一


 妹からの手紙を改めて読み返した。長くはない手紙を、十分近くかけてゆったりと読んだ。後半部分でことさら視線を往復させるが、「嗚鼓宮祭」の文字に思わず目が止まってしまう。最後には「きっと迎えに来てくれる優しいお兄ちゃんへ」とある。

 私は深い溜息をつき、煙草に火を点けた。


    二


 電球に煙を吹きかけながらふと思い返してみれば、私が倦怠王国ダルガリアの国王となってからすでに二年の歳月が経過したのだが、その間、これといって特筆すべき出来事がなかったのは、まさに国名の示す通り、ダルガリアがダルい感じの王国だったからに違いない。では、その空白に等しい二年間を振り返るにあたり、私の胸に何かしら後悔のようなものが迫るのかと問われれば、「そんなことはない」と鼻息を荒くする自信がある。しかしながら、そんな問いを投げかけてくれる人がいないので、それはそれで鼻息が吹き荒れるのも事実だ。

 鼻息の話はどうでもいい。

 そもそもダルガリア王国とは何なのか。

 国王である私には、まずもってそれを述べる義務がある。

 我が国の起こりに神話はない。代わりに、イデオロギーのようなものがあった。

『世の中の真っ当な人間達が掲げる刻苦勉励、精励恪勤という、眩しすぎて直視に堪えない志向を前にしても、断固として膝を折らず、鉄の意志をもって怠惰を貫く』

 グレイト。甚だしく立派で男らしい文句だ。非の打ち所のないダルガリズムに満ちている。

 またこれは取りも直さず、ダルガリア唯一の国民であるがゆえに自動的に国王となった私の、個人的なモットーでもある。大学側から撃ち込まれるレポート提出課題、日を追うにつれてにじり寄る就職活動の影、これら「現実」の問題に対して、我が国(私)は威風堂々と「NO」を突きつけつつ、逃げ回る。「鉄の意志」とか言いながら逃げの一手。要するに倦怠王国ということだ。

 しかし勘違いしてはいけない。できれば嘲笑も控えていただきたい。

 私は決してニート予備軍などではない。たしかに私も以前一度だけ、「お前は性根がニートなのでは?」と自身に疑いの矢を向けたことがある。だがそれは大間違いだった。

 根が貴族なのだ。イエス。根が貴族!

 その気づきはまさに天啓だった。私は歓喜し、小躍りし、調子に乗った。

 単位修得の手助けをしてくれる友人達の機嫌を損ねた時だけは反省し、勉学に勤しむポーズを見せたが、普段は常に調子に乗り、精神的貴族の面目躍如たる怠惰っぷりを惜しみなく発揮した。それだけに飽き足らず、「怠惰こそが人間の多様性を生み出す」という大胆な仮説を提唱して友人達を混乱に陥れもした。まさに貴族。

 貴族の生活とはいかなるものか。気になるところだろう。気になってほしい。

 私の日常の大半はダルガリア王国固有の領土を守ることに費やされる。固有の領土とは、すなわち私の部屋だ。私が一人暮らしをしているのは、嗚鼓宮という街の一角に佇む、寂れたビルの地下室だ。このビルは祖父の所有する物件なので、無料で住まわせてもらっている。コンクリートに囲まれ夏でも涼しい室内には裸電球がぶら下がっていて、ウゥウゥ唸る冷蔵庫や傷だらけのテーブル、壊れかけのレディオなどを照らしている。麻薬取引でも行われそうな寥々たる雰囲気だが、その実は居心地のいい楽園だ。私はあらゆる「現実」からこの地を守り抜かなくてはならない。国王として当然の義務だ。

 少しでも気を緩めると、「現実」はすかさず攻め込んでくる。

 生来警戒心の強い私は、奴らの気配を感じ取るなり素早く対処する。

 例えば新聞の勧誘が来た際には、彼らの配り回る「現実」がどれだけ若者の心を凍てつかせ、枯渇させているのかを滔々と語って聞かせる。相手はたちまち恐れをなし、顔を引き攣らせながら退散する。宗教の勧誘に来たおばさんは強敵だった。新興宗教とダルガリズム、互いの教義が容赦なくぶつかり合って火花を散らし、玄関先でにわかに宗教戦争勃発、後世に語り継がれるほどの大舌戦となるも、誇り高き国王は頑として己の生活態度を省みず、全身全霊を賭して怠惰を叫び、辛くも敵勢力を退けた。おばさんを退治して勝利の喜びに浸りつつテレビを見る時でさえ、決してニュース番組に当たらぬよう注意を欠かさない。バラエティー番組も不意に現実っぽい会話がなされるので危険だ。危険だ危険だと言っているうちに通販番組以外の選択肢が消える。モクモクと煙草をふかしながら、買いもしない通販番組を見続ける羽目になる。涙目にもなる。それでも国王の誇りを胸に、名雪小次郎は通販番組との対峙を諦めない。

 言い忘れていたが、私の名は名雪小次郎。在学五年目にして三年生の健全な大学生だ。名前だけでも覚えていただければ幸い。


    三


 王の権能をもって自国の安寧を図るのが第一義とはいえ、さすがにそればかりしているわけにもいかない。気が向けば風呂に入るし、やむをえない事情があれば涙を呑んで大学に行くこともある。例えば前期試験の今日などは、カバのように重い腰を、それでも上げなくてはならない。

「──行くか」

 分厚い扉を開き、薄暗い階段を辿って地下室から這い出ると、久方ぶりの陽光が身に降り注いだ。路上では濃厚な陽炎が躍っている。眩しさと熱気に目を閉じたくなる。そういえば今は夏なのだった、そして夏とはこんなにも暑いものなのだった、と思い出す。噴き出す汗が不快感となって首を伝い、早くも撤退したくなる。しかし覚悟を決めて原付に跨った。

 走りだすと、頬を撫でる風が気持ちいい。嗚鼓宮は東京湾に面しているから、いつだって海の香りがする。あの汚い海から流れてくる濁った香りは嫌いじゃない。すっかりゴキゲンになって鼻歌を奏でた。主に通販番組のオープニング曲である。

 赤信号で停止すると、途端に暑さに捕らわれる。この太陽のはしゃぎようには手を焼く。というか本当に手の甲が焼けている。アスファルトに接した靴の底も溶けないとは言い切れない。

 ふと、道路脇の露店の前で酒盛りをしている男二人が目に入った。まだ昼前だし、祭りもはじまっていないというのに、気の早いことだ。私は呆れ半分に横目で彼らを眺めた。つくづく、今日が嗚鼓宮祭なのだと実感する。

 嗚鼓宮では毎夏、大規模な祭りが催される。夕方から夜にかけて、駅を中心に半径二キロの範囲が会場となる。あの男二人は別として街はまだいつも通りの静けさを保っているが、日が傾く頃になればそれも一変し、とんでもない馬鹿騒ぎになる。もちろん交通は規制され、そうなれば車は一台だって通ることができず、車道は歩行者の行く道となり、歩道は道路脇にひしめく露店の裏手にまわることになる。私が今走っている二車線道路も歩行者に占拠されるから、祭りがはじまるまでには地下室に帰国しなければならない。

 額まで赤くして酒を酌み交わす男二人の様子をぼうっと眺めていたら、後ろからクラクションを鳴らされた。青信号。私は慌てて首の汗を拭い、原付を発進させた。


 大学に着くと、ひとまず煙草に火を点けた。祭りの夜に浮かれる者達の姿を想像して苦々しい顔を作りながら、立て続けに三本を灰にした。それから講義室に入った。年下の友人達に声をかけると、彼らは珍獣でも見るような目を向けてきた。

「死んだものとばかり思ってましたよ」

「死なん」

「今さら来ても単位なんか取れませんよ」

「取る」

「問題文の意味すら分からねーんじゃねーっすか?」

「助けてくれ」

 私が力強くそう言うと、友人の一人がノートを差し出した。

「ありがとう。礼は言わんぞ」と力強く受け取る。

 颯爽と講義室の最前列まで歩き、端然として座す。心優しい友人から借り受けたノートを悠々と眺め、ささやかな試験対策とする。

 間もなくして、試験がはじまった。

 問題用紙を翻すと、問題文らしきものが見当たらなかった。意味不明な文字と記号の羅列、すなわち絶望だけがそこにあった。

『問題文の意味すら分からねーんじゃねーっすか?』

 友人の言葉が、頭の中にこだまする。

 その通りだったよ、こんちくしょうめ。

 仕方がないので、二年の隠遁生活のあいだに編み出した「名雪カレー」のレシピで解答欄を埋めることにした。このレシピを実践した教授が、おいしさのあまり単位をくれないとも限らない。そう思って書いているうちに、それが即妙のアイディアであるような気がしてきた。こうなると先程までの絶望はどこへやら、自信が漲ってくる。イケる。単位修得間違いなし。楽勝!

 試験終了のチャイムを聞くと同時にカレーのレシピを提出し、友人達と合流した。

「試験、どうでした?」

「学問の神が舞い降りた。カレーを論じれば私の右に出る者はいない」

「……カレー?」

「お前にはまだ早い」

 単位修得が確定不動の事実と化した今、昼食のライスバーガーの味もひとしおである。要領を掴んだので、二つ目の試験では牛乳味噌汁の黄金比率に関する貴族的私見をスラスラ論述した。

「来年こそ四年生になれそうだ」

 久々の学業を最高の形で終えた私は、これから起こる面倒事など知る由もなく、意気揚々と帰路についた。


    四


 シャバディダダバディダとスキャットしながら原付を降りると、警官二人が話しかけてきた。その好奇に満ちた眼差しから、彼らがダルガリア国王のファンであることは容易に察せられた。私は求められるより先に免許証を提示して自らの高貴な身分を証明してやった後、まだ話し足りなそうにしている警官を尻目に、地下室への階段を下りた。

 部屋に入ると、違和感はすぐに訪れた。何かが、というより全てがおかしい。

 綺麗に片づいていたはずのテーブルの上には発泡酒の空き缶やスナック菓子の袋が散乱し、床には黒いブーツとマントが落ちている。その上、なぜかクーラーがガンガンに効いているし、寝床では魔王が布団に包まって寒そうにしているし、並盛りだった灰皿は特盛りになっている。要するに、部屋が荒らされている。

 犯人は……と考えるまでもない。寝床を占領している魔王に決まっている。

 迷わず蹴り起こした。魔王は「ぼんむっ」とヘドロからガスが抜けるような声を上げ、のそのそと布団から出てきた。

「お、おかえり小次郎君。ご存知、魔王の登場だ」

 起き上がるなり、魔王は瞳を輝かせて言った。

「黙れ、燻すぞ」

 私は彼を睨みつけた。

「十年ぶりに再会した友に対して、燻すぞ、か。相変わらずの狂犬ぶり、大変結構」

「一、どこから、どうやって入った。

 二、どうしてこう盛大に人の家のものを食い散らかせる。

 三、一体何をしに来た。

 四、十年ぶりじゃなくて四年ぶりだ。

 五、相変わらずも何も、狂犬だったことなどない」

 一本ずつ指を立てながら言った。「全てに答えろ。さもなくば即刻帰れ」

「いいだろう。なぜ私が二週間で五キロも痩せられたかというと、それはビス──」

「んなこと訊いてないわい」

 四年経っても相変わらず、馬鹿な男だ。


    五


 ここで魔王について述べなくてはならない。

 彼と私は小、中、高と同じ学校に通った、腐れ縁というやつである。

 一言で彼を表すのなら、「馬鹿な若者」となる。彼の馬鹿な行動につき合わされていた日々を思い返すと、腐れ縁の「腐れ」の部分にドでかい傍点を打ちたくなる。

 魔王は小学校の頃からずっと馬鹿だった。そして、その頃から魔王と名乗っていた。どこから調達してきたのか分からないマントを始終身につけ、その姿のまま街を徘徊して通行人に不審がられるのを日課としている。要するに不審者だ。また顰蹙を買うことに熟達しており、他人が買うはずの顰蹙を横奪気味に買い取ることもしばしば。その辣腕で買い取った顰蹙は数知れず、おかげで四六時中誰かに説教を食らっている。要するに馬鹿野郎だ。

 不審者で顰蹙長者の馬鹿野郎が魔王を自称するのだから、もう何がなんだか分からない。だが自分の脳内設定を頑なに守ろうとする彼の熱意が凄まじいので、誰もが彼を(仕方なく)魔王と呼ぶ。で、いつの間にか本名を忘れる。私もとうの昔に忘れた。

 魔王の馬鹿さ加減を知るには、中三のバレンタインデーを振り返るのが早道だろう。


 その日、私はバレンタインのことなど眼中にないという風を装い、下校しようとしていた。チョコレートなどという腑抜けた食い物に用はない、男なら米を食え、味噌を塗った米を食え、えーい酒だ酒だ、と荒んだことを呟きながら、下駄箱を開ける手は微かに震えていたような気がする。

「世直しをしよう」

 と不意に魔王の声がした。下駄箱の陰からぬるりと姿を現した彼の手には、一週間かけて製作したというダンボール製の黒い大鎌が握られていた。

「まずは、一番甘い夢から砕かねばなるまいよ。フルハハハ」

 何やら思いつめたような顔、著しく危険な香り漂う発言、ヘンな笑い方、この三つに鑑みて、彼が一つもチョコレートをもらっていないことは明らかだった。そしてそれゆえに、これから何が起こるのか、想像にかたくなかった。

 魔王は猛烈な勢いで駆けだした。そして、やっぱり、やらかした。

 校内におけるチョコの受け渡し現場を発見次第、「現行犯!」と声を荒らげ、今まさに手渡されんとしているチョコをその寸前で砕いて回った。極悪非道、狂気の沙汰だ。友チョコ、義理キャラメル、本命クッキー……嫉妬の炎で焼け爛れた魔手には見境というものがない。漆黒のマントと大鎌を装備し、奇声を上げながら渡り廊下を駆け抜ける彼の暴挙を止められる者などいるはずもなく、甘い夢が、甘いお菓子が、次から次へと砕かれていった。校舎のあちこちに被害者の悲鳴が響いた。

「見過ごしてはおけない……!」

 私は使命感に燃え、眉を吊り上げた。正義を胸に立ち上がった。魔王の後を追って、砕けたチョコの味見をして回る役割が必要だと考えたのだ。これは大変な嫌われ役だ。しかし、因果なことに私の器は大きかった。必要とあらばどんな難儀もいとわないのが名雪だ。被害者の傍らに歩み寄って慰める振りをしながら、甘いお菓子をいっぱい食べた。大満足だった。

 だが、その翌日、十数名の女子に取り囲まれておぞましい報復を受けたのは、魔王ではなくなぜか私だった。人の世の理不尽さを知った、遠い冬の日……。


 このことから分かる通り、魔王は馬鹿をやらかして省みることをしない人間だ。

 加えて彼は非常に胡散臭い人間でもある。何が胡散臭いって、見た目だ。

 その姿に目をやると、痩せ型の長身に白い肌、男性にしては長めの黒髪、そして高い鼻がよく目立つ。こうして書くと、なんだか美貌の青年を想像してしまいそうだが、それはない。まず、肌が白いのは本当だが、それは不摂生がたたっちゃった感じの病的な白さだし、黒髪は頭皮から滲み出た脂で異様な輝きを放っている。魔王というよりヤブ医者に見える。そんな男がマントなんか羽織っているのだから、なんというか、もう、マジヤバイ。

 とにもかくにも胡散臭い。その身に胡散臭くない所は一つもなく、ウサンとクサイから生まれた胡散臭さの申し子。風吹きすさび道もないウサン荒野を、そもそも追いかける者などいないのに他の追随を許さぬ勢いで驀進する、孤高の……いや、孤低の戦士だ。


    六


 魔王はロングピースに火を点け、ゆったりと煙を吸い込み、「あそこから入ったのだ」と、玄関扉の反対側の壁に申し訳なさそうに設けられた鉄製の扉を指差した。

 一メートル四方の両開きの扉は赤錆に覆われていて不気味だ。この地下室に入居して以来、私はずっとそれが何の扉なのか気になっていたのだが、どうやっても開かないし、開けたら開けたで何かヘンなものが出てきそうなので無視することにしていた。

「あれは食料運搬用エレベーターの扉だ」

 魔王は言った。

「今はもう使われていないが、三階にある中華料理屋の厨房と繋がっている。ただし、鍵がなければ動かない。そしてこれが鍵だ」

 ニタニタしながら鍵を取り出して、自慢げに弄ぶ。

 なぜお前がそんなことを知っているのだ、そしてなぜ鍵まで持っていて、中華料理屋の人はなぜお前に使用許可を与えるのだ、と疑問は湧き起こってくるのだが、私はそれを口にはしない。何を訊いてもどうせ、「魔王だから」と返ってくるに決まっているからだ。こいつはそういう奴だ。

「魔王だからさ」

 魔王はキリッと言った。

「せっかく訊かなかったのに……」

 溜息が出る。この馬鹿と話すと、それだけで心が磨り減る。

 私は椅子に腰かけ、ポケットから煙草を取り出した。百円ライターの火を移すと、チリチリと気持ちのいい音がする。久しぶりに握った鉛筆の匂いが指のあいだに残っていた。

「やっぱりラッキーストライクか」魔王は満足げな顔で私の手元を見た。

 ああ、と私は二人分の煙を目で追いながら答えた。

 魔王はひょいっとテーブルの上に座り、そして水族館でアシカを見る子供のような目を私に向けて「久々にアレを見せてくれ」と声を弾ませた。

「嫌だ。もったいないだろう」

「昔は自慢げに見せてくれたろう」

「そういう無邪気さは地上に置いてきたのだ」

「けっ、つまらん」

 魔王は口を尖らせ、宙に向けて細く煙を吐いた。私の真似をしてみているのだろう。だが無駄だ。アレは私にしかできない特技なのだから。

「で、一体何をしに来た」

「今日は嗚鼓宮祭だな」

 思わず、「ぐっ」と唸ってしまう。嫌な予感がしたのだ。

 恐る恐る視線を移すと、魔王の微笑にぶつかった。

「実はね、君に用心棒を頼みたいのだ」

 彼はそう言って、一層ニヤリとした。

「君は嗚鼓宮定例回収会を知っているか?」


    七


 嗚鼓宮はヘンな街だ。

 大学に入ってこちらで一人暮らしをするようになると、すぐにそれを実感した。私の実家は嗚鼓宮から駅を五つ隔てた所にあり、そちらに住んでいた頃から噂は耳にしていたのだが、実際にこちらに居を定めてみると噂以上にヘンなのだから眩暈がした。

 まずもって、住民が馬鹿ばかり。どいつもこいつも、すぐに大宴会を開きたがる。何かきっかけがあれば、それにかこつけて酒を飲もうと虎視眈々。何もなくとも無理矢理こじつけて宴会を開こうとする。紳士も淑女も文化人も知識人も、この街にはたしかにいるけれど、最終的なところで皆やっぱり馬鹿騒ぎが好きなのだ。なぜか、と思う。首を捻ってしまう。この街には、そういった馬鹿者を集める引力があるのだろうか。馬鹿にだけ働く磁力のようなものが。

 とはいえ、住民達も年がら年中はしゃいでいるわけではない。そんなことではこの街の日常が破綻してしまう。普段はそこそこ真面目に働いて、学生は適度に勉学に勤しんで、平和な街を維持している。

 そんな住民達の一番の楽しみが嗚鼓宮祭だ。

 嗚鼓宮は普段から繁華な街なのだが、ことに夏のこの一日は想像を絶する盛り上がりを見せる。常日頃、我慢して大人しくすごしている住民達が、溜めに溜め込んだ馬鹿の力を夏の一夜に爆発させるのだから、それも頷ける話である。

 とにかく凄まじい。そして途方途轍もなくヘンな祭りなのだ。あればかりは、一度見た者にしか分からないだろう。


 私がはじめて嗚鼓宮祭に参加したのは、こちらに越してきた年の夏だった。

 白状すると、あの頃の私は結構な馬鹿だった。貴族となった今だから言える。

 たしかあの日も、今日みたいに魔王が突然転がり込んできたのだった。それで二人して祭りに出かけた。恥ずかしいことに、大変浮かれていたと思う。「私がこの祭りの主役となってやる」くらいのことは言ったかもしれない。

 祭りの賑わいは圧倒的だった。

 オレンジと緑の光に照らされた街のあちこちでビールの泡がはじけ飛び、ソースやラムネの匂いに乗って陽気な歌声が漂っていた。見上げると、縦横無尽に張り巡らされた、蛙の形をした提灯が目に入った。馬鹿野郎共の笑い声がビルに反響して、祭り全体を覆っていた。

 私と魔王は肩を組んで祭りを巡った。意味不明なことを喋り、喧騒がうるさくて互いの声が聞こえていないのに、なんだか可笑しくてケタケタ笑った。

 嗚鼓宮祭には普通の露店に混じって、一風変わった店が存在した。時計屋、名刺屋といったものもあれば、「詩操館」と書かれた暖簾を下げた、得体の知れない店もあった。ヌスンジョ焼き、という聞いたこともないような食い物も見かけた。魔王はそれらを見つけるたびに一々珍しがり、挙句購入した。しかもその際、マントから財布を出すのが面倒だと言って、私に代金を立て替えさせた。「後で返す」と彼は言った。

 なぜあの時、彼の口元に浮かんだ邪な笑みに気がつかなかったのだろう。祭りの空気に酩酊していたとはいえ、相手が魔王だということを考えれば、容易にその先の展開が想像できたろうに。

 歩き疲れた我々はビルの屋上へ向かった。

 嗚鼓宮祭では当日に限り、屋上をビアガーデンとして開放するビルが多い。地上と屋上の双方で賑わい、その境目を蛙提灯がぼんやりと照らす。そういう立体的な広がりが、この祭りにどこか幻想的な雰囲気を与えているのかもしれなかった。

 我々は屋上のビアガーデンでビールの杯を重ねた。

 せっかくだからと高層のビルを選んだのは正解だった。三十五階建てビルの屋上からは、嗚鼓宮祭全体を一望のもとに収めることができた。豪華絢爛に飾りつけられた巨大な宝船を、その帆柱に立って眺め下ろしているような気分だった。夢のような眺望に、私はしばし呆然としたものだ。

「お金というのは大事だね、小次郎君」

 魔王は焼き鳥の串を弄びながら呟いた。「お金があれば色んなものが手に入る」

「そうですな」

「だが、お金では手に入らないものもある。お金がないからこそ買えるものもある」

「何が買えるのさ」

「同情だ」

「そんな悲しいプライスレスは嫌だ」

 私が「嫌だ」を言うか言わないかのうちに、魔王はおもむろに立ち上がり、ニヤニヤしながら屋上の縁へ向かって歩きだした。妙に思い、「魔王さんや」と呼びかけるが、返事がない。ふらふらと歩いてゆくばかり。私はその様子を座ったまま見ていたが、彼が外縁から突き出したパラボラアンテナによじ登りだしたので、ようやく慌てて立ち上がり、止めに走った。

 魔王はアンテナの中央から伸びた棒の部分に乗ると突如、両腕を開き、

「フルハハハハハハハ! 魔王にふさわしき絶景なり!」

 眼下に広がる嗚鼓宮祭に向け、大声を上げた。

 急に風が吹き、マントがはたはたと揺れた。だが彼自身は微動だにしない。驚異的なバランス感覚に支えられ、胸を突き出したままの姿勢で風を受けている。

 私は足を止め、その様子に見入った。

「なんたる馬鹿……」

 思わず呟いた。彼のあまりの馬鹿さ加減に、呆れを通り越して感動すらしていた。そこで終わっていれば、あるいは楽しい祭りの思い出になっていたのかもしれない。だが次の瞬間、感動は怒りへと転じた。

 魔王は眼下に向けて、また叫んだ。

「財布など持ってないわ! 金は返さんぞよ!」

「ふぁい!? ふざけんな!」

 私は目を剥いて、魔王に劣らぬ大声で叫んだ。「こっち向いて言え!」

 ツッコみどころが間違っていたことは、私自身、重々承知している。それくらいビックリしたということだ。

 私は走っていって魔王を捕らえようとした。が、遅かった。魔王はチラリとこちらを振り向いて、口元に不敵な笑みを浮かべると、軽やかにアンテナを蹴り、ビルから飛び降りた。一瞬たりとも迷わず、恐れずに。

 さて、友人が三十五階建てビルから飛び降りたからといって、狼狽するのはいかにも素人。私くらいのレベルになると、こういった状況でも魔王の身を案ずることなど一切せず、金を取り返すことのみを考え、冷静に対応することが必要になってくる。そして必要とあらばどんな難儀もいとわないのが名雪だということは、すでに世界の常識だ。

「逃がさんぞ!」

 私は二人分の飲み代をテーブルに叩きつけ、屋上の縁まで走り、跳躍した。

 体を夜空に投げ出すと、燦爛たる祭りの輝きが視界全域に広がった。

 地上から発せられる明かりと熱気が混ざり合い、まるで炎のように揺れながら立ち上ってくる。遥か下方の喧騒まで、遮るものは何もない。

 そうして私はビルから落下した。


    八


「あの時、お前のせいで掌をすり剥いたのだ」

 私はラッキーストライクの火を灰皿で揉み消した。

「些細なことだ。あそこまでやって、たったの三十分で捕まった私の惨めさからすれば、何ということはない」

 四年前のあの日、ビルから飛び降りた魔王と私は、提灯が吊り下げられた電線に掴まって墜落を免れた。嗚鼓宮祭の空にはこれでもかというくらいたくさんの提灯が吊るされているから、その分、電線も張り巡らされているわけで、掴まるのは難しくなかった。けれど、それにしたって……、

「発想がターザンだ」

「楽しかったから万事OKだ」

 魔王は腕を組んで言った。こいつだけ墜落していればよかったのに。

 飛び降りの後、私は魔王を追い回し、三十分間の追跡の末、逮捕した。捕らえた魔王のマントからは、財布がコロリと申し訳なさそうに転がり出てきたのだった。

「──で、性懲りもなく同じようなことを繰り返しているわけか」

「しょうこりって何?」

「それは言葉の意味を知らないのか、それとも『私の辞書にそんな言葉はない』的な意味?」

「後者」

「くたばれ」

 魔王は四年前の祭りで私に対してやったようなことを、ほかの、それも一人でなく複数の人を相手にやっているらしい。彼の悪戯は私に対しての時より遥かに大規模化しており、ここ数年のあいだに嗚鼓宮祭の名物イベントの一つとして定着してしまったのだとか。

 概要はこうだ。

 魔王は一年かけて、できるだけ多くの人に借金を作る。債権者は嗚鼓宮祭が開催されているあいだ、債鬼として魔王を追いかけ回す。祭りの終わりを告げる花火が上がるまでに魔王を捕らえることができれば、借金は返済され、できなければ来年の祭りまで持ち越しとなる。

 債鬼は借金返済を求め、あらゆる手段を尽くして魔王を追い詰める。

 つまり、借金が絡んだ鬼ごっこだ。

 四年前の私との戦いを第一回とし、魔王が勝手に恒例行事にしていた、この鬼ごっこ。人はいつからか、こう呼ぶようになった──「嗚鼓宮定例回収会」。

「治る見込みのない馬鹿野郎共の遊び、ということか」

「しかし楽しいぞ。毎年やっていれば君もそのうち釣られて出てくると思ったら、全く反応しないじゃないか。なぜだ。何が目的だ」

 魔王はまるで犯行の動機を問いただすような言い方をする。

 たしかに、私が祭りに参加したのは四年前の一度だけだ。というのも、二年生に進級すると同時にゆるやかな悟りの道へと分け入り、その一年後、留年の憂き目に遭った途端に完全なる貴族的悟りを啓いたからである。一度目の二年生で悟りの道を目指し、二度目の二年生でダルガリアを建国し、一度目の三年生でダルガリアの平和維持に努め、二度目の三年生である今年もまた、平穏無事なダルガリズムを貫こうとしていたところなのだ。そんな私が嗚鼓宮祭などという馬鹿騒ぎに参加するはずがない。四年前までの私とは違うのだ。なのに……、

「仕方ないから今日はわざわざ迎えに来たよ」

 魔王は私の平穏を壊そうとする。

「用心棒として、か?」

「そうだ。今年は債鬼が百人を超えている。さすがに一人じゃ逃げ切れないかもしれん。小次郎、どうせ暇なのだろう? 遊ぼうぜ!」

「断る。そういうバイタリティは地上に置いてきた」

 私が即答すると、魔王は「けっ」と顔をしかめた。

「つまらん。道理で君の顔面はゴミ箱みたいなんだ」

「私がゴミ箱なら、お前はゴミ屑だ。燃えてなくなれ」

「赫き炎に焼かれようと、私は何度でも蘇るぞ。なぜなら私は魔──」

「とにかく断るから」

 たわ言を遮って、ぴしゃりと言ってやった。すると彼は意外にも、「いいだろう!」と威勢よく引き下がった。引き下がるのに威勢がいいのは意味不明だが、とにかく彼を早く帰らせたい私としては、ありがたいことだった。

 ちなみに、私が魔王を追い払いたいのは、何も鬱陶しいからだけではない。

 今日は妹が来るのだ。