第三章 冬の訪れ



 夏は暑く冬は寒い京都。それは当然、『風の通り路』にも平等に訪れる。

 冬の寒風が吹きすさぶ中、夏と変わらず戸全開のこの店には、これでもかと冷気が流れ込んできていた。

 しかし、和真はそんなことも意に介さず、冬の風が鳴らす風鈴の音色を聞いてはうっとりとした顔をしている。

「はぁ…………やっぱりうちの子たちは、どれもいい子ばっかりだなぁ…………聞いているだけで、気持ちがすぅっと涼しくなるよ」

「おい…………季節を考えろ。これ以上、涼しくなる必要がどこにあるんだよ」

 隆司は寒さに弱いのか、足下にはストーブ、膝の上には湯たんぽ、さらに室内だというのにダウンコートと耳当てまでつけている。

「いいじゃないの。冬の寒空の下、厚着をして、響く風鈴の音色を聞く。これぞ日本人の贅沢ってやつだよ。うんうん」

「…………そんなことをするのは和真くらいだぞ」

「えー、そんなことないだろ。冬場に食べるアイスと同じくらい冬風鈴はメジャーだろう」

「……それがメジャーなら、うちがこんなに閑古鳥が鳴いているはずがないけどな」

「まぁな。隆司の言うことには説得力があるなぁ。ははは」

「はぁ……」

 和真の虚しい笑いが響き、隆司のため息が応える。そして、まるでそのやりとりを聞いて笑ってでもいるかのようなタイミングで、店中の風鈴がりんりんしゃらりんと順繰りに音色を奏でる。それはまったくいつも通りの『風の通り路』の風景だった。

「アイスの話をしてたら、甘いものを食べたくなったな」

「急に何だよ。じゃあ、明子さんのところでも行って来いよ」

「ん? んー。行くなら隆司が行けよ、うん。そのほうが明子が喜ぶしな」

「和真が店に来たほうが明子さんは喜ぶだろ。最近あっちの店に行ってないだろ?」

「オレたちは幼馴染なんだから、今さら会ってどうこうとかはないのだ! それよりも、明子は隆司に会いたがっているに決まってる! 四の五の言わずにアイスを買いに行ってこい!」

「そうやって買いに行かせたいだけだろ?」

 そんなことを隆司がぼやいていると、不動産屋――通称パンダ屋の店主が、のっそりと店に入ってきた。

「もうすぐ雪が降るって季節なのに、相変わらずホットで元気だなぁお前さんは」

「あれ、仁さん。珍しいなうちに来るなんて。もしかして仁さんも、冬風鈴の魅力に目覚めたのか?」

「冬風鈴? はぁ? なんじゃそりゃ――ああいや、説明はいらないぞ。絶対長くなるしな」

 そう言って手をはたはたと振ると、パンダ屋店主は明子の店の紙包みを取り出した。

「どうせ暇してるんだろうから、たまにはお前たちと茶でも飲もうかと思って来たんだが――やっぱり暇そうだな」

「客はいないが暇ではない! ただ、することがないってだけだ!」

「わかったわかった。どうでもいいから、早くあつーいお茶でも淹れてくれよ。この店は寒くてかなわねぇ」

「だとさ。隆司、お茶!」

 寒くて文句を言う気力もないのか、隆司は白いため息をつきながらのそのそとお茶を淹れに行き、それを運んできた。

 パンダ屋店主が持ってきてくれたのは、白くて大きな大福だった。まるで雪を握ってそのまま固めたような滑らかな生地に、ずっしりと食べ応えがありそうな重量感。

 和真はさっそく手に取ると、大口開けてかぶりついた。

「うー、やっぱ冬はあんことお茶だよなぁ。日本人に生まれてよかったって、しみじみ感じる」

「だなぁ。ここの大福は、やっぱいつ食っても美味いぜ」

 和真とパンダ屋店主がうんうんと頷いている横で、隆司はもそもそと大福をかじっている。頬にかすかな赤味が戻ったあたりを見ると、甘い物を食べて多少は元気になったらしい。

「しかしなぁ……なんだかんだで、もう二十年か。京香ちゃんと桂輔がまとめて事故に遭っちまった時はどうなることかと思ったが、まさかここまで店をつぶさずにこれるとはなぁ」

 パンダ屋店主は、感慨深そうに店内を見渡した。

 突然出た両親の名前に、和真と隆司はぴくりっと反応した。

「…………まぁねぇ。父さん母さんがいなくてもさ、ほら、ここにはたゆまぬ努力を健気に重ねるオレと、確かな風鈴づくりの腕をもった隆司がいたからさ」

「まぁ、冗談抜きでそうなのかもな。京香ちゃんと桂輔が大切にしていたこの店が潰れちまうのはオレたちも悲しかったからな。こうして続いてくれて本当に嬉しい。本当になぁ……」

 そう呟くとパンダ屋店主は、若干目じりを赤くしたまま、何かをごまかすように猛然と大福にかぶりついた。

「仁さん。涙腺弱すぎだろ? それに、あんまり調子に乗って食べてると、また医者に怒られるぞ」

「うるせー。オレの唯一の楽しみに口を出すなっての」

 パンダ屋店主は、恥ずかしそうな顔のまま大福を頬張る。

 その様子を見た和真は、これぞ満面の笑みと言いたくなるような表情で言った。

「ま、安心してくれて構わないよ。オレと隆司がいる限り、この店がなくなるなんてことはないからさー。両親との思い出がほとんどないオレたちにとって、この店は唯一、父さん母さんが遺してくれたもんなんだからね。まぁ少なくとも、仁さんがよぼよぼの爺様になるくらいまでは健在だよ」

「ほぅそうかい。オレは少なくともあと五十年は、よぼよぼの爺様なんてものになる気はねぇから大変だなぁおい。こんな小さな店が五十年ももつのかね」

「余裕……って言いたいところだけど……頑張らないと……。あ、仁さん、もう少し早くよぼよぼになれない?」

 和真の無茶な要求をパンダ屋店主は、「ふざけんな」と笑い飛ばす。その大きな笑い声に応えるように、周囲の風鈴もチリリンと音を鳴らす。その音色は不思議と、冬の凍て風で鳴った音よりも、暖かく聞こえた。

「あぁ、そう言えば和真よ。この大福を買った時、明子ちゃんのご両親に聞かれたぞ。あんまり最近、店に顔を見せないけど、大丈夫かって? 風邪とか引いてないか? ってさ」

 パンダ屋店主の問いかけに和真は自信満々に答えた。

「オレも隆司も身体だけは丈夫だからな。冬の寒さなんて余裕ってもんですよ。ってか、珍しいな。今日はおじさんたちが店に出てたのか。明子はどうしたんだ?」

「風邪をひいて寝込んでるんだとよ。だから、お前たちのことも心配になったんだろう」

「なっ、マジか!」

 和真は勢いよく立ち上がると、そのまま走り出そうとした姿勢のままで、ぴたりと止まった。

「…………いや、まぁたかが風邪……だよな。うん。焦ることはない、うん。隆司。お前がお見舞いに行ってやったらどうだ? きっと明子は喜ぶぞー」

「…………別にいい。寝込んでるってんだから、今行ったらかえって迷惑になる」

「……う、ん。そうか。うん、そうだよな、うん」

 そう言って和真は一度座ったが、またすぐに立ち上がった。

「あ、ああそうだ。こうしていつまでも休憩してばかりもいられないよな、うん。隆司。オレはちょっと営業に行ってくるから、留守番頼んだぞ」

 言うが早いか和真は、上にコートも着ずに店を出て行った。

「……なんだありゃ? 営業に行くっていうのに、荷物も持たねぇで出て行ったぞ」

「…………まったく、わかりやすい奴……」

 隆司は呆れたようにため息をつく。

「和真はですね、明子さんのことが好きなんですよ」

「ああ。そんなの昔から見てれば誰でもわかるぞ」

「で、和真は勘違いしてるんですよ。どうやら、俺が明子さんのことを好きだと思い込んでるみたいで」

「え、そうなのか?」

 隆司は軽く肩をすくめた。

「俺は違うんです。でも、和真は、俺が明子さんのことを好きで、明子さんも俺のことを好きだと思いこんでるから、あんな変な行動取るんですよ。本当は明子さんのことが心配で仕方ないくせに」

「はぁ…………相変わらず、面倒くせぇ奴だなぁ……あいつもお前も」

「面倒なのは和真だけですから」

 そう言って、隆司は残りの大福を口に放り込んだ。

「……でもな、そういう面倒なことになってんのに、誤解を解こうとしないお前も、十分に面倒な奴だよ」

 パンダ屋店主のそんな呟きは、白い湯気とともにぷかりと消えていった。


◆◆◆


 連日続いていた寒気がいよいよ本気を出し、京都の街に白いものがちらほら降り始めた。子供は元気に外ではしゃぎまわり、大人は電車の運行状況を確認しては、大きくため息をつく。

 そんな光景があちこちの家庭で繰り広げられていたであろう冬の朝。世間はどこか浮ついた空気だというのに、『風の通り路』に流れる雰囲気はまったく変わらない。

 退屈だなぁとぼやきながらテーブルに突っ伏す和真。その横で「退屈なら営業にでも行って来い」と冷たく言い放つ隆司。そしてそれに対して文句を返す和真。

 誰も客が訪れなければ、このまま永遠に続けられるのではないかと思うほど、不毛な会話が繰り返されている。下手をすればこのまま一日が過ぎるなんていうのもざらにあるほど、冬の『風の通り路』は閑散としていた。

 だがこの日は、幸いにしてそんな不毛な一日とはならずに済んだ。

 和真たちが実のないやりとりを続けていたその時、店の前で一人の女性が立ち止まった。

 その女性は、店の中をじっくり見た後、大きく頷き中に入ってきた。だが二人は、意味のないやりとりが白熱していて、まったく気がつかない。

「失礼致します。こちらは『風の通り路』という風鈴屋さんで間違いなかったですよね?」

 突然の来客に、和真は即座に反応した。ぴたりと言い争いをやめると、にっこり微笑む。

「えぇえぇ、いかにもうちが『風の通り路』です。表の看板にもそう書いてありましたでしょう?」

「他に近所に似たような店があったりは?」

「私が記憶する限り、『風の通り路』という名前の素敵な風鈴屋さんは、この近所にはありませねぇ」

「そうですか」

 その女性はきりっとした印象を人に与える人だった。縁なしのメガネにスーツをきっちりと着込み、手にはわざわざ脱いだコートを持っている。

 特に印象的なのはその目で、眼鏡の奥からまるで射抜くような視線を二人に飛ばしてくる。本人にそんなつもりはないのだろうが、目の前に立つと居住まいを正したくなるようなそんな厳しい視線だった。

 総括すると、今も外で吹きすさんでいる凍て風を思わせるような、そんな印象の女性だった。

「今日はどのような風鈴をお探しでしょうか? 見た目が美しいもの、音色が心地好いもの、各種取り揃えておりますよ。そうですね、お客様だったら……例えば、こちらの雪の結晶が刻まれた風鈴などは――」

「いえ、結構です。今日は風鈴を買いに来たわけではないので」

 出端を挫かれた和真だったが、まったく怯むこともなくにこにこと微笑む。

「では、どのようなご用事で? 一般的に、風鈴屋に風鈴を買いに来る目的以外でいらっしゃるお客様は、とても珍しいのですが……」

「近くに来る用事があったものですから、一度お礼をと思い伺ったのです」

「お礼、ですか。……失礼ですが、お目当ては隆司ですか?」

「「は?」」

 隆司と女性が同時に驚く。

「いえ、結構多いんです。雑誌で隆司の写真を見ていらっしゃる女性のお客様が。もちろんお客様は大歓迎なのですが、時折、その……少々行き過ぎた感情を隆司に抱く方もいらっしゃってですね。そういう方には、隆司は心に決めた相手がいるからとお伝えするようにしているのですよ」

「おい、和真、何言ってるんだよ」

 女性はふっと微笑んだ。

「いけませんね、客に対して最初から問い詰めるような言動をしては。弟さんを大切に思っているのは理解できますが……」

「すみません、お客様……こいつはどこかに行かせますから」

「おい、隆司、オレはお前のことを思ってだなぁ」

「聞いていた通り、変わった方なんですね」

 そうぴしゃりと言った後、その女性は軽く頭を下げた。

「聞いていた通り?」

「娘がお世話になったみたいなので、お礼に伺ったんです」

「娘……さん?」

「玲奈と言います。あの子、名乗らなかったのかしら。秋に修学旅行でこちらに来た際に、あなたにとてもお世話になったと娘から聞いています」

 和真はようやく得心がいったというように、ぽんと手を打った。

「ああ! あのお母さんに冷たく拒絶されたってヘコんでいた女の子! ……あ、ご本人を前に失礼を……」

「おい和真! 本当に申し訳ございませんお客様。ほら、謝れって」

「痛い痛い」

 兄に頭を下げさせようとする弟と抵抗する兄の姿を見て、女性は厳しい表情を崩し、ふっと苦笑した。

「いえ、確かにあの子に冷たくしたのは事実ですから」

 玲奈の母親は鋭い眼差しを甘やかに緩めた。

「早く新しい生活に慣れて欲しいと思って厳しく当たりましたが、失敗だったようです。逆にあの子に変な誤解を招いていたようで……。誤解を解いた後にあの子に叱られてしまいましたよ。お母さんは見た目がきついんだから、言葉くらい意識して優しめにしないと私みたいに誤解されちゃうよって」

「なるほど。娘さんは慧眼ですね――って、また、すみません」

 玲奈の母親の口角が少しだけ上がった。

「本当に……娘から聞いていた通りですね。口さえ開かなければ、見た目はいいのにもったいないって」

「え? なんだか褒められているようなそうじゃないような……でも、客商売である以上、営業トークをしないわけにもいきませんしねぇ」

「フフッ、本当に営業トークになっているのかしらね」

 そんなことをのんびり話していた和真は、玲奈の母親がずっと立ちっぱなしだったことにようやく気がついた。

「これは気がつきませんで。今さっそく、うち専属のお茶係にあつーい緑茶を淹れさせますから。というわけで隆司くん、お茶を」

「何がというわけでだ。たまには自分でやれ」

「でも今、立ち上がってたじゃん。元々、淹れる気だったんだろ?」

「たとえそうだとしても、お茶係って何だよ? お前には出さないからな」

「なんだよもう。たかがお茶を一杯淹れるってだけなのに、大袈裟だなぁ」

「はぁ……いい加減、店のために動けよ」

「ほらほら、文句を言うなって。お客様がお待ちだから行った行った」

「和真の分は淹れないからな」

 兄弟二人でそんな不毛なやり取りを続けていた間、玲奈の母親は店に多数飾られている風鈴を一つ一つ丁寧に眺めていた。その表情はとても真剣で、眼鏡の奥には鋭い光が戻っている。

「あ、お客様。そちらの風鈴が気になりますか?」

「……あの子に雁の風鈴をもらった時から気になっていたんです。こちらの風鈴は普通のものと違うようですね。どちらかと言うと、薩摩切子に近い感じで」

「お客様お詳しいですね。そうなんです、うちの隆司は昔イタリアで修行をしてきたガラス工芸の天才なんですよ」

「イタリアですか、なるほど、道理で……」

 顎に手を当て何か考え出した玲奈の母親を前にして、和真と隆司は顔を見合わせた。

「こちらの風鈴は、どこかに卸していたりするのですか?」

「卸す? ええ、まぁ風鈴祭りが開催される時などは、うちからも出品したりしますが、特定のどこかに卸していたりはしていません……なぜです?」

「それはよかった。もしよろしければ、こちらの風鈴をうちで取り扱わせていただけないかしら?」

「うち……とは?」

「すみません。私、こういう仕事をしています」

 玲奈の母親は名刺を取り出して和真に渡した。

「……海外の輸入雑貨を扱う会社、ですか?」

「ええ。私はそこでバイヤーをやっています。今回は、事情があって海外に輸出できる日本の工芸作品を探していたのです――座ってもよろしくて?」

「あ、はい。もちろんです。どうぞ」

 座るとさっそく玲奈の母親は鞄からタブレット端末を取り出し、資料を表示した。

「つい先日弊社は、懇意にしている海外の企業から、日本の伝統工芸品を自分の国でも扱ってみたいけど、何かいいものはないかと打診を受けました。それまでは海外からの品を輸入するだけだったうちにとっては、大きな転換となる重大な仕事なんです」

「はぁ……」

 玲奈の母親の勢いに若干押されながら、和真はわかったようなわからないような顔で頷いた。そんな中で、隆司が二つのお茶を持ってきた。一つを女性の前に、もう一つを自分の前に置いた。

「伝手がないので、ひたすら足で探していました。提灯、屏風、番傘。いくつも工房を見て回りましたが、その中にピンとくるものがなくて。海外で受け入れてもらうには、日本らしさを強調することも大切ですが、それ以上に向こうの文化にも受け入れてもらえるような『馴染み深さ』が必要なんです。日本で食べる外国の料理も、日本風の味付けにしたりしますよね? そういうことです」

「なるほど」

 それまで若干引いていた和真だったが、急に目を輝かせて身を乗り出した。

「確かに海外にも、ウィンドベルと呼ばれる風鈴によく似たものはありますね。風を楽しむという文化は万国共通ですから」

「ええ、そうなんです。玲奈からもらった、こちらで作られた雁の風鈴を見た瞬間にピンときたんです。日本の伝統工芸品でありながらも、どこか西洋風の雰囲気も漂う精巧な作り……もうその時点で、予感はあったのですが、実際にこのお店の風鈴を見せていただいたら、その予感は確信に変わりました。この風鈴なら間違いないと!」

「嬉しいです。本当に嬉しい。うちの子たちをそんなに評価してくださる人がいるなんて……隆司も嬉しいよな?」

 二人は今にも握手でも始めそうなほどに意気投合している。

 隆司はそんな二人を冷めた目で見つめながら、お茶をすすった。

「それでどうでしょう? こちらの風鈴を、私に任せていただけないでしょうか」

「ええ、もちろん! 自分としては願ったりかなったりですよ!」

「おい、和真!」

 そのまま契約書にサインでもしそうな勢いだった和真を隆司が止める。

「話をよく聞かずに安請け合いするな。何があるかわからないだろ」

「おい、失礼だろ! あの女の子のお母さんなんだから、悪い人のはずがない。それにうちの子たちを気に入ってくれた人なんだぞ!」

「そんな理由だけで商売がうまくいくと思ってたら甘すぎる。人を信じるなとは言わないが、もっと慎重になってくれよ」

「お前は人を信じることに臆病すぎる。お客様に謝れ」

「いえ、私は別に」

「隆司、お前が変なこと言うから!」

「和真が甘すぎるからだろ!」

 急に言い合いを始めた二人を見て、玲奈の母親はくすりと笑った。

「二人ともごめんなさい。私が悪いの。説明の順番を間違えましたね。自分の熱意を伝えようと思って勇んでしまって」

「いえ、自分こそすみません。失礼なことを言って……」

「隆司がすみません……後でしっかり言い聞かせておきますから」

 横目で見る隆司の視線を気にせず、和真が頭を下げる。

「それでは改めまして……契約のお話をさせてもらいますね」

 そう言って玲奈の母親は、ファイルケースから書類を取り出し並べた。

 二人は一つずつ説明を受けながら、書類を確認していった。見慣れない文章ばかりで手間取ったが、玲奈の母親は丁寧にわかりやすく説明してくれたため、内容は十分理解できた。

「なるほど……お話はわかりました。要するにうちの店は、特別に何かをする必要はないというわけですか」

 和真の言葉に玲奈の母親は頷いた。

「ええ。とりあえずはこのお店にある品を先方に見せて、それで気に入っていただければ本格的にこのお店の風鈴を輸出することになります。その際、ある程度の量を供給する必要がありますが…………その点は、何とか先方を説得しましょう。職人が手作りをしているから量を供給できない旨を説明すれば大丈夫のはずです」

「…………すみません、話も聞かず疑って。うちにとってはありがたいお話です」

 さすがの隆司も納得したのか、微かに頬を紅潮させている。

 もしこの話がうまくいけば、『風の通り路』の経営状況は一気に回復する。海外との仕事なら、夏だけでなく他の季節にも安定供給を見込めるようになる。

 経済的な面だけではない。もしもこれを機に隆司の風鈴が海外で受け入れられれば、もっと大きな仕事が舞い込むことだろう。それは確実に、二人の成長にも繋がる。

「ですが、一つだけ私からお願いがあるんです」

 玲奈の母親は二人を正面から見つめた。二人もその視線を正面から受け止める。

「先方に気に入られれば、本格的に海外で販売するための風鈴を制作する必要があります。もちろんこのお店にあるものでもいいのですが、やはり先方と直接ディスカッションをしてよりよいものを作っていただきたいのです」

「ふむふむ。なるほど。『馴染み深さ』ですね。ただ向こうに持っていくだけじゃ芸がない。よく話し合いをして、よりよいものを作りたいのはオレも一緒ですから」

 和真はうんうんと頷きそう言った。

「……そのためには、ぜひ隆司さんにフランスまで一緒に来ていただきたいのです」

「ええ、うちの隆司でよければどうぞ、どうぞ……って、え?」

「できれば数年間は、海外で先方と協力しながら風鈴を作っていただきたいのです。少なくとも、向こうでの仕事が軌道に乗るまでは」

「数……年?」

 和真は笑顔のまま固まった。隆司も顔を引き締め、話を静かに聞いている。そして、玲奈の母親を見つめたまま口を開いた。

「すみません……それは無理です。その条件は飲めません……。俺がいなくなったら、この店はつぶれてしまいます」

「…………今、この店には多くの風鈴がありますよね? 数年くらいならそれを売っていれば大丈夫じゃないかと」

「新作を作らないんじゃ、こんな店すぐにつぶれてしまいます。数は少ないけど、毎年、新作を楽しみにしているお客様だっているんです。そういうお客様を蔑ろにはできません……。そうだろう和真?」

「ああ、そうだけども……」

 玲奈の母親は二人の反応に眉根を寄せた。

「駄目……ですか。わずか数年だけです。一度軌道に乗るまでで構いません。あるいはそうですね、海外で仕事をしながら、こちらの作品を作り続けるという方法もあります」

 玲奈の母親の提案に、隆司はきっぱりと言葉を返す。

「すみません……やっぱりこの話はなかったことに……。こんな小さい店に置いてある風鈴だからって侮ってもらっちゃ困ります。一つ一つ熱心に作っています。そんな片手間で作れるほど生易しいものじゃありません」

 無表情の中にある怒りを感じ取ったのか、玲奈の母親は静かに潔く頭を下げた。

 隆司のきつい物言いに、和真は不安そうな表情で二人のやりとりを見守る。

「すみません。決してこちらの風鈴を蔑ろにしたわけではないのです。ただ、こちらの風鈴ならばと思って、つい先走ってしまいました」

「……いえ。……興奮してすみません。こちらこそ言いすぎました。いい話を持ってきてくださったのに……。でも、俺が海外に行かずに、風鈴だけ売るっていうわけにはいかないんですか?」

「……交渉はしてみますが、難しいかと思います。先方は職人上がりの方ということもあって、何よりもまず自分たちに協力してもらえる即戦力の技術を優先すると思います。優秀な職人と侃々諤々意見を交わしながら、いいものを作りたい方たちなんです。先ほど隆司さんがおっしゃったように、先方も本気です。片手間でやって欲しくはないと思われるかと」

「……それもそうですね。こちらこそ無神経な発言でした。すみません」

 玲奈の母親は「いえ。お気になさらず」と首を振って立ち上がった。

「申し訳ありませんが、私ももう戻らなくてはならないので本日はこれで失礼いたします。この件は、いつでもお待ちしていますので、気が変わられましたらご連絡ください」

「あ、あの…………」

 一礼して、そのまま立ち去ろうとする玲奈の母親を和真が呼び止めた。

「何か?」

「……ああ、いえ……何でもありません。魅力的なお話でしたが、お受けできなくて申し訳ありません。本人の隆司がこう言う以上は、自分にはどうにもできなくて」

「いえ、ほんとお気になさらず。娘がお世話になった方とご一緒にお仕事できなくて、私個人としては非常に残念ですけどね」

 再度ぺこりと頭を下げると、今度こそ玲奈の母親は去って行った。

 残された二人は、冬の寒さの中でもいまだに冷めない興奮を持て余し、顔を見合わせた。

「おい……よかったのか。隆司にとって、決して悪い話じゃなかったと思うぞ」

「仕方ないだろ。売上を増やすことは大事だけど、そのために今までの客を蔑ろにしていいわけじゃない。それに店から離れればいいとでも思っているのか?」

「…………いや、そんなわけじゃないけど」

 ひゅるりと風が吹き込み、店内の風鈴がいっせいにしゃらりと音を奏でた。冬の風音と風鈴の音色。それらが渾然一体となったその響きは、聞く者の心を震わせるとても幻想的なものだったが、和真はそれに聞き惚れることもなく、どこかぼんやりとした顔をしていた。


◆◆◆


 玲奈の母親の提案を断ってから、数日が経った。あの時の出来事は隆司の頭の中からは消えかかっていた。

 確かに断るには、少し惜しい話ではあったが、隆司は後悔していなかった。むしろ自信すらついた。きちんといいものを作ってさえいれば、ああやって評価してくれる人もいる。

 このまま頑張り続ければ、きっといい話はやってくる。だから焦らず、自分の腕を磨いていけばいい。あの日の出来事は和真にも影響を与えたのか、この日は珍しく店にはおらず、外で営業回りをしていた。久しぶりに一人店に残された隆司は、和真がいない退屈を持て余しながら、手元の風鈴を磨いていた。

「邪魔するぞ」

 そう言って入ってきたのは清吾叔父だった。スーツ用のかっちりとしたトレンチコートは、いかにも働き者という印象を受ける、清吾叔父らしい出立ちだった。

「なんだ珍しい。あの根無し草は外出中か」

「和真の場合は、無駄に根を張ってる雑草っていう感じですけどね。和真に用事ですか?」

「あぁ、いや、別にそういうわけでもなかったんだが、お前らがどうしているか様子が気になってな」

 清吾叔父にしては珍しいとは思ったが、特に気にすることもなく隆司は椅子を勧めた。

「お邪魔しまーす。ってあらー、清吾さんお久しぶりです」

 立て続けに明子も店に入ってきた。手には自分の店の包み紙を持っている。

 明子と清吾叔父が挨拶を交わしている間に、隆司はそそくさとお茶の準備を始めた。

「明子さん、か。うちの和真たちがいつも迷惑をかけているな」

「いえいえ。私のほうこそ、いっつも迷惑かけてばっかりで」

「そちらの店はいつも通り繁盛しているようで何よりだ。うちのバカにも見習って欲しいものだよ、ほんと」

「うふふ。お褒めいただき光栄です。でも、和真くんだって、最近は頑張っているんですよ。あちこち忙しそうに走り回っているところを、何度か見かけましたし」

「ふん。行動に移るのが遅すぎるからなあいつは。これだけ切羽詰まってから動き始めているようじゃ、どうなることやら」

 あっさりと言い捨てた清吾叔父だったが、その後に続けた言葉を口にする時は珍しく嬉しそうな表情をしていた。

「まぁ、でも今回の決断は、甘っちょろいあいつにしては英断だったな。こうしてアドバイスに来てやったのに、留守なのはいただけないが」

 お茶を運んできた隆司が首を傾げる。

「決断って何がです?」

「何って、当然例のこの店の風鈴を海外に輸出するって話だろう。先方はいたく気に入ってくれて、すぐにでもお前に来て欲しいって言ってるそうじゃないか」

「……は?」

 隆司はお茶を持ったまま固まった。あまりにも突然の話に思考が追いつかないのか、お茶が載ったおぼんが傾き始めているのにも気づいていない。

「お、おい。まさか清吾叔父さん。勝手にあの話受けたのか?」

「話を聞いてなかったのか? 決めたのは和真だよ。まったく。オーナーである私に何の相談もせずに、こんな大きなことを決めるとはな。せっかくの商談をミスったらどうするつもりだったんだあいつは」

 敬語を使うのも忘れ、隆司は噛みつくような口調で言った。

「冗談はやめてくれよ。和真があんな話、受けるわけないだろ。それに断るって言ったんだ」

「断る? 今あいつが走り回っているのは、お前の代わりになるような風鈴職人を探すためだぞ? 場合によっては、私が前に言っていたように、一品一品の手作りはやめて、デザインだけ決めて海外の工場で安く仕上げるって案も受け入れると聞いている。だから今日は、発注先の工場リストを持ってきてやったんだ」

「――ふざけんなっ!」

 隆司は叩きつけるようにしてお茶を置くと、すぐにスマホを取り出し和真を呼び出した。

 和真に繋がるまでの時間すら惜しいのか、イライラした顔で歩き回る。

 ようやっと電話が繋がると、隆司は叫ぶような勢いで言った。

「和真! 今どこにいるんだ! 何勝手なことしてんだよ」

『どこって……ふっふっふ、それは言えないなー隆司くん。だが、君にとって悪いところではないとだけ言っておこう』

「ふざけるなっ! いったいどういう了見で――いや、いい。とにかく一度店に戻ってこい。話がある」

『んー、どうせそろそろ戻ろうと思ってたし』

「今すぐ戻って来い!」

 怒りを隠そうともせずに乱暴に通話を切ると、隆司は大きくため息をついた。

「俺に何の相談もなしに、あいついったい何考えてるんだよ」

 清吾叔父は意外そうな顔をした。

「お前は何も聞いていなかったのか……なるほどな。これまで二人三脚でやってきたお前に無断でこんな大きな話を進めるなんて、どうしたんだろうな」

 明子はおろおろと隆司を見ている。

「ね? ね? 帰ってきても喧嘩しないでね? 和真くんのことだから、きっと何か考えがあってのことだと思うし」

「…………」

 隆司は唇を噛み締めた。

 何も話さずに勝手に一人で動くなんていつものこと。隆司を含めいろんな人に迷惑をかけるのもいつものこと。でもこれは違う。あの話は、隆司の行く先を決める話だ。ひいては和真の行く先も決める話だ。二人の行く先を決める話だ。

 それなのに何も相談をしてくれなかった。自分を信頼して全て話してくれなかった。そのことに、隆司はただひたすら腹を立てていた。


 和真が帰ってくるとさっそく隆司は言った。

「俺が断った例の話、受けたそうだな。俺には何の相談もなく」

「例の話? あー、アレね。受けたよ、受けたとも。あんなにいい話を蹴る理由なんてないだろ? 自慢の一品を見せたおかげか、先方もいたく気に入ってくれたしな。ははは」

「和真!」

 隆司は今にも殴りかかりそうな気配で和真に詰め寄った。

 だが和真は、そんな剣幕など気にした様子もなくいつものように笑みを浮かべている。

「りゅ、隆司くん? 喧嘩はやめよ? ね? ほら和真くんも、どうして隆司くんに黙っていたのか、理由を話さないと」

 明子は必死に二人の仲をとりなそうとするが、和真はまったく無視している。

「理由? オレはここの店長で、隆司はただの店員だろう。店の方針を決めるのはオレの役目なんだから、わざわざ相談なんてする必要ないだろ」

「ふざけるなよ和真! 店長とか店員とかそんなの関係ないだろ! ここは俺とお前の店だ! 違うか!」

「正確には、清吾叔父さんの店だ。名義的にはな。オレは清吾叔父さんに雇われている店長なんだから、清吾叔父さんの方針に従うのが当たり前だ。ですよね、清吾叔父さん」

「ん、あ、ああ」

 話を振られた清吾叔父はとまどった顔をした。今まで散々自分に反抗してきた和真が、突然こんなことを言い出したのだから、無理もないだろう。

「……どうしちゃったの和真くん?」

 明子の問いにも和真ははぐらかすように笑うだけだった。

「どうしたも何も、今までのほうが異常だったんだよ。うちは風鈴屋なんだから、風鈴を売るのが仕事。そしてできるだけ安く、いいものを提供できるならそれにこしたことはないだろ? 最近の工場はすごいんだぞ隆司。パッと見、うちで作ってるのとそう変わらないものが、ごんごん大量生産されてるんだからなぁ」

「いい加減にしろっ!」

 隆司は和真を殴りつけた。

 よろけた和真が風鈴にぶつかる。

 ぶつかった風鈴が、次々に隣の風鈴へと当たっていき、いつもの統制された音とは違う、不協和音を一斉に鳴らした。

「お客さんに合った風鈴を一品ずつ手作りするのがお前のこだわりじゃなかったのかよ! たった一つだけの風鈴を売りたいっていうのはどうしたんだよっ!」

 和真は殴られた頬を撫でる。

「痛いなぁ、まったく……」

 などと言って微笑むままだった。

「和真!」

 その表情を見て隆司はもう一度拳を固めた。

「やめてっ! 喧嘩はやめてっ! 殴り合っても解決しないでしょ 話し合いましょ 二人とも、やめてよ!」

 明子に諭され、隆司はしぶしぶ拳を解いた。

 だが、その目は、まだ和真を睨みつけたままだった。

「……続きは夜だ。このままはぐらかしたままで誤魔化せると思うなよ」

 和真は何も答えず肩をすくめ、店の奥へと引っ込んでいった。


◆◆◆


 夜になり、店を閉めた和真と隆司は、テーブルを挟んで向かい合ったままお互い黙っていた。

 店の風鈴たちも、まるで空気を読んだかのようにぴたりと動きを止めている。

「……何とか言ったらどうだよ」

「何とかも何も、オレの想いは昼間に話した通りだ。言いたいことがあるのは、隆司のほうだろ」

「俺が聞きたかったのは、あんなくだらない話じゃない。ちゃんと本当の理由を話せよ。隠したって無駄だぞ。和真の嘘なんて簡単に見抜けるんだからな」

 和真はじっと隆司の顔を見た。

「あの話、悪い話じゃなかっただろ?」

「そうだけど、だとしても受けられるわけないだろ」

「どうしてだ?」

 隆司は、苛立ったような顔で答える。

「俺がいなくなったら、この店はどうなるんだよ。和真は接客だけで風鈴は作れない。風鈴を作れなきゃ、お客だって今よりも離れていく。そうだろ?」

「…………お前の風鈴は気に入ってもらえたんだから、フランスに行って存分に作ってくればいいんだよ。この店の心配をする必要なんてない」

「じゃあ、和真はどうするんだよ。俺がフランスに行って風鈴を作って、それをフランスで売るなら、和真は必要ないだろ」

「そうだよ。お前がフランスに行くなら、オレは必要ない。まぁオレはオレでなんとかこの店でやるさ。自分じゃ風鈴は作れないけど、工場に任せれば風鈴はどうにかなるからな」

 隆司は必死に怒りをこらえながら、淡々と和真に尋ねた。

「今の言葉、本当か? お前はそれでいいのかよ。工場で大量生産した風鈴を並べて、それをお客に売って、それがお前のやりたかったことなのかよ。父さんと母さんが遺してくれた店がそんなになっちまっていいのかよ」

「……確かにさ、いい風鈴を作ることは大事だよ。でもそれ以上に大切なのは、お客さんに喜んでもらえるような風鈴を売るってことだ。たとえ手作りじゃなくたって、オレはお客さんに満足してもらえるような風鈴を作って売れる自信がある」

 そこまで言うと和真は軽く息を吸い込み、改めて隆司を真正面から見据えた。

「この店はお前がいなくてもやっていける。この店に、お前は必要ないんだ隆司。それでもお前がこの店にこだわるって言うのなら、オレはこの店を閉める」

 隆司はこらえきれず立ち上がった。そして、そのまま和真の胸ぐらを掴む。だが、言葉は何も出ず、ただ和真を睨みつけるしかできなかった。

 その時だった。

 どこからともなく、ちりんと風鈴が鳴る音が聞こえた。

 和真と隆司は争っていたことも忘れて、辺りを見回した。

「…………今のは、いつものアレ――」

 そこまで口にした和真は、驚いた顔で隆司を見た。

「おい、お前にも聞こえたのか? 今の音」

「え? 聞こえたけど……」

 ようやく隆司も理解が追いついたのか、慌てて外に吊るしてある梟の風鈴を見に走った。

 二人が梟の風鈴を前に立つと、まるでそれが合図だったかのように、もう一度音色が聞こえた。

 それはまるで普通の風鈴のように、何の特徴もない普通のちりんという音色だった。ただ若干、音が悪い。さらになぜか音色は、二重に重なって聞こえた気がした。

「…………今回の悩みを持ったお客さんは、お前ってことらしいな」

 和真の呟きに、隆司は呆然としたような顔で頷いた。

 兄と、悩み事を抱えたお客さんだけが聞こえる風鈴の音色。

 ずっと聞いてみたいと願っていたその音色だったが、聞いた隆司の胸に浮かんだのは喜びではなく疎外感だった。

 お前はこの店に必要のない人間だ。

 いつもこの店に来る悩みを抱えた客と何も変わらないんだ。

 この店に必要なのは和真だけ――物言わぬ風鈴にそんなことを言われたような気がした隆司は、唇を噛み締め顔を伏せた。


◆◆◆


 翌日。『風の通り路』はお店を閉めたままだった。

 盆も正月も、ろくに休みもせずに一年中開いているこの店が閉まっている。ある人は驚き、ある人は不安に思い、どちらの人も事情を尋ねに明子の店を訪れた。

 そのせいもあってか、この日の明子の和風喫茶『とまり木』は、まだ早朝にも関わらずお客で賑わっていた。

「ええー、ですからー、二人がどうしているかはわからなくてー。はいー。病気ってわけじゃないんですけどー」

『風の通り路』の様子を尋ねに来る客に、明子は困ったような顔で説明している。明子にだって状況はよくわからないのに、明子以上にあの二人の事情を知っている人はいないと思い、いろんな人が訪ねてくる。

 その事実に少し困りながらも、同時に明子は嬉しくも思う。あの二人がどれだけみんなに心配されているか。今のこの状況を二人に見せてあげたいと思うくらいだ。

 そんな呑気なことを考えていた明子は、自分の頭をコツンと叩いた。

 あの二人がまた喧嘩をしているのだ。それもいつもの小競り合いじゃなくて、もっと大きな。こんなのんびりとしたことを考えている場合じゃない。

 そう思う気持ちはあっても、お店が忙しい明子は隣に様子を見に行く暇すらない。お客さんから漏れ聞こえてくる情報によれば、どうやら隆司だけは店の中にいるが、和真は留守らしい。

 焦る気持ちを抑え、明子はただひたすら仕事に没頭し続けた。

 ようやく明子の手が空いたのは昼過ぎだった。

 だが様子を見に行っても、すでにお店に隆司の姿はなく、和真も相変わらず留守のままだった。ケータイの電源も入っていないため、電話も繋がらない。

 落胆した明子が『とまり木』に戻ると、珍しい二人が同じテーブルに座っていた。

「志津さんと……清吾さん? 二人はお知り合いなんですか?」

 志津さんは上品な笑みを浮かべた。

「えぇ、そうなんですよ。商売なんてほとんど素人だった私に、色々と教えてくださって」

「それは御浜紡績のご婦人相手ともなれば、助力させていただくのは当たり前のことです」

 清吾叔父は若干恥ずかしそうな顔をしながら、言い訳めいたことを口にしている。

 明子は優しいところもあるんですねと口にしようかと思ったがやめておいた。あまり清吾叔父を困らせてもいけない。

「せっかくだから、明子さんも一緒にお話ししない? 今ちょうど、清吾さんからご兄弟のことを伺っていたところなのよ」

「そうですか? でも、お邪魔じゃないですか?」

 明子はちらっと清吾叔父を見た。清吾叔父はわざとらしく咳払いをすると「構わんよ。座りなさい」と空いている椅子を勧めた。

「では、お言葉に甘えて」

 明子はショーウィンドウの中から、わらびもちを取り出すと、二人と自分の前に置いた。

「ご一緒させていただくので、サービスです」

「あら。それじゃあかえって悪いわねぇ。そうね、それじゃあお抹茶をいただける? それは私のおごりで」

「うふふ。そうですか? ではお言葉に甘えちゃおうかしら」

 そうしてプチお茶会の準備を整え終わると、志津は話を再開した。

「それで清吾さん。私は和真さんと隆司さんに会って日が浅いからまだわからないのですけど、あのお二人ってどういう兄弟なのかしら」

 清吾叔父は気難しそうな顔で抹茶を飲みながら答えた。

「あれは、私の姉の子供たちなんです。幼い頃から仲のいい兄弟でした。ただ、ご存じとは思いますが、性格は正反対でしてな」

 志津は「そうねぇ」と相槌を打った。

「兄の和真は、よく笑いよく泣きよくしゃべる子供で、しょっちゅう母親の後をついて回っては接客の真似事のようなことをしている子でした。それに対し隆司は無口で表情が変わらない子供でして。風鈴を作る父親に張り付いては、ずっと飽きずにその様子を見ておりましたな」

 志津は幼い頃の二人を頭に思い浮かべてみた。明るく元気なお兄さんに、無口で真面目な弟さん。非常にわかりやすく想像できる。

「ですが、和真が五歳、隆司が四歳の時、二人の両親は交通事故で一遍に亡くなってしまいました。二人は覚えていないでしょうが、私はよく覚えています。いつもは表情豊かな和真の虚ろな顔と、いつもは無表情な隆司が泣きじゃくる顔。姉のことも悲しかったんですが、二人の顔を見るだけであの時は本当に胸が苦しくなりました」

 明子は当時のことを思い出し、目を閉じた。自分もまた幼かったから、当時のことはよく覚えていない。でも隣の店に、何人もの黒い服を着た人が訪れ長い列を作っていたことは覚えている。普段は見ることはない大人の涙に、これは何か大変なことが起こったのだと幼心に思ったものだ。

 お茶を一口すすると清吾叔父は話を続けた。

「両親を失い心を閉ざした二人を救ったのは、両親が作った風鈴でした」

 志津は「風鈴……」と呟いた。

「あれの両親が作る風鈴は、なんと言うか、『特別』でしてな。見た目はもちろんなのですが、何よりも『音色』が優れていました。持ち主の心にぴたりとはまる、たった一つの音色とでも言うのでしょうか。母親が客と話してその心を読み取り、それを父親が風鈴で表現する。そうしてできあがった音色は、聞く者の心を掴んで離しませんでした。聞いたその場で涙を流す人もいるほどでしたからな」

 実際にその音色を聞いたことはない志津だったが、語る清吾叔父の言葉を聞いているだけで、いかにその風鈴がすごかったかは伝わった。

「そんな両親の影響を受けたのでしょうな。高校を卒業すると同時に、和真はあの店を復活させました。最初は苦労をしていましたが、海外で修行をしていた隆司が戻ってきてからは、なんとかやっていけるようになりました。だが私に言わせれば、あいつらはまだまだ半人前です」

 志津は首を傾げて「と言うと?」と尋ねた。志津には、あの二人はよくやっているように見える。

「確かに隆司の腕は見事ですが、そこには心がこもっていない。あいつは技術ばかりで、人を見ないですからな。それに対し和真は、人を見る目はそこそこにはありますが、風鈴を作る技術はない。あれの両親が作っていた風鈴に比べれば、あの二人が作る風鈴なんて子供の遊びみたいなものです」

 その物言いにさすがにむっとした明子は口をとがらせて反論した。

「清吾さん。あの二人はよくやっています……そんな言い方はあんまりです」

「そうですよ清吾さん。あなたから見れば子供の遊びだとしても、その子供の遊びに助けられた人だっているんですから」

 そう言って志津は穏やかに微笑んだ。

 二人がかりで責められては分が悪い。清吾叔父は誤魔化すように咳払いをすると、話を元に戻した。

「まぁ、そんなわけでしてな。あの兄弟は幼い頃に両親を亡くしたせいか、お互いを助け合う気持ちが、普通の兄弟よりも強い。と言うよりも最早習い性のようなものになっている。だからこそ、今回のようなことが起これば、喧嘩になるのでしょう」

 よく意味がわからないのか志津は首を傾げた。

「和真が急にあんなことを言い出したのは、きっと隆司のためでしょう。海外で、向こうの職人と意見を交わして作品を作ることは、あいつにとって大きなプラスになるでしょう。その機会を無駄にしたくないのでしょうな和真は」

 明子は少し驚いたような顔をした後、にっこりと微笑んだ。

「清吾さん、二人のことよくわかってるんですねー」

 清吾叔父は露骨に目を逸らし、鼻を鳴らした。

「ふん。私があいつらと何年付き合ってると思っているんだ。その程度のこと、わからないはずがないだろう」

 清吾叔父は恥ずかしさを隠すためか一気に抹茶を飲み干すと、席を立った。

「だが、わかっていても私はこの喧嘩を止めるつもりはありませんよ。今回の仕事を受けることは、あの店にとってもあの兄弟にとっても悪いことではありませんからな。ああして仲悪くしてくれているほうが、隆司も何の未練もなく日本を発てていいでしょう。では、私は次の仕事もありますのでこれで失礼」

 一礼して清吾叔父が店を出て行った。おごりだと言ったのに、きちんと自分の分のお金を置いていっている。つくづく真面目な人なんだぁなと明子は思う。

「……それで清吾さんは、ああおっしゃっていますけど、明子さんはどうなさるの?」

 志津の問いを受け、頬に手を当てて考えた。

「そうですねぇ。清吾さんは清吾さんなりの考えがあって、和真くんたちを放っておくつもりみたいですけど、私には私の考えがあるんですよ」

「いったいどんな考えかしら」

 ぼんやりしていると見られがちだけど、明子はこれでも色々と心を砕いている。二人の喧嘩を止めるのは自分の役目なんだからと、頭をフル回転させてただただ考える。

「……もし二人がどんな結論を選ぶにしても、やっぱり笑顔でいて欲しいと思うんです。仲のいい兄弟なんですから、お別れの時まで喧嘩をしているなんて悲しいです。おせっかいだと思いますけど、私にとっても大切な二人なんです。放っておくなんてとてもできそうもないです」

「……ふふふ。明子さん、そう思うのはなんでかしらねぇ。『大切』って、それは友達として? それとも家族として? それとも愛する人として?」

「え……」

 明子は赤くなった頬を両手で挟むと「あらあら」と困ったような顔をした。

「えーと……私は――」

 もっと詳しく聞かせてとばかりに目を輝かせた志津を見て、明子も逃げるように立ち上がった。

「あ、ああ! そろそろ休憩も終わりにしないと。そ、それじゃあ志津さん。ゆっくりしていってくださいねー」

 明子はそのまま厨房まで逃げると、大きく息をついた。

 あんまりのんびりとしている時間はないのだと思う。仲がいいからこそ、一度こじれてしまうと元に戻るのはとても難しくなってしまう。

 まずは話を聞こう。人伝ではなく、憶測でもない。きちんと自分の目と耳で、話を聞こう。色々と考えるのはその後でいい。


◆◆◆


 朝焼けで白む京都の街。まだ人の通りも少ない時間に流れる、冷たくて透き通った冬の空気を、和真は胸いっぱいに吸い込む。

 寝ぼけた頭を瞬く間にしゃきっとさせてくれる冬将軍に感謝をしながら、和真が『風の通り路』を出ると、隣の『とまり木』から明子がひょいと顔を出した。

「あらー、和真くん。今日はずいぶんお早いお出かけね」

「あ、ああ。そういう明子こそ、早い……じゃないか。まだお店を開けるまでだいぶ時間があるだろ?」

「そりゃそうよ。だっていつもの時間に起きてたら、また和真くんが勝手にお出かけしちゃうでしょ? じゃあ、行きましょうか」

 コートも着こんで完全武装で微笑む明子に、苦笑いをした和真は諦めたように首を振った。

「……敵わないなぁ明子には」

「うふふ、そうでしょそうでしょ」

 ぴたりと和真の隣に並んだ明子は、覗き込むようにして和真を見た。

「それで今日はどこにお出かけするの? どこかに営業?」

「いや、まぁ、どっちかって言うと仕入れかな。業者だけが集まる風鈴市をやってるから、ちょっと顔を出そうかと思って」

「へぇ。『風の通り路』は出品しなくてもいいの?」

「今回はさすがになぁ。それどころじゃないしな……」

「私もついて行っていい?」

「…………まぁいいけど」

「ありがとー」

 そのまま二人は、人も少ない朝の京都を歩いた。

 明子は何を尋ねるでもなく、にこにこと和真の隣を歩くだけ。そのうち沈黙に耐えられなくなったのは和真のほうだった。

「何企んでるんだ? 何か言いたいことがあるんだろ」

「私からは別にないわよ。話したいなら聞く準備はしてあげるけど」

「…………別に」

「うふふ、言ってみたら? すっきりするかもしれないわよ?」

 朝日に目を細めながら、和真はぽつりと呟いた。

「……頃合いだと思ったんだ」

「うん」

 深くは尋ねず、明子は小さく頷いた。

「オレはさ、隆司よりもお兄ちゃんだからさ、父さんも母さんもいなくなってからは、オレが親代わりにもなってた。今でこそあんな生意気になったけど、一歳しか違わないのに小さい頃の隆司はとにかく寂しがり屋の甘えん坊でさ。明子も知ってるだろ?」

「そうねぇ。いっつも泣いてばかりで、お兄ちゃんの後をついて回っていたものねぇ」

「そんなだから、オレはいつも兄として、あいつに恥ずかしくない姿を見せなきゃいけなかったわけで。でも、そろそろ頃合いだ。あいつはもうオレなんかよりも立派な大人になってる。認めてくれる人もいるし、立派に仕事だってしてる」

「そうね。和真くんの自慢の弟だもんね」

 和真は複雑な表情で笑った。

 明子にまっすぐ見つめられると、自分の考えていることがとてもちっぽけに思える。でも口にせずにはいられなかった。

「本当は、オレには和真に誇れるものなんて何もないんだ。だからいつも態度だけ大きくして空威張りしてる。そんなオレが、もっと大きな世界に羽ばたこうとしている隆司の足を引っ張るなんて恥ずかしいだろ」

「和真くん――」

 和真は何か言いたげな明子を手で制した。

「いいんだ。ちゃんと自覚してるから。オレは隆司の兄であり……父親代わりなんだ。でもさ、父親はいつか、子供が旅立つのを見送らにゃいかんのだよ」

 明子は何か言いたげな顔のまま顔を伏せた。

 和真はいっそすがすがしい顔をしている。だが、いつもの笑顔にも少し力がない。

「それで、とりあえず風鈴なわけだよ」

「風鈴?」

「うん。今回の客はどうやら隆司みたいだからな。隆司の門出を祝えるような風鈴を渡してやるんだ」

「…………和真くんはそれでいいの?」

「明子はそれじゃあ駄目だと思ってるのか?」

「…………それが和真くんの答えなら、私はいいと思うよ」

 消極的ながらも明子の賛同を得られて、和真はほっとした顔をした。

 この先、店が続けられるのか不安はある。常連さんたちも少しずつ離れていってしまうかもしれない。

 そういう未来の心配は多々あるけれど、それ以上に大切なのは隆司の未来だ。

 父さんと母さんが遺してくれた店は大切だ。けれど、それ以上に大切なのは、今も生きて、毎日を暮らしている隆司のほうだ。

 そして、そのために、自分が苦労するのは当たり前だ。

 店の在り方は少し変わってしまうかもしれないけれど、それもまたアリだと和真は思う。風が一時も同じ姿でいないように、風の名を冠したあの店も形を変えていくのは悪いことではないと思う。

 だからこそ、風鈴なのだ。

 隆司の門出に相応しい風鈴を見つけて、隆司の旅立ちを見送る。

 そうすればきっと、あの梟の風鈴が鳴らす音色も、もっと軽やかになってくれることだろう。