監督の熱心な信奉者である。頬に生々しい傷痕が走る強面の彼を恐れる一年生は多い。実力から考えても、監督が倒れていなければ、次の部長には彼が指名されたのではないだろうか。

「暴力事件についての処分を伝える前に、まずは自分の話をしちゃおうかな。今日からサッカー部の顧問になりました。そんなわけで、これからは監督も私がやります。よろしくね」

「はあ? マジで言ってるんすか?」

 鬼武先輩が裏返ったような声で問う。

「顧問はともかく先生が監督なんて無理でしょ。冗談はやめて下さいよ」

「私は冗談なんて言わないよ。それに、これは職員会議で決まったことだしね」

「いや、有り得ないっす。前に先生はサッカーの指導経験なんてないって言ってましたよね。それに女じゃないすか。今後は外部コーチでも呼ぶってことですか?」

「外部コーチなんて呼ばないわ。レッドスワンの指導者は私一人だよ。急にこんなことを言われて、混乱するのも無理はないと思う。ちゃんと一つずつ説明するね」

 全部員が戸惑いを隠せずにいたが、世怜奈先生はいつもの微笑を湛えていた。

「連絡網を回した通り、芦沢先生は命に別状はありませんでした。ただ、しばらくは入院が必要になりますから、先生は選手権予選の敗退をもって退任となります」

「……監督はもう絶対に指揮を執れないんすか?」

 頬を引きつらせながら、鬼武先輩が低い声で問う。

「入院なんて長くても一ヶ月とか二ヶ月っすよね。だったら俺らは待ちますよ。定年までまだ一年以上あるじゃないですか。監督以外の指導なんて受けたくないっす」

「それは無理だよ」

「どうしてっすか? ベンチに座ったままでも指導は出来るのに」

「急性脳梗塞は君が考えているより、ずっと大変な病気なの。リハビリにも時間がかかるし、再発の可能性もある。サッカー部には長年、勝って当たり前という空気があった。そんなチームの指揮には大きなプレッシャーが伴うしね」

「監督は俺らに言ってました。サッカーに命を賭けろって。病気なんかで諦めるとは思えません。監督は強い意志を持った人だ。まだ一年もチャンスが残っているのに諦められるわけがない」

 語気を強めて鬼武先輩は、その場に立ち上がる。

「校長に話をさせて下さい。俺たちの気持ちを知れば、考えが変わるかもしれない」

 世怜奈先生は腰に手を当て、困ったような表情を見せた。

「君たちを傷つけたくなかったんだけどな。やっぱり、それは都合が良過ぎるか」

「……どういう意味っすか?」

「芦沢先生は有給休暇を消化した後で解任されます。来年度の契約は結ばれません」

「……首になるってことすか?」

「言葉を選ばずに言えば、そういうことだね」

 先生の断定を受け、先輩たちの怒号が響く。引退となる三年生も顔を真っ赤にして憤っていた。

「ふざけてやがる。それ、校長が決めたことっすか? これまでの功労者をあっさり……」

「校長の独断で解職は決められないよ。芦沢先生は理事と特別な契約を結んでいて、その中に明記されていたの。学校の評判を落とすようなら、定年を待たずに契約を解除するってね」

「評判を落とすって……馬鹿げてやがる。納得いかないっすよ。皆、職員室に行こうぜ! 直談判だ! 監督が築いてきた歴史は、そんな簡単に否定出来るものじゃない!」

「本当にそうかな」

 視聴覚室から出て行こうとする先輩たちの背中に、世怜奈先生は問う。

「二十年前ならともかく、今の芦沢先生に尊敬出来る部分なんて見つからなかったよ」

 あまりと言えばあまりの言葉に、先輩たちは立ち止まる。

 六月に赴任し、三ヶ月弱の短い期間、副顧問を務めた世怜奈先生は、これまで意見らしい意見を発したことがなかった。サポート役に徹し、雑用をこなしていたに過ぎない。そんな彼女が今、初めて自らの想いらしい想いを告げた。

「聞き捨てならねえ。幾ら先生でも言って良いことと悪いことがありますよ」

 今にも殴りかからんばかりの眼差しで、鬼武先輩が室内に戻ってくる。

「むしろ君たちは疑問を抱いたことがないの? 私には不愉快な驚きが沢山あったんだけど」

 崇拝する芦沢監督への冒涜に、ほとんどの先輩たちが顔を真っ赤にしていた。

「職員会議で任命されたからって、監督面しないでもらえますか。俺らは認めちゃいない。ここは特別な場所なんだ。そこら辺のお遊びみたいな部活と一緒にしないでくれ」

「君たちが特別な生徒だと言うのなら、きっと、素晴らしい成績を残しているんだろうね。この十年間で何回、県を制覇しているの?」

 世怜奈先生の問いに先輩たちの表情が歪む。答えはゼロだった。

「……あんたが赴任して来る前にベスト4まで残ってるよ」

「道化でいるのは可哀想だから、はっきり言うね。ベスト4に残ったのは『君たち』じゃない」

「意味が分かんねえ。ネットで大会の記録を確認してみろよ」

「私は赴任する前からレッドスワンの公式戦を、会場でチェックしていたの。だから気持ちは分かるよ。七年振りのベスト4進出、嬉しかったよね。古豪の復活だって盛り上がったよね。でも、残念だけどそれは君たちの力じゃない。ただ、このチームに天下無双のスーパールーキーがいただけ。それだけのことだよ」

 そう言って、世怜奈先生が見つめたのは僕だった。

「年代別の日本代表候補にも選ばれた高槻優雅。全国大会に出場したこともなければ、クラブチームのユースでプレーをしているわけでもない。それなのに日本代表合宿に呼ばれた逸材。彼が十年に一人の天才であることは、一緒にプレーをした君たちが一番よく分かってるでしょ?」

 世怜奈先生は哀しそうに笑う。

「勝てるに決まってるじゃない。優雅さえいれば大抵のチームは勝ち進めるよ。小学生の試合に、大人を放り込んだようなものだもの」


 ……ああ、まただ。そう思っていた。

 世怜奈先生は今、ほかならぬ僕の話をしている。視線でも強く僕を射貫いている。

 それなのに、まるで他人事のように聞いてしまう。

 いつもそうだった。どれだけ褒められても、責められても、心にさしたる実感が湧かない。映画でも眺めているみたいな、そんな感覚でしか現実を捉えられない。


「県総体で君たちが戦ったのは五試合、チームの総得点は十六点だった。そのうち九点が優雅のゴールで、アシストも三つある。左右のコーナーキック、長短のセットプレー、すべて優雅が蹴っていた。その彼が怪我で離脱し、チームはどうなった?」

 答えられない先輩たちに、世怜奈先生は現実を突き付ける。

「準決勝、残り十分までリードしていたのに、優雅が怪我で交代した途端、逆転負けを喫したのは誰? 選手権予選、その最初の試合で一点も取れずに大敗したのは誰? そんな君たちに本当に県ベスト4の実力があるなんて言える?」

 どんな顔でこの話に耳を傾けるのが正解なんだろう。

 肯定と共に居心地の悪さを感じれば良いのか。先生の言葉を否定して憤りを見せれば良いのか。話題の中心は間違いなく自分なのに、そんな問いの答えさえ分からない。

 鬼武先輩が拳の底で机を強く叩く。

「……そりゃ、俺たちは優雅の離脱に対応出来なかったですよ。でも、監督は間違っていない。準決勝で偕成に負けた試合だって、ポゼッションでは勝っていた。パスを繋いで、皆で連動して、監督が目指したのは、そういう美しいサッカーだった!」

「負けた試合を誇るのは格好悪いよ」

「女のあんたに何が分かる。俺たちのポゼッションサッカーは、全国でも通用したはずだ!」

 小さく溜息をついて、世怜奈先生は視線を宙に移した。

 告げるべき言葉を探すように一度、小首を傾げてから、

「君たちは本気であんなサッカーに誇りを抱いていたんだね。可哀想」

 憐れみの眼差しで、世怜奈先生ははっきりそう言った。

 ポゼッションとは『所有』、『占有』を意味する英語で、サッカーでは『ボール支配率』を指す。カウンターを犠牲にしてでもボールを繋ぐことを目指す。それが監督の目指したサッカーだった。

「哲学のない猿真似は憐れだよ。君たちがやっていたのは、ポゼッションサッカーなんかじゃない。だって、ただ逃げていただけだもの。後ろにボールを戻してばかりなんだから、ある程度は繋がるよ。オフェンスを立て直すために、そういうプレーを入れなきゃいけない時もある。でも、君たちのプレーは大半がそうだった。少しでもプレッシャーが激しくなると、ボールを前に運べる選手が優雅一人だけになってしまう」

 世怜奈先生の穏やかな糾弾は続く。

「ピッチの縦幅は大抵、百メートル強。素早くボールを回せば、十秒もかからずにゴールまで迫れるの。DFが揃う前に攻めた方が効果的なのは分かるよね? パスの本数が多くなるほどゴールが遠ざかるなんて、小学生でも知ってるデータじゃない。どうして疑問を抱かないの?」

 ただ若くて綺麗なだけの副顧問。誰もが今日まで先生のことをそう思っていたのに。

「芦沢先生は目指すサッカーを体現するための哲学を持っていなかった。パスサッカーを成功させたいなら、ピッチを横方向に広く使わなきゃいけない。相手の守備陣形を広げなければ、パスを通すための道が出来ないからね。意識してプロの試合を見てごらん。ポゼッションを好むチームは、白線を踏むくらいの気持ちでサイドを利用しているわ。だけど、芦沢先生はボールを失わないために、出来るだけ近い位置でプレーするよう頑なに指示していた。そういう練習しかしていないからボールを運べない」

 正論には言い返せない。正しい言葉の前には沈黙するしかない。

 ここに至り、僕らはようやく悟り始めていた。この若くて美しい先生は、ただのお飾りや接待でチームにいたわけではない。

 彼女はずっとゲームの本質を見つめていたのだ。

「このチームには前のプレイヤーを追い越す選手が少な過ぎるんだよ。だから横パス、バックパスが続いてしまう。理由は分かるよ。同情もする。だって、ボールを失ったら罰走を命じられてしまうもんね。後輩の前でみじめに正座させられて、延々と説教を受けてしまう。ボールを失った選手を、あんな風に叱責し続けたら、誰もチャレンジなんて出来なくなる」

 それは、僕らにとって当たり前の風景だった。

 試合後の罰走、居残り練習、そんなのは日常茶飯事だった。

「君たちは監督に異論を唱えられない。だって言うことを聞かない選手は、チームから追い出されてしまうから。思い出してみて。一体、何人の仲間がこの部から去っていった?」

 サッカー推薦でも選手を集めているサッカー部には、毎年、三十人以上が入部する。しかし、この場にいるのは一年生が十九人、二年生が十二人、引退となる三年生が十四人である。

 一年生はまだ半数が残っているが、先輩たちを見れば残っている人間の方が少ない。

「辞めていく生徒の方が多いなんて異常だよ。監督に忠誠を誓えない者は残れない。間違いを指摘する者も残れない。我慢するしかない。ひたすらに耐えるしかない。そういう人間しか残れない。それが、レッドスワンを巣食う根深い愚かさの本質だ」

「強くなるために厳しくして何がいけないんすか。全部、チームが勝つためだ!」

 今にも泣き出しそうな顔でキャプテンが叫ぶ。

「辞めていった奴らなんて、ただの根性無しじゃないか! 弱いから逃げ出すんだ。俺たちは違う。どんなにきつい練習にも耐えてきた。そうやって成長してきたんだ!」

「でも、君たちは強くないじゃない。二回戦で敗退したことを忘れたの?」

「運が悪かったからだ。汚いチームに当たって、審判の誤審にやられただけだ」

「どうしてそんなに自分たちが強いって信じられるの?」

「俺たちはどんな学校よりも沢山練習をしてきた。美波高校にも、偕成学園にも、練習量なら負けていない。誰よりも走ってきたし、毎日、吐くまで練習してきた」

 練習量はどんな学校にも負けていない。それは多分、レッドスワンの一番の誇りだった。

 監督が誇らしげに答える記事を、僕も読んだことがある。うちのチームはどんなチームよりも走っている。沢山、練習している。それが出来る精神力が最大の武器です、と。それなのに……。


「そんなことをやっているから弱いんだよ」


 憐れみの眼差しで、世怜奈先生はそう告げた。

 それから、教室の前方隅に視線を移し……。

「華代。頼んでいた資料のコピーを皆に配って」

 世怜奈先生の言葉を受け、イレギュラーな存在だった小柄な少女が立ち上がる。

 芦沢監督の方針で、レッドスワンには女子マネージャーが存在しなかった。サポート役は控え選手が行えば良い。女子はグラウンドに必要ない。それが監督の哲学であり、世怜奈先生の副顧問就任も、前任者の体調不良を受けて発生した例外的な処置に過ぎなかった。

 楠井華代によって配られたのは、ここ三ヶ月間の活動記録だった。各トレーニングにどれだけの時間が割かれてきたのか、分単位で細かく記録されている。彼女が副顧問に就任した日より、一日として抜け落ちた日付はなく、トレーニングの中身も具体的な数値と共に記録されていた。

「これから私は君たちが誇った練習メニューを弾劾する。全員、覚悟して聞いて欲しい」

 世怜奈先生は厳しい眼差しで、言葉を続ける。

「芦沢先生の指導の最大の問題は、プログラムが非科学的過ぎることだよ。陸上競技でもないのに、どうしてフィジカルトレーニングがあんなに長いの? 階段ダッシュ、うさぎ飛び、そんなのサッカーに関係ないじゃない。アスファルトの山道ばかり走らされたら、膝に不要な負担がかかるってどうして気付けないの? このチームに怪我人が多いのは必然だよ」

「でも、それがレッドスワンの伝統だ。そうやって全国大会に進んできたんだ!」

「芦沢先生はきつくなければ練習の意味がないって思ってる。ボールを使っての練習は楽しいでしょ? でも、走り込みは辛いよね。だから必要以上に走らせる。練習試合で負けたから、公式戦で結果が出ないから、不機嫌になる度に罰走を命じる。あんなのは体罰だ」

 資料には全体練習以外で、各選手が命じられた個別のメニューも記録されていた。

 罰走では監督に命じられたコースを走るわけだが、資料にはその距離と傾斜が記されており、改めて見ると確かに気が遠くなるような数値ばかりだった。

「サッカーは走り続けるスポーツじゃないか。走れなきゃ負けちまう」

「じゃあ、起伏のある道を二十キロも走るのはどうして? プロでも九十分で十キロ前後しか走らないのに、どうして君たちが二倍も走る必要があるの?」

 それは、ずっと当たり前と思っていた練習風景だった。

 どんなにきつくても耐えてきたのに……。

「延長戦を入れたって試合は二時間に届かないのに、放課後に五時間も練習するのはどうして? 土日祝日は、七時間、八時間って練習しているよね。その時間配分には理屈があった? サッカーには持久力が大切だけど、より重要なのは敏捷性だよ。速筋を鍛えたいなら、身体をリフレッシュさせて短時間でトレーニングを繰り返さなければならない。スピードが落ちたなら、きちんと休憩を入れて、回復してから繰り返さなければ意味がない。目的のない走り込みなんて、そもそも逆効果なの。だって長時間の走り込みは、速筋繊維じゃなくて遅筋繊維を鍛えてしまうんだもの。君たちは辛い練習を繰り返しただけ、大切な敏捷性を失っていった可能性があるんだよ」

 僕たちの努力は無駄だったんだろうか。

 積み重ねてきた自信と自負が、根底から揺らいでいく。

「炎天下の一時間ダッシュ、合宿での起床後すぐのフルゲーム、入学直後の十五歳に課される三年生と同じ練習メニュー。誰か一つでも論理的に正当性を説明出来る?」

 世怜奈先生は僕らを見回したが、誰一人、口を開けなかった。

「私は芦沢先生の動機を疑っていない。気分屋ではあるけれど、君たちを勝たせたい、そう思って指導していたと思う。でも、彼は誤った指導方法を加速させて、高校サッカー界の宝にだってなれたかもしれない少年を壊してしまった」

 表情を消した世怜奈先生に、真っ直ぐ見据えられる。


「高槻優雅は多分、もうフィールドに戻れない」


『一年や二年で、元のようにプレー出来る身体に回復するとは思えません。三年、五年という時間があっても難しいかもしれない』

 それが、僕が病院で主治医から言われた言葉だった。夏休みに負った前十字靭帯断裂は、最後の決め手に過ぎない。僕は身体に蓄積させていた爆弾を、既に暴発させてしまっている。

「この目で見た指導のすべてを、私は包み隠さずに報告したわ。でも、あまり意味がなかったみたい。だって理事会はもう何年も前から、サッカー部に期待していなかったんだから」

 いつの間にか、レッドスワンは赤羽高校の顔ではなくなっていた。そんなことには薄々、部員の僕らも気付いていたけれど……。

「じゃあ、最後に職員会議で下された結論を告げるね」

 それから、世怜奈先生は下された六つの裁定を告げていった。


 一、二週間の部活動停止。

 二、後期予算の三割削減。

 三、来年度以降のサッカー部、スポーツ推薦の廃止。

 四、秋の新人戦、二年間の出場辞退。

 五、新潟県リーグ、二年間の参加辞退。

 六、第一グラウンドのサッカー部、優先使用権を撤廃。


 決定は暫定的なものであり、二週間後に予定されている理事会の会議で、追加処分が下る可能性もあるらしいが、部員を動揺させるには既に十分なものだった。

 新潟市の高校生が参戦出来る公式戦のトーナメントは四つ存在している。

 インターハイ出場をかけて五月に開催される『地区予選』と『高等学校総合体育大会』。高校サッカー界最大の祭典への出場を争う『選手権予選』。そして、地区ごとに行われる秋の『新人戦』である。インターハイ予選の二つは地続きなため、今回の決定により、事実上、三つしかないトーナメントの内の一つに参加出来なくなってしまったということだ。

 しかし、新人戦の辞退など、県リーグへの参加辞退に比べれば瑣末な問題だろう。負ければ終わりのトーナメントとは異なり、リーグ戦は半年という長いスパンで行われる。リーグ戦があるからこそ、僕らは多くの試合を経験出来るのだ。

 サッカー部には常に恵まれた練習環境が与えられていたが、第一グラウンドの優先使用権は、今後、インターハイの常連となった女子ソフトボール部への譲渡が検討されるという。

 参加校の分母が少ない競技と、大抵の高校に存在するサッカー部では、勝ち取ったトロフィーの重みが違う。だが、そんなものは身内の論理に過ぎない。全国大会出場というステータス的な側面だけで見れば、どんな競技で成果を出しても同じなのだ。結果を残せないサッカー部に投資するより、他校が力を入れていない競技に活路を見出していく。それは評判が運営に関わる私立高校の方針として、実に真っ当な決定だった。

「以上、六つの処分が職員会議での決定です。何か質問はあるかな?」

 先輩たちは誰もが顔を青褪めさせていた。信じていたものが虚像だったと告げられた後で、追い打ちをかけるように学校側からの厳しい処分を聞かされてしまった。

「これ以上、サッカー部には期待しない。だから、女のあんたに監督を任せる。そういうことか?」

 怒りに満ちた低い声で、鬼武先輩が問う。

「端的に言えば、そういうことだろうね」

「……笑えねえ冗談だぜ」

「皆が失望するのも無理はないと思う。でも、もう決定事項だから。二週間後、活動停止処分が解けた日から、私がサッカー部を指導します」

「女ってだけでも問題なのに、素人の指導なんて受けられるわけねえだろ」

「私は芦沢先生が実践していた指導法は踏襲しない。だって、これは高校の部活動だもの。サッカーを好きな子が、肩の力を抜いて純粋に楽しめる。そういう部活にしたいの」

 怒りに任せて鬼武先輩は目の前の机を蹴り倒す。

「俺たち推薦組はサッカーで結果を残すために入学したんだ。今更、そんなお遊戯に付き合えるかよ。リーグ戦がなくなっても、まだインターハイと高校選手権が残ってる。絶対にこのままじゃ終わらせねえ。全国の舞台に立って、監督の無念を晴らしてやる」

「その責任感は、もう虚像だよ。スポーツ推薦で入学した生徒は、これまで故障以外での退部を認められていなかったけど、今後、サッカー部はその条件から外れるから」


「え、じゃあ、辞めても良いのか?」


 頬杖をついて話を聞いていた三馬鹿トリオの一人、榊原楓が間の抜けたような声を発した。

「マジかよ。もう早起きしなくても退学にならねえのか……」

 楓は朝に弱く、朝連にも遅刻してばかりだった。監督からの叱責を誰よりも多く受けていた生徒だが、メンタルが異常に強く、反省をしないため、同じ過ちを繰り返し続けて今日に至っている。

 楓には梓という二つ年下の妹がおり、中学時代に地区大会で対戦した際、観戦に来た彼女が僕に一目惚れしたらしい。それ以来、妹を溺愛する彼に僕は激しく憎まれるようになり、チームメイトになって以降も、向けられる敵愾心は増す一方だった。

 両手を頭の後ろに回し、楓は真剣な眼差しで宙を見つめている。サッカー部を辞めることを本気で考え始めているのだろうか。

「レッドスワンは今後、百八十度変わるわ。私は皆と楽しくサッカーがしたいしね。こんなことになってしまった以上、部活動を続けられないって子が出ても無理はないと思う。だから、私は誰のことも引き止めないよ。サッカーが好きな子だけ、二週間後に集まってくれたら良い。じゃあ、今日は解散。また、会えることを楽しみにしているね」

 最後まで微笑を崩すことなく続け、先生は楠井華代と共に教室を去って行った。


 いつだって幕切れは呆気なく訪れる。

 私立赤羽高校のシンボルとして長く君臨し続けた赤い白鳥。

 レッドスワンは今日、今度こそ本当に絶命したのだろう。

 鼓膜の奥で鳴り続ける終わりの足音に、誰もが心を折られていた。




 部活動停止処分が下された日より、一週間が経過していた。

 東棟と西棟、二つの校舎を繋ぐ連絡橋の下、中庭へ続くピロティには幾つかのベンチが設置されている。お昼休み、その一つに座り、購買で買ったアイスキャンディーを口に運んでいた。

 晩夏の氷菓子は、炭酸が抜けたラムネみたいな味がする。

 身体中が気だるいのは、きっと暑さのせいだけじゃない。ここのところ毎晩、眠れない夜を過ごしている。こんな日々が続けば、いつか倒れてしまう。そんなことに気付き、ようやくその書類にサインをしたけれど、下腹部を襲うストレス性の痛みは増す一方だった。

 眼前では制服姿の伊織が、日陰からはみ出さないよう器用にリフティングを続けている。

「今朝、高弘の奴が退部届を出したってよ」

 夏の重力に負けて、食べかけのアイスキャンディーが、地面に置いた松葉杖の上に落ちた。

「……これで一年生も二人目の退部だね」

「高弘は中学の時、バドミントン部だったって話だしな。むしろ、よく今まで練習についてきたと思うよ。今回の事件で、さすがに気持ちの糸が切れたんだろ」

 伊織は他意のある話をするような人間じゃない。そう分かっているのに、心中を見透かされたようで下腹部が軋んだ。ポケットの中の紙切れが、その質量を増したようにさえ思える。

「二年生はもう半分以上が辞めたんだろ?」

「みたいだな。何のためにサッカーをやってんだって問い質してやりてえよ。根性無しは自分たちの方じゃないか」

 先輩たちは皆、芦沢監督を慕っていた。理屈が感情を超えるのは難しい。世怜奈先生からの恩師に対する糾弾は、彼らにとって容易に受け止められるものではなかったのだ。

「今日の放課後はどうするんだ?」

「河川敷で練習するよ。高架下のコートを使う予定。テスト期間でもないのに、二週間もトレーニングを休むわけにいかない。世怜奈先生の指導には期待出来ないだろうからな。自分たちで何とかするしかないさ。あの人が監督じゃ、悪いけど目の保養にしかならねえよ」

「伊織が女優以外の女の人を褒めるのって、初めて聞いた気がする」

「そりゃ、あれだけの美人ならな。欠点が見当たらないじゃん」

 赴任してきた舞原世怜奈と会った時、僕がその姿に重ねたのは『ローマの休日』アン王女の佇まいだった。外見の向こうに潜む根本に形容し難い品格を滲ませて、彼女は微笑んでいた。

 性別も、年齢も、国籍も越えて、オードリー・ヘプバーンという存在は、彼女を初めて見た人間に、ある種の畏怖にも似た感情を抱かせる。そういった不朽のムービースターと同質の光を、舞原世怜奈は纏っていたのだ。

「もしかして好きになったりした?」

「まさか。あれだけ容姿が整った人とずっと一緒にいたら逆に疲れるだろ。つーか、前に言ったよな。俺、サッカーが好きな女は、絶対、恋人にしないよ」

 自惚れるつもりはないけれど、僕も伊織も子どもの頃から女子に人気があった。

 この世界はとても単純に出来ているらしく、サッカー部のエースというのは、その要素だけでもてるらしい。人間性なんて関係ない。面白い話が出来なくても減点にはならない。僕らは陸上部よりも足が速いから、運動会のリレーでも、マラソン大会でも、群を抜いて目立ってしまう。球技大会も同様であり、女子の目を引くには、たったそれだけのことで十分だった。

 恋愛というものの本質を未だ理解するに至っていない僕らにとって、二月十四日というのは非常に憂鬱な日付である。誰の想いも受け止めるつもりがないからこそ、どう立ちまわっても望まぬ悪役になってしまう。何一つ罪を犯していないのに、女の子を泣かせてしまう。

 いつかのバレンタインデーに、伊織はこんな風に言っていた。

『俺、サッカーが好きな女子とは絶対に付き合わない。あいつら俺のことなんて知らねえくせに、何で死ぬまで好きとか、全部が好きとか、言えるんだよ。俺を好きなんじゃなくて、サッカーが上手い奴が好きなだけじゃないか。女の告白なんて信用出来ねえ』

 今思えば、それは子どもの極論に過ぎなかったようにも思う。けれど、そういう安易な不満を抱いても仕方がないほどに、伊織と僕は望まない恋愛の渦中に何度も巻き込まれ、時にこちらが傷つくような嫌な想いを経験してきた。

「圭士朗さんみたいにさ、誰か一人の女を好きだって断言出来たら格好良いと思う。でも、俺にはまだ無理そうだ。放課後とか休日に練習もせずにデートに出掛けるなんて想像も出来ねえもん」

「伊織らしいと思うよ。そういうの」

 それでも、いつか、僕らも誰かに恋をするのだろうか。

 ダニエルがメロディに夢中になったように。

 スカーレットがレット・バトラーにどうしようもなく惹かれたように。

 いつの日か、こんな僕らでも誰かを……。


「放課後の練習場所、教室に戻ったら圭士朗さんにも伝えておくよ」

 部活動停止期間中、伊織は他の一年生を誘って自主練習を行っている。三馬鹿トリオは毎日、遊び歩いているらしいが、人間性は実力と比例しない。伊織に賛同する生徒も少なからずいる。

「時間は有限だからな。サボタージュしている暇なんかないんだ。優雅がフィールドに帰って来る頃には、遜色ないレベルにまで成長しといてやるよ」

 屈託ない笑顔を向けられ、再び、胸が捩じれて軋む。

 今、僕の制服のポケットには、サインをした一枚の退部届が入っている。

 ずっと考えていた。高校生の間は競技に戻ることが難しい。回復を果たしても、これまでと同様に動けるかは分からない。それが僕を取り巻く現実であり、怪我を誤魔化して無理を続けた愚かな男が買い取った無残な今である。

『サッカーを好きな子が、肩の力を抜いて純粋に楽しめる。そういう部活にしたいの』

 世怜奈先生の言葉通りの風景が部に実現したとして、心はいつまで耐えられるだろう。

 伊織に誘ってもらえたあの日から、いつだって純粋にサッカーに夢中だった。ただ、大好きという気持ちだけを動機にして、フィールドで走り続けていた。アイデアも、情熱も、縦横無尽に心を捉えていた。ボールを蹴っている時だけは、『可哀想な子ども』から解放されていたのだ。

 ……でも、もう、すべては過去の物語だ。

 いっそのこと部から去った方が楽になれるんじゃないだろうか。部活動停止期間が刻々と経過していく中で、そんな風に考えるようになっていたし、疑念を脳裏から振り払えなくなった昨晩、とうとう退部届にサインをしてしまった。

 僕がサッカーをやめるなんて言ったら、伊織は間違いなく胸を痛めるだろう。

 どんな選択肢を選べば、自分自身と友達を傷つけずに生きていけるのか。そんな単純な問いの答えが、こんなにも考えているのに見つからない。


 葛藤に苛まれるばかりの夜を越えて、感情さえも飽和しかけた、ある日のお昼休み。

「待って。高槻君」

 昼食を終え、廊下に出たところで不意に声をかけられた。

 振り返ると、教室と教室を繋ぐ柱の陰に隠れて、一人の少女が立っていた。暴力事件への審判が伝えられた日の放課後に、視聴覚室に同席していた少女だった。

 確か伊織のクラスに、東京の高校から編入してきたという同級生。

 その彼女が何故、今、僕の名前を……。




 対峙する楠井華代は、とても小柄な少女だった。

 あごの辺りで切り揃えられたボブカットが顔の輪郭を隠している。何処かで転んだのか、スカートの下に覗く膝に、絆創膏を二枚貼っていた。

「お昼休み、時間ってある?」

「……特に予定はないけど」

 残暑の厳しい九月頭であるにも関わらず、彼女が着用しているのは長袖だった。ワイシャツから覗く手首や指先は、驚くほどに細い。

「じゃあ、ついて来て。話がある」

 ほとんど感情も込めずに告げると、彼女は返事も聞かずに廊下を歩き出した。

 単純に歩幅が狭いということではないだろう。彼女が妙にゆっくり歩くのは、松葉杖をつく僕を気遣ってのことだろうか。


 連れて行かれたのは一つ下の階にある進路指導室だった。解錠されていた室内に、彼女はノックもせずに入っていく。生徒が私用で使える教室ではないが、一体何なんだろう。

 誰の姿もない進路指導室の中央で、会議用の折りたたみテーブルがスクエアを作っていた。

「話って言うのは?」

 彼女の視線が下がる。

「足の状態はどう? 怪我、してるんでしょ?」

「芳しくはないかな。一ヶ所だけじゃないんだ。断裂した靭帯は時間と共に回復していくだろうけど、関節の方はいつ治るかも分からない」

「そう」

 同情するでも、心配するでもなく、彼女はそっけなく呟いた。

「そんなことを聞きたくて、ここまで連れて来たわけじゃないよね。用件は何?」

「世怜奈先生は高槻君がもうフィールドに戻れないと言っていた。その話は本当?」

 あの日、彼女は先生のサポート役のようなことをやっていた。転校して来たばかりのはずだが、二人にはどんな接点があるのだろう。

「そうだね。医者にはその可能性が高いって言われてる」

「じゃあ、君はこれからどうするの? それでもサッカー部に残る?」

「僕にしたかったのは、その話?」

 彼女は小さく、こくりと頷いた。

 赤羽高校サッカー部は伝統的に、女子マネージャーを採用しない。チームをサポートするのは、ベンチ外の生徒の役目である。プレイヤーとして復帰出来ない以上、僕の選択肢は二つに一つしかない。マネージャーとなってチームに残るか、退部するかだ。

 フィールドへの衝動を噛み殺してチームを支えるなんて出来るとは思えない。彼女の質問の意図は分からないけれど、隠す理由もない。

 素直に想いを告げようとしたその時、進路指導室の扉が開いた。

「ごめんねー。私、ご飯を食べるのが遅くて」

 そんな言葉と共に室内へ入って来たのは、新顧問の舞原世怜奈だった。

「お、もう揃ってるね。じゃあ、早速、本題に入ろうか」

 世怜奈先生は僕に笑顔を向ける。

「優雅が残ってくれて良かった。上級生からも一目置かれている君がいれば百人力だ」

「先生、実はまだ……」

 楠井華代は何かを訴えようとしたが、そのか細い声は届かない。

「もう自己紹介はした? 華代は東京から引っ越して来たんだけど、まだ友達が出来ていないんだって。優雅も仲良くしてあげてね」

「……あの、すみません。話がよく見えないんですけど」

 僕の戸惑いに気付き、先生はしまったとでも言わんばかりの顔で口元を押さえた。

「あ、ごめん。順を追って説明しなきゃだよね。じゃあ、結論から先に言おうかな。これは華代にも話してなかったことなんだけど、笑わないで聞いてね」

 照れ隠しのように一度微笑んでから、世怜奈先生は青天の霹靂となる言葉を告げる。


「私、将来的には日本代表監督になろうと思うんだよね」


 今、僕は一体どんな顔をしているのだろう。鼓膜に飛び込んできた言葉の意味が理解出来ない。

「……すみません。何の代表の話ですか?」

「え、普通にサッカーの話だけど。女性初の日本代表監督を目指しているの。もちろん男子の」

 額に手を当てて頭の中を整理する。導き出せる回答は一つだけだった。

「……先生は今、冗談を言っておられるんですよね?」

「私は冗談なんて言わないよ。もう少し正確に言おうか。日本代表監督はあくまでも通過点なの。本当の夢はその先にあって、私、いつかプレミアリーグで指揮したいんだよね」

 駄目だ。完全に話についていけない。彼女は暑さで頭をやられてしまったのだろうか。

「何が言いたいのか分かりません。サッカーの監督を目指しているのなら、どうして高校教師をやっているんですか? 関連性が感じられません」

「そうかな。考えてみて。例えばJリーグで監督をやっているのは、どんな人たち?」

「元プロの人たちじゃないですか。引退した後でライセンスを取って、コーチとかそういう役職を経験した後で、監督になったんだと思いますけど」

「それが一般的なルートだよね。でも、私は運動神経が鈍いの。理屈は分かってるんだけど、身体が上手く動かなくてさ。そもそもプロなんて目指そうと思ったこともない。だけど、どうしても監督がやりたいの。だってサッカーが大好きだもん。一度きりの人生、最高峰の舞台を目指して戦ってみたい。だから考えたんだ。どうすれば夢を叶えるためにステップアップ出来るかって。その結果、辿り着いた答えが、高校教師としてサッカー部の監督になることだったの」

「そこが分かりません。確かに先生はうちの部の監督になれましたけど……」

「今、最も注目を浴びるサッカーのコンテンツは日本代表戦だよね。その次はJリーグで、天皇杯やナビスコカップも決勝戦ならテレビ中継される。じゃあ、その次は何だと思う? J2? J3? JFL? もちろん違う。答えは全試合が地上波で放送される冬の高校選手権で間違いない」

 確かに大したニュースにもならない夏のインターハイとは異なり、同じ全国大会でも、冬の選手権は特別番組が作られるくらいに注目されている。

「高校選手権で結果を残せば、とてつもなく大きなインパクトを世の中に残すことが出来る。勝負の世界は結果がすべて。圧倒的な成績さえ残せば、経歴も性別も関係なくなる。そうやってプロクラブの監督の座にさえ滑り込めれば、目の前の勝負に勝ち続ける限り、ステップアップも続くの」

「何だか途方もない話ですね」

「そうかな。私は凄く現実的な話をしているつもりだよ。プロになれなかった人間には、時間が沢山あるの。ジョゼ・モウリーニョの経歴を知っている? 彼は世界最高の監督の一人だけど、選手としての自分にすぐに見切りをつけたからプロとしてのキャリアがない。でも、そのお陰で早い段階から多くの経験を積んでいる。母国でアシスタントマネージャーを始めたのは二十九歳の時だし、三十七歳でトップクラブの監督に就任している。選手としての才能と監督としての才能は別物だしね。頭を使えば道は切り開ける。人生ってそういうものだよ」

 彼女が何処まで本気で言っているのかは分からないけれど……。

 世怜奈先生はまだ二十五歳だ。例えば十年間、高校で指揮を執ってから別のステージへ移行したとしても、まだ監督としては圧倒的に若輩である。

 Jリーグの最年少監督記録は、開幕元年の一九九三年にヴェルディ川崎を率いた松木安太郎の三十五歳だ。当時は監督ライセンスの取得が今よりも容易だったと聞くが、彼を基準にしても、まだ十年という時間的猶予がある。

「じゃあ、うちの高校に赴任したのは偶然ではないんですか?」

「芦沢先生って来年度で定年だったでしょ。二年待てば監督の座が空くじゃない。ちょっと汚い大人の話になるけど、ママに頼んで、無視出来ない額の寄付金と共に、理事にコンタクトを取ってもらったんだ。そこから先は皆が知っている通り。休職中の先生に代わって赴任することになって、サッカー部の副顧問にも就任出来たってわけ」

 世怜奈先生の名字は、あの『舞原』である。新潟に暮らす者なら知らない者はない名家だ。

 舞原一族が私立高校に多額の寄付金を寄せたなんて、別に不思議な話でも何でもない。一族の子どもが通っているのかもしれないし、寄付金を募るのもよくある話だ。私立高校が裏金のような形で何らかの意思を偏在させるなんて、聞き飽きた醜聞でもある。

「高校サッカーについて、芦沢先生のサポートをしながら勉強していくつもりだったの。でも、その先生が倒れてしまった。こんなことになるなんて夢にも思っていなかったけど、起きてしまったことは変えられない。それに、この状況は望むところでもある。理不尽な練習風景を黙って見ているのも辛かったし、早く指揮を執りたかったからね」

 純真を具現化したような眼差しが突き刺さる。

「私は誰よりもサッカーを愛している。だから、ここにいるんだよ。皆が素人に指導されたくないって思うのも無理はない。でも、私は勉強してきた。監督になるために死ぬ気で準備してきたよ。信頼はこれから結果で勝ち取っていく。だから信じて欲しい。優雅にも力を貸して欲しい」

 口調は穏やかなのに、彼女の言葉には溢れんばかりの強い意志が内在していた。

「サッカーを続けて良かったって絶対に思わせるから。やっぱりサッカーは素晴らしいんだって君を安心させるから。だから一緒にレッドスワンで闘おう」

 迷いなき瞳で、世怜奈先生は僕にそう言った。


「……あの、先生。一つだけ、先に言わせて下さい」

 か細い声で口を挟んだのは楠井華代。

 小首を傾げる世怜奈先生に、言いづらそうに彼女は告げる。

「彼に部活動を続ける意思があるのか、まだ確認していないんです。聞こうと思った矢先に、先生が入って来てしまったので」

 ……そういうことか。ようやくおぼろげながら種々の謎が解けていく。

 過程は分からないが、世怜奈先生は楠井華代をマネージャーとして誘った後で、僕にも声をかけることにしたのだろう。しかし、教師には本音を話せないかもしれない。ナチュラルな気持ちを確かめるため、先生は楠井華代にその任務を託したが、タイミングの相違によって事態は確認作業を経ぬまま進んでしまったのだ。

「……僕はサッカー部を辞めようと思っていました」

 ポケットに忍ばせていた署名済みの退部届を取り出す。

「このまま残っていたら、いつかサッカーを嫌いになってしまうかもしれない。そう思ったら怖くなりました。フィールドにすら立てない状態で、サッカーを好きでい続ける自信がないんです」

「じゃあ、こうしよう。これは一旦、私が預かるわ」

 僕の手から退部届を取り、世怜奈先生は優しく微笑んだ。

「三ヶ月だけ時間を頂戴。三ヶ月経っても今と同じ気持ちだったなら、その時はこれを受理する。でもね、きっと君は気持ちを翻すよ。だって、ボールを蹴ることが出来なくても、サッカーを楽しむ術は沢山あるんだもの。事実、私は笑っちゃうくらいに運動神経が鈍いけど、誰よりもサッカーを愛しているしね。私が優雅の憂鬱を幸福に変えてあげる」

 幾ら勉強したと言っても素人は素人だ。優秀なプレイヤーが優秀な監督になれるとは限らないように、努力だけで正しい監督になれるわけでもない。情熱が空回りすることもある。

 それでも、流され続けて生きてきた僕に、これだけ強い勧誘の言葉を否定する気力などあるはずもなかった。

「……分かりました。期限付きで良いのなら、マネージャーの仕事を引き受けます」

 僕の言葉を受けて、世怜奈先生はきょとんとした眼差しを見せた。

「そっか。もう一つ勘違いがあったんだね。私、優雅のことをマネージャーにするつもりなんてないよ。だって華代が一人いれば十分だもん」

「違うんですか? じゃあ、僕は一体……」

「優雅には一緒にチームの指揮を執ってもらうの」

「……指揮?」

「理由は二つある。私にはプレイヤーとしての経験値が絶対的に足りない。よって主観と想像に頼った指導になってしまう危険性があるけど、君がいれば机上の空論を避けられる」

 普段はふわふわしているくせに、一度スイッチが入ると彼女の話は止まらない。

「何より最大の理由は、君がフィールドで誰よりも輝いていたことにある。サッカーでは身体能力より知性の方がずっと重要よ。抜群の運動神経があったからじゃない。誰よりも判断力に優れていたから、君はフィールドで輝いていたの。つまり、間違いなく優雅の中には、どんな人間にも負けないセンスが眠っているってこと。その能力はフィールドに立てなくても発揮することが出来る。膝が壊れたくらいで絶望するなんて有り得ない」


 どうしてだろう。

 何故なんだろう。

 耳朶に触れる彼女の言葉、今、そのすべてが僕の身体に溶けていく。


「高槻優雅、君はいつか、きっと誰よりも偉大な指揮者になる」


 舞原世怜奈に真っ直ぐ見つめられて。

 あの日、あの時、あの場所で、僕は確かに……。


 もう少しだけ、サッカーを愛してみようと決めたのだ。