序

 物語は物の怪に似ている。

 似通ったところがいくつかある。

 それらは人より遥かに長い時の流れに耐える。

 かと思えば、わずかな火に焼かれて易々と失われる。

 物の怪は存在が曖昧である。

 いるのかいないのか、よくわからない。

 物語は物語として存在している。だが、その中に息づく人々は果たして存在しているといえるのか、それともいえないのか――

 無論、生きた人間として存在しているわけではない。

 所詮は文字の羅列である。

 だが、人は暗闇の中に物の怪の姿を感じ取るようにして、紙の上に記された文字の中にも登場人物の姿を感じ取ってしまう。

 現実には存在していないはずのものが、たとえ錯覚であるにせよ、頭の中で像を結ぶ。

 いないのに、いるように感じてしまう。

 般若心経に曰く。

 色即是空。

 空即是色。

 色とは即ち是れ空なり。

 空とは即ち是れ色なり。

〝色〟とは、存在そのものを意味する。

 そして〝空〟とは、その逆に存在しないことを意味する。

 存在することは、即ち存在しないこと。

 存在しないことは、即ち存在すること。

 一見すると矛盾を内包したこの言葉は、そもそも〝存在〟とは何かと、人に問いかけてくる。

 物の怪は、いるのか、いないのか。

 物語に登場する人々は、いるのか、いないのか。

 どちらの問いにも、〝いない〟と答えることはたやすいが、それでも人は、いないはずの物の怪の姿を暗闇に感じ、いないはずの登場人物の人生模様に喜怒哀楽を感じてしまう。

 いないのに、いる。

 つまりは物質的な意味での実在ではなく、頭の中の幻想として存在している。

 この幻想は、〝思い〟と言い替えても良い。

〝思い〟は、存在するのか、しないのか――


 物語と物の怪はよく似ている。

 どちらも、人の思いによって生まれ、思いをもたらすものである。

 平安の京が帝の住まう地となり、二百年の歳月が過ぎた。

 藤原京、平城京、長岡京と、短い期間に遷都を繰り返したかつての京に比し、その歴史も長くなりつつある。

 長い歴史の中では、当然のように火災も起きる。

 帝の住居たる内裏とてその例外ではない。

 内裏は、役所の集中する大内裏の中心部にある。

 火の原因は暖をとる火鉢や薫物などからの失火、屋外での焚き火や篝火からの飛び火、あるいは落雷や不審火など様々だが、とかく木造の建築物ばかりだけに、これがやたらとよく燃える。

 そうした火災は頻繁で、建て直した翌年にはまた焼け落ちるということさえあった。

 そして焼け出されると、内裏に暮らす皇族やその家人達は、建て直しが済むまで大内裏の外の仮住まいへと移る。

 この仮住まいは里内裏と呼ばれる。

 寛弘五年のこの年も、本来の内裏は数年がかりでの建て直しの最中にあった。

 大内裏から大宮大路を挟んだ北東側、一条院が現在の里内裏である。

 内裏と比してやや手狭な感は否めないが、それでも有力な公卿らの邸宅と同じ程度の規模であり、皇族が住み暮らすのにも支障はない。

 本来の内裏の建て直しが数年がかりの事業となっている今、新米の女房の中には、本物の内裏を知らぬままにこの一条院へ出仕してくる者もいた。

 この春、伊勢神宮から京に出て来たばかりの伊勢大輔も、そんな女房の一人である。

 父親は伊勢神宮の祭主、大中臣輔親――

 この時代、女は親族以外には本名を秘し、女房として出仕する際にも父親の役職名や出自に関わる言葉を組み合わせ、わざわざ女官としての名を作るのが通例だった。

 彼女もその例に漏れず、伊勢大輔という一見すると男性のようにも見える名で呼ばれている。

 年は二十歳と、宮仕えをする女房達の中ではまだ若い。童がいてもおかしくない年齢ではあるが、見た目にもやや幼さを残しており、不慣れな環境に戸惑う様子もあいまって、初々しい少女のような印象を醸している。

 そんな彼女の京における役割は、中宮彰子の傍仕えだった。

 帝の寵愛厚い彰子は、当代随一の権力者、藤原道長の愛娘でもある。

 その周囲にいる女房達も、自身が当代の名だたる歌人であったり、あるいは有力な官僚の娘達であったりと、一筋縄ではいかない女官が揃っていた。

 文章博士、大江匡衡の糟糠の妻たる老境の歌人、赤染衛門。

 冷泉院上皇の皇子、為尊親王や敦道親王との浮き名を流した情熱の歌人、和泉式部。

 そして近年、貴族の間で持て囃される〝光源氏の物語〟の執筆者である藤式部――

 彼女達は、まだ若い中宮彰子に、漢籍や和歌などの知識を教える役も担っている。

 帝は文学に造詣が深い。

 その帝の彰子に対する寵愛を確固たるものにしようと、藤原道長自らが招き集めた才媛ばかりだった。

 そんな中に混じることとなった伊勢大輔も 当然、並々ならぬ緊張感をもって上京し、知人も少ないこの地で懸命に務めを果たしている。

 時には故郷の伊勢に帰りたいと思わないでもない。

 特にいじめを受けたり、あるいは疎外されるといった嫌がらせはないものの、周囲にいるのが年嵩の女官達ばかりとあって、どうにも馴染み切れない。

 彰子に仕える女房達の中で、伊勢大輔はあくまで新米である。つい人見知りしがちな性格も影響して、最近は鬱々とした日々を過ごしていた。

 家柄こそ伊勢神宮という後ろ盾を持つ名門で、父や祖父も歌人として名を知られているが、それがかえって重圧にもなっている。

 期待されれば重い。

 かといって、まるで期待されぬのも寂しい。

 自身の才を示したい。

 しかし、示せるほどの才があるか否かもよくわからない。

 日々を無為には過ごしたくない。

 それでも日々は無情に進んでいく――

 こうした感覚をただのわがままと突き放すのはたやすいが、人は大なり小なり、そうしたものと折り合っていかねばならない。

 年を食えば、多くの場合は自然に折り合い方が身につく。

 あるいは、様々な現実を思い知って開き直るか自重する。

 今の伊勢大輔は、そうした境目をさまよっていた。

 鬱々とした不安は少しずつ折り重なり、いつしか心に隙が生まれる。

 そしてその隙が――時に〝物の怪〟を招く。


 その夜、彼女は奇妙な夢を見た。

 まだ肌寒さの残る春の夜更け。

 一条院の広い庭先を見下ろす廊に、寝衣の単をまとい、彼女はぼんやりと立ち尽くしていた。

 すぐ背後には、他の女房達が眠る板敷きの大部屋がある。

 大部屋は几帳によって細かく区切られており、彼女自身もその区画の一つをあてがわれていたが、夢の中の彼女はいつの間にか房を抜け出していた。

 見下ろす庭の真正面には、巨大な池がある。

 その池を照らす月明かりは眩しいほどに青白い。

 遠くの空を見渡せば、雲の流れは止まったように遅く、周囲の静けさとあいまって奇妙に陰鬱な気配を醸していた。

 人だけでなく、草木や風なども含め、自分以外のすべての事象が寝静まっているかのようにも思える。

 無論、これが夢であるならば、伊勢大輔自身も眠っていることになる。

(私は……どうしてここに?)

 夢の中での自分の行動に戸惑いつつ、伊勢大輔は揺れるような足取りで一歩を踏み出した。

 その時、足の裏でぷちりと何かが音を立てる。

 不審に思って足をどかすと、そこでは小さな蜘蛛が平らに潰れていた。

 伊勢大輔はびくりと身を竦ませる。

 彼女は蜘蛛が苦手だった。

 道長に仕える老境の武士、源頼光などは、若い頃に牛よりも巨大な土蜘蛛の化け物を退治したという噂を聞くが、もしも彼女がそんなものを眼にすれば、まず間違いなく卒倒してしまう。

 指先ほどの小さな蜘蛛を潰してしまっただけでも、既に彼女の表情は歪んでいた。

(蜘蛛を踏んでしまうなんて……)

 これが夢の中だとしても、嫌悪感は消せない。

 そう――

 これは夢である。

 伊勢大輔はそう感じていた。

 意識は朦朧として曖昧で、体を動かそうにも妙に気怠い。

 また深い眠りに戻ろうとしても、夢は自分では操れない。

 特に向かう先を決めぬままに、伊勢大輔の足がまたふらりと動いた。

 その足の裏で、また何かの潰れる音がする。

 足をどかすと、そこには潰れた黒い蜘蛛――

 続けざまの不快感に、伊勢大輔は背筋を震わせた。

(いや……何、この夢……?)

 後ずさった足の裏で、またぷちりと音が鳴る。

 今度はもう、確認する気にはなれなかった。

 彼女が廊を歩く度に、その足の裏でぷちぷちと小さな蜘蛛が潰れていく。

 視界を確認し、何もないはずの場所を踏んでもなお、その音と感触は消えなかった。

 四肢を緊張に強張らせつつ、伊勢大輔は動きを止める。

 歩くことが怖い。

 動けば蜘蛛が湧いてくる。

 これが夢ならば、じきに覚めるか、あるいは再び深い眠りが訪れるはずで、せめてそれまではもう動きたくなかった。

 ざわりと風の音がした。

 それまで聞こえなかった不意の音に、伊勢大輔は思わず顔をあげる。

 その眼前に庭の池はなかった。

 水の代わりに庭を埋めていたのは、巨大な敷地からはみ出すほどに枝葉を広げた櫻の巨木である。

 花をつけた枝は伊勢大輔の眼前にまで迫っており、手を伸ばせばたやすく届く。

 月明かりに照らされて青白く、蛍をまとったかのような光を幹と枝葉に隈無く宿し、その木は泰然と佇んでいた。

 夢の中のこととはいえ、伊勢大輔は固まる。

 一条院に櫻の木はない。そもそも目の前のそれは、この世のものとも思えない。

 月下に開いた満開の花から、櫻の香りがふわりと漂った。

 風も吹かぬ中、舞い散った花弁が目の前をよぎる。

 花弁は地に落ちる前に散じ、霞のように消えてしまう。

 慶事か凶事か、その判断もつかぬままで、伊勢大輔はただその場に立ち尽くした。

 唐の国の書物に似たような話がなかったかと考えあぐねるうち、櫻の枝葉から光が失せ、代わりにざわざわと黒い細かな粒が蠢きはじめた。

 やがてするすると糸を引きつつ、その粒が伊勢大輔の頭上から降り注ぐ。

 それらは小さな蜘蛛の群れだった。

 櫻の枝から黒い雨のように落ちはじめる大量の蜘蛛の群れが、あっという間に廊の全体を埋め尽くす。

 悲鳴を上げようとしても、何故か声がでない。

 月光を浴びた花弁は色を白から黒へと転じさせ、視界に広く覆い被さってきた。

 櫻の香りも途絶え、蜘蛛達の放つ腐臭に似た臭いが辺りを支配した。

 吸う息にさえ土のような苦味を感じながら、彼女はその場に座り込み、眼と耳を塞ぐ。

 単の隙間から肌を這いはじめる虫達の気配を感じながら、彼女はこの〝悪夢〟が覚める瞬間をひたすら待ち続けていた。

 紙の上をさらさらと筆が滑る。

 すると白紙に文字が記される。

 黒々とした墨が染み、時ににじみ、時にはかすれながら、紙の上に物語を紡いでいく。

 文字は人の思いを保存し、他者に伝え、時には後世に残すことができる。

 呪いの言葉も祝いの言葉も、文字にすることで目に見える形を得る。

 物語には書き手の思いが宿る。

 それは物語への愛情や誠意といった純粋な思いばかりではない。

 現実の自分が抱く嫉妬や不安、挫折に絶望――

 あるいは、物語を書くことで得られる名声や富への渇望が混ざりこむこともある。

 さながら人の心の中と同じで、表から見える部分と隠された部分とが同居している。

 文字を読む者は、その表層しか知る術はない。

 しかし相性次第では、書き手の心が透けて見えることもあるらしい。

「……母様。悩みがあるのでしたら、今は書かない方がよろしいのではないでしょうか」

 紙の上に踊る文字を読みながら、娘の賢子がいかにも賢しらなことを言った。

 名前通りに賢く育ってきた愛娘に、藤式部は軽く睨みを利かせる。

 母親の眼による贔屓を除いても、娘の賢子は可愛らしい。

 色鮮やかな赤い袿に、長く艶やかな黒髪が映え、公卿の姫君にも負けない高貴な気配をまとっている。

 ただ、発する言葉がやや辛辣で、それがまた的を射ているものだから少々手強い。

「……書いているうちに調子が出てくることもあります。少し調子が出ないからとそんな簡単に筆を止めていては、書けるものも書き上がりません」

 幼い娘を諭すような調子でそう弁解したものの、藤式部にも自覚はあった。

 確かに文字が荒れている。物語の流れももう一つ掴み切れていない。

 娘の賢子はまだ十歳だが、藤式部に似たのか、あるいは家系のせいか、文字を読むことにかけては妙な天稟をみせていた。

 だが、幼い我が子に不調を見透かされてもなお、藤式部は文机の前から離れない。

 こんな事は珍しくもない。

 適度に気分を変えて持ち直すこともあれば、悩みに悩んで寝食も忘れ、意識が朦朧とした頃にふと前が拓けることもある。

 もっとも、拓けたはずの道が進んでみれば行き止まりで、同じところに戻ってまたやり直し、ということもないわけではない。

 物語を書き綴ることは、姿の見えない妖を見定めようとするのにも似ていた。

 適当に見定めようとすると、妖はするりと消えてしまう。

 それでいて、ほんの一瞬の直感が物の見事に当たる例もある。

 浮かぬ顔で文机に向かう母と、その脇で物語の進行を見守る幼い娘――

 それがここ数日、この屋敷での日常の景色となっていた。

 二人がいるこの屋敷は、堤第と呼ばれている。

 名の由来はごく単純で、単に賀茂川の〝堤〟の傍に建つ邸宅だからそう呼ばれているだけのことだが、かつての名歌人、藤原兼輔が風雅をこらして建てた屋敷でもあり、その名は世間に知られていた。

 百年ほどを経た今、年を重ねた分だけ風情も増している。

 古いながらも母屋は広く、一族郎党が住み暮らすに支障はない。

 庭には池と浮島もあり、松や梅、桃といった木々がそこかしこに植えられ、四季の彩りを添えている。

 屋敷を建てた藤原兼輔は既に故人だが、藤式部にとっての彼は曾祖父にあたる。彼女が生まれるよりも数十年昔に亡くなったため、もちろん面識はない。

 紀貫之や凡河内躬恒といった当時の歌人達は、この屋敷に集って兼輔との交流を楽しんだとも聞くが、今は訪れる者もまばらだった。

 しかしだからこそ、藤式部はこの邸宅で執筆に集中できる。

 書いている物語に、特に題名などはつけていない。

 世間では登場人物の名をとって、〝源氏の物語〟〝光源氏の物語〟、あるいは〝紫の物語〟〝紫のゆかりの物語〟などと呼ばれている。

 ともあれ、彼女の書いた物語は人づてに書写され、それが貴族達の間に広まり、今ではそれなりの人気を博していた。

 そして――少々、人気になりすぎて、今の彼女は重圧を抱えるに至っている。

 藤式部は物語を書くのが好きだった。

 その物語によって文才を認められたいという野心も少しはあったし、若い頃にはその望みと根拠のない自信が上手く噛み合ってもいた。

 今はよくわからない。

 書くのは楽しいと思う。だが、同時に苦しくもある。

 人気が出て人から期待されてしまえば、ただ自分のために書くのではなく、それらの期待に応えねばならなくなる。

 それらの声なき声を無視して好きな物を書くには、藤式部は律儀すぎたのかもしれない。

 ともあれ、当代随一の権力者である藤原道長にまで物語の続きを切望されるに至り、誇らしく思う反面、身の竦むような思いも抱えていた。

 下手な物を書いて失望されたくはない。高価な紙を望むがままに貰い受けておいて、書かないわけにはいかないし、書きたくないわけでもない。

 ただ、思いばかりが空回りをして思うように進まない。

(私はもう少し、気が強いほうだと思っていたのだけれど――)

 紙の上の文字から、幼い娘にまでその不安を見透かされた。

 そのことについ溜息を漏らす。

 愛娘の賢子は飽きたのか、するりと立ち上がり、衝立の向こうへ消えた。

 鞠でも取りに行ったのか、あるいは所蔵している書物を読みに行ったのか、いずれにしても、藤式部は文机の前で一人となる。

 父や兄も出仕中とあって、邸内は静かなものだった。仕える家人の中にも、あえて騒ぎ立てるような者はもちろんいない。

 余計な物音のしない空間は心地良い。

 思考を邪魔するものがなく、また自分の存在が誰かの邪魔になる心配もない。

 存分に書物や執筆へ没頭できる時間なのだが、いかんせん筆が進まないのはどうにもならない。

 ひとまずは愛すべき静寂に浸っていると、廊を巡って家人の足音が響いてきた。

 幸福な時間は決して長くは続かない。残念なことに、それはこの世の理でもある。

「何かありましたか」

 先に声をかけると、下女からかしこまった声が返ってきた。

「失礼いたします。表に赤染衛門様がお見えです。急な御用件のようでして――」

 つい、首を傾げた。

 藤式部は昨年から、藤原道長の娘であり帝の妻である、中宮彰子に仕え始めた。

 訪れたという赤染衛門は、同じく彰子に仕える同僚で、名高い歌人でもある。

 五十歳も半ばに差し掛かろうかという年齢だが、見た目が妙に若々しい不思議な女房だった。

 いつもぴんと背筋を伸ばし、温和な顔に微笑を湛え、それでいて何処か物悲しげな気配も漂わせている。

 人当たりは柔らかく、職務に対しては真面目で、後輩には優しい。

 つまり少々、出来すぎた人間ではある。

 藤式部は、彼女に関する悪口を周囲の人間から聞いたことがない。

 父親の姓が赤染、その役職が衛門府の役人ということで赤染衛門と呼ばれているが、本当の名は藤式部も知らなかった。

 この時代、ある程度の家柄の娘は、自身の名を人に知られることを恥だと認識している。

 本当の名は肉親や夫以外には隠すべきもので、そのため日記などでも滅多に触れられない。

 藤式部にしても、父親の藤原為時が式部省の役人であるためにこの名で呼ばれるようになった。

 赤染衛門は藤式部にとって、同じ職場の先輩であり、年の離れた友人といってもいい。

 年の差が大きいだけに、さすがに気安い態度までは取りにくいが、少なくとも気心の知れた間柄ではあった。

「すぐにお通ししてください」

 そう指示しながら、藤式部自身も座を立った。まさか散らかった文机の前で会うわけにもいかない。

 しばらく待つと、廊を進む複数の足音が聞こえた。

 どうやら来客は赤染衛門だけではないらしい。

 擦るような軽い足音は男のものではない。客に男が混じっているならば家人もそう伝えているはずで、その場合は御簾なり扇なりで顔を隠しながら会うことになる。

(赤染衛門様は誰を連れてきたのかしら?)

 藤式部が不思議に思っていると、梅花のものと思しき香りがほのかに漂ってきた。

 六種の薫物の一つ、梅花は春に合わせた香である。

 細かな調合にはそれぞれの癖があるもので、同じ梅花の香でも個人差がある。

 そしてその匂いに、藤式部は憶えがあった。

「……伊勢大輔?」

 つい先だって彰子の元に来たばかりの、まだ年若い女房である。

 その名を呟くや、衝立の向こうで足音がぴたりと止まり、それに合わせて藤式部は顔を覗かせた。

 案の定、目の前には穏やかな微笑を湛えた赤染衛門と、まだ娘らしさの抜けない伊勢大輔の姿があった。

 祖母と孫ほどの年の差があるものの、赤染衛門が年より若く見えるせいで、一見すると母と娘のような気配を醸している。

 伊勢大輔は確か二十代に踏み込んだばかりで、二十一歳の主、中宮彰子よりも更に若いはずだった。

 どちらも小袖の上に落ち着いた風合いの袿を羽織り、扇で口元を隠しながら会釈を寄越す。

「藤式部、執筆中にごめんなさい。ちょっと相談事がありまして――」

 赤染衛門が声をひそめて呟く。

 その背後に隠れた伊勢大輔は、藤式部をちらりちらりと覗き見しつつ、なにやら恐縮しきったように縮こまっていた。

 藤式部は彼女のことをあまり詳しくは知らない。

 一応は同じ職場の同僚なのだが、彼女が彰子の元に来てすぐ、藤式部は執筆のためにしばらくの休暇を貰い、この実家の堤第に戻ってしまった。

 入れ替わりに軽く挨拶をかわした程度の仲なのだが、それでもこの梅花の香りを憶えていたのは、その調合が見事だったせいである。

 伊勢大輔は伊勢神宮の祭主、大中臣輔親の娘らしい。

 この輔親の妻が、道長の五男教通の乳母を務めていた関係で、藤原道長やその娘の彰子との縁が生まれ、今年になって出仕してきた。

 おとなしげな容貌の地味な娘だが、特に悪い印象はない。地味なのは藤式部も同様だし、妙に派手派手しく自分を喧伝する人間はむしろ苦手である。

 思いがけない組み合わせの二人を出迎えて、藤式部は再び座した。

「お二人が揃っておいでなんて……彰子様に何かあったのですか?」

 赤染衛門がゆっくりと首を横に振った。年の割には皺があまり目立たない。こんな年のとり方ができれば楽しかろうと、藤式部などはたまに思う。

「いいえ、違うのです。実は、こちらの伊勢大輔のことで、貴方に相談がありまして――執筆で御多忙かと思ったものの、話を聞いていただけないかと伺いました」

 藤式部は若干、嫌な予感を覚えた。

 彰子絡みのことでなかったのは安心したが、赤染衛門の口ぶりには、何やら不穏な気配がある。

 とはいえ適当に突っ返すような仲でもないし、何より藤式部には書き手としての好奇心もあった。

 世のあらゆる事柄は、物語の種でもある。

「執筆のことはどうかお気になさらず。ちょうど一段落がついたところです。それで、相談事というのは?」

 問いながら伊勢大輔の様子をうかがうと、彼女は緊張の面持ちで固まっていた。

 ただ緊張しているばかりでなく、一目で〝怯えている〟とはっきりわかる。

 藤式部は眼を細めた。

「……何か、人ならぬものにでも会いましたか」

 以前にも赤染衛門のために、そうした相談を受けたことがある。

 その時と似たような気配を察して、藤式部は先に問いを向けた。

 赤染衛門が小さく頷き、伊勢大輔は身を小さくして俯いてしまう。

「は、はい――その、赤染衛門様からうかがったのです。藤式部様は、こういうことにお詳しいと……京に来て間もない私には、こんなことを他に相談できそうな方がいなくて――でも、藤式部様がご多忙ということも存じていますので、私などがお手間をとらせるわけにはとも……」

 しきりに言い淀む伊勢大輔の脇で、赤染衛門が細く嘆息した。

「貴方は恐縮しすぎです。互いに彰子様に仕える身です。それに藤式部は優しい方だから、可愛い後輩のためなら、できることはしてくれるはずです」

「ああ、いえ……そう期待されても困るのですけれど」

 冗談まじりに決めつけられて、藤式部は慌てて否定した。

 実際のところ、同僚のためなら労を厭うつもりはないが、陰陽師でもない身にそう期待されても困る。

「お力になれることかどうか、お話を聞いてみなければなんともいえません。伊勢大輔、話してごらんなさい。場合によっては、陰陽寮の方に頼ることもできますので」

 さほど親しい知り合いがいるわけでもないが、陰陽師を呼びつけるだけなら容易い。凄腕として名高い安倍吉平などは、藤原道長とも懇意にしている。

 ただし忙しい相手でもあるし、いざ呼んでみて〝何もなかった〟ではさすがに体裁が悪い。

 浅はかな女房どもが勘違いでつまらぬ騒ぎを起こしたと誹られては、主たる彰子の名にも傷がつく。

 赤染衛門もそれを懸念して、まずは藤式部の元に相談しにきたのだろう。

 伊勢大輔が扇で口元を覆いながら、わずかに肩を震わせた。

「……ありがとうございます。実は、ここ数日のことなのですが……毎夜のように、おかしな夢を見るのです」

「おかしな夢?」

 藤式部はつい、眉根を歪めた。

 眠っている間、人はこの世ならぬ物からの影響を受けやすい。眠りによって、心が裸になるためらしい。

 陰陽師も夢占を重視するが、藤式部にそうした占いの才覚はない。

 ただ、話を聞いて考えることはできる。

「ゆっくりで構いません。話してごらんなさい」

「は、はい。なんというか、蜘蛛と……櫻の木が出てくる夢なのですが……」

 そして伊勢大輔は、震える声で事の次第を話し始めた。