「──本当にすみません」

「いえ! それでは、次回のご利用をお待ちしていますっ!」

 引っ越し業者の青年を見送り、アパートの扉を閉めた諫早佑真は、室内を一瞥した。眉間に皺が寄る。さきほど運び出されたばかりの、幾つものダンボール箱や梱包された家電は、六畳一間のアパートにすべて戻ってきている。

 これから、新天地へ向かうはずだったというのに。ため息しか出ない光景だった。

 携帯を取り出すと、佑真は着信履歴の画面から友人へと電話をかけ直した。

『あ、撤収作業終了?』

 数コール後、返ってきたのは実に陽気な声だ。

「……キャンセルにしてもらった。それで、どういうことなんだ」

『それがさ──』

 しばらく佑真は相手の言葉に耳を傾けた。しかし、耳を疑う、とはこのことだった。

「──ちょっと待て。おれの聞き間違いじゃないよな? 別の奴に貸す?」

『いやさあ、男と男の約束なのよ。そいつの彼女が部屋無しで困ってるらしくて。そいつには前に迷惑かけたことあって、俺も断れなくてさ。ごめーん』

 耳にあてた携帯から、軽い謝罪からも一目瞭然なように、まったく悪びれていないのが如実に伝わってくる。

「おれはいいのかよ……。さあ出発だって時だったんだぞ」

 佑真の住処は五階建てアパートの四階、四〇三号室だ。そこから──男の一人暮らしなので、さほど多いとも言えないが──無事引っ越し用の小型トラックに荷物を積み終わり、トラックが新住所へ向かおうとした時のことだ。この友人から連絡があった。佑真が引っ越す予定だった部屋が空きでなくなった、と。

 その場で追及したかったが、佑真はまずは引っ越しの中止を業者に伝えねばならなかった。そして、次には荷物の運び戻しだ。

『悪いと思ってるって』

 佑真が現在住んでいる賃貸アパートはもうすぐ住めなくなる。大家だった老齢の女性が亡くなり、その息子さんだか娘さんだかが引き継いだが、アパート自体の老朽化もあり、リフォームをして管理を続けるよりは、と取り壊しが決定したのだ。

 住人の退去期限は七日後に迫っている。すでにほとんどの住人は去っており、一階につき一世帯ぐらいしか残っていない。もっとも、取り壊しは昨日今日に決まったわけではなく、引っ越しまでの猶予は十分あった。しかし佑真の場合は、一度決まっていた引っ越し先がご破算になった。そこで今回──二週間前、この友人に現況を漏らしてしまった時に、「空いている部屋があるから貸そうか」と太っ腹な提案をくれたのだった。あの時はこの友人が救いの神のように思えた。

 佑真は話に乗った。

 しかし、どうやら間違いだったようだ。おかげで引っ越しは当日キャンセル扱いになり、費用の一〇パーセントを支払うことになった。ただし、一ヶ月以内に今回の業者に引っ越しを頼む時は、特別割引を適用してくれることにもなったが。

 引っ越しはできず、余計な費用がかかった。

「信じたおれが馬鹿だった」

『うわ、ひっどーい。傷ついたわ俺。俺に非があるとはいえ、相変わらずの素っ気なさ!』

「誰とでもこんな感じだけど」

『けど、ここだけの話、ため口になっただけ進歩だと俺は思っている。前は丁寧語だったしなー。同い年なのに!』

 本来、佑真のほうが責めていい場面だったはずなのだが、何故かつらつらと友人の佑真に対する愚痴が続いた。

『電話も、不意打ちでかけると三回かけて一回繋がればいいほうだもんな。奇跡。携帯なのにだ。……携帯電話の意味って、わかってるか? 携帯だけじゃない。メールもだ。「暇なら今から出て来れるか」ってメールして、返信が翌日どころか二日後だった上に、内容が「来れない」だった時は絶句したね俺は。とっくに時期も過ぎてるっていう。──そう考えればさ、友達続けてる俺ってすごくね?』

「…………」

 たしかに、そもそも、友人になったのがおかしいのだ、と佑真は思い返す。

 この友人──鷹杉と知り合ったのは、アルバイトの面接がきっかけだ。その控え室で顔を合わせたのが最初だ。上京したての佑真が生活費を稼ぐために切羽詰まっていたのに対し、鷹杉は面接前の雑談で「え? 別にお金はあるんだけど、社会勉強みたいな?」と宣った人間だ。

 当然のごとく、第一印象は最悪だった。

 では何故友人になったか。社交辞令で教え合った携帯番号が縁を繋いでしまった。

 その時の面接に揃って落ちたという、一過性の連帯感のなせる所業もあったろう。「部屋を貸そうか」と簡単に言えるのも、鷹杉が不動産屋であるとかそういう理由ではなく、所有しているが自分では住んでいない物件を持っているから、らしい。詳しくは佑真も知らないが、金持ちなのだ。資産家の息子、とでも言えばしっくりくる。

 かたや現在の佑真はというと、派遣登録と短期アルバイトで食いつないでいる。ただし、最近は仕事があまり回って来ず、いま確実なのは今月下旬の三日限定短期アルバイトのみ。

 率直に言って、ほぼ無職だ。

 そんな佑真と、この友人の共通点といえばせいぜい年齢だろうか。互いに十九歳だった。

『友達な俺としても考えたんだけど、咲希ちゃんとヨリ戻すのは? 電車で彼女を痴漢から助けた彼は名も告げず去ってしまい……その後、劇的な再会、二人はつき合うことに……! ってなったんだろ? 俺さー、咲希ちゃん本人とは面識も何もないのに、咲希ちゃんの友達の友達の友達の女の子から、耳がタコになるほど聞かされたんだわ、この話。もともと咲希ちゃんと同棲する予定だったんだし、いまならまだ──』

「振られたのはおれのほうだから」

 佑真は友人の言葉を遮った。鷹杉の言っている『咲希ちゃん』は、佑真が先日別れたばかりの彼女だ。いや、元、彼女だ。一つ年上の大学生で、もともと、このアパートの取り壊しを機に、佑真は彼女のマンションに転がり込むはずだった。が、二十日前に別れている。

『友達の友達の友達の女の子によると、お前のご両親に会いたいっていう咲希ちゃんを突っぱねたんだって?』

 友人、鷹杉の声が面白そうな声音を帯びる。佑真は押し黙った。その通りだ。彼女側の両親とは会っていた──彼女に紹介されていた──のが発端だ。佑真が彼女のマンションを訪れていた時に、たまたま彼女の両親もやってきて成り行きで、という流れでの紹介だった。しかし、そこから、彼女との距離感が崩れ出した。つき合ってはいても、互いに丁度良い距離感を保っていると佑真は思っていた。しかし、彼女は違っていた。ずっと不満だったと言われたのだ。つき合っているのに、他人のようだ、と。佑真の両親に会いたい云々は、それを表面化させたきっかけにすぎない。

 好きだった。好意を持っていたからつき合っていた。だけど無理をしていた。

 最後に彼女に言われたことだ。好きではあっても、根本的なずれがあった。それを直せない限りは、どうにもならない。佑真には彼女をひきとめることはできなかった。

『しかし、職なし、彼女なし、住処なし。三なしか。うけるなー』

「……電話、切っていいか?」

『待った待った! 俺友達少ないんだからさ。友達枠はマジで件数三件しかないから。このキャンセルは俺も悪いと思ってるんだって。そのかわり、知り合いの不動産屋紹介する。今日の引っ越し先、お前がいま住んでるのと同じ、国立市内のマンションだったろ? だから国立の物件扱ってる不動産屋にしといた。ただし、国分寺の不動産屋な』

「わかったよ。聞くだけ聞く」

『不動産屋は、国分寺駅北口にある──、店の名前言うからさ、あとはテキトーにネットで検索し……』

「ネットは、しない」

 少なくとも、上京してからというもの、プライベートでは好んで触れようとは思わない。パソコンはバイト先で使う必要が多々あったから、操作はできるが持ってはいない。携帯は電話とメールだけができればいいという格安機種だ。これもメールは使うが携帯でネットに繋ぐことはない。

『そうだったそうだった。お前ってアナログ脳だもんなー。住所と電話番号言うから、メモれ』

「アナログ……。紙とペン探すから」

 筆記用具はまとめて箱に入れたはずだったが、どの箱に入れたのだったか。佑真は狭い室内で視線を一巡させた。とりあえず、うろ覚えの記憶に頼ってみることにする。果たして、記憶は正しかったようだ。ダンボール箱を開けて無事メモ帳とボールペンを発見するも、佑真は眉をひそめた。開けた箱の前に置かれているものに、見覚えがなかったからだ。

『そういや、事故物件って気にするほうだっけ?』

「気にしないけど……っと」

 携帯を肩と耳で挟み、落とさないようにしながら、佑真はその見知らぬ物を両手で持ちあげた。

 壁に立てかけられていた物体だ。ただし。引っ越しの前には、確かに、こんなものは自分の所持品にはなかった。となると──。

「あー……」

『何だ、いきなり頓狂な声出して』

「よく頓狂なんて言葉出るな……」

『俺頭良いんだって。それで、頓狂な声出してどうしたよ』

「たぶん、他の人の引っ越しの荷物が間違っておれの部屋に戻された」

 引っ越し業者のトラックは佑真が頼んだもの以外にも一階に停まっていた。同じ時間帯に他の部屋でも引っ越し作業があったようだから、そこから荷物が紛れ込んだのだと思われる。

「──絵、かもしれない」

 よくよく眺めてみる。綺麗に、かつ厳重に、包装紙にくるまれた長方形の物体だ。サイズはB4用紙より二回りは大きい。厚さは十センチほど。木枠で覆っているのだろうか? 包装紙越しにそんな感触がする。

『絵?』

「包装紙にAOKI画廊ってロゴが入ってる。AOKIはアルファベットの大文字で画廊は漢字。画廊って絵を売るところだろ」

 佑真が絵だと判断した根拠はこれだ。全体的に、くたびれてもいないし、真新しい感じを受ける。実際のところ、中身はわからないので、包装紙は、だが。

『それって持ち主……店に返せば謝礼とかもらえるんじゃないの?』

 電話の向こうから、カチカチとキーを叩く音がした。

『AOKIは大文字アルファベット……で、AOKI画廊、と。あったあった。聞いて喜べ。住所は──お、俺の紹介する不動産屋の近くにあったぞ、その画廊。画廊の数なんてたかがしれてるし、同名の別画廊が存在しない限り、八割ぐらいの確率でたぶんここだろ。決定。ほら。メモメモ』

 絵を置き、佑真はメモ帳とボールペンを手に取った。話を終え、携帯を折り畳む。

 そして、佑真の手元には、不動産屋と画廊の住所と電話番号が記されたメモが残った。画廊のほうは鷹杉がネットで検索して手に入れた情報だ。

「ネットか」

 ぼそりと呟く。便利ではある。しかし、だから嫌なのだ、と佑真は思った。ひとたびネットにニュースとしてあがってしまえば、拡散して残る。自分の知らないところで噂される。

 ──忘れたいのに忘れられない。

 一度閉じた携帯を開く。

 実際のところ、鷹杉の言うように、佑真はアナログ脳というわけではない。中退してしまったが、高校生の時は、自分のパソコンも持っていたし、携帯はスマートフォンだった。

 自局番号を開いた。

 当然、そこには自分の名前である『諫早佑真』と自分の携帯番号が表示されている。何秒ほど、その画面を凝視していたろうか。顔を上げ、今度は狭い室内を眺めた。

 この狭い一室は、自分の力だけで得た、自分だけの城だった。少ない貯金を手に、故郷を出て、東京にやってきた。計画性はなく、衝動的な行動だった。行く場所はどこでも良かったのだが、都会を選んだのは、ひとえに、人が多いからだ。誰も佑真のことなど気にしないだろうと思った。そしてそれはその通りではあったが、ネットカフェで寝泊まりして一ヶ月、瞬く間に佑真の所持金は減ってゆき、ホームレスになるのにそう時間はかからなかった。

 そこから、何とか生活を築きあげて、手に入れた城がここだ。

 佑真は携帯を閉じると、ズボンの後ろポケットに仕舞った。時刻は午前十一時。少しばかり離れがたいと思っても、ここに住み続けるのは不可能なのだ。宿無しにならないよう、友人に聞いた不動産屋に行くに限る。

 ズボンの脇ポケットから小ケースを取り出す。ケースに入っているのは耳栓だ。

 外出時は耳にイヤホンをあてずっと音楽を聴いている──そんな人々がいるように、佑真は耳栓で音を遮断するようにしている。思えば、これも上京する少し前くらいからの癖だった。

 音が遠ざかる。耳栓をしていても、生憎、無音の世界とまではいかない。

 玄関に直行し、靴を履き替える直前、しかし、思い直し、佑真は室内へと戻った。

 ──引っ越し業者の置き土産。

 絵、らしき物体を見下ろす。そうしていたのは数秒ぐらいだったろう。

「ついでだしな」

 それはまさに、気まぐれというやつだった。もっとも手っ取り早いのは、引っ越し業者に問い合わせ。はたまた、拾ったとして警察か。非情なようだが、面倒なら捨ててしまうという手もある。

 だが、どうやら、目的地である不動産屋の近くに『AOKI画廊』もあるらしかった。どちらも国分寺駅近く。

 だから、単なる気まぐれだったのだ。

 特に忙しい身分でもないし、画廊に持っていって返すか、と思ったのは。


 はじまりは、そんなものだった。