白石孝徳の人生の転機は二十六歳のときに訪れた。

 当時の彼は、警察官として人並みの正義感を持ち、感情に流される若さもあり、向こう見ずに突っ走って失敗を繰り返す、良くも悪くも真っ正直な青年であった。新人は誰しもが同じ種類の危うさを抱えるものだが、先輩巡査から可愛がられたのはその実直さに嫌味がなかったからだろう。矯正されることなく、むしろおまえはそのままがいい、とお墨付きさえもらった。捨てるべき青さを持ち続けろと言われると反発したくなるが、警察官にはあるいは必要な資質だと諭された。

 警察官は正義の味方でなければならない。が、民間人の味方になれるかと問われると答えに窮した。警察は、組織だ。警察官は個々に動いてはならず、規律と体制を守りながら職務に当たらなくてはならない。統率の取れた集合体であることが強みであり、日本警察の優秀性はそこに由来した。いくら警察官でも一個人では何もできない、人間なのだから当然だ。だが組織ならば、できる範囲も広がる、効率も上がる。

 同時に、組織に属することで世間と乖離してしまう危険もある。特に警察の場合、公にされている部分とそうでない部分が混在し、秘匿体質に流されやすい傾向にあった。開示すべき情報に蓋をすることも珍しくなく、それで犠牲者や犯罪者が増えようとも事件解決を優先すれば必要な処置だったとし、必ずしも民間人のためになれるというものでもない。何事も組織の目で全体を俯瞰し決定を下すのだ。

 組織に属していればやがては染まる。個の意思よりも組織の体制を優先する。仮に組織全体が間違った方向に舵を切っていたとしても、それに気づいていても、個人は舳先が向く方を目指すしかない。

 足並みを揃えることは大切だ。しかし、それで感性を殺してはならない。

 体制というものは古くなるほど腐りやすい。だから、新しい風を取り入れて清浄にする必要がある。白石は、若者たちは、まさにその風だった。組織に染まる前の一般の感覚を備えた未熟者。

 急いで染まってくれるな──、上司がそのように言う理由は、失ってはいけなかった何かを、かつての自分なら持ち得ていたものを、白石の中に見つけているからかもしれない。

 やがて白石は県警本部・組織犯罪対策課に配属される。組織に馴染み始めた頃、転機はやって来た。当時の警部に呼び出され、出向いた先には警務部長までいた。

「君が白石か。跳ねっ返りと聞いているが、そうなのかね」

 白石は露骨に嫌そうな顔をした。青臭さを残したつもりはないが、異動前の所轄の先輩に諭されたことが根付いているのか、結果的に感情を殺し切るような器用さは身についていない。見抜いた警部が声を低くする。

「失礼だぞ。何か文句でもありそうだな」

「い、いえ……」

「まあ、いい。正直者というわけだ。現場でも落ち着きがないと聞く。目上には特に気を遣うべきだったな」

 警務部長が言った。それは上司から良く思われていないことを言外に語っている。職務態度ですら反感を買われているらしい。思わず警部の顔を見た。

「私じゃない。だが、評判や噂などは査定にも響く。これからの長い警察官人生に影を落としたくはあるまい」

 これは恫喝だ、白石は顔を青くした。警務部は人事権を持ち、そこの部長は本部長に次ぐ地位にある。その警務部長がこうして白石を呼び出した現実に、おののく。

 警部がにやりと笑った。

「そう萎縮せずともいい。少し頼みたいことがある。なあに、悪いようにはせん。いや、むしろチャンスだと思いたまえ。目を付けられた君は、運がいいのだ」

 こうして白石は彼らの手足となった。

 与えられた仕事とは本部内の人間の監視であった。主に同期一人ひとりの思想や物の考え方などを聞き出して報告することを強要され、まるで社会主義の密告屋のようで心苦しかった。しかし、上層部が組織を束ねるには情報は不可欠で、この行為は延いては組織の為になるのだと思い直し、一層監視に力を注いだ。

 やり続けるうちに、監視をしているのは自分だけではないとわかり、本部内の誰がどの上司と繋がっているのかを疑い出すようになった。監視そのものは裏金作りの幇助が目的で、ときに警察庁のキャリアや政治家と関わることもあり、どうやら巨大なパワーゲームの手駒に使われているらしいこともわかってきた。

 これが警察の実態か。白石はそうとは知らず悪事の片棒を担いできたことに憤った。流されやすい性格が災いした、それを見抜いた警務部長にまんまと乗せられていたわけだ。

 とはいえ、それ相応の甘い汁も吸えた。巡査部長に昇格し、暴力団と繋がりを持ち不正を行って成績を上げた。もちろん、手当として現金も得られる。

 次第に悪事を働いているという意識はなくなった。バックには警務部長、いや警察庁のお偉方までいるのだ。首尾よく動いた甲斐あって彼らからの信頼も得た、警察官章を頂いて箔まで与えられた。いつしか出世頭となった白石は笑いが止まらなかった。

 かつての青臭い自分はもういない。狡猾さを学んだのだ。いやむしろ、真っ正直な性格だったからこそより利己的になれたのかもしれない。

 白石は不正に不正を重ねた。もはや抜け出せないほどに浸かりきり、引き返せないほど危ない橋をいくつも渡った。

 会ったことのない政治家のために子供をひとり誘拐したことさえあった。

 白石は出世した。若くして警部にまでなれた。結婚し、子供を授かり、公私共に順風満帆だった。特に一人息子の昇一は目に入れても痛くないほど可愛くて、溺愛した。家庭を築いたことがそのまま自信に繋がった。

 それはそれは幸せな人生。白石の行く末に不安など微塵もない。


 夜毎、白石は夢にうなされ飛び起きた。息を乱す白石の隣で妻が心配そうに声を掛けた。

「……また悪い夢を見たんですか?」

「なんでもない。すまない、起こしてしまった」

 悪夢を見るのだ。それは昇一が幼稚園に入園したときから始まった。すくすくと元気に育つ昇一に幸せを感じる一方で、罪悪感を覚えていた。

 昇一の姿が、誘拐した少年と重なった。

 夢に出てくるのだ、助けて助けてと繰り返し叫ぶあのときの少年が。いつしか少年の顔は昇一のものに変わり、自分が虐待を加えている夢になる。昇一はもう中学生だ、あの頃のままじゃない。なのに、夢に見るのは幼い頃の昇一だった。

「……もう終わったことだ」

 そのはずだ。自分はただ言われた通りしただけで、したくてしたわけじゃない。

 俺は悪くない。そう自分を慰めた。

 悪夢はいずれ覚める、忘れられるはずだ。

 十八年経った今でも、そのときを待ち望んでいる。


      *   *   *


「日暮っ、……日暮旅人っ!」

 夢に出てきた少年の顔が、目の前にいる青年に被さった。

 青年──日暮旅人は穏やかな表情で地べたに座る白石を見つめている。夜が明けて間もない時刻、カラスの鳴き声が静けさを打ち破る、路地裏のゴミ捨て場で目覚めた白石は、これこそ夢ではないかと疑いそうになる。

「……本当に、……あのときの子供、なのか?」

 旅人は答えない代わりに笑みを浮かべた。

 不思議な感覚に陥った。寝起き頭で混乱しているせいか、成長した旅人の姿があまりにも立派で、感動していた。歳月は人を大きくするが面影は残すものだと気づき、感慨深い。当時を懐かしんでさえいる。

「警部、貴方にお訊きしたいことがあります」

 白石はハッとする。何を呆けているのだ、気を引き締めろ。旅人がこうして目の前に現れたのには目的があるはずだ。スタンガンで意識を刈り取り、この場に運び込んで暴行を加えた。目的は、一つだけだ。

「ふ、復讐か!? 俺に復讐しに来たんだな!?

「……」

 旅人は手にしていた白石の警察手帳を放って寄越し、目を細める。ゾッとした。なんて哀しい目をしやがるんだ、こいつは。

「確かに、昔を懐かしむ間柄ではありませんね。率直に言います、貴方に十八年前の事件の真相を語っていただきたいのです」

「……暴露しろというのか? 無かった事件を表沙汰にして世に公表しようってか。そんなことをしても意味はない。誘拐事件は起こっていないんだ! 証拠はどこにもありはしない!」

「どうでもいいですよ、そんなことは。僕はただ真相が知りたいだけだ。両親を殺した人物は誰か、貴方ならご存知のはずです」

「知らん。本当だ。お、俺は指示されただけだ。おまえを攫えと言われた。くそ、俺をどうする気だ!? こ、殺すのか!?

 旅人は溜め息を吐き、蔑むように白石を見下ろす。

「殺す気ならばとうにしています。貴方が僕を監視していることに気づいていました。それでも貴方には手を出さなかった。あえて隙を見せ続けていたんです。ゆっくりと話し合える機会を得るために」

「手を出さなかっただと? こうして暴行を加えておいてよく言ったものだ! いいか、これは立派な犯罪だ。傷害罪だ! おまえを逮捕することもできるんだ」

 状況を打開する術をなんとか模索する。旅人の言うように事件の真相を知ることが目的なら少なくともすぐには殺さないはずだ。こちとら警察官だ、ここから逃げ切れれば逆に旅人を捕まえられる。

 しかし、旅人はやれやれと肩を竦めた。

「僕が貴方に暴行を? 勘違いもいいところだ。貴方から話を聞きたがっているというのにわざわざ気絶させてから暴行を加えるなんて、余分な労力を使うだけでしょう。貴方を襲ったのは別の人間ですよ。それも複数の人間」

「デタラメを。だったらどうしてこの場所がわかった? 暴行を加えたのは数人かもしれんが、おまえもその一人のはずだ」

「……この路地に見覚えはありませんか? 表に出て見ればわかると思いますが、ここは僕の事務所のすぐ近くです。貴方が身を潜ませていた路地の奥です。昨日の夕方、ここにいたはずの貴方が消えた。連れ去られたならば誰かに目撃されているはずですが、そんな騒ぎはなかった。なら、路地裏に引っ張り込まれたと考えるのが自然です」

「おまえはさっき、俺は首筋にスタンガンを押し付けられたと言ったんだぞ!? 当事者でない者がどうしてそんなことまで知っているんだ!?

 白石とて指摘されて初めて気づけたのだ。意識を刈り取られた瞬間のことは憶えていない。今は顔の腫れの方が痛んで、首筋なんて気にもならなかった。

 旅人はおもむろに屈み込み、白石と目線を合わせた。

「この目」

 自らの目を指差した。白石に覗き込めと誘惑する、透き通るような美しい瞳。

「この目は、本来ならば見えないモノまで視せてくれます。たとえば、音、臭い、味、感触、温度、重さ、──痛み、などです。僕にはわかる、──視える、視えるのならば、気づけます。貴方が負った傷が、貴方が感じているその痛みがわかります。貴方に自覚はなくとも、スタンガンによる衝撃は首筋に残っているんですよ。……信じられませんか?」

 白石は息を呑んだ。信じられるか、そう問われて、動悸が激しくなった。

 もう一つ思い出したことがあった。

 旅人を拉致監禁して、その上行った人体実験。新種の脱法ドラッグの効果を試したくて、誘拐に協力した相棒が提案したのだ、「この子供を検体にしようよ」と。

 後にわかったことだが、そのとき使用したドラッグ『ロスト』は、大抵は使用者を廃人にしてしまうが、一割ほどが視神経に異常をきたした。

「僕には今言ったモノを感じ取ることができない。五感を、視覚だけを残して、奪われたんです。代わりに、この目がそれらを視つけ出してくれた」

 通常見えないモノが視えるようになったと言うのだ。幻覚ではなく、現実世界に存在する見えないモノが。

「……」

 眉唾な話だった。信じられるはずがない。

『ロスト』の使用者は大抵頭がおかしくなり、目に見えないモノが見えると狂言を吐く。まさか旅人にも同じ症状が起きていたとは。

「…………、信じるさ。ああ、信じるとも」

 旅人は、すでに、狂っているのだ。

 話して通じる相手ではないと白石は判断した。狂人相手にはとにかく話を合わせて機嫌を伺うことだ。

「大した目を持っているようだな、なら教えてくれ。俺を襲った連中のことだ。おまえじゃないというなら一体誰がこんなことを?」

 旅人は目を細めた。まるで白石を値踏みするかのような視線。

「……警部に暴行を加えた人間は三人、その場に居合わせたのはおそらく四人。怨恨によるものでしょう、財布などの所持品はすべて無事でしたから。しかし、警察手帳だけは地面に落ちていました。きっと、貴方のことを調べていたんだと思います」

「そいつらはまた俺を襲いに来ると思うか?」

「来るでしょうね。氏名さえわかれば住所も突き止められます。どんな恨みを抱えているか知りませんが、気が済むまで追い込むはずです」

「……」

 それは目の前にいる男にも言えることだった。十八年前の復讐を考えているならば、こいつは俺を逃しはしないだろう。

 旅人の言葉を鵜呑みにはしない。こいつのは妄言だ。白石は慎重に口を開く。

「……わかった。おまえの目的も、わかった。──こうしないか? 俺は俺を襲った連中を捕まえたい。いつまた襲われるか不安で仕方がないんだ。それが片付いたらおまえにすべてを話してやる。約束する。俺は、正直、おまえがその連中とグルなんじゃないかと疑っている。そんな奴に、重要なことを話すわけには、いかない。たとえおまえがあのときの少年だったとしてもだ」

 交換条件を突きつけた。普通ならこの状況でそんな交渉は成立しないだろう、白石に吐かせて終わりだ。しかし旅人は狂っている。もっともらしい屁理屈を並べれば、あるいは切り抜けられるかもしれない。

 旅人は屈めていた腰を伸ばして立ち上がった。

 じっと白石を見下ろし、静かに言った。

「わかりました。気の済むようにしてください」

 白石は、思わず笑い、痛めつけられた体でなんとか立ち上がる。よろめきながらも道を開けた旅人とすれ違って歩いていく。旅人は肩を貸そうと申し出たが、恐ろしくて遠慮した。

「──ああ、一つ言い忘れていました」

 背中に声を掛けられて、警戒しつつ振り返る。

「僕の目は感情を読み取ることもできます。嘘を吐いていても見抜けます。警部が何を考えているのかも、わかります」

 旅人は、微笑んだ。

「この場は見逃してあげます。早く病院に行った方がいいですよ」

 白石は足早に路地から出て行った。


         


 ──数時間前。日付が変わる頃合に、白石を襲った四人組はゲームセンターにいた。ゲームには興じず、休憩所のテーブルを囲んでいた。

 下品な笑い声を立てている。

「すっげえよな、スタンガンって。首筋に当てるとマジ気絶すんのな」

「そりゃ改造してるし。数時間は立てなくなる」

「死んだかと思ったよ。あれ、大丈夫か? もう目ぇ覚めてるかな?」

「オッサンだからなあ、さすがにやべえかも。けど、自業自得っしょ」

 彼らは皆地元の大学に通っており、同期生だ。普段真面目な彼らは羽目の外し方を心得ておらず、気分が高まるとモラルを忘れてしまう、最も危うい学生だった。白石を襲ったことも遊び感覚に近く、どれほど危険な行為だったか自覚していない様子だ。

 それでも、彼らには大義名分があった。趣味の麻雀を通じて連むようになった彼らの仲間には『有田一志』がいた。今回の襲撃は有田一志の敵討ちのつもりだった。

 有田一志の様子がおかしくなったのは春先のことだ。集まりにも顔を出さなくなり、人が変わったように荒んでいった。どうやらドラッグの売人を強制されているらしく、元来気弱な有田一志では逆らえなかったのだろうと推測した。

 強制している人物を調べていると、妙な噂を耳にした。ドラッグの取り締まりにはいつも同じ警察官がやって来るのだが、そいつこそが売人を強制している黒幕だという。名前まで判明した。浮ついた正義感が芽生え始める。

 有田一志の捜索を知人に頼み、彼らは裏を取ることなく白石を敵と定めて、白石を見張り、情報を募り、あたかもゲーム盤を設定するかのように、計画を練った。有田一志を想う気持ちも確かにあったが、彼らは単純にこの状況を楽しんでいた。

「これで有田も一安心だろう。そのうちひょっこり戻ってくるさ」

「……けどさ、あの警官の他にも仲間がいるんじゃないか? ……ヤクザとかさ」

「……大丈夫だよ、きっと。だってよ、だとすると警官とヤクザがグルってことになるじゃんか。そりゃあり得ないって」

 自らを安心させたいがためにその可能性を打ち消した。皆も同じ思いだったらしく、乾いた笑いが漏れた。

「──心配いらないさ。最悪、有田のせいにしちまえばいい」


 雪路雅彦は背後のテーブルでその会話を聞いていた。仕切りが邪魔をして向こうから雪路の姿は見えていない。

 有田一志の捜索を依頼されたのは雪路である。同じ学校の顔見知り程度だったが、ドラッグが絡んだ事件ならば見過ごすわけにいかず、雪路は依頼を受けて有田一志を保護したのだった。

 しかし、有田一志は一昨日の深夜に再び失踪してしまい、再度捜索したのだがまだ発見には至っていない。とりあえず依頼人である彼らに現状を報告しようとやって来たのだが。

 ──有田が逃げ出す気持ちもわからなくねえな。

 友人でさえこの始末だ、誰も信用できなくて当然だ。有田一志が不憫でならない。

 雪路は報告する気を失い、彼らに気づかれないようにその場を離れた。

 適当な場所で夜を明かし、二日ぶりに『探し物探偵事務所』を訪れた。合い鍵を使って中に入る。まだ眠っているだろう灯衣を起こさぬように忍び足でリビングまでやって来ると、気配に気づいた人影が雪路を振り返った。

「────っ、なんだ、ユキジ君か」

 そう言って肩を落としたのは山川陽子だ。灯衣を預けている保育園の保育士で、なぜか事務所に入り浸っている女。

 最近では旅人との接し方が微妙に変わってきていて、旅人も陽子には気を許しており、それが何やら面白くない雪路である。

「なんだじゃねえよ、なんでこんな朝っぱらからここにいンだよ?」

 訊いてから「まさか昨夜からいて朝帰りとか言うんじゃねえだろうな?」と声を低くすると、わずかに上気した顔で「ばっかじゃないの!」と返された。確かに馬鹿げた質問だった。

「アニキとアンタがどうにかなるわけねえか」

「そんなこと言ってる場合じゃないのよ、もうっ。その旅人さんがいなくて心配しているっていうのにっ」

 聞き捨てならない台詞に、雪路は陽子に詰め寄った。

「どういうことだ? アニキ、いないのか!? 今、部屋に!?

 旅人の自室を指差すと、陽子は重々しく頷いた。信じられない。

 旅人はどんなに多忙を極めても、夜中から明け方に掛けての睡眠を欠かさない。五感を持たない旅人にとって睡眠中が一番無防備になるため、必ず自室で六時間以上の睡眠を取るのだ。いつ何時睡魔に襲われて気を失うかわからない、そのための予防線であった。

「アニキがいないって、……いつから?」

「……昨夜、旅人さん熱を出して倒れたの。ドクターを呼んでなんとか小康状態にまで落ち着いたんだけど」

「おい、待てよ。アニキ、倒れたのか!?

「そうよ! ユキジ君にも何度も連絡したんだからね! なのに、ずっと電源切ったままだったし!」

 慌てて懐から携帯を取り出す。充電切れだった。そういえば、有田一志の捜索に掛かり切りで、充電するのを忘れていた。ばつの悪い顔をしつつ、先を促す。

「それで、いついなくなったんだ?」

「……看病してたんだけど、私、ついうとうとしちゃって。気づいたら旅人さん、ベッドを抜け出してた。私が起きたのはついさっき」

 現時刻は午前六時。なるほど、逆算してみると旅人は睡眠時間を十分に取っている。

 ……ちょっと待て、看病してただと?

「もしかして、アニキ、アンタの前で眠ったのか?」

 陽子は少しだけ複雑そうな顔をする。

「……テイちゃんも一緒にね」

 雪路は驚きすぎて言葉にならない。どんなことがあっても自室に人を入れようとしなかった旅人が、灯衣にさえ寝顔を見せないと聞いていたのに、無防備を晒したなんて。どういう心境の変化か。

 旅人の部屋の扉を、一瞬躊躇してから、開いた。中にはベッドが一台あるだけの、それだけの部屋だった。寝るだけの部屋。そこに旅人の個性は欠片もない。

 ベッドの上では、どこで買ったのかカメレオンの着ぐるみパジャマを着た灯衣が丸まっていた。すやすやと寝息を立てている。

 状況を把握して、雪路は陽子を振り返る。

「それで、陽子さんはここでアニキを待っていたわけか。探してはみたのか?」

「表を少しだけね。でも、テイちゃんを一人きりにできないから」

「よかったよ、それで。アニキもガキじゃねえんだ、体のことは本人が一番わかってる。確かに心配だけどさ、陽子さんが看てくれてたんだし、睡眠もきちんと取ったんなら行き倒れることはねえだろ」

 労いの意味も含めて言うと、陽子は少しだけ安心した表情を浮かべた。

 しかし、言葉とは裏腹に雪路は心配で仕方がない。旅人は、他人のために平気で目を酷使するお人だ、体が悪くても無茶しそうだ。初めての出会いも行き倒れを拾ったのがきっかけだったし。

「旅人さん、たぶん有田君を探しに行ったんだと思う」

 同感だ。今回は有田一志がその『他人』に当たった。

「陽子さん、テイちゃんを頼む。どうせこのまま仕事だろ? 連れて行ってくれないか?」

「いいけど、ユキジ君は?」

「アニキを探すよ。どうせ有田を捜索してんだろうからさ、どのみち俺も付き合わねえと。まったく、一言くらい掛けてから行けってんだ。俺たちの気も知らないで」

 事務所を出るとき、合い鍵を陽子に渡すと複雑な気分に駆られた。

 灯衣のお守りも含めて事務所の管理は自分の仕事だった、それを任せられる人ができたというのは、楽な分だけ寂しいと感じた。

「……」

 旅人がたとえ廃人になったとしても一生面倒を見る覚悟があった。命の恩人なのだ、生涯を懸けてようやく釣り合う恩である。いや、それ以上に、雪路には旅人の存在が必要だった。

 雪路は旅人に実兄・勝彦を重ねていた。旅人を『アニキ』と呼ぶのは、自殺してしまった兄に見立てていたからだ。大好きだった兄を、心から尊敬していた兄を身近に感じることで、非行に走る前の自分に戻れるようで心地よかった。

 けれど、日暮旅人に不信感を募らせている自分もいる。

 彼の素性はほとんど知らない。以前はそれでも構わなかったが、そうも言っていられない事態に陥りつつあるような気がしていた。

 知らないところで実妹・麗羅と会っていたことを知って、胸騒ぎがした。旅人の過去は、もしや雪路の父や兄とも関係しているのではないか。もしそうならば、あの日雪路邸の前で行き倒れていたのも偶然ではなく、旅人の目的は──。

 雑居ビルを出ると、正面の路上に緑色のミニクーパーが停まっていた。中から降り立ったのは増子すみれ警部補だ。真っ直ぐ雪路に近づいてくる。

「……こんな朝っぱらから何の用すか?」

 警戒しつつ、先に切り出す。増子は雪路の背後を確認し、ビルを見上げた。

「日暮旅人は一緒じゃないのか?」

「……事務所にもいないぜ。残念でしたね、出直してくださいな」

 そのまま通り過ぎようとすると「待ちなさい」肩を掴まれた。

「用事があるのは君によ、雪路雅彦」

「はあ? 俺、何も悪いことしてねえってば!」

「そこまで警戒しなくても。少し傷つくぞ」

「ンな玉かよ」

「いいから乗りなさい。訊きたいことがある。日暮旅人のことで」

 その名前にわずかに反応した。増子はそれを見逃さず、目を光らせた。

 雪路を引きずるようにして連行する。ミニクーパーの助手席に雪路を押し込むと、すかさず運転席に回って車を走らせた。

「強引だな、いっつもいっつも! 可愛い車に乗ってんのも意外すぎて吃驚だよ!」

「かわっ!? 小回りが利いて良いんだぞ、これは! まったく、君は昔からそうだ。言葉遣いに遠慮がない。タイプは違うが日暮旅人も同類だな。似た者コンビだ」

 車は市外に向かって走っているが、尋問が目的らしいので目的地はないはずだ。雪路は諦めたようにシートに腰を沈めた。

「……んで、アニキが何だってんすか?」

「さっきの反応を見る限り、探られると痛い腹があるようだな。日暮旅人には」

「そんなんじゃねえよ。少し考え事してただけっすよ」

「知りたいことがある。最近、日暮旅人に変わったことはないか?」

「……」

 なんとか平静を保てた、と思う。増子は正面を向いたまま、続けた。

「たとえば、妙な鞄を持ち歩いている、とか」

「──え?」

「心当たりがありそうね。奴が何と言って誤魔化しているか知らないけど、その鞄にはおそらく爆弾が入っている。つい先日、アリーナパークでテロリストを逮捕したことがあったでしょう、それ以降に手にした物なら間違いなく『朝倉印』だ」

 朝倉印とは、テロリスト集団『天空の爪』の爆弾屋・朝倉権兵衛が手がけた爆弾のことだ。そっちの世界では有名な一品らしいが、雪路は詳しくない。

「なんでそんなもんをアニキが持ってんだよ? 爆弾? ハッ、馬鹿馬鹿しい。増子さんって刑事だろ? 今時の刑事さんは爆弾処理まで習ってんのか?」

 皮肉を込めて言った。鞄を持ち歩いていたら爆弾だと? そんなことを疑い出していたら切りがない。疑うことが仕事だと勘違いしているのか、この人は。

 しかし、増子は表情を崩さなかった。

「爆弾処理はできないが、昔、公安にいたことならある。テロリストが作った物がどこに流れたのか捜査するのも私の管轄よ」

 公安と言えば、テロリストや政治犯を追う、警察組織の中でも選りすぐりのエリート集団だ。雪路は思わず背筋を伸ばした。

「……マジ?」

「マジ。詳しくは話せないけど、私の捜査範囲は多岐にわたっていてね、別件でも日暮旅人には用があった。日暮旅人はあらゆる方面で爆弾を抱えているのよ」

「抽象的すぎてわけわかんねえよ!」

「公安にいた、ということだけでも機密事項なの。我慢しなさい。言えるギリギリで話しているのだから。──もう一度訊く。日暮旅人は鞄を持ち歩いているのか? どうなんだ?」

 雪路の顔がさっと青ざめてしまい、それだけで増子には伝わった。

 旅人は鞄を増子からもらったと言っていた。その増子がこうして疑っているということは、旅人のあの発言は嘘だったことになる。嘘を吐く理由は一つ、鞄を探られたくないから。

「……アニキはどうして爆弾なんか」

「その原因をこれから探るわけだ。君に訊きたいことはまだある。ここ二三日の間、警察内部でごたごたが起きている。どうやら『山田手帳』が発掘されたらしい。知っているか?」

「なんだよ、それ。山田さんの手帳か?」

「その通りだ。そして、極めて重要なことが記された手帳だ。多くの人間が喉から手が出るほどに欲している。──ふん、本当に知らないようだ」

 雪路の知り合いにそんな名前の奴はいない。しかし、手帳という単語は無視できなかった。麗羅は旅人に『手帳のようなモノ』を渡していた。確かだ。あれは一体何だったのだろう。

「『山田手帳』は十八年前に紛失した、フリーライターの山田によって収集された情報が記載されたものだ。嘘か真か、あらゆる不正の闇を暴いてしまった彼は、それを理由に殺し屋に殺害されてしまった。しかし、手帳だけは残された。十八年経った今でもその手帳は危険視されている。公安は長年それを追っていた。今回の発見が本当ならば、血を見る事態に発展するかもしれない」

「……俺がそれを知っていると、どうして思ったんすか?」

「色々と。せっかくだから君も一緒に来なさい。これから、その山田さんの遺族に会いに行くんだが、もしかしたら雪路雅彦にも意義があるかもしれない」

 増子は何かを確信したように話している。公安にいたと言うのだから、政治的観点から雪路家は調査の対象だ、その辺りが絡んでいるのかもしれない。

 ──それどころじゃねえのに、早くアニキを探さねえと。

 そう思うものの、もしや旅人に渡った『手帳らしきモノ』が『山田手帳』なのでは、と疑い始めている。それが何を意味しているのかまではわからないが。

 雪路は黙っていた。増子はそれを承諾したものと見て、ハンドルを切った。