公園に遊びに行った帰り道、娘は父と手を繋いで歩いていた。

「ねえ、パパ? ママってどんな人だったの?」

 物心付く前に亡くなった母のことを尋ねると、父は遠くに目を向けた。

「……怒りんぼで泣き虫で、愛歌ちゃんにそっくりだった」

「なにそれぇ」

 けらけらと笑う娘を見つめて、父は普段からの厳めしい表情をわずかに緩ませた。

「本当に似ているよ。君は、ママに」

 その呟きにどれほどの情愛が込められていたか、このとき娘は想像すら付かなかったはずだ。

 夕暮れの中を、若い父と、幼い娘が歩いて行く。


 時は流れ、大人に成長した娘は今、父と共にバージンロードを歩いている。

 花嫁をエスコートする父の足取りは重く、一歩一歩に思い出を巡らせた。人生を意味するこの道は、やがて新郎の待つ未来へと到達する。

 組んだ腕がほどけ、娘は新郎の隣に立ち、父は深々と頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく動かなかった。参列席はざわつき始め、新郎も牧師も戸惑いを隠せずにいる。

 その一礼にどれほどの情愛が込められていたか──。

 年老いた父を、娘はじっと見つめていた。


      *   *   *


 父はいつも仏頂面を浮かべていて、笑ったところを見たことがなかった。

 だからといって気難しい性格をしているわけではない。厳しくはあったが、甘やかしてくれる部分も確かにあったし、自分の短所を弁えていたのか、娘に対して無駄に威張り散らすようなこともしなかった。真面目で誠実で、良い父親だったと思う。

 振り返れば、西沢愛歌の人生は、父・健也の人生でもあった。

 家族といえども別の個体だ、自分とそれ以外とに分類してしまえば親と子は一番身近な『他人』であろう。まして大人と子供とでは住む世界が違う。目線が違う。認識が違う。同じ空間にいても別の活動をしている。父が仕事を、母が料理を、子は学校の宿題を、それぞれがしていればそこには必ずすれ違いが生じる。聞く音も、見える景色も、まったく同一のものであるはずがなかった。何の変哲もない、それこそが正常な人間関係だ。

 なのに、父は、これまでずっと愛歌の立場に立って物事を見ようとしてくれた。一緒に宿題をしたり、一緒にテレビを見たり、一緒にお風呂に入ったり。反対に、愛歌にも大人の視点を覗かせた。一緒に料理を作ったり、一緒に家計簿を付けたり、一緒にお出掛けしたりした。何をするにも二人一緒だ。愛歌が成長するにつれて、特に思春期の頃には、お互いそれも難しくなってすれ違うこともあったが、それでもその日何があったかを話し合う関係は継続された。父と娘の間柄でここまでべったりな親子も珍しいだろう。

 昔、こんなことがあった。まだ小学生だった頃、学校の友達からお泊まり会に誘われた。愛歌は父に許可を貰おうとしたが、友達のお家であろうと子供の外泊は許さん、と反対された。このときばかりは愛歌も反発し、初めて喧嘩になったが、口論しているうちにだんだんと愛歌の方が父と離れるのが寂しくなり、結局友達の誘いを断っていた。友達は皆呆れ返っていたのは言うまでもない。

 余所の家庭からは少し異常に見えたようで、おかげで愛歌は友達からたびたびファザコンと揶揄されることがあり、哀しいかな愛歌も大いに自覚していたのだった。けれど、それも仕方がない。たった二人の家族なのだから。──大切に想うのは当然でしょう。

 父にとって愛歌は妻の忘れ形見、溺愛したとて何らおかしいことはない。愛歌も母がいないことがコンプレックスだったが、父がその分の愛情を注いでくれたから寂しくなかった。

 愛歌の人生の大半は父との思い出だ。

 同じ空間にいて同じ活動をする。聞く音も、見える景色も、すべてを共感し合った。母がいない分協力し合って生きてきたのだ、別の個体なんて呼べない、他人なんて呼ばせない、分類したいなら『親子』という括りでなければ認めることなんてできない。

 けれども、すれ違っていた時期もあるにはあるのだ。

 寡黙で厳格な父だが、意外に抜けている面もあり、通帳と印鑑の仕舞ってある場所を忘れるのは日常茶飯事で、年に一度は財布や家の鍵を失くしている。小さいことまで言い出したらきりがないほどだ。あまりにもひどいので、小学校高学年に上がった頃からそれらの管理はすべて愛歌が請け負うことになった。その件を皮切りに、愛歌と父は徐々に役割分担を行い始め、思春期に入ると、特に掃除や洗濯は愛歌の領分に取り入れられるようになる。洗濯物を別々にしたかった。父に自分の部屋を掃除してほしくなかった。別に父のことが嫌いになったわけではないし、不潔だとも思っていないのだが、どうしても気になった。

 そうして、隠し事もするようになる。

 好きな人ができた。短大に進学するまでは父以外に男っ気が皆無だったこともあり、愛歌の興味はすぐに恋愛に向いた。友人に紹介されたその人は、少し頼りなげな感じだったけれど、優しい人だった。間もなく交際が始まった。

 父には恋人がいることを告げられずにいた。言い出すきっかけがなかったし、どんなことでも話してくれる父に対して内緒でお付き合いしていることへの後ろめたさもあったからだ。

 二人は大学を卒業し、定職に就いたとき、ごく自然に婚約した。

 突然結婚の申し込みをしにきた彼に、父は面食らっていたようだが、静かに話を聞いてくれた。そして、

「そうか。わかった」

 あっさりと。父の許しを得たのである。拍子抜けもいいところだ、絶対に反対されると思っていたのに。どうやらそこまで親馬鹿ではなかったらしく、むしろ愛歌の方が寂しく感じてしまったくらいだ。

「おまえが選んだ相手なら心配ないだろう」

 そう言って、祝福してくれた。



 結婚式から二ヶ月が経ち、愛歌は新居に移る際に整理できなかった荷物を片付けるために実家に戻っていた。しかし、懐かしい物が出てくるたびにいちいち思い出に浸ってしまうので、片付けはなかなか進まない。

「わあ、懐かしい。こんなところにあったんだ」

 押し入れの奥に仕舞ったまま忘れられた段ボール箱は、子供の頃に愛用していた人形やぬいぐるみが詰まっていた。父の会社の人から、子供が大きくなって要らなくなったからと頂いた物だ。お下がりのぬいぐるみたちは随分とくたびれていて、汚れも目立ち、とてもじゃないが余所の子供にあげられる状態ではなかった。リサイクル業者に引き渡そうかと考えて箱ごと脇に退かした。

 あらかた作業を終わらせたとき、リビングから声が掛かった。

「愛歌、ちょっといいか?」

「なあに、お父さん? どうかした?」

 顔を出すと、父は眉間に皺を寄せて立ち尽くしていた。両腕を組み、挑むようにして食器棚を睨みつけている。

「車の鍵はどこに仕舞ってあるんだ?」

 探し物をしていたらしい。そんな恐い顔しなくてもよさそうなものだけど、実はこれで困り顔なのである。知らない人が見たら誤解されること間違いなし。

「食器棚に入ってるわけないでしょ。玄関じゃないの?」

「玄関に無かったから探しているんだ。おまえ、知らないか?」

 この家で車に乗るのは父だけだから(愛歌はペーパードライバーだった)、鍵を動かしたのも当然父のはずだ。

「最後に乗ったのっていつ?」

「……昨日だな。いつもどおり靴箱んところに掛けておいたんだが」

 昨日、ということは仕事帰りに乗って以来になる。そこまでわかれば見つけたも同然だった、愛歌はまっすぐ父の部屋に入り、壁際にハンガーで吊されたビジネススーツのポケットに手を突っ込んだ。──やっぱりあった。

「車の鍵をポケットに仕舞ったまま脱いだのね」

 はい、と鍵を渡すと、父は「むう……」と顔を顰めている。こんなことにも気づけなかった自分に呆れているのだろう。

「お父さん、大丈夫? 他にどこ仕舞ったかわからない物とか無い?」

「無い。心配するな」

「どうかしらね。お父さん失くし癖あるんだから。──ねえ、やっぱり私たちと一緒に暮らさない? お父さん一人くらい増えたって平気よ。うちのマンション結構広いし」

 仕事場の近くで暮らしたい気持ちもわかるが、娘としては父を一人きりにするのは忍びなかった。料理は作れるが、掃除や洗濯は愛歌の領分だったので今では碌にできていないみたい。何より歳を考えたらこのまま一人暮らしをさせておくのは不安である。それに、


 愛歌が結婚してから、父がなんだか小さくなったように見えた。


 父はむっつりとそっぽを向くように、断った。

「……いらん世話だ。俺のことは放っておけ」

 話は終わりだと言わんばかりに踵を返して出て行く父。愛歌はその後を追おうとして、ふと立ち止まる。父の部屋の中に不釣り合いな物を見つけたのだ。本棚の手前、収まりきれずに床に積み上がった本や書類の束の中にぽつんと置かれた一体のぬいぐるみ。

 ウサギのぬいぐるみだった。掌サイズの、ポケットの形をした袋にすっぽりと胴体を入れ込んだ、ウエディングドレス姿のウサギさん。純白のベールが高級感を漂わせており、女の子ならば一目で惚れ込んでしまいそうなくらいに愛らしい。

 壁掛け用なのか、ポケットの後ろ部分に垂れ下がる毛糸を摘んで目の高さにまで持ち上げる。いろいろな角度から再度眺める。愛歌の好みではあったが、見覚えがない。持っていたなら間違いなくお気に入りにしていたであろうその子は、うん、やっぱり知らない。

「父の趣味、……なわけないし。ぬいぐるみ遊びを卒業した後に来た子かしらね」

 愛歌が大きくなっても、父は会社の同僚から玩具をたびたび押しつけられていたことを思い出す。このウサギもそのとき頂いた物だと勝手に納得する。何にせよ、父が持っていても無用の長物だろう。

 玄関に行ってみると、父がなかなか履けない靴と格闘していた。

「出掛けるの?」

 まあ、そのために車の鍵を探していたんだろうけれど。一応、確認。

「うん。お母さんに愛歌の結婚の報告にな。ずっと仕事が立て込んでいたから行けずじまいだった」

「お墓参り? だったら私、先週も行ったよ? 式の後には旦那も連れて行ったし」

 父はやっと靴を履き終えて、のっそりと立ち上がる。相変わらずの仏頂面で愛歌を振り返った。

 その姿がどこか寂しげに映った。

「俺からも言わんといかんだろう。お母さんを安心させてやらないと」

 夕方には戻ると言い残して父は出て行った。


 午後になり、片付けも一段落着いたので近所に散歩に出掛けた。小さい頃はよく父と手を繋いでこの道を歩いた。肩車やおんぶを強請ったこともあったっけ。父は怒っているんだか困っているんだかわからない表情でワガママを聞いてくれていた。

「……」

 立ち止まり、来た道を振り返って改めて思う。

 愛歌の人生の大半は父との思い出だった。

 ──それってつまり、お父さんの人生の半分以上を私が独占してきたってこと?

 愛歌はそれでも異性に憧れ、恋をして、充実した青春を送ってきた。

 父はどうだったろう。休日は必ず家にいたし、平日は遅くならないうちに仕事から帰ってきてくれた。会社での付き合いもあったはずだ、趣味や娯楽だってしたかっただろう、再婚だって考えられたはずなのだ、だけどそれらに一切見向きもしないで愛歌の面倒だけを見てくれた。

 愛歌が嫁いでいくまで、父は『父親』を全うしたのだ。

 それは、果たして幸せな人生だったのだろうか。

 愛歌ばかりが幸せになっていく気がする。それを後ろめたく思ってしまう。

「……っ、やめやめ、こんなこと考えてても仕方ないでしょ」

 すん、と洟を啜り、前を向いて再び歩き出した。

 公園のベンチで一休み。ウサギのぬいぐるみを取り出し、眺めた。結局気になってしまい、父に内緒で持ち出してしまった。見覚えないはずなのに、どういうわけか、懐かしい感じがする。

「……なんだろう。デジャヴっていうのかしら。どこかでこれ、見たことある?」

 しばらく唸って考えてみたが、思い出すことはできなかった。

 突然スッと日の光を遮るように、人形に影が差した。目の前で人が立ち止まったのだ。顔を上げると、幼稚園児くらいの小さな女の子が愛歌の手元を覗き込んでいた。

「ウサギさんがポッケに入ってる。可愛い」

「────」

 愛歌は少女に目が釘付けになる。息を呑んだ、その美貌に心を奪われていた。

 なんという美少女か。黒髪のロングヘアは艶っぽく光沢を放っているし、ぱっちり開いたお目々、長い睫毛、果実のように瑞々しい唇、それらが小顔の中でバランス良く映えていて、まるでお人形のようだった。どこか色気を感じさせるしなやかな笑みは、花びらのようなフリルがちりばめられた可憐な服装と相俟って、逆説的に無邪気さを醸し出していた。

 日の光を受けてキラキラと輝いている。

 天使かと思った。

「名前はなんていうの?」

 唐突に少女が話しかけてきた。

「あ、え、私の?」

 問われて、しどろもどろになって訊き返す。こんな美少女に今までお目に掛かったことがないから動転してしまった。

 少女は不満げに唇を尖らせた。

「違うわ。このウサギさんの名前。あなたの名前になんて興味ないわよ」

 きつい物言いだったが、少女の大人びた態度にぴったりはまっていたのでむしろ感動した。こんな子供がいるだなんて、世の中広い。

 それより、このウサギの名前か。

「この子は、そうね、……歌。ウタちゃん」

「ウタちゃん? ウサちゃんみたい。捻りがないわね」

 辛い評価を付けられたが、少女は嬉しそうにぬいぐるみを見つめながら愛歌の隣に座った。愛歌は少女に向けてぬいぐるみをちょこちょこ揺らした。

「じゃあ、ウタちゃんから質問。お嬢さんのお名前は何ですか?」

「わたし? わたしの名前はテイっていうの。『百代灯衣』よ。『灯り』に『衣』って書くの。珍しいでしょ」

「いい名前だね」

「ありがとう。よく言われるわ」

 少女──灯衣は、愛歌の遊びに乗ってきた。

「テイちゃん、歳はいくつ?」

「この間五歳になったばかりよ。ウタちゃんは?」

「ウタちゃんはね、えーっと、……そう、五歳だよ。テイちゃんと一緒だね」

「そうね。奇遇ね。ウタちゃんのお家はどこ?」

「森の中だよ。テイちゃんはどこから来たのかな?」

「あっち。駅の近く。今日は天気がいいからお散歩していたの」

 ぬいぐるみを使った会話ごっこをしているうちに、灯衣がとても利発な子供であることがわかった。この子は頭が良いだけでなく、要領もいい。自分が子供であることを自覚した上でごっこ遊びに付き合っていた。そうすることが大人受けすると知っているからだ。かといってあざとさはまるで感じられない。きっと天然で演じているのだろう。

 想像だけれども、おそらくこの子は普段からたくさんの大人と接して暮らしているのだと思う。まだ就学前なのにここまで早熟なのは特殊な家庭環境に身を置いているからに違いない。

 いや、それとも、親の影響か。この子にして、……どんな親だろう。想像が付かない。

 灯衣がぬいぐるみを手に取って正面に掲げた。どうやらお気に召したようだ。あげてもいいんだけど、父の預かり物である可能性もあるので、可哀相だが後で返してもらおう。

「テイちゃんは一人でお散歩してたの?」

「一人じゃないわ。パパも一緒なの。今はかくれんぼの最中なの」

「え? じゃあ、大変だ。早く隠れないと鬼に見つかっちゃうよ?」

「大丈夫よ。わたしが鬼だから。今はパパが隠れる番」

 ふふん、とどこか勝ち誇った顔をする。

「ええっと、それは……」

 可哀相に。パパさんもまさか我が子が遊びをほっぽりだして見ず知らずの人とぬいぐるみ遊びをしているとは夢にも思うまい。それも隠れているパパを放っておいてだ。

「心配しなくてもパパならすぐに見つけられるんだから」

 自信満々に言う。楽しくて仕方がないというその表情に、愛歌は思わず見惚れた。本当に可愛い子だ。こんな子が娘だったらどれほど自慢になるかしら。

 灯衣のパパさんにも少しだけ興味が湧いた。

「あ、ほら! パパが来た! ね、見つけたでしょ!?

 向こうから歩いてくる背の高い男性が手を振っている。灯衣は「ほらね!」自分の手柄の如く胸を張る。うーん、あれは単に痺れを切らしたパパさんが反対に鬼を探しにきたんだと思うけど。

「作戦勝ちよ」

 小憎らしい。でも可愛い。

 男性が目の前に立つ。灯衣を見つめて、優しそうな顔を苦笑に歪ませた。

「テイが僕を探してくれないとゲームにならないよ」

「パパみっけ」

「んんー、見つけたのは僕の方なんだけど、テイの作戦勝ちか。参ったな」

 あっさり負けを認めるパパさん。ズルをされたにも拘わらずどことなく嬉しそうだ。

 灯衣を抱え上げて肩車する。勝者となった灯衣は満足げにパパさんの頭を撫で付けた。仲睦まじい親子はしばらくじゃれ合い、完全に空気と化した愛歌は呆けたようにその様子を眺めていた。

 不意に、パパさんが愛歌を見た。

「娘と遊んでくださったんですよね? ありがとうございました」

 とても穏やかで、優しい声。礼儀正しいし、見た目どおり好青年であるらしい。長身で細身、中性的な顔立ちと柔らかな物腰からモデルか何かだと思った。見つめられて、思わず見惚れてしまう。──いかんいかん、旦那に悪い。

 そんなことより、愛歌はこの青年が一児の父であることにも驚いていた。だってどう見たって二十代前半。愛歌より確実に年下だろうし、五歳の子供がいるようには到底見えなかったのだ。それとも童顔というだけで、本当は見た目以上に歳を食っているのかしら。

 パパさんがにこりと微笑んだ。愛歌はどきりとする。

「僕は日暮旅人といいます」

「はあ、どうも。西沢、じゃなくって! ええと、川辺と申します」

 思わず旧姓で名乗ってしまった。やっぱりまだ慣れない。苗字が違うだけで自分が別人に変わってしまったように感じる。不思議な感覚だった。そういえば、人に新姓で名乗るのは初めてだ。

「川辺愛歌。愛の歌と書いてアイカです」

 灯衣に倣って名を名乗り、漢字まで説明する。別にその必要はなかったが、新姓だけだと自分がいないような気がしたのだ。

「────、え?」

 名乗ってから気づいた。危うく聞き逃すところだった。──ヒグラシ? 灯衣ちゃんと苗字が違う?

 さりげなく旅人と、頭上の灯衣の顔を見比べる。二人は何を気にすることもなく穏やかな表情を浮かべていた。苗字が違っていることを問題にしていないみたい。

 特殊な家庭環境、だろうか。

「…………っ」

 その瞬間、愛歌の脳裏に父の姿が浮かび上がった。慌てて思考することを止める。考えてどうにかなるものでもないし、深みに嵌れば傷つきそうな気がしたのだ。この親子に当てられて父と自分を重ねてしまったようだ。

 ああダメだ。わかっていても考えてしまう。思ってしまう。父に対する後ろめたい気持ちが愛歌の心をちくちくと蝕む。

『西沢』と『川辺』。変わってしまった苗字。小さくなった父の背中。墓参りに行くと言ったときの寂しげな表情。

 ──私は、私たちはまた父を置いてきぼりに。

「でね、この子がウタちゃんっていうの。ほら、パパ見て」

「可愛らしいぬいぐるみだね。ポケットに入っているんだ。へえ、ウサギの花嫁さんかー」

 親子の声を聞いて我に返った。鼻の奥がつんとして、今にも涙が出そうになる。いけない。結婚したばかりだというのに、こんなんじゃダメだ。このままここに居たらいつ想いが溢れ出すかわからない。この親子とお別れして急いで実家に戻ろう。

 ベンチから腰を上げかけた。そのとき、愛歌を留めるように、旅人がぬいぐるみを見つめながら妙なことを口にした。

「それにしてもこんな目に見えないところにポケットを作るなんて不可解ですね。意味があまり感じられない。意味があるとすれば、それは────」

「…………え?」

 言葉の意味がわからず、思わず旅人の顔を見上げていた。

 旅人と目が合って、呼吸が止まる。とても哀しげで、それでいてとても綺麗な目をしていたから。灯衣を見つめるときのような、慈愛に満ちた目をしていたから。

 旅人の優しい声音が愛歌の心をくすぐった。

「ぬいぐるみから製作者の想いが視えます。──きっとこれは『未練』でしょうね」