プロローグ



 幸せになりたいと願ってない奴は、幸せになんてなれない。

 いつか、誰かがそんなことを言っていた。

 だけど、幸福と言えば言えてしまう酷薄な平穏は、虚しさと背中合わせで出来ていて、いつだって心の中は曖昧模糊とした不満でいっぱいだった。


 時刻は午後七時前。

 水無月の日は長い。

 斜陽の陽射しを避けて文庫本に目を落としていたら、部室の扉が開き、誰かが入って来た。

「吐季。何を読んでるの?」

 ハスキーな声が届き、顔を上げると千桜緑葉と目が合った。

 読んでいたシェイクスピアの戯曲を彼女に向ける。

「『ロミオとジュリエット』か。吐季が推理小説以外を読んでるのって珍しいね」

 今日、千桜が部室に来るとは思っていなかったのだが、こいつは医者を目指しているし、気になっていたことを質問してみよう。

「ジュリエットは物語の後半で仮死状態になるために服薬するだろ? それを見て家族は死んでいるって勘違いするわけだけど、五分も酸欠状態が続いたら脳って死ぬんじゃないのか?」

「仮死状態が低体温症だとすれば、脈拍も遅くなるから、生死を誤認してしまう可能性はあるよ。偶発的な話だけど、雪崩に巻き込まれて心肺が停止したのに、二時間以上経ってから蘇生したという事例もあるしね。低体温状態を人為的に作り出すことが出来れば、周りに死んでいると誤認させてから、後遺症なしに蘇生することは可能かな。もちろん時間的な制約はあるし、そんな薬は発明されていないけどね」

 なるほど。つまり、この戯曲のトリックは、あながち不可能なロジックでもないということか。

「珍しいね。吐季がそういう疑問を持つなんて」

「何にでも首を突っ込む、お前の悪癖に影響を受けたのかもな」

 俺の皮肉を受け、千桜は自嘲気味に笑った。


「……ねえ、吐季はロミオって幸せだったと思う?」


 これ以上ないってくらい有名な悲恋なのに、結末を知らないのだろうか。

「二人とも失意の最期を迎えるんだ。幸せなはずないだろ」

 手違いにより、ジュリエットが仮死状態であることを知らなかったロミオは、彼女の死を嘆いて毒薬による自殺を図り、彼の死を見たジュリエットもまた、ロミオの短剣を自らの胸に刺して死んだのだ。

「あたし、考えたことがあるの。例えば自分の結末を知ることが出来たとしたら、ジュリエットはロミオに恋をしなかったのかなって。自分が死ぬって分かっていても、やっぱり躊躇いもせずに好きになったんじゃないかな」

「自分のせいで恋人が死ぬって知っていたら、さすがに自重するだろ」

「そんな未来、変えちゃえば良いじゃん。運命に屈するから悲劇になるのよ」

 得意気に胸を張っているが、それを言ったら前提条件が崩壊する。自己完結の世界からはみ出してこなければ何を思うのも自由だが、感情論で話を捻じ曲げるから、こいつと真面目に話をする気になれないんだ。


 千桜は窓に向かって一歩を踏み出し、夕焼け空を背負う。

「あたしと吐季が恋人になったら、現代のロミオとジュリエットだね」

 舞原と千桜をモンタギューとキャピュレットに見立てたつもりだろうか。

 両家の因縁を辿れば、憎しみ故の血が流されたことだって一度や二度じゃないし、現在に至ってもなお、未来への禍根は山積しているけれど。

「俺がお前を好きになるなんて、十回生まれ変わっても有り得ないよ」

「最初はロミオもそう思ってたかもね」

 千桜は挑発的に笑った。

「俺はロミオじゃない」

「残念だけど、あたしもジュリエットほど弱くはないわ」

 夕陽が雲間に隠れ、千桜緑葉の少しだけきつい双眸が俺を捉えた。

 多分、こんな風に俺を見つめ続ける女は、世界中を探してもこいつしかいない。


 あの頃、俺たちはまだ何も知らない十七歳だった。

 これは、記憶に囚われて幸せを放棄した俺と、いつだって無邪気に未来を夢見ていた千桜緑葉の人生を辿る、


 ――――――長く哀切に満ちた物語。


             1


 それは霞桜の花弁が舞い散る、卯月の候で。

 季節の変わる匂いが好きなのだと、そんなことに気付かされた麗らかな春だった。


 いつものように遅刻をして登校したのだが、弥生より続く春特有の気だるさは消えず、教室へ向かわずに文化棟の裏手を目指す。桜の木が立ち並ぶその裏庭では、用務員が野良猫に食堂の残飯を与えることがあり、数匹の猫たちが日向ぼっこをしていた。

 足音に一瞬だけ身構えた後、すぐに何匹かが擦り寄ってくる。

 人間に依存した方が生き易いのだろう。飼い猫より野良猫の方が愛嬌を振りまけるなんて皮肉な世界だけど、じゃれ付いてきた猫たちだって、こちらが餌を持っていないことを悟れば、冷徹なまでの判断で離れていく。彼らが抱く愛情は、空腹以上、無償以下。校舎の裏に世界の縮図が広がることもある。


 文化棟の壁に寄りかかり、背の低い若草の上に腰を下ろした。

 うたた寝にも似たまどろみの中、春風に吹かれて目を閉じる。

 高校二年生になったばかりの俺の未来は、何色にも染まっておらず、選択肢は無数に存在している。しかし、将来に夢を馳せたことも、夢中になれる何かに出会ったことも、平等かつ完膚なきまでになかった。

 四限の終了を告げるチャイムが鳴り、白昼夢から剥がされる。

 重たい瞼を開き、月桂樹の花が咲く花壇を一瞥した後、教室へ向かうことにした。


 南棟の三階は、二年生の文系クラスで占められている。

 教室に辿り着くと、既に残っている生徒の方が少なかった。鞄を置きに自分の席へ向かうと、

「相変わらず殿様出勤だな」

 琴弾麗羅に皮肉っぽく声をかけられた。女みたいな名前をしているが、一年次からクラスメイトの男子生徒である。ついでに言えば、中学も同じだ。

「春眠暁を覚えずと言うだろ」

「お前がまともに登校する姿なんて、春夏秋冬見たことねえけどな」

「可哀想に。蒙昧な王様には見えないんだよ」

 軽口を返したところで、軽く蹴られた。

「麗羅。昼飯、食べてないだろ? 学食に行こう」

「来て早々に飯かよ。良い御身分だな。お前は学校を何だと思ってんだ?」

「そんな哲学的な問いに答えがあるなら、こっちが教えて欲しいよ」

 麗羅と知り合ったのは二年前だが、こいつが自分にとってどんな存在なのか。今でも俺には、よく分からない。麗羅が心の底で俺をどう思っているのかも知らない。ただ、少なくとも現在の俺にとって、『友人』と呼べる人間は麗羅だけだった。

「そういや、お前、いとこに入部届けは書いてもらえたのか?」

 麗羅は中背の俺よりも幾分か背が高い。促され、バッグから、同じ高校の音楽科に通う女子生徒、七虹に書いてもらった入部届けを取り出した。

「俺たちが演劇部を作ろうとしているのが滑稽だったんだろうな。久しぶりにあいつが笑うところを見たよ」

「事情を説明してねえのか?」

 麗羅は意外そうに尋ねてきたが、

「しなくても多分、七虹は気付いてるよ」

 それが帰趨した結論だった。


 非行もないかわりに、目立つようなこともない。俺は多分、そんな何処にでもいる普通の高校生だ。遅刻は多いし、入学して以来、始業時間に間に合ったことなんて数えるほどしかないけど、問題さえ起こさなければ注意の対象になることもない。ここ、新潟美波高等学校はそんな自由な校風の私立だった。

 日本海側では施設も在籍生徒数も最大級の規模を誇っていて、正式な認可を受けた文化部には個別の部室が与えられる。文化棟は二年前に建て直されたばかりで、施設自体も充実しており、一つ一つの部屋も広くて綺麗だ。そして、昨年度末、放送部が廃部になったことで、正式認可の枠と部室が一つ空いた。

 生きることを含め、基本的に何事にも意義や執着を見出せない性質なのだが、そんな俺にも一つだけ譲れないものがある。それは、安寧の睡眠を日々に求めることだった。目覚ましをかけて眠りを妨げられるなんて考えられない。起きたい時が起床に相応しい時刻であり、夢の中で見る世界は、形而下の現実なんて及びもつかないほどに崇高で、いつだって尊重されるべき高貴な時間だった。

 食事を取り、胃袋が満たされれば、当然、眠たくなる。机に突っ伏しての睡眠では満足出来ない。

 昼休み明けに遭遇する甘い眠気に備え、どうしても学校の中にパーソナルスペースが欲しかった。ベッドを配置し、窓を遮光カーテンで覆った、完璧な睡眠場所。それさえあれば、この益体もない高校生活だって少しは報われるだろう。

 睡眠に熱を上げるなんてどうかしている。麗羅は鼻で笑うが、気ままなパーソナルスペースを手に入れるという目的には同意してくれていて、放送部の廃部を聞いて以来、俺たちは慎重に創部のための準備を進めていた。

 舞原家は美波高校の理事に関わっており、俺は宗家の跡取りだから、麗羅は当初、理事会に働きかける裏ルートを使わないかと持ちかけてきた。だが、たとえ高貴なる睡眠のためでも、親族に必要以上に関わりたくなかったし、父親に頭を下げるなんて死んでもお断りだった。となれば正攻法で部室を手に入れるしかない。美波高校に存在しない文化部を調べ、教師の心証が良さそうな部を考察する。そして、辿り着いたのが、十年前に廃部になって以来、この高校に存在しない『演劇部』だった。実に文化的であり、復活が認められないとは思えない。

 本日の放課後、部の新設を希望する者は、三名以上の入部届けを用意して、社会科教室に集まることになっている。昨年度、放送部の顧問だった女教師、有栖川華憐に創部届けを提出し、問題がなければ正式に認可されるらしい。

 音楽科に通う同い年のいとこ、舞原七虹は軽音楽部に所属しているが、部の掛け持ちを禁止する校則はない。七虹に名前だけ借り、俺たちは三人分の入部届けを集めたのだった。


 待ちわびた放課後、指定された社会科教室へ麗羅と共に出向くと、先客がいた。

 一人で窓からグラウンドを眺めている彼女は、望まざる競合相手だろうか。その一種異様な外見を思わず注視してしまった。恐ろしく線の細い高身長で、そのスタイルだけでも人目を引くには十分だったが、特異さはそれだけではない。上履きの踵を潰し履きにしており、シャツの裾はブレザーの下からはみ出している。しかも、艶のあるブラウンの長い髪は、寝癖であちこちが跳ねていた。

 人をとやかく言えるような自意識なんて持ち合わせていないが、最低限の恥じらいは俺にもある。これだけ見た目に無頓着な女は、一体どんな顔をしているのだろう。図らずも興味を引かれ、その背中を見つめていたら、彼女がゆっくりとこちらを振り返った。そして、その顔を見て一瞬で呼吸が止まる。

 高校入学にあたり、親族から口酸っぱく聞かされていた一人の名前があった。

 絶対に近付いてはならない。その女にだけは決して心を許さないように。

 そんな異口同音の警告の中で、嫌になるほど反芻された一人の名前……。

 彼女は重たいブラウンの髪の隙間から覗く、透き通るような瞳で俺を見つめ、

「あんた、舞原吐季じゃん」

 少しだけハスキーな声で、無表情に言い放った。

 それが、俺と千桜緑葉の望まれざる出会いだった。



             2


 学生でしかない俺にとってはどうでも良い話だが、共に新潟の旧家である舞原家と千桜家には、戦前より連綿と続く因縁がある。

 近世に地主として栄えた舞原家は、大正時代より鉄道経営に乗り出し、昭和の初め、新潟港が満州への最短経路として経済的な拠点となったことで、爆発的な財力を得るに至った。首都と日本海側を最短時間で結ぶ上越線の運営に関わり、地方有数の大財閥へと変貌していったのだ。

 一方、千桜家は明治時代から日本医療界の先陣を切る一族だった。千桜の経営する東桜医療大学には、地方に誕生した最古の医学部があり、現在でも北信越地方の医局を牛耳っていると聞く。入学に必要な偏差値も、日本海側にあるすべての国立医学部を上回っている。

 異なる背景を持つ両家は、なまじ地元を共にするだけに、歴史の中でぶつかることも多く、古くより最悪の関係が続く仇敵だった。憎しみゆえの血が流れたこともあるし、現在もなお、陰惨な禍根が根強く残っている。

 千桜緑葉は大学病院の学長を務める現頭首の孫娘である。彼女が美波高校に同学年で入学することを知って以来、跡取りである俺が千桜と馴れ合うことを憂慮した一族の連中は、しつこいほどに警告の言葉をかけてきた。しかし、初めから親しい仲間を作る気力などない俺にとって、そんな忠告のすべては小うるさい説教にすぎず、そもそも理数科の彼女と、普通科の俺の間に接点なんて生じ得ないはずだった。

 写真で顔は認識していたけど、これまで校内で見かけたこともなかったし、向こうから接触してくるなんてことも、もちろん、あるはずがなかった。


 社会科教室に入ってきた俺の名前を呼んだ千桜緑葉だったが、それ以上の関心はないようで、静かに窓際の席に着き、文庫本を取り出して読み始めた。

 ここにいるということは、彼女も創部を考えているのだろうか。ピアノの腕が立つと聞いた記憶があるが、それ以上の個人的な情報は知らない。聞いていたかもしれないが覚えていない。

 やがて、顧問候補である有栖川華憐の登場より先に、男子生徒がやって来た。

 俺と麗羅を一瞥した後、真っ直ぐに千桜の元に向かい、その隣に腰掛ける。麗羅に劣らず背が高く、栗毛色の髪の下にシャープな眼鏡をかけた、品のある秀麗な容貌の男だった。ネクタイの色で同じ二年生だと分かる。

 やはり、こいつらも部を立ち上げようとしているのだろう。申請に必要な人数は三人だから、後でもう一人やって来るのかもしれない。


 事前に告げられていた締め切り時刻を十五分ほど過ぎた頃、張り詰めたような沈黙の流れる社会科教室へ有栖川がやって来た。

 彼女は古典を担当している二十代後半の教師で、昨年度から俺と麗羅も授業を受け持たれている。この学校に変わり者の教師は多いが、有栖川は普段の授業でも奇行が多く、尊敬出来ない教師を挙げろと言われたら、真っ先に思い浮かぶ女だった。

「あんたたち、全員、同じ部活?」

 教室に入ってくるなり仏頂面で俺たちを見回し、有栖川は面倒臭そうに告げた。

「違います」

「そっか。鬱陶しいな。ねえ、本当に部活作るつもり? 希望者がいなけりゃ仕事が減るから、なかったことにして帰って欲しいんだけど」

 あまりと言えばあまりの発言に、千桜と眼鏡の男が困惑の表情を浮かべた。有栖川の本性を知らなければ、その反応が普通だろう。

「俺たちは辞退しませんよ。部室も絶対にもらいます」

 強気に言ったのは麗羅。

「部室はやらないわよ」

 凜とした声で反論したのは千桜緑葉だった。

「どっちでも良いけど、承認出来るのは片方だけよ。取り敢えず書類を確認するから出しなさい」

 麗羅が立ち上がり、用紙を有栖川に渡そうとしたのだが、寸前のところで千桜が自らの書類を強引に滑り込ませた。

「先生。早いもの勝ちにしましょうよ」

「何言ってんだ、お前?」

「もう一人の部員は用事があって今日いませんけど、あたしたちはちゃんと三人分の入部届けを持って来ています。そいつら二人しかいないじゃないですか」

「こっちだって三枚用意してあるに決まってんだろ」

 麗羅は三枚の入部届けを教壇の上に並べる。有栖川がそれに目を落とし、楽しそうに口笛を吹いた。

「へー。あんたたちの三人目は舞原七虹か」

「知ってるんですか?」

「そりゃ、校内で一番の美人だしね。入学前から職員室でも話題になってたわ。担任になって、いびってやろうと思ったのに音楽科で残念」

 相変わらず、教師としても人間としても最低な発言だった。

「聞き捨てならないんすけど、訂正してもらって良いっすか」

 そして、何故か憤懣やる方ない表情で、千桜が憤っていた。見た目とは裏腹に正義感の強い女なのだろうか。

「あたしも七虹って女は見たことありますけど、どう考えても、一番美人なのはあたしだと思うんすよね」

 前言撤回。有栖川と同レベルの品性のようだ。

 自信満々に言い放った千桜の言葉を麗羅が鼻で笑う。

「そんなわけねえだろ。鏡、見て来い。そのだらしない格好を見て、お前の方が綺麗だなんて思う男はいねえよ」

「黙れ。虫けらの意見は聞いていない」

「さっきから聞いてりゃ言いたい放題、お前、何様だよ」

 有栖川は二人を無視して、登録用紙に目を落とす。

「舞原たちは演劇部か。で、こっちは……保健部?」

 耳慣れない言葉が飛び込んできた。

「はい。活動内容は細かく書いてあるんで、読んでもらえば分かると思います」

「活字読むの面倒臭いんだけど、簡潔に言うと何をする部活なわけ?」

 こんな奴が国語の教師をしていて良いのだろうか。

「あたし、将来、医者になって心療内科で働きたいんすよね。だから、その練習です。困っている生徒の相談に乗ったり、直々に助けてあげちゃおうかなっていう」

 意味がまったく分からない。こいつは部活動を何だと思っているのだろう。

 同様の感想を持ったのか、有栖川も怪訝そうな表情を浮かべている。

「あんた、見た目も変だし、もしかして痛い子?」

 千桜はむっとしたような表情を見せたが、すぐに笑顔を作り直す。

「先生は今、何か困ってることありませんか? 保健部の顧問になってくれるなら、あたしたちが何でも解決してあげますよ。ね、歩夢」

 千桜は楽しそうに言って眼鏡の男に向き直り、麗羅もそちらに目を移す。

「あんた、副部長の欄に名前が書いてある桜塚歩夢?」

「ああ」

 眼鏡の男が麗羅の言葉に同意し、予期せず千桜との関係性が推測された。桜塚と言えば千桜の分家で、市内の中心に総合病院を経営している一族だ。つまり、こいつらは遠縁ながら親族なのだろう。桜塚の息子なら、こいつも理数科の中で医学部志望の生徒が在籍するメディカルコースに違いない。

「あんたも本当に、こんな馬鹿げた部の創設に賛成してるのか?」

「そうでなかったら、ここにいないよ」

「この入部届けに書かれてる長谷見って女は、どうしていないんだ?」

「さっきから、うっさいわね。あたしの許可なく口開いてんじゃないわよ。大体、そんな少人数で演劇なんて出来るわけ?」

「それこそ、お前に関係ねえだろ。そっちこそ口出ししてきてんじゃねえよ」

 どうして、こいつらはたった三分でここまでいがみ合えるのだろう。だんだん耳を傾けるのも馬鹿らしくなってきた。

「ねえ、さっき困ってることがあれば力になるって言ったわよね」

 創部届けに目を落とす有栖川の顔に、妙な薄ら笑いが浮かんでいた。経験上、有栖川のこの表情は、腹に一物抱えている時の顔だ。

「はい。顧問になってくれるなら、何でも相談に乗りますよ」

「今、ちょっと面倒な案件を抱えてるのよね。あんたたちも聞いたことあるでしょ?校内で発生してる『猫殺し事件』。ここ数ヶ月、進展なかったんだけど、今日、また、死体が見つかっちゃってさ。文化棟の裏庭で用務員が発見したの」

 有栖川の話を聞き、昼休みの記憶が甦った。

 文化棟の裏手で桜を愛で、教室へ向かおうとした時のこと。

 花壇を一瞥したところで、横たわる生き物の影が目に入った。月桂樹の向こうに虚ろな眼差しが覗いていて、焦点の合わない瞳に胸の奥が一気に冷える。

 近付くと、弛緩したように口を開け、四肢を投げ出して横たわるその物体が三毛猫の死体だと分かった。報告の後に待ち受けるだろう煩わしさを思い、そのまま立ち去ったのだが、やはりあの後、しかるべき人間が見つけていたのだ。

「裏庭に一番近い教務課がうちだったから、事件調査の担当になっちゃったのよね。でさ、一番若い私が捜査を命令されたの。冬から解決していない事件だし、犯人なんて見つからなくても良いんだけど、報告書を提出しなきゃいけなくてさ」

「つーか、動物を虐待するとか許せないっすね」

「事件が起きたのも数ヶ月ぶりだし、模倣犯かもしれないけどね。で、ものは相談というか提案なんだけど」

 有栖川は俺たちを見回す。

「あんたたち、『猫殺し事件』を調べてくれない? 流用しても良いって思える報告書を作った方の顧問になってあげるわ。提出は三日後のこの時間」

「ちょっと待って下さい。俺らに事件の調査を丸投げするつもりですか?」

 慌てて確認したのは麗羅。

「その通り。あ、見つからないとは思うけど、万が一、犯人が分かったら、手柄は頂戴。見返りに生徒会から運営費をガッツリ確保してあげるからさ」

「お金の話はともかく、顧問になってくれるなら、お安い御用っすよ」

「でも、そんなの部活の立ち上げと関係ないじゃないですか」

 有栖川の委嘱を快く了承した千桜とは対照的に、麗羅が抗議を口にした。

「あんた子どもね。社会に出たら、理屈が通らないことがいっぱいあんのよ」

 有栖川に同意するように千桜が頷く。

「先生。こいつらの言うことなんて気にしなくて良いっすよ。あたしたちに勝つ自信がなくて逃げてるだけなんすから」

「吐季、お前も黙ってないで、なんか言えよ」

 麗羅が助けを求めるような顔でこちらを向き、それまで事態を静観していた俺に視線が集中する。立ち上がっていた千桜が、見下すように見つめてきた。

「舞原吐季。あんたも勝負が怖い?」

 どうしてこいつは、根拠もなく、こんなに自信満々でいられるんだろう。

「そっちの部員の三人目って、さっき麗羅が言ってた奴?」

「そうよ。クラスメイトの長谷見芽衣」

 同じメディカルコースの生徒か。それならば千桜との関係性も予測し易い。

 これまでの千桜の言動と照らし合わせて勘案するに恐らく……。

「分かりました。その条件で良いですよ」

「おい。吐季、本当に良いのかよ」

「その勝負に勝てば問題ないだろ」

「言ってくれるじゃない。負けた後で吠え面かくなよ」

 千桜は挑発的な眼差しをこちらに向けてきたが、反応するのも億劫だった。

「じゃあ、レポートの提出は三日後のこの時間。もしも、それまでに事件を解決出来れば、その時点でそちらの勝ちにするから。良いわね」

 有栖川華憐がそう宣言し、俺たちは『猫殺し事件』の捜査を始めることになる。

 すべては部室を獲得し、安眠を約束されたパーソナルスペースを手に入れるために。中途半端な情熱と共に、事件の捜査が始まろうとしていたのだった。



             3


 千桜緑葉と桜塚歩夢が教室を出て行き、俺たちに難題を押し付けた有栖川華憐も晴れやかな顔で帰って行った。

 三人が出て行き、教卓に腰を掛けた麗羅が、呆れたように口を開く。

「お前が首を突っ込むとは思わなかったぜ。レポートなんて本気で作る気かよ」

「まさか。そんな面倒なことしないよ」

「じゃあ、犯人に心当たりでもあるのか?」

「それもないね。ただ、アイデアがないわけじゃない。麗羅、有栖川から一つ、もらってきて欲しい物があるんだけど」

「お前は本当に、俺を顎で使うのが好きだな」

 小さく溜息をついてから、麗羅は先を促してくる。

「で、欲しい物って何だ?」

 端的に目的の物を告げると、麗羅は理由も聞かずに教室を出て行った。

 距離感の取り方とか、知性の純度とか、そういう抽象的な部分で俺と麗羅は妙に相性が良い。『友達』と言い切るには、しがらみが多すぎる俺たちだけど、少なくとも互いの能力だけは信用している。


 十分ほどで戻って来た麗羅は、指示通りの物を入手してきていた。

「で、こんなもんどうすんだ?」

「部室を渡すつもりはない。千桜と桜塚の裏をつく」

 麗羅に手渡されたのは、保健部の三人目、長谷見芽衣の入部届けのコピー。彼女のデータに目を落とした後で、思い描いた作戦を話していく。


 概略を説明し終わると、麗羅が皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「……なるほどね。お前、そんなこと考えてたのかよ」

「推理勝負なんて時間の無駄だからね」

「それにしたって、性質の悪いことを思いつくもんだぜ」

「麗羅がいるからこそのアイデアだよ。適材適所って言うだろ? 軽薄な人間を演じるなんて、素養がなきゃ出来っこない」

「お前、俺を馬鹿にしてんのか? まあ、部室が手に入るなら何でも良いけどよ」

 千桜と桜塚が情熱を見せたところで、都合良く『猫殺し事件』を解決出来るとは思えない。数ヶ月前には警察だって動いたのに、事件は未解決のままなのだ。だが、設けられたのは三日という、長くも短くもない期間である。万が一の場合も想定しておかなければならない。安眠の拠り所たる部室を手に入れるため、不利益を生みかねない可能性の芽はすべて摘んでおく必要がある。