夏休み中とはいえキャンパスと駅を行き来する学生の流れもそこそこあり、ほぼ迷わずに目的地とするJ大学に到着することが出来た。大通り沿いのオフィスビルが立ち並ぶ一角、周囲の建物より一際高く、工事用の鼠色の幕で被われたその建物がJ大の新校舎だ。

 J大はオフィス街の中に位置する大学で、効率よく学生を収容するために狭い用地にオフィスビルさながらの高い建物を密集させている典型的な都市型キャンパスである。敷地の一角には付属中高の校舎もあり、中学から大学までずっとここに通う学生も多いという。

 そして、近年、新学部の新設が相次いだことや、教室数が不足がちな現状を改善するために、従来の門を取り壊しそこに新校舎を建てることになったという。敷地だけはやたらと広い郊外型の大学を出た健二からすると、J大キャンパスの外観はなんとなく予備校を思い起こさせた。

 二人は工事関係者出入口で入場手続を済ませると、ヘルメットを受け取り建物内に入った。

 途端、密閉された空間に籠もったむっとした熱気に包まれ、思わず顔を顰める。そこかしこに業務用の大型扇風機が置かれているものの、それらは全く役に立っておらず、ちょっと歩いただけで全身から汗が噴き出してくる。加えて鼻につんとくる何かの溶剤の臭いと、耳に障る溶接の音が不快感を上げてしまう。

 シティホテルのロビーを思わせるようなエントランスホールを抜け、廊下を奥に進みながら、タオルで汗を拭い、現場の様子を観察していく。壁のコンクリートは型枠を外されただけの状態で、天井裏の配線も剝き出しのままだ。そんな中を、建材を手にした何人もの下請け企業の作業員達と擦れ違う。建築方面には詳しくないためなんとも言えないが、これで本当に十月の引き渡しに間に合うのだろうか、と不安になる。

 ふと気付くと、前方にいたはずの石峰の姿が消えていた。

 慌てて周囲を見回すと、

「梶原さん」

 廊下の先、右側に設けられた部屋から石峰が顔を出してこちらを見ていた。

 小走りに追い付き部屋に入ろうとすると、入口脇に設けられた工事関係者向けの仮設のプレートが目に入る。

『インフォメーション・テクノロジー・センター』

 ──新校舎竣工後の、J大の新しいコンピュータセンターとなる部屋だ。広さはざっと三百平米程度。健二が普段いるケーイージーのフロアよりも遙かに広い。

 予定では部屋の手前半分程は学生向けの共用PCが並べられ、その奥にヘルプデスクと職員用のブース、そして、サーバールームが設置されることになっている。とはいえ、部屋の中には未だ何も設置されておらず、辛うじて『フリーアクセス』──ケーブルを効率的に配線するための浮き床のことだ──の施工が終わった状態。

 サーバーと外に抜ける回線以外は他のベンダーの施工範囲とはいえ、この様子から見ると、かなり厳しいスケジュールになっていることは間違いないだろう。

 石峰も同じ感想のようで、微かに眉を顰めつつ言う。

「今日明日にも、Work Breakdown Structureを拝見し、クリティカルポイントをチェックした方がよいですね」

 WBSとはいわば役割を明確化したTODOリストのことだ。各組織や人に役割を割り当てた後、細かいタスクに落とし込まれる。失敗するPJはたいていこのWBSがしっかり出来ていないことが多い。

「問題はそのWBSが支店側からなかなか出てこないということなのですが」

「えっ、と……、すいません。僕から再度依頼を掛けます」

「お願いします」

 そう言われたところで、ふと、担当者が未だに姿を見せないことを思い出した。一体どこに行ったのだろう。

 携帯の液晶画面に担当者名を呼び出そうとしたその矢先、

「……だから! どうして俺へのことわりなくこんな勝手な真似をしたかって、さっきから聞いているんだよ!?

 廊下の方から怒声が聞こえてきて、健二と石峰は思わず顔を見合わせる。

 直後、大きな音とともに部屋の扉が開き、脱色した頭髪を短く刈り込み、革ジャンを羽織った背の高い男が入って来た。現場だというのにヘルメットを被っていない。続いて追い縋るように、気弱そうな表情の銀縁眼鏡のスーツ姿の男性。

 二人は健二達に気付いていないのか、口論を続ける。

「た、高橋さん、ちょっと落ち着いてくださいよ。あれは支店長の指示なんです! 支店長が東京からも応援を呼んだ方が良いだろうって判断して。勿論、僕としても高橋さんがヘルプに入ってくださったことにはとても感謝してますよ! でも、支店長は応援は多ければ多いほど良いって言っていて……」

 高橋と呼ばれた茶髪の男が足を止めて振り返り、顔を近付けると同時に相手の鼻先に人差し指を突き付ける。

「お前な、船頭多くして船山に上る、って言葉知ってるか? まさにそういうことだ。現場を知らない上の奴ほど、何かあると、とりあえず人を突っ込んで頭数だけ増やすというパフォーマンスをするもんなんだよ。後になって自分の責任を問われないようにするためにな! 結果、現場には余計な仕事が増えるだけだ! 支店長がそういう仕事の仕方しかしないのはお前もよく分かってるだろうが!」

「えと、そ、それは……」

「……とにかくだ、ここの現場は俺が立て直すっていうことになっているんだ。本社の連中は適当な理由を付けて追い返せ!」

「いえ、あっ、その……」

 銀縁眼鏡の男性が狼狽え、逃げ場を探すかのように視線を周囲にさ迷わせる。

 と、

「あっ……」

 健二と目が合い、その場で固まる。ようやく二人の存在に気付いたらしい。

 そして、慌てて駆け寄って来ると、

「す、すいません! 遅くなりました。名古屋支店の営業の菅谷です。お迎えに上がれなくて申し訳ありませんでした」

 何度も健二達の前で頭を下げる。続いて、左手の先を後方に向け、

「で、あっちは名古屋支店SE部の高橋です」

 あからさまに不機嫌な表情を浮かべた高橋が渋々といった感じで会釈する。健二も今まで色々な社員を見てきたが、ここまで威圧的な印象を相手に与える人間はそうそういない。年齢は河原田と同じくらいだろうか。

 じっと見ていたら鋭い眼光で睨み返され、健二は思わず目を逸らす。目付きもそうだが、ほとんど寝ていないのだろう、目の下のクマがさらに凄味を利かせる効果を上げている。

「はじめまして。本社SE部の石峰と申します。そして、こちらは同じ担当の……」

「梶原です。よろしくお願いします」

 石峰に続いて頭を下げる。

「あの……」

 と、菅谷が明らかに動揺した様子で尋ねてきた。

「石峰さんって……、もしかしてあの華泉礼商事からいらっしゃったっていう……?」

 だが、対する彼女の方はいつもの調子で、切れ長の目で相手を見詰めると、

「ええ。──ですが、今はケーイージーSE部の人間としてこちらに来ています。それで、着いて早々なんですが、収支管理表および進捗管理表を見せて頂けませんか? あと、以前からお願いしていたWBSについても併せてお願いします」

「今……、ですか?」

「ええ、なるべく早く現状を把握したいのです」

 菅谷の顔が引きつり、落ち着かなさそうに視線をさ迷わせる。

「あ……、ええと、それは今、ここには無くて……。自席のPCの中にあるんで明日、お持ちします」

「それではちょっと遅いですね。では、この後、支店で直接拝見させて頂くというのはどうでしょうか?」

「あの、でも……。ちょっとアップデートが遅れていて……」

「少しくらいなら結構です」

 菅谷が更に慌てる。

 と、

「まるで、夏休みの宿題をやってなかった小学生みたいだな。それに収支管理表は部外秘の扱いだってことも忘れてやがる」

 いつの間にか側の椅子に座っていた高橋がぶっきらぼうな口調で割り込んできた。

「こいつ、アップデートしないまま放置してたんだよ。おおかた、明日までに慌てて更新する気だったんだろうな」

 図星だったのだろう、菅谷の顔がみるみるうちに真っ青に染まっていく。

「ま、菅谷じゃ無理だと思うんで、進捗については俺の方で追記して後で送るから」

 そして、腕時計を覗きながら、

「そうだな、だいたい今夜二十四時までにはメール出来るかな、と。──とりあえず、大崎さんとしてはそれさえ見られれば納得するんだろう? それでお引き取り頂けるとこっちとしては助かるんだが」

 大崎さん──所在地名から本社のことを蔑みの意味を込めてそう呼ぶ支店の人がいることは知っていたが、こうも直接的に言われるのは初めてだ。思わず高橋の顔を見上げるが、鋭い視線にまたも睨み返され、慌てて目を逸らしてしまう。

 と、石峰が一歩前に進み出て、

「いえ。私としては書類を見るだけでは現場のことはわからないと思っています。そちらから案件支援のご依頼をいただいた以上、責任をもって職務を遂行するつもりです」

「ふうん。現場主義、ということか」

 高橋は鼻で笑うと、やおら椅子から立ち上がり、そのまま出口に向かって歩いて行く。そして、扉のところで振り返り、

「まあ、あんたたちの好きなようにやれば良いさ。結局、いつも本社は口しか出さない。それであとは支店でなんとかしろって言う。言うだけなら簡単だが、現実は全く違う。結局、名古屋のことは名古屋で解決するしか無いんだよ」

 吐き捨てるようにそう言うと、部屋から出て行ってしまう

 半ば啞然としていると、真っ青な顔の菅谷が平身低頭で詫びてくる。

「すいません。失礼なことを言ってしまって」

「あ、いえ、それは別に……」

「高橋さん、腕は良いんですけど、ちょっと頑固なところがあって。一月前からここの案件のヘルプに入って貰ったばかりなんですけど、今回、支店長が独断で本社の支援を仰いだことにとても反発してしまって、その説得で今日は朝から大変で……。見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした」

 菅谷はもう一度頭を下げると、額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。

 なるほど、今日、待ち合わせ時間に彼が来られなかったのはそういったことでばたばたしていたせいなのだろう。

 納得はいったが、しかし、一方でますます不安は募っていく。高橋がどの程度の腕前かは判らないが、彼が急遽入ったということは、言わば『火消し』としての役割を与えられている、ということなのだろう。

 つまり、このプロジェクトは炎上している、あるいはし掛かっているということだ。すでに致命的なミスがいくつも発生していて、現場から一番遠い上層部が気付くほどの危機的状況に達している状態。楽観的に考えて今が最後の立て直しのチャンスであり、それゆえに『火消し』があちこちから呼ばれている。

 いや、場合によっては、実はすでに現状の打開策は無く、将棋で言えば詰まれた状態になっているのかもしれない。しかも、投了すればひとまず終わる将棋とは異なり、プロジェクトにおいては敗戦処理という名の後行程が待っている。詰まれた状態で足搔き続けて、被害を更に拡大させるよりは、早めに手を引くことで最小限の被害に抑えることの方が重要になるのだ。

 どちらにしろ、健二達がまず最初にすべきことはこの炎上レベルがどの程度のものか見極めることにある。

 現場を案内するという菅谷に連れられ、急ピッチで工事が進む校舎内を歩きながら、ちらりと横を歩く石峰の顔を見る。その表情はいつもと変わらない澄ましたもの。もし、詰まれた状態であることが明らかになった時、彼女は一体どういう判断をするのだろうか。もしかすると、彼女はまた一人で抱え込もうとするのではないだろうか。もしそうだとしたら、自分は彼女のために何をなすべきなのか……。だんだん気が重くなっていく。

 と、突然、菅谷が足を止めた。

「西島さん!」

 その声に、反対側から歩いて来ていたスーツ姿の男性が足を止める。

 菅谷を見る視線に、侮蔑のようなものが混じったような気がするが、それも一瞬のことで、直後には口の両端を持ち上げ、明らかに作った笑顔を三人に向けると、

「ああ、お疲れ様です。ケーイージーさん、今日は珍しく大人数ですね?」

「ちょうど今、ご挨拶に行こうと思っていたところで。──ご紹介させてください。うちの東京本社の人間で、本日からヘルプに入らせて頂きます」

「ああ、東京からですか。それはわざわざどうも」

 笑顔で名刺交換をしている最中も、相手のこちらを値踏みしているような視線が気になってしまう。

 そして、受け取った名刺を見て合点が行った。

『D建設名古屋支店第二公共営業部 営業担当課長 西島順』

 元請けのD建設の役職者だった。肩書から察するに、恐らくは彼が実質的にこの現場を取り仕切っているのだろう。

 彼は視線を石峰と手元の名刺の間で何回か往復させた後、口の端を歪めて笑う。

「……へえ。これだけ若くて、しかも女性であるにも関わらずもう役職をお持ちとは。さすがIT系の会社さんは違いますねえ」

「ありがとうございます」

 明らかな蔑みを、石峰は薄い微笑みを返してやり過ごす。

 と、西島は二人の名刺をトランプのカードか何かのように手慰みにしつつ、菅谷を見ると、

「それにしても、お二人とも若すぎやしませんかね? 東京から呼ぶにしても、もうちょっと経験のありそうな方に来て頂けると良かったのですが、さすがにそれは贅沢な要望ですかね?」

「えっ……、とそれは……」

 菅谷が狼狽えたように視線をさまよわせる。

「……まあ、一応、頭数を増やして頂いた、という点については評価しても良いでしょう。この前も言いましたけどね、うちとしてはここ最近のおたくの体制についてはかなり不安に思っていたんですよ。ここを含めていくつか案件をお願いしているんですが、いつも出てこられるのは高橋さんお一人だけでしてね。ひょっとして我々は軽んじられているのかな、と……」

「め、滅相もありません。そんなつもりは毛頭無くて……。ただ、何せ人手不足なもので……」

 菅谷の顔がさっ、と青ざめ、額から冷や汗が流れる。

「特にですね、ここJ大については既に一月遅れているわけです。これ以上の竣工遅れは許されないわけですから、私たちは勿論ですが、御社としても体制をきっちり組んで頂きたいものですね」

 顔は笑顔のままで、言葉に抑揚を付けることなく淡々と告げる様子は薄ら寒いものを感じる。

「はい、当社としても最大限の努力をさせて頂きますので……!」

「よろしく頼みますよ」

 そう言うと、名刺を無造作にポケットに突っ込んでその場を立ち去る。

 彼の背中が見えなくなったのを確認し、菅谷に小声で尋ねる。

「何かトラブルでも起こっているんですか?」

「い、いえ、ちょっとした事務処理の問題だけで……。大したことはないですから、はい」

 言葉とは裏腹に額には汗の粒がびっしりと浮かんでおり、その様子を見ているだけで不安が募ってくる。

 それを察したのか、菅谷が付け加える。

「いや……、まあ、確かにD建設さんからは他にもたくさん小さなお仕事を頂いているのですが、どれも原価すれすれの案件でして、正直言って、高橋以外の人間を付けられないというのが現状で……」

「とすると、高橋さんは一体、今、いくつ案件を抱えているんですか?」

「さあ? 私も詳しくは知らなくて……。ただ、大小併せると十は下らないと思いますよ」

 思わず石峰と顔を見合わせる。正直言って、十という数は支離滅裂だった。どんな小さな案件でも進捗管理は必要だし、それらをマルチタスクでこなしていくのは並大抵のことではない。

 と、突然、菅谷が驚いた声を上げた。

「……あれ?」

「……?」

 菅谷の視線の先、背後を振り向く。

「人が……いますね」

 窓の外に学校の制服を着た女の子が立っていた。中学生くらいだろうか。セーラー服姿で、体の前に通学用の焦茶色の鞄を両手で提げている。

 ここにいるということは、部活帰りか何かのJ大付属校の生徒だろうか。とはいえ、工事現場に立ち入って良いはずもない。

「まったく警備は何やってるんですかねえ。自分、ちょっと行ってきます……、って、あ……」

 そのとき、一人の男が表に走り出て来た。

 今度は頭にヘルメットを被っているが、あの服装は──高橋だ。彼は女子中学生のもとに走り寄ると何かを言い、そして、乱暴な手つきで彼女の両肩を摑むとそのまま出口へと強制的に連れて行く。

「大丈夫そう……、ですかね」

 半ば拍子抜けしたような菅谷にうながされ、健二は再び歩き出すが、けれど、なんとなく気になってもう一度後ろを振り返る。

 ちょうど二人は建物の角を曲がるところで、いつの間にか彼女の頭の上には高橋のヘルメットが被せられていた。


    *


 名古屋駅前にあるビジネスホテルのロビーは照明こそ明るかったものの、深夜〇時過ぎということもあってフロントを含めて誰一人として人がおらず、しんと静まり返っていた。

 健二がカウンターの上に置かれた呼び鈴を鳴らすと、奥の部屋から制服を来た女性が出て来る。目の下にクマを作り疲れきった顔をしていながらも、ぎこちない笑みを浮かべようとしているのが痛々しい。ここ数年、低価格を売りに店舗数を急増させている人気のビジネスホテルチェーンだが、その分、人件費に皺寄せがいっているのだろう。他人事とは思えず、少し胸が痛くなる。


 午後、名古屋支店の菅谷にJ大学構内を案内して貰った後、栄にある支店に挨拶に行った二人を待ち受けていたのは支店長による社内接待だった。打ち合わせもそこそこに連れて行かれたのは名古屋の繁華街である栄。石峰が女性であることもあって、勿論その手の店では無かったが、案内されたのはそれなりの格の割烹店で、支店長の意図が華泉礼商事の石峰のご機嫌伺いと自身のアピールにあることは明白だった。自分がいかに部下に慕われているか、そして重要顧客であるD建設との信頼関係の維持にどれだけ心を砕いているかといったことを、エピソードを交えながら得意げに語り続ける役職者の相手をするのは、健二にとっては苦行以外の何ものでもなかった。


 宿泊カードを記入している間に、フロント係が奥の部屋から石峰のキャリーバッグを運んで来た。それからすぐに、目の前に金額が表示された大型の電卓が置かれる。

「それでは大変恐縮ですが、当ホテルでは前金制となっておりまして、お先にお二人様、四泊五日で、三万三千九百二十円を頂戴いたします」

 二人分にしてはやけに安いな、と思いつつも、石峰から借りた法人用クレジットカードを手渡し、暗証キーを入力する。

「梶原さん、あと領収書も必要です」

「あ……、そうでした」

 暫くしてカウンターの上にカードと領収書が置かれ、その隣にルームキーを置く。

「お客様のお部屋は六階の六一四号室となります。左手奥にございますエレベーターよりお上がりください。それではごゆっくりおくつろぎくださいませ」

 思わず石峰と顔を見合わせる。

 ルームキーは、一つだけ……?

 そのまま奥の部屋に引っ込もうとする相手を慌てて呼び止める。

「あっ……、ちょっと!」

「……はい?」

「え……と、あの、足りないような……」

「は……?」

 相手の顔は当惑したまま。何を言われているのか、まったく分かっていないといった感じだ。もどかしさのあまり、つい口調がきつくなっていく。

「鍵が足りないんですが。もう一つお願いできますか?」

「あの、お客様、鍵は一部屋につきお一つのご用意となっておりまして……」

「いや、だから、そうだったならなおさら二つ無いといけないと思うんだけど」

「ですが……、お客様、ご予約はツインルームで承っておりまして……」

「…………へ?」

 健二は一瞬、相手が言っていることの意味がわからず、間抜けな声を発してしまう。

「ツイン……?」

「はい、本日より四日間、ツインルームでご予約をいただいております。先週、インターネット経由で御社からそのようにご入力を頂いておりまして……」

 先方は手元の端末から出力した紙の中央部分をボールペンで指し示す。

 そこには、カタカナで自分と石峰の名前が記載され、ツインルーム、四泊分、とある。

 自分の顔が青くなっていくのがわかる。なんで……、なんでこんなことになっているんだ?

 隣の石峰を見ると、さすがの彼女も驚いたのか、大きく見開いた目で健二を見上げてくる。

 なんにせよこのままで良いはずがない。

「あ、あの、すいませんけれど、今からシングル二つに変更していただけませんか?」

「申し訳ありません。あいにく今週いっぱいは満室になっておりまして」

 フロント係はにべもなくそう言って慇懃に頭を下げる。

 一体どうしたものか。

 ふと、壁に掲げられた時計が目に入る。時刻は間もなく午前〇時三十分になろうとしている。明日の朝は九時に現場集合。そして、石峰は昨日も遅くまで資料に目を通していたということだから、あまり寝ていないはずだ。……とすると、答は一つしかない。

「あの、石峰さん……」

「はい?」

「とりあえずここは石峰さんが使ってください」

「え? ですが……?」

 戸惑ったような表情を浮かべる石峰。そんな彼女の手に半ば強引にルームキーを握らせる。

「僕はこれから別のホテルを探します。朝に現地集合ということにしましょう」

 彼女は眉間に皺を寄せ、ルームキーを両手に握ったまま不安げな顔で見上げてくる。

「でも、もうこんな時間ですし……」

「僕については最悪、漫画喫茶でもなんとかなるので、気にしないでください」

 そう言いながら、健二はキャリーバッグのハンドルを手に取って出口に向かって歩き出す。

 と、その腕がぎゅっ、と摑まれた。

 振り返ると、そこには頰をほのかに赤く染めた石峰の顔。

「私は……問題ありません」

「え?」

 そしていきなり健二の手からキャリーバッグを奪い取ると、一人だけ先にエレベーターホールに向かってしまう。

「ちょ……、ちょっと石峰さん! いったいどういう……!?

 彼女はなぜか少し怒った表情で振り返ると、

「もう、夜も遅いですし、時間もあまりありませんから」

 そう言って、先にエレベーターに乗り込んでしまう。健二も慌てて乗り込み、キャリーバッグを彼女の手から奪い返すと同時に扉が閉まり、籠が上昇を始めてしまう。

 頭の中は半ば混乱状態だ。

 どうしてこんなことになっているんだ? 彼女は何を考えているんだ?

 籠の扉が開くと同時に、石峰が外に出て廊下を右手奥に向かって進む。そして、六一四号室の前に来ると扉にルームキーを差し込んで解錠。扉が内側に開かれ、室内の明かりが点灯する。

 そして一足先に部屋に入った石峰が、キャリーバッグを持つ健二のために、扉を押さえた状態でその場に立つ。

 健二の心臓が早鐘のように鳴り続けている。この状況は一体なんなんだ。自分はどうすれば良いんだ。足は前にも、そして後ろにも動かすことが出来ない。

「い、石峰さん……、やっぱりこれは……」

 辛うじて出た自分の声は掠れている。

 それから暫く沈黙が続いた後、

「……あの、梶原さん……、はやくして……頂けると……」

 彼女が僅かに顔を上げ、健二を見上げた。その頰が真っ赤に染まっている。

「……は、はい……」

 最早、選択肢は無かった。

 右足を一歩、前に踏み出す。膝ががくがくと震え、最早、自分の足ではないようだ。

 キャリーバッグが部屋の中に入ったその直後、彼女の手からドアノブが離れ、扉はゆっくり閉まっていく。

 そして、最後にガチャリ、という音とともに部屋は施錠された。