しんと、世界から音が消えた。

 夜空に星はなく、墨汁を落としたような黒で辺りは染まっている。反対に、降り積もった雪が黒を一切寄せ付けず、地上は真っ白に輝いた。

 自ら輝きを放つ雪。

 そう見えたのなら、それは錯覚だ。

 その方が幻想的だったから今の状況も忘れられた。等間隔に設置された街灯の光を反射することで雪そのものが発光しているかのように見えるのだ。現実に目を逸らせば、ほら、街灯の光が届いていない地面はまったくの暗闇。

 静けさがあまりにも怖ろしかったのでそんなどうでもいいことを考えた。

 暴行を受けた体は言うことを聞かない。体温が徐々に下がっていくのを自覚する。打ち捨てられた場所が街灯の下であったなら死なずに済むかもしれない、と分析し、苦笑した。街灯の光から外れたこの場所は、暗い上に雪の冷たさが健在で、そもそも人通りは皆無。誰かに発見される確率は低いだろうし確実に凍死できる立地条件。

 寂しい最期だ。

 きっと俺に相応しい。

「……アニキもこんなの眺めながら逝ったんかなあ」

 普段の調子で吐いた言葉も、白い息が霞むだけで声にならなかった。唇を動かすだけでも精一杯なのだと理解して、いよいよくたばるかと観念した。

 さくっ、さくっ、さくっ、────。

 雪を踏む音が近づいてくる。どこか楽しげなその足取りは、やがて薄ぼんやりとした視界の端にまでやって来て、すぐ傍で停止した。

「よく怪我をする人なんですね、君は」

 その声に、その笑顔に、涙腺が緩んだ。

 年甲斐もなく泣いた。雪に顔を押し付けて絞り出すように嗚咽する。


 アニキに迎えに来てほしかったんだと、気づいてしまったから。

 アニキにはもう会えないのだと、気づいてしまったから。


      *   *   *


 実家の父親の書斎で、雪路雅彦は書棚に収まったファイルに片っ端から目を通した。欲しいものは父の市長時代の記録、秘書の名簿だった。

 しかし、いくら探せども名簿どころか市政に関する資料は何一つ出て来なかった。出て来るものは退陣した後の活動記録ばかりだ。

 雪路は嘆息する。そう簡単に見つかるわけがないと思ってはいたが、ここで見つからないとなると早くも手詰まりだ。正直、手探りで調べられる限界はこの書棚までだと決めていた。そうでなくても父の書斎、入るのも初めてで、それもこっそりと侵入しているのだから緊張しない方がおかしい。父の仕事机に触るなんてとてもとても。

「……そうも言ってらんねえよなあ」

 はっきりさせておきたいことがあったのだ。

 古新聞に偶然見つけた事故の記事。そこに記載されていた故人が『日暮』姓であり、かつ私設秘書だったことが書かれていた。十八年前だ。しかも別の紙面には父の名前と、旅人が気にしていた人物・白石警部のことまで載っていた。

 おかしな因果だ。もしや事故で死亡した日暮何某は旅人の父親なのではないだろうか。そして秘書として当時の市長・雪路照之の下に付いていたのではないだろうか。そんなことを考えてしまう。

 一度考え始めると止まらなくなり、我慢ならなくなった。

 私設秘書のことも白石警部のことも、知りたければ繋がりのある人物を探るのが一番早い。というわけで、直接顔を合わせることだけは避けたかったので、こうしてスパイ紛いなことをしているのだった。

 勇気を振り絞って父の仕事机を漁るものの、鍵が掛かっている箇所以外には目ぼしい物は見当たらなかった。

「…………」

 少し迷う。ピッキングすべきかどうか。

「何をしているんだ?」

 背広を着た六十半ばの男性が書斎の入り口に立ってこちらを窺っていた。父・雪路照之である。雪路は驚きのあまり飛び上がり、条件反射で背筋が伸びた。

「お、お帰りなさいませ。お父様」

「うむ。それで、何をしているのかと訊いているんだが」

「あ、お、その、──そう! 辞書を借りに来たのです! スペイン語の!」

「スペイン語? おまえの専攻は英語だろう? 何に使う気だ?」

「……りょ、旅行に行こうかと」

 咄嗟の嘘にしては上々だろうと感じ、そのまま突き進む。

「お父様なら世界各国の辞書をお持ちになられていると思いまして。勝手に入ってしまい申し訳ありません」

 素直に頭を下げた。鋭い眼光で睨めつけられ、雪路は生きた心地がしない。

 厳格な父は昔から畏敬の対象であり、親愛という感情を抱いた例しはなかった。およそ子が親にする話し方ではないが、これが雪路家の常である。

 照之が椅子に座ると、雪路は机を迂回して正面に回った。

「旅行だと? ふん、大学には行っているのか? おまえも今年で三回生だろう。遊んでいる暇なぞあったのか? 現を抜かすな。勉学に励め」

「……見聞を広める意味でも海外に行くことは無駄ではありません」

 ばん、と机が叩かれた。突然のことでも、雪路の表情は微塵も動かない。

「一週間かそこらの旅行でその国の何がわかるか! おまえのような出来損ないが偉そうに! スペイン語を勉強している暇があるなら英語を使いこなせるようになっておけ! 中途半端をしおって! 私に意見したくば兄の成績を超えてからにしろ!」

 怒声に相槌を打ち、「失礼しました」と断って書斎を出て行く。

 照之は我が子であっても他人のように容赦がない。人の親という自覚すら無いのだ、と雪路は思っている。

 ──出来損ない、か。てめえの息子に言う台詞かよ。

 慣れてしまったから別段何の感情も湧かない。会話をすれば大抵は怒鳴られて終わりだ、説教が長くならない分ラクでいい、最近ではそう開き直っている。

 蔑まれるのもいつものことだ。

「あ、一つお訊きしてもよろしいでしょうか? 昔、日暮という名前の秘書を雇ったことはありませんか?」

 扉を閉める直前、思い出したように尋ねてみた。照之は眉一つ動かさずに、

「昔とはいつのことだ? 秘書の名前なぞいちいち憶えていられるか!」

 頭を下げつつ、ゆっくりと扉を閉めた。


 馬鹿みたいに広い雪路家の敷地内には、本邸とは別に離れが作られてある。

 雪路の兄・勝彦に宛がわれた家である。庭に出て、五年前からただの物置と化している離れに近づき、雪路は七歳離れた兄のことを思う。

 勤勉で努力家で、何よりも優しかった勝彦を雪路は心から慕っていた。小学校に上がる頃に母を亡くし、以来勝彦が母の代わりをしてくれたのだが、それも慕う理由の一つだった。父に叱責されれば、勝彦がその分甘やかしてくれた。時には叱り付けられることもあったけれど、雪路を想ってのことだとわかるので素直に受け入れることができた。

 厳しいだけの父とは違う。勝彦には愛情があった。母がいなくとも寂しい思いをせずに済んだのは勝彦のおかげである。

 勝彦はよく言ったものだ。

「マサはやりたいことをしなよ。お父様の言いつけなんて聞かなくていい。未来は自分で決めていいんだ」

「お兄様は? お兄様もそうするの?」

「うん。そうだね。僕はお父様の跡を継ぐよ。立派な政治家になって、いつかお父様を超えるんだ。それが僕の夢だよ」

 少しだけ哀しげな目が印象的だった。

 けれど、格好良く見えたものだった。

 秀才で通る兄ならばきっと叶う夢だ。雪路は勝彦を全力で応援した。

 ──五年前の雪の日に、勝彦が首を吊るまでは。

「……」

 今にして思えば、あの日語った夢は父への復讐を誓うものだったのだ。

 執拗に理想ばかりを押し付ける父の矢面に立ち、弟を守りながら、父の理想を超えようと奮闘した。おそらくは母の愛を一番に欲していたのは勝彦だったはずで、誰にも甘えることができずにとうとう心を壊してしまったのだ。

 離れの一室で吊り下がった勝彦の姿を、雪路は一生忘れない。

 トラウマにもなった離れにはよほどのことが無い限り出入りしていない。時々、こうして眺めるだけだ。もう誰も使わないし使いたくないだろうけれど、取り壊すつもりはない。

 これは烙印だ。

 父の行き過ぎた教育に対しての。

 大好きだった兄を救えなかった、甘ったれな自分に対しての。

「っ、はああ、懲りねえな俺も」

 いろんなことを思い出してしまうから極力実家には帰って来ない。帰っても離れを意識しないようにしているつもりだった。けれど、どうしても目が行ってしまう。足を向けてしまう。そのたびに、思い知ってへこむのだ。

 踵を返して本邸に戻る。庭を横切っている最中、くいくいと袖を引っ張られた。

「お兄様」

 囁くほどに小さい声で呼ばれる。振り返ると、上品な形をしたお嬢様風の女の子が背後にぴったりとくっついていた。腹違いの妹・麗羅である。

 確か、今年から中学生のはずだ。それでも幼さを残したおかっぱ頭は、縋るように雪路を見上げていた。

「よう、レイラ。久しぶりだな。元気だったか?」

 こくん、と小さく頷いた。無表情を雪路に向けて何かを訴えてくる。

「なんだ、腹減ったのか?」

 再び、こくん、頷く。時刻はお昼を過ぎたばかりだ。雪路は仕方ないとばかりに嘆息し、麗羅と連れ立って歩く。

「そういやおまえ、さっきまでどこにいたんだ?」

 あの場で雪路の背後から現れたということは麗羅も離れにいたのだろうが、どうにも釈然としない。昔から、離れは幽霊が出そうだから怖いと言って近づきもしなかった麗羅である。麗羅は無表情を向けるだけで答えてくれなかった。

 ……まあ、こいつもいい歳だし、自分ンちのどこにいようと勝手だけどさ。

 本邸のキッチンで昼食に使えそうな食材を適当に見繕う。その間も、麗羅は袖を摘んで離さない。鬱陶しくはあるが、振り払うほどでもないので好きにさせる。

「一味さん、来てないのか?」

 家政婦の名前を口にすると、麗羅はふるふると首を振った。

「……来てんのか? なら、なんで一味さんにご飯作ってもらわなかったんだよ?」

「お兄様がいい」

 無表情なままじっと雪路を見据える。雪路は苦笑した。いつもご飯を作ってくれる家政婦よりも、作ってくれた例しがない無責任な母親よりも、実家から逃げ出したチンピラの手料理が食べたいだなんて、どこまでも憐れだ。

 兄に倣って自分も妹を大切にしようとしたことがある。料理を覚えたのは妹の母親代わりになりたかったからだ。しかし、実際に麗羅の母は健在で、それで雪路が勝彦になれるわけでもなかった。

 フライパンを振り回しながら、ここでこうして料理を作っている自分を不思議に感じた。我が家でありながら他人の家にいる感覚だ。

 兄を欠き、孤立無援になった雪路にこの家の居心地は最悪だった。

 幸い、未成年には過ぎたお小遣いをもらっていたので家出をするのは簡単だった。金をちらつかせれば大抵の奴は言いなりになってくれる。衣食住を確保し、悪い連中と付き合い、女をはべらせて馬鹿をして、金が底を突いたときだけ実家に戻った。高校時代の自分は本当に腐っていたと思う。

 日暮旅人に出会わなかったら、今でもそんな生活を続けていたことだろう。

 オムライスと野菜スープを麗羅の前に配膳する。即席ではあるが、味はプロにも引けを取らない自信があり、一口食べた麗羅の反応を密かに期待する。

 麗羅は表情を変えることなく黙々と食べ進めていく。手を止めないところから味に不満が無いのはよくわかるのだが、

「……ちょっとは美味しそうに食えないのか」

「?」

「いや、なんでもない。さっさと食っちまえ」

 こくこく頷き、食事を再開する。雪路は小さく溜め息を吐いた。

 麗羅がここまで感情を表に出さなくなったのはひとえに親父のせいである。雪路ですら震え上がる親父がいるこの家に、兄弟は麗羅だけを残していなくなった。躾を一身に受けた麗羅が心を閉ざすのもわかるというものだ。

 雪路に懐くフリは「もうどこにも行くな」という訴えだろう。後ろめたさは十分感じているが、応えてやろうという気はない。雪路には雪路の生活があるのだ、今さら実家に戻ってどうなる。

 どこまでも無口な妹を眺めているうちに、最近は特に賑やかな『探し物探偵事務所』が恋しくなった。


         *


 ──恋しくはなったが、姦しさまで望んでいない。

「きゃ~っ、テイちゃんそのお洋服も可愛いね!」

「そうね。でも、勘違いしないでね。それはモデルが良いからなのよ? なんでも着こなせるなんて、罪な女よねわたしって」

「髪の毛もさらさらだからリボンがよく似合うね。あ、ほらほら今度はこっちの着てみて! うふふふ、お人形遊びしているみたいで楽しい!」

「お人形遊びっ!? なんて失礼な人なのかしら! そんなこと言う人にはもう構ってあげない!」

「三つ編みしていい? あ、このワンピースも良い感じ! ね、ね、ヌイグルミ抱いてみてみて! やーん、可愛い~っ、持って帰りた~い!」

「やーっ! くっつかないで!? わたしで遊ぶなーっ!」

 事務所のリビングに入った途端、目に飛び込んできた光景に雪路は呆れ果てる。

「……何やってんだ」

「ああ、ユキジ。おかえり」

 気づいた旅人に迎えられた。「おかえり」が我が家を意識させて少し面映ゆい。

「この間アリーナパークで買ってきたお洋服の試着だって」

 リビングにはアリーナパークの買い物袋が散乱し、それを上回る数の洋服が広げられている。中心に立つ灯衣が可愛らしい格好をしているものの、テンションを上げているのは陽子の方で、試着というよりは着せ替えに近い。

「……陽子さんが来るとほんとうるさくなるな、ここも」

 灯衣を除けば、普段事務所に出入りする人間は男ばかりだ。陽子が一人加わるだけで途端に明るさが増すようだ。

 雪路のうんざりした口調に、旅人は柔らかく微笑んだ。

「テイがあんなにはしゃげるのは陽子先生にだけだからね。陽子先生には感謝してもし切れない」

「……はしゃいでんのはテイちゃんだけじゃねえだろ」

 旅人は首を傾げる。まったく、自覚が無いというのも考えものだ。

 陽子がようやく雪路の姿に気づいた。

「あ、ユキジ君。来てたんだ。こんにちは」

「来てたんだ、じゃねえよ。客はアンタの方だろうが。保育園はいいのか?」

 陽子は呆れたように唇を尖らせる。

「何言ってんのよ。今日は日曜日でお休みです。テイちゃんがここにいるんだから園に行ってもしょうがないでしょ」

 言われて、その通りだったと苦い顔をする。実家に寄ったせいか、どうにも調子がおかしい。頭がうまく回っていない。

 旅人がソファから立ち上がり、「後はよろしく」と雪路の肩を叩いた。

「あん? 何がよろしくって?」

「だから、テイのことだよ。僕はこれから浅野和代先生のところに行くから。あれ?もしかして忘れてた?」

 浅野和代先生とは、懇意にしている町医者・榎木ドクターの恩師にあたる人だ。縁あって、旅人は定期的に浅野和代の元へ赴き、彼女の患った目のリハビリに協力していた。給金が出るので決して外せない仕事である。

 今日がその日であったことを、雪路は完全に失念していた。

「悪ぃ、すっかり忘れてた。車回してくるからちょっと待っててくれ」

 旅人は首を横に振って「バスで行くからいいよ」断ると、傍らに置いていた鞄を持ち上げた。その鞄には見覚えがなかったので、訝しげに旅人を見た。

 旅人は自慢げに鞄を見せつける。

「これ? 増子さんに報酬代わりに頂いたんだよ。テイが鞄くらい持ちなさいっていつも言っていたから、ちょうど良かった」

「あんまりオシャレじゃないからがっかりだわ。増子さんってもう少しセンスあると思っていたのに」

 ぷーっと頬を膨らませるのは灯衣だ。旅人は「そんなこと言っちゃ駄目だよ」と窘めるだけでフォローしない。本人がこの場にいないとはいえ、増子のことをここまで悪し様に言えるのはこの親子くらいのものである。

「あの増子さんがねえ。テイちゃんの洋服といい、どんな風の吹き回しなんだか」

「僕は気に入っているんだけどね。陽子先生も良いと思いますよね? この鞄」

「はい。旅人さんに似合っていて、素敵です」

 陽子は臆面もなく言ってのけた。──あれ? なんか雰囲気違くないか?

 旅人は笑顔で応えてそのままリビングを出て行き、気づいた雪路も慌ててリビングを出る。相変わらず間を外すのが上手い兄貴分である。

「待てって。送っていくよ」

「一人でも平気だよ。それよりも、陽子先生にきちんと説明しておいて」

「説明? 何の?」

「川村祐介さんのこと。ドラッグ、調べが付いてるんでしょ?」

 脱帽する。なんでそういうことにばかり鋭いんだろう、この人は。

 それはほんの二週間前のこと。陽子に、友人の川村祐介が行方不明になったので探してほしいと頼まれたことが発端だ。

 祐介は借金返済のためにドラッグの密売に手を染め、仕舞いにはドラッグを過剰摂取した後遺症で自我を欠き、現在は警察病院に収容されている。裏で暴力団が手引きをしていたはずなのだが、警察はそのことを一切公表せず『川村祐介の単独犯罪』として捜査を打ち切ってしまったのだ。

 雪路は陽子の依頼で引き続き調査を行っており、すでに結果は出ていた。

 しかし、陽子にそれを話すのは躊躇われた。

「陽子先生には知る権利があるよ。依頼された以上、報告するのは僕らの義務だ」

「……いいのかよ。これ以上深入りさせても面倒なだけだぞ」

「情報の線引きはユキジに任せるよ。黙ったままだと余計な心配をさせるだけだよ」

 確かに、根掘り葉掘り訊かれる前にこちらから報告してやるのも手だ。何もわかったこと全部教えてやる必要はない。納得するしないは陽子の都合であって、こちらはただ報告したという体裁さえ整えておけばいい。

 騒がれる前に餌を与えておけ、というわけだ。もちろん、陽子を慮ってのことである。正義感の強い彼女に無茶な行動を取られても困るのだ。

「わかったよ。ま、気になり出す頃ではあるんだろうよ」

「今日は調査の進展が知りたくて事務所に来たみたいだから、はぐらかすのは難しいよ」

「ったく、面倒臭え」

 旅人を見送ってからリビングに戻る。すると、居住まいを正した陽子に迎えられた。

「ユキジ君に訊きたいことがあります」

「へいへい」

 苦笑しつつ、陽子と対面する形で座る。旅人とのやり取りを知らない陽子は訝しげな様子だ。雪路が素直なのでうろたえているようだった。

 雪路は陽子から視線を外すと、床に座り込む灯衣を見つめた。灯衣はやれやれと肩を竦めた。

「……わたし、お部屋に戻るわ。眠くなったからお昼寝してくる」

 普段はくそ生意気に見えるが、今だけはその物分かりの良さが素直にありがたい。言われる前に自ら退席した灯衣はとても空気を読んでいる。散乱した洋服を片付けずに行ったのはわずかばかりの意趣返しとして受け止めておく。

 灯衣がいなくなり、雪路は早速切り出した。

「陽子さんの訊きたいことってのは、川村祐介の一件だろう?」

「あ、うん。祐介君、あれからずっと意識が戻らないって聞いたの。それってドラッグの副作用が原因なんでしょ?」

「ああ。どうやらそうらしい」

「教えて。わかったこと全部。どうして警察は動いてくれないの? 暴力団が関わってるのは誰の目にも明らかなはずでしょ。なのに、どうして」

「……」

 さて、いきなり困った。警察と暴力団の関係か。

 そちらは調べが付いているわけではないが、大体予測は付いている。

 警察と暴力団は長年いたちごっこをしてきた間柄だ。そこには奇妙な信頼関係すら成立していた。阿吽の呼吸とでも言うか、持ちつ持たれつとでも呼べばよいのか、暴力団が地域密着ならなおさら、互いに不利益にならないように配慮しながら活動している。

 街の治安はもちろん警察が守るものだが、アングラにはそこに相応しい秩序が必要だ。それが暴力団なのだ。警察は正義と法で取り締まり、暴力団は金と暴力で支配する、両側面から抑え付けることで街の風紀はバランスを維持できた。

 バランスを崩すことは双方にとって利にならないのだ。いくら暴力団が急所を晒したとしても警察は不用意にメスを入れられない。アングラの風紀を含めての治安である、金と暴力による支配が失われてしまうと風紀は乱れ、いよいよ治安は守れなくなる。

 今回の一件はそこに抵触したのだろう。暴力団の弱体化は望むところだが、段階的でなければならなかった。

「急所は見つけたがすぐに攻撃するのは憚られる。様子を見つつ、時期が来たら今回の一件を攻撃材料にするつもりなんだろう。ま、他にもいろいろ思惑がありそうだけど」

「……」

 雪路の説明に、陽子は難しい顔をして唸る。

「じゃあ何、警察は初めから動く気無かったってこと?」

「そうじゃねえさ。現行犯なら暴力団の構成員であってもとっ捕まえるさ。現行犯ならな。で、結局捕まったのは川村祐介。ドラッグに依存して、その上密売までしやがったんだ、立派な現行犯さ。これで手打ちってことにしたいんだろう、お互いにな」

 警察はドラッグ密売犯の逮捕で面目を保ち、暴力団は痛い腹を探られなくて済むので一石二鳥というわけだ。

 陽子は納得しかねるのか眉を顰めている。

「警察を責めてやるなよ。見た目、守るべきもんが多いのは警察の方なんだからよ。暴力団を刺激して一般市民に被害が及んでも責められるのはまた警察だ。対応が悪いとかなんとか言われてな。慎重になっても仕方がない」

 と言うのも実は建前だ。

 雪路はさらに踏み込んで別の可能性を思案する。

 過去に遡ってドラッグの密売で捕まった人間をリストアップしてみると、川村祐介と同様に半端なチンピラばかりが目立った。そういう末端に商売をさせるのは不自然なことではないが、捜査の手が組の構成員に及んだ事例は意外に少ない。売人の検挙率と芋づる式に捕まった黒幕の人数に開きがあり過ぎた。警察が無能だったのか、犯罪者が一枚上手だったのか。

 そのどちらでもないとしたら、もしや警察は暴力団と取引をしているのではないか。

 暴力団は川村祐介のような行き場を失ったチンピラに上納金を稼がせて、警察の手が回ってきたら素直に差し出す。警察(この場合、個人の警官)は差し出された売人を捕まえて点数を稼ぎ、暴力団のシノギを見逃す。双方にとって損はなく、利だけが残る優れたシステム。祐介は体のいいスケープゴートにされたというわけだ。

 怪しいのは白石警部である。表彰こそされていないが、毎年コンスタントに売人を検挙している。暴力団と関わりがあり、なおかつ捜査を指揮する権限まで持っているのだとしたら、今回の捜査を早々に打ち切ったことにも説明が付く。

 もちろんすべて憶測に過ぎず、陽子に言うことではないと判断した。

 陽子は渋々とだが頷いた。

「なんとなく事情はわかった。あの刑事さん、えっと増子さん、だっけ? あの人がはぐらかしたのもそういう理由からだったのかも」

「……うん、まあ、あの人はなあ」

 単に面倒臭かっただけのような気がする。陽子には説明するだけ無駄だと考えたのだ、と思う。

「あ、あともう一つ、あのドラッグについてなんだけど。ユキジ君、調べてくれたんだよね? ……祐介君、もう元に戻れないのかな?」

 陽子の縋るような視線に後ろめたいものを感じた。

「戻らないかもな」

 ぼそりと呟く。聞こえなかったのか、陽子はなおも不安げに雪路を窺う。

 雪路は一瞬だけ逡巡し、まあいいか、と先を続けた。

「回収したあのドラッグは『ロスト』と呼ばれるモンだった。知り合いにクスリに詳しい人がいてね、珍しがってた。随分昔に天才デザイナーが精製したドラッグらしいんだが、効果と副作用がブッ飛び過ぎてて流行らせることができなかったらしい。今じゃ当時作られた試作品しか存在しないってことで値が張ってたよ」

「効果ってどんなの? 副作用って?」

「川村祐介みたいにトリップしたまま帰って来られなくなる。というか、ここからは都市伝説の類なんだが、なんでも目に見えないモンが視えちまうらしい。幻覚じゃなくて、例えば大気中に浮かぶ微粒子だったり正面に置かれている物の裏側だったり、本当にそれらが視えるんだと」

 言いつつ、どこかで聞いたような話だなと思った。

「まあ、試せば最後帰って来られなくなるから検証のしようがないんだけど。で、代わりに別の神経がヤラれちまうってんで『ロスト』と名付けられたとか。ドラッグ自体が都市伝説化しちまってるから信憑性はゼロだけどよ」

「……でも、祐介君はおかしくなったまま」

「……ドラッグに手を出せば、中身が何であれおかしくなるんだよ。なんでンなもんに手を出そうとすんのか、理解に苦しむぜ!」

 吐き捨てるようにして言うと、陽子が驚いた顔をして目をしばたたいた。ばつが悪くなり顔を逸らして逃げた。

 正直、陽子の依頼だとかは関係なかった。

 自分の都合でドラッグを調べていたに過ぎない。


 血塗れの仲間が暴行を受け続けているかつての光景。

 それを見ていることしかできなかったかつての自分。


 打ち消したくて駆けずり回っていたように思う。こういった事件が起こるたびに平静でいられない自分が堪らなく嫌だった。

「ユキジ君もドラッグ関係で大切な人を失くしたことあるの?」

 余裕の無さからそこまで見透かされた。そのことがまた苛立ちを助長する。

 陽子の質問は無視して、ふて腐れるように窓の外に目を向けた。外は快晴で、午後の日差しは黄金色に煌めいている。

 不意に過去の情景が思い出されて、視界がぼやけた。明るい日差しも、まばたきの一瞬で灰色の天気に化けそうで。振り返れば、足跡を残した雪の道があの日まで続いていそう。いくら季節が巡っても同じ場所からまるで動けていないことを思い知る。

 ──やっぱり実家に戻ったせいかもな。

 感傷的になるならせめて一人のときが良かった。陽子の前だというのに、心は無防備にも二年の月日を遡る。


 それは、寒い寒い冬の日の出来事────。