発車メロディが鳴り始めたのに気付き、能見啓介は更に走る速度を上げた。日頃の運動不足が祟ってさっきから脇腹がきりきり痛む。

 人混みをすり抜けながら、目的の新宿駅十番ホームへ昇る階段の下まで到達。

『能見くん、急いで! 発車しちゃうよおっ!』

 耳に当てた携帯の向こうから聞こえてくる女の子の声は、焦りのせいで上擦っている。

 階段を一段抜かしで駆け上がり、ホームに出たところで発車ベルが鳴り終わった。車体に山吹色のラインが入った特急列車の乗車口から半分身を乗り出して、扉を押さえながら手招きをしている彼女の姿を見つけると、そこ目掛けて一目散に駆け込む。

 デッキに身体を入れた直後、背後で勢いよく扉が閉まり、一呼吸置いて小さな振動とともに、ゆっくり列車が動き出す。

 啓介は背中のザックを床の上に降ろすと、呼吸を整えつつ、壁に背中を凭れさせて、ずるずるとその場に座り込んだ。

 全身から汗がどっと吹き出してきて、ジーパンのポケットから取り出したハンカチで額を拭う。

 危なかった。これを逃したら合宿に合流するのは明日になるところだった。

 それにしても、と彼は愕然とする。浪人期間を含む、二年間に及ぶ受験勉強は想像以上に自分から体力を奪っていた。高校時代だったらここまで息が上がることなんてなかったのに。

「もう、能見くんてば! どうしてこんなぎりぎりになっちゃうのかな?」

 両手を腰にやり、眉間に皺を寄せた新垣七海が、くりっとした小犬のような瞳で見下ろしてきた。緩くウェーブのかかった栗色のセミロングの髪が揺れ、ふわりと甘い匂いが香りたつ。

「ごめん……、ええと、その……、寝坊して……」

「え?」

 彼女は眉間の縦皺を更に濃くし、小さな顔を近付けてくる。

「寝坊……って、あたし、今朝、電話したよね? そのときは、ちゃんと起きたって、言っていたじゃない」

「うん、それはそうなんだけど。……その後、うっかり二度寝しちゃって、さ……」

 彼女が肩を落とし、はあー、と大きく溜息を吐くと同時に、チュニックの裾がふわりと揺れる。一方の啓介はあまりの気まずさに視線を逸らして釈明。

「会長から出されていた宿題のレポート、全然やっていなかったことに昨日の夜、気付いて……。で、結局、明け方までかかっちゃって」

「連絡くれれば手伝ったのに」

「そんなの、悪いよ。それに相手はあの会長だから、一通りは自分でやらないと、手伝って貰ったことなんてすぐにばれると思う」

 彼女は何か言いたげに口を開いたものの、結局、何も言わずにへの字に曲げて黙り込んでしまった。


 文学部二年生の新垣七海は、啓介の高校時代の同級生で、教室の中ではどちらかというと地味で目立たない子だった。

 それが、この一年、啓介が灰色の浪人生活を送っていた間に、現役で大学に入った彼女の方はすっかり垢抜けてしまい、今年、同じ大学に入学した啓介が再会したときには、最初、誰だかわからなかったくらいだ。

 啓介がこのサークル『明応大学・民間伝承研究会』へ入会したのも、入学直後のオリエンテーション期間中に、彼女から勧誘を受けたのが切っ掛けだった。

 キャンパス内の至る所でサークルの勧誘合戦が繰り広げられている最中、啓介が浪人時代に同じ予備校に通っていた女子の友人と一緒に学食で昼食をとっていたときのこと。

 テーブルの向こうからこちらを見つけた彼女が近付いてきて、まだどこのサークルに入るか決めていないという啓介に、自分のサークルを薦めてきたのだった。

「あのね、あたしのいるサークル、各地のお祭りとかを見学しにいくことを目的にした、旅行サークルみたいなところなの。でね、もし時間があったら説明会だけでもいいから来てくれるとうれしいな?」

 そして、啓介の向かいに座っていた女子学生にも、声をかけた。

「えと……、是非、お友達も一緒に」

 なんでもそのサークルは、七海が三年の専門課程から専攻を希望する分野でもある『民俗学』に興味がある学生が集まっているのだという。

 かつての同級生の頼みだし、まあ説明会だけならいいか、と思ってしまったのが運の尽き。同時に声をかけられた友人の女子学生――弓立桜花と一緒に、軽い気持ちで説明会に出席したのだが、なぜかそのままの流れで飲み会に連れていかれてしまい、やたらと絡んでくる先輩によって、いつの間にか強引に入会を宣言させられていた(なお、途中で帰った弓立は、うまく逃げ果せてしまった)。

 七海は申し訳無さそうな顔で、「先輩、結構強引だから、……ごめんね。もし乗り気じゃなかったらあたしが断っておくから気にしないで」としきりに頭を下げてきたのだが、まあ、そのときは特にこれといって入りたいサークルがあったわけでもないし、大学生らしく勉強会系のところに入るのも悪くはないかな、と漠然と考えていたのだが、今は、内心ちょっと失敗した、と思っている。なぜなら『民間伝承研究会』は、旅行サークルどころではなく、想像していた以上に硬派なサークルだったからだ。


 乗り込んだ車両のデッキで息を整えた後、七海とともに指定席へと移動する。

 ゴールデンウィーク前半ということで座席はほぼ満席。車両の中央付近に見知った顔の研究会メンバー――男性と女性それぞれ二人ずつが座っていた。

 頭を下げながらそそくさと自分の座席に向かったところで、思わず足を止める。

 二人掛けのシートが列車の進行方向に向かって並んでいる中、なぜか自分達の座席だけが反対側を向いていて、女性二人と向かい合うボックス席のような形になっているのだ。

 窓側の座席には、サマーニットにショートパンツを合わせ、髪を肩で切り揃えた小柄な女の子。まるで子猫を思わせるピーナッツ型の瞳で、窓枠に頬杖を突きながら、車窓を流れる景色をじっと眺めている一方で、左手にはポテチの袋が握られ、時折、思い出したようにその中身が口に運ばれる。

 一方、手前の通路側の席には、日本人形のような艶やかな長い黒髪の女性。長めのフレアスカートの上には開いた本が置かれており、カーディガンの袖から覗く細い硝子のような手で静かにページを捲る。合宿なのにあんな重そうな本を持ってきたというのだろうか。

「……能見くん、どうしたの?」

「あ、うん……」

 七海に促されて慌てて席に着こうとしたとき、不意に黒髪の女性が読んでいた本を閉じ、顔を上げた。切れ長の目にまっすぐ見つめられ、啓介の背筋に寒気が走る。

「能見君は、私の前に座ってください」

「は……、はい」

 荷物を網棚に載せると、まるでこれから取り調べを受ける容疑者のように、恐る恐る通路側のシートに腰を下ろす。彼女――文学部の四年生で、『民間伝承研究会』会長である風守楓から静かに伝わってくる迫力に、完全に気圧されてしまっている。

「これは大学生に対して言うことでは無いと思いますが、合宿は団体行動であるということは改めて肝に銘じてください。今後は十分前行動を心掛けていただきたいですね」

「はい、申し訳ありませんでした……」

「それと、先日お出しした宿題ですが、ちゃんとやってきましたか?」

「あ、はい。それはちゃんと!」

 立ち上がって網棚のザックから夜鍋して作ったレポート――『日本民俗学の発展に寄与した五人の学者について』――を取り出そうとしたところを、手で制された。

「では、今から口頭試問を始めます」

「……え?」

 思わず、楓の顔をまじまじと見つめてしまう。一瞬、冗談かと思ったが、彼女の顔は至って真面目だ。勿論、それ以前にとても冗談を言うタイプの人ではないのだけれど。

「内容は教養課程レベルの基本的なものです。真面目にレポートに取り組んでいただいたのなら、心配することはありません」

「は、はあ……」

 隣に座った七海が心配そうな視線を向けてくるのが、いたたまれない。背中を冷たい汗が流れる。

 基本的な出題と言うが、楓の場合、まずその基本とする基準が自分達とは異なっているような気がする。そもそも彼女は研究者志望で、来年は大学院への進学を予定している。学業成績はすこぶる優秀であるばかりか、先月、一度、サークルの飲み会に大学院博士課程の学生や若手講師が来た際には、彼等と対等に議論までしていて、唖然としてしまったほどだ。

 楓は本の上で両手を組むと淡々と言った。

「これから私達は、G県S郡葦加賀村において、十二年に一度、子の年に執り行われる祭礼・祈年祭へ二泊三日の現地調査に赴くわけですが、では、そもそも、『日本民俗学』においてこのフィールドワークが重視されている理由を簡潔に述べてください」

「えっ……、ええっ!?」

 期末試験において選択式の問題が出ると思っていたら、いきなり長文問題を出されたような気分だ。第一、自分はまだ民俗学の定義だってよくわかっていないというのに。

 それでも射貫くような眼差しを向けられている状態では何かを言わなくてはならない。

「そうですね、ええと……。やっぱり現場を自分の目で見ることが大切……、だからですかね?」

「それは学問に限らず、どのようなことでも同じです。もう少し学術的な回答を望みます」

 即座にダメ出しを食らい、啓介は腕組みをしたまま黙り込んでしまう。

 ゴールデンウィークで浮足だった旅客の声で賑わう特急列車の中で、即席の試験会場と化した自分達の席の周りだけがまるで葬式のような重苦しい雰囲気に包まれている。

 やがて、風守楓は長い睫毛を伏せ、微かに溜息を吐いて言った。

「少しヒントを出しましょう。そもそも民俗学とは『歴史の表舞台には登場しない、一般民衆の生活史』を解き明かす学問です。年中行事や冠婚葬祭、彼等の民間信仰、土地に伝わる昔話や伝説、そういったものの調査・研究を通じて、少し大げさに言えば『日本人とは何か』という根源的な問いに答える使命を持っています。

 ここまで言えば、その調査・研究の手段として、フィールドワークが一番重要だとされる理由もすぐにわかるのではないでしょうか?」

 ……残念ながら、ちっともわからない。胃がきりきりと痛む。

 とはいえ、このまま黙っているのもあまりよろしくないわけで、とりあえず回答ではなく、疑問で返すことにした。

「あのう……、一つ質問なんですが、民衆の生活史を知るためならば、その土地に残っている古文書を調べるとかじゃ駄目なんですか?」

「なるほど、良い着眼点ですね」

「え?」

 一瞬、怒られるかと思ったら、彼女は口許を緩め微かな笑みを浮かべたので、拍子抜けしてしまう。

「その点についてはこんなことを考えてみてはいかがでしょう。昔の一般民衆における識字率――つまり、読み書きが出来る人がどの程度いたか? そして、能動的に自分達の生活のあらましを文字にして書き残していた人がどれだけいたか? ……おのずと答えは明らかになりますよね」

「あ……」

「そもそも、歴史学で重要視する古文書などの文献史料は、時の権力者が何らかの政治的意図を持って編纂したものがほとんどです。わかりやすい例で言えば、『古事記』や『日本書紀』が、大和朝廷の正統性を主張するために編まれた側面があり、彼等にとって不都合なことは、内容が書き換えられたり、そもそも書かれなかったりしたことはご存じですよね。そしてまた、彼等は自分達権力者の生活については書き記しましたが、民衆の生活について触れることはあまりありませんでした」

 大学受験のときに日本史を選択したこともあり、啓介もそこらへんのことはなんとなく聞き覚えがあった。

「ですから、ほとんどの場合、民衆の年中行事のあらましなどは、文字ではなく口頭で伝承されてきました。ここ数十年のうちに、それらの伝承が郷土史などの形で文字で書き残されるようになったのも民俗学の成果によるものと言って良いでしょう」

「つまり……、民衆の生活史を調べる民俗学では、文献史料に頼ることなく、実際に現地に足を運び、ものを見て、人の話を聞くフィールドワークが欠かせない、ということですね」

「そういうことです」

 風守楓は満足そうに微笑んだ。ふと、生真面目な顔をしている彼女もいつもこんな風に笑っていれば非の打ち所がない美人なのに、もったいないなあ、などと思ってしまう。

 そのときだった。啓介の真後ろから男の声が聞こえた。

「風守かいちょー! 『ちんぽ祭』の写真、すんげぇ迫力あんの見つけたぜ!」

 振り向くと、法学部三年生の富岡一之が座席の上に立ち上がり、一冊の本のカラーページを開いた状態にして、こちらに見せ付けていた。富岡は茶髪をワックスでツンツンに逆立たせ、首からシルバーのネックレスを下げた、いかにも遊び人といった出で立ちの男だ。

 楓の顔が一瞬にして強張り、七海は「きゃっ」と小さく叫んで、顔を両手で覆う。

 そこに写っていたのは、御輿に載せられた巨大な木彫りの男根。大人の身体よりも一回りも二回りも大きな男根が、祭の半被を着た人達に担がれ、青空に向かって反り返っている。

「ちょっ、ちょっと! こんなところで堂々と広げないっ!」

 顔を真っ赤にした楓が、富岡の手から勢いよく本を取り上げる。

「ええー? そういう反応をするということは、やっぱり会長も内心、エロく思ってたってことじゃないですかー? そこんとこ、実際はどうなんですー?」

 背もたれの上に頬杖を突きながら、意地悪そうな笑みを浮かべる富岡の顔は真っ赤で、既にだいぶアルコールが入っているらしい。

 一方の楓は別の意味で耳まで顔を真っ赤に染めて、

「こ……、これはあくまで、五穀豊穣と子孫繁栄を祈る人々の信仰を集めるご神体ですっ! 決して卑猥なものではありませんが、時と場所を考えて出さないとあらぬ誤解を招きます。加えて、こういうものに好事的な態度で接することは民俗学徒としてあるまじき態度です。反省してくださいっ!」

「会長は怒った顔も可愛いっすねえ」

 富岡が質の悪い酔っ払いのようにへらへら笑った瞬間、隣からぬっとやたらとガタイの大きい男が姿を現し、広げた手で富岡の頭を真上からぐわしと掴んでそのまま押し下げた。刹那、彼のTシャツの下から、上腕二頭筋が一回り大きく膨らんで見えたのは気のせいか。

「会長、すいません。富岡君、さっきからだいぶ飲んでいたんで……」

 太い眉を八の字に曲げ、心底申し訳無さそうに頭を下げる。

 強面ではあるが、その実、気弱で温和な性格の大男は、ラグビーサークルにも所属している人間科学部四年生の大橋俊紀。

「新垣さんも、ごめんね、嫌な思いさせちゃって……」

「あ、いえ、あたしは別に……。ちょっと驚いただけですし……」

「とにかく富岡君は、僕の方で静かにさせておくから」

 そう言って頭を引っ込めてからしばらくした後、背後から、ぐえ、と蛙が潰れるような音が聞こえた。

「全くもう」

 額を右手で覆い、大きな溜息を吐く楓。

「……ふうん。確かに随分、立派」

 楓の隣に座った早池峰雪希が、いつの間にか自分の膝の上で先程の巨大な男根の写真が載ったページを広げていた。

「ちょ……、ちょっと、雪希ちゃん!」

 七海の呼びかけを意に介する様子もなく、顔色一つ変えずに、猫のような瞳でご神体をじっと見つめている。

 そして唐突に淡々とした口調で写真に付けられた解説文を読み上げ始めた。

「『金精様。五月三日~五日にかけて執り行われる葦加賀村の祈年祭において、御輿として担がれるご神体。村の東側の山から切り出された複数の檜の中から、五本が金精様として選ばれる。それぞれ、長さ約五メートル、重さ約二百五十~三百キロ。東の山を出発した後、二日間かけて村を練り歩き、最後に村の中心部にある葦加賀社本宮の境内に建てられ、奉納される』、と。……啓介も、見る?」

 不意に雪希が顔を上げ、啓介に両手で本を差し出してきた。

「えっ、えーと、うん……」

 少し躊躇したが、結局受け取って、急いでページを捲る。

 幸いなことに写真があるのは口絵だけで、後のページはほとんどが活字だった。

 本の表紙を見返すと、タイトルに『葦加賀村の年中行事 ――葦加賀村教育委員会編』とある。村で作られた郷土史らしい。目次のページには、今回、見学に行く祈年祭の他、一年を通してこの村で行われる行事や冠婚葬祭について見出しが立てられている。

 と、七海が眉を寄せて頭を下げた。

「ごめんね。その本、本当は合宿の前に全員に回覧するはずだったんだけど、能見くんと雪希ちゃんには回らなかったみたいで……」

 止めていたのは言わずもがな、富岡だろう。

「大丈夫です。これから急いで読みますから。えーと、早池峰さん、もしあれだったら先にどうぞ」

「……雪希は後でいい。大体、内容はわかっているし」

 雪希は淡々とそう言うと、再び頬杖を突いて窓の外に視線を移した。彼女のことはどうも苦手だ。所属学部は工学部で、啓介と同じ一年生。普段から表情の変化に乏しく、何を考えているのかよくわからない少し不思議な雰囲気の子。

 出会った当初はそのつっけんどんな態度ゆえに嫌われているのかな、と心配していたのだが、そのうち誰に対してもこんな感じだということがわかった。

 楓が咳払いをし、背筋を伸ばして姿勢を正すと、啓介を真正面から見据えて言った。

「とにかく! この祈年祭は、ご神体の形状のユニークさに目を奪われがちではありますが、一方で、三月から五月にかけて日本各地で行われる数多の五穀豊穣を祈る祭礼の中では、儀礼の最後に大地に柱を建てるという点や、五月五日という、本来は田の神を祭る意味合いのあった端午の節句の日に行われるという点で、最も原初的な形式を留めていると言われています。ですから、今回、この祭事をしっかり見学して学んでおくことは、今後、他の祭のフィールドワークに行った際に比較検討出来るなど、大変意義のあることなのですよ」

「は、はい……」

 この様子だと、合宿中、少しでも不真面目な態度を取ったりでもしたら、すぐさま雷が落ちることになりそうだ。思わず胃袋のあたりを手で摩る。

 七海はそんな彼の胸中を知るよしもなく、

「能見くん、一緒に頑張ろうね」

 そう言って、首を微かに傾けながら満面の笑みを浮かべた。

 ……だから、このどこが『旅行サークルみたい』なものなんだよ? ゼミ合宿とほとんど変わらないじゃないか。――という言葉をぐっと飲み込んで、「う、うん……」と、曖昧に笑って見せる。

 結局、このサークルへの入会を決めたのは自分であり、それを彼女のせいにするのは筋違いも甚だしいわけで……。

 そして、七海は何かを思い出したかのように両手を重ね合わせると、

「あ、そうだ。皆さん、そろそろお昼にしませんか? 駅弁、全部違うものにしてみたので、好きなものを選んでください」

 そう言いながら網棚の上から下ろしたキオスクの袋の中から、色とりどりの駅弁を取り出していく。

 全員が弁当を広げたことで、ようやくその場の空気が和やかなものに変わった。ほっとしつつ、啓介は幕の内弁当の卵焼きを口の中に放り込み、ペットボトルのお茶を一口飲むと、窓の外に視線を移した。

 車窓にはいつの間にか水田が広がっていた。田植えを終えたばかりの水田は水をなみなみと湛え、吹き渡る風によって波紋が広がっている。空には刷毛で描いたような雲が広がり、山に向かって白い飛行機雲がまっすぐに伸びている。

 ぼんやりとその風景を眺めているうちに、少し心が軽くなっていくのに気付く。まあ、合宿は合宿で大変かもしれないが、たまにはこうして都会の喧噪から離れるのも悪くないな、と思い直すことにした。

 やがて、規則正しい列車の振動音に混じって、背後の席からは富岡の大きないびきが聞こえ始めた。