その日、前田凜は、古びたマンションの一室の前に立ち尽くしていた。その手には、アルバイト情報誌の切り抜きが握られている。

 目の前の、ところどころ塗装がはげた鉄製の扉には、白いプラスチック製の表札が掲げられていた。そこには、黒くシンプルな字体で、「Red Crescent レッドクレセント」と記されている。

 ここで間違いない。凜は改めて、その切り抜きを見つめた。名前の意味は分からないが、取り扱い商品多数、と書いてあるからには、てっきりお洒落な雑貨屋か何かと思っていたのに。ここは、どう見ても、ありふれたマンションの一室でしかない。

 扉を前にして、呼び鈴を鳴らす勇気がなかなか出てこない。最近は、マンションの部屋で営業してる店とかもあるよね。凜は、そう自分を納得させる。

 意を決して古臭いインターホンのボタンを押すと、しばらくして女性の声がした。

「はーい、どなた?」

 凜は、インターホンに気持ち顔を近付け、「あ、アルバイトの件で電話した前田凜と言います」と伝える。

「ああ、今開けるから」

 すぐに鍵を開ける音がして、扉の向こうから現れたのは、長い黒髪の女性だった。


 そこは、凜の自宅から一五分ほど歩いた住宅街の一角にある、何の変哲もないマンションだった。アルバイト情報誌の求人広告を頼りにここまでやってきたのだが、凜の想像とは違い、そこに営業中の店舗らしきものはなかった。しかし、凜が切り抜いてきた求人広告に記された住所は、間違いなく、一階のこの部屋だ。

 高校卒業後、親に勧められるままに入学した専門学校も、この夏で辞めてしまった凜は、毎日、時間を持て余していた。ただ、うちだって裕福なわけではない。せめて、生活費ぐらいは自分で稼がなければ、とアルバイト情報誌をめくったが、なるべく時給が高く、それでいて面白そうなところ、という条件のもと、見つけたのがこの求人広告だった。女の場合、手っ取り早く稼ぐには、夜の飲み屋の仕事が定番だが、ほとんどアルコールを受け付けない凜にとって、できればそれは避けたかったこともある。

 広告によると、時給は、能力により応相談となっていた。それは分かるとして、仕事内容も、応相談、とはいったいどういうことなんだろう。「世界を相手にするお仕事です」と書かれているからには、外国と雑貨の取引でもやっているのだろうか。

 さらに、高給保証、という言葉が付け加えられているのが、魅力的でもあり、また怪しくも感じる。家から歩いて通える場所というのが大きなポイントだが、何より、他のありきたりな求人広告とは異なり、すべてが曖昧で、どことなく不思議な印象を受けるこの求人に、凜は興味を覚えたのだ。


「どうぞ、入って」

 その女性の言葉に従い、おそるおそる家の中に足を踏み入れる。前を歩く女性の後ろ姿を見つめながら、黒い髪が綺麗だな、と凜は思っていた。年は三〇歳前後だろうか。体にフィットした黒のトップスにレギンスパンツと、黒ずくめの格好をした女性の引き締まった体から、凜は、黒ヒョウをイメージする。

 通されたのは、部屋の中心にテーブルとソファーが置かれた、ありふれた居間だった。女性に促されるままに、ソファーの一つに腰を下ろし、凜は辺りを見回す。その居間には、一通り家具は揃っているものの、あまり生活感が感じられなかった。どう見ても、ここで何かを営業しているような雰囲気ではない。ただ、ソファーの作りだけは豪華だった。

「どうぞ」と女性が凜の前にティーカップを置く。そして、窓際の、三人は座れそうな大きなソファーの真ん中に腰を下ろすと、背もたれに体を預け、長い足を組んだ。その様がとても絵になっている。

 カップにも手を付けず、凜が見とれていると、「何? 緊張してるの?」とその女性は笑った。

「い、いえ」と答えつつ、慌てて持参した履歴書をカバンから取り出す。普段カバンを持ち歩かない凜は、今日は母親から借りてきてはみたものの、それがいかにもおばさん臭く、そそくさと足元に隠した。

「これ、履歴書です」

 履歴書を手渡しながら、先に仕事内容を聞くべきだった、と凜はちょっぴり後悔していた。

「ありがと」と女性は凜の履歴書を眺める。「ふーん、『凜』ってこの字を書くんだ。良い名前だね」

 こちらを見る女性の優しげな表情に、凜の気持ちもようやく落ち着いてくる。長い黒髪を後ろで一つに束ね、化粧も薄く、飾り気のないその女性だが、顔立ちが整っていて、一言で言えば、美人だった。

「私は、浅井美紅。美しい紅って書いて、ミクね。よろしくね」と美紅が手を差し出したので、凜はおずおずとその手を握り返した。

「家も、ここから近いんだね。今は、フリーターって感じ?」履歴書を見ながら、美紅が訊ねる。

「はい。先月で専門学校を辞めてしまって……」

「そっか、じゃあ、けっこう時間は自由になるよね?」

「はい」

「時間が遅くなっても、親御さんは心配しないかしら? 深夜とかでも?」

「え? まあ、あらかじめ言っておけば……あ、あの、ここって何のお店なんですか?」

 いかがわしいところだったらどうしよう、という不安が頭をよぎる。

 しかし、そんな気持ちを見透かしたように、「大丈夫よ、そんな心配しなくても」と美紅は笑った。「ちょっとした輸出業者兼運送業者ってとこかな? ここはその事務所よ」

 やっぱり、外国と取り引きしてる会社なんだ、と凜は納得する。ただ、輸入じゃなくて輸出ってところが何となく引っ掛かっていた。

「具体的には、どんな仕事をするんですか?」

「そうねえ……」と美紅は何かを考えている様子だったが、良い考えが思い付いた、とでも言いたげな顔をしてこちらを見た。

「実際にやってみた方が早いのよね。ねえ、この後は空いてる?」

 身を乗り出した美紅は、凜の顔をまっすぐ見つめたまま、楽しそうに微笑んでいる。

「え? これから、ですか?」いきなりの展開に凜は戸惑っていた。確かに、特に予定はないんだけど。

「免許は持ってるんでしょ?」と言いながら、美紅は履歴書に目を落とす。

「……はい、高校を卒業する時に取りました」

「じゃあ問題はないわ。心配しないで、簡単な運転手のようなもんだから」と美紅は強引に話を進める。「とりあえず、これだけは保証するわ」

 片手を開いた美紅に、五千円か、と凜は納得する。特別高給でもないが、それがあれば、プレゼント代の足しにはなるだろう。晃の誕生日はもう来週だ。

「どうする? やってみる?」

 まだ凜が返事を躊躇っていると、黒目がちなその目でこちらを見つめた美紅が、意味ありげに微笑んだ。

「毎日、退屈してるんでしょ?」

 その言葉に、自分の胸の内を見透かされているような気がして、ハッとなる。ラストシーンまで想像できてしまう未来に、冷静に退屈していた凜の心に、新しい風が吹いてきた瞬間だった。

「……あたしで、大丈夫ですか?」

「もちろん。あなたじゃなきゃ、できないこともあるのよ」美紅はこちらを見てウインクをした。「どう? やってみない?」

 こちらをまっすぐ見つめ、もう一度そう訊ねた美紅に、凜は、「はい」と答えていた。

「よし、決まりね」と美紅が頬を緩める。「じゃあ、とりあえず変装しよっか?」

「……え? 変装?」

「だって、その格好じゃまずいのよねえ」と美紅は、ワンピースにカーディガン姿の凜を眺める。「ってことで、行くわよ」

 美紅に引っ張られるようにして、凜は、「事務所」を出る。先を行く美紅を眺めながら、何かが始まりそうな予感に、凜の胸は高鳴り始めていた。


 二年前の秋、こうして、あたしは美紅さんと出会った。

 キーッ。

 静まり返った夜の街に、車の急ブレーキ音が響き渡る。道路際に急停止した白いクラウンの運転席のドアが開き、降りてきたのは、短髪で目つきの鋭い、若い女だった。

「さむっ」

 車から降りるなり、肩をすぼめ、その女、前田凜は呟く。冬が近付き、朝晩はすっかり冷え込むようになっている。空気は澄み渡り、辺りはとても静かだ。だが、凜は、どこか寂しさを漂わせる、こんな秋の匂いが好きだった。

 ジャンパーのポケットに手を突っ込み、今来た道を少し戻ると、月明かりの下、凜は、歩道上に立てられた電柱を見上げる。そこには、白地に赤い字で「質」と書かれた看板が取り付けられていた。

「これか……」

 その看板によると、質屋は、すぐ先に見えている脇道を左に曲がった方向にあるらしい。凜は、ジーンズの尻ポケットに手をやり、持参した物の存在を確かめる。そして、車に向けてキーリモコンのボタンを押すと、彼女にはあまり似つかわしくないその高級車は、ライトを一度点滅させ、ロックが掛かったことを示した。

 その脇道を左に折れ、少し歩く。凜は、そこに立っていた電柱にも、同じ「質」の看板を見つけた。ただ、外灯の灯りを頼りに目を凝らしてみても、色褪せたその看板からは、質屋の場所を示すような情報を得ることはできなかった。念のため、凜はその電柱をぐるりと見回してみるが、何か張り紙を貼ったような古い跡以外、何の情報も見当たらない。

 その先の電柱には看板がないことを確認すると、凜は注意深く辺りを見回す。聞いていた通り看板はあったのだから、この近くに質屋があることは間違いないのだ。仕事柄、暗闇には慣れていた。

 すぐに凜は、電柱の目の前に建つ雑居ビルと隣のビルの間に、路地のようなものが延びていることに気が付いた。こっちか、と原付バイクの横をすり抜け、迷わず先に進む。すると、急に目の前が開けた。

 なんだここ、と凜は思う。さすがにこんな光景は想像していなかった。電柱のものと同じデザインの看板が据え付けられた門柱の前に立ち尽くし、目の前に広がる光景を眺める。無駄に広いその庭には一本の木がぽつんと立っており、後ろの建物から漏れる灯りに照らされ、黄色や赤に染まった葉が余計にその色味を増しているように見える。その背後には、時の流れに取り残されたような、雰囲気のある二階建ての建物が建っている。凜は、別世界に迷い込んでしまったような感覚に陥りそうになった。

 それでも、看板が出ているからには質屋に間違いないんだろう。「買い取りもします」と手書きの文字で書かれたその看板を、凜は改めて見つめる。

 意を決した凜は、門柱に貼られたポスターが剥がれかけ、風にはためいているのを気にしつつ、建物へ向かって歩き出した。冷たい風に吹かれながら、玄関へと歩いているうちに、こんな時間に営業してるのか、という思いが、ふと頭をよぎる。車を降りる前に時計を見た時、既に午後九時を回っていたはずだ。いきなりの検問に足止めされているうちに、こんな時間になってしまった。車で聴いたラジオニュースによると、イギリスの皇太子がわざわざ札幌なんかに来るらしい。どっかで偉い人が集まる会議があるらしいが、ほんといい迷惑だ。

 玄関の前で、凜はもう一度立ち止まった。そこには、「六文屋」と刻まれた木の看板が掲げられている。店の名の上に刻まれた六文銭の家紋を見ながら、これ、昔どっかで見たことがあるなあ、と凜は思っていた。

 とりあえず当たって砕けろだ、と凜が勢いよく玄関の扉を開けると、カランカランカラン、と扉に取り付けられたベルの音が鳴り響いた。

「おかえりなさーい」

 迎えた女の声に、メイド喫茶のつもりか、と怪訝な顔をして凜はそちらを見る。

 目の前のカウンターの向こうにいた女を見て、凜は一瞬ギョッとした。が、すぐに別人だと気付く。そりゃそうだ。長い黒髪の女性なんて、どこにだっているだろう。それに、よく見てみれば、美紅さんはこんなに子供っぽくはない。

「喫茶ですか? それとも質ですか? んーあんまり質って感じじゃないかな?」と女は笑う。

「え?」思わず凜は訊き返していた。

「えっと、お茶しに来たの? それとも、何か売りに来てくれたとか?」

「は、お茶?」さっきから何言ってんだろこの子、と思いながら、凜は、「ここは質屋なんでしょ?」と念を押す。

「そうだよ」

「じゃあ、これを買い取って欲しいんだけどさ」

 急ぐように凜は、尻ポケットに入れていた一枚の銀貨を取り出し、カウンターの上に置いた。

「綺麗だねー」と呟きながら、女が銀貨を見つめる。

 綺麗だね、じゃないよ、と凜がイラついていると、女は、店の奥に向かって、「ジュウジ! お茶じゃないお客さーん!」と呼び掛けた。

 しかし、店内は静まり返ったまま、何も返事がなかった。

 お茶じゃないから何なの、とまたイラッとする。この子は単なる受付みたいなもんか、と思いながら、凜は銀貨をポケットに戻した。

「ジュウジー! お客さんだって言ってるでしょ!」今度は声を大きくして女が呼び掛ける。

 すると、店の奥から、「はい、はい! 今行きますからね!」と男の声で返事が返ってきた。

「可愛い女の子を待たせちゃダメだよー!」

 可愛いはまあ良いとして、女の子という表現に引っ掛かりを覚えながら、凜は、目の前のたいして年も変わらないような馴れ馴れしい女を、睨みつけるように見ていた。

「ジュウジね、今朝の占いが良かったから、今日はご機嫌だから」

 思いがけない女の言葉に、凜は、「占い?」と訊き返す。

「うん、ジュウジはね、基本、朝の占いの結果で一日の気分が決まるんだ」

 いかにもそれが当然というように言った女は、こちらに微笑みかけると、店の左手の応接スペースへと凜を案内した。その女は、身長一五五センチメートルの凜より少しだけ背が高かったが、明らかに、凜よりもスタイルが良かった。これは美紅さんと良い勝負だな、とまた凜は思う。白いシフォンブラウスに黒いキュロットスカートと、モノトーンでまとめた服装も美紅の姿を思い出させた。それに、首元に光る銀色のペンダントが良いアクセントになっている。

「そこでちょっと待っててね」とタメ口で話す女に言われるがまま、凜は、そこにあった大きなソファーに腰を下ろす。そのソファーの上には、なぜか堂々と白い犬が寝そべっていた。凜が少し警戒しながらその犬を眺めていると、犬はむくりと起き上がり、こちらを見上げる。そっと手を出してみると、その犬は、凜の手をペロッと舐めた。

「あれ、アンドレが愛想良いなんてめずらしいねー」店の奥から戻ってきた女が言う。

「アンドレはね、いい子なんだけど、初めての人には基本愛想ないんだよね。もしかして、犬好き?」

「え、ああ、別に嫌いじゃないけど」

「そっか。それが分かるんだね。犬好きに悪い人はいないから」

 無邪気に微笑む女の「悪い人」という言葉に、凜の頬がわずかに引きつる。

「ジュウジ、もうすぐ来ると思うから。これでも飲んで待っててくれるかな」

 女はそう言うと、目の前に置いたティーカップに、なみなみと紅茶を注いだ。

 凜の鼻にりんごの良い香りが香ってくる。アップルティーなんて飲むのはいつ以来だろうか。って言うか、これは淹れすぎだよね、とツッコミたくなる気持ちを抑えながら、凜はこぼれそうになるティーカップをそっと口に運んだ。

「……あ、美味しい」凜はつい口に出していた。

「よかったー」と女が嬉しそうに笑う。「カフェもやってるから、いつでもお茶しに来てね」

 質屋でカフェって、と凜は苦笑いを浮かべる。ただ、ようやくゆとりのできたカップに、ミルクを入れてかき混ぜながら、凜は、紅茶も悪くないなと思っていた。

「お待たせしてすみません」

 その声に凜が顔を上げると、いつのまにか目の前に若い男が立っていた。

「どうも、六文屋四代目店主、片倉十士と申します」と名乗った男は、こちらを見て笑みを浮かべると、丁寧に頭を下げ、名刺を差し出した。

 そんな習慣のない凜は、慌てて立ち上がり、名刺を受け取る。そして、目の前のソファーに腰を下ろす片倉に合わせるように、また座り直した。

 片倉の様子を窺いながら、なんか暗そうな奴、と凜は思う。笑顔を作ってはいるものの、目を隠すほどの長いくせ毛の髪が、全体的にウザったいのだ。古臭いデザインの服装も、まさにお似合いだ。ただ、前髪の隙間から覗く切れ長の目だけは妙に印象に残った。

 あまりご機嫌には見えないけど、と凜は苦笑する。

「ジュウジ、可愛くても、こういう感じの子だと緊張しないんだねー」まだそこに立っていた女が、なぜか興味深げにそう言った。褒められているはずなのに、どこか腹が立つ。

「ミカさん! 今そんな話をしなくてもいいでしょう!」慌てた様子で、片倉が言い返す。

 いったい何の話だ? それに、ジュウジかトウジか、どっちなの?

 凜が悶々とした気持ちになっていると、片倉が、「それにミカさん、僕の名前は、トウジ、ですからね、ト・ウ・ジ。何度も言ってますけど、いい加減ジュウジと呼ぶのをやめてください」と抗議するように言った。

「ジュウジの方が呼びやすいじゃんね?」

 ミカと呼ばれた女が突然同意を求めてきたが、凜は、どっちでもいいよと思いつつ、「そうかもね」と曖昧に答える。

「とにかく、仕事の邪魔はしないでください、ミカさん」

「邪魔なんてしてないし。お茶出しただけだしー」そう口を尖らせながらも、ミカは、なぜか片倉の隣に腰を下ろした。

「いや、すみませんね。いつもこうなんですよ」

 苦笑いを浮かべた片倉に、ミカが、ベーと舌を出す。何なんだこの二人の関係は、と凜は疑問に思っていた。

「赤、がお好きなんですか?」

 そんな凜を見た片倉が、唐突にそう訊ねる。

「え? は?」と凜はつい自分の姿を見回す。あたしが着ている服に、赤いものなど一つもないのに。

「その様子では、誰かからのプレゼントでしょうか?」と片倉が笑いながら問う。

「この香り、赤いボトルの香水をお使いでは?」

「ええっ、なんで分かるの?」と凜は声を上げた。確かに、今つけている香水は、以前美紅から貰ったものであり、しかも、お洒落な赤いボトルに入っている。凜は、その香水をいつも身につけていた。

「実はですね、うちでも、最近は香水や化粧品などの買い取りも行っているんですよ」

 いつでもご利用ください、と片倉が営業スマイルを浮かべる。

「それで、その香水も取り扱ったことがあるんです。人気のあるブランドのものですからね。香水を選ばれる時、ボトルの色で選ぶのも一つの方法だと思いますが、赤には、気持ちを高めたり、積極的にしたりするような効果があるんですよ。さらに、赤はツキを呼ぶ色とも言われていますので、ここぞという機会には、その香水を使われるといいと思いますよ」

 凜は、「ああっ」と思わず口に出していた。美紅の姿を思い浮かべながら、だからなんだ、と納得する。

「それに、その香水、赤いボトルのデザインも魅力的ですが、パッケージのデザインも印象に残りますよね。大きく描かれた、ブランドの頭文字である『C』の字が、まるで赤い三日月のようで」

 その言葉に、凜はハッとして片倉の顔を見たが、片倉はただ楽しげに微笑んでいるだけだった。パッケージを見たことはなかったが、赤が好きな美紅が、この香水を愛用していた理由が、今分かった気がした。

 凛は、目の前の片倉を見つめる。この分なら、噂通り、この質屋は頼りになるかもしれない。

 そこで、「ジュウジー」とミカがひとこと告げた。

「す、すみません、余計な話をしてしまいましたね。それで、今日はどういったご用件でしょうか?」頭をかきながら片倉が訊ねる。

「ああ、これを、買い取って欲しいんだけど」片倉の問い掛けに、凜は改めて銀貨をテーブルの上に置いた。灯りを反射して、銀貨は綺麗に輝いている。


「買い取りでしたら、こちらにご記入いただけますか」

 そう言いながら、申込用紙を差し出した片倉の動きが、一旦止まる。銀貨をじっと見つめた後、片倉は、左手で長い前髪をかき上げながら、こちらをちらっと見ると、また視線を戻した。

 凜がその仕草に思わずドキッとしていると、

「これは、上々ですね」

 銀貨を手に、片倉が呟くように言った。

「また言ってるよ」ミカがまだ不機嫌そうに眉をひそめる。

 そんなミカに苦笑しながら、良い物ならよかった、と凜は安心していた。それに、目の前の片倉をよく見てみると、あごのラインはシャープだし、けっこうイケメンかもしれない。やっぱり、その目が魅力的だ。

 片倉は、凜の差し出した銀貨を、裏表にしながらじっくり観察していた。その銀貨の表には、「明治三十七年」という年号などの文字と共に、迫力のある「龍」の絵がデザインされており、裏には、「一圓」と古い字で記されている。

 はやる気持ちを抑えられず、凜は、「それ、価値のあるもんなんでしょ? もしかしたら何百万とかになる?」と訊ねる。今の凜には、どうしても金が必要な理由があった。

 凜の声に、片倉が顔を上げて、こちらをじろじろと見る。「これは、どこで手に入れた物なんですか?」

 その言葉に、凜は片倉を睨みつける。「ちゃんと人から貰ったものだから。それより、それっていくらぐらいになるの?」

 凜の再度の問い掛けも無視するように、片倉は、「どなたからお譲りいただいたものなんですか?」と質問を繰り返した。

「誰だっていいでしょ。そんなこと関係ある?」

「お譲りいただいたのは最近ですか?」

「……三か月ぐらい前」

「これが、どういう品かご存知ですか?」

「知らないし、知ってたらこんなとこ来ないし。って言うか、いい加減こっちは急いでるんだけど」

 質問ばかりを繰り返す片倉に、イライラが募り、いつもより語気が荒くなってくる。

「ああ、すみません、ついいつもの調子で」と片倉は頭をかく。「これはですね、明治から大正にかけて製造された一円銀貨というものです。海外との貿易で使用するために発行され、おもに台湾や中国で使われていたんですよ。この一円銀貨の場合、年号や状態によってプレミアがつくものもありますが、これは、明治二〇年以降に製造された『小型』と呼ばれるもので、しかも、比較的年号も新しいので、買い取りなら五千円ぐらいがいいところかと」

 銀貨をこちらに差し出した片倉は、凜を見つめ、そう告げた。

「五千円? たったそれっぽっちなの?」思わず声が上ずる。

「そうですね、どんなに高く査定したとしても、五千円を多少超えるぐらいです。それでも、かなりの美品ですし、良い品だと思いますよ。あなたが、お譲りいただいたのはこれ一枚だけなんですか?」

 またそう問い掛けられても、凜は片倉の言葉にショックを隠しきれないでいた。

「……そ、そんなわけないでしょ! これはね、美紅さんから受け取った大切な物なの。本当は売ったりしたらダメなんだけど、『困った時にはこれを使って』って美紅さんは言ってくれたんだよ。それを、それを五千円とかって……そんなわけあるはずないじゃん!」

 凜はそう吐き捨てると、勢いよく立ち上がった。ミカが呆気にとられた様子でこちらを見上げる。

「困った時に、これを使う……」繰り返すように呟いた片倉だったが、すぐに慌てた様子でこちらを制しようとする。「ああ、いや、気分を害されたのなら申し訳ありません。そんなつもりで申し上げたわけではないのですが。ど、どうぞ、お座りいただけませんか?」

 立ち上がった片倉は、髪が乱れ、また前髪で目が隠れてしまっていた。

「美紅さんという方がそうおっしゃったのなら、その銀貨には何か別の価値や意味があるのかもしれません。受け取ったのは銀貨だけですか?」その場を取り繕おうとしたのか、片倉は必死にそう続ける。

 しかし、既に頭に血が上ってしまった凜はその声を無視して、「もういい!」とひとこと言い残すと、店を飛び出した。

 凜は、外の寒さも忘れ、早足で車へ向かう。何なんだこの質屋は。少しは頼りになるかと思ったが、ただ質問ばかりの店主が変わり者ってだけで、肝心なところで役に立たないじゃないか。

 凜は、路上に停めたままだった車に乗り込むと、怒りに任せてドアを閉め、アクセルを踏み込む。ナンバー一二二の白いクラウンは、勢いよく夜の闇の中へと消えていった。

 時を同じくして、通りの向こうに停まっていた一台の黒い車が、その後をつけるようにゆっくりと走り出した。

 なんでこんな格好に変装する必要があるんだろう。

 凜は疑問に思いながら、自分の姿を改めて見回した。まるで美紅とお揃いのような全身黒ずくめの格好に、これでサングラスを掛けたらまるであの映画だな、とエイリアン退治をする黒服の主人公を思い出す。美紅は、これが制服みたいなものと買い揃えてくれたわけだが、ほんと意味が分からない。

 まあ、でも、美味しいイタリアンまでご馳走になってしまったし、美紅さんも悪い人ではなさそうだ。これからどんな仕事をするのかと思うと、不安よりも楽しみの方が大きい。

 そんなことを考えながら、美紅について、事務所、という名のマンションの一室に入る。すると先程面接を受けた居間には、三人の男が待ち受けていた。

 やっぱり、と凜の心に緊張が走る。

 騙されたんだ。

 身構える凜に、それを察した美紅が笑う。

「恐がらなくても大丈夫だって」

「……あれ、その可愛らしいお嬢さんは誰なの?」

 男の中の一人が、笑みを浮かべながら凜を見て、美紅にそう問い掛ける。

「はいはい、今紹介するから、皆座って」

 美紅の声に、男達は思い思いの場所に座った。気付けば、その三人もそれぞれ黒い服装をしている。

「あなたも、そこに座ってね」と美紅が示した二人掛けのソファーに、凜は一人で座る。その美紅は、向かい合うように、テーブルの向こうの大きなソファーに腰を下ろした。どうやらそこが定位置のようで、ちゃんとそのスペースが空けられていた。その隣には、先程声を掛けてきた髪の長い男が座っており、他の二人が、テーブルの両サイドに置かれたソファーにそれぞれ座っている。

 まるで、また面接でも始まりそうな配置だった。

「皆、この子が今日から新しくうちの仲間に加わることになったから。これで五人揃ったわね」美紅が凜を指してそう言うと、なぜか「おおーっ」と歓声が上がった。

「これで、ようやくしっくりきたねえ」と美紅の隣の男が言う。男は、目鼻立ちがはっきりとした、なかなかのイケメンだ。

「でしょ。やっぱり五人いないとカッコつかないわよね」美紅が嬉しそうに笑う。

「もちろん初心者だから、皆、優しく教えてあげてね」

「当たり前でしょ。手取り足取り教えるよお、優しくね」髪の長い男が声を掛けてくるが、そのいやらしい笑みが、凜を不快な気分にさせる。イケメンなのに好感度が低い。

「カトウ、手出すんじゃないよ」

 美紅が声を強めて告げた。

「彼は、カトウね」と美紅がその男を指す「若い娘が好きでちょっと女にだらしないけど、こう見えても、うちのナンバーツーで、皆の調整役なの。仕事の段取りなんかもカトウがまとめてくれてるから、私がいない時は彼に聞けばいいわ」

「女にだらしないは余計だなあ」とカトウが笑う。「よろしく」

 カトウが差し出した手を、しぶしぶ握ると、笑みを浮かべたカトウは凜の手をしっかりと握り返してきた。

「で、彼がナカモト」

 美紅が、凜の右側にいる男を指差す。ナカモトと呼ばれたメガネの男は、「よろしくお願いします」と小さく頭を下げた。その抑揚のない声に、凜は少し冷たい印象を受ける。

「ナカモトは、とにかく運動神経が抜群で、フットワークも軽いから、潜入や陽動、道具の調達なんかも、すべて彼がやってくれてるのよ」

 美紅の言葉が、凜の心に引っ掛かる。潜入? 陽動って?

「そして、こっちがタカギよ」

 凜は、左側の大きな男を見る。無言で頭を下げたタカギは、なぜかチョコバーを片手に、黙々と食べ続けていた。テーブルの前には、指紋だらけのタブレットパソコンが置かれている。その行動が示すように、タカギはぽっちゃり体型だったが、背もかなり高く、相撲取りのような迫力だ。

「タカギはね、体は大きいけど、細かい仕事が得意でね。機械にも詳しいから、ほんと頼りになるの。特に携帯とかコンピューターのことなら、何でも彼が教えてくれるわよ。それに、楽器とかも弾けちゃうの」

 タカギは、口をもぐもぐとさせながら、嬉しそうに微笑んだ。

 凜は、思い思いの表情を浮かべ、こちらを見ている四人を改めて眺める。この中では、ナカモトが一番若そうだが、それでも皆、二〇代半ばから三〇代の間だろう。いったいどういう集まりなんだか、未だによく分からない

「チョウさん、その子の名前は?」カトウが意味ありげな笑みを浮かべ、美紅に問う。

「決まってるでしょ」と答えた美紅もにやりと笑った気がした。

 チョウさん? 頭に疑問符が浮かんだ凜は、美紅の顔を見つめる。この人は美紅さんでしょ?

 カトウ、ナカモト、タカギ……そして、チョウさん。凜は呪文のように頭の中で唱える。これって、もしかして……。

「……チョウさんって……まさかですけど、あの?」凜は美紅を見て訊ねた。