プロローグ



 速水市夏が生まれ育った浦和の街から転校することになったのは、中学二年生の六月のことだった。両親の離婚に伴い、母に引き取られることになった市夏は、幼馴染の友人たちとの別離を余儀なくされ、新潟市へと引っ越すことになる。

 中途半端な時期の転校は、時にそれだけで状況を難しくする。クラス編成から二ヶ月が経過し、既に女子のグループが出来上がった教室で、新しく居場所を見つけるのは決して簡単なことではない。

 市夏は人見知りをするタイプだったし、転校自体も初めての経験だった。真新しい空気の中でどうすれば良いか分からず、居たたまれない時間を潰すためだけに始めた読書は、気付けばクラスメイトたちとの間に隔絶を生んでしまった。いつしか友達を作ることを諦め、市夏は消費するためだけの日常を生きていく。

 孤独や寂しさに身を削られながら、変わらない風景を窓から眺める。心にあるのは、いつだって故郷の友人たちのことだった。進学を考える段階になったら、埼玉の高校へ通いたいと言おう。母に反対されたら父親を頼れば良い。両親が離婚しても、父と自分の関係が変わったわけじゃない。そんなことばかり考えていた。


 その日は朝からずっと、小雨が続いていて。

「速水。次の問題を解け」

 教師に名前を呼ばれた時、市夏はいつものように物思いに耽っていた。慌てて立ち上がり、広げたノートに目を落とすが、質問されている箇所が分からない。

 教壇に立っているのは、鬼教師の平井。この学校に来て、まだ二週間だが、既に何度も、彼が尋常ではないレベルの雷を落とす姿を見ている。質問箇所を聞き直したら、ぼーっとしていたことがバレてしまう。それによって引き起こされるだろう大惨事を思うだけで、身の毛がよだつ。何処に地雷があるか見当もつかない人なのだ。

 意識は飛んでいても、鼓膜には届いていたはずだ。当てられた問題を思い出せ。必死に記憶を追っていると、隣の席の男子が、目立たないように手を伸ばし、消しゴムを市夏の机の隅に置いた。飛び込んできたのは、白い消しゴムにボールペンで書かれた『問4』の文字。

 当てられた問いが分からない自分に気付き、教えてくれたのだろうか。隣の男子は頬に手を当てながら、つまらなそうに黒板を眺めている。

「早く答えろ。宿題だぞ」

 平井の恐ろしく低い声が響き、動揺しながらもノートを手に取る。大丈夫。平井の出す宿題の量は異常に多いけど、昨晩、きちんとやってきた。そう思ったのだが。

「……あの、すみません」

「どうした?」

 向けられた威圧的な眼差しに泣きそうになる。

「やってきたんですけど。四番だけ分からなくて……」

 次の瞬間、平井が手に持っていた教科書を思い切り教卓に叩き付けた。

 教室の空気が一瞬で凍りつく。

「何度も言ったよな。お前、俺の話を聞いているのか?」

 市夏の背筋を戦慄が走り抜けていた。

「ちゃんと考えたんですけど、本当に……」

「言い訳をするな! どうしようもない屑だな。何回、言われたら理解出来るんだ?分からないところは調べて、完答するまで登校して来るなと言ったはずだ。お前、人の話、聞いてんのか?」

「すみません」

 零れそうになる涙を堪えるだけで必死だった。

 平井は一度キレると、生徒が泣こうが謝ろうが、狂ったように説教を続ける。それを知っていたからこそ、きちんと宿題だってやってきていたのに、連立方程式の応用問題だけがどうしても分からなかったのだ。これまでなら兄に聞くことが出来たが、彼は父に引き取られている。母に分かるはずがないし、友達だっていない。市夏には、どうしようもなかったのだ。

「泣けば許されると思ってんじゃねえだろうな。顔を上げろ」

 もう一度、平井が教科書を教卓に叩き付けた。

 柔道部の顧問でもある平井は、体格も大きく、上品とは言えないその容貌も、威圧感に一役買っていた。

「何でお前らは言われたことも出来ねえんだ? 脳みそ腐ってんのか? 俺の話なんて聞いてないんだろ?」

「聞いてます……」

 必死に答えたのだが、語尾は震える唇の先で消えてしまった。

「適当な言い訳をするな!」

 信じられないような怒声が市夏の鼓膜に突き刺さる。

「分かってる問題だけ解いたって、勉強になんてなんねえんだよ。何度も言ってるのに、何で分からねえんだ? 馬鹿なのか? ああ、そうか。その頭には脳みそが入ってねえんだろ。じゃあ、勉強してもしょうがねえな。出てけ。意味ねえよ。お前みたいな奴が授業を受けても無駄だ」

「すみません」

「うるせえよ。出てけって言ってんだろ。俺の言うことを覚えられねえような奴に、教えることはねえんだよ!」

 どうすれば良いのだろう。何を言えば許してもらえるのだろう。

 ボロボロと零れ落ちる涙が、ノートを濡らしていく。

「お前、泣けば許してもらえるとでも思ってんのか? 恥ずかしい奴だな。小学校からやり直してこいよ」

 平井の凶器のような言葉が、市夏に次々と突き刺さる。

 もう、消えてしまいたい。逃げ出したい。

 折れた心が痛みすら分からなくなりかけたその時、


「恥ずかしいのは、あんたの方だろ」


 響いた言葉に、クラス中の誰もが耳を疑った。

 涙を拭い、顔を上げると、教室中の視線が市夏に、いや、市夏の隣の男子に集中していた。転校して来た当初から、市夏の隣の席にいた男子。

 喋ったことはないけれど、彼がクラス委員長であること、サッカー部のエースでありながら、学年一の成績を誇る秀才でもあることを市夏は知っていた。困ったことがあったら彼に相談すれば大丈夫だからと、転校して来た日に担任に言われていたのだ。女の子みたいな名前をしているけど、この学校で一番、頼りになるからと、担任が絶賛していた男。

 苛立ちの表情を浮かべ、平井を睨みつけている彼は、琴弾麗羅だった。

「琴弾。もう一回、言ってみろ」

「時間の無駄なんで、早く授業を進めませんか?」

 振り被り、平井は教科書を全力で床に叩き付ける。

「誰に向かって、ものを言ってるんだ?」

 物凄い形相で睨みつける平井に対し、麗羅は呆れたように溜息をつく。

「そんなことも分からないから、授業の質が低いんだ」

「もう一回、言ってみろ」

「その言葉しか言えないのか? 問題が解けない責任を、生徒に押し付けるなよ。怒鳴る前に、授業者としての無能を自覚する方が先だろ」

「貴様、もう一回、言ってみろ!」

 平井は肩を怒らせて麗羅の前に立ち、その胸倉を強引に絞め上げる。しかし、麗羅は即座にその手首を掴み、あっという間に関節を逆方向に捻り上げていた。情けないうめき声と共に平井の手が離れ、麗羅は涼しい顔で立ち上がる。

「中間テストのクラス別平均点。あんたの担当クラスが下位に並んでいたらしいじゃないか。テストを作ったのは、あんたなのに、どうして、その生徒が出来ないんだ?生徒が問題を解けなかったことを責める前に、自覚するべきことがあるだろ」

「俺が何処の大学を出たと思ってる!」

「問題を解く能力と、教える能力を同列で語るなよ」

 麗羅は涙を拭う市夏に目を移す。

「こいつは二週間前に引っ越して来たばかりだ。あんたが偉そうに語ったルールなんて、そもそも知らねえんだよ。教師なのに、どうして転校生も把握してないんだ? 暴言を謝れ。こいつが、あんたに責められる理由はない」

「ふざけるな。どうして俺が……」

 次の瞬間、反論しようとした平井の喉元を、麗羅は片手で絞め上げていた。

 柔道部顧問の平井に対し、背は高くても麗羅は少年らしい痩身だ。体重差も歴然だったが、大人の平井が両手で振りほどこうとしても、麗羅はびくともしなかった。

「謝罪しろ。あんたが泣かしたのは女だぞ」

 喉元を掴まれているせいで、平井は苦しそうに暴れることしか出来ない。

「教師なら、どんなルールを課しても良いと思うなよ。生徒は尊敬出来ない奴を教師だなんて認めない。あんたから学べるのは、人を不愉快にさせる方法だけだ」

 麗羅が乱暴に手を離し、むせるようにして平井は床に崩れ落ちた。

 教室中の誰もが息を飲み、二人を見つめている。市夏もまた、自分のために憤ってくれた少年を一心に見つめていた。その視線に気付き、麗羅はポケットから綺麗に折り畳まれたハンカチを取り出すと、優しく机の上に置いた。

「こんな奴のせいで傷つくことなんてない」

 そう言い残し、琴弾麗羅は教室を出て行ってしまった。

 やがて、平生の呼吸を取り戻した平井もまた、顔を真っ赤にして逃げるように教室を出て行き、混乱が支配した雨の日の授業に幕が下りる。

 渦中の二人が出て行ってなお、教室に重く広がった沈黙。

 その中心で、一向に収まらない激しい動悸を市夏は抱いていた。



             2


 自らの激昂が速水市夏にとってどれほどの意味を持っていたのか。琴弾麗羅は知らないだろう。翌日以降も二人が言葉を交わすことなどなかったし、世界は表情を変えることなく、当たり前の顔で回り続けていた。けれど、深く、静かに、市夏の心の中では革命が起こっていた。

 教師に暴言を吐いた麗羅に処分が科されることはなく、平井が数学の担当から外れるということもなかった。すべてが嘘だったみたいに、あの日の激昂など夏の幻でしかなかったかのように、日々は継続していく。しかし、あれほどまでに傲慢だった平井は、市夏のクラスでだけは大人しくなり、それ以降、彼は授業中に生徒と会話することをやめた。淡々と授業だけが進んでいき、誰も彼もが、あの日の出来事を忘れたように振る舞っていた。

 委員長という立場の話だけではなく、琴弾麗羅は文字通りの意味でクラスの中心だった。昨年、北信越大会まで勝ち残ったというサッカー部で、入部当初からレギュラーの座を勝ち取り、二年生にしてエースナンバーの十を背負った麗羅は、その活躍が見込まれて県選抜にも選出されている。中学校に入学して以来、ずっと首席の成績らしく、その快活さも相まって、女子の間でも絶大な人気を誇っているようだった。

 何処か影のある引き締まったルックスに、しなやかな長身。生まれながらにリーダーの素質を持ち得てしまったような、誰よりも目立つ男が琴弾麗羅だった。

 聞けば、父親は貿易業を営む会社の代表取締役で、市夏が通う公立中学の校区でも、一際目立つ大豪邸に住んでいるらしい。妹は競泳選手として、度々、地方紙を賑わしており、五年生にして県の小学生記録を保持しているらしかった。

 何処までも恵まれていて、誰よりも男らしい。琴弾麗羅はそんな男だった。

 どれだけ好きになったとしても、自分なんかのような女に、振り向いてくれるとは思えない。そう分かっているのに、動き始めた歯車は止められなかった。

 市夏の心は躍動し、転校をきっかけに始まった鬱屈とした日々が、彩り豊かな紫陽花のように開いていく。麗羅の隣、一番近くで彼の夏の匂いを感じながら、市夏は静かに恋をしていった。


 梅雨も終わりかけた七月上旬。

 下校途中、市夏は激しい夕立に見舞われ、慌てて近くにあった駄菓子屋の軒下に逃げ込む。お店の奥では、眠たそうな顔をした老婆が、ぼんやりとテレビを眺めていた。このまま、しばらく雨宿りをしても構わないだろうか。そんなことを考えながら、夕立を見つめていると……。

 バッグを傘のようにして雨を凌ぎながら、こちらへ駆けて来る学生服の男子が目に入った。彼と視線が交錯し、一瞬で呼吸が止まる。市夏を見つけ、嬉しそうに軒下に走り込んで来たのは、あの琴弾麗羅だったのだ。

「すげえ、夕立だな」

 びしょ濡れのバッグから、麗羅はスポーツタオルを取り出す。

「これ、使う?」

 彼の言葉に戸惑いながら、首を横に振る。

「そう。じゃあ、遠慮なく俺が使おう」

 びしょ濡れの身体を拭く麗羅を、市夏は横目で窺っていた。

 少し癖のある髪の毛も、ワイシャツの下に浮き出る鎖骨も、何だか妙に色っぽくて、とても同じ中学二年生だなんて思えない。

 平井から助けてくれたお礼を言うチャンスだ。そう思ったのだが、

「あの……。今日、サッカー部は?」

 唇から零れてきたのは、どうでも良いような質問だった。

「へー。俺がサッカー部だって知ってんだ?」

「グラウンドでボールを蹴っている姿を見たことがあるから」

「昨日、練習試合だったんだよ。結構、ハードでさ。今日は予報も雨だったし、県大会も近いから、レギュラー組は休みをもらえたんだ」

「二年生なのにレギュラーって凄いね」

 市夏の言葉に対し、麗羅は楽しそうに笑う。

「まあ、人数の多い競技だしな」

 謙遜しているが、彼が一年生の頃から中心選手だったことを市夏は知っている。弱まってきた雨脚を感じながら、生まれて初めて、それが止まないことを祈った。

 いつまでも降り続け。そうすれば、もっと彼と話し続けられる。お願いだから、今だけは止まないでくれ。そんなことを思っていたら……。

「新潟は、もう慣れた?」

 物憂げな眼差しで、彼がそう尋ねてきた。

「微妙……かな。何処に何があるのかも、よく分からないの」

「電車で行けるところも限られた田舎街だしな。教科書に『ホタルの里づくり』って話が載ってるけど、環境破壊どころか、新潟って市内でも蛍が飛んでるところがあるんだぜ。そんな街が政令指定都市を目指しているとか笑えるだろ?」

 クラスのはぐれ者みたいな自分に対しても、麗羅は普通に話してくれる。どうして彼はこんなにも優しくて、自然体なのだろう。容貌だけ見れば、少しきつい印象のある麗羅だが、その笑顔だけで市夏の心は温かくなる。

「蛍が見れる場所なんてあるんだね」

「群生しているわけじゃないけどな。隣の校区だし、自転車で行ける距離だよ」

「素敵。私は蛍って一度も見たことないや」

「ふーん。じゃあ、日曜日に見に行こうぜ」

「え?」

「案内してやるよ。初めて見たら感動すると思うし」

 どう反応して良いのか分からないほどに、意外な言葉が飛び込んできた。

「速水って、いつも教室で本を読んでるよな。友達とか欲しくない人?」

「そんなことないけど……」

「じゃあ、前の学校に彼氏とかいた?」

「まさか。そんなのいないよ」

「じゃあ、一緒に行こうぜ。俺も久しぶりに見たいって思ってたんだけど、蛍なんて男と並んで見るもんでもねえしな」

 どうして自分なんかを誘ってくれるんだろう。友達が出来ず、女子の輪にも入れていない自分を心配してくれているのだろうか。

「蛍って遅くなると眠っちゃって飛ばないんだ。だから、目指すのは日が沈んだ直後が良いんだけど、どう? 案内するよ」

 きっと今、麗羅は成熟と未成熟の真ん中にいるのだろう。彼の大人に対する刺々しさと、同級生に対する気遣いは、不思議なくらいに相反している。

「……うん。そうだね。行ってみたいかも」

「そう? 良かった。沢山、飛翔してると良いな」

 何もかもが信じられなかった。夢だったらどうしようと、自分の正気を疑ってもみたのだが、一向に覚める気配はない。高鳴る胸の鼓動が、彼に聞こえているのではないかとさえ思った。

 視界の先の道端で、市夏の好きなツユクサが、雨に濡れて青い花弁を揺らしている。

 多分、今、世界で一番幸せな雨宿りをしているのは自分だ。

 くすぐったいような夏の温もりの中で、それだけは市夏の中で確信に近かった。



             3


 一夏の物語が、市夏と麗羅の二人を変えていく。

 二人で蛍を見た夜から、穏やかにその距離は縮まっていき、二人は時々、麗羅の部活がない時間を共に過ごすようになった。夏休みの課題を図書館で一緒にやったり、麗羅の試合が市内で行われた時には、こっそり観戦に行ったり、面映い想いを抱きながら、市夏は麗羅との日々に幸福を感じていた。

 市夏が抱いているのは明確な恋心だが、麗羅が自分をどう思っているのかは分からない。彼は表情も豊かだし、口数も多いけれど、本心は掴めず、どれだけ距離が近付いても、その心は薄いベールに包まれているようだった。

 ある日の図書館の帰り道。路上のガードレールに腰掛け、自販機の安いアイスを食べながら、落ちてゆく夕陽を二人でぼんやりと見つめていると。

「俺、親友がいないんだよね」

 不意に、漏らすような声で麗羅がそう言った。

 教室でも、グラウンドでも、いつだって輪の中心にいて、誰にでも好かれ、こんなにも優しくて、温かい人なのに。何処か寂しそうに、麗羅はそう語った。

 夕焼けが見せた幻ではない。それは彼が初めて語った、内奥の言葉だった。

 誰よりも恵まれているから、人に頼る必要がないのかな。人に頼ったことがないから、心を預けることを知らないのかな。市夏が思ったのはそんなことで、それを告げると、呆気に取られたような顔で麗羅に見つめられた。それより先の言葉を麗羅は続けなかったし、市夏も尋ねなかったけれど、そんな沈黙でさえ心地好かった。

 言葉などなくても二人の時間はいつだって穏やかで、ビルの間を消えゆく夕陽を眺めながら、市夏は今、自分が一人でないことだけは確信していた。


 クラスメイトに見つからないよう、校区外で開かれた夏祭りに二人で出掛けたり、麗羅の部活が終わった後に、閑散とした小劇場にリバイバル映画を観に行ったり、そんな風にして、市夏と麗羅の夏休みは過ぎていった。

 告白してしまえば、この穏やかで幸せな時間に終わりがきてしまうかもしれない。胸の想いを市夏が告げることはなかったし、ガードレールから夕焼けを眺めたあの日以来、麗羅が心の奥にある言葉を話すこともなかった。それでも市夏は、今、そこにある幸せを噛み締めながら、十四歳という幸福な時を過ごしていた。そんな日々が、いつまでも続くと信じられる程度には、まだ幼かったのだ。



             4


 運命は時に、予見し得ない場所へと交差点を作る。

 十月のある寒い秋の日に、母が予期せぬ言葉を市夏に告げた。突然、埼玉に戻ることにしたと言い始めたのだ。半年間、新潟市で暮らしたものの、母は安住の勤め先を見つけられず、派遣業務に従事する日々だったのだが、かつての友人の伝手で、半年前まで住んでいた地域に理想的な就職先が見つかったらしい。

 埼玉県の浦和市は、市夏が生まれた時から暮らしていた街だ。母は引越しを娘に反対されるなどとは夢にも思っていなかったし、中学二年生でしかない市夏の力でどうこう出来る問題でもなかった。祖父母の家に市夏が一人で残るなんてことを母が許すはずもなく、十四歳の市夏にとって、琴弾麗羅の存在は人生のすべてになりつつあったが、親の決定に抗えるはずもなかった。

 すぐにでも働き始めて欲しいという就職先の要望に応える形で、あっという間に引越しの日取りが決まる。何もかもが早送りにしたように進んでいき、市夏には嘆く暇も、感傷に浸る暇も与えられなかった。


 新潟市を離れても祖父母の家があるのだから、年に一度くらいは帰って来ることが出来るだろう。だけど、幼い自分たちにとって距離や時間というものが、どれだけの意味を持つのか。それが分からないほどに子どもでもなかった。

 離れてしまえば麗羅と自分の温かくも不思議な関係は潰えてしまう。何の約束も拘束力も持たない二人の関係なんて、たった数ヶ月で霧散してしまうに違いない。

 浦和に戻ることになったことを告げると、麗羅は寂しそうに笑って、

「急な話だな」

 と、顔色を変えることもなく、淡々と漏らした。


 琴弾麗羅にとって、自分はどんな存在なんだろう。

 こんな風にして分かたれても、彼の心は軋むことなどないのだろうか。市夏が麗羅に告げたいと願っている言葉は、それほど多くはない。だけど、閉じ込めて忘れてしまえるほどに少なくもない。


 引越し前日、新潟で過ごす最後の放課後に、市夏は麗羅を呼び止めた。

 面と向かって、すべてを過不足なく伝える自信はない。一晩中かかって想いを託した手紙を麗羅に渡した。

「いつか返事を聞かせて欲しい」

 引越し先の住所が裏面に記された手紙を、麗羅は見つめている。

「これって、平たく言うと何?」

「……告白、みたいな感じかな」

「そっか」

「うん。ごめんね」

「何で謝るの?」

 麗羅は苦笑を漏らした。その表情で、どうしようもないほどに迷惑がられているわけでもないことに気付く。

「市夏。明日、こっちを何時に発つの?」

「十二時の新幹線。指定席を取ったって言ってたから、それで確定だと思う」

 もう一度、琴弾麗羅は手紙に目を落とした。

「分かった。ちゃんと読むよ。そして、明日、見送りに行く」

「学校があるよ」

「明日は二時間目に具合が悪くなる予定なんだ。もう、そう決まってる。だから、もしもこれが告白なら、俺はちゃんと答えるよ。きちんと読んで、明日、お前に答える」

「無理しなくて良いよ」

「無理じゃねえよ。本当は俺から言いたかったんだ」


 その夜、麗羅に最後に告げられた言葉の意味を、市夏はきっと百回以上、考察しただろう。彼の心を、その言葉の意味を、市夏は深く想った。

 浦和への引越しの日。新幹線発車の随分と前から、市夏は新潟駅に到着していた。そんなに早く出てどうするのと渋る母を無理やり引っ張り、いつ琴弾麗羅が現れても良いように、市夏は全身全霊で彼の到着を待っていた。

 しかし、最後まで。

 市夏と母が乗る新幹線が発車するその時がきてもなお、麗羅は現れなかった。

『本当は俺から言いたかったんだ』

 あの言葉は一体、どういう意味だったんだろう。まるで呪いの言葉のように、幾億回も頭の中で回り続ける麗羅の声。もしも、その言葉が、そういう意味なのだとしたら、あの日、麗羅がホームに現れなかった理由が分からない。


 引っ越してから数週間が経ち、どうしても我慢出来なくなった市夏は、麗羅の自宅に電話をかけた。振られるのなら、振られるで構わない。初めから自分なんかが釣り合うとも思っていない。だけど、それならそうと、はっきりとした言葉が欲しかった。中途半端な希望は、絶望よりも性質が悪い。

 しかし、奮った勇気は、さらなる混乱を呼び起こすことになる。無機質なアナウンスが、琴弾麗羅の自宅の電話番号が使われていないことを告げたのだ。

 意味が分からない。あの夏、自分たちは何度か電話で話もしている。かけ間違えたのかと思い、繰り返し電話してみたのだが、アナウンスが流れるだけだった。


 そして、新年。

 年始の母の帰省に伴い、二ヶ月振りに新潟の地に降り立った市夏は、真っ先に琴弾麗羅の自宅を訪ねてみた。もう一度、会いたい。どんな冷たい言葉でも良いから、彼の声を聞きたかった。しかし、そこに広がっていたのは、高い有刺鉄線で囲われた空き地だった。数ヶ月前に見た琴弾家の大豪邸は、それが幻であったかのように、綺麗に消え去っていたのだ。

 あの日、琴弾麗羅が駅に現れなかった理由も、彼が自分のことを本当はどう想っていたのかも、速水市夏は知ることが出来なかった。答えが与えられなかった告白は、呪いのように市夏の心を蝕む。


 琴弾麗羅は今、何処で何をしているのだろう。あの別れから三年が経った今もなお、市夏の想いは彼に囚われ、答えを探し続けている。