序章


 少年が砂に足を取られた。

 すぐ隣を歩いていたアラシェスは咄嗟に右手を差し出しかけて、しかし結局は少年が倒れるがままに任せた。かわりに強い風にばたついている空の左袖を押さえ、その風が吹いていく先へと視線を向ける。

 砂漠の風に行き先はない。二人が残してきた足跡をすっかり吹き消したり、広大な黄褐色の画布に美しい波模様を描いたり、強い陽射しで黄金色に輝く砂粒を空へ舞い上げたりしながら、その力が続く限りどこまでも自由に駆けていくだけだ。

 一方で、二人にとっての目的地はもうすぐそこにまでせまっていた。今駆け抜けていった風の先、一面の砂と岩の大地の間に白く細い紐のようなものが延びている。あの紐をたどった先にある。

 だが……

 視線を戻すと、少年がちょうど頭を上げたところだった。

「アラシェス」砂まみれで少年が睨む。「今助けようとしかけてやめたろ」

「目的地に着くまで一切手を貸さない。そういう約束だったはずだぞ」

「だからってわざわざ出しかけた手をひっこめなくてもいいじゃないか。そういうのはただのいじわるっていうんだ。口に砂が入っちゃったよ、まったくもう」

「それなら、引き返すか」

「またそれか。ほんとしつこいよなあ、アラシェスは。ここまで来て引き返すわけないじゃんか」

 少年はうんざりしたように答えて立ち上がった。口に入った砂を吐き出そうとしながら、その日焼けした顔をしかめている。どうやら口の中がすっかり渇いてしまっているせいでなかなか唾も出てこないらしい。すでに空っぽになっている自分の水袋を何度か振ってから、その茶色の瞳が物欲しげにアラシェスの腰の水筒へと向けられた。しかし結局何も言わずに大きな荷袋を背負い直すと、頭や身体にかぶった砂粒を払い落とすことさえしないで歩き始める。

 その様に、思わずアラシェスの口元がほころんだ。

 旅の間、少年はずっとこんな調子だった。弱りかけているところを垣間見せても、すぐに自分はまったく平気なんだということを示そうとして何でもない風を装う。たいしたものだった。

 もっともそんな本人の思いとは別に、その全身からにじみ出る疲労の色は隠しきれなくなっている。その息づかいや砂を踏みしめる足音はもうとっくに限界だということを告げていたし、髪は乾燥した風にさらされてぼさぼさ、肌は砂埃にまみれて薄汚れ、元々瘦せ気味だった顔や身体はこの砂漠越えの間にさらに肉が落ちて病人じみて見えるほどだ。しかも孔の空いた靴を履いている右足は数日前から時折痙攣をおこしてもいる。よく転ぶようになったのはそのせいなのだろう。

 しかし少年自身はそうしたことについて一言も弱音めいたものを吐かなかったし、またアラシェスも気づかぬふりをしている。彼のそうした強がりを傷つける権利など自分にはないし、そうした意地を貫き通せるだけの意志の強さがこれから必要となる。

 だが……

 アラシェスは少年の後を追いかけて歩き出した。足を踏みしめると、足下の砂がかすかな音を立てる。この一帯がきしめきの砂漠と呼ばれている所以だ。どこまでも続く一面の砂景色にか細い足跡を点々と残しながら、隻腕の男は先を歩く少年の背を眺めた。その口元は堅く引き結ばれ、先ほど浮かんだ微笑はもはやその欠片もなくなっている。

 本来、目的地まで行くのにこの砂漠を正面から越える必要などまったくない。南東の港街テネイから延びている水路を船で上り、その終着点で驢馬なり駱駝なりに乗り換えればいい。その路筋ならば厳しい砂漠超えはほんの数日ですむし、行き来をする隊商と移動を共にできるから行程の困難さも比べ物にならない。実際、砂漠を超えてやってくる人間なんてまずいないからと、その出入りを管理されていないほどなのだ。

 少年を連れていくことに決めた時、しかしアラシェスは迷うことなく正面からの砂漠超えを選んだ。あえて厳しい道のりを選んだのは彼を試すためだった。もし途中でへばったり、最初にした約束を違えて自分の助けを求めるようなら、すぐさま元いた修道院へ連れて戻るつもりでいたのだ。これから向かう場所はこの砂漠よりも厳しい。自分の目に自信はあったが、過信もしていない。いってみればその試金石が砂漠越えだった。

 そして今、少年はそれを乗り越えようとしている。

 だが、これで本当によかったのだろうか。

 このような世界に連れてきてしまって本当に……

 もちろん自分の期待に応えてここまで一緒に来てくれたことを嬉しく思うが、一方でもし途中でへばっていればこんな風に自分が思い迷う必要がなかったのもまたたしかだった。

 小さく息を吐いて顔を上げる。

 いずれにしてももう迷っている時間はない。

 遠くから白く細い紐のように見えていたものがもうすぐ目の前にある。それは道だった。砂漠を突っ切るようにしてまっすぐに延びる道。人一人やっと歩けるほどの幅しかなく、周囲に広がる砂の世界から見たらあまりにもか細いが、しかしその自然の力をもってしてもすっかり飲み込むことの出来ない一本の道だ。

 二人は前後に並ぶようにしてその道をたどった。柔らかい真っ新な砂地に比べて、人が踏み固めた跡は歩きやすいはずだったが、今の疲れきっている少年の足首にはその堅さがかえってつらいらしく、少年は途中で何度も立ち止まった。しかしアラシェスがちらりと振り向くと、わざとらしい伸びやら欠伸やらをして見せ、再びその足を前に進めるのだった。

 そんな風にして時間にすれば一刻ほど経った頃、平坦だった道がゆるやかな坂へと転じて、砂と岩ばかりだった沿道に雑草が姿を見せ始めた。初めのうちそれらの草々は萌えているのか枯れているのかはっきりしないほど弱々しく地面にへばりついているだけだったが、坂を上っていくにつれて大地に根を張り空へ枝茎を伸ばしたしっかりしたものに変わった。砂と熱ばかりを運んでいた風が爽やかな空気と優しい薫りを運んできて、背中越しに少年が鼻をひくつかせている音が聞こえる。

 その坂を上りきったところで、アラシェスは立ち止まった。少し遅れて少年がやってきて、隣に並んでくる。疲れきった様子で顔を上げ、その茶色の瞳を大きく見開いた。

「なんだよ、ここ……」

 掠れた声でつぶやく。

 赤いもの、緑のもの、青いもの。丸いものや先が尖って二股に分かれているもの、細長い短冊が連なって釣り鐘状になったもの。指先ほどのこぢんまりしたものから、丸めた二本の指ほどのもの、さらには両手のひらで掬おうとしてもこぼれ落ちてしまうような大振りなもの。様々な色、様々な形、様々な大きさをした多様な草花が風に合わせるようにして揺れていて、その合間を小鳥が飛び回っている。

 目の前に草原が広がっていた。

 黄褐色の砂と岩ばかりの眺めに比べれば、それは色鮮やかで心が安らぐような穏やかな景色だったが、しかし同時に気後れするような景色でもあった。まったく別の場所からここだけ切り取られて運び込まれたような、どこかまるで見知らぬ場所に突然迷い込んでしまったような、そんな違和感に襲われてしまうのだ。アラシェスは数えきれないほどこの場所に足を運んでいたが、それでも坂を上りきりこの丘の景色を目にするたびに覚えるそうした感覚は未だ消え去ってはいない。

「……ここいったいなんなんだよ、アラシェス」

「自分でたしかめてみたらどうだ? それとも怖いか」

「平気にきまってるだろ、こんなのっ」

 アラシェスをきっと睨みつけると、少年は草原に分け入っていった。それでもしばらくの間はおそるおそるといった様子で周りを見回していたが、次第になれてくるにつれ指先で葉をつまんだり、花の香りを嗅いでみたり、砂漠よりも少し褐色の濃い砂を手のひらにのせてみたりして、そのたびにこれらが本物であることを納得したようにうんうんと頷いている。

 胸に手を当て頭を深く下げてアラシェスも草原に入っていくと、少年が首を傾げるようにして振り返った。草花の間に埋まっている小さな木片を指先で突っついている。

「ねえ、アラシェス。これはなんだろ。何か字がほってあるみたいでさ、他にもにたようなのがいくつも転がってるんだけど」

「何て書いてある?」

「ばっかだなあ、分からないからきいてるんじゃないか。おれ字なんてよめないし」そこまで言って少年ははっとしたように顔をしかめた。「もしかしてこれも手助けしたことになるのか。だったら言わなくていいからな」

「いや、砂漠越えとは関係ないから構わないぞ。だけどな、もし機会があれば文字は学んでおくといい」

「ええっ。やだよ、そんなの。勉強なんてだいきらいだし」

「そう言うな。俺も昔はそう思っていたが、知っていれば案外役立つこともあるものなんだ」

 顔をしかめた少年に笑ってから、アラシェスはその傍らに跪いた。淡い紫の花と濃い緑の雑草に覆われるようにして、一枚の古びた木片が砂の地面に埋め込まれている。覆いかぶさっている土埃を丁寧に払いのけると、朽ちかけた木片に刻まれている文字を一つ一つゆっくりと読み上げる。

「闘士サルバン、ここに眠る。この文字はそう書いてある」

「ここに眠る?」

「ああ」静かに頷く。「この木片は闘士サルバンの墓碑、つまりお墓なんだよ」

「おはか」

 少年はその木片の隣にあった縦長の石を覗き込んだ。再び問いかけるように見上げてきたので、アラシェスはそこに刻まれていた別の名を口にする。ふうん、と少年は頷いてから、しかし次第にその顔が強ばっていく。何かに気づいたようにその場に立ち上がると、落ち着かなげに辺りを見回した。

「……あのさ、でもまさか、こういうのぜんぶがおはかってわけじゃないよな」

「そのまさかだ」

 アラシェスも立ち上がって、周囲へ頭を巡らせた。注意深く見れば、丘の草花の合間から数えきれないほどの木片や石碑が姿を覗かせていることが分かる。それらの中には実際アラシェス自身が話をしたり、共に食事をしたりした人間のものも交ざっている。

「この安らぎの丘にある石碑や木片にはすべて人の名前と似たような祈りの文句が刻まれているんだよ。亡くなった闘士の数だけな」

「なくなったとうしの数だけ……」

 少年はぼんやりとつぶやいたが、自分の穴の空いた靴のつま先が先ほどの石に触れてしまっていることに気づくと、慌てたようにその足を後ろに退けた。すると今度は踵を木片にぶつけてしまい、それを避けようとしてさらに脇へと飛び跳ねる。しかし跳ねたその先でまた別の石碑に足が触れてしまう。

 少年はすっかり墓碑に取り囲まれていた。

 後ずさり、脇によろけ、前へつんのめりながら、少年はその場から逃げ出すように身を退けて、丘の外れまで行ったところでようやく止まった。石と土とで作られた段に踵を乗り上げて転んでしまったのだ。

「……これもだれかのおはかなのか?」

 アラシェスが近づいていくと、少年がしりもちをついたままぽつりと尋ねた。彼が躓いた段の先には腰の高さほどの壇が設けられていて、中央の砂の上に一本の細長い木片が突き立てられている。その木片は砂漠の日や風にさらされてかつての姿をおぼろげに残しているにすぎなかったが、しかしまるで丘を見守っているかのようにまっすぐ立っていた。

 その様を見つめながら、アラシェスは静かにかぶりを振った。

「いや。これは自由の剣だ」

「剣ってこのぼろぼろのが」

 少年の素直な感想にわずかに苦笑する。

「元は綺麗なものなんだぞ。鍔や柄に月桂樹の彫刻なんかがされていてな。闘士が特別な試合で勝利したりするともらえるものなんだ」

「ふうん。でも何でそんなものがこんなところにあるのさ?」

「闘士にとって自由の象徴だから。この剣を勝ち取った闘士は闘技に関わる一切のしがらみから解き放たれて自由になれる。ここで眠っている闘士たちも手に入れたんだよ、この剣を」

「手に入れることができたって」少年が意味が分からないというように首を傾げた。「だっておはかで眠ってるんだろ」

「そうだ。死んだことでようやく闘いから自由になれたんだ」

「死んだことでって……」

「お前がなりたいと言っていたものは、これから行く場所はそういうところなんだ」

 アラシェスはしゃがみ込むと、相手の濃い茶色の瞳をまっすぐに覗き込んだ。

「どうする、引き返すか」

 返事はなかった。少年は唇を噛みしめ、両手を握りしめて、まるでアラシェスの視線から逃げようとするかのように自分の足下をじっと見つめている。この旅の間中幾度となく繰り返してきた問いだったが、こんなことは初めてだった。今までは訊くと同時に笑い飛ばしたり時にはしつこいと怒ったりしていたのだ。

 しかし今、最後の最後になって黙り込んでいる。

 その様子を眺めながら、アラシェスは顔を歪めていた。失った左腕の古傷がずきんずきんと鈍く痛んで、右腕でぎゅっと握りしめる。

 まったく俺は酷いな。子供にこんな決断を押しつけようとして……

 少年がかさかさの唇を手の甲で擦った。ゆっくり立ち上がり、汚れたズボンを何度かはたく。アラシェスのことを睨みつけ、そしてゆっくりと口を開いた。砂漠の風に混じって、息を吸う音が聞こえる。

 何にしてもこれで決まる。

「おれは――」

 しかし、いつまで待ってもその続きは聞こえてこなかった。見れば少年は口を半ばまで開いた格好のままで固まっていて、その目も大きく見開いて、あらぬ方を見つめていた。さすがにいぶかしく思ってアラシェスが声をかけようとした時、彼も気づいた。背後から人が近づいてきている。

 その気配の主はいつものように淡々とした乱れのない歩調で隣までやってきた。

「戻ったのか、シェス」

「ついさっきな」

「そいつか」

「そのつもりだった」

「だった?」

「ああ」男の表情に乏しい顔に向かってアラシェスは頷く。「いずれにしても探すのはこれきりにするつもりだ。俺にはあまり向いていないらしい。それにそろそろカフィンも訓練が終わって正規の闘士になる頃だろうし――」

「あ、あのさ」少年が口を挟んできた。その茶色の瞳を輝かせながら、相変わらずやってきた男のことを熱心に見つめている。「おれのことおぼえてない?」

 男は少年を一瞥すると、その太い首を横に振った。

「いや」

「ほんとに? 何度かしゅうどういんに来てくれたじゃないか。おれ、あそこにいたんだよ。それにとうぎじょうに試合を見に行って、一言話だってしてくれただろ。おれさ、あんたみたいに強くなりたくてアラシェスと来たんだ」

 勢い込んで少年は言ったが、しかし男の方は再び首を振っただけだった。そこには古い知り合いと再会したというなつかしさめいたものはまるでなかったし、それどころか大人が子供に対する時のような愛想の欠片と言えるようなものさえ浮かんでいない。日に焼けた肌に疲れたような色をほんのわずかに浮かべて、淡々と相手を見返しているだけだ。

 そんな様子に少年も次第に力を失って、ついにがっくりとその肩を落とした。

「……そっか。じゃあちがう人なのかなあ。まあ、おれもはっきり顔まで覚えてるわけじゃないし、もし本当に会ってたとしても、おれ今よりもっと小さかったから分からないかもしれないし……でもにてると思ったんだけどなあ……」

 少年は言い訳するかのようにそんなことをぶつぶつとつぶやいていたが、不意にその言葉が途切れた。そして、つい先ほどまで嬉しさやなつかしさでいっぱいだったその顔にすっかり怒りの色をにじませて、男のことを睨みつける。

 少年の目と鼻の先、額から砂漠の砂粒一つ分ほどの距離にごつごつした男の拳があった。

「いきなりなにするんだよっ」

 怒鳴られた男は表情一つ変えず、その手を静かに下ろした。

「よけようとしなかったな」

「なぐられたら、もちろんやり返すつもりだったさ」

 少年は相手の下腹部に突きつけていた自分の拳を軽く小突くような真似をすると、アラシェスへ目を向けた。

「この乱暴なやつ、アラシェスの知り合い?」

「……ああ」

 そう頷きながら、しかしアラシェスの目は少年の腕に向けられたままでいる。目を離すことができなかったのだ。男が殴ろうとしたのを見て、少年は瞬時に殴り返そうとした。それだけではなく、相手が寸前で拳を止めると自らの拳も同じようにしたのだ。まだ十歳前後という年齢を考えると素晴らしい反応だったし、何よりも目を瞠るほどの度胸の良さだった。

 剣に触れたことがないとはいえ、やはりこの少年には素晴らしい闘士となれる可能性がある。それもとてもとても大きな可能性が。

「何だよ、人のことをじろじろ見て。言っておくけどおれがわるいんじゃないぞ。こいつから先にやってきたんだから」

「……ああ、分かっているよ。そうだな、紹介しておこうか。お前が乱暴なやつと呼んだ男はサウィード。俺の昔からの友達で、今は一応俺が後見している闘士でもある。そして近々折れない剣、つまり最高の闘士となる男だよ」

「まだ決まったわけではない」

「決まっているさ。この前の試合でお前をうち負かせる相手がいないことははっきりしただろう」サウィードがもの問いたげな視線を向けてきたが、しかしアラシェスは気づかぬふりをして続ける。「もっとも俺が留守にしていた間にそんな新しい闘士が現れたというなら話は別だが、そういう人間が簡単に見つかるとは俺には思えないな」

「よく分からないけど、つまりこの人が今一番強いってことなのか」

「ああ、そうだ」

「……サウィード」

 少年はその名の響きを確認するように口の中でつぶやき、それから改めて相手のことを見上げた。サウィードは中肉中背で、長身のアラシェスと比べるとその体躯は決して大きくない。だが、まだ小さな子供である少年の目には、そんな彼の姿も他の大人と同じようにとても大きいものとして映っているようだった。

「だったらおれがいずれたおすべき相手ってことだな」

「倒すべき?」アラシェスの目が見開いた。「それじゃお前……」

「当たり前だろ。そのためにここまで来たんだから」

「しかしつい先ほどお前は怯えていたんじゃないのか」

「やっぱそうか。アラシェスはおれをおどかそうとしてこんな場所につれてきたんだな。ほんと、いじわるだよなあ」唇をそう尖らせてから、少年はにっと笑った。「でもさ、考えてみたらおれにはこんな場所かんけいないし」

「関係ない?」

「だってさ、勝ちつづけていればこんな場所に来ることないじゃんか。だからおれにはかんけいないよ」

 少年は無数の墓碑が集まる丘の中心へ頭を巡らせた。それからまるでその一つ一つに挑戦でもしているかのように、草花の合間に埋もれている木片や石碑を見渡していく。

 そして改めてアラシェスへと向き直った。

「おれはここでとうしになる」そう言って、軽く首を傾げる。「えーと、教わった言い方だと何て言えばいいんだっけ……おれは自分の手で剣をとる、だっけ?」

 アラシェスはそんな少年のことを眩しい砂漠の太陽でも見ているかのように眺めていた。疲労と汚れでいっぱいの少年の顔には様々な感情が浮かんでいる。子供だから持てる根拠のない自信と素直な好奇心、わずかに顔を覗かせている不安とそれを隠そうとする強がり――

 ただそこに、先ほどまであった迷いの色がすっかりなくなっていることだけはたしかだった。代わりに今までにないほどはっきりとした決意の色が浮かんでいる。もしサウィードがこの場に現れていなかったら何と答えたのか少しだけ気になったが、今となってはもう聞くことはかなわないだろうし、何よりアラシェス自身がこれ以上問いかける気になれなかった。あのような可能性の煌めきを見せられてしまっては。

 だから頷いた。

「分かった。お前を俺の闘士にしよう」

 そのアラシェスの言葉に少年は力強く頷き返してから、サウィードに向かって拳を突き出そうとした。しかし途中で思い直したようにその拳を引っ込めると、両腕を正面に構えて少々おぼつかない仕草で振り下ろした。

「剣をふるってこんな感じなのかな。おれ、剣ってもったことないからよく分からないんだよな」少し照れくさそうに笑う。「そういうわけだからさ、おれがもう少し強くなったらちゃんとやろうな、今度は剣で。まあ、あんたがその時まで強ければだけど」

「お前、名は?」

 サウィードが尋ねる。

「な?」少年はぱちぱちと瞬きをしてから頷いた。「ああ、名前のことか。そういや言ってなかったっけ。おれはハールだよ、ハール」

「ハール。その時を楽しみにしている」

「ちっとも楽しみって顔には見えないけどまあいいか。よし、アラシェス、さっさとしゅっぱつしようぜ。とうぎじょうまであとどのくらいなんだ?」

「もうすぐだ。今たどってきた道の反対側は闘技場のそばから延びているんだよ。ほら、ここからも街並みが浮かび上がってるのが見えるだろう」

「ほんとだ、気づかなかったっ。やっとついたのかあ。喉はからからだし、お腹もぺこぺこだよ。旅のあいだはいっさい手助けしないとか言って、どっかのだれかがけちだったからさあ。でもさ、まちについたら――」

「分かった、分かった」アラシェスは腰から巾着を外すと、少年に向けて放り投げた。

「その金で好きなものを好きなだけ食べていいぞ」

「やったっ」

 硬貨が詰まった袋を握りしめると、ハールは元気一杯という様子で丘から駆け出した。先ほどまでの重い足取りが嘘のようだ。目的地をその目で見て、そして飲み物食べ物という言葉を聞いてすっかり力を取り戻したらしい。

「サウィード、お前はどうする?」

 そう声をかけると古くからの友人は首を横に振り、古びた木碑や小さな石碑が並んでいる丘の中央へ進んでいった。どうやらしばらくここで時間を過ごすつもりらしい。

 アラシェスは頭を巡らせた。

 見渡す限りに砂と岩の景色が広がっている。強い陽射しが辺りを黄金色に染め上げて、吹き抜けていく風が美しい波模様を幾重にも折り重ねていた。そんな黄金色した海の彼方に、砂塵に白く煙っている眺めの向こうに、小さな街の姿が蜃気楼のようにうっすらと浮かび上がっている。

 ここからだと街は小さな集落ほどにしか見えなかったが、それでも丸い石造りの建造物の姿を見分けることはできる。それこそがアラシェスの、ハールの目的地。闘いの、そして生きていく舞台。

 アラシェスは新しく自分の闘士となった少年の後を追いかけるようにして丘を下り始めた。

 その場所、イーハの闘技場に向かって。