午後六時を過ぎて、のぞみ保育園はその日の業務を終了した。しかし、保育士たちの仕事は終わらない。

 子供たちを帰した後、保育士たちに課せられるのは日誌の提出である。雑務を片付けてくたくたになった上での頭脳労働だ。その日の反省点、園の改善点などを記す。また、週目標を立てた書類の作成、お遊戯に使う小道具の制作といった仕事も終業後に行うことが多く、特に今日のような週末は夜遅くまで保育士が残っていることも珍しくない。

 そんな中で、隠れて料理の本を広げてうんうん唸っているのは山川陽子くらいのものだった。

「アンタ、さっきから何と睨めっこしてんのよ?」

「わっ!?

 声を掛けられて陽子は驚いた。そのまま背後から、ひょい、と本を奪われる。

「何これ? 『今日のおかず百選』?」

「わー、わーっ」

 狼狽する陽子にお構いなく、本のタイトルを読み上げたのは小野智子先輩である。陽子の大学時代からの先輩だ。面倒見が良く頼りになる先輩なのだが、こうして無遠慮に接近してくることがたまにあるから困る。

 見られてまずい物でもないけれど、これで弄られるのは正直面白くない。

「花嫁修業?」

「ち、違います」

 智子先輩の目がきらりと光ったのできちんと否定しておく。

「最近、ちょっと目覚めたものでして」

 嘘ではなかったが、智子先輩は首を傾げた。

「目覚めたって、料理に? いや、別にいいんだけど、なんで今見てるわけ? すっごい真剣に眺めてるからマジで花嫁修業かと思っちゃったわよ」

 時と場所を考えれば、いま料理の本を広げるのは不自然だ、というご指摘だった。確かにその通りなので言い逃れは難しそうだ。

 花嫁修業ではないけれど、料理を学んでいるのには理由がある。それも、数時間後にはその知識を必要としてしまうくらい切羽詰まった状況にあるのだった。

「あ、わかった。彼氏へのアピールだ。後で押し掛けて晩ご飯作っちゃおうって魂胆だ。でも、それも一つの花嫁修業なんじゃない?」

「違いますってば! それに、彼氏なんていませんし」

 すると、智子先輩は口元を手で隠してうふふと笑った。

「そんなこと言ってー。隠しても駄目。私にはお見通しなのよ」

「何のことですか?」

 陽子の耳元に唇を寄せて囁く。

「テイちゃんのお父さんでしょ? 日暮さん。アンタ、最近妙にハマってるみたいじゃない。あの親子に」

 何がお見通しなのかわからないが、智子先輩の推理は当たっていた。陽子はここ最近日暮親子の家に押し掛けては家事を手伝っており、今夜もこれからお料理を作りに行くつもりでいた。

 テイちゃんとは、のぞみ保育園年中組に所属している『百代灯衣』のことだ。そしてその父親の『日暮旅人』とはひょんなことから縁を持ち、彼の特殊な『体質』を知ってからは何かと世話を焼くようになってしまった。

 日暮親子は危なっかしい。不器用で頼りない父親と、歳不相応に大人びていてしっかりしている娘との二人暮らしはどこか綱渡り染みていて、端から見ているとハラハラするのだ。いつ崩れてもおかしくない、そんなアンバランスさがあって陽子の気を揉んだ。すべては旅人の体質が原因なのだが、それを解決する術を誰も持たないため、陽子はせめて父娘の生活をサポートしようと心に決めたのだった。

 料理の話に戻る。先日、遠足に行ったとき遭難した陽子を旅人が救ってくれたことがきっかけで、陽子はお礼に手料理を振る舞った。そのとき灯衣はいなくて、旅人だけが口にした。全部平らげてくれたので美味しくできたのかしらと気を良くしたのだが、後日、作り置きしておいた分を食べた灯衣にこう言われた。

「陽子先生って味オンチ?」

 その一言で、旅人が無理して食べていたのだと気がついた。いや、彼には『味覚』がないはずだから、無理して、というのは間違いかもしれないけれど。

 なんにせよショックだった。それから本格的に料理を勉強し始めた。母親に頭を下げて教えを乞うような真似もした。血の滲むような努力があったのだ。

 そして今日に至る。リベンジである。仕事が終わったらすぐに日暮家に押し掛けて今度こそ美味しい手料理を食べさせてやるんだから、と意気込んでいるのである。

 この『今日のおかず百選』は、つまり、最終調整なわけだ。

「テイちゃんに美味しいと言わせてみせますよ。あの子、普段冷凍食品とか外食で済ませているみたいですからね。食育の何たるかをわからせてあげます!」

 仕事柄、旅人が家を空けることは少なくなく、その度に人に預けられてしまう灯衣は極端に偏った食事をしていることが多いのだそうだ。

 保育士として放っておけない。陽子はむふんと鼻息を荒げた。

「あら~、意外と策士だ。将を射んと欲すればまず馬からってか。なるほどね~、子供を手懐ける方が確実ってわけね」

「……先輩の仰っていることはよくわかりませんが、一家庭に首を突っ込んでいることに目を瞑って頂けますか? 日暮さんに任せていたらテイちゃんが心配で」

「はいはい。わかってるわよ。せいぜい頑張ンなさい。私は山川の味方だから」

 なんだか変に誤解されている気もするが、何を言っても無駄だと諦めた。

 智子先輩は、お先に、と職員室を出て行った。気がつけば、居残っていたほとんどの保育士がすでに帰り支度を始めている。陽子は慌てて日誌を書き殴り、皆から三十分ほど遅れて園を出た。

 家には帰らずに、進路は駅の西口、夜の盛り場へ。日暮親子が住む『探し物探偵事務所』が入っているビルは、繁華街の中心にあった。

 日暮旅人は探し物専門という一風変わった探偵だった。陽子も以前失くしてしまった宝物を見つけてもらったことがある。旅人がどんな物でも見つけ出せるのは、彼の持つ特殊な『目』の力のおかげであり、その正体は今もって不明だ。

 旅人はどうしてあの『目』を持つに至ったのか。

 生まれつきではないだろう。彼は『五感』の概念をきっちり把握している。何かしらのきっかけがあったはずなのだ──というのは旅人をよく知るお医者様のお言葉で、陽子は半分も理解できなかったけれど、旅人の過去に何かあったことはあの目を見ればわかる。

 あの、哀しい目。

 いつもどこか遠くを見つめているような、そんな目だ。

 旅人に見つめられると息が詰まる。何もかもを見透かされているかのような、心を裸にされたかのような。けれど、それは決して暴力的でなく不快な感じもしなかった。自分でも気づかない何かを、旅人を通して気づかせてくれる感覚。さらに、許されたと感じられるほどの包容力まで備わったその目に、陽子は魅了されていた。

 彼の目に映るモノを一度でいいから視てみたい。

 何を見て、何を感じ、何を思うのか。知りたい。

 あの人が背負っているモノを理解したい。

 ……これは単なる興味本位だろうか。陽子は自分の気持ちがわからなかった。

 幼少の頃に引っ越しして会えなくなった初恋の男の子の、その後の人生を勝手に想像して、現在の旅人とその子を重ねた。もしかして本人なのでは、と都合よく結びつけて旅人の身の上を儚んだ。とても失礼なことだし、それは陽子も自覚している。けれど、初恋の男の子を引き合いに出してでも旅人を理解したい気持ちが勝ったのだ。そして、それくらいしないと近づけないほどに、旅人の体質は陽子の常識を超えていた。

 旅人には『視覚』以外の感覚が無かった。

 聴覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚。五感のうち四つを損失して旅人は生きている。視覚の中にすべての感覚を取り入れて、旅人は世界を映しているのだ。

 なのに、旅人は優しい。それだけの不幸を背負えば普通は屈折しそうなものなのに。不幸だと決め付けるのもおこがましいけれど。

 灯衣と幸せそうに暮らす彼を見て、想いはますます膨らんでいく。

 せめて今のままの時間がいつまでも続きますように、と。

 彼が目に負担を掛けないようにしっかりサポートしてあげよう。動機の本質はわからないけれど、したいことははっきりしている。陽子は毅然と前を向く。

 同情なんかじゃない。もちろん興味本位なんて軽々しいものでもない。日暮親子が好きなのだ。気に入った人が幸せであってくれたなら、と願うのは当たり前の感情だ。

 陽子は、だから、関わろうと決めた。

 自分にできることをしてあの人たちを喜ばせてあげたい。それが目下のところ料理なのだった。

「今日こそは絶対に喜ばせてやるんだから」

 この前みたいな失敗作はもう作らない。灯衣にも美味しいと言わせてやる。途中で寄ったスーパーで買った食材を両手にぶら下げて、陽子は意気揚々と歩いていく。

 目的のビルに到着し、エレベーターで六階まで昇り、降りてすぐ正面のガラス扉の前で立ち止まる。『探し物探偵事務所』の文字が印刷されたプレート。ドアノブに引っ掛かった『CLOSED』の札。ガラス扉の向こうは電灯一つ点いていない真っ暗闇。

 いつもだったら誰かしら在宅しているくせに。

「どうして今日に限っていないのよーっ!?

 陽子は天井を見上げてそう叫ぶのだった。



 旅人の姿は洋食店『KAGE』にあった。四人掛けテーブルには灯衣と、仕事のパートナーである雪路雅彦も同席していた。

 閉店間際の店内は客が疎らで旅人たち以外には一組しかいなかった。出された料理に舌鼓を打ち、食後のコーヒーを飲んでまったりとする。

 マスターの鹿毛栄一郎が灯衣にケーキセットをサービスして出した。

「テイちゃんはいつも美味しそうに食べてくれるからね。そのお礼だ」

「小父様、ありがとう。けれど、美味しいものを美味しそうに食べるのは当然なんだからお礼されることじゃないのよ?」

「あっはっは、言うなあ」

 小父様、という響きもくすぐったいようで、栄一郎はだらしなく顔を綻ばせた。

「あのな、ガキが一丁前に遠慮しなくていいんだよ」

「わかっているわよ、ユキジ。もちろん喜んで頂くわ」

 そしてイチゴのショートケーキにフォークを突き刺し、パクリ、と頬張った。灯衣は目を線にしてケーキを味わう。自然と両足がプラプラ落ち着きを無くす。とても気に入ったようだ。

「ユキジ君たちももう一杯飲むかい? お得意さんだ。サービスするよ」

「悪いね、マスター。でも、もうお腹いっぱいだ」

「ご馳走様でした。ケーキまで頂いちゃって、ありがとうございます」

 旅人に礼を言われて、栄一郎は慌てて手を振った。

「やだなあ、旅人君にはこっちがお礼を言いたいくらいだよ。この前は本当に助かった。ありがとう。いやあ、探し物に関しては本当に名探偵なんだなあ、旅人君は」

「……この前ってのは何だ? アニキ、まさか」

 栄一郎を手で制し、雪路は旅人を振り返った。

 雪路の恨めしげな視線を受け止めて、旅人は柔らかく微笑む。

「お客さんで店内に忘れ物をしたっていう人が騒いでいて、僕はそのとき偶々居合わせたんだけど」

 すぐさま栄一郎が引き継いだ。

「その人の言う忘れ物ってのがどこにも無くてねえ、店員が確かめもせずに処分したんだ弁償しろ、って文句を言ってくるから困っていたんだ。そこへ旅人君がやって来てお客さんの忘れ物の在り処を見事に探し当ててくれたんだよ。なんとお客さんの車の中さ。その人は恥ずかしくなったんだろうなあ、それ以来食べに来てくれなくなったよ」

「無くした物が牛丼屋の割引券では無理もないでしょう」

「見つからないと高をくくってからは、すごい高価なモンだった、って嘘まで吐き出したからなあ。有名歌手のプラチナチケットとかなんとか」

 旅人と栄一郎は声に出して笑ったが、雪路は「それで?」と旅人に詰め寄った。

「まさか無料か? また無料働きか?」

「僕がでしゃばってしたことだからね。お代なんて頂けないよ。ユキジ、顔近い」

「あーもー、アンタって人は! どうしてそう無欲なんだ!? そういうときはここぞとばかりに自分を売り込めよ! 探偵は趣味じゃねえんだぞ!?

「もちろんお仕事だよ。たくさんの人に名刺を配れたし、良い宣伝になったと思う。顔、近いってば」

 なぜか言い争う二人を栄一郎は止めた。

「ストップ、ストーップ。もしかして、私のせいで揉めてます?」

「マスターのせいじゃねえって。この人の意識の無さが問題」

 親指で指し示す先では、旅人が灯衣に向き直っていた。

「ほらテイ、お口がクリーム塗れになってる」

「んー」

 灯衣の口元を拭いてあげていた。「おい、無視すんな!」と怒鳴る雪路に同情するように、栄一郎は苦笑を浮かべて「ごゆっくり」と後ろに下がった。接客はほどほどが肝心だ。お客さんはあくまでも料理を楽しみに来ているのだ。自分のつまらない会話で盛り下げてはならず、引き際は心得ていた。

「おいちゃん明日の仕込みがあるから、ホールの方は後任せたぞ、俊」

 甥にそう言って厨房へ戻る。

 俊は黙って頷いた。


 最後の客の会計を済ませてから、俊はコーヒーのお代わりを持って旅人たちのテーブルにやって来た。

「おい、頼んでねえぞ」

「気持ちですから受け取ってくださいよ。もうお店も閉めましたからゆっくりしていってください」

 低姿勢の俊に、雪路は「仕方ねえなあ」と満更でもない表情で二杯目を口にした。うたた寝し始めた灯衣を膝に乗せて、旅人もコーヒーカップを手に取った。

「んで、依頼ってのは何だ?」

 この日、旅人たちが洋食店『KAGE』を訪れたのは何もディナーを楽しみに来たわけではない。依頼を受けるためだ。

 俊は旅人からもらった名刺を頼りに探偵事務所を訪れ仕事を依頼した。今日はその話をするためにわざわざ旅人たちを店に招待したのだった。

「その前に、このことはマスターには内密にお願いします」

 小声でそう懇願すると、旅人が尋ねてきた。

「俊君でしたっけ? マスターの息子さんですか?」

「いえ、甥です。親戚の伝手で働かせてもらっているんです」

「マスターには内密に、とわざわざお願いするくらいですから、知られるとまずいことなんでしょう? いいんですか? ここでこのようにお話ししても」

 ホールから厨房まで距離があるとはいえ、同じ店内だ。聞かれる恐れがあるぞ、と忠告してくれていた。

「大丈夫です。今頃マスターは仕込みで手一杯で、閉店後もしばらく厨房から出て来ませんから。味付けの微調整に神経使ってますからね、雑音は一切耳に入らないんですよ。……困ったことに」

 生粋の料理人と言えば聞こえは良いのだが、そのせいか無防備なところもあった。俊が働き出してから売上の計算やお金の管理などを徐々に任されるようになったのだがあまりにも杜撰な管理だったために、よくこれまで経営が成り立っていたな、と呆れたほどだ。

「俊君を信頼しているんでしょう。料理に没頭できるのはその証拠ですよ」

 澄んだ瞳に見つめられてどきりとする。俊は赤面した。

「それで、何を探してほしいんだ? ここに呼んだからには店内にある物なんだろう?」

 しかも閉店間際の時間を指定したのだから、すぐにでも探索に乗り出せるよう図ったのだろうと雪路は思ったようだ。

「はい。探して頂きたいモノはここにあります。──ところで、皆さんは今日何をお召し上がりになりましたか?」

 旅人と雪路は顔を見合わせて「ハヤシライス」と声を揃えた。洋食店『KAGE』の看板メニューなのだ。外すことはない。

「他の料理も美味いけどな、やっぱりここの定番はハヤシライスだろう」

「ユキジなんて週に一度は通うくらいのファンですからね」

 雪路が常連であることはもちろん俊も知っている。いつも灯衣を連れて夕食時に現れるのだ。父親が旅人だということは今日初めて知ったのだが。

「それが何だってんだよ? 依頼と関係あんのか?」

 ハヤシライスを注文してくれたとは、話が早い。俊は、一瞬躊躇った後に決意を込めて頷いた。

「関係あります。僕が探してもらいたいのは、味なんです」

 二人は呆然と俊の言葉を聞いていた。

「味って?」

 俊は改めて口にした。

「ここのハヤシライスの隠し味を見つけ出して頂きたいんです」


         


 そのハヤシライスは洋食店『KAGE』の看板メニューとして、三十年間変わらぬ味を守り続けた。ほどよいコクと苦み、後に広がる甘みとまろやかさ、そのバランスは美食家の舌をも唸らせるほどだ。隠し味に使われている物は料理長でもある栄一郎しか知らない。元々は栄一郎の祖父が編み出したもので、栄一郎がその味と洋食店『KAGE』を引き継ぎ現在まで残している。

 次は自分が引き継ぐ番だ。俊は本気でそう思っていた。

 栄一郎にお店を継ぎたいと言ったとき、まさか却下されるなんて夢にも思わなかった。自分が未熟なのはわかっている。これからも一人前になる努力を怠るつもりはない。あくまでも目標のつもりだったし、そのように言えば栄一郎は喜んでくれるものと信じていた。

 けれど、栄一郎は「俺の代で終わりにする」と言った。俊がどうであろうとも、味もお店も継がせるつもりはないと、はっきり言ったのだった。

 それからしばらく経ったある日のこと、俊は事務所で偶然栄一郎宛の手紙を見つけてしまい、読んでしまった。そこには、是非ともホテルの専属シェフとして推薦したい、といった旨のことが記されていた。

 栄一郎は──おいちゃんはこの話を受けるつもりなのか。

 俊にお店を継がせないと言ったのは、このことがあったからなのか。

 いつまで、と期日は明記されていなかったが、この手の話は長引かせるとふいになってしまう恐れがある。受けるにしろ断るにしろ、そろそろ答えを示さなければならないだろう。

 時間が無かった。栄一郎にも、そして俊にも。


「味、ねえ」

 雪路が難しい顔をして呟いた。

「マスターは絶対に教えてくれないのか?」

「はい。味の継承がお店を継ぐ資格みたいなものですからね。無理でしょうか?」

「無理でしょうかって、ンなこと依頼してきたのおまえが初めてだからなあ。アニキ、どうよ? できそうか?」

「やってみないことには何とも」

 旅人も苦笑を浮かべて困った顔をしている。おかしな依頼だということは俊も自覚している。この料理を作った人を探してほしい、なら理解できるだろうが、その作り方を調べてほしいというのは明らかに探偵の仕事ではない。

 料理人を自称するならば、それは俊が自ら行うべきことだ。本来料理というものは、試行錯誤を繰り返して納得のいく一つを生み出していく、芸術にも近しい探求の道である。他人の手を借りてレシピを奪い、それで味を再現したところで俊の手柄にはならない。

 それでも、ズルをしてでもハヤシライスの味の秘密を知りたかった。料理人としての矜持を捨ててまで欲しい物があったのだ。旅人に依頼の話を持ちかけた時点でもはや引き返すことはできなくなっている。

 形振りなど構っていられなかった。

「よろしくお願いします! 僕に協力してください!」

 頭を下げると、旅人が顔を覗き込んできた。じっと見つめられ、どういうわけか目を逸らせない。

「──」

 まるで心を見透かされたようで、恐くなる。

 旅人は不意に微笑んだ。

「お受けしましょう」

「い、いいんですか!?

「僕もあのハヤシライスにどんな隠し味が使われているのか興味が湧きました」

 俊は、ほう、と息を吐いた。探偵という職種に関わるのは初めてで、どのような依頼だったら引き受けてくれるのかわからなかったから、もしかしたら「そんな仕事できるか!」と怒られるんじゃないかと心配したのだ。

 初めては何も依頼だけではなかった。

 その後には大切な契約交渉が待ち構えている。

「成功報酬だ。前金で貰うのはこの一割だ」

 雪路は懐から出した携帯電話の計算機機能を立ち上げて、打ち込んだ数字を俊に見せた。

「ざっとこんなもんだ」

「っ、ひゃ、……ご、……っ!?

 想像以上に高額だったために絶句した。探偵業ってこんなに儲かる職業なのか!?

「払えないなんて言うなよな。何年掛けてもいいから払え。短期間で探し物が見つかるってんだから安いもんだろ。それとも、おまえにとってはこんなはした金が惜しくなるほど軽い依頼だったのか?」

「……っ」

 雪路の言うとおりだった。本来ならば自力で探求しなければならない味をズルして見つけ出そうというのだ。たかだかこの程度の料金で引き替えられるならば確かに安いものだ。

「……払います。ですから、必ず見つけ出してください」

 俊は一礼し、明日から本格的に捜索を開始することを取り決めて、踵を返した。鼻息を荒げて、気持ち大股で歩き出す。

 もう後戻りはできない。

 おいちゃんに怒られることになるかもしれない。

 それでも、俊には叶えたい夢があったのだ。


 俊の姿を見送り、そろそろ店を出ようと腰を上げたときだった。雪路は旅人を意外そうに振り返った。

「てっきり、報酬はいらない、とか言い出すと思ってたんだけどな。一体どういう心境の変化だ、アニキ?」

 灯衣を起こさぬように抱きかかえながら、ぽつりと呟いた。

「僕は料理人じゃないからわからないけれど、もしも無料で依頼をこなして俊君もそれに甘んじたとしたなら、彼に料理人を名乗る資格は無くなると思うよ」

 冷たい言葉に、雪路はわずかに戦慄した。

「アニキって偶に厳しくなるよな」

「俊君が望んでいたんだ。僕にはその『覚悟』が視えたから従ったまでだよ」

 哀しい目をして、そう言った。