無理矢理に出社した月曜日は長く、定例会議や細かなチェックをじっとこなしているうちに、ようやく午後6時がやって来た。

 私はほうっと息をついて、すっかり重くなった首を回すと、帰り支度をはじめた。

 以前は他人に仕事を任せるのが苦手で、何から何まで抱え込むようにして仕事をしていたけれど、最近では預けるべきところは預けるスタイルに変えている。どうしても仕事がたてこまない限り、ランチにも出てお昼に気分転換をし、午後に再び集中して作業をしたらさっさと帰ることにしているのだ。

 今日もお財布とケータイをバッグに放り込み、立ち上がってオフィスを出ようとすると、理菜にめざとく見つけられた。

「先輩、今日、ちょっと付き合ってください」

「ああ、うーん、できれば早く帰りたいんだけど……」

「え!? もしかしてデートですか」

 色めきたって理菜が尋ねてくる。

「まさか、そんなんじゃないけど」

「なんだ。じゃ、いいじゃないですか」

 結局いつものダイニングバーで軽く飲むことになってしまった。今夜の理菜はいつにも増して押しが強い。

 外に出ると、ビル風に吹きつけられた。飛んできた枯れ葉が、危うく顔に当たりそうになって避ける。

 あまりの寒さに、向かい風の中を急ぎ足で移動した。街のあちこちにイルミネーションやツリーが光り、どこからともなくクリスマスソングが聞こえてくる。そう言えば、あと二週間もするとイブではないか。……私はどうせ、一人だろうけれど。

「そういえば今日って、この冬いちばんの冷え込みらしいですね」

 理菜が呻く。

「早くお店にいこ」

 私と理菜は軽くくっつくようにして小走りになり、会社近くにあるダイニングバーへと急いだ。特に二人とも何も言わない限り、お店と言えばこのバーなのだ。

 ようやく辿り着いて店内に駆け込むと、冷たい風にさらされていた頬に、急に血が通ってちりちりとした。

 ふと見ると、入り口すぐのレジ横には、この間訪れた時にはなかった大きなツリーが飾ってある。テーブルにも赤や緑のキャンドルがともされ、見慣れた店内はすっかりクリスマスムードになっていた。いつも二人で座る通路の右奥の席では、カップルがわざわざ隣同士に腰掛け、肩を寄せ合っている。

 私たちは仕方なく、お店の真ん中あたりのテーブル席に陣取った。

「いらっしゃいませ。今日はいつものお席が埋まってしまってすみません」

 すっかり顔なじみになっているお店のバイト君がやってきて、細い目をさらに細めて言った。ひょろっと背の高いこの大学生は、理菜がアルコールを飲む時の本当の姿を唯一知っている異性かもしれない。

「いいの、いいの。中ジョッキ一杯ずつと、あと唐揚げと厚焼き卵と、ええとエビマヨもお願いね。それでいいですよね、先輩」

 このいい雰囲気のバーでも、二人で来る時は、おつまみは最初からがっつりと頼む。サラダは頼まず、野菜は後で頼むお新香のみ。どれもお店の人気メニューでかなり美味しいのだけれど、しっかりとした味付けで一気に喉が渇く。私が黙って頷くと、バイト君は「ありがとうございます」と軽く会釈をして去っていった。

 すぐに中ジョッキがやってきた。軽くグラスを合わせて乾杯をした。理菜はぐいぐいっと二、三口いくと、お通しのアジの南蛮漬けもあっという間にたいらげている。かと思えば再びジョッキへ手をかけ、喉を上下させながらビールを流し込んでいくのだった。男のいる飲み会では決して見せない豪快な飲みっぷりだ。私のジョッキはまだ三分の一ほどしか減っていないのに、理菜のはもう底のほうに近かった。

「すみませーん、いつもの日本酒、持ってきてくれる?」

 さっそく次に頼んでいるのは、口当たりが良くフルーティなせいで、いつも二人でつい飲み過ぎてしまう日本酒だった。

「ちょっと、大丈夫なの?」

 いくら二人の時は速いペースで飲むといっても、普段はこれほどではない。理菜は左手で私の言葉を制しながら、右手でジョッキをほとんど垂直に傾けて、とうとう空にしてしまった。

「お待たせしました」

 バイト君が見計らったように二人分のおちょこと徳利、それと先に頼んだおつまみ三皿を一気に運んでくる。

 理菜はさっそく手酌すると、勢い良く呑み干した。ていねいに巻いてある髪が、仕事あがりの今も、くるんとカールしたまま頬にかかって揺れている。人工の長い睫毛は、瞬きのたびに風を起こせそうだ。やや暗めの店内でも、店にいる男性客が、連れの彼女の目を盗んでちらちらと理菜を気にしているのがわかる。まあ、一滴でも飲んだらひっくり返ってしまいそうな可愛いOLが、ビールや日本酒を水みたいに浴びているせいもあるのだけれど……。

 現実的かつ計画的で、何事も迷いの少ない理菜は、その見かけとは裏腹にかなり男っぽい性格だと思う。歳は3つ下なのに、いつも姉のような口をきかれている。その彼女の口癖は、「先輩は女として鈍くさすぎる」というものだった。

 仕事を離れたプライベートでは、あまりにも女としての生活の知恵もこだわりもない私を放っておけないらしく、お説教をされることが少なくないのだ。それでも、ずけずけという口調は、さっぱりとしていて憎めない。私たちはとても気が合った。

 素が良い上に頭のてっぺんから足の爪の先まで完璧に手間暇をかけてある理菜は、もちろん社内でも男たちから人気があった。どんな相手でも選べたはずだけれど、理菜には入社してすぐの頃から、ずっと付き合っている同期の彼がいる。

 どちらかというと目立たないタイプの男だ。なぜあの相手と、と不思議に思っていたけれど、一度彼と一緒に仕事をして、はじめてその理由がわかった気がした。

 仕事を任せると速いし、正確だ。その上、こちらの要求以上のものを必ずプラスオンしてくる。わかりやすくリーダーシップをとるわけではないのに、彼がチームにいると仕事がスムーズに回る。頭がいいのだ。そのうち、出世していくだろう。

 理菜の飲みっぷりを肴に、厚焼き卵を食べていると、どんとおちょこを置いて理菜が口を開いた。

「ねえ、先輩も、そろそろちゃんと考えた方がいいですよ」

 理菜はお酒に強い上にほとんど見た目に出ない。それでも必要があれば、適度に酔ったふりも器用にこなせる。何度か接待の席で見たことがあったけれど、そこいらの女優顔負けの演技力だった。しかし今、目が据わっているのは本当に酔いはじめているせいらしい。

 薄暗いバーを背景に、酔っていながらも、理菜は真剣な顔をしていた。驚いていると、じれったそうにこちらを軽く睨みつけてくる。目が大きいだけに恐い。少したじろぎながらも、私は聞いた。

「何をちゃんと考えるっていうの」

「決まってるじゃないですか、次の恋ですよ。新しい彼氏! 昔の恋を忘れるには、新しい恋が一番ですよ」

 この一年、これまでにも、理菜が酔う度に聞かされている話だった。

「でもさあ、ちゃんと考えても、ちゃんとした男と出会わないんだから、しょうがないでしょう」

「違います。先輩は出会いがあっても、動こうとしてないだけですよ。自分を大事にしてくれそうな男が目の前を通り過ぎるのを、ただぼうっと突っ立って見てるだけ。まったく、何回見逃し三振するつもりなんですか」

「ビール飲んで日本酒あおって、説教話のたとえが野球って、どっかのおっさんじゃないんだからさあ」

 呆れる私の言葉を無視して、理菜の口上はつづく。私はエビマヨを食べながら拝聴することにした。一口ほおばると、さくっとした感触のあとにぷりっとあつあつの汁がこぼれて、えびの旨味が口の中いっぱいに広がっていった。相変わらずここのは美味しい。

「言っておきますけどねえ、年上の美人と若い細胞だったら、男は若い細胞が好きなんです。ちょっとぐらいきれいだからって胡坐をかいて、昨今の婚活市場で売れ残って泣いたって知りませんからね。わかってますか。先輩は、今年が二十代最後の年なんですよ」

 エビマヨの美味しさに感動していると、理菜が再びこちらを睨みつけながら唐揚げをがぶりと噛んだ。見た目はすこぶる可愛いのに、食べる時の顔つきが獰猛な、小動物みたいだった。

「一体今日はどうしたのよ」

 いくら説教上戸の理菜でも、ここまでものすごい勢いでまくしたてるのは珍しい。

 私の問いかけに、理菜はこちらをじっと見た。目にうっすらと涙が浮かんでくる。

「先輩、私、ついに新田君と結婚するんです」

「わあ、おめでとう!」

 理菜もお嫁に行くのか。一抹の寂しさはあったけれど、やはり祝福したい気分のほうが勝る。うん、私はまだ大丈夫だ。

「でも、それで何を泣く必要があるの。あ、もしかして、マリッジブルー?」

 茶化していうと、理菜が再びどん! とおちょこをテーブルに置いた。日本酒が軽くテーブルにこぼれる。

「ちがーう! つ、ま、り、うちの部で結婚してないのは、あのミス・ブースカと先輩だけになっちゃうんですよ」

 高めの声が、ざわざわと騒がしいはずの店の中に響き渡る。

「ちょっと、声が大きすぎるわよ」

 周りの喧騒が一瞬ぴたりと止んで、みなこちらの様子を伺ったのがわかった。

 ミス・ブースカは、同じ部にいる年齢不詳の独身魔女だ。特技は経理関係データの超高速タイピングと貯金。それ以上の情報は誰も持っていない。そういえば、いつも俯いているから、顔立ちもよく思い浮かべられなかった。うちの会社が今のビルに越してくるずっと以前から、同じデスクに座っていたという都市伝説まで存在している。

 独身は、あのミス・ブースカと私だけ、か。

 ふと見ると、理菜の上半身がふらついていた。

「もう、大丈夫? あんなにハイペースで飲んだりするから」

「私はね、心配してるんですよ。先輩があまりにも奥手だからぁ」

 興奮して説教している間に、血もよく巡ったのか、呂律まで怪しくなっている。

「でもまあ、こういうのはご縁だから」

「あのねぇ、先輩。ご縁ていうのはぁ、99パーセントの努力とあと残りの1パーセントは相手の年収まで見抜く目ヂカラで成り立ってるんですぅ!」

「目ヂカラの使い方、間違ってるでしょう」

 呆れて言うと、理菜がゆらゆらと揺れていた。この子がこんなに酔うのは本当に珍しい。しかも、店に入って間もないのにだ。まるでやけ酒みたいだった。

「だってぇ、悔しいじゃないですかぁ。私の憧れの先輩が、あんな仕事もできないろくでなしに陰で散々言われ……て」

 そこまで言って、理菜は不自然に黙った。言うつもりではなかったことまで、つい漏らしてしまったらしい。

「わかった。大方、浜本拓あたりが、あの仕事がちょっとできるだけのかわいくない独身のおばさん、とか何とか言ってたんでしょう」

 当てずっぽうで言うと、「何だ、知ってたんですかぁ」と、脱力したように答えて手酌した。

「ちょっとペース落としなよ」

 理菜はお構いなしで、ぐいっとあおると話をつづける。

「でもぉ、3Kだから結婚できないとか言われて、悔しくないんですかぁ」

「え? 何よ、それ」

 浜本の言いそうなことなど聞かなくても想像できたけれど、3Kは想定外だった。

 高学歴、高身長、高収入。3Kと言えば、かつて三単語のアルファベットの頭文字をとり、理想の男性を指す褒め言葉として使われていたはずだ。けれど私の場合、高学歴といったって高校三年間かなり必死に頑張って入った大学だし、160センチの身長を高身長とは言い過ぎな気がするし、お給料はいい方かもしれないけれど管理職としての責任もどっさりついてくる。おまけに住宅ローンのせいでいつもピーピーだ。自宅通いでいつも適当に仕事をしている浜本のほうが、経済的にも精神的にもよほど優雅に暮らせていると思うのは単なる僻みだろうか。

「何だ、3Kのことまでは知らなかったんですかぁ」

 理菜が憐れみの眼差しを向けてくる。

「だから何なのさ、3Kって。もしかして、キツイ、キツイ、キツイとか?」

「それもそうかもしれないけど、浜本が先輩につけた3Kはねぇ、高学歴、高年齢、高層マンションってことですよぅ」

「それもそうかもって……、まあいいけどさ」

 3Kとはつまり、浜本にとってはお高くとまっている口うるさい女上司、私への強烈な皮肉だったのだ。

 なぜか、腹は立たなかった。それどころか、浜本にしては珍しく的を射た発言のせいで、素直に感動さえしてしまった。

「それにしても、浜本拓のやつ、うまいこと言うわねえ」

「もう、感心してる場合ですかぁ! ものすごおくけなされてるんですよ、先輩」

 そうか、浜本の陰口を聞いたから、理菜は怒ってくれていたのか。今日も、穴だらけの企画書をあげてきた浜本を、きつく叱ったばかりだ。腹いせに社食かどこかで愚痴っていたのを、偶然聞いてしまったのだろう。

 確かに私は、婚活市場における、高学歴、高年齢、そして高層マンション(住んでるのは9階だけど)の可愛気がない3K女だ。つまり、完全なる負け犬だ。男だったら武器になる付加価値も、女にはことごとくマイナスになる。

 でも私は、ついこの間まで、そんなことには気づかずに生きてきたのだ。

「だって、男のメンツなんて、考えたことなかったんだもの。私はただ、頑張って結果を残してきただけなんだもの。元彼は、そんなこと気にしたこともなさそうだったし」

「先輩みたいなのを本当の天然って言うんでしょうねぇ」

 理菜が博物館の展示品でも見るような目つきで、私を見た。

 そういえば、天然キャラはナチュラルメイクと同じで、女の技の結晶だといつか理菜が豪語していた。私の場合、そういう計算した天然ではなく、男を遠ざけるだけの間違った天然だと言いたいのだ。

「先輩の元彼はぁ、男としてはかなり少数派だったんです。同じタイプをまた求めるなんて、会社を辞めて起業するのと同じくらいリスキーですよぅ。大抵の男は、自分より出来る女を好きになったりしないんだからぁ」

「でも、仕方がないじゃないの。学歴は今さら変えられないし、もう頑張ってマンションも買っちゃってるし」

 大学に受かった時は親も喜んでくれたし、努力を形にして残しつづけることを、男からどう思われるかなんて考えたこともなかった。この辺りが理菜のいう鈍くさいところなのだろう。

 おまけに大事にしてくれていた元の彼氏は他の人と結婚してしまい、もう取り返しがつかない。

「先輩、知ってます? 今や女の憧れナンバーワンの職業は、主婦なんですよぅ」

「……うん」

 私は思わず姿勢を崩し、テーブルに顎をのせて小さくつぶやいた。

 就職を決めた頃、どの女性誌もキャリアを磨いて自立している女がいかにステキな存在かを声高に叫んでいた。よくよく考えてみたら、あれらの雑誌を編集していた女性たちは、徹夜してぼろぼろになりながら働いていたのかもしれない。ところが景気の悪化とともに、同じ雑誌たちが、いかに〝愛される〟女になるかをレクチャーしだした。そしてついに、憧れの職業ナンバーワンは主婦になったのだ。

 その特集も、きっと働く編集者の女性たちが、徹夜をしながら仕上げているのに違いない。

 この世界も、私自身も、いつだってゆらゆら揺れていて、2でも3でも割り切れないものなのね。

「とにかく、私のことは大丈夫だから。花嫁はさ、自分のことだけ考えてればいいの。でしょ?」

 私は、沈みはじめた気持ちを盛り上げるように、徳利を持って理菜と自分のおちょこについだ。理菜は心配そうにこちらを見つめている。可愛い後輩だ。言っていることも、きっと正しい。

 ふいに、理菜の目が不気味に光った。

「そうだ! 先輩、この近くで、すんごい当たるっていう婚活専門の占い師が辻占いしてるんですう。行きましょう。今ならまだ間に合います」

「え? 私、占いとかあんまり好きじゃないんだけど……」

「おごります、おごりますからぁ、行きましょう!」

 現実的なくせに、風水や占いなんて根拠のないものを妙に信じている。そのまぜこぜ感が、やっぱり理菜は女の子だ。でも私は違う。占いなんて、朝の星占いでさえ気持ちを左右されそうで避けているのに、そんなに当たる占い師に観てもらうなんて、恐ろしすぎるではないか。

「それにほら、今日はこれから用があるし……」

 やんわりと断ろうとすると、理菜はぐいっと私の腕をひっつかんで再び睨んだ。

「今度のプロジェクト、浜本拓のフォローしませんよ」

 それは困る。理菜の助けなしでは、とてもあのやる気のない浜本と仕事をする自信がなかった。

「……すぐに準備します」

 仕方なく私は頷いた。

 御厨と別れる一年前までだったら、きっと何を言われたって行かなかった。それに、今日の夜のお楽しみには完全に遅刻してしまう。それでも私は理菜に引きずられるようにして、席を立って店を出た。

 やっぱり結婚式のせいで弱気になっているのかな。

 軽く酔いの回った頭で私はぼんやりと思った。


19:30


 占い師のいる通りへと辿り着くと、一際寒い夜だというのに、五、六人のOLたちが列をつくって並んでいた。これは、理菜が噂で聞いていたよりかなり少ないほうだという。やはり底冷えする気温のせいだろうか。

 列の先では、紫色のベールを被った怪しげな女が水晶を見つめながら、俯いて座る女の子に話しかけている。仕事帰りのサラリーマンたちが、興味深げにこの華やかな行列を眺めては通り過ぎていった。

 理菜と二人で列の最後尾に並び、二、三分ほど経った頃だった。占われていた女の子がわっと泣きだした。思わず小声で確認する。

「ねえ、もしかしてあの人、毒舌説教系の占い師なの?」

「さあ、私も当たるって聞いただけでぇ、詳しいことはちょっとぉ」

 泣き声を聞きながら、理菜はにこにこと答えた。駄目だ、まだ酔っ払っている。足元もふらふらとしていて危なっかしい。理菜の腕を掴んで支えると、乾いた冷たい風が、コートの隙間から首のほうまで這いあがってきた。全身がかたかたと震える。乾燥しきったからっ風は、雪の予感がする北国の湿った風より、よほど体を凍えさせると思う。それでも寒いだけあって、空気はいつもよりずっと澄んでいた。今日は、さぞかしマンションからの景色が綺麗に見えるだろう。ああ、早く帰りたい。

 占い師は、一人あたり五分ほどでさばいているらしく、最後尾に並んでいたはずの私たちにも、三十分ちょっとで順番が回って来た。後ろには、いつの間にかまた新しいOLたちが列をつくっている。本当に人気の占い師らしい。

 理菜と並んでがたつくパイプ椅子に腰かけると、大きな水晶玉が置かれたテーブルを挟んで占い師と向かい合わせになった。こうして対面で占ってもらうのは初めてだ。途端に、緊張が襲ってくる。

 濃い紫色のベールに覆われた向こうは、顔の輪郭も表情も全くわからない。ベールというより、まるでモザイクみたいだった。

「名前」

 突然、占い師が理菜に向かって聞いた。愛想も何もないぶっきらぼうな尋ね方だ。風邪でも引いているのか、ややいがらっぽく低いトーンだったけれど、想像していたよりずっと若い女性の声だった。二十代から三十代、といったところではないだろうか。勝手に六十代以上の女性だと思い込んでいた私は、少し拍子抜けした。

 理菜は、ようやくアルコールが抜けてきたのか、上体の揺れが収まっている。

「上田理菜です。あ、でも、私は観てもらわなくていいんです。先輩を観てあげてください」

「ええ!? そんなのずるいよ」

 私だけ観てもらうなんて聞いていない。てっきり理菜も一緒に観てもらうのだと思っていたのに。

 占い師のベールの端がひらりとひるがえって、こちらを向いた。

「じゃあ、あんた。名前」

 ごくりと喉が鳴る。

「二宮、咲子です」

 占い師は、私の名前をぶつぶつと繰り返しながら、水晶玉を覗きはじめた。

 足が寒さのせいではなく震えている。いいことを言われたら疑ってしまい、嫌なことを言われたら信じてしまう気がした。どっちにしろ答えなど聞かずに帰りたいのに、なぜか動けない。

 突然、占い師が顔をあげて尋ねてきた。

「ずいぶん頑張ってることがあるね。これは何。仕事?」

「ネットショッピング関係の仕事をしてますけど」

「ふうん。出世してくね。でも、出世するほど、縁遠くなるね」

 心の奥がざわつく。私はただ、目の前の仕事を夢中でやってきただけだ。上のポジションにつきたかったのだって、そのほうがやりたいことを自由に実現できると思ったからで、別に出世が目的だったわけじゃない。万が一この占いが当たっているとしても、出世なんて望んでいない。それに、縁遠くなるって、どのくらい遠くなるのだろう。

 動悸がして、胸が悪くなってくる。悪酔いしたのかもしれない。占い師は、私のショックにはおかまいなしに、なおも何かを言おうとしている。

 どうしよう、嫌だ、聞きたくない。やっぱり占いなんて、心が弱っている今だからこそ、来るべきじゃなかったんだ。

 酔いも手伝ったのだろう。私は今度こそ、パイプ椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がった。

「先輩!?

 隣に座っていた理菜が、驚いてこちらを見上げている。

「もういいです。料金はお支払いしますから」

 慌てて財布の中からお札を抜きだそうとした。それなのに焦ってうまく取り出せない。

「何言ってるんですか、私が出しますよ」

 理菜がお財布をバッグから出そうとしてよろけ、私の腕を遮る。

「ちょっと、理菜」

「だって、私が出すって言ったじゃないですか」

 まだお酒が完全には抜けきらないのか、理菜の動作は鈍い。

 もう、この酔っ払いめ!

 理菜の手をどけようとしている間に、占い師が再び、喋りはじめてしまった。

「ちゃんと聞く。この一週間、最後のチャンス。この出会い逃したら、一生独身」

 その瞬間、世界は静止した。

 ……イッショウドクシン?

 ようやくお札を差し出した自分の手だけが、止まった世界の中で、上下に激しくブレている。

「一生独身?」

 思わず口に出して問いかけると、世界が再び動きだした。占い師は、お札をひったくるようにして受け取った後、重々しく頷いた。

「相手、呼べば応える」

「どういうことですか?」

 思わずテーブルに覆い被さるようにして問いただした。しかし、占い師はこう答えただけだった。

「グッドラック。テイカチャンス」

 この人、外人?

 私の未来も、占い師のベールの向こうの表情も、何も見えない、何も読めない。

 私が一生……? 本当に?

 からっ風がさらに冷たくて、ほとんど凍ってしまいそうだ。