第一章


    一


 冬晴れの空の下を、子供たちが、白い息を吐いて駆け回っている。昨日までは眠っているようだった園内は、すっかり生気を取り戻していた。

 十二月二十三日。この日の午前中、神奈川県下の小学校は一斉に終業式を行っていた。午後は実質、子供たちにとって冬休みの初日だ。園の中心、すり鉢の底のようなカエル広場は、小学生で溢れかえっている。

 その中を、カエルの着ぐるみが走っていた。黄緑色の頭の大きい着ぐるみは、平麻ワンダーパークのマスコット、ケロ吉だった。

「まてー!」「逃げんなよー!」

 ケロ吉を追いかけるのは、手に手に水鉄砲を持った子供が三人。冬用の分厚いジャンパーにマフラーを巻いて、白い息を吐きながら嬉々としてカエルの着ぐるみを追走する。

 当たり前だが、着ぐるみは走るようには出来ていない。カエルは頭を巡らせてスタッフを捜すが、いつも側に付いているはずのスタッフは、客に呼ばれているのか見つからない。

 ちょうど滞園ピークの午後一時過ぎ。園内が最も賑わっている時間で、他のスタッフも、アトラクションのチケ売りともぎりに駆りだされている頃だった。

 着ぐるみの視界は狭い。行き交う客やワゴンにぶつからないように気をつけていれば、動きは遅くなる。カエルの着ぐるみはついに、カエル広場の噴水前で子供に取り囲まれた。

「覚悟しろ!」「カエル魔人め、成敗してやる!」

 子供たちは、すっかりヒーロー気分だ。しかしこの寒空の下、水鉄砲で狙われる側はたまったものではない。

 子供が撃った強烈な水流を、ケロ吉は咄嗟にテーブルを盾にして弾いた。水しぶきが飛び散り、周囲の客が小さな悲鳴を上げて離れていく。

「これ、何かのアトラクションなの?」「ケロ吉、負けるなー!」

 野次馬の呑気な掛け声が聞こえて、腹立たしい。助けを呼びたいが、着ぐるみに入っている状態では喋れない。

 一発や二発撃たれるのを覚悟で、強行突破をするしかない。そう思ったとき、黄緑色の制服を着たスタッフが、野次馬を掻き分けてくるのが見えた。

 ケロ吉は、ほっとして力を抜いた。そのせいで、忍び寄っていた子供に気付かなかった。

「おりゃーっ!」

 子供のタックルが、ケロ吉の胸を下から突きあげるように入った。カエルの着ぐるみはバランスを崩して、噴水に頭から突っこんだ。


 芹沢晃は、休憩室のストーブに当たりながら不機嫌そうに呟いた。

「着ぐるみで寒中水泳するたぁ思わなかったぜ……あのクソガキども」

 ストーブの上に吊された着ぐるみを絞る東恭二が、晃の言葉に笑って言った。

「いい体験をしたじゃないですか、先輩」

 晃はげんなりして、仕出しの弁当を広げる。ずぶ濡れの着ぐるみを脱いだときには青くなっていた顔も、シャワーを浴びて、だいぶ血の気が戻っていた。

 着ぐるみが、子供の悪戯のターゲットになるのは日常茶飯事だ。それも仕事だと考えれば、文句を言ってもしょうがない。晃はイカフライにかじりつきながら、向かいに座った恭二に毒づく。

「どさくさ紛れに一、二発殴ってやりゃ良かったぜ。今日日のガキは、どんな躾をされてんだ」

 恭二は処置なしとばかりに肩を竦めて、自分の弁当を取りだした。

 二人は、この遊園地、平麻ワンダーパークのアルバイトだ。マスコットキャラクター、カエルのケロ吉の着ぐるみに、専属で入っている。

 身長はほぼ同じの二人だが、風貌は正反対だった。晃は腕も太く、細身ながら筋肉のついたいかつい男で、顔も野性的。愛嬌があるとは言い難い。対して恭二は細身の優男で、いかにも体力がなさそうな二枚目だ。

 恭二は自分のトンカツをウスターソースでべとべとにしながら、晃に言った。

「今日は冬休みの初日ですから、テンションが高いんですよ、きっと」

「うんざりするぜ……子供は家でゲームでもやってりゃいいんだよ」

「何を言ってるんですか。そうなったら遊園地なんて潰れますよ」

 晃の子供嫌いは、恭二も知っている。彼は弁当を掻っこんでいる晃に訊いた。

「先輩は子供嫌いなのに、どうしてこんな仕事をしてるんですか」

「金だよ、金」

 晃は不機嫌なまま、端的に言葉を返す。その言葉に拒絶を感じたのか、恭二はそれ以上、声を掛けてこなかった。

「しかし、体力が落ちたな……」

 熱いコーヒーでイカフライを流しこみ、晃はため息をついた。

 晃は今年で三十歳になる。ここ、平麻ワンダーパークには、もう五年ほど勤めていた。昔、世界を放浪した頃の若さは、急速に失われつつある。

「無理ないですよ。三十過ぎれば、もうおっさんですって」

「うるせえ。お前ももっと体力を付けやがれ。俺が辞められねえだろうが」

 目の前の恭二は大学生。確か今年で二十一歳だ。その若さが羨ましくないと言えば嘘になる。

「先輩が辞めたら、まず着ぐるみ班は潰れますね」

「それがどぉした」

「愛着とかないんですか? ケロ吉に」

「あるわけねえだろ、こんな不格好なカエルに」

 ストーブの上に吊されたカエルの半身を見あげながら、晃はコーヒーの残りを啜る。

「先輩が演じているのは、平麻ワンダーパークのマスコットなんですよ。もう少し誇りを持ったらどうです?」

「その誇りとかいうヤツは、全部お前に任せるわ」

「僕はまだ見習いですよ。先輩の後をピヨピヨ付いていくヒヨコちゃんです。いや、オタマジャクシかな?」

「ヒヨコでもオタマでも、同じ安月給のアルバイトだろうが。時給も大して違わねえ」

 晃は立ちあがり、自販機でビールを買った。恭二が苦笑する。

「仕事中ですよ」

「うっせ。肝心の着ぐるみがこれじゃ、仕事になんねえよ」

「どうせ別の仕事に回されますよ。クリスマス前で忙しいんですから」

 晃は聞く耳を持たずに、プルタブを開けた。ビールを喉に流しこむ。ささくれた心を、アルコールがわずかに落ち着かせてくれる。

 恭二も弁当を片付けて立ちあがると、晃の横で再び着ぐるみを絞りはじめた。恭二が来てから、着ぐるみの管理は任せきりだ。

 元々、晃の役目は裏方だった。景品の補充や整備の手伝い、イベントの設営など、遊園地には力仕事が多い。身体を鈍らせないためには、格好の仕事だと思っていた。

 しかし晃は、体力と体格に目を付けられて着ぐるみを着せられ、客前に出ることになってしまった。最初は一ヶ月に一、二度だったのが、次第に頻度が増え、恭二が着ぐるみの交代要員になってからは、ほぼ毎日着ることになってしまった。

「恭二、今日は飲みに行くぞ。付き合え」

 着ぐるみの手入れをしている恭二の背中に、声を掛ける。

「今日は駄目ですよ。用事があるんです」

「何だ、デートか、色男?」

「はい。妹と買い物に行くんです」

「噂の可愛い可愛い妹さんか?」

「やめてくださいよ」

 恭二は顔を赤くする。このひょろりとした青年には、酒が過ぎると突然、誰彼構わず自分の妹を自慢しはじめるという奇癖がある。

「愛らしいおとがい、指が素直に通る優しい髪、すらりと伸びた眉に、健康的な唇……詩人かよ。録音しときゃよかった」

「本気でやめてください」

 晃は人の悪い笑みを浮かべる。恭二をからかうには定番のネタだ。

「そうそう先輩、せっかくですから一緒に行きませんか?」

「お前の妹と一緒に買い物か? 冗談だろ」

 恭二は肩を竦めると、布を取りだしてケロ吉の頭を内側から拭いはじめた。

「先輩、まだ顔が少し青いですよ。医務室には行かないんですか」

「必要ねえよ」

 そう言いながら、晃は懐からラッキーストライクを取りだして、一本咥えた。


    二


 冬の太陽の弱々しい夕焼けが、幾何学的な影を園内に落としていた。その骨組みの上を、轟音を上げて影のコースターが走り抜ける。

 この時間は、いつも祭りの後だ。眠ってしまった子供を抱きかかえている親や、名残惜しそうに園内を見回している小学生が、ゆっくりと入園口に向かっている。

「十七時をもちまして、平麻ワンダーパークは閉園となります。園内のお客様、本日もご利用ありがとうございました。各アトラクションの最終ライドの時間をご案内いたします。観覧車ワンダーサークル、十六時四十分──」

 閉園三十分前のアナウンスを告げる放送の声も、心なしか間延びしている。

 晃は、この眺めが好きだった。ワンダーBOX三階の、ゲームセンターのバックヤードの狭い窓から、彼は身を乗りだして紫煙を吹かしている。そうしていると、子供に媚を売って過ごした一日の記憶が洗い流されていく。

 午前中、晃扮するケロ吉が叩き落とされた噴水の前には、電飾が施されたモミの木が立っていた。明日はクリスマスイブ。冬場で一番の稼ぎ時だ。

 首をゴキゴキと鳴らし、煙草の灰をビールの缶に落とす。昼過ぎからずっと、晃はここで油を売っていた。

 以前、スペインのサーカスで働いていたことがある。遊園地で金を稼げると思ったのも、そのためだ。

 しかし、ここの仕事に楽しさは感じない。次の旅の資金稼ぎと割り切って、もう五年が経った。金は貯まっているが、なぜか辞める踏ん切りがつかなかった。

 暮れなずむ園内にまた、目を落とす。

「……こんなところにいた」

 その声に晃が振り向くと、福田馨がバックヤードに入ってきたところだった。

「仕事ですか」

 晃は悪びれもしない。彼女にサボっているところを見つかるのは、もう何度目かも分からなかった。

「ケロ吉人形を三十個、二階の売店に。それからゲームセンターの景品の補充」

「そんなに売れてるんすか?」

 晃の言葉に答えず、馨はバインダーに目を落とし、検品を始めた。

 彼女は園内に六人しかいない社員の一人で、晃たちアルバイトを統括している。社員の中でも最も若い二十八歳だが、その仕事ぶりは抜きんでている。

 長い黒髪に小柄な身体。これで着物でも着ていれば日本人形のように見えるだろう。

 人形のようなのは見た目だけではない。彼女はいつも能面のような顔をして、平然と人の数倍の仕事をこなす。その無表情が崩れるところは、もう四年一緒に仕事をしている晃も、見たことがない。

「……やれやれ」

 晃にとっては苦手な上司だ。サボっている横で真面目に仕事をされてはたまらない。吸いかけの煙草を空き缶に落とし、仕方なくケロ吉人形を捜しはじめる。

「ケロ吉は?」

 馨の言葉が一瞬、何のことか分からなかった。しばらくして、濡れた着ぐるみのことを指しているのだと気付く。

「明日までストーブ点けっぱで良ければ、なんとか乾くんじゃないすか」

 視界の端で頷いたのが見えた。彼女は仕事に必要なことしか口にしない。

「体調は?」

 それが自分のことだと、すぐには理解できなかった。

「……ま、鍛えてますからね」

 事実、寒気はすっかり抜けていた。この分なら、風邪を引くこともなさそうだ。

「そう」

 馨は小さく頷いた。反応はそれだけだ。

 彼女は、園の健全な経営にしか興味がない。晃を気遣ったのも、仕事に支障がでたら困るからだ。晃を解雇にしないのも同じ理由だろう。

 ケロ吉人形の入った段ボールを抱えて、晃が馨の鼻先を横切り、バックヤードを出ようとすると、馨がすっと手を伸ばした。

「禁煙」

 小さく鋭く囁いて、バックヤードのドアを開けてくれる。

 晃は苦笑しながら、がらんとしたゲームセンターを抜けて階下へ急いだ。


「最近、付き合いが悪いんだよ、あのシスコン野郎。今日は愛しの妹ちゃんと買い物だとよ」

 駅前の、カウンターしかない小さなバーで、晃はくだを巻いていた。店の名前は『ミヤ』。ワンダーパークから歩いて五分。平麻駅の駅前に不格好に広がった繁華街の、奥まった路地にある変わったバーだ。

「でも東さんの妹さん、一度は見てみたいわねぇ」

「見てみたら案外、がっかりなんじゃねえかな」

 気さくに話しかけてくるホステスは神崎澄子という。二十歳の大学生だというが、もっと若く見える。彼女を相手に、晃は安ウイスキーを傾けた。

「今日は、お客さんは多かったの?」

「結構入ってたぜ。今どきはクリスマスのイブイブって言うらしいな。まーカップルの多いこと多いこと」

 晃は舌先で酒のしずくを拭い、モツ煮込みを箸で掻っこんだ。バーには似つかわしくないつまみだが、妙に美味い。この店は以前は居酒屋で、主人を亡くしたママが一人でもやっていけるように、バーに改装したのだという。

 不愉快なことがあった日は、この店で憂さを晴らすのが常だった。

「晃さんはクリスマスはどうするの?」

 くすり、と笑って澄子が聞いてくる。

「澄子ちゃんと過ごせるなら願ってもないんだけどな」

「けど、仕事なんでしょう?」

 この手で何度も澄子には身をかわされている。それがそれほど不快ではない。

「まーな。多分上がりは夜十時を過ぎるし、次の日は朝六時半からだ。午前様ってわけにはいかねえよ」

「あら」

 口元を覆ってクスクスと笑う。バーのホステスにありがちなスレた感じがない、妙に品のある女性だった。

「ハイボール。濃いめな」

「はーい」

 痛飲したい気分だった。生意気な子供にうんざりしたせいだろうか。それとも、恭二と辞める辞めないの話をしたせいか。

「人肌が恋しいぜ……」

 目を向けると、澄子がそっぽを向いて笑っていた。


 十二月の冷たい空を見あげながら、家路を辿る。

 金を貯めて、また旅に出る。そう思って日本に帰り、もう五年が経った。

 出ようと思えば、いつでも出られるのだ。金は貯まっているし、行きたい所もある。

 スペインに渡り、ジブラルタルからアフリカを歩きたい。エジプトまで行ったら、あとはどうしようか。シナイを見るのもいいし、ナイルを遡ってみるのにも惹かれる。

 酔っぱらった夜は、いつもそんな風に、まだ見ぬ世界のことを考える。だが、夜風が吹いて酔いが醒めると、身に絡みついた鎖に気付くのだ。

 晃は今年で三十歳になる。旅をしていた頃に比べれば、体力も気力も衰えていた。

 ここで生きるのは楽だった。少しばかり嫌な仕事を我慢していれば、暮らすには充分な金が入り、時には酒を飲んで女も口説ける。そんなぬるま湯のような生活には、大きな喜びもない代わりに、不満もない。

 五年という時間が、晃から自信と熱情を奪い去っていた。


 駅裏の四畳半が、晃のねぐらだ。部屋の隅の旅行バッグには、埃が積もっていた。


    三


 職場に持っていくのは、着ぐるみに入るときのTシャツとタイツに、換えの下着とタオル。あとは財布があれば事足りる。

 晃はアパートを出て、平麻駅に向かった。ワンダーパークは駅の向こう側にある。

 朝の六時過ぎで、まだ陽は上がっていない。白みはじめた空の下を、街灯を辿るように歩く。

 アパートから駅までは五分しか掛からない。こんな早い時刻でも、駅の改札にスーツ姿の男女が吸いこまれていく。平麻駅から都心までは二時間近く掛かる。ご苦労さん、と心の中で思っていると、ちょうど電車がやってきて、晃は踏み切りで立ち止まった。

 踏み切りを渡り、改札前を抜けて南側には、幅の広い歩道橋の階段がある。その手前で、声を掛けられた。

「先輩、おはようございます」

 恭二だ。今の電車に乗っていたのだろう。彼は毎日、三十分掛けて通勤してくる。

「今日も始発か?」

「仕方ないですよ。車持ってませんし」

 この時間、駅から南に向かって歩くのは、ワンダーパークのスタッフだけだ。幅のある歩道橋に上がると、眼下に広い駐車場が見える。その向こう、道路を二本渡った先が、ワンダーパークの入園口だ。

「にしても、お前も続いてるな。もう二年だっけ?」

「そうですね。意外と続いてますね」

 恭二は、久々に入った通年雇用のアルバイトだった。着ぐるみ班に入ったのは去年だが、それまでに様々な部署での仕事を経験している。晃と違ってデスクワークも得意らしく、社員や他のアルバイトにも受けが良い。なぜそんな男が晃のパートナーになったのかは分からない。

「デートは楽しんだか?」

「はい、お陰様で」

 恭二は育ちがいいのか、晃に対しては、こんな皮肉とも付かない言い方をよくする。他のスタッフとは距離を感じる中で、晃にとっては貴重な友人だった。

「今日はクリスマスイブだぜ。そんな日に愛しい妹ちゃんを放りだしてていいのか?」

「先輩こそ、こんな日に呑気に仕事してていいんですか」

 そう言って二人で笑う。土、休日に休めないのは観光業の宿命だ。

 長い歩道橋も半ばを過ぎて、入園口が近づいてきた。

 正面の赤く塗られた三階建ての建物、ワンダーBOXの二階に入園口がある。リニューアルの際に、この歩道橋の建設に合わせて二階をぶち抜いたという話だ。駅から一度も横断歩道を渡ることなしに入園できるという触れこみだった。

 この幅の広い歩道橋も、ワンダーパークの主要なイベントスペースの一つとして使われている。ケロ吉もここで、何度も踊ったり、風船を配ったりした。

 ワンダーBOXの屋上には、巨大な観覧車が設置されている。電車からでも良く見える、これ以上ない広告塔だった。

「ちわっす」

「おはようございます」

 掃除をしている夜警のスタッフに挨拶をして、入園口を抜ける。その向こうはすぐ下り階段になっていて、その底にカエル広場が見渡せる。噴水の向こうの高台には、メリーゴーラウンド。その頭上を覆うように、ジェットコースターが張り巡らされている。

 こぢんまりとした、まるで箱庭のような遊園地だった。


 ケロ吉に群がってくる子供たちの笑顔が、薄っぺらく見えてしょうがない。

 この子供たちは、どうしてこんなに簡単に笑えるのだろう。それとも、ケロ吉が子供を笑わせているというのは晃の幻想で、この遊園地という空間が子供を笑わせる作用を持っているのだろうか。

 手近にいる小学生の頭を撫で、水かきの付いた手で握手して、親の構えるカメラに一緒に収まってやる。その繰り返しで、十人も二十人も子供を相手にしていると、そんなくだらないことも考えてしまう。

 クリスマスイブの今日は、冬場で一番のピークデーだ。カエル広場に設置されたクリスマスツリーには、電飾や飾り帯、金銀の鈴がこれでもかと飾り付けられている。園内のそこかしこにも、華やかな飾りが施されて、ワンダーパークを見慣れた晃の目にも新鮮だった。

 ケロ吉も、園内のスタッフも、皆サンタの帽子を被っていた。園内のスピーカーからは定番のクリスマスソングが流れているが、客の歓声にほとんど掻き消されていた。

 適当にサボろうにも、こんな日は人気のない場所を見つけることは難しい。ケロ吉を見つけて寄ってくる子供の相手を、仕方なく続けるしかなかった。

「最初はコースターに決まってんだろ?」「前も乗ったじゃねーか! 待てバカー!」

 カエル広場は園内の中央、喧噪の巣だ。ケロ吉の横を、中学生の一団が走り抜けていく。

『なお、園内は大変混雑しております。走られると大変危険です──』

 放送を掻き消すように、カエル広場を囲むジェットコースター『トリプルピーカーズ』が快音を上げて駆け抜けた。甲高い悲鳴が、その後を追う。

「すいませぇん! 今この人、割りこんだんですけどぉ!」

 子供を連れたおばさんのだみ声が響き渡り、列整理のスタッフが慌てて駆けつける。

「冬場にお化け屋敷? マジありえねー!」

 その横でクレープを食べていたカップルが、姦しい声を上げてワンダーBOXに入っていく。

 広場のベンチは親子連れでびっしりと埋まり、子供の叫び声とアトラクションの歓声が間断なく混じり合う。その間をたくさんのカップルが行き交い、クリスマスツリーの前はカメラを構えた客でごった返していた。

 客の中には、サンタの帽子を被ったり、仮装をしている人もいて、それを見た子供たちが楽しそうに笑っている。

 そろそろ昼時とあって、そこかしこで軽食のワゴンが湯気を上げていた。定番のインドカレー焼きそばやトルティーヤドッグに加え、クリスマスらしくローストチキンとケーキの販売が始まっていた。朝から着ぐるみで動き回っている晃には、目の毒だ。覗き窓から入ってくる匂いに、たまらず喉が鳴る。

 休憩に入ろうにも、着ぐるみは一人では脱ぐことが出来ない。いつもは近くにいる恭二も、何か仕事があるのか離れているようだった。

「園内においでのお客様に、迷子のお知らせです──」

 迷子放送の声に、晃は足を止めてケロ吉の顔を上げた。これだけ賑わっていれば、迷子の一人や二人は出るだろう。

「横浜からお越しの、セリザワアキラ様──お子さんがワンダーBOX二階、入園口横の赤いポールでお待ちです。横浜からお越しの──」

 晃はケロ吉の中で思わず笑った。自分と同じ名前の父親とは、どんな奴だろう。迷子を一目見ようとして入園口を見あげるが、途中の階段にも人がごった返していて良く分からない。

 そうこうしていると、幼稚園児の集団がやってきた。

 園にとってはお得意様だが、晃にとっては苦手な生き物だ。その一人が、何の躊躇いもなくケロ吉の足にぶち当たる。そのまま抱きつくと、他の子も真似をしはじめる。すぐにケロ吉の下半身は鈴なりになった。

「こーら。ケロ吉くんが困ってますよー。離れなさい」

「こまってないもん! ねー!」「これぼくのー! つれてかえる!」

 カエルの顔はいつでも笑顔だから、子供たちには、保育士が嘘をついていると映る。黄緑の、水かきの付いた手で、ケロ吉は園児の頭を一人ずつ強めに撫で回す。子供たちは喜ぶばかりで、まったく離れる気配がない。

 こいつらを満足させるまで、休憩はお預けか。晃はため息をついて、幼稚園児の身体に手を回し、軽々と抱きあげた。


 結局、園児全員を「高い高い」で満足させるまで、離してもらえなかった。パンパンに張ってしまった腕を撫でながら、晃は休憩室を出てオフィスに向かっていた。

 福田馨が呼んでいるという。着ぐるみを脱いで、昼食を食べようとした矢先だった。

 緊急の仕事だろうか。客前に出ないで済むなら、そのほうが有り難い。そう思いながら、晃はオフィスのドアを開けた。

 殺風景なオフィスは、窓がない以外は普通の事務所と変わらない。福田馨のデスクにはいつものように書類が積まれているが、彼女の姿はなかった。

「杉山さん、福田さんは?」

「奥で待ってるわよ」

 放送担当の杉山という女性社員が一人、ぽつんと書類仕事をしていた。彼女に訊くと、なぜか怒ったような声が返ってくる。

「何かあったんすか?」

「早く行きなさい」

 杉山はオフィスの奥にある、パーティションに区切られた応接スペースを示す。

 晃は顔に疑問符を浮かべながら、その中を覗きこんだ。

「……父ちゃん?」

 ケロ吉饅頭を手に持った少年が晃を見あげて、ぽかんと口を開けて呟いた。

 小学校二、三年くらいだろうか。俊敏そうな少年だった。その顔が、みるみる笑顔に変わっていく。

「父ちゃん! 父ちゃんだ!」

 少年は体当たりするように、晃にしがみついてくる。唖然としていた晃は、同じスペースでケロ吉饅頭をかじっている小柄な女性、福田馨に問いかける。

「……こいつ、何すか?」

 笑顔で抱きついてくる少年に、見覚えはなかった。

「あなたの子供。そう言ってる」

 馨はいつもの無表情で、関心がなさそうにそう言った。

「信じたんすか、それ……おい、お前は何なんだ」

「あきら! 父ちゃん、セリザワアキラだろ? なら俺の父ちゃん!」

 少年の言うことは、まるで意味が分からない。

「ひょっとして、さっきの迷子放送ってコイツですか」

「そう」

 馨は小さく頷き、マイペースで饅頭をかじっている。

「おいガキ。いいから離れろ。何だ、家出か?」

 少年の頭を押しのけようとする。少年の座っていた場所の隣には、大人用の大きなリュックが置いてある。遊園地に遊びに来る荷物としては、いささか大きすぎる。

「うん! 母ちゃんのとこ家出して、父ちゃんのとこに来た!」

 しがみつく両手を離して、少年は晃を見あげてくる。その顔は笑顔だが、言っていることはとんでもなかった。

「ざけんな。誰が父ちゃんだ」

 確かにこれだけ「父ちゃん」を連呼していれば、自分が呼びだされてしまうのも頷ける。馨も、さぞや持て余したことだろう。

 晃の顔は子供受けするとは言い難い。凄めば迫力がある。子供に怪獣だ、と言われたこともあった。

「いいか、お前。俺はお前の父ちゃんじゃねえし、お前みたいなでかいガキを持った覚えもねえ。大体、お前だって俺と会うのは初めてだろうが」

「うん。でも、母ちゃんが……俺の父ちゃん、セリザワアキラって人だって言ってた」

 少年の笑顔が少し緩んで、不安そうな色を帯びた。

「同姓同名だよ。そんな名前の奴、他にいくらだっているだろ」

 ありふれているわけではないが、そう珍しい名前でもない。何を聞きつけてここに来たのか知らないが、いい迷惑だ。

「でも、父ちゃんは神奈川の遊園地にいるって……」

「どこでそんなことを聞いた?」

 普通に聞いているつもりだが、少年の笑顔はすっかり消えていた。代わりに、少し不安そうな顔になる。

「母ちゃんが言ってた」

 五年前、この遊園地のバイトが決まったときに、知り合いにメールで知らせたことはあった。それを誰かから聞いたのかもしれない。

「また母ちゃんか。お前の母ちゃんの名前、何ていうんだ。どこに住んでる?」

「……言わない」

 少年はすっかり俯いてしまった。晃は肩を竦める。

「話になんねえな」

「私も訊いた。母親のことになると何も言わない」

 馨が口を挟んでくる。

「福田さん、親が見つからないなら警察を呼びましょうよ」

「この子、あなたをずっと父親だと言ってる。本当に身に覚えはない?」

 その言葉に、晃は舌打ちした。俯いている少年は小学校低学年に見える。逆算すると、七、八年ほど前か。その頃は、確かアメリカにいたはずだ。

 身に覚えがない、と言えば嘘になる。あの当時は、日本人の女性と何人も付き合っていた。だが少なくとも、付き合っていた女性が自分の子を産んだという話は聞いていない。

 晃の女好きは職場でも有名だ。杉山が怒っていたのも、この子供を自分が捨てたとでも勘違いしたのだろう。馨も、そう疑っているような雰囲気だ。

「少なくとも、こんな子供のことは俺は知りませんよ。おい、お前、名前は」

「……あきら」

「そりゃ俺だ。お前の名前だよ」

「あきらだよ。父ちゃんと同じ。漢字は違うけど、父ちゃんから取ったって、母ちゃんは言ってた」

 顔を上げて、少年はテーブルの上に「明」と書いた。声は小さかったが、言葉はしっかりしている。こういう子供は頑固だと、着ぐるみに入っている経験から晃は知っている。

 良く見れば、少年の服は所々傷んでいる。髪もぼさぼさだ。

「……お前、どうやってここを捜したんだ?」

 考えてみれば、晃は友人に送ったメールでも「神奈川の遊園地で働いている」としか言っていない。神奈川県に遊園地がいくつあるか知らないが、子供が簡単に捜しだせるとは思えなかった。

「えっと……、えっと、昨日はガッコ終わって、家を出て、横浜の遊園地に行ったんだ。そこのおっちゃんが、いっぱい電話してくれて。……そんで、この遊園地に芹沢晃って人がいるって教えてくれた。昨日は、そこで寝たんだ。ストーブ当たって、たくさん喋って、すげージェットコースターの話とかした。そんで今日は朝早く起きて、横浜から電車乗ってきたっ」

「うるせえ、はしゃぐな」

 話すうちに、どんどん声を弾ませる少年の頭を押さえつける。少年はとたんに元気を失って、俯いてしまった。

 しかし何という無鉄砲な子供だろう。ここに辿り着いたのは、ほとんど偶然だ。警察に保護されていないのが不思議なぐらいだった。

「電話、あったんすか?」

「杉山さんが受けていた」

 馨に尋ねると、頷いた。晃はため息をついて、少年に視線を戻す。

「そもそも、俺がお前の父親だっていう証拠でもあるのか」

「うん」

 驚いたことに、晃の言葉に少年は頷いた。リュックから一枚の写真を取りだす。

「……これ」

 少年が差しだしたのは、一枚の写真だった。

 写真に写っているのは、間違いなく晃だった。煙草を咥え、薄手のシャツに髭を伸ばした若い姿。日本を出てから、海外のどこかで撮ったものに違いない。背景はぼやけていて分からないが、町中のようだった。

「なんだこりゃ。いつの間にこんなもん……」

「確かにあなた」

 唖然とする晃を尻目に、馨が写真を手に取って眺める。言われずとも、すぐに分かった。旅が楽しくなり、自分に自信を持ちはじめていた頃、二十歳過ぎの自分がそこにいた。

「これは、どこ?」

 ぼやけているが、色とりどりのショーウィンドウに、様々な髪色の男女が映っている。日本ではないのは、すぐに分かる。

「母ちゃんは、アメリカだって言ってた」

「……あのなあ、確かにお前の母ちゃんは俺の知り合いなのかもしれねえが、だからって俺の子供だってことにはならねえだろ」

 髪を掻きむしりながら、ぶっきらぼうに話す晃を、少年はじっと見て呟いた。

「……俺、父ちゃんと一緒に暮らす」

「ふざけんな。俺はお前の父親になった覚えはねえ。とっとと帰れ。家出遊びに付き合ってる暇はねえんだ」

「でも、父ちゃん……」

 晃は少年を睨みつけた。

「母親の名前を言え」

「……嫌だ。俺、帰りたくない」

「言え。言わなかったら警察に突きだすぞ」

 勝手に家出してきたのなら、今頃は、母親が必死になってこの少年を捜しているだろう。下手なことをすれば、誘拐を疑われる可能性もあった。

「嫌だ! 絶対言わない!」

「このガキ……!」

 晃は思わず拳を振りあげる。少年の顔に初めて怯えが走った。しかし、その手を制するように、馨が不意に立ちあがって言った。

「ちょっと来て」

 彼女は応接スペースの入り口に視線を送る。二人で話がある、ということだろう。

 晃は舌打ちを零して、馨と共にオフィスに戻った。


「あなたが引きとるほうがいい」

 馨の第一声に、晃は目を剥いた。

「……何を言ってんスか。馬鹿なこと言ってないで、警察を呼んでくださいよ」

 応接スペースのすぐ外で、声を潜める二人を、杉山がちらちらと気にしている。それが分かって、晃はさらに苛ついた。

「それとも、あのガキに同情したんすか? 家出なんて珍しくもない。いちいち付き合ってたら身がもちませんよ」

「あなたが来る前に母親のことを訊いた。でも頑として言わない。あの年頃の子供は一度ヘソを曲げると、すごく厄介」

「だからって、何で俺が引きとらなきゃいけないんすか」

「手間を省きたいだけ。きっとあの子、警察で素直に母親のことは言わない。あなたのことを父親だって言う。あなたは呼ばれて、身辺が調査され、虐待を疑われる。だから最初からあなたが引きとって、それを警察に知らせておけばいい」

 馨の言うことは、容易に想像が出来た。名前だけならともかく、あの写真があれば、自分とあの少年が無関係だと言い張るのには無理がある。

「勘弁してくださいよ……」

「二、三日すれば、捜索願が出るはず。警察には連絡しておく」

 商売柄、遊園地は警察とも関係が深い。子供の迷子や置き去りで何度も世話になっていて、平麻署の警官には顔なじみも多かった。

 晃はため息をついた。

「一本、吸っていいスか」

 ラッキーストライクを咥えてから聞いた。馨の返事はにべもない。

「駄目」

 手を伸ばして煙草を取った馨は、代わりにケロ吉饅頭を押しつけた。晃は乱暴にビニールをむしり、一口でカエルの顔を半分かじりとる。

「……分かりました。とりあえず預かりますよ。面倒なんて見れませんがね。たく、とんだ貧乏くじだ」

「あなたが蒔いた種」

 それは彼女の冗談だったのか、確かめる前に、馨は応接スペースに戻っていった。


 晃が馨の背中を追って応接スペースに入ると、少年は俯いたままだった。

「おい、ガキ」

「……父ちゃん?」

「何度言やあ分かるんだ。俺は父ちゃんじゃねえ!」

「ひっ……」

 晃がキレ気味に怒声を上げると、少年はすっかり怯えてしまう。その様子に、さすがに気勢を削がれた。

「チッ……まあ仕方ねえ。今日は泊めてやる。仕事が終わるまで待ってろ」

 ケロ吉に入っているときはともかく、素の晃は、子供とどう接して良いか分からない。少年はすぐに失望して、自分から帰っていくだろう。そう高をくくっていた。

「……うん」

 少年、明は、怯えを残したまま、小さく不安そうに頷いた。

 馨が俯いた少年の頭を撫ではじめる。相変わらず無表情のまま、彼女は財布から千円札を数枚取りだし、少年に渡す。

「閉園まで遊んでて」

 晃は苦笑する。どういうわけか、馨はこの少年に甘い。普段は鉄仮面とあだ名されている横顔も、心なしか柔らかい気がする。

 少年が馨に、ほんの少し笑顔を見せた。それを見た馨が晃を見あげる。

「……なんすか」

「顔。似てるわ」

 反論しようと口を開いたとき、午後一時のチャイムが鳴り響いた。

 晃の休憩時間は終わりだ。結局、昼食は食べられなかった。だが、恭二はもう着ぐるみを持って待機しているだろう。

「早く」

 馨の手が、軽く晃の肩を叩く。彼女も、貴重な休憩時間を潰されたのは変わらない。苛立ちをぶつける気にはなれなかった。

「ああ、分かってますよ。おいガキ、大人しくしてろよ」

「……うん」

 頷く少年を残して、晃は恭二のいる休憩室に向かった。

 無性に、煙草が吸いたかった。