プロローグ


 コンクリートで固められた狭い部屋の中央で、男は静かに座していた。

 男の印象を一言で表すなら穢れない、だ。整った顔立ち、ほっそりした無駄のない体つき。二十代半ばかそれより若く見える。肌は日の光を浴びたことがないかのように白く、傷一つ、皺一つない。ただ右腕の肘先の内側に、ひきつれたやけどの痕があった。

「姫川恵介、立ちなさい」

 男――姫川はゆっくりと顔をあげる。目線の先には薄汚れたドアと鉄格子のはまった小さな窓があった。そこは牢獄であり、窓からのぞいているのは数名の看守だった。

 犯罪者の反抗的な視線にはなれているはずの看守達が、暗闇の奥から向けられる静かな眼差しに一瞬ひるんだかのように見える。

「いいか、開けるぞ?」

 念を押しながら看守の一人がドアの鍵を開けると、部下数人を引き連れて中に入った。姫川は音もなく立ち上がる。

「立ちなさ、……あ、いやよし、つれていけ」

 なんの抵抗もない静かな動作だ。看守がとまどいながら両脇を固めると、姫川は導かれるままに部屋の外に出た。

 姫川は数名の看守に囲まれながら、通路を移動する。一本の刀のような姿勢に、まわりの看守のほうが気後れしていた。

「私は――ない」

 姫川はたまに何かをつぶやく。しかし周りの看守達は聞こえないふりをした。この男が不気味なことをつぶやくのはいまに始まったことではない。

 エレベーターに乗り、地下に降りる。この拘置所で囚人が地下に降りること、それにはたった一つの意味しかない。死刑だ。彼が生きてこのエレベーターを再び昇ることは決してないのだ。

「私は――ない」

 またしても小さく姫川がつぶやく。

 得体の知れない男。

 姫川の死刑が決まり、この拘置所に移送されてからずっと世話を続けてきた看守の感想だ。

 姫川は見方を変えれば楽な死刑囚であった。

 普通の死刑囚は移送された当初、取り乱していることが多い。あるいは最初は静かでも、死刑が近づくにつれ取り乱す。病気を訴えてみたり、再審請求を提出し刑の執行を先延ばしにしようと必死になったりする。

 そんな彼らを、看守はなだめすかしながら世話をしなければならない。宗教を与えることもあれば、心療内科の治療をほどこすこともある。とにかく観念するまでの間、刑が執行されるまでの間、看守達はひたすらご機嫌を損ねないようにするのだ。

 死刑囚は牢の中で一番甘えを許される人物でもあった。

 しかし姫川にそのような振る舞いはいっさいなかった。

 牢の中では淡々とすごし、礼儀正しく、感情の起伏も見せず、怖いほど平静を保ち続けた。時々いまのように奇妙な言動をするだけだ。病気も訴えず、再審請求も提出せず、その日を迎えた。

 しかし逆にその落ち着き払った静けさは不気味であり、人間味が希薄すぎると感じる。看守はどうしても最後までその違和感をぬぐえなかった。

 エレベーターが地下に到着すると、前室と呼ばれる死刑が執行される部屋の隣にくる。そこで姫川は頭に袋をかぶせられ、目隠しをされ、手を後ろ手に縛られる。ここで突然暴れ出す者もいるが姫川はやはり静かだ。

 次に医師による注射の処置が行われ、死刑囚の意識は朦朧となる。ほとんどの死刑囚はここで観念せざるをえなくなり、抵抗するすべもなくなるのだ。

 カーテンが開くとガラス張りの部屋があり、中央に首をくくるロープがぶら下がっている。日本の死刑は絞首刑だ。絞首刑と聞くと苦しむ残酷なイメージがあるが、日本の絞首刑は数メートルの落下により頸椎を骨折させ意識を失わせる方法で、苦しみは少ないと言われている。

 刑務官は目隠しをされた姫川を部屋の中央に導くと、両足を縛り、首に縄をかけた。そのときも抵抗する様子はない。だからといって諦念した様子も朦朧として意識が不確かな様子もなかった。ただ静かに部屋の中央に立っていた。

 周囲にいる拘置所長や刑務官、監察医は緊張した面持ちでそのときを待った。

 やがて刑が執行される時間が訪れる。

 三人の刑務官がそれぞれ同時に壁のボタンを押す。三人同時なのは、誰が執行のボタンを押したかわからないようにする配慮である。そのうちのどれか一つが、死刑囚の足下の踏み台を開くボタンだ。

 姫川の体が踏み台の穴に落ち、ロープがピンと張り、視界から消える。

 これで死刑囚が一人処刑された。重苦しい沈黙が訪れる。息を吸うのも吐くのもためらわれるような時間だ。

 いつもならこのあと監察医による死亡の確認が行われ、遺体を運び出す手はずになる。

 しかしその日は違った。

「……くく」

 誰かの笑い声がした。

「いま笑った者は誰だ。不謹慎だぞ!」

 その場の責任者である拘置所長が怒鳴った。

 死刑は行使する側にも耐え難い緊張感と苦しみをもたらす。時に初めて参加する刑務官の感情の発露が、歪な形で出ることもある。笑いという形で現れたのは仕方ないのかもしれない。それでもたしなめなければ、示しがつかない。

「もう一度言う。いま笑った者は誰だ?」

 刑務官達はたがいに顔を見合わせるが、名乗り出る者はいなかった。

「はは、……はははははは」

 最初よりもはっきりと笑い声が聞こえてくる。それは重責により感情に狂いが生じた笑いではなかった。完全な嘲笑。死を冒涜する笑いだ。

「なにがおかしい!」

 怒鳴った拘置所長は奇妙なことに気づく。刑務官も検察官も戸惑ったように顔を見合わせているばかりだ。

 誰も笑ってなどいない。それなのに笑い声は虚空で生まれたかのようにやむことはなかった。否、ただ一つだけ確認していない場所、ただ一人だけ確認していない人間がいる。

 全員が同じ結論に達したのか、視線が自然と執行室、さらにその階下にある部屋に向けられた。

 拘置所長はおそるおそる階段を下りる。そこにあるのは首つり死体だ。死刑を執行されたばかりの死刑囚だ。ためらいながらも意を決して死刑囚にかぶせてある頭の袋に手をかける。笑い声はまだ続いていた。

 拘置所長はかぶせてある袋を勢いよくはぎ取った。とたん、笑い声が室内に大きく響き渡る。

 ロープが食い込み奇妙な角度にねじれた首があった。うつろに見開いた目はただ虚空を睨み、顔は首を絞められたため赤らんでいる。絞首刑にされたばかりの死体がそこにあった。

 ただ一つ違うことがあるとすれば、奇妙に折れ曲がり、気管が潰れたはずの口から笑い声がこぼれていることだ。

「はははははは、あはははははは」

 そこにあるのは狂気だ。彼は死刑が執行され、初めて人間らしい感情の起伏を見せた。

「言ったはずです。私は死なないと」

 死刑執行されたはずの死刑囚――姫川恵介は吊り下げられた死体のまま、狂ったように笑い続けた。


      1


 湊が事務所に入ると、ソファに座っている後ろ姿の人物が見えた。

「沙耶か。学校はどうした? おまえをさぼらせたと思われると俺が理彩子にしかられるんだ。真面目に行け。俺か? 俺はお馬さんを当てるという立派な仕事をしてきたばかりだ。今日は文句を言わせないぞ。収入が支出を上回った」

 テーブルの上に、競馬で勝った金で購入したらしいさまざまな雑貨がつまった紙袋を置く。テーブルをはさんで反対のソファに座ると、前に座っていたのは四十歳前後のスーツを着た男だった。

 精悍でありながら理知的な顔立ちに、それを強調するかのような黒縁の眼鏡、プレスがきいたシャツとスーツ、綺麗に磨かれた黒の革靴。この界隈には似つかわしくない整った身なり。一見すると地位の高いまっとうなビジネスマンのようだが、鋭い眼光と鋭利な雰囲気がその印象を裏切っていた。その場にいるだけで周囲を緊張に巻き込みそうな男が、一般人であるはずがない。

 しかし湊は動じることなく口笛を吹きながら、紙袋の中をあさる。

「こりゃ驚いた。ユウキが子供に絶望して一気に成長したか、沙耶が胸に絶望して男になったかだが、俺には見わけがつかん。どっちだ? おっと待て、婚期を逃しかけてる理彩子が男でやり直そうとしてる線もあるな。どうなんだ?」

 袋の中からリンゴを取り出すと、丸かじりしながら男を見る。

 湊のふざけた問いかけにも、男は眉をわずかに動かした程度で、無言のまま懐から一枚の名刺を取り出した。リンゴをくわえたままテーブル越しに名刺を受け取った湊は、つまらなそうに名刺を見た。

「公安調査庁調査第三部……通称ハムってやつだな。だがそこに三部なんてあったか? 第三部特殊解析うんたらかんたら? 長ったらしい名前にもほどがある。法務省のおかかえスパイ組織なんだから通称がハムってのも、壊滅的にかっこ悪いだろ。CIAやFBIみたいなかっこいい略称にしろよ。俺のお薦めは機密暴露の桃源郷、略してSEXだ。どうだ? 正常な男なら二足歩行より先に覚えるぞ」

 かじったリンゴからこぼれた汁が名刺に染みるのもおかまいなしに、湊は名刺を見ている。

「米澤秀明。おいおい、名前まで変えたら元がユウキだか沙耶だかわからないだろう。ついでに職業も変えたみたいだが、俺も職変えしてみるか。ヒモってのはどうだ? 俺みたいに献身的な男にはぴったりの職業だ」

「公安調査庁調査第三部に所属する米澤秀明と申します。失礼ですが九条湊さんですね?」

 米澤と名乗る男は湊の言動をまったく気にした様子はなく、あるいはまったく無視して、重みのある声質で問うてきた。

「どうかな。あんたの用件次第じゃ下の金貸しで集金にきたってことにする」

「じつは怪異の事件で……」

「じつは金貸しなんだ。ここにいるろくでなしに金を貸したんだが返ってこない。おおい、九条湊。金を返せー」

 テーブルをばんばん叩きながら、湊はわざとらしく部屋を見渡して耳を澄ましている。

「返事がないから、いないみたいだ。ろくでもない奴には金を貸さないほうがいいな。ついでに依頼もしないほうがいい。帰ったほうがいいんじゃないか?」

 米澤はまたしても無言のまま懐に手を入れると一枚の写真を取り出した。写っているのは湊だ。

「誰だこのいい男は? 残念ながら見覚えはないが。俺がカメラマンならモデルにスカウトする。あんたカメラマンか?」

「九条湊さん、あなたを科学的な怪異対処のエキスパートと見込んで、内密に依頼したいことがあります」

 米澤の声には揺らぎがない。湊の傍若無人な態度を意に介さず平然と無視し、用件だけを切り込んできた。

 湊はかじり終わったリンゴを放り投げて、今度はチョコレートの板をむさぼる。

「どうして俺だってばれたんだろうな。依頼ってなんだ? 総本山か御蔭神道経由ってわけじゃなさそうだが」

「できるだけ内密に調査を依頼したいのです」

「ああ、ちょっと待ってくれ」

 湊は手帳を取り出すと、難しい顔をしてめくりはじめた。

「ああ、今週は幽霊に取り憑かれたキャバ嬢の除霊。来週は自分より綺麗な顔の人面瘡ができてヒステリーを起こした女のご機嫌をとらなくちゃならない。再来週は祖父さんの葬式だ。他にも、うんうん、いろいろ忙しくて一年先まで予定はいっぱいだ。残念、他をあたってくれ」

「しかし……」

 手帳を閉じ手で制して湊は断固たる口調で言い放つ。

「予定がいっぱいなんだよ。あきらめてくれ」

 ちょうどそのとき、事務所のドアが開いて、湊の助手をしている山神沙耶がやってきた。いつもどおり学校帰りなのかブレザーに学生鞄という姿だ。

「おはようございます。先生、そろそろお仕事してください。もう二週間もなにもしてないんですよ」

 湊は手帳を放り投げ、沙耶を睨みつける。

「おまえは最高のタイミングで現れて、最高の一言を言うな。ほんと、感心するよ」

「え、本当ですか?」

 沙耶は不機嫌な湊の表情には気づかず、言葉を真に受け頬に手を当てて照れていたが、ソファに座っている米澤には気づいた。

「あ、ごめんなさい。来客中でしたか。失礼いたしました」

 米澤の持つ鋭利な雰囲気に、緊張した面持ちで挨拶をする。

「山神沙耶さんですね。米澤秀明と言います。恐縮しないでください。あなたが来てくれてよかった。この時間を狙ったかいがあった」

 米澤の言葉に沙耶はしきりに首をかしげる。同時に湊に睨まれていることにも気づき、それもなぜかわからなかった。

「狙ったかいがあったか。なるほどなあ」

 湊の軽薄な笑みはそのまま、周囲の温度だけが下がった。

「相応の準備はしてきたってことか。いいだろう、話くらいは聞いてやるよ」



 出す必要はないと言う湊の言葉に逆らい、お茶を出すために給湯室に入った沙耶は、そこで小さく飛び跳ねた。

「やった、やった! 依頼人が来た!」

 依頼人はまっとうな人物に見えた。少なくとも近くの風俗営業店や闇金から逃げてきた人間ではない。しかも話を簡単に聞いた限りでは、依頼元は法務省だという。

「さすが先生です」

 沙耶は鼻歌交じりにコーヒーと菓子を用意した。依頼人を放っておいて自分だけリンゴやチョコレートを食べる湊の気がしれない。

 途中でユウキがやってきた気配がする。湊はユウキにも何か文句を言っているが、沙耶の耳はもうネガティブなことはすべて自動的にシャットアウトしていた。

 人数分を用意して戻ると、ユウキはユウキで、湊も依頼人も無視し、湊の椅子にふんぞりかえって漫画を読んでいるのが見えた。

 内心深々とため息をつく。この依頼を成立させるのは、もはや自分しかいないという使命感に燃えてきた。

「どうぞ」

 丁寧な仕草でコーヒーを米澤の前に出す。

「どうしてぶぶ漬けじゃない? こいつは京都の風習もわからない馬鹿だと思ったのか? 失礼な奴だなおまえは。だいたいおっぱらう前に塩を出してどうする?」

「それは塩ではなくて、お砂糖です」

 沙耶がコーヒーを出し終わり、湊の横に座ると、米澤が話を切り出してきた。

「あなたのことはいろいろと調べさせていただきました」

「セックスプレイの好みまでか?」

「お望みとあれば、いまここで答えますが」

 米澤は姿勢を正して真面目な顔で答える。つねに表情は変わらないので、本気か冗談か判別しにくい。

「お子様に聞かせる話じゃないな」

 ユウキと、特に横に座る沙耶を見て湊はとぼけた顔をするが、米澤に顔を寄せてひそひそとつぶやいた。

「ちなみになんだったんだ? 俺もよくわかってないんだ」

「まったく噂どおりの人ですね。いや、噂以上だ」

「噂どおりの人? 知らないプレイだな。今度美人のスパイを派遣して手取り足取り教えてくれ」

「つまりあなたのやり方と実力を評価した上での依頼だと、ご理解いただきたいのです」

 取り合っては話が進まないと思ったのか、米澤は強引に話を進める。

「いまから話すことは決して外部にもらさないでいただきたい」

 米澤のまとう緊張感が一段と厳しくなった。沙耶はそこで初めて米澤が見た目の印象どおりの人物でないことを悟り、横の湊を心配げに見上げた。

 米澤が懐から一枚の写真を取り出す。灰色の服を着た男を正面から撮った写真だ。服はみすぼらしいが凛とした痩躯の男だ。沙耶はなんの写真かわからず首をかしげている。

「これはどういった方ですか?」

 疑問に答えたのは米澤ではなく湊だった。

「囚人だよ」

「察しが良くて助かります。姫川恵介。死刑囚です」

 きな臭い話になってきたことを察した沙耶はたじろいだ。逆にユウキは興味を持ったのか読んでいる漫画から顔を上げて、話に耳を傾けていた。

「いままで何人も殺してきました。それでも懲役がついて刑務所に服役したのですが、刑務所内でも二人殺しました。余罪を追及すれば殺した人数は二桁にのぼります。そのため死刑が確定し、執行されました」

「その囚人の亡霊でも出たのか」

「だったらいいのですが」

 米澤は苦い顔をして、首を横に振る。

「姫川は絞首刑になっても死ななかったのです。首が折れ気管が潰れても、高笑いをし、周囲の人間を怯えさせました。これは非公式なのですが絞首刑以外の方法も行われました。毒殺、銃殺、刺殺、斬殺。その他、ここでは言えないような方法も何度かためしましたが、姫川は死にませんでした」

「まるでラスプーチンだな」

 湊はロシア帝国の怪僧の名を口にする。彼もまた何度暗殺されてもなかなか死ななかった伝説を残す人物だ。

「現代科学ではこんな不死身はありえない。考え得る可能性は怪異だけです」

 米澤は忌々しそうにつぶやく。

「その、では依頼内容というのは……」

 沙耶はある種の恐れを抱いて、ためらいがちに問うた。答えはすぐに返ってきた。

「この死なない死刑囚を殺していただきたいのです」


      2


「先生、断りましょう!」

 米澤が帰ったあと、沙耶が有無を言わせぬ形相で湊に詰め寄った。

「これは殺しの依頼ですよ。絶対だめです!」

「別に殺すって決めたわけじゃない。殺す方法を教えるだけでもいいだろ。ところで死刑囚を殺したら、それは罪になるのか?」

 沙耶の切迫した表情とは裏腹に、湊はのんびりとかまえている。

「でも殺人は殺人です! 反対です!」

「ようはゾンビだぞ? 絶対怪異がらみだろ。面白いじゃないか。こんな面白い怪異事件を手放すなんてどうかしてる」

「もう、先生ったら! ユウキ君もなにか言ってあげて」

 しかしユウキは一緒になって目を輝かせていた。

「へえ、死刑囚かあ。不死身ってほんとだったらすごいよね」

 子供ならではの好奇心がそこにあった。死刑囚や不死身という言葉が男の子の心のどこに何を響かせるのか沙耶にはまったく理解できなかったが、いま自分の意見が不利な立場に追いやられていることだけは理解できた。

「ここは民主主義なんだ。二対一で受ける。決定だ」

 都合がいいときに湊は民主主義を持ち出す。一対二で負けていればここは独裁国家なんだと言うだけだろう。

「ところでどうしてこんな依頼が俺のところに来たと思う?」

 湊の問いかけに、沙耶はしばし考える。

「それは先生の実力を認めてのことだと思います。私の知る限りですが、こんな前例の怪異はありません。そんな怪異の解決を国家機密局から頼まれる先生は、やっぱりすごいんだと思います」

 沙耶はそれでも尊敬の念を忘れなかった。しかしユウキはどこか冷めた表情をしている。

「まったくおまえはいくら言っても斜にかまえて物事を見られないんだな」

 褒められた湊も肩をすくめ、あきれた表情を隠しもしない。

「あいつがここに来た一番の理由を教えてやる。国家権力を持つ人間が、胡散臭い個人事務所に普通頼るか? ゴミだらけのこんな界隈にピカピカの革靴を汚してまでやってくる理由なんて、たった一つだ」

 湊は薄い笑いを浮かべ、

「いざというとき口封じしやすいからだよ」

 そう言って親指で自分の首を一文字に切った。


      3


 ユウキだけは守らねばならない。

 情操教育に悪影響を及ぼしそうな依頼は日常茶飯事とはいえ、この依頼は殺人に加担しかねないのだ。しかも場合によっては殺される危険まであるという。これは絶対に譲れない。

 翌日、強い使命感を抱いて事務所にやってきた沙耶は、しかしその決意がからぶりに終わったことを知った。

「僕は今回パス。沙耶おねえちゃんの言うことにも一理あるし、でも僕は面白そうだと思うし。けど、どっちにしてもダメになっちゃった」

「ダメになったってどういうこと?」

 そこで沙耶はユウキがいつもと違う格好をしていることに気づいた。服装はいつもより重装備で、足下には重そうなリュックがあった。

「どこかに出かけるの? 遠足とか?」

 学校の行事か何かだろうか。それにしては背負うリュックはいささか大きい。

「修行をさぼってばかりの糞ガキは、総本山の修練場で修行してこいって孝元に怒られたんだ。辛気臭い場所で経を唱えまくって精進料理三昧。いやあ羨ましいな」

 楽しそうに笑う湊のあまりの子供っぽさに沙耶はあきれつつも、ユウキがこの事件に関わらなくてすみそうだと知り、心底ほっとしていた。

「そう。がんばってきてね。総本山の修練場ってどこにあるの?」

「ど田舎の山の中。総本山の名だたるお坊さんのお墓も近くにあって、超陰気くさいところ。墓場がありがたいとか意味わかんないよ」

 子供とはいえ僧とは思えない暴言をはくユウキに、沙耶は本当に修練場で心身ともに鍛え直してもらったほうがいいかもしれないと思った。

「がんばってきてね、ユウキ君。周りの人の言うことをちゃんと聞くのよ」

 時間がないと出かけるユウキに手を振って、あとは湊をどうにかするだけだと思った沙耶の鼻先に一枚のメモ用紙が突きつけられた。

「なんですか、これ?」

「今回の怪異解決に必要なもの一式だ。今回アシスタントはおまえだけだからな。こきつかうぞ。そのつもりでいろ」

 しかし沙耶はメモを受け取ろうとはせず、まっすぐに湊を見返した。

「先生、何度も言ったはずです。この依頼だけは賛成できません」

「おまえの短所は度を過ぎた潔癖症だな。清く正しく美しく。さしずめ清廉潔白原理主義者だ」

 メモ帳で頭を叩かれ首をすくめた沙耶は、湊の言葉をいぶかしむ。

「正しさを心がけることの何がいけないのですか?」

「正しさを正義と思ってる奴は自分の正義を疑わない。いまのおまえのようにな。呪いの事件の時に何を学んだんだ? おまえはあの時も反対した。人を呪い殺すような人間達を救う価値なんかないってな。だが呪いにまみれたあの一家に関わったのは間違いだったか?」

「それは……」

 沙耶は言葉を詰まらせる。鬼頭家の件は、誰もやりたがらない汚れ仕事だったうえに、とてもまっとうとは言えない依頼だった。しかし湊が解決したことでたくさんの救われた魂があり、救われた命があったことは確かだ。

「俺は仕事でやってるんだ。趣味やお遊びじゃない。誰かがやらなきゃいけないことがある。おまえはえり好みしすぎだし、何も見ないうちに善悪を決めてかかるのは単なる思考停止だ。職業に貴賎はないと言っておきながら、尊い仕事しかしたくないなんて、矛盾にもほどがある。いやなら御蔭のオバサンのところへ帰れ」

 はたして湊がそんな高邁な精神で依頼を受けたのかは疑問だが、その言葉を完全に否定できるほど、沙耶は湊を悪人だと思っているわけではない。また、湊に指摘された自分の考え方も、言われてみれば反省するところもある。

 迷っている沙耶の頭を湊がメモ用紙で叩いた。首をすくめて湊をうかがい見る沙耶は、メモを読んで怪訝そうな顔をした。

「これをどうしろと?」

「誰かがやらなくちゃいけない崇高で高邁な仕事の一助だよ。ここにあるものを全部買ってこい」

 沙耶は目を丸くしてメモ用紙を見る。そこには様々な物の名前が連ねてあった。

「これ全部ですか? これが今回の事件に必要なんですか? 本当に?」

 納得のいかない顔をしている沙耶に、湊はもちろんと答えるのだった。


      4


 翌日、湊は姫川恵介が収容されている拘置所にいた。そこで待っていた依頼人の米澤は、湊の周囲を見渡して怪訝な顔をした。

「助手の二人は?」

 先日に比べてざっくばらんな話し方だ。しかしそれは親しいというよりは、高圧的な色合いのほうが強かった。

「ボイコットだ。死刑囚を殺すのは人道的見地から納得できないそうだ」

 しかし米澤の反応は湊の予想とは食い違った。

「それはよかった」

 暗い笑みを浮かべる米澤を湊は冷めた目で見る。

「へえ。よかったって言ったか? 米澤さん。あんたがガキを死刑囚に関わらせるななんて、頭のねじが緩んだ甘ったるい主義主張を持っているようには見えないんだが」

「あの二人は総本山と御蔭神道の人間だ。子供といえど関わらせるべきではない」

「興味深い意見だな。どうしてだ?」

「腐敗している」

 米澤の静かな口調の中に、吐き捨てるような響きがあった。

「総本山も御蔭神道も組織として古くなりすぎた。内部は汚職や利権にまみれ、すでに根から腐っている。それに私はどうしても彼らの使う怪しげな術を信用できない。怪異と同じだ。犯罪者を捕まえるのに犯罪者を使うようなものだ」

 己の言葉に熱がこもっていることに気づいたのか、米澤は咳払いを一つして落ち着いた口調を取り戻す。

「だから君に依頼した。怪しげな術に頼らない、科学的見地から怪異の問題を解決する。その理念に私は強い共感を覚える」

「まるで名誉を授けるみたいな言い方だな」

 湊は興味なさそうにつぶやき、適当に米澤の言うことを聞き流していた。米澤もそれを気にしている様子はない。すでに湊の性格は調査済みなのだろう。

 やがてたどり着いたのは、面会室だ。強化ガラスをはさんで部屋が二分されていた。ガラスの向こうに囚人がおり、手前には面会人が入る。

「本来なら今日は姫川と面会できない。無理やりねじ込んだので、そこのところは理解して欲しい」

 言葉こそ下手に出る米澤だが、口調は有無を言わせないものがあった。しかし湊は適当に手のひらを振って、さっさとガラスの前の椅子に座った。

 数分もすると看守に連れられて一人の男がやってきた。両手両足に手錠をはめられ、不自由そうに歩いてくる。湊を見たときも眉をわずかに持ち上げただけで、ほとんど表情に変化を見せなかった。

「初めて見る顔ですね」

 姫川は湊の向かいの椅子に座ると、静かに見つめ返してくる。

「面会の目的はなんですか? 明日は大事な行事をひかえているので、今日は面会不可能のはずです。あなたは何者ですか? まさか私を殺しにきたわけでもないでしょう」

「はずれだ。あんたを殺しにきたんだよ」