頬杖を突きつつ、視線を窓の外へ。頬に感じる、汗ばんだ掌の感触が不快だった。

「あっちー……」

 授業中にも関わらず全開にされている窓は、これっぽちだって教室の中に涼しさを運んできてくれはしない。流れ込んでくるのは、強かな日差しがぐつぐつに煮立たせた、ひどく粘っこい空気だけだ。そんな空気に全身を包まれながらじゃあ、教室の前の方で淡々と紡がれる先生の話だって、到底耳に入ってくるはずもなかった。

「本当、あっついねー。くらくらしちゃうよ、ぼくは」

 後ろの席に座る勇夢が、小声で囁いた。

「今年の暑さは、どう考えても異常だよ。もしかしたら、壁の高さが何か悪さしてるのかもしれない」

「ああ、ありそうだな、それ……」

 同じくらいの声量で返答しつつ、俺は視線を窓の外の街並みから、少し上へ――空へと移す。清々しい、抜けるような青を湛えた空は、地上の地獄なんてそ知らぬ顔で、やけに涼しげに広がっている。

「空の上なら、ちょっとは涼しかったりすんのかね」

「可能性は、低くないね。そんなに気になるなら、後で自分で確かめてみると良いよ――そう、空と言えばだよ、駆。朝のニュースで、またやってたよ。遠方銀河の……」

「あー、悪い。今朝はニュース観てない」

 背後の勇夢へ向け、頬にあててない方の手をひらひらと振る。

「そうなんだ。寝坊でもしたの?」

「うんにゃ。ちょっとやることが、さ」

「へえ、珍しいね」

「あと、悪いけどそのニュース、多分興味ない」

「――まあ、だろうと思ったよ」背後にて、溜め息が一つ。「ちゃんと、こういうニュースにも興味を持った方が良いと思うけどね、ぼくは。将来のためにさ」

「仕方ねえじゃんか。俺には今、宇宙の果てとかについて考えてる余裕なんてないんだから」言いつつ、俺は視線を再び、窓の向こうの街並みへと落とす。その街並みの更に奥へ視線を滑らせながら、言葉を継いだ。「お前もわかってるだろ。今の俺にとって大事なのは――」

「――板書と、私の授業だ」

 不意に、頭上から降ってくる声。

 恐る恐る声の方を向くと、そこには――威圧感たっぷりの笑顔を浮かべて、先生が立っていた。あっちゃあ、と背中に被さる声が白々しい。

 教室を見渡せば、ついさっきまで俺と同じく暑さに放心状態になっていたはずのクラスの面々も、一様にこちらを見ている。

「決まっているよな、佐久間。まさかお前も、直に来る貴重な夏休みを補習で潰したくはあるまい」

「は、はははは。当たり前じゃないすか、先生」我ながらぎこちない笑い。「ちゃあんと聴いてましたよ? 授業。ちょっとだけ、よそ見してただけじゃないすか。はは、ははははは」

「ふむ、成程。そいつは悪いことをした」真面目くさった表情で、先生は言う。「では、佐久間。丁度お前の順番だ、答えろ。あの数式の解答は何だ?」

 先生の指し示す先、黒板を俺は見る。濃い緑を背景に綴られているのは、一連の数式だ。やけに複雑そうな等式が、しかも幾つも並んでいる。その上、その中には見たこともないような記号も混じっていて――あんな記号、習ったっけか?

 ともあれ、結論は一つだ。

「先生」

「何だ?」

「俺の常識では、あれを数式とは呼びません。呪文と呼びます」

「佐久間、放課後に職員室に来い」

「鬼だ! 呪文が鬼を召喚した!」

 慌てて、俺は後ろの席でのほほんとしている人影を指差す。

「い、勇夢だってよそ見してたじゃないすか! 何で俺だけ……」

「では、榊。あの解答は?」

「サインx」

「よろしい。佐久間、放課後待っているぞ」

 途端に、教室に広がる笑い声。羞恥に頬を染めつつ、教卓の方へと戻る先生の背中から視線を移すと、笑うクラスメイトの向こうに、呆れかえった夏月の顔が見えた。俺が見つけたことに気付いたのか、夏月はゆっくりと、俺にわかるように口を開く。

 ――ま、ぬ、け。

「はい、静まれ。よし、では次の項へと――」

 反論する言葉を持たない俺は、夏月から目を逸らして、再び窓の外を見る。俺のかいた恥なんて何の影響もなく、空は相変わらずの清々しさだ。

 とまあ、これが俺の日常。

 二〇二九年、夏、札幌。彼女と出逢うまでの、当たり前の日常だった。


     ●


 太陽に暖められた空気が、ありったけ沈殿したような粘ついた猛暑。どこか遠い宇宙の果てにて、星が消えたとかいう微妙なニュース。退屈で仕方ない学校の授業、進路相談。日々変わっていく街並み――そんな色々がひしめいて、みんながそれらに一喜一憂していた夏の中で、俺と俺の仲間たちが見つめていたのは、いつだってこの街の外側だった。

『――ご覧ください、皆様。この威容を。あれが、現在の札幌の姿です』

 子供の頃に一度だけ観た、この街についてのニュース映像を、俺は今でもおぼろげに憶えている。この街の外側から、この街を映した映像。斜め上空から見たこの街の外観は、高い壁に囲われた、箱庭みたいなそれだった。

 壁――と言ったけれど、別にこれは何の比喩でもない。本物の、まさに「壁」としか表現のしようのない巨大な建造物によって、俺らの住む、札幌の街はすっかり囲われているという、文字通りの意味だ。

 俺らの街の中からは、三百六十度、どの方向の地平にだって、それは見える。元々この街を囲んでいた山々の微かに霞んだ姿を隠すような、無機質な灰色の壁。その色合いは、あのニュース映像で俺らの街を囲んでいたものと、確かに同じ色合いだ。

『この巨大な建造物が、果たして何のために造られているのか。政府の掲げる復興計画、「恒常都市構想」に記載された説明は、到底充分なものではありません。今後、一層の取材が待たれます』

 そんなことを言っていたような気もするけれど――なぜかその後、この街についてのニュースはめっきり流れなくなった。インターネットで調べても、情報は何も出てこない。だから、あの壁のあらましについての俺の知識は、あの一回だけのニュースと、大人たちの昔話くらいのものだった。

 それによると、どうやら壁は、昔からこの街にあった訳じゃあないらしい。

 俺の生まれる少し前に、この辺りの地方を襲った大きな地震。それが起こるより前には、この街に壁なんて存在していなかった――と、俺の周りの大人たちは口を揃えて言う。

 壁のないこの街を知らない俺にとって、それはひどく現実感のない話だけれど。

「過去っていうのはね、駆。結局のところ虚構なんだよ。それが自分の生まれる前の話なら、尚更さ」

 やたらと理屈っぽい俺の親友、榊勇夢は、俺のそういった感想を聞くと、いつもそんなことを言う。数学の問題に即答するのと、まるっきり同じ気楽さで。

 俺と同じ中学三年生のくせに、やけに難しい言葉を使いたがるそいつの言うことは、正直俺にはちょっと理解しきれない。けれどまあ、あいつの考えることは、結局のところ、俺と同じなんだろうな。

 つまりはきっと、こういうことだ。

 俺らにとって大切なものは、現在や過去じゃあないんだということ。

 その大切なものというのは――あの壁の、外側にこそ存在するんだということ。

 壁に囲われた俺らの街の、その外側に。

 とまあ、その日の放課後、立入禁止である学校の屋上で、フェンスに背中を預けて天を仰ぐ俺が考えていたのは、大体そんな感じのことだった。

 視界いっぱいに広がる空は相変わらずの抜けるような色味で、気持ち良さに思わず口笛なんかを吹いてしまう。その音色に被さるように、のんびりとした声が視界の外から響いた。

「――ああ、やっぱりここに居た」

 視線だけを動かして、声の方を見遣る。屋上の入り口から、歩いてくる人影があった。俺より頭二つ分は背の低い、小柄なシルエット。小脇に、何かを抱えている。僅かな逆光に浮かび上がるそれは、間違いようもなく勇夢のものだ。

「探しちゃったよ。どこか行く時は、ちゃんと言ってよね。折角待っていてあげたのに、ぼくの立場がないじゃない」

「ああ、悪い悪い。すっかり忘れてた」

「相変わらず、駆は無神経なんだから。酷いなあ、ぼくは哀しいよ」喋りながら、勇夢は俺の隣の地面に、フェンスを背にして腰を下ろす。人ひとり分の体重を加えられて、フェンスが軋んだ。「とうさ――先生の話は、もう終わったの?」

「ああ、ついさっきな。酷い目に遭ったぜ」

「授業中に、雑談なんかしてるからだよ。自業自得だね」

「お前が言うな。さっきの裏切りは忘れてねえぞ」

「あははは、ごめんごめん」

 おもむろに、脇に抱えていた学生鞄からノートパソコンを取り出し、膝に載せる勇夢。俺には目もくれずにパソコンを開き、キーを叩き始めつつ、のんびりと言う。

「で、どんな話をされたの? 悩みがあるなら、聞いてあげないこともないけど?」

「進路についてとか、ちょこちょこと、って感じだな――まあ、どうでもいいじゃんか、そんなのは。それよりもだ、勇夢。大ニュースがあるんだけど、聞けよ」

 パソコンから顔を上げ、勇夢はこちらを見上げる。そこそこ整った顔立ちの中、僅かに異彩を放つ眠たげな眼が、眼鏡の奥から訝しげな視線を投げかけてきた。

「大ニュース? 何それ?」

「気になるか?」自慢げに鼻を鳴らしつつ、俺は勇夢とは反対側の足元へと置いた学生鞄から、あるものを取り出した。「じゃじゃーん! やってやったぜ、俺は!」

 俺が掲げた右手の先で、屋上の風にひらひらと羽ばたくのは――数枚の紙。

 一見してただの紙切れであるそれを見て、しかし勇夢は目を見開く。あからさまに希望に輝くその眼は、それでも寝ぼけ眼のままだった。器用なことだ。

「それって、まさか」

「そのまさかだ」自然、俺の口調は自慢げなそれになる。「俺らの明るい未来へのフリーパス、ってところだな」

「やるじゃない、駆!」

 色を変えて、勇夢は俺の手から紙を受け取る。

「ったく、苦労したよ。あの人ら、出勤する日の朝にならなきゃ書類を出してこないからな。普段どこに仕舞ってるかは全然教えないし」

「それはお疲れ様だね。ところでさ、駆」キーボードの上に置いた紙に目を通しつつ、勇夢は言う。「この、磁石にくっ付いた砂鉄が更に絡まったような字は……」

「機械で写し取ったりしたら、履歴でばれるじゃんか」

「ちょっとした暗号レベルなんだけど」

「解いてみせろ。お前ならできる。天才なんだろ?」

 そりゃまあそうだけどさ、とぼやきつつ、手書きの文字群――急いで写したんだ。少しくらい汚いのは仕方ない――を読んでいく勇夢。こいつは、自分を褒める他人の言葉を否定したりはしない。自身の才能に対する、絶対なる自信。そして、それが全然間違った自信じゃないことを、俺は良く知っていた。

「今月の切り替えは……明日から明後日にかけての深夜か。ちょっと近すぎるね」

「やっぱり、きついか?」

「流石にね。〈SIP〉の教育もあるし」

「まだ出来ないのか? 航行システムは」

「〈SIP〉」メモから顔を上げた勇夢が俺に向ける視線は、不満げなそれだ。「ちゃんと呼んでよ。厳密には航行システムじゃあないんだし」

「知るかっての。そういうことはな、もう少しまともなネーミングをしてから言うもんだ」

「もう、わかっていないよね、駆は。哀しいなあ、ぼくは切ないよ」言いつつ、勇夢は凄まじい速さでパソコンのキーを叩き始める。眼鏡の奥の寝ぼけ眼が、画面からの照り返しを受けて微かに歪む。「出来ていない、ってまでではないんだけどね。前回の航行記録との対話も完了して、航行について、〈SIP〉は独自の論理パターンを九割がた生成しているから」

 ほら、とパソコンの画面をこちらに向ける勇夢。そこにぎっしりと詰まった文字の羅列は、俺からすれば俺の肉筆なんかよりもずっと暗号めいている。

「でも、実用化するなら、もう少しくらいは信頼性を上げなきゃいけない。特に今回のこれは、失敗は絶対に許されないんだしさ」

「そういうもんなのか。機体の方は、昨日見た時はいけそうだったんだけどなあ」

「いくらぼくの設計が完璧だって、実際に動かしてみないと、トラブルがないとも限らないからね。あと二、三回の試験飛行は欲しいところかな」

「完璧とか、自分で言うか?」

「だって事実だもの」悪びれもせず、軽く笑う。「他でもないこのぼくが、大切な仲間のために設計した作品なんだから、そこは信じて貰わなくちゃ」

「ちぇーっ。わかったよ、明日は我慢してやるさ」肩を竦めつつ、俺は言う。元々、勇夢の設計を疑ってなんかいなかった。「じゃあ――来月、夏休みの終わりごろか。計画の実行は」

「そうだね。ここまで待ったんだ、一か月くらいどうってことないでしょ?」

 はやる気持ちはわかるけどさ、と勇夢。まあな、とそれに応えて、少し考えた後に俺は言う。

「――となれば、早速試験飛行だ。今日も飛ばそうぜ。丁度晴れてることだし」

「何だ、結局待ちきれないんじゃないか」勇夢の声色は、けれどそれほど嫌そうじゃない。「別に構わないけど――じゃあ、夏月を待ってからにしようよ。多分、もうすぐ終わるしさ。部活」

「うん? 早くないか? 終わらないだろ、まだ」

「大会が近いんだよ」ああそうか、と納得する俺へ、勇夢は溜め息を一つ。「あのさ、そのくらい憶えておいてあげないと、いくらなんでも夏月だって泣いちゃうよ?」

「あいつが?」

 呆れたような勇夢の言葉に、俺は思い浮かべる。相原夏月。気が強くて、弓を引く姿がちょっとやり過ぎなくらいに様になっている幼馴染みのことを。いつだって勝気に俺らに文句を言ってくる、お節介な性格の少女。

 あいつが泣く? あの夏月が?

「ははっ、それはちょっと見てみたいかもなあ」

 そんな俺を見て、勇夢はもう一度深い溜め息。

「夏月も苦労するなあ……」

「そう言うなよ。ちゃんと待つからさ。んじゃあ、あいつが来たら、〈リバティ〉のところに行くか! 最後の一押しに突入だ!」

 そうだね、と笑顔で頷いて、勇夢はパソコンに視線を戻す。午後の風の吹き抜ける屋上に、僅かな沈黙がおりた。

 かたかたかた、というタイプ音だけが、乾いた空気を虚しく満たす。

 俺は少しだけ首を捻って、フェンスの向こうに広がる札幌の街並みを見据える。

 気がついたら、俺は呟いていた。

「――もうすぐだな」

 テレビなどで見る外の街並みとは大違いの、殺伐とした地味な街並み。立ち並ぶ建物群は全体的に背丈が低く、この学校より高い建物ですらちょっと見当たらない。ぽつぽつと空いた隙間に居座る工事現場は、この街の未完成さを象徴しているみたいだ。そして、そんな味気のないものたちが折り重なった街並みの向こうに広がるのは――灰色の壁だ。

 囲った内側と外側の間で、あらゆるもの――物資、人員、そして情報でさえも――の行き来を、徹底的に管理する檻。

 それの向こうにある未来が、もう、手を伸ばせば届くところまできている。そんな実感に、俺の胸は自分でも驚くくらいに高鳴っていた。

「もうすぐで、行けるんだ。この街からおさらばして――あの壁の向こうに」

 一か月後にはこの目に映っているだろう景色を想像しつつ、空を見上げる。気分は最高だ。一層体重をかけられたフェンスが、からかうように軋みを上げた。

 日光に暖められた金属の感触が、背中に心地良い。視界を支配する青色は清々しく透き通って、僅かな砂埃がきらきらと昇っていくのがよく見えた。


「――ん?」


 と。

 そこで、俺は気付く。俺の斜め上、数メートルくらい上空に、赤みがかった靄のようなものが揺らめいていることに。何だ、あれ。俺はフェンスから背中を離し、ゆっくりと靄の下へと歩いていく。

 近付きながら目を凝らしてみると、どうやら靄のように見えたそれは、絶え間なく強弱を繰り返す光の塊らしい。最初は薄く広がっていた光は、時間が経つにつれて一点に収束していくようだった。勇夢もその光に気付いたようで、パソコンを傍らに置いて不思議そうに立ち上がり、やはり光の下へと歩き出す。

 宙に浮く光は収束とともにどんどんと強さを増して、俺と勇夢が真下に辿り着いた頃には、屋上を一面に赤く染め上げる、太陽さながらの塊になっていた。

「何? あれ――新手のスモッグか何か?」

 眩しさに目を細めながら、勇夢が独り言のように言った。俺は応えない。なぜだか、真上に輝く光から目を逸らすことが、どうしてもできなかった。瞬きすらも、してはいけないような気がした。鮮やかな、それでいてどこか優しい、この世のものとは思えないような赤い灯。風に舞う砂の一粒一粒が、温かな赤に煌めいて、星屑みたいに綺麗だ。

 どれだけの間、そうして見つめていただろう。

 何も言えずに佇む俺らの上で、やがて光は急速に輝きを増して、そして――

「――ッ!」

 閃光。

 一瞬爆発と勘違いするくらいの、急激な発光。その光はあまりに眩しくて、俺の視界は濃厚なノイズに満たされる。それでも、俺は目を逸らさない。だから、それまで赤い塊が存在していた場所に、光の代わりに何かが現れたことを、かろうじて確認することができた。

 不思議にしなやかな動きで、その「何か」は俺らのもとへと落ちてくる。やけに緩慢に感じるその落下を、おぼろげにしかものを映さない瞳で見つめる。良く見えないまま、スローモーションの世界で、両腕を差し出した。同じように差し出されたらしい勇夢の細腕と、俺の腕が重なり合う。

 そこで、スローモーションは終了。息つく暇もなく、両腕に衝撃が降ってきた。

 思わず、尻餅。強かに打ちつけた尻の痛みに、訪れた衝撃の大きさを知る。

 重みとともに腕に圧し掛かる感触は、やけに柔らかいそれだ。

 鮮明さを取り戻し始めた視界に、正面にいた勇夢の顔が映る。

 勇夢は、何だかとても奇妙な表情をしていた。驚いたような、困ったような、けれどどこか嬉しいような。まるで固定されたように、瞳を俺らの手元に向けながら。

 ゆっくりと、俺も視線を手元へ落とす。

「……」

「……」

 思考停止。


 ――そこには、一人の少女が、いた。


 小柄な、俺らと同じ歳くらいの少女が、俺らの腕に仰向けに身体を預けている。どこか濡れたような、白みがかった銀色の髪の毛を持つ少女。さっきまでの鮮やかな光にも、負けないくらいに印象的なその色合い。肌もとても白くて、全体的に、顔の造形は可愛い。特に、小動物のような小ぶりな瞼が愛らしかった。その瞼は、気を失っているのか、閉じられたまま寝息に合わせて微かに上下している。

 微かに、甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 それは、少女だった。どこからどう見ても、少女だった。

 ええと、だからつまり――努めて冷静に、俺は考える。俺は空から落ちてきた「何か」をこの腕で受け止めたはずで、でも今腕の中にいるのは女の子で、しかも結構可愛い女の子で、ということは空から落ちてきたのはこの女の子ということになる訳で、しかもさっきから腕に感じているこのやけに柔らかい感触は、つまり――

 視線を勇夢へと戻す。勇夢の浮かべている奇妙な表情の正体を、俺はようやく理解した。全く同じ表情で、俺と勇夢は顔を見合わせる。

 ――どうなっているのさ、これ?

 勇夢が視線で訴えてきた。

 ――どうなってるんだよ、これ?

 同じように、俺も視線で返す。

「――どうなってんのよ、それ……」

 低く流れてきた声に、俺と勇夢は急いで振り向く。

 開け放たれた屋上の入り口に、見慣れた影があった。ひどく細身の、制服に身を包んだ女子。右手には学生鞄を持ち、左肩には紫色の細長い弓袋をかけている。夏月だ。夏月が立っていた。立ったまま、こちらをじいっと見ていた。意識のない少女を抱えながら、笑顔ともとれる表情で顔を見合わせている、俺らを見ていた。

 夏月の手から、学生鞄がどさりと落ちる。

「「違うっ!」」

 俺と勇夢が、同時に叫ぶ。名誉の全てをかけたその叫びが通じたのか、腕の中の少女は「んっ……」と身じろぎをした。慌てて、俺は視線を手元へと戻す。

 少女の瞼が、ゆっくりと開かれる。

 虚ろな少女の瞳が、俺の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「えええと……あのう……えっ? これ……君って……」

 独り言のように呟いて、少女は俺、勇夢、周囲の順に、ゆっくりと見渡す。そうして再び、今度は正気の戻った瞳で俺を見た。その瞳は、どこまでも真っ直ぐで、奥には不思議な光が揺れていて――一瞬、俺は不覚にも見惚れてしまう。

 そして、次の瞬間。

「あ、あああああああああああああああっ!」

 いきなり大きな悲鳴を上げたかと思うと、少女は急いで俺らの腕から身を起こした。

「ごっ、ごごごめんなさいっ! 違うの! これはもう全っ然違うのっ! そういうことじゃあなくてっ! ってどういうことなのかは話せば長くなるんだけども! でも本当に違うのっ!」

 顔を真っ赤に染め上げて、腕を忙しなく振り回しながら、まくしたてる少女。話すたびに踊るセミロングの髪が、この場に似合わずやけに無邪気だ。

 唖然としたまま固まる俺と勇夢、そして屋上の入り口に立ったままの夏月に向けて、彼女は言葉を紡ぎ続ける。

「えっと、何て言えばいいのか――ほ、ほら、夢? とか、幻? みたいな! 今君たちが見たのは、そういうの! っていうかあたしもそれ!」

 大慌てを絵に描いたような、少女の身振り手振り。沈黙する俺ら。

 何も言える訳がない。

「あー……うー……」そんな俺らの沈黙をどう解釈したのか、少女は不意に肩を落とす。「駄目かあ。もう見られちゃってるし」

 深く溜め息を吐いて、彼女は再び声のトーンを上げる。

「よーし、自己紹介! 自己紹介をしちゃおう! 本当はこういうの、あんまり良くないかもなんだけど――これはもうしょうがないよね、うん。緊急避難ってやつだよ」

 身体についた砂埃を軽くはらって、彼女は姿勢を正す。

 そうして、訳がわからないでいる俺らに、少女は満面の笑みを向ける。ちょっと反則なくらいに魅力的な、それは笑顔だった。

 澄み切った青空に、少女の快活な声が響く。


「――あたし、こよみ! 未来から来たの、よろしくね!」


 これが、彼女と俺らの出逢いだった。


     2


「うっわあ、凄おい! これが電車なんだあ! わっ、わっ、揺れる揺れる! 感動だなあ!」

 夕焼けに染まる電車内に、少女――こよみの無邪気な声が流れる。

 学校を出て近くの駅へ行き、乗り込んだ電車の中。窓の外を見ながら、大はしゃぎしているこよみ。その斜め向かいの席で、勇夢は隣に座る俺へと言葉を紡いだ。

「そりゃあ、ぼくだってそんな話は、ちょっと信じられないよ。普通に考えれば、あの娘――こよみの虚言だっていう可能性が一番現実的だと、ぼくも思う」

 勇夢の声は、夏月と一緒に斜め前に座っているこよみに聞こえないよう、押し殺されたそれだ。そんな勇夢の囁きに、俺はだよなあ、と同じく囁きで応じる。

 未来から来たの、とこよみは言った。

 その言葉を聞いた時に、俺がまず何を考えたかといえば、それはもう決まっている。

 ――この娘、頭おかしいんじゃないのか?

 勿論、それを直接口に出したりは、流石にしなかったけれど。