Be alert, therefore.

Perhaps the light that is in you is darkness.

LUKE11:35


だからこそ、用心するべきだ。

あなたの中の光は、闇であるかもしれないのだから。

ルカ11:35


   プロローグ



 いつの間にこんな場所に辿り着いたのか。

 気が付くと、背の高い翠葉がなびく草原の中にいた。名状し難い孤独の中で、郷愁にも似た穏やかな風に抱かれ、静かに瞼を下ろす。

 そうやって、どれくらい目を閉じていただろう。柔らかい風の隙間から、不意に誰かが冷たい頬に触れてきた。ゆっくり瞼を開いていくと、先ほどまでとは種類を異にする眩しい光が網膜に飛び込んでくる。光の先にいたのは……。

「珍しく幸せそうな寝顔を浮かべていたじゃない」

 いつの間にか草原は消え失せ、橙色の薄明かりが落ちる地下室にいた。

 どうやら夢でも見ていたらしい。目の前で両腕を組み、仁王立ちで俺を見つめているのは千桜緑葉。彼女の後方に漆黒のグランドピアノが座している。

「よっぽどあたしの演奏が心地好かったみたいね」

「退屈だから眠くなったんだよ」

 緑葉と付き合い始めて二週間が経つが、俺は今日、一人暮らしをする彼女のマンションを初めて訪れた。こいつはピアノを聴かせたくてたまらなかったらしく、別に興味なんてなかったが、とうとう無理やり引きずり込まれてしまったのだ。

「散々あんたの眠る姿を見てきたけど、安らかな寝顔なんて初めて見たわ。あたしとの幸せな夢でも見ていたんじゃないの?」

 別にこいつの夢を見ていたわけじゃない。そもそも悪夢以外で緑葉は夢になんか登場しない。しかし、二週間前に琴弾麗羅に絶交を言い渡されて以来、すっかり夢を見なくなっていたのに、どうして今……。

「さ、次はドビュッシーを弾いてあげるわ」

 グランドピアノの前に再び腰掛け、緑葉はアラベスクの第一番を弾き始める。

 跳ねるように、流れるように、鼓膜に滑り落ちていく音の欠片に耳を澄ます。

 やがて最後の音を紡ぎ終えると、緑葉は大きく天に向かって息を吐き出した。

「どうだった? あたしの演奏は天上の音楽のようでしょ?」

「ドビュッシーは聴いているだけで胸がつまるな」

「それ、演奏の感想じゃないじゃん。つーか、ドビュッシーの感想じゃん」

 彼女が暮らすのは千桜一族が所有する高級マンションの一室で、一階のみ完全防音の地下室が付属するメゾネットタイプとなっている。

 一時間前に足を踏み入れた緑葉の部屋は、想像を超えて酷かった。

 人助けとピアノ以外に趣味を持たない彼女らしく、物自体は少ないのだが、とにかく何もかもが散らかっている。脱ぎっぱなしの服がいたるところに散乱していて、それこそ下着まで乱雑に脱ぎ捨てられていた。お菓子や弁当の空箱も無作為に投げられており、後片付けという概念を放棄した部屋は、呆れるほどに汚かった。

 緑葉から異臭を感じたことはないし、洗濯をさぼっているとも思えないのだが。

「もうちょっと片付けられないのか? 下着くらい隠せよ」

「別に吐季に見られても恥ずかしくないし、洗濯は歩夢の仕事だもん。あいつが最近、遊びに来ないのが悪いのよ」

 まったく意味が分からない。桜塚歩夢は緑葉のはとこだが、恋人でも家族でもない彼が何故、緑葉の洗濯をしなければならないというのだろう。

「あたしって綺麗好きだから、着替えがなくならない頻度で洗濯してたんだけど、忙しくて忘れちゃったこともあったの。それで、ある日、登校前に慌てて制服を洗濯機に放り込んで、洗い始めてから気付いちゃったんだよね。これ、始業までに乾かなくねって。けど、濡れている制服でも、着ていれば体温で乾くのが早いじゃない。だから乾くのを待つ時間もなかったし、生乾きの服を着て登校したの」

 何でこいつはこんな恥ずかしい話を、胸を張って話しているんだろう。

「ところが教室に入るなり、歩夢に首根っこをつかまれたわけ。そのまま更衣室まで連行されて、あいつの体操着を投げつけられてさ。ぶかぶかなのに着せられたの。信じらんないわ。あのまま着ていれば、どうせ乾いたのに」

 信じられないのは、お前の品性だ。

「それからよね。毎朝、歩夢があたしを迎えに来るようになったのは。で、洗濯も俺がするって言いだしちゃってさ。まあ、したいならさせてやっても良いかなって」

 俺はどうして、こんな頭のおかしな女と付き合うことになったんだろう……。

 あの廃倉庫で賭けに負けたせいだが、完全に早まってしまった気がする。


 演奏に満足した緑葉は大きく伸びをすると、グランドピアノの前から立ち上がった。

「集中して弾いたらお腹減ってきちゃった。ピアノを聴かせたお礼に、ランチを御馳走になってあげるね」

 俺は無理やり演奏を聴かせられたのだが、緑葉の前では、すべての論理性が排除される。言い返すのも面倒だし、朝飯を食べていなかったから素直に従うことにした。


 現代の王侯貴顕のような一族、舞原と千桜の両家は、連綿と続く憎しみで長年対立している。俺は舞原宗家の跡取りだし、緑葉は千桜頭首の孫娘だ。そんな俺たちの交流に舞原の人間は既に気付いているようだし、快く思っていない者もいると、いとこの七虹に警告されている。

 俺は未だに緑葉に抱いている感情が自覚出来ていない。彼女のことを好きかと問われても答えられない。恋心という感覚が上手く理解出来ないからだ。ただ、それでも今は一緒にいることが嫌ではなかった。四六時中振り回されてばかりだけど、そのくらいの方が思い出したくもない記憶から逃げられて、都合が良いのも事実だった。

「あのファミレスに入ろっか」

 目的地もなく大通りを歩いていると、通りの向こうのファミレスを緑葉が指差した。

「カードが使える店なら何処でも良いけど、信号を渡るのが疲れる。こっち側の店で良いだろ」

「相変わらず怠惰な奴ね。水のやり過ぎで性根が腐ってんじゃないの。別にどっちの店でも良いけどさ」

 高校に入学した際、宗家の跡取りが金の使い方も知らないようじゃ話にならないと、頭首である父親からブラックカードを渡されている。もちろん本来であれば高校生がクレジットカードなんて使えないわけだが、近隣には一族の系列に当たる企業が多いため、問題なくカードで生活することが出来ていた。


 ファミレスの扉の前で立ち止まり、緑葉が嬉しそうに振り返る。

「彼氏なんだから、あたしのためにドアを開けなさいよ」

 緑葉は幼少期をロンドンで過ごしている。紳士の国と聞くし、向こうの男はこういうことにも率先して気が利くのだろうか。いずれにせよ俺には関係ない話だ。

「日本語が読めるようになるまで、飼い犬みたいにそこで待ってろよ」

 ポケットに手を突っ込んだまま、自動ドアを通って店内に入ると、背中を緑葉に殴られた。そのまま俺を横に押しのけて隣に並び、緑葉は前方の客を指差す。

「あれ、あの人……」

「知り合いか?」

「うん。親戚。五、六年くらい前に籍が変わってからは会ってなかったんだけど、懐かしいな。ほら、あんたも挨拶に行くわよ」

 席に案内しようとした店員を手で制し、緑葉は若い女性グループに近付いていった。その中の一人、きつい目つきの気の強そうな女に声をかける。

「お久しぶりです。莉瑚さん。顔が見えたんで挨拶に来ました」

「あ、緑葉」

 大学生くらいだろうか。彼女たちは俺たちより年上に見えた。

「なんか印象変わったね。落ち着いたっていうか、まともになったっていうか。緑葉の髪に寝癖がついてないのって初めて見たかも」

「きっと彼氏が出来たからっすね。紹介しますよ」

 緑葉に右腕を強く引っ張られ、バランスを崩して、たたらを踏んでしまう。

「舞原吐季です。顔は格好良いでしょ? 性格はあんまり良くないんすけどね」

「お前に言われたくないよ」

 抗議になど耳も傾けずに、

「それじゃ、また。ほら、行くわよ。三日分食べるんだから」

 緑葉は少し離れた空席まで、俺を引っ張っていった。相変わらず身勝手というか、自分のペースのみで動く女だった。


 緑葉が満足するまで食べた後、再び彼女の部屋に戻ることになった。

 腹が満たされれば眠りたくなるし、もうピアノは聴いたわけだから帰りたいのだが、緑葉はまだまだ遊ぶ気満々だった。これがデートというものなのだろうか。疲れる。そして、眠い。そんなことを思いながら店を出ると……。

「あれ、莉瑚さん。帰ったんじゃなかったんすか?」

 店の前には倉牧莉瑚、数年前に両親が離婚し、名字が変わったという緑葉の親戚の女が一人で立っていた。

「緑葉に伝えたいことがあって」

 彼女は俺を窺うような表情を見せる。他人がいては話しづらいこともあるだろう。

「俺は帰りますから、ゆっくりどうぞ」

 立ち去ろうとしたのだが、緑葉に両手でつかまれ、抱きつくような形で右腕をホールドされた。

 鬱陶しい……。

「吐季も一緒に聞いて良いっすよね? あたし、彼氏に隠し事したくないんで」

「むしろ、その方が良いかも。彼にも関係している話だから」

 彼女は苦笑いを浮かべた後、そんな風に告げた。どういう意味だろう。俺とは初対面だ。緑葉だって数年振りに会ったと言っていたが……。

「嫌味じゃないから、誤解しないでね」

 前置きをしてから、彼女は告げる。

「両親が離婚したってパパはパパだし、時々、会って食事をしているんだけど、最近、緑葉のことを気にしていたの。いつも学校で舞原家の跡取りと一緒にいるらしいって。緑葉はその男に夢中で、きっとたぶらかされているんだって」

 緑葉は俺の右腕を離し、倉牧さんを深刻な眼差しで見つめる。

「パパも心配していたわ。大変なことになるって。直系の娘が舞原に傷でもつけられたら、引き下がれなくなるって。ねえ、緑葉。高校生だし誰が誰を好きになっても仕方ないと思うけど、さっきの二人を見ていて哀しくなった。その幸せは多分、継続するのが凄く難しいよ。親族として、それだけ伝えておきたかったの」

 俺たちは卯月から八ヶ月、『演劇部』と『保健部』として部室を共有してきた。保健部に持ち込まれた相談に付き合わされ、無理やり連れ回されることも度々あった。

 七虹も言っていたが、俺たちは校内で目立つらしい。

 俺は一族からどう思われても構わないけど、緑葉の場合は事情が異なる。こいつの夢は医者になることだ。千桜家が経営する東桜医療大学で、心療内科医になることが夢なのだ。そのためには一族から切られる訳にはいかない。


 倉牧莉瑚と別れ、マンションへと帰宅する道中、緑葉は黙りっぱなしだった。

「七虹の話じゃ、舞原にも噂は広まっているらしい。そのうちこういうことになる気はしていたけど、こんなに早いとは思わなかったな。暇人ばっかりだ」

 黙れと頼んだって四六時中うるさい奴なのに、よっぽどショックだったのだろうか。

「そんなに辛いなら、いつでも別れてやるから落ち込むなよ」

 慰めのつもりで言ったのに、次の瞬間、靴の踵でつま先を踏みつけられた。

「ふざけんな。死んでも別れないっつーの」

 激痛の走るつま先を抱え、片足で跳ねながら、緑葉を睨みつける。

「何すんだお前……。こっちが心配してやってるのに……」

「はあ? あんたが別れるとか意味分かんないこと言うからでしょ。つーか、誰があたしたちのことを報告したのか知らないけど、むかつくわ」

「自業自得だよ。放課後ずっと一緒にいて、休日まで会ってりゃ、いつかは誰かが気付くさ。それを報告されたからって怒るのは……」

 緑葉は俺の顎に手を当てて、強引に持ち上げた。

「あんたは馬鹿なの? あたしがそんなことに怒ってるわけないじゃん。積極的に言いふらしたりもしないけど、付き合ってることを隠すつもりなんてないわ」

「馬鹿はお前だ。良いか。こっちにその気がなくても、父親が決めてる以上、俺は舞原家の跡取りなんだ。俺なんかと付き合ってると知ったら、千桜の人間は誰だって心配するに決まってる」

「だから、それが許せないのよ。だって、どいつもこいつも吐季のことなんて知らないじゃん。吐季がどんなに良い奴なのか、何にも知らないくせにふざけやがって。ねえ、あたし間違ったこと言ってる? 吐季のことを知らないくせに、どうして駄目だなんて決めつけられるの?」

 お前、そんなことに怒ってたのかよ……。

「あたしだって高校に入学するまでは舞原のことを嫌悪してたよ。だけど、あんたのことを好きになったもん。七虹ちゃんと雪蛍ちゃんも良い子だって思うもん。誰が敵対していたって、あたしには関係ないわ。そんなもん知るか」

「……お前は本当に子どもみたいな奴だな」

 我儘で、自分勝手で、理屈も常識も通用しない。めちゃくちゃな奴だ。

 でも、そうか。俺はこいつのこういう真っ直ぐなところが嫌いじゃないのだ。

「あーあ。何か怒ったらお腹減ってきちゃった」

「嘘だろ? お前、十種類近くあったデザート、全部食ったよな。どういう胃袋の構造してんだよ」

 出会った頃はこいつが鬱陶しくて仕方なかったのに。

 不思議だ。

 今は飽きないって思ってしまう。



             2


 緑葉の暮らす高級マンションに戻り、扉を開けると、

「あ、歩夢が来てる」

 声を弾ませた緑葉は、靴を脱ぎ捨てて廊下を駆け出した。相変わらずの乱雑さに呆れつつ、彼女の靴を直してからその後を追う。

「デート中だったのか。邪魔なら帰るけど」

 眼鏡の下に覗く歩夢の聡明な眼差しが俺たちを捉えた。

「歩夢が邪魔なわけないじゃん。あ、洗濯もしてくれたんだね。サンキュー」

「夜中に雨が降るって予報だから、忘れずに取り込めよ」

 リビングの広いテーブルの上に英語の参考書が並び、代わりに脱ぎ捨てられていた服が綺麗になくなっていた。


 桜塚歩夢。

 遠縁とはいえ緑葉と血が繋がっているなんて嘘みたいな常識人だ。栗毛色の髪の下にシャープな眼鏡を覗かせる彼はいつも冷静で、取り乱す姿など見たこともない。

 新潟美波高等学校は日本海側で入学時に最も高い偏差値を必要とされる進学校であり、緑葉と歩夢は医学部への進学を希望する生徒が集まる理数科メディカルコースに在籍している。事実上、校内で最も優秀な科なわけだが、その中にあってさえ、歩夢は入学以降ずっと首席だった。実家は私立大学病院を経営する千桜一族の分家で、桜塚総合クリニックという大病院を郊外で経営している。

 大病院の跡取りであり、品行方正、成績優秀、眉目秀麗と三拍子も四拍子も揃っている男。それが桜塚歩夢だった。緑葉を優しく見守り、いつも温かくフォローしている。謙遜で控え目だし、およそ完璧な人格者だ。

 けれど不思議なこともあるにはある。どうして、こいつはここまで緑葉に尽くすんだろう。二人は恋人でもなければ理解出来ないような、緊密な関係性にある。事実、歩夢はこの家の合鍵すら持っていた。


「今日の朝刊を見せようと思ったんだ」

 バッグから新聞を取り出し、歩夢が開いたのは三面記事だった。そこに載せられていたのは……。

「長谷見の事件を警察が正式に殺人事件として認定したらしい」

 一週間ほど前、緑葉たちのクラスメイト、長谷見芽衣が真夜中に轢き逃げ事故に遭った。二回轢かれていたことから、警察は当初より事件性を疑っていたらしく、記事には新たな情報が記されていた。

 近海から発見された車に付着していた血痕が長谷見のものと一致し、轢き逃げに使われたものであると断定されたこと。さらに、その車が事件当日の夕刻に盗まれた盗難車であったことの二点である。犯行に使われたのが盗難車だったとなると、登録ナンバーからは容疑者を絞れなくなるわけだが、犯人の目星はついているのだろうか。

「お前、葬儀の帰りの新幹線で、事件を調べるって言ってたよな」

 歩夢の問いを受け、緑葉が新聞から目を上げる。

「友達が殺されたのよ。あんたは無念を晴らしたいって思わないの?」

「あんまり無茶はするなよ。心配だけはかけないでくれ」

 犯人も動機も分からないが、そいつは人を殺めているのだ。いつだって無防備に事件に首を突っ込む緑葉を知っている歩夢からすれば、心配にもなるのだろう。


「俺も歩夢に言っておくことがあったんだ。前に頼まれた話なんだけど」

 本題を伝える前に、緑葉に目をやる。

「こいつに聞かれるとまずいか?」

「いや、別に構わないよ」

「語学研修が終わって、明日、アメリカから帰って来る。そしたら話してみるよ」

「え、何? 何の話をしてるわけ?」

「歩夢に雪蛍を紹介するって話」

 緑葉は訝しげな表情を見せる。

「何それ。初耳なんだけど」

「言ってないから、そうだろうな」

「歩夢があたしに隠し事をするなんて許されると思ってるわけ? どういうことか、ちゃんと説明しなさい」

 舞原雪蛍は一学年下で美波高校に通う、俺の腹違いの妹だ。一ヶ月前、図書室で発生した『メッセージカード事件』をきっかけに部室を訪れたのだが、それ以来、歩夢は俺の妹を意識するようになったらしい。

 もしも嫌でなければ紹介して欲しいと頼まれたのは、一週間ほど前の話だ。雪蛍がどう反応するかは分からないけれど、それが歩夢であるなら断る理由もない。

 美波高校普通科の一年生には、任意の語学研修カリキュラムがある。昨年、俺は興味もなかったし、お金のない麗羅も参加しなかったが、雪蛍は申し込んでおり、歩夢に頼まれた時は二週間の渡米中だったのだ。そして明日、妹は帰国する。


 雪蛍への想いを隠されていたことに怒り、緑葉は歩夢につかみかかっていたが、彼女は今、とにかく感情を振り回したいのだろう。

 千桜一族も俺と緑葉の交際を既に知っていた。

 突き付けられるだろう現実が彼女の心に黒い影を落とすのは、きっとそんなに遠い未来の話じゃない。その頃に俺たちがどうなっているかなんて、今はまだ想像もつかなかった。