響介が竜ヶ坂公民館を訪れたのは、町の中心部から外れた安普請のアパートに少ない荷物を運びこんですぐの土曜日だった。一般事務補助臨時職員……というと格好が付きそうな気もするが、つまりはアルバイトだ。それだけでも賃金が貰える場があれば、この不景気の日本では有り難い。

 竜ヶ坂公民館は町全体の印象どおり、小ぢんまりとした建物だった。どうやら図書館も併設されているらしい。廊下には近所の小学生が描いたらしい標語ポスターや、有象無象の掲示物が並び、学生時代を思い出す古びた建物の匂いが漂っていた。

「ふんふん。藤間響介クン、二十二歳ね……すごいねえ、帝真音大のヴァイオリン学科を出てるなんて、エリートじゃない」

 やはり小さな事務所の一番奥に座っていた館長の根津は、黒々としたどんぐり目をこちらに向け、可愛らしく首を傾げた。還暦に近いであろう男性に可愛らしいという表現は語彙力の欠如した女子高生じみているが、実際に可愛かったのだから仕方ない。

 彼は座布団を敷いた椅子の上にどういうわけか正座をして、響介の履歴書を両手で持ちながら、玩具のような動きで小刻みに頷いていた。靴はきちんとデスクの横に揃えているあたり、行儀がいいのか悪いのかよく分からない。

 事務所の空調は古いのか、唸り声がうるさいだけで全く涼しくなかった。奥では気休めのように置かれた扇風機が満身創痍といった態で首を振っており、響介の頬に断続的な風を当ててくる。

 一応面接という事なのでスーツを着てきたが、響介は早くもその判断を後悔し始めていた。竜ヶ坂は山間の盆地らしく、この朝方から暑い上に湿気が多いようなのだ。湿気が大敵となるヴァイオリンにとっては厳しい環境だと思いつつ、よれたポロシャツにチノパンという、クールビズ体勢の根津が羨ましい。

「公民館のお仕事はね。市民の皆さんに、文化の橋渡しをする事なんだよ。行政と住人が密接に関わって、地域の活性化や教育事業を進めていくわけ。素敵でしょ?」

 両手を胸の前で組み合わせて語る根津の口調は夢見る少女のようだが、声は野太い壮年男性のものである。可愛いを通り越して不気味に思えてきたが、響介は汗で貼り付くスーツに拘束されているかのように頷きながら聞いた。

「町で立ち上げられているアマチュア・オーケストラも、その一環なんでしょうか」

「ドラフィルの事だね、もちろんだよ。響介クンは、ヴァイオリニストとして参加してくれるんだって?」

 いきなり下の名前か。しかも『君』の発音が、少々気持ち悪い。目元の皺に埋もれた黒々とした瞳で見つめられ、本能的に身を退きながら疑問符を浮かべる。

「……ドラフィル?」

 放蕩息子の『ドラ』か? などと考える響介の内心を読み取ったかのように、根津はこちらに身を乗り出してきた。正座したままだったせいか、キャスター付きの椅子が後ろにすべり、バランスを崩してくる。

「正式名称は『竜ヶ坂商店街フィルハーモニー』……竜の『ドラ』だよ」

「……商店街?」

 響介は、更なる疑問の声を上げた。オーケストラの名前に付属する単語としては、極めて奇妙な言葉を反芻する。単なる『竜ヶ坂フィルハーモニー』では駄目なのか。一瞬の逡巡の後、確かめるように問いかける。

「要は……町おこし、ですか?」

 その言葉に、根津は大きく頷いた。アマオケの目的などそんなに崇高なものでなくてもいい。むしろ趣味の延長上で続けている人々が多いが、町おこしとは前代未聞だ。間抜けに口を開ける響介をよそに、根津は椅子に正座をし直しながら、カウンターの向こうに視線を投げた。

「なんなら、ついでに見学していく? いつもここの第五会議室で練習しているから……七緒ちゃん、七緒ちゃーん!」

「あいよ! そんな連呼しなくても、十分聞こえるって!」

 と、根津の呼びかけに男のような返事をしてきたのは、若い女の声だった。

 響介も振り向くと、カウンター越しに水平移動してくる頭が見えた。一瞬、子供かと思うような背丈だったが、事務所に入ってきたその姿を見て理由が分かった。彼女は、車椅子に乗っていたのだ。

 年齢は、響介とそう変わらないだろう。化粧気が全くない上、ざんばらに短く切った栗色の髪のせいで、ほとんど少年のように見えた。小動物を思わせる双眸が良く動く様は可愛らしいが、次にその唇から放たれた言葉は鋭利な刃物というか、ほとんど凶器に近かった。

「……誰だ、その生白い男は」

「新しいバイトの、藤間響介クンだよ。帝真音大のヴァイオリン学科を首席で卒業した、ドラフィル待望のコンマスが来るって、君も喜んでたじゃない」

「あの、誰も首席とは言ってませんが……」

 慌てたようにフォローを入れる根津に、響介も慌てて訂正を入れる。何だか話が色々と大きくなっている気がするが、女は喉の奥から中年男のような声で相槌を打っただけだった。何かの運動競技のように全身を使った前傾姿勢のまま、ガシガシという効果音が聞こえてきそうな勢いで、こちらまで近寄ってくる。

『車椅子の女性』という言葉から想起されるイメージを百八十度ばかり回転させた後、金槌のようなもので完膚なきまでに叩き潰したら、目の前の人間になるのかもしれない……女性は唖然としている響介に怪訝そうな目を向けてくるが、黒目がちのせいか、言葉遣いほど鋭い印象はなかった。その視線に妙な既視感を覚えるが、根津の間延びした声が響介の思考を遮る。

「彼女はね、非常勤嘱託職員の一之瀬七緒ちゃん。見ての通り足がちょっと不自由なんだけど、お風呂場とトイレの電球を替える事以外は、割と何でも自分でやっちゃうから。あまり気を遣わないであげてよ」

「おいおい、なめんなよチューさん。私は電球だって片手で替えられるわ。今、ちょうど切れてた外灯を替えてきた所なんだからな」

 女は膝に乗せていた物干し竿のようなもので、不服そうに床を叩いた。先の方に電球を掴む手の付いたアームだ。どうやら根津なので『チューさん』らしいが、上司にものを言う態度でもないような気がする。だが、根津は慣れた事のように野太い声を上げただけだった。

「わあ、ありがとう七緒ちゃん。ボクも気付いてたんだけど、ついつい後回しになっちゃってさあ……じゃあ他に急ぎの仕事がないなら、館内を案内してあげてよ」

 言って、こちらに手を向けてくる。響介は、大分低い位置にある七緒に視線を合わせて頭を下げた。響介はそれほど長身でもないが、常に座姿勢である人間から見れば威圧感があるだろう。だが、子供相手のように屈んで挨拶するのも失礼な気がする。

 そんな事を考えていた、次の瞬間だった。ぐいと顎下を何かに持ち上げられ、事態を把握出来ずにそのままの体勢で固まる。

 それはどうやら、七緒が持っていたアームの先で自分の顎を上向かせた事によるものらしかった……が、初対面の人間にそんな不躾な行動をされるという発想がなく、怒りやら驚愕よりも先に、思考が停止する。

「なるほど、いい痣だ」

 だが、当の七緒本人はそうとだけ呟き、すぐにアームを下げた。手近にあるデスクにそれを立てかけて、両腕の力で車椅子を回転させる。今しがた自分がした失礼な行動などまるでなかったかのように振り向き、口の端が裂けそうなほどの笑みを浮かべた。両頬にクレーターのような笑窪が出来て、妙に子供っぽい。

「よし。付いて来い、新人」

 響介は呆然としたまま、違和感の残る顎を押さえた。根津が慌てたように身を乗り出し、先ほどと同じように後ろへ転がった椅子に下半身を持っていかれている。

「ごめんねえ。七緒ちゃんは少し乱暴な所があるけど、とってもいい子だから」

 だが響介は、不躾な女の行動に腹を立てるよりも、その真意を測るように彼女の背中を見つめた。仏の響介と称される自分の沸点の高さは分かっているが、それだけではない。自分の顎下など見る事はないが、七緒が示した位置には確かに痣があるのだ。

 ……それは、ヴァイオリニスト特有の痣だ。

 体質にもよるが、ヴァイオリンの顎当てが触れる顎から鎖骨にかけての部分には、どうしても浅黒い痣が残る。幼少の頃から楽器を弾いている人間であれば、尚の事だ。裏を返せば、濃い痣が残る人間ほど、それだけ長い時間を練習に費やしてきたとも判断出来る。

 練習量と技量が必ずしも比例しないというのがこの世界の哀しい真実だが、少なくとも彼女はこの傷を『いい痣』だと称した。音楽を知らない人間から出てくる言葉ではない。

 響介は足元に置いた荷物と、そしてヴァイオリンケースを手に取って立ち上がった。面接にまで持ってくるものではないが、ヴァイオリニストと愛器の繋がりは一般人が思っているよりも深い。傍にあれば、それだけで安心する。

「ちょっと待ってくれ、一之瀬さん」

「七緒でいいぞ、名字で呼ばれるのは好きじゃない」

 相変わらず男のような言葉遣いで、七緒は車椅子とは思えないスピードのまま公民館の廊下を直進している。その背に追い付きながら、ネクタイを緩めつつ口を開く。

「七緒さん、君はヴァイオリニスト……いや、何か楽器をやってる人間か?」

「私は何も弾かない、吹かない、叩きもしねえよ。あと、さん付けもしなくていい」

 初対面から、何たるゴーイングマイウェイっぷりだ。普通の人間なら会話自体を諦めてしまうのではないだろうか。半ば呆れていると、七緒はようやく車椅子を止めてこちらに向き直った。

「まあ、仕事はチューさんから教えて貰ってくれよ。私が聞いてるのは、お前が優秀なヴァイオリニストだって事だけだからな……ちなみにドラフィルの練習場は一番奥の第五会議室だ。使う目的がなくて常に空き部屋だから、いつでも来ていいぜ」

 その言葉に、響介はようやく事態を理解した。どうやら彼女は、コンマスを探しているという、非常に悠長なアマチュア・オーケストラの関係者らしい。もしかしたら仕事上、活動や運営を担当しているのかもしれない。

「もしかして、君はインペクなのか?」

 インペク……インスペクターは、オーケストラの裏方業務を一手に引き受ける現場監督のようなものだ。思い付いたようにそう声を上げる響介に、しかし七緒は気の抜けた返事をしてきただけだった。

「まあ、そんな事もやってるな。何せ、どこもかしこも空前の人材不足だからよ。とりあえず、トランペット首席が来てるから挨拶しておくか。これから多分、フルート首席も来るだろうしな」

 七緒は一人で勝手に思考を進めている。響介は疲れたように彼女の後頭部辺りを見下ろしながら、あまりの暑さに遠慮なくジャケットも脱いで抱えた。更に彼女に疑問を投げかけようとしたその時だった。二人の後方から、歌うような女性の声が届いた。

「おはようございます、七緒ちゃん」

 振り向くと、つばの広い帽子に顔の半分を隠された、小柄な女性が立っていた。どこか時代錯誤の白いワンピースに、子供以外ではついぞ見なくなったおさげ髪だ。現代日本では、ほとんど天然記念物のような人種である。今から手作りサンドイッチを詰めたバスケットを片手に、森の中にでも散歩に行きそうな風体だ。彼女はくすくすと笑いながら、どこか一拍遅れたテンポの口調で続けてくる。

「今日もお元気ですねえ。あまり動き回ると、また根津館長に叱られますよ」

「おはよう花畑さん。そっちこそ、暑さで卒倒しないようにな」

 七緒が手を上げて挨拶すると、花畑さん……どう考えても本名ではなさそうだが……が、不思議そうにこちらを覗きこんできた。年齢は自分と同じくらいか、年下だろう。珍しい生き物でも見付けたかのように、小首を傾げてくる。眠たげな双眸をしばしばとさせる彼女に、七緒のきっぱりとした言葉が飛んできた。

「そいつは、竜ヶ坂商店街フィルハーモニー待望の新しいコンマスだ。帝真音大のヴァイオリン学科を首席で卒業した一流奏者だとよ。これでドラフィルも安泰だな」

「まあ素敵! よろしくお願いします、コンマス!」

 その言葉に、花畑さんは感極まったようにこちらの両手を取ってきた。やんわりと握られた手を振り切るわけにも行かず、響介は七緒に向けて非難の声を上げる。

「七緒! 根も葉もない事を言うのはやめてくれ! 俺は首席なんかじゃない!」

「いいじゃねえか、言うのはタダだし」

 思わず呼び捨てるが、七緒は響介の内心を気にもせずに続けただけだった。あくまでも平然とした調子で、目を輝かせている女性に手を向ける。

「彼女は花畑さん。ドラフィルのフルート首席だよ。こう見えて、竜ヶ坂商店街で百年近い歴史のある和菓子屋『華京堂』の四代目だ」

 紹介されたからには、一応頭を下げておく。かといって花畑さんなどという得体の知れない名前で呼ぶわけにも行かずに固まっていると、彼女は響介の手を握り締めたまま再び小首を傾げた。どうやら癖らしく、その度におさげ髪が揺れる。

「わたし、畑山彩花と申します。この町は、音楽が好きな人がたくさんいるんですよ。きっと、コンマスも気に入って下さると思います」

 なるほど……確かに頭に花畑がありそうだが、小学生並みのあだ名センスだ。それを当然のように受け入れている彼女もどうかと思うのだが、今追及すべきはそこではない。話が妙な方向に進んでいると思いつつ、先程の七緒の言葉を思い出す。

「花畑……畑山さんは和菓子屋さんと仰ってましたが……竜ヶ坂商店街フィルハーモニーは名前の通り、商店街の皆さんがメンバーなんですか?」

「ええ、全員ではありませんけどね。ホルンはペット屋さんですし、オーボエとクラリネットは喫茶店を経営してます。あ、わたしと同じフルート奏者には八百屋さんがいて、野菜をくりぬいて笛を作るのがとってもお上手なんです」

 相変わらず螺子の切れかけた玩具のような口調で……この周回遅れのテンポで音楽が出来るのかが少々疑問だったが……彩花は当然のようにそう返してきた。想像するだに、混沌としていそうなオーケストラだ。

「竜ヶ坂はある事情によって過疎化が進んでいるんです。特に町の中心部にある竜ヶ坂商店街は、店を畳む人たちも多くなってしまって……商店会の会長共々、わたし達商店街の店主たちは色々と町の活性化に繋がる活動を考えているんです」

「町の活性化は第一課題だ。響介もキリキリ貢献しろよ」

 そこでようやく、七緒の立場が見えてきたような気がした。公民館は行政と住人が密接に関わって、地域の活性化や教育事業を進めていく……根津の言葉通り、彼女は職員としてドラフィルを支援しているという事なのだろう。そこまで考えた所で、彩花が両手を打ち合わせた。どうにも気の抜けた音が響き渡る。

「そうだ、七緒ちゃん! もう源さんは来てますよね? あの方、練習に来るの一番早いですもの。源さんにもコンマスの事、ご報告しなくちゃ?」

 そう言った彼女はようやくこちらの手を離し、少女マンガのような小走りで廊下の奥へと駆け出してしまう。ひらひらと揺れる白いワンピースの裾を呆然と見送っていると、七緒が感慨深げに頷いてきた。

「いやあ、花畑さんも喜んでるみたいで良かったよ。という事で響介、早い所トランペット首席の源さんに会いに行こうぜ」

 ここの住人は、どうやら独自のペースで人生を進めているらしい。慣れていない響介が太刀打ち出来る相手ではなさそうだ。呆然とそう思った、その時だった。

 蝉の声とは別の音が、朝だというのに既に熱い風に混ざるようにして届いてきた。

 響介の耳が、反射的にそちらへ集中する。腐っても、演奏家としての耳だった。目の前にいる七緒の存在も、風の流れる微かな音も、全てをシャットアウトしてその音だけを明瞭に聞き分ける。

 それは、トランペットの音色だった。空気を切り裂きながら放射状に広がる、管楽器において最も明瞭で真っ直ぐな音。その旋律は、ラヴェルが編曲した『展覧会の絵』第一プロムナード……最も有名なトランペット・ソロの一つだ。

「これは……」

 響介は顔を上げた。何かを問いかけるように、七緒に視線を投げる。途端に戻ってくる周囲の喧騒に、しかし響介の鼓膜はその旋律を確実に拾っていた。力強いフォルテから奏でられる音は迷いなく、朗々と続いている。

「おっ、源さんが練習を始めたな。行ってみるか」

 七緒はハンドリムに手をかけた。こちらの方を確認もせず、先ほど彩花が向かった廊下の奥に進んでいく。彼女の足……というか車椅子は、電動式でないにも関わらず妙に速い。初対面では華奢な印象だったが、足の代わりを担う両腕には薄い筋肉が付いていた。車椅子を操作するためだろうか。

 年頃の女性にしてはいっそ清々しいほどに無愛想な真っ黒の、しかもどういうわけか真夏だというのに襟の詰まったシャツから覗く腕を見つめながら漠然とそう思うが、無遠慮な視線を向けてしまった気がして顔を背ける。

 ……『展覧会の絵』第一プロムナードは、ファースト・トランペット首席、たった一人のソロで幕を開ける。

 徐々に近付いてくるトランペットの音色を耳に、響介は意識を逸らすように総譜を思い出した。ずらりと全休符が並んだ各パートの中、トランペットの列にだけ登場する音符の群れ。それは誰もが耳にした事のある、あの雄大な旋律だ。

 トランペット奏者には、ある種の無謀さが必要になる。高音域で音が通り、その上ソロパートも多く、ミスは他の楽器以上に目立つ。しかし、その失敗を恐れて少しでも躊躇えば、トランペット特有の美しい咆哮は鳴らない。

 だが少なくとも、今聞こえてくる旋律には迷いがなかった。荒いが、潔い。音楽の中に斬りこむ度量がある。

 管弦セクションがヴァイオリンを指標にするように、金管はトランペットに集まり、木管はオーボエに寄り添い、打楽器はティンパニに合わせる。オーケストラはそうやって自らの音楽を周囲と同調させ、一つの音楽を創り上げる。

 だとすれば、あのトランペットが率いる金管、ひいてはオーケストラ全体の技量は、響介が思っているほど低いものではないのかもしれない……あくまでも、アマオケとしての話だが。一体どんな人物が吹いているのか、興味がないといえば嘘になる。

 その時だった。淀みなく続いていたトランペットの音が、不意に途切れた。

 明らかに不自然な切れ方だった。瞬間、金属が叩き付けられたような鋭い音が反響する。前方の七緒が急にブレーキをかけたので、響介も思わずつんのめる。

「……おいおい、嫌な予感がするな」

 七緒が呻いた瞬間、経費削減の折か、まばらに蛍光灯が消された薄暗い廊下の突き当たりにはめこまれた扉から、何かが転がり出てきた。

「七緒ちゃん! 救急車呼んで下さい!」

 先に会議室の中に入っていた彩花だった。ただでさえ白い顔が、更に蒼白になっている。彼女は壁に手をつくようにして、部屋の中を示してくる。

「源さんが倒れたんです!」

 その言葉が飛んでくるや否や、七緒が鋭い顔でこちらを一瞥した。顎の先で廊下の突き当たりを示し、再び車輪を進め始める。

「響介、扉開けろ!」

 事態を理解するより早く、響介は七緒に先行するようにして扉に手をかけた。上部のプレートには『第五会議室』とある……どうやらかなり大きめの部屋らしく、二枚の扉が観音開きになっていた。

 三方に窓が配置された室内は朝の光が差しこんでおり、一瞬だけ目が眩む。机や椅子の類は後方に寄せられ、確かに小編成のオーケストラが練習に使えるほどの広さが確保されていた。

 響介が内部に視線を巡らせると、主の居場所を知らせるかのように陽光を反射させる金管の輝きが見えた。部屋の中央に転がった、随分と年季の入ったB♭管トランペットのものだ。

「おいおい源さん……また張り切り過ぎたな」

 七緒は後ろで携帯を取り出し、そんな事を口にしながら救急車を手配している様子だった。響介は大股で、転がったトランペットの元に駆け寄る。椅子の足元にうつ伏せた細身の男性を助け起こそうとして、思わず驚愕した。

 倒れこんでいたのは、和装の老年男性だった。綺麗に白くなった髪に、顔の端までずり落ちた鼈甲縁の分厚い眼鏡。細身というよりはほとんど骨と皮だけではないかと疑うような体は、冗談のように軽い。息はしているが、深い皺の刻まれた顔には全く血の気がない。

 ……先程のトランペットは、この老人が吹いていたのか?

 黒い着流し姿の老人とB♭管トランペットの取り合わせは、どうにも不釣合いに思える。だが、周囲を見渡しても老人以外に人影はない。ふらふらとこちらに近付いてくる気配に振り向くと、老人と同じく血の気が引いた彩花だった。思わず問いかける。

「畑山さん……失礼ですがこの方、お幾つなんですか?」

「源さんは、先日半寿のお祝いをしたので……」

 泣きそうな顔をした彩花の言葉を反芻する。つまり……八十一歳か?

 瞬間的に大量の息が必要となるトランペットは、演奏時に一気に血圧が上がる。慣れた若い奏者でも、フォルテから始まるフレーズは吹き終わると立ちくらみを起こすほどなのだ。世界を見れば老年トランペッターも少なからず存在するが、一般的な観点からすれば無茶としか言いようがない。

 次の瞬間、うっと声を上げて、今度は彩花が顔面蒼白のまま膝をついた。

「ちょっ……大丈夫ですか!」

 幾らなんでも人間二人を同時に介抱する事は出来ず、響介は声を上げる。すると、電話を終えたらしい七緒がようやくこちらに近付いてきた。へたりこんだ彩花の肩に手をかけながら、目を吊り上げて響介に視線を投げてくる。

「花畑さんは、メンタル面が異常に脆弱なんだ! 源さんが倒れたショックで、彼女も相当な衝撃を受けているんだよ。救急車を呼んだから、お前は源さんに付き添え」

「分かったよ、家族の方は?」

「私が源さんの家に連絡取って、自分の車で病院まで連れて行く。消防署は道のすぐ向こうだから、救急車自体はすぐに到着するだろ」

 目まぐるしい展開だったが、哀しい事実として、今の自分は無職の暇人だ。対して周囲は倒れた老人と女性、そして車椅子の人間。この状況を放っておけるほど、自分は薄情ではない。いきなり妙な事態に巻きこまれたと思いながらも頷くと、へたっていた彩花が再び顔を上げた。響介の腕にすがり付くようにして、顔を近付けてくる。

「いいえ、わたしも行きます……でもコンマス、せめて手を繋いでいて下さい」

 びっしょりと濡れた小さい両手で、掌を握り締められる。七緒の言葉通り、数分も経たないうちに、窓越しにサイレン音が聞こえてきた。七緒は再び携帯を耳に、何かを話していた。老人の家族に連絡しているのだろうか、どうやら自宅の電話番号を知っているほどの顔見知りではあるらしい。

 響介は右手で老人の背を支え、左手で彩花の両手を握りながら、不意に遠い目をした……勝手に静かな片田舎だと思っていたが、どうやら自分はやけに騒がしい町に来てしまったようだった。


「源さんしっかりして下さい! あなたがいなくなったら、本当に竜ヶ坂商店街は終わりです!」

 竜ヶ坂総合病院は、公民館からさほど遠くない場所にあるようだった。響介には位置関係など分からなかったが、救急車で三分もかからなかったように思う。

 トランペッターの老人は緊急検査も手術も必要なかったのか、病室に運びこまれるなり面会が許された。ベッドに横たわる老人にすがり付く彩花の背中をさすってやりながら、響介は頭の中に残る『展覧会の絵』の音を頭の中で繰り返し再生させていた。

 と、老人の目がうっすらと開く。どうやら搬送中には既に意識を取り戻していたようで、顔色もすっかり健康に戻っていた。彼は彩花の姿を認めたようで、うんうんと頷きながら口を開いてくる。

「華京堂四代目か……お前の店の落雁、せめてもう一度食べたかった」

「源さあん!」

 わあっと、彩花が泣き崩れる。冗談を言えるこの調子だと老人は大丈夫そうだが、逆に彩花の方が心配だ。どうしたものかと響介が彼女の背を叩いていると、引戸が開けられる気配がした。カーテンをめくって顔を出したのは、黒縁眼鏡をかけた神経質そうな医師の姿だ。彼はこちらの様子を見て、どこか呆れたように肩を落とす。

「またですか、増田さん……お歳を考えて下さいよ、ただでさえ血圧高いんですから、そのうちブチッと行きますよ」

 ブチッと。と繰り返しながら、医師は自分のこめかみの辺りを示した。この様子だと、どうやら常連らしい。老人は医師の姿を認めるなり、いきなり上半身の力だけで起き上がった。先程までの様子が嘘であったかのように、ふんと鼻を鳴らす。

「なに、もう平気だ。それよりも大東先生、家には連絡してないだろうな」

「馬鹿な事を言わないで下さい。公民館の一之瀬さんが、既にご自宅には連絡済みだそうですよ……お孫さんしかいらっしゃらなかったようですけどね」

「何、吹子がいただと? まだあいつは部活をサボっとるのか、けしからん、ここに呼べ! 今日という今日は許さん!」

「ですから、自分で血圧上げるのは止めて下さい増田さん。鎮静剤打ちますよ」

 いっそ無慈悲なほど冷静な医師の声が、逆に唯一の良心に思える。ようやく落ち着いたらしい老人は、深々とした息をついた。備え付けの丸椅子に座って顔を覆っている彩花に視線を向け、やんわりと首を振る。

「心配かけたな、華京堂四代目……それで、そちらの青年は?」

 当然といえば当然の疑問と共に、老人の視線がこちらに向けられる。さて、なんと言ったらいいものかと響介が固まっていると、彩花が立っていた響介のワイシャツを引っ張るようにして声を上げる。

「ドラフィル待望の、超一流ヴァイオリニストですよ! だから源さん、こんな所で倒れている場合じゃありません!」

「何だと! こうしちゃおれん、私は竜ヶ坂商店街で会長を務めている、増田源次郎という者だ。いやいや、こんな状態でご挨拶をする事になるなど、実にお恥ずかしい!」

 その言葉に、響介は口を半開きにした。会長という事は、町おこしであるドラフィルの提唱者……あるいは責任者という事か。平身低頭、人生の先達に皺ぐんだ両手を差し出されては無下にするわけにもいかず、両手で彼の握手に応えざるを得ない。齢八十過ぎとは思えない力で握り返され、ずいと顔を近付けられる。

「ドラフィルにコンマスを任せられるヴァイオリニストが来るという話は、昨晩のうちに常任指揮者から聞いていてな。朝から少々張り切ってしまったわけだ。再び、うちの商店街に光が見えてきたぞ!」

「常任指揮者、ですか?」

 素っ頓狂な声を上げる。いつの間に、そんな所にまで話は知れ渡っているのだ。混乱する響介を尻目に盛り上がる源次郎と彩花に水をさしたのは、医師の咳払いだった。

「あのですね、増田さん……いい加減にトランペットは控えて下さいよ。趣味を持たれるのは結構ですが、いかんせん体に負担がかかる楽器ですから」

 その言葉に、しかし源次郎は頑なに首を振った。拳を叩き付け……振り下ろした先には柔らかいシーツしかなかったので、間抜けな音が鳴っただけだったが……唾を飛ばしながら叫ぶ。自分でわざと血圧を上げているようにしか思えない。

「大東先生には分からんのだ! 今のドラフィルには、私の代わりにトランペット首席に座れるような根性のある奏者がおらん!」

「いやいや。私も何度か皆さんの演奏を拝聴しましたけど、増田さんのお隣で吹いてた方も上手だったじゃないですか。世代交代してもよろしいのでは?」

「いかん! 次席の諸岡は、技術はあるが気合がない! 特攻の精神が足らん!」

「はあ、気合ですか……」

 頑固老人の精神論にしか聞こえなかったのだろう。医師は困ったような表情を浮かべ、眼鏡を持ち上げた。どうやら彼らは、同じようなやり取りを何度も繰り返しているらしい。その時だった。

「ちょっとジジイ! どれだけ人に迷惑かけりゃ気が済むのよ!」

 勢いよく、病室に誰かが飛びこんできた。もはや病院内で張り上げる声量ではない。源次郎が相好を険しくし、医師が今までで一番深い溜息をつく。

 瞬間、カーテンを勢いよく開けて来たのは、制服姿の少女だった。根元が黒くなりかけた茶髪に、裾のほつれた短いスカート、制服はわざと着崩しているような印象だ。ただでさえ気の強そうな一重の目を、更に吊り上げている。

「まあまあフーちゃん、落ち着きなって。源さん、大丈夫か?」

 と、その腕を掴んだのは、少女に続くようにして病室に入ってきた七緒だった。どうやら先程の言葉通り、源次郎の家族を連れてきたらしい。という事は、この不躾な女子高生は孫という事だろうか。少女は先程までの源次郎と同じように唾を飛ばしながら、甲高い声で喚き続けている。

「放してよ七緒! 危険な状態とか言って、いつも通りにピンピンしてるじゃん!」

「吹子! 年長者に対してその言葉遣いは何だ、謝りなさい!」

「……増田さん、お孫さん共々落ち着いて」

 とにかくこの短時間で増田家が血圧の高い一族だという事は分かったが、だからといって事態を収拾出来るわけではない。医師の言葉も虚しく、祖父と孫の仁義なき応酬は更に続く。

「大体お前、どうしてこの時間に家にいる! 夏休みから吹奏楽部に戻ると言っていたのはどうしたんだ!」

「うるさいな、何ともないなら、あたしは帰るからね!」

 捨て台詞のような一言だけを残して、本当に少女は踵を返してしまった。と、丸椅子に座っていた彩花が慌てて立ち上がり、その背を引きとめようとする。

「ああっ、待ってフーちゃん!」

 だが、大股で病室を出て行く少女は足を止めようとはしなかった。瞬間、先程と同じように彩花の体がふらつき、響介は慌ててその体を支えた。横に立っていた医師は、どこか慣れた事のように呟いてくる。

「ああもう、畑山さんはしばらく別室で休んで下さい。あなたは過労ですよ」

 相変わらず、この医師は冷静だ。過労という言葉が気にはなったが、医師は静かにしていて下さいとだけこちらに言い残し、彩花を支えて部屋から出て行こうとする。

「それから一之瀬さん……外科の加賀山先生が、リハビリにちゃんと来て下さいって言ってましたよ。色々と忙しいのは分かりますが、サボらないで下さい」

「わざわざ病院に来なくても、毎日がリハビリみたいなもんだよ。この足で、私がどれだけ町中を動き回ってると思ってんだ」

 すれ違いざま、医師は七緒にもそう声をかけてくる。もしかしたら、この小さな町に病院はここしかないのかもしれないと思いながら、ようやく響介は息をついた。何も解決などしていないが、先程までの空気に比べれば数段ましだ。

 源次郎も、とりあえずは落ち着いたのだろう。乱れた着物の襟をぴしりと整えながら、深々とした息と共に懊悩の表情を浮かべる。

「ううむ、見苦しい所を見せたな、コンマス」

 彼は鼈甲縁の眼鏡をかけ直すと、細い腕を組んだ。響介が、吹子が出て行った病室の出口を見ていた事に気付いたのだろう。軽く首を振りながら続けてくる。

「孫の吹子が失礼な態度を取ってしまい、すまなかった。あいつは高校二年なのだが、反抗期というやつなのか……急にあんな調子になってしまってなあ。特に半年ぐらい前からは所属していた吹奏楽部にも顔を出さず、トランペットに触れる事すらなくなってしまった。私には、その理由がさっぱり分からんのだ」

「……お孫さんもトランペットを?」

「そうだ。吹子は、私が小さい頃から英才教育を施してきたんだからな。毎日一緒に腹筋をしたり、マラソンをしたり、河原で叫んだり……」

 独白のような響介の問いかけに、源次郎は遠い目をする。そこだけを聞くと到底音楽教育には思えないが、トランペットとはつまり、そういう楽器なのだ。体力と精神力が、他の楽器以上に必須条件となってくる。

「吹子が小学校のブラスバンドで初めてソロを吹いた時は、それは町内中の皆が感動して涙ながらに拍手を送ったものだ。その時のビデオは、増田家の家宝として代々受け継いでいく所存で……」

 このまま老人特有の昔話に突入かと思いきや、彼の視線が不意に後方の七緒に向けられた。つられて響介も、後方で車椅子に座る女を一瞥する。

「やはり私の代わりにトランペット首席を務められるのは、吹子しかいないと思うのだ。吹子がドラフィルに入ってくれるようなら、私も安心して隠居出来るんだがな」

 その言葉は、どうやら七緒に対して放たれたものらしかった。もしかしたら、彼女はこの老人と孫娘の置かれた状況をよく知っているのかもしれない。だが、思わず響介は源次郎の顔を覗きこんで反論する。

「いや……あの若さの女の子に、トランペットの首席は少々酷じゃないでしょうか。学校の部活ならともかく、アマオケですよね?」

「おいおい響介、決め付けはよくねえな。そんな事、男女同権論者団体代表のオバちゃんに聞かれてみろ。夜道でお前の後頭部めがけて、何か鋭いものが飛んできても知らねえからな」

 だが、後方から聞こえてきたのは、相変わらず容赦ない七緒の言葉だった。まったくもって、先ほどから不躾な女性だ。嘆息しながら、諭すように呟く。

「君はオーケストラを分かってるのか? トランペットの首席に必要な体力と精神力は相当なものだ、他に年上の男性奏者がいるなら、任せた方が……」

「黙れ黙れ。ほらよ、源さん」

 響介の言葉を遮るように、七緒はカーテンの外側に置いておいたらしい黒いケースに手を伸ばした。それを差し出すと、源次郎はそれが何であるかをすぐに理解したようだった。おそらく彼にとっては、何よりも見慣れたものだろう。

「落とした時か、元々かは分からねえけど、二番管にへこみがあった。後は、目立った傷はないから安心しな」

 老人は、シーツの上でケースの止め具を開けた。中に収められていたのは、病室の蛍光灯を反射させるB♭管トランペットだ。源次郎は子供でも見るかのように相好を崩し、そして静かに蓋を閉じた。

「……すまんな、七緒ちゃん。だが見つかったら、大東先生にまた怒られるのでな。公民館で預かっておいてくれんか」

 そう言って、ケースを戻そうとしてくる。響介は、七緒の代わりにそれを受け取った。源次郎が、こちらを見つめたまま問うてくる。

「コンマス、そういえば失礼な事に、まだお名前を拝聴していなかったな」

「……藤間響介です」

 そう答えると、源次郎は大きく息をついた。流石に疲れたのだろう。忘れかけていたが、そもそも卒倒して病院に運びこまれて時間が経っていないのだ。

「源さん、トランペットは公民館で保管しておくから。とりあえず、ゆっくり休め」

 七緒の言葉を機に、響介も我に返ったように源次郎に向かって顔を下げた。車椅子を回転させる七緒を慌てて追いかけ、カーテンを閉める。軽快に進んでいく小さな背を見つめながら、ますます彼女の事がよく分からなくなってくる。

 あの状況下で、普通の人間ならばトランペットを拾い上げてここに持ってくる事はない……彼女はしっかりと、楽器と奏者を一体として考えている。単にオーケストラの支援をしているだけの公民館職員の行動ではないだろう。

 そこで不安になったのは、自分のランドルフィの事だった。源次郎と彩花を抱えてなおヴァイオリンケースを持ち歩けるほど器用ではなく、タクシーに乗る前に泣く泣く根津に預けてきたのだ……金庫に入れておいてくれと言い残して。

 根津は面食らっていたが、あのケースには八百万の現金が入っているようなものだ。ただでさえ『貸与』という名目で叔父から預かっているのだから、紛失など考えたくもない。

「おい、響介。源さんは、単なる爺バカじゃねえぞ。フーちゃんのトランペットは源さん仕込みだ。聞いてみりゃ分かるが、立派なもんさ」

 響介が問いを考えあぐねている間に、七緒は口を開いた。と、何かを思い付いたかのようにいきなり車輪を止める。思わずつんのめると、七緒はぐるりと振り返った。

「……よし、これをお前のコンマス採用試験にするか」

 わずかに真剣味を帯びた表情に口をつぐむ。だが、胸中でその言葉を反芻し、響介は間抜けな声を上げた。

「ちょっと待て、どういう事だ?」

「音大出なら、承知の事だろうが。オーケストラにおけるコンサートマスターに必要なのは、あれだけの人数を纏め上げるリーダーシップだぜ? 奏者一人一人に気を配らなきゃならねえ。常に最高の演奏を聴衆に提供するため、円滑な人間関係を築き上げる……ぶっちゃけアレだ、困っているメンバーのお悩み解決係だ」

 そんな事は知っている……お悩み解決係というのは初耳だが。七緒はこちらの内心など気にもせず、何かを結論付けるかのように指先を向けてきた。

「源さんを未練なく隠居させてやるために、フーちゃんをどうにかドラフィルのトランペット首席に座らせるんだ。じゃ、頑張れよ」

 唐突な言葉に、響介は声を詰まらせる。言うべき事は終わったとでもいうように再び病棟の廊下を進み始める七緒を慌てて追いかけながら、悲痛な声を上げる。

「採用試験って……コンマスを判断するのはオーケストラじゃないか」

「メンバー全員が許しても、私が許さん。実質、あのオケの支配者は私だからな」

 言いながら、芝居じみた悪役笑いを返してくる。未だに彼女の立ち位置は分からないし、無論のこと冗談なのだろうが、本気に聞こえる所が怖い。そもそも彼女を敵に回した上で、同じ職場で働く自信がない。

「大体、俺は昨日この町に越して来たばかりなんだ。人間関係どころか、地理すら分からない。それが仕事だって事なら拒否しないが、もう少し時間をくれよ!」

「お前って奴は……見た目ヒョロヒョロしてる上に、肝っ玉まで小せえ男だな。しょうがねえ、私もちょっとは手伝ってやるからよ」

 無茶ぶりをしてきた挙句に散々な言いようだが、響介は肩を落とすほかなかった。極端に沸点が高く、人の頼みを断れない……揶揄を込めて『仏』の名を冠された所以だった。単なる優柔不断なのかもしれないが。そう自分自身を諦観しながら、深々と溜息をつく。

「話を聞くに、源次郎さんの孫の……吹子ちゃん? 彼女も半年前まではトランペットを吹いていたんだろ? それを突然止めた理由をはっきりさせろって事か?」

「一言で言えばそういう事だ。まあ、一筋縄ではいかねえだろうけどな」

 七緒はそう言って、不意に鼻歌などを歌い始める。気楽な事だと溜息をつきかけた所で、響介はその正確なメロディに息を呑んだ。

 それは、『展覧会の絵』第一プロムナードのトランペット・ソロだ……今朝方、あの老人が吹いていた勇壮な旋律。常に指揮者と聴衆に真っ直ぐに向けられたベルから放たれる、明瞭で華やかな音。

 その残響を噛み締めるようにして、七緒はゆっくりと呟いた。響介が手にした黒いハードケースに、視線を向けながら。

「それは……帝王の楽器だからな」