スーパーマーケットAでしめじを購入した後、ふとした思いつきでスーパーマーケットBに寄り、しめじがAで売られているものより三十円安く売られているのを見つけてヘコんだ。

 笑わないでくれ。僕だって、こんな些細なことでヘコみたくはなかった。三十円程度の損害をねちねち気にするような、そんなみみっちい男になりたくはなかった。どうしてAでしめじ買っちまったんだ、僕のバカ! 野菜は大抵Bのほうが安いってわかってたのに! どうして! と自分で自分を責めるのは、やるせない。しかし、現実問題として僕は三十円程度の損害が身にしみる経済状況にいるのだった。いや、決して貧窮のどん底にいるわけではない。借金があるわけでもないし、毎月きちんと給料がもらえるまっとうな職に就いている。だが、ゆとりがあるわけでもない。毎月の給料から、家賃、光熱費、通信費などなど「毎月必ず払わなければならないカネ」を差っ引いた額は、心許ない。しかも、そこからさらに食費やら交通費やらを引かなければならないわけで、するってーと、先々のことを考えて多少なりとも貯金をしていきたいとは思いつつも、なかなか、ままならないね……という残念な残高になってしまうのだった。

 衣食住に不足はない。しかし、ファストファッション以外のブランドで全身コーディネイトするのは、ちょっと厳しい。

 文無しというわけではないが、贅沢できるほど潤ってもいない。

 それが今の僕……

 それにしても、しめじはいい。ひとり暮らしにしめじは欠かせない。実に使い勝手のいい食材だ。焼きそば。ラーメン。カレー。ひとり鍋。味噌汁の具。さっと茹でただけでも主菜の付け合わせになる。どんな料理にもマッチし、それでいて他の食材の邪魔をせず、かいがいしく食物繊維と満腹感を提供してくれる。愛いヤツだ、しめじ。調理がお手軽なところもいい。水洗い不要で、石づきだけ切り落として適当にほぐせばいいのだから簡単だ。そうそう、この「ほぐす」という作業がまた楽しいんだ。いいこと尽くめじゃないか。なんと素晴らしい野菜なのだ。……あれ、しめじって野菜だっけ?

 いや、しめじのことはどうでもいい。

 とりあえず、今、僕が憂いているのは、野菜をはじめとして生活必需品の価格が高騰しているってこと。それなのに物欲が刺激される情報ばかりが溢れていて「持たざる者は惨めなり」という価値観が蔓延しているってこと。重労働のわりに安月給で、昇給の見込みもないってこと。貯金がなかなか増えないってこと。政治も福祉も経済もネット社会もなんだか危なっかしくて、明確な理由はないのに漠然と不安になってしまうってこと。ぐちゃぐちゃ言ってるだけで結局何もしてくれない税金泥棒の政治家はみんな死ね! ……いや、「死ね」は言いすぎだな。ごめん。ガキのケンカじゃないんだから「死ね」はイカンよ。「死ね」はナシで。

 そんなことをグダグダ考えながら帰路を歩いていると、携帯電話がメールを受信した。開いてみると、市が配信する防災・防犯情報メールであった。市内で何か事件が起きたり不審者が出没した場合、あるいは、災害や大きな事故などの緊急事態が発生した場合、注意喚起のためのメールが配信される住民向けサービスだ。僕は地域との交流が希薄なので、こういうものを利用して損はなかろうと思い、何年か前に登録した。

 一見平和そうな街でも、やはり犯罪は日夜発生しているらしく、月に二、三回はこのメールが届く。

 今回の配信内容は「○月○日、午後○時頃、○○小学校付近で、帰宅途中の児童が不審な男に声をかけられた」というもの。この前も、これと同じような内容で配信されていたような気がする。まだ捕まっていないのか。男の特徴は「二十歳代、身長百七十センチから百八十センチ位、黒髪、黒っぽいコート、徒歩」ということだが……ううーん、僕と若干かぶるのが嫌な感じだ。あの人ってなんか怪しいよねとあらぬ疑いをかけられぬよう、普段から挙動や身だしなみには気をつけなければ。

 ああー、荒む。心が荒む……

 自分が被害に遭ったわけでもないのになぜかヘコみながら、携帯電話をポケットにしまった。


 それはともかく。

 その夜、実家の母親から電話があった。

 今になって思うに――

 この電話がすべての始まりだったのだ。


 実家は同じ県内にある。バスと電車を乗り継いで二時間という、遠いわけではないが決して近くもない距離。帰ろうと思えばいつでも帰れると思いつつ、あるいはそう思っているせいで、ここ数年、一度も帰省していない。

 母親の電話ってのは、大抵、長ったらしいもんだ。

 用件だけで終わったためしがない。

 しかもその内容ときたら、毎度毎度、毒にも薬にもならないときている。

 だからあいづちもおざなりになるのだ。

 へー。

 ふーん。

 はあ。

『ちゃんと聞いてるの鷲介』

「聞いてる聞いてる」

 ホントはあまり聞いていない。僕の目は、座卓の上に広がったゲラ(持ち帰った仕事)に注がれていた。母親の話を蔑ろにしたいわけではないが、その話が今聞かなければならないものではなく、目の前に広がる仕事は今やらなければならないものである以上、仕事のほうを優先してしまうのは致し方ないことっすよね。

『そうそう、それでね――ホントにひどい話なのよ。お母さんもう病気になりそう』

「いやはや」

 僕が勤めているのは、社員二十数名からなる小さな出版社。この就職氷河期に、地元民しかその名を知らないような超マイナー大学出身の僕を温かく迎え入れてくれた、ステキな会社だ。地域密着型のフリーペーパーの営業・編集・発行が主な仕事である。

『どうしてこんな大事なこと今の今まで黙ってたのかしら』

「さあ」

 よくあるだろ。飲食店や美容院などの店舗情報がぎっしり掲載されていて、駅や大型小売店などのエントランスあたりに「ご自由にお持ちください」と書かれた専用ラックがあって、月に一度くらいのペースでいつの間にか新しい号に入れ替わっている、そんなタウンガイド。

 あれを作ってるんだ。

『こんな状況になってようやく白状するなんて、もう、ホントに、男の人って……』

「うーん」

『こういうのもやっぱり血なのかしらね。あんたのおじいちゃん――あ、お父さんのお父さんだけど、この人も遊んでたっていうから』

 地元民しか読まないフリーペーパーだからって、バカにしたもんじゃない。二十代から三十代の勤め人を中心に、市内で毎月五万部を発行している。

 どんな小さな記事であっても、手は抜けない。

 限られた文字数で、読者に対し、いかに的確にその店のよさを伝えられるか。いかにインパクトを与えられるか。そこが腕の見せ所なんだ――

『お父さんね、外に女の人がいたらしいの。かなり前から』

「はい?」

 握っていた赤色のボールペンを取り落としてしまった。

 耳に当てていただけの携帯電話を強く握り直し、もう一度「はい?」

『おまけに、子供もいて』

「は……」

『もう高校生になるんですって。ひどいと思わない?』

「え、いや……あの、ちょっ……えっ、どういうこと?」

『あんたとは腹違いってことになるわね』

「いやいやいや。待った待った」

 僕は思わず居住まいを正した。

 時刻は、午後八時四十分。

 場所は、入居六年目になるアパートの自室、二〇五号室、一DKの六畳間のほぼ中央、炬燵内にしてテレビの正面――で、あった。

 ホワイトアウトしそうな思考をどうにか運行させ、訊くべきことを訊く。

「……え、なに、つまり、隠し子がいたってこと? うちの父さんに?」

『そう言ってるでしょ。あんたやっぱり聞いてなかったわね』

「それ、ホントにうちの父さんの話? 上野蔦夫の話?」

『だからそうだってば』

「噓だろ」

 じいさんがどうだったか知らないが、少なくともうちの親父は、お世辞にも甲斐性があるといえるタイプではない。とりたてて男気があるわけでもなく、イキイキと輝ける趣味を持っているわけでもなく、背中に枯れた哀愁があるといえばあるがメタボ気味な腹のほうが目につく残念な体つきで、モテそうな外見でもないし、どちらかといえば口下手なほうだから、二重生活をこなせるほど器用ではないはず――

 と、今の今まで、思っていたのだが。

『噓ならよかったわよね』

 ……声がマジだ。

 これは、どうやら、受け容れざるを得ない現実であるらしい。

「っていうかそんな話をなんかのついでみたいにしないでくれよ!」


 何かにつけ愚痴に突入してしまいそうになる母のトークラインに対し、息子ならではの絶妙なタイミングで「つまりどういうこと?」「それはわかったから」「まず結論を言ってくれる?」と鞭を入れ、本筋に戻るよう巧みに誘導した結果、かなりの好タイムで事の経緯を聞き出すことに成功した。

 概要は以下のようなものである。


・我が父、上野蔦夫には、十数年前、愛人がいた。この二人の間には、来年度から高校にあがる娘が一人いる。

・父は娘を認知したいと考えている。そのため、今回、妻に事情を打ち明けた。

・我が母、上野幸恵は、父から「愛人がいた」「子供がいた」と直接打ち明けられるまで、かかる事実にまったく気づいていなかった。今のところ母に離婚の意思はないが、夫の不貞に対しては、怒り、呆れている。


 打ち明けられていく事柄のひとつひとつが、いちいちヘヴィー級であった。

 どれかひとつだけであったとしても家庭崩壊するのに充分な破壊力を備えているというのに、まとめて一度に全部来たのだから大変だ。

 あるんだなあ、こんなことって。

 はあー……と、魂が抜けるような長々しい溜め息をついてしまった。

 パニックに陥りかけたが、それを乗り越えると、逆に冷静になった。

「母さんさ、ホントに今まで気づかなかったの?」

『気づかなかったわよ、悪かったわね。でもあんただって気づかなかったでしょ』

 いやいや。離れて暮らす息子と比較しないでくれ。

 それにしても……親父よ。この母とひとつ屋根の下に暮らしていながら、よくもまあ、こんな重大事を長きにわたって隠しおおせたものだ。驚きを通り越し、逆に感心する。いや感心しちゃいけないところなんだけど。怒るべきところなんだけど。でもなんだか感覚が麻痺してきちゃったよ。

 電話の向こうの母も溜め息をつく。

『ねえ鷲介、どうしたらいいと思う?』

 僕に訊かないでくれよ~

 そのあとは母子間で実のないことをグダグダ言い合うばかりだった。時間と電話料金を浪費するだけで、結論らしい結論を得ることはできなさそうだったし、なにより精神的に疲弊していたので、「あのさー、僕明日も早いしさー、この件についてはさー、僕も考えとくからさー、おやすみ」と、中途半端なところで通話を終えた。


 家庭に問題が発生したとしても、仕事には関係ない。

 翌朝、僕はいつも通りに出社した。


 バス+徒歩で三十分弱のところにある古いテナントビルの四階が僕の職場だ。

 毎日毎日ここで文字数気にしながら原稿書いたりゲラチェックしたりメール打ったり電話したり遣わなくていい気を遣ったりこっそり屁したりしているのだ。

 主に作っているのがローカルなフリーペーパーとはいえ、一応、出版社という体だから、書籍は大量に所有している。多いのはやはり雑誌だが、話題のベストセラーや人気漫画、専門書などもある。なぜかエロ本もある。社で購入しているものばかりだが、誰かが家から持ってきて会社に置きっぱなしにしてそのまま、というものも多いだろう。オフィスの片隅のスチール棚に、順不同、ジャンルごちゃまぜで、ぎゅうぎゅうに押しこまれている。

 その中から僕は、一冊のソフトカバーを手に取った。法曹界に縁のない一般庶民向けに、小難しい用語やら解釈やらを噛み砕いて解説してくれる、親切な法律読本だ。法律系ライターと弁護士の共著で、出版社もちゃんとしたところ。誰が書きこんだかわからんインターネット上の意見よりは頼りになるだろう。別にインターネットで検索をかけてもよかったのだが、しかし「隠し子」や「認知」といったワードでヒットするのは、芸能人の隠し子報道を伝えるニュースサイトや、不特定多数が相談を投稿したり回答を書きこんだりできるQ&Aサイトがほとんどのような気がする。そんなもん選別するのは考えるだに面倒くさい。それに、今の僕が知りたいのは具体例ではなく、普遍の事実である。

 立ったまま、ページをパラパラとめくってみる。

 少しドキドキしている。

 認知に関する項目をあっさり発見。

 ――結婚していない男女間に生まれた子は母の戸籍に入ることになり――その父との間に事実上のつながりはあっても法律上の父子関係にはなく――認知という手続きで自分の子と認めない限りその子は扶養や相続の面で父からなんの保護も受けられず――ただし認知されても父の姓を名乗れるわけでもなければその戸籍に入れるわけでもなく――認知された子は父の遺産の相続権を得るがその取り分は嫡出子の二分の一で――

 遺産相続か。

 僕(嫡出子)に関係ありそうなのって、このくらいだな。

「うーん」

 どうも、僕にはあんまり関係なさそうじゃねえ?

 だって、主に夫婦間の問題だよな、これって。一人息子が悩んでも仕方のないことだよな。そもそも僕には決定権どころか選択権もないのだし。つまるところ、オトンとオカンが気の済むようにすればいいんじゃないの? それでもし離婚やら賠償請求やらに行き着いたとしても、二人で話し合って決めたことなら仕方ない。どういう結論に達したとしても僕に異存はありません。

 本を元あった場所に戻すと、外出する準備を始めた。十五時から、新規の広告掲載を依頼している和風居酒屋のオーナーとの打ち合わせがあるのだ。僕としては、隠し子問題よりも目下こちらのほうをどうにかしたい。


 新規掲載は取れませんでした。

 だが、まあ、いい。一回の訪問でゴーサインが出るなんてことは滅多にない。感触は悪くなかった……と思うし、大事なのはこれからだ。

 とはいえ、なんとなくクサクサした気分。

 昨日から、いいことなしだ。

 仕事捗らないし。

 隠し子発覚するし。

 三十円高いしめじ買っちまうし。

 世の中は荒んでいるし。


 どうせ家に帰ってもすることはない。

 ひとり飲みをすることにした。

 会社から歩いて数分のところに、行きつけの店がある。渋すぎずチャラすぎず、程よく落ち着いた、雰囲気のいい店である。店の奥に置かれたジュークボックス(現役で作動中)がチャームポイント。ここのバーテンダーが、僕の高校のときの同級生、十条なのである。

「酔わなきゃやってられねえ日もあるよな」

「まあね。でもおまえ酔うほど飲まねえだろ」

 カネないからね!

 ひとり飲みするときは、会計が千円前後になるよう抑えている。千円程度では生ビール一杯とちょっとした肴を一つか二つ頼むのが精々だが、どうせひとりだし、その程度でいい。そうそう。この店、ポテトサラダが美味いんだ。黒胡椒が効いていて、ビールのアテにとてもいい。十条がこしらえているのかどうかは知らないが、誰が作っていたとしても美味いものは美味い。

 美味いものはいい。

 美味いもの食ってる間は余計なこと考えなくていいから、いい。

 美味い美味い。

 と食っていたらポテサラはあっという間になくなった。


 ……そりゃ、まあ。

 親父に訊きたいことがないわけではない。

 家族に噓をつき続けるってどんな気持ち?

 とかね。

 しかし、そんなこと訊いたって、何も始まらないだろう? 訊いたところで本音が聞けるとは限らないしさ。感情論だけで済ませられるものでもないだろうし。いろいろ思うところがあったりするのだろう。大人なんだから。母は長年連れ添った妻として穏やかならざるものがあるんだろうけど、とりあえず僕は、親父を責める気にはなれない。呆れてはいるけど。隠し子がいる事実は覆りようがないのと同じく、親父が身を粉にして働いて僕を独立できるようになるまで育ててくれたってことも間違いのない事実なわけで、僕はそのことを感謝しているし、なかったことにするつもりもない。

 それでいいよな。

 しかし……

 来年度から高校生ってことは、隠し子は十五歳くらいか。十五歳ってことは、僕が小学校低学年くらいのとき、親父は外で頑張っちゃってたわけだ。うわー、やだやだ、考えたくもない、そんな親の姿は。でも愛人さんどんな顔してんのかちょっと気になるな。すっげーいい女だったら逆に親父のこと尊敬してしまうかもしれん。


 十条は雇われの一バーテンダーでしかないはずなのだが、店長だとかオーナーだとかがいつも不在なため、基本的に彼一人で切り盛りしていた。十条がソツなく営業をこなしているせいもあって、この店はまるで、十条の店のようになってしまっている。実際そう勘違いしている客もいるだろう。

 バーテンダーって、男女のディープな話とか、いろいろ聞いてそうだよな。

 客は、僕の他には男女二人連れしかおらず、カウンター内の十条も手が空いているようだった。加えて、アルコールの勢いもあったのだと思う――僕はツルッと口に出してしまっていた。

「おまえの周りに隠し子いる人っている?」

 グラスを磨く手を止め、十条は眉をひそめた。「まさかおまえ」

「僕じゃない」

「ですよねー」

 なんだよですよねって。

 しかしこんなところで「実は僕の父の話なんだが」と家の恥をバカ正直に披露することもないので、ちょっとボカしてみる。

「知り合いだよ、知り合い。知り合いがね、全然フツーの人なんだけど、なんかそういうことになってて、奥さんと揉めてるらしくて。遊んでる感じの人でもなかったし、身近に隠し子いる人って初めてだったんで、ちょっと驚いてさ」

「あー、なるほどね」

「隠し子って、ホントにあるんだなあって」

「あるある」

 わりとあっさり頷いた。

 肩透かしを喰らったような気分だ。「ある?」

「あるよー。隠し子もそうだし、隠し子っていうほどやましいものではないけど実は子供がいるんです、みたいなケース、意外に結構ある」

「――そ、う?」

「ああ。あんまり大っぴらに話題にできることじゃないから、統計は取りようがないけど、雰囲気的には、かなりいるね」

「へえー……」

「もちろんそれがマジョリティってわけではなくて、俺が思っていたよりは多いっていう主観的なアレだけど」

「はあ」

「それでもうちの店長に言わせると、そういうのも最近はずいぶん減ったらしい。おそらくは不景気のせいで」

「……」

「まあでも大抵、むかし別れた奥さんとの子供とか、元カノが何も知らせずに勝手に産んでたとか、そんなだし。子供いるように見えない人に打ち明けられるとビックリするけど、ちゃんと事情を聞いたらそんなビックリするようなもんでもない」

「……みんなやることやってるんだな」

「ふはっ、そうかもな。でも他人事じゃないよ、上野くんも気をつけるんだよ」と冗談めかして言う十条に隠し子がいたとしても、今の僕なら驚かない。


 やましいから隠すのか。

 隠すからやましいのか。

 どっちだ?


 生ビール一杯くらいで深酔いしたりはしないので、足取りも確かにアパートに帰り着いた。

 明日は、朝一で打ち合わせがある。相手は、先月駅前に新規オープンしたイタリアンレストラン。開店前に済ませてしまいたいというオーナーさんの意向で、九時半開始だ。今夜はもうさっさと寝よう。

 と考えていると、ポケットの中の携帯電話がメールを受信した。

 またしてもこのタイミング……。もしや、また防災・防犯情報メールだろうか、また変質者出没情報だろうか、などと荒みながらメールを開いてみると、大手ファストフード店のメールマガジンだった。なにやら、近々、桜をモチーフにしたスイーツを新発売するのだとか。淡いピンクに抹茶色という春らしい色合いに和む。甘いものは結構好きだ。そうだな。今度、この店、久しぶりに行ってみるか。ファストフードの費用対効果について思いを馳せるようになってから足が遠のいていたのだが、たまには、いいかもしれない。

 携帯電話をしまいつつ、外付け階段をトントンと昇りきると、吹きっさらしの廊下の奥に、女がひとり、ぼんやり突っ立っているのが見えた。

 外灯のあかりも頼りない、暗い廊下である。ちょっとギョッとする。

 しかも、僕の部屋の前あたりにいるのが、なんだかヤな感じ。足もとに、やたらに膨れたボストンバッグが置かれているし……

 慎重に、しかし不自然でない程度の足取りで、廊下を進む。

 あちらも僕に気づいたようだった。

 見覚えのない女だった。そもそも、僕を訪ねてくる女などいない。現在、恋人いない歴を景気よく更新中である。僕の部屋のドアの前にいるように見えるが、そう見えるだけで、隣の部屋に用がある人なのだろう――と推測した次の瞬間、女は僕に向かって声をかけてきた。

「上野さんですか?」

 思いのほか若い声。

 僕は足を止め、女を凝視した。

 まだ中学生か高校生だろう。こんな年頃の子に知り合いはいないのだが。

 僕はおそるおそる返事した。「そうですけど」

「こんばんは」

 少女はぺこんと頭を下げる。

 僕もつられて「はあ、こんばんは」と頭を下げた。

 暗いところで黙って突っ立っていられると不気味だが、よく見れば、なんの変哲もない普通の子である。厚着で着膨れしている上にマフラーをぐるぐる巻いているのでシルエットがころころしている。

「あの、私、大塚鴇子です」と少女は当然のように名乗った。

「はあ」

「聞いて、ますよね。あの、私、ここに来るようにって言われて」

「えっ?」

「えっ」

「……」

「……」

 話が見えない。

 なんなの、これ。

 怖いんですけど。

「えっーと……もう一度お名前を」

 やだよやだよ。

 不審者として通報されるのはやだよ。

 少女ははっきりと答えた。「大塚鴇子です」

 僕は首をかしげてみせた。「オオツカ、トキコさん……ですか」

「はい」

「あの、僕はあなたのこと知らないんですが」

「えっ」

「家を間違ってるんじゃないかな。それか勘違いとか」

「で、でも、上野さんですよね」

「たしかに僕は上野ですが、上野違いということも」

「上野蔦夫……さん、の、息子さん、ですよね」

「……はあ」

「あの、私……も、すみません、上野蔦夫、さんの、子供、なんです……けど」

「えっ!?」

「えっ」

「えっ、なんで!?」

「えっ? すみません」

 嫡出子と隠し子。

 暗い廊下で向き合ったまま、しばしフリーズした。