彼女と知り合ったのは、未だ昨日のように感じられる学生時代だった。けれども日付のところにご丁寧に年数まで表示してくれるお節介な携帯電話を覗いてみると、あれ、こんなに経ったのかと驚いてしまう。大学を出て、もう三年が経過していた。

 人間というのは寿命の残りに応じて体感時間が変わるらしいが、なるほど最近の季節の移り変わる早さを思えば納得である。新年が始まったと思ったら、あっという間に蝉が鳴き出していた、なんてことを毎年感じる。もう一年が半分以上過ぎてしまったのかと、八月はいつも反省したり不思議だったり、少しくすぐったい。

 お盆休みにも帰る実家はなく、会社側が借り上げて提供する賃貸マンションでだらだらと寝転ぶ夏も三年目と思うと感慨深い。上司が近くに住んでいることや、同僚との間でプライベートが筒抜けになることは嫌だが、とにかく家賃が安いので貯金ばかりがもりもり貯まる。その貯金を散財せず、後生大事に貯め込んでいるのは付き合って四年か五年の彼女との間に、『結婚』の文字がちらつくことへの警戒だった。別に明日にでも式を挙げるってほど性急ではなく、そうした重そうに見えるものを無視して、まだまだ楽しくやりたいというのも本音である。しかしそうしたものを意識してしまうのは、社宅に彼女を連れ込んでいることへの後ろめたさだろうか。

 座布団を二つ折りにして枕代わりにしながら寝転ぶ俺の後ろでは、テーブルに雑誌を広げて時間をつぶす彼女がいる。中古屋で買ってきた二台の扇風機は大半、彼女のために回るようなものとなっている。

 彼女には東雲陽子というれっきとした名前があって、多分どちらで呼んだとしても怒られないのだけど、そのどちらで呼ぶかでつい迷ってしまう。だからつい、心の中では彼女と呼んで少し他人行儀に落ち着いてしまう。そうして考えることを後回しにしながら生きていると、普段の生活では相手の名前を呼ぶ機会もそう多くはないのだと気づかされる。

「お昼なに食べる?」

 読み終えたのか、雑誌を閉じた彼女が振り向いて話しかけてきた。外に食べに行ってもいいのだけど、外の日差しは今日も遠慮がない。窓から見上げているだけで出歩く気力を根こそぎ奪う。

「なんか作ってくれる?」

「材料あればね」

 彼女の声は淡々としている。淡く、耳に届くとそのまますぐ溶けるような調子だ。夏場にはそのあっさりとした部分が好ましく、冬は空っ風に呑まれて消えゆくように、少し物足りない。

「貰いもののそうめん転がってなかったかな」

「ん、見てくる」

 彼女が立って、流しの方を見に行く。意外にも素直に動いてくれたなぁと思う。俺も料理は不得意でないので、『あんたがやれ』『いいやあんたが』と押しつけあうことも少なくない。今回もダメ元で頼んでみたのだが、機嫌がいいのかもしれない。

 彼女は喜怒哀楽を激しく表に出す性分ではないので、それを読み取ることは少し難しいのだけれど。

 寝転ぶ位置を変えると、天井や壁の黒ずみが目に留まる。古くから住む連中が派閥を利かせて、住みづらい場所ではある。掃除や草むしりの共同担当はいいけど部屋の間取りが悪いし、建物も古い。もし彼女と結婚したらここに住むことはあり得ないだろう。その口実、理由も兼ねて結婚を考えてしまうのは、動機として褒められたものでなくても本心ではあった。

「結婚かぁ……」

 そんなこと、彼女と出会った当時は考えもしなかった。

 手を頭に添えて、顔を腕で覆うようにしながら身体を丸める。

「そうめんあった」という報告に「ほーいよろしくー」とくぐもった声で答えながら、彼女と初めて出会ったときのことを思い出していた。



 両親とは六歳のときに死別した。顔は覚えているし、五歳の夏に旅行へ出かけて飛行機に乗ったという思い出もちゃんとある。与えられたものはちゃんとあって、そこまで両親の愛に飢えているわけじゃない。思い出すのが、辛くはない。

 むしろ思い出すと笑ってしまうのだが、両親はどこか変わった人たちだった。妙に世間ずれしたところがあり、あのまま育てられていたら俺も他人とひと味違うようなやつになれたのかもしれないなぁと、没個性な今となっては惜しく思ってしまう。

 とまぁこんな身の上話を酒の席で話すと、うまくやれば「ドラマみてー」と面白がられる。当然そこには話し方のコツを心得ていないといけなくて、塩梅を誤ると場の雰囲気を沈めてしまうことになる。そのどちらも何度か経験済みなので、調整の感覚は概ね掴んでいる。今回は、うまくいった。

 酒が程良く回った中で極力笑い話に聞こえるよう、人生をデフォルメして語ったことでそれなりに盛り上がり、一緒に参加したゼミ生の笑顔を頂戴した。ゼミというのは色々と調べてレポートにして発表するのが面倒だけど、こうして誰かと仲良くなるきっかけとなるのは評価されるべき点だと思う。講師の目があるからサークルよりは問題が起きづらいような気もするし。

 そしてその飲み会の中に彼女、東雲陽子がいた。

 このときの彼女とはまだ隣り合って座ることはなく、四つも五つも席が離れた関係で、それを縮めようとするほど意識したこともなかった。その彼女と単純な意味で距離が縮まったのは全員が席をばらばらに移動するようになって、ごちゃごちゃして、なんやかんやがあって隣に座ることになったからだった。それまで彼女と話したことはなかったし、趣味どころか性格も分からんしなぁと悩んでいたところ、あっちから話しかけてきた。声は砂糖菓子のように淡く、居酒屋の熱気に包まれれば音もなく溶けていきそうで、声が小さいわけではないけれど聞き取るのに少し慣れが必要だった。

「変な話するのね、こんなところで」

 さっきの身の上話について言っているらしい。表情は、ほとんど変わっていない。

「他に話して面白い、特別な体験ってないんだよ」

 彼女は未だ一杯目のビールにちびちびと口をつけている。食べる方が主役なのか、取り皿を重ねた枚数は多い。その皿を数えながらも改めて、彼女を見る。

 誤解を招くような言い方かもしれないが、年上に見えた。落ち着いた口もと、騒ぎを少し遠くに見るような涼しい目。この飲み会の中でも目立ちはせず、花火を間近で鑑賞するのではなく、離れて、一人で静かに眺めているようだった。

 声の淡さにあわせたような目立たない色合いの髪は、左右に緩くパーマをかけて前髪は額にあわせるぐらいの長さで……と、大学内で観察していれば二分に一度は見る女性の髪型だった。流行っているのかな、これ。彼女に似合っているからいいけど。

「でもこういうのを語っちゃうと作り話だろ? とか同情引きたいだけだろ? とか言われることもある」

 実際に親はいないし、同情される機会なんてほとんどないが。同情している自分に酔いたいやつが時々、応援して肩を叩いてくれるぐらいだ。

「学費とかどうしてるの?」

「足長おじさんがいてね、入学費だけは出してくれたんだ。後期からの学費はなんとか自分で払ったけど、それもいつまで続けられるか。自信はない」

 まずそこを尋ねるやつはなかなかいなくて、珍しいなと感じた。だがしかしそれより気になったのは彼女がから揚げばかりの載った皿を大事そうに置いて、しかも手をつける気配がないことだった。不思議に思って見つめていると、彼女がから揚げを抱える理由を解説してくれた。

「好きなものは最後に食べる派」

「あぁなーる……別に追加で頼めばいいんじゃない?」

「割り勘だし、そういうわけにもいかないかなって」

 そんなものだろうか。慎み深いというべきなのかもしれないが、しかし冷静に考えると彼女がそういうことを言うのは得をしていないことに気づく。

「酒飲んでいないのに食べる方も遠慮したら、損しない?」

 俺が指摘すると彼女は無表情を和らげて、思案する顔つきになる。目を横に泳がせて、「確かに」と言い分を認めた。通りかかる店員を呼び止めて注文する。

「ピリ辛ユーリンチーください」

 まだ鶏を食べるのか、と横で聞いていて呆れた。

 そして俺も他の奴らが浴びるように酒を飲んでいる横でちまちま、グラスの底の液体を舐めていることで損をしないようにとビールを追加注文した。そうなると、俺も私もと便乗する酔っ払いの友人たちに苦笑しながら、その心地いい雰囲気に酔う。

 そちらに目が向いて、隣に座る彼女のことはあまり考えなかった。

 悪くはないと思った、でもただそれだけ。

 彼女と最初に話したのはそれぐらいで、強く印象に残るわけじゃなかった。



 次に彼女と話したのは半年ぐらい経ってからだった。季節も冬から夏へと様変わりして、俺も二年生になって。必ず四年で卒業する必要があったから一年の間にできるだけ単位を取ろうと気張りすぎて、少し堕落が始まろうとしていた。

 臆面もなく言ってしまえば、彼女ほしい! とかそういう欲求がちらつくのだ。俺は聖人君子でもなんでもない健全な大学二年生であり、そんなやつが去年の間ずっと、講義とバイトをストイックに繰り返していたら女に飢えるのも当然だろう。恐らく。

 しかし女以上に金がないのも事実。学費と生活費を支払うのにも足長おじさんの援助がなければ厳しい。そうなると金のかからない彼女がほしい。などと公言したら『何様のつもりだ』と批難されるのは目に見えているのでなかなか探しづらいものだ。

 そもそもやはり、金がないと遊びに行くこともできないし。難儀だ。

 そんなことばかり考えながら大学の食堂に向かい、惰性でいつものようにとんかつ定食を購入して適当な席に着くと、「おや」と声をかけられた。隣を向くと彼女、東雲陽子が座っていた。名前はゼミでの自己紹介で聞いたことがあり、覚えてはいた。

 とはいえそのゼミという繋がりも二年になったことでなくなり、今年度になってから顔を合わせるのはこれが最初だった。お互い、よく覚えていたなと感心するような顔で見つめ合う。それから、微妙な沈黙が生まれる。無理に話すこともないかと、小さく頷いてからそれぞれの昼飯と向き合う。彼女は天丼だった。

 ここの天ぷらは冷えきっていると評判なので食べたことはないけど、おいしいのだろうか。少し気にしつつ、とんかつに箸を伸ばす。端からひょいひょい食べていく。薄切りで五切れ、しかも脂身はほぼカットされて横の断面の真っ白なこと。本当にこれ豚肉かよと疑ってしまう。しかしいつも食べるのは決まってこれだった。

 この噛み応えはありながらも肉の味がしないとんかつ、いやぁ香ばしい。内心で楽しく文句を言いながら二つ、三つと食べていると横からの視線が気になった。

 彼女が俺の箸の先端を見つめている。なぜだろうと少し考えて、彼女の主義と相容れないからだろうと気づく。半年前、彼女が言ったことを踏まえての推測だ。

 最初にとんかつをばくばく食べていることについて、真似しながら説明した。

「好きなものは最初に食べる派」

「なんでっ?」

 そう尋ねた彼女の心底、意外そうな顔が色々な決め手となったのかもしれない。それまでずっと淡々としていた彼女が急に目を見開き、食いついてきたという予想できない態度に面食らい、そして今まで年上に見えていたその顔が露わにした幼さは俺の心を掴むのに十分だった。とはいえ、聞かれてすぐ答えないと首でも締め上げられそうな勢いだったので、なにはともあれと自分なりの意見を述べた。

「んーほら、食べているときに火事になったり、地震が起きたり、テロリストが突撃して占拠してきたり……なんか大げさな話ばかりだけどようするに不慮の事態が起こって食べられなくなったら後悔しそうだから」

 ここらへんは親戚の家に子供がいて、遠慮しているとなにも食べられないまま終わるという境遇の働いた部分が大きいのだろう。食べたら食べたで、煙たがられたが。

「そういう考え方もあるのか」

 ほぅほぅと彼女が頷く。しかし納得はいっていないようで、反論してきた。

「最後に嫌いなもの食べると、後味悪くない?」

「お茶とか飲んでそういうのは流しちゃうから」

「そういうテクもあるのか」

 こちらも感動しているわけではなさそうだった。感銘などなく、彼女は恐らくだがいつも通りにエビ天を残し、大葉の天ぷらから食べている。その食べ方も当然アリだ。お楽しみが最後にあるというのも、それはそれで心の励みになると思う。正義の味方だって最初から必殺技を出すことはないし、食事がエンターテイメントなら彼女が正解なのだろう。でも先に食べる俺が間違っているとも思えなくて。

 二つの考え方を両立させる方法は……あ、あった。

「いいこと思いついた」

 その閃きを嬉々として彼女に伝える。

「好きなものばかり食べれば順番関係ない」

 どうだ、いい案だろう。自信を持って言ってみたのだが、彼女の反応は芳しくない。

 口をぽわぁっと無防備に開けて、アホを見る目つきが俺に向いていた。

「いやもちろん、お金がかかるから無理だって分かってるよ」

 俺だってそれぐらいの感覚はある。そう訴えたのだが、彼女が次に浮かべたのは『問題そこだけかよ』という目だった。

「……子供」

「なんか言った?」

「んん……いいこと言うじゃん」

 ごまかすように小さく首を振った後、彼女が俺の肩を叩く。

 それから泡雪のような顔つきをにやりと崩して、カボチャの天ぷらをかじった。

 この閃きが気に入られてか、俺は彼女と顔をあわせれば話す仲となった。



 彼女とデートらしきものに出かけたのは、そこから更に二週間ほど経ってからだった。前期試験も終了して夏期休暇も始まるということが決め手だったと思う。その解放感に浮かれて、帰るついでにどこか寄ろうという話になったのだ。

「と言っても遊ぶ金はないし、駅で昼ご飯でも食べて帰ろうか」

「いいよ」

 彼女も暑い中あまり動き回りたくはないのか、賛同してくれる。しかし、金がないか。切実で、どうしようもない問題だ。多分これ以上の悩みなんてこの世にない。

 地下鉄で遠くの駅へと行って、デパ地下のカレー屋を訪れた。テイクアウトの方が主の店だけど、その場で食べられるように椅子が四つほど用意されている。彼女がそこの常連らしく、誘われるままにやってきたというわけだ。

 勧められたカレーをそのまま注文して、黙々と食べる。誘ったのは俺だが、デートということをこのときはほとんど意識していなかった。ただ、彼女が勢いよくお気に入りのカレーを食べる様を眺めているとついにやついてしまい、結果、ジト目を頂戴した。

「なに?」

「楽しそうに食べるなぁと思った」

「いけない?」

「とても健康的でよろしいかと」

 俺としては褒めたつもりだったが彼女には不服だったらしい。姿勢を正して、食べる速度も落とす。「なんか面白みがないな」と口に出したら睨まれたので、前を向いた。

 黙ってぱくもぐとカレーの具を食べていると、彼女が質問してきた。

「ニンジン好きなの?」

「ん? そんなことないけど、なんで?」

「好きなものから食べるんでしょ」

 彼女が俺の丸皿を指差す。見ると確かにニンジンがほとんどなくなっていた。

 が、これは意図したわけではない。

「いや別に。カレーの食べる順番は意識したことがないな」

 カレーは全体を見渡してこそだ。絵画の一部分だけを見て評価するわけにはいかないのと同じく、ニンジンやジャガイモだけでカレーを評価することはない。多分。

 そうなるとこのカレーはいつか言っていた、好きなものばかりを食べれば順番を解決できる、というやつを一皿で示した凄い料理なのかもしれない。もしかしたら。

 そんなことを考えながら彼女の皿を見てみると、ジャガイモばかりがごろごろ残っていた。分かりやすい。ニンジンが好きだと答えたら、こっちに移したかもしれない。

 また少し黙って食べ進める。彼女はなにか食べていると、普段から少ない口数がますます控えめになる。俺も子供の頃は黙って食えと教えられたものだが、彼女の場合は少し違うようだ。さっきも言ったが食べることが楽しくて仕方ないようだ。

 そんな俺の感想を、まるで受信でもしたかのように彼女が唐突に言った。

「時々だけど、肉を食べているのが不気味に感じる」

 肉をスプーンですくい上げながら、肉食について否定的な発言をする。

「分からないけど。これ、動物の肉なんだよなぁって思うと、ちょっと気味悪くなる。でも食べるとおいしいから、どうでもいいかってすぐ忘れる」

 そう言いながら彼女が豚肉をかじった。店の奥で調理している人も聞いていたのか、彼女に一瞥を向ける。そこに別の会社員風の客二人組が入ってきたので、調理途中だったおじさんが営業用の愛想いい顔で注文を取り始めた。

 それを若干柔らかい表情で眺めながら、彼女が俺に問う。

「拓也はそういうの、ある?」

「そういうのはないけど……似て、いるかはしらんことを思うときはある」

「どんな?」

 聞かれて、店の奥に目をやりながら答える。

「バイト先で余った食べ物を捨てるときがあるんだけど、もしそういうのが生き物への冒涜なら、地獄に落ちるのは残したやつだけじゃなくて、俺もなのかなぁって」

 これは死後の世界とか幽霊なんていうものがあったらの仮定だけど、あるのなら人間以外にもそれがないというのは不自然だ。当然、人間を恨んでいることだろう。

 そして殺された方からすれば食べようと捨てられようと、大差ないだろうと思う。関わった人間みんなを恨み、果たせるものなら復讐ぐらいはしてくるかもしれない。

 そんなことを暇なときに考えると、この仕事をやっていていいのかと少し疑問に思うときもある。悩むがしかし、俺がやらなくても他の誰かがやるだけだ。

 結局、人類を憎むことには変わりないだろう。

「案外、難しいことも考えるのね」

 彼女の感想はそれだった。発言内容より、俺の頭に偏重している。

 案外という一言から普段の俺をどう評価しているのか大変気になるところだが、それはさておき彼女からすれば取るに足らない悩みなのだろう、きっと。悩む人もいれば、悩まない人もいる。そのどちらにも意味はあり、しかし俺は悩まない人と出会ったところで『悩まなくていいんだ』と感化されて、疑問を破棄することはしないでいようと思う。人の性格を羨むことなく、ただ自分でありたい。

「まぁとりあえず言えることはカレーがうまい。連れてきてもらってよかった」

「でしょ」

 彼女がまんざらでもない顔を浮かべる。少し得意げなのが珍しい。

 カレー皿を見る。豚肉をすくって、口に含み、強くかみしめた。

 食べた時点で、命への大切さとか尊さを語る資格はないのかもしれない。

 それでも自己満足のために、俺は今日もこう言うのだ。

 ごちそうさま。



「そこのぐーたら拓也。できましたよーっと」

 つらつらと思い出に浸っている間に、働き者の彼女がそうめんの入った鍋を持ってきた。テーブルの中央に置く。それからめんつゆとショウガのチューブを置いた。

「お、どっちもまだあったんだ」

「めんつゆの賞味期限は見なかった方向で」

 見ないようにしようとぐりぐり回転させて、賞味期限の表示を明後日の方に向けた。そんな茶番みたいなことを交えながら箸と小皿を用意して、そうめんをすする。

「うん。ぐーたらには過ぎたごちそうだ」

「こういうのを食べると冷やし中華が食べたくなるよね」

 ちゅるちゅると麺をすすりながら彼女が言う。……うぅん。

「どうしたの、遠い目して」

「さっき、昔のことをちょっと思い出していてさぁ」

「うん」

「きみとの思い出って、大体なんか食ってるときだと思った」

「まるで私が単なる食いしん坊に聞こえますね」

 む、と彼女が不満げに唇を尖らせる。聞こえますね。そして食事をしながら別の食べ物のことを考えるのは、立派な食いしん坊と言えるのではないだろうか。

「単なるとは言わないけど」

「複雑で味のある食いしん坊? ま、褒め言葉と受け取っておく」

「あと結婚とかを考えていた」

 言ってから、話題に出すんじゃなかったなと後悔したが既に遅かった。ちゅるちゅるとそうめんをすすっていた彼女が、訝しむような顔で俺を窺う。こちらもそうめんを箸で掲げたまま止まる。鼻の近くで止まったそうめんからは、ショウガの香りが強く届いた。

「過去と未来をごっちゃにしすぎじゃない」

「昔を思い出したのはおまけなんだけど」

「結婚を主に考えていた? それはそれで……こう、据わりがいまいち」

 そう言って彼女が座り直す。そりゃ確かに、急に言われても困るだろう。俺だってなにも今すぐ結婚するつもりはないのだ。いや彼女と結婚するかも分からないのだ。

 ただこのままの流れだと可能性はあるなぁというだけで。しかも結構な高さで。

「二、三年以内にはまじめに考えないと、とか思っただけ」

「それは否定しないけど」

 箸の先端を口に含んだまま、彼女が唸る。子供が宿題に悩むようだった。

「私もちょっとは考えるよ。結婚したら今の仕事をどうするとか、親が見合いの話でも探してこようかとかうるさいし」

「あ、とりあえず見合いは断っておいてください」

「はいはい」

 彼女が息を抜いたように、軽く肩を落としながら笑う。む、なにがおかしい。

 しかし、見合いか。そういう出会い方もあるんだろうな。

「見合いかは分からんけど、親父たちは引き合わせてくれて、仲まで取り持ってくれた人がいたって常々感謝していたよ。そこまでレールを敷いてくれたら、その人しかいないって思って楽に決まるんだろうな」

 昔に聞いた両親の話を出すと、彼女の目が反応する。細く整った目が俺を見た。

 昔からそうだが、彼女の顔は凜々しい。年を経て一層、魅力的に映る。

「そういえば、両親いないんだったね」

「あれ、よく覚えていたねその話。何年も前に一回しただけなのに」

「そりゃあ忘れないでしょ。……まー、きみのことだし」

「おぉう」

 彼女が珍しくかわいいことを言うので、その顔を覗こうとしたらショウガチューブを振り回された。「照れてる?」とでも聞こうものならたんまりと口の中にショウガを詰め込まれそうなので、距離を置いて彼女の赤らめた頬を楽しむに留めた。

 それについて尋ねても、暑いからとしか言わないだろう。そういうところがいい。

 しばらくはこんな緩い空気が続けばいいと思う。

 むしろこんな雰囲気を保てないなら、その人と結婚すべきではないだろう。

 両親の仲むつまじい姿を思い返して、そこに理想を見出した。



 昼飯を食べた後もぐだぐだと、寝転がるだけの無益な時間を過ごした。仕事が忙しいときはもう二度と働きたくねぇ、あれするぞこれするぞと願望が膨らんでも実際に暇になるとなにもすることがない。仕事に立ち返ろうとしてしまう。もっと本格的な趣味を始めてみようかなぁと、窓の向こうに浮かぶ太陽を眺めながら考えてしまう。

 陶芸とかどうだろう。ガラス細工でもいいし。なにか作るのを求めている感じだ。

「鶴をひたすら折るとか……どうかな」

「は? 千羽鶴でも作るの? お見舞い?」

 俺の独り言に彼女が首を傾げる。「いやぁべつに」と寝返りを打って彼女の方を向いた。彼女はそうした言葉をそのまま素直に捉えるらしく、本当に気にせず別の話題を振ってきた。

「夕飯はどうする?」

 本当、そういう話題の多い人だな。大食いってわけでもないのに。

「夕方は、そうだねぇ……外にでも食べに行こうか」

「それはよいですよ」

 変な日本語で彼女が賛成する。そして読んでいた本を両手で挟むように閉じる。

 彼女の本を閉じる仕草が好きだ。ぱたんと、人よりもいい音をさせる気がする。扉を閉じる音をずっと柔らかくしたようなそれは、新しいことを始める際の希望に満ちた音にも聞こえた。そこまで言うと我ながら大げさな気もするけれど。

「じゃ、出かける準備するからちょっと待って」

「え、もう?」

 時計を確かめると四時過ぎだった。晩ご飯には少々早い。

「まだ夕方ってほどの時間じゃないけど……散歩ついでに行けばいいか」

 彼女と違って身だしなみなど整える必要がないので、大の字に寝転んで待った。

 そんな俺を見下ろして、彼女が問う。

「前から疑問なんだけど」

「はいなにか?」

「男って身支度に時間かけなくてもいいのに、なんで待ち合わせに遅刻するのかな」

 彼女が腰に手を当てて憤慨する。俺は待ち合わせって遅れない方なんだけどな。

 待ち合わせる時間を曖昧にするから。

「人によるだろ。かけるやつは一時間、二時間を当たり前に費やすよ」

 大学時代も髪型を決めるために朝六時に起きている、間違った健康的な生活を送るアホがいた。やつは講義が終わる度にトイレへ直行して、洗面所の鏡で髪に櫛を入れるという忙しい生活を繰り返していた。待たされる友人は一様に『さっさとハゲてしまえ』と思ったものだ。まぁそういう極端なやつもいる。

「じゃあきみは?」

「俺も、ほら、ヒゲ剃ったり歯を磨いたり」

 今後、絶対に待ち合わせに遅れない保証がないので予防線を張っておく。いや張っておこうとしたけどあまり理由を思いつけなかった。これは今度から遅刻できないね。

 彼女の準備とやらは十五分ぐらいで終わった。化粧なんて外を歩いて汗かいたら終わりだと思うが、その意見を口に出すほど愚直ではない。黙って上司や同僚に見つからないようにマンションを出た。既婚者、独身問わず住むことができるのはありがたいが、肩身も狭いし古くからの派閥やらなんやらが面倒で、どうにも住み心地は悪い。

 外に出てからは閑静な住宅街から一本外れて、児童用の公園の前を通る。道路まではみ出すように生い茂った木の生む木陰が心地よくて、夏はいつもこの下を歩く。逆に冬は日差しが届かなくて寒々しく、この道を通る気になれない。

 人通りはほとんどない。公園で遊ぶ子供というのもめっきり少なくなった。きっと今頃は冷房の効いた部屋でゲームでもしているのだろう。代わりに騒々しいのは蝉。頭の上が本当にうるさい。夏も終わりに近づくと、寿命の差し迫った蝉が頭に落ちてくることもしばしばある。それだけならいいが、小便を引っかけるのは許しがたい。

「しっかし、町の方に出るのも不便だよね。拓也の住んでるとこさ」

 緩く上り坂となった道を歩きながら、彼女が愚痴る。

「将来的には出て行くよ」

「あー……あれ、結婚したらーとか?」

 昼の話題と絡めてか、彼女が喉になにか詰まらせるような物言いで冗談めかす。

 言いづらいなら言わなければいいのに。と、思いながらも俺も言ってしまう。

「将来的には結婚も考えている。きみはそんな相手なんだ」

 言ってから、これも口にする必要あったかなぁと後悔した。同時に不安も募る。

 俯きながら、不安をはね飛ばすために尋ねてみた。

「えぇとあの、この調子で何年か経ったら、結婚してくれますかね」

 下手に出て、お伺いしてみる。恐る恐る顔を上げて彼女の反応を確かめると、非常に希少なものが拝めた。彼女がにたにたと、ともすれば意地悪く見えるほどにやついている。自覚があるのか手で口元を覆うが、今度は目がうにうにとひくついた。

「な、なんだよ。おかしいか」

「だって、子供が悪さを許してもらうときみたいに言うんだもの」

 そう表現して彼女が肩を揺する。後ろから歩いてくる男にまで笑われている気がして、屈辱だった。世界全体に笑われている感じだ。なんという幸せな被害妄想だ。

「とにかく結婚すんの。いいねっ」

 勢いで婚約を申し出て話を締めくくった。恥の上塗りとはまさにこのことではないだろうか。何年か先の、もしかしたらという話のはずがいつの間にかこの場で結婚するような内容にすり替わっている。そこを笑いながらも子供をあしらうように、

「はいはい、」

 彼女が頷殴られた。何気なく通り過ぎようとしていた男に、思いっきり。

 結果として彼女はものすごく急な角度で頷いたことになる。

 あれ。

 なにこれ。

 目が点になり、真っ白な火花が散り、最後に怒りで頭が熱くなった。

 頭皮からの発汗で髪がずぶ濡れになるように、瞬間的に沸騰する。なんだお前と問うことと、掴みかかろうとするのが同時だった。だけどそのどちらも避けるように、男が横に逸れる。まずいと思った直後には俺の頭にも石が振り下ろされたように、硬い拳が叩きつけられていた。人間に頭を殴られただけで意識が霞み、吐き気をもよおすことになるのは未経験だった。続けて顎を殴り抜かれて、膝が笑って崩れ落ちる。

 二度も強打されると抵抗の意欲はすっかりそげ落ちて、ごめんなさいという気持ちでいっぱいになる。悪いことなどなにもしていないのに謝りそうになってしまう。

 とにかくもう痛い目を見たくないという一心で、譫言のように謝罪する。

 そして後方から見計らったように現れた車の後部座席に、彼女共々連れ込まれる。

 拉致。誘拐。

 そんな非常事態を表す言葉が思い浮かび、頭の中が真っ白に浸食されていく。重ねて横にされた彼女の方にも意識があって涙目になっていた。彼女が泣きそうになっているところなど初めて見る。痛みの怖さを間近で見ることになり、戦慄する。

 どうなってしまうんだ、俺たち。

 お互いの目に、不安が合わせ鏡のように浮かぶ。

 拉致されるほど酷いことをした心当たりなんか、むろん、なにひとつないのに。