ビニール傘の表面をゆっくりと雨が流れ落ちていく。傘を打つ雨音は優しく、どこかで小鳥が囀るのが聞こえる。

 吉祥寺駅からわずか十数分。都会の風景はいつの間にか消え去り、あたりは深い森へと姿を変えていた。車の騒音も町の喧噪もない。空気は澄んでいて、濃い緑の薫りに満ちている。雨に煙る木々は青々としていて、まるで美しい絵画のようだ。

 道なりに歩いていると、立木の間で何かがきらりと光った。

 窓ガラスだ。木々に隠れるようにして、木造の洋館のような佇まいの二階家が見える。趣あるその建物の玄関扉にはガラスがはめてあり、文字が白く抜いてある。

〈珈琲 エメラルド〉

 まるで不思議の国へ誘うように、その喫茶店は森の中にひっそりと佇んでいた。



 珈琲エメラルドの朝は遅い。営業は十一時からで、日曜祭日も一時間早いだけの十時からだ。開店準備を含め九時半に出勤すれば充分間に合うが、小野寺美久は少しだけ早く出勤するよう心がけていた。

 傘の水滴を払って裏口からバックヤードに入り、すぐに着替えを始める。白のフリルブラウスと黒のスカート。焦げ茶色のウエストエプロンを腰に締め、襟元に細いリボンタイを結ぶ。最後に『小野寺』と書かれた真新しい名札を胸に飾ると、バックヤードを後にした。厨房を抜けて戸口をくぐれば、客席はすぐそこだ。

 美久はカウンターに立ち、胸一杯に息を吸い込んだ。

 ひんやりとした空気には、ほのかにコーヒーの香りが溶けている。

 雨のせいか店内はいつもより薄暗いが、窓からの自然光で充分に見渡せた。飴色に輝くテーブルに、革張りの椅子。いつもは賑やかな客の声に彩られる客席も、今は静けさに包まれ、コチ、コチ、と古時計の刻む時の音だけが染みていく。

 美久はこの一時が好きだった。

 店員も客もいない無人の店内。けれど寂しいとは思わない。

 開店前の静けさは日の出前に似ている。何かすてきな事が起こりそうな、そんなワクワクする気持ちにさせてくれる。

 今日もすてきな一日になる。

 そんな予感に胸を躍らせながら、美久は開店準備にかかった。

 まずは扉を開けて箒がけだ。それから椅子を下ろして拭き掃除。手順を考えながら入り口へ歩いていくと、レジ横の棚にあるマトリョーシカが目に入った。

 店内には様々な物が飾られている。ウェッジウッドやミントンなどの高級食器があるかと思えば、海外の土産物や、何だかわからない置物もある。マトリョーシカは土産物なのだろう、薄茶色の瞳の愛らしい人形で、マグカップ大、ペットボトル大、雑誌大、等身大と、小さい順に並んでいる。

 ――――等身大!?

 美久がぎょっとして振り返ると、マトリョーシカの顔がふにゃりと緩んだ。

「よかったあ」

「うわああ! マトリョーシカがしゃべった――!?」

「違いますよお!」

 頬を膨らませて抗議され、ようやく相手が人間だと知る。

 明るい色のセットアップスーツに身を包んだ小柄な若い女性だった。つぶらな瞳と斜めに流した前髪がマトリョーシカにそっくりだ。棚と彼女の顔の高さが絶妙に揃っていたのも見間違えの原因だろう。

「誰も出てこないからどうしようって思ってたんです。よかった、店員さんがいて」

 朗らかに言われ、美久は慌てて言った。

「すみません、お客さんがいるなんて思わなくて……!」

「えっ、でもここお店ですよね? お客さんがいるのは普通じゃないですか?」

「そうなんですが、まだ準備中でして」

 営業は十時からだと伝えると、彼女の顔が青ざめた。

「すいません……! ごめんなさいっ、勝手に入るつもりなかったんです、でもかわいい置物がたくさんあって、夢中になっちゃって、本当にごめんなさい!」

「ああっ、気にしないでください、そういうことってありますよね! このお店変なところに立ってるし、変な置物いっぱいの変なお店だから気になりますよね!」

 店員にあるまじきフォローを入れてから美久はふと気づいた。

「あれ……? 私、まだお店の鍵開けてない……」

「鍵なら開いてましたよ?」

 彼女が不思議そうに言った。

 鍵がかかっていたら店に入れたはずがないので、彼女の言う通りだろう。

 でもどうして鍵が開いていたんだろう――そう考えて、すぐに答えに思い至った。

「きっと真紘さんです! あっ、真紘さんっていうのは店長なんですけど、ちょっとうっかりしたところがある人で。昨日お店を閉めるときに鍵をかけ忘れちゃったんですね」

 しょうがないなあと笑いながら、美久はカウンターのスツールを引いた。

「よかったら、おかけになってお待ちください。今メニュー持ってきますね」

「ですけど、まだ開店前なんですよね? 十時まで三十分もあるし」

「気にしないでください。せっかく来ていただいたんですから」

 どうぞ、と再度席を勧めると、彼女は嬉しそうにスツールに腰を下ろした。

 改めて見ると、彼女はとても若かった。緩く巻いた髪を肩に垂らし、薄く化粧した顔にはあどけなさが残っている。ラインストーンを散りばめたネイルや、スーツの色に合わせたミディアムヒールのパンプスはとてもお洒落だ。そんな彼女にあって、飾り気のない黒のビジネスバッグは異彩を放って見える。

 あ、もしかして。

 そのバッグを見て美久はピンときた。若い女の子が、好みとは違う大きなビジネスバッグを持つ理由。そんな理由、ひとつしかない。

「就職活動中ですか?」

 自信を持って尋ねると、彼女は小首を傾いだ。

「いいえ、営業です。これから新規の外回りですけど」

「ええっ?」

 営業さん……! ということは、社会人!?

 美久が目を丸くしていると、彼女は頬を膨らませた。

「あーっ、本当ですよ、これでも二年目なんですから!」

「すみません、お若そうだから、てっきり大学生かなって」

「はい。まだ十九です。高校を出てから働いてるから」

 にこやかに言われ、美久は感心するのと同時にへこんだ。

「すごいですね……。私、今就活中なんですけど、全然うまくいかなくて。自分でもビックリするくらい失敗ばっかりで。若いのに、しっかりされてるんですね……」

「それで私のこと就活生って思ったんですか」

 彼女は納得したように言って笑顔で続けた。

「でも私も失敗ばっかりですよ。今日だって時間まちがえて早く来すぎちゃって。とりあえず営業先の近くまで来たけど、雨だし、時間は余ってるし、森みたいなところに出ちゃうし……もうどうしようって思ってたら、このお店を見つけたんです」

 話に耳を傾けながら、美久は不思議に思った。

 今日は日曜だ。どこの会社もお休みで、新規の外回りには向いてないように思う。それにこのあたりは住宅街で回るほど企業もない――

 そこまで考えて、美久ははっとした。

 そっか、この人うそついてるんだ……!

 なぜ彼女は無人の店内で待っていたのか。どうして嘘を吐くのか。

 バラバラだった事柄が結びついて、確信へと変わる。

 美久はきりりと表情を引き締めて彼女を見た。

「お客様。失礼ですが、お名前を教えていただけますか?」

 突然様子の変わった美久に彼女は驚いたように目を瞬いた。困惑した様子で視線をさまよわせ、口を開いた。

「みどり……、子。大原翠子ですけど……?」

 大原さん、と美久は名前を呼び、彼女の瞳をひたと見つめて言った。

「あなた、私に隠し事をしてますね」

「え!?」

 ぎょっとして声を上げるのを見れば充分だった。美久は笑顔になった。

「やっぱり。そうだと思いました!」

 さすが私。このお店で働いてから、推理力がすごくついてる。

 得意になる美久に、翠子は驚きを隠せない様子で言った。

「あの、どうして」

「魔法使いはエメラルドの中にいる。大原さんもこの噂を聞いて来たんですよね?」

 翠子が息を呑んだ。

 喫茶店として営業するエメラルドだが、この店にはもう一つの役割があった。

 どんな探し物でも必ず見つけ、どんな不可解な謎もたちどころに解いてしまう――そんな、魔法使いのような探偵がいる。

 まことしやかに噂されるその探偵が窓口にしているのが何を隠そうこの店なのだ。

 宣伝も看板も一切なく、店内にも『貴方の不思議、解きます』という本気だか冗談だかわからない張り紙があるだけだ。それでも噂は広がり、魔法使いはエメラルドの中にいる、という言葉と共に都市伝説のように語られている。

 冗談だと笑い飛ばす人がほとんどだろう。しかしこの不確かな話に一縷の望みをかけ、藁にもすがる思いで来店する人がいる。翠子もそうした一人なのだろう。

「あってますよ。この喫茶店には探偵がいます」

 美久は安心させるように言ってから、少し顔をしかめた。

「私も看板出したらって言ってるんですけど、全然聞いてくれなくて。目印がないなんてひどいですよね、みなさんワケありだから探偵を探してるのに。今までも不思議な依頼があったんです。失踪した幽霊とか、恐怖のお雛様とか……って、こんな話してる場合じゃないですね! 待っててください、すぐ探偵を連れてきますから!」

 言うが早いか、美久はカウンターをくぐった。

 裏口を出て、建物を左手に折れる。探していた外階段はすぐに見つかった。

「あれ、小野寺さん?」

 階段を上ろうとした時、頭上から声が降ってきた。顔を上げると、ワイシャツに黒のボトム姿の男が下りてくるところだった。美久はその顔を見て笑顔になった。

「おはようございます、真紘さん!」

 おはよう、と上倉真紘は笑顔で応じた。

 真紘は珈琲エメラルドを預かる雇われ店長だ。歳は二十七歳で、すっきりと整った顔立ちをしている。百八十を超える長身だが不思議と威圧感がなく、美久はいつもすっくと立つ大きな木を連想した。

「珍しいね、小野寺さんがうちの方に来るなんて」

 階段を下りながら真紘が言った。

 店の二階は真紘の自宅だ。用もなく来るところではないが、今日は事情が違う。

「依頼人が来てるんです。悠貴君いますか?」

「もう下りてくると思うよ」

 真紘が二階の玄関を振り返ると、ちょうど玄関のドアが開いた。

 初めに見えたのは、すらりと長い足だった。

 伸びやかな手足に、均整の取れたしなやかな体躯。真紘と同じ黒のボトムとワイシャツ姿だが、シンプルな服装は彼の立ち姿の美しさを際立たせてみせる。顔立ちは柔和に整っていて、繊細なフレームの眼鏡の奥に覗く瞳は吸い込まれそうなほど奇麗だ。軽やかに階段を下りるその姿は、まさにおとぎ話に出てくる王子様のようだった。

 上倉悠貴。真紘の弟で、今年高校二年生になったばかりだ。そして、彼こそがエメラルドの魔法使い――探偵である。

 美久は、悠貴が階段を下りきるのを待って声をかけた。

「おはよう、悠貴君。お店に依頼人の方が来てるから、大至急お願いします!」

 悠貴は美久を見ると、気遣うように端整な顔を曇らせた。

「お前、働き過ぎじゃないのか」

「え? そんなことないよ。仕事は好きだけど」

「いや、働き過ぎだ。バカは休み休みに言えと言うのに、年中無休でバカな事を抜かすんだからな。一時も休まずバカな事を言わないと死ぬのか?」

 いきなりの暴言に美久は目を剥いた。

「な……っ、死なないよ!?」

「だよな。お前の場合死んでもバカは治らない」

「ちょっと悠貴君!? なんで朝からそんなに失礼なの!」

「お前の言う事があてにならなすぎるからだろ」

 悠貴はばっさりと切り捨てると、眼差しを鋭くして続けた。

「この前もただの客を依頼人と勘違いしたよな。居眠りしてる奴がいれば、依頼を言い出せないシャイな人とか言い、グラスを倒す奴がいれば、緊張してるのは依頼人の証拠とか寝言を言って、あまつさえ店先で野良猫を捕まえて依頼の予感とか意味不明すぎるんだよ」

「そんなこと……っ、あったけど! 今日は本物の依頼人さんだって!」

 コメントする価値なし、とでも言うように悠貴は鼻で笑った。

「本当だってば! 大原翠子さんっていう営業さんでね、お店の中でずっと待ってたんだよ。開店前からだよ? 最初は仕事って言ってたけど、このへん住宅街だし、日曜に営業のお仕事なんて変だよ。きっと、お店間違えてたら恥ずかしいなって思って、依頼人だって言い出せなかったんだと思うんだ」

 悠貴は真紘と顔を見合わせると、肩を竦めて歩き出した。

 小雨の中、裏道を抜けて店の正面へ回り込む。美久が追いついた時、悠貴は入り口横の大きな出窓の所にいた。

 窓ガラスに透けて店内の様子が窺える。

 翠子はカウンター席を離れ、ビジネスバッグを手に飾り棚を眺めていた。

 その姿を目にして、ようやく悠貴は認めた。

「……どうやら今日は本物のようだな」

「ね! 私の推理もなかなかでしょ」

 えっへん、と美久は胸をそらしたが、悠貴は完全無視の体でドアノブを掴んでいた。

 チリリン、とドアベルが涼やかな音を立て、扉が開く。翠子が音に気づいて振り返ると、悠貴は爽やかな声音で言った。

「おまたせしました、上倉悠貴と申します」

 端整な顔が輝くばかりの微笑に彩られる。少女マンガだったら背景に白バラやユリが咲いていそうな、文句の付けどころのない美少年ぶりだ。

 相変わらず変わり身が早い……。

 半ば感心してそんな事を思っていると、悠貴が潜めた声で美久に言った。

「おい、客を立たせておくとはどういう神経だ」

「えっ? それならさっきカウンター席に――」

 言い訳は後で聞く、とやっつけて悠貴は接客に戻った。

「すみません、うちの店員がとんだ失礼を。お煙草は吸われますか?」

 惚けたように悠貴に見とれていた翠子ははっと目を瞬き、首を横に振った。

「では禁煙席に。こちらです、どうぞ」

 悠貴はさりげない動作で翠子の手からビジネスバッグを取ると、美久に差し出した。

「君、バッグを」

 運べという事らしい。

 しょうがないなあ、と思いながら美久はバッグに手を伸ばした。ところが、予想外の重量にバッグを掴んだ指が滑った。あっと思った瞬間には騒々しい音を立ててバッグが床に落ちていた。衝撃で中の物が飛び出して、あたりに散らばる。

「すみません……!」

 美久はしゃがみ込んでバッグを拾った。何やってるんだ、と悠貴の呆れ返った声が聞こえたが、それを打ち消すように明るい声が言った。

「気にしないでください。重いですよね、私のかばん」

 翠子は美久の隣にしゃがむと、笑顔で持ち物を拾い始めた。

 なんて優しいんだろう……! 悠貴君とは大違いだ。

「ありがとうございます」

 美久は心から礼を言い、落ちている物を集める事に集中した。

 鍵、リップ、ライター、ペン――転がっていった物はほとんど手の中にある。これで全部かなと思った時、椅子の下にある物に目が止まった。

「これも大原さんのですか?」

 マイナスドライバーを手に尋ねると、翠子の頬がかあっと赤くなった。

「やだ、私ったら……! 朝、自転車のチェーンがはずれちゃって、それで直したんです。バタバタしてたから入れてきちゃったのかな、恥ずかしい……」

 頬を染めて身を小さくする姿はとても可愛らしかった。

 早くから勤めに出ているしっかり者。そんなイメージが美久の中にあったが、それは彼女の一面にすぎなかったのだ。

 やっぱり、まだ十九歳の女の子なんだ。

 そう思うと、親近感が湧いて、美久はなんだか嬉しくなった。


 依頼はテーブル席に場所を移して聞く事となった。美久と悠貴は並んで座り、向かいに翠子が腰を下ろした。真紘にメニューを注文すると、まもなく真紘は三人分のお冷やと翠子の頼んだレモンティーを持ってきた。

「あれ? 皮がむいてある」

 真紘が去った後、翠子が小皿のスライスレモンを物珍しそうに眺めて言った。

 店ではスライスレモンは皮と実を分けて出す。もちろんこれには理由があった。

「紅茶って、レモンオイルが入ると苦くなっちゃうんです。だから紅茶には実の部分だけ入れて、皮は香りづけに使うんですよ。飲む時に皮をカップの縁にすりつけてみてください。すごく良い香りがしますから」

 美久が解説すると、翠子は感じ入ったように美久を見た。

「小野寺さん詳しいんですね」

「そんなことないですよ」

「でもすっごくプロっぽくてステキです!」

 真紘の受け売りなので、面と向かって褒められるとこそばゆい。

「しっかり働いてる大原さんの方がずっとすごいですよ」

 掛け値なしに美久がそう返すと、翠子は笑った。

「もう、大原だなんて。翠子って呼んでください。名字で呼ばれると仕事みたいで緊張しちゃいます」

「そういえば大原さんは営業職でしたね」

 悠貴が尋ねると、翠子は待っていたとばかりにビジネスバッグを開けて書類ケースからパンフレットを取った。端についたクリップと小さなカードを外し、パンフレットをテーブルに滑らせる。

「販売促進グッズの取り扱いをさせていただいています。ティッシュ、マッチ、アメニティ、いろいろありますよ」

 悠貴はパンフレットを手に取って、ぱらぱらと捲った。

「そうですね……うちの店は地元密着型なので、こういう物はちょっと」

「ではアニバーサリーイベントとかいかがでしょうか! 日頃お世話になっているお客様に、ちょっとした贈り物をするんです。お店の名前の入ったカップケーキタオルとかいかがです? すっごくかわいいんですよ」

 悠貴は形の良い眉をほんの少しだけ寄せて、困ったように微笑んだ。

「店長に相談してみます。他に紹介できる店もあるかもしれないので、このパンフレットは頂いても?」

 引きどころを心得ているのか翠子はそれ以上押さず、よろしくお願いします、と頭を下げた。

「では、ご依頼の件に移りましょうか」

 悠貴が言うと、翠子の顔から笑みが消えた。

 翠子は緊張した面持ちで言った。

「そんなに深刻な話ではないんです。本当につまらないことです。だけど、胸に引っかかったままで、忘れられないことがあって……」

 翠子は言葉を区切ると、真剣な眼差しを美久たちに向けた。

「実は私、レイヨンヴェールを見たんです!」

 美久は目を瞬いた。

 レイヨン……何? 聞いた事のない言葉だ。

「ええと、何でしょうかそれは……?」

「le rayon vert」

 美久が尋ねると、隣から流暢な外国語が聞こえた。

「フランス語で緑の光という意味ですね。太陽が地平から昇る時や沈む時に、一瞬だけ緑色に輝く現象です。希にしか見られない事から、見た者は幸運を授かるとか、真実の愛に目覚めるなんて伝説もあったと記憶していますが」

 悠貴がにこりとすると、翠子は感心した様子で言った。

「よくご存じですね」

「ジュール・ヴェルヌの作品に同名のものがありますから。作中では、キャンベルという女性がその輝きを一目見ようと叔父たちと旅に出るんですが、あと少しのところでいつも見られず、悔しい思いをします。ですが、最後は旅の中で巡り逢ったオリヴァーという青年と共にエメラルドの光を目撃して、幸せを手にするんです」

「すてきなお話……」

 翠子は吐息にのせるように呟くと、目を伏せた。

「私も、キャンベルさんみたいに確かにその輝きを見ました。でも……私には、真実の愛どころか、失恋の思い出です」

 悔しそうに唇を噛むと、翠子はぽつぽつと話を始めた。

 それは甘く幻想的で、残酷な物語だった。



 翠子がその町に来たのは小学二年生の時だ。母親の妊娠と父親の異動が重なり、落ち着くまでは、と母親と共に実家で暮らす事になったのだ。

 山肌に沿って広がるその町は、畑と民家ばかりの田舎だった。実家は山の一番上にあり、とにかく坂が多い。隣家に行くにも数十メートル歩かなければならないのも、マンション暮らしだった翠子には衝撃的だった。しかし嫌だとは思わなかった。

 おとぎ話やファンタジーアニメをこよなく愛する翠子にとって、都会の匂いのしないこの町はまさに夢に見た世界だった。ドングリを辿れば可愛い妖怪に会えるかもしれないし、森に分け入れば、お姫様の眠る茨の城があるかもしれない。そんな風に想像を膨らませると、一日中でも空想の世界で遊んでいられた。

 唯一気が重かったのは学校生活だった。

 田舎町では子どもの数が少なく、クラスメイトは全員顔見知りという状態だ。人間関係のできあがった世界に一人飛び込むのは、かなり胆力がいる。

 初日は物珍しさに人目を集め、一週間もするとだいたい飽きられた。それでも時々話しかけてくれる女子がいて、少しずつではあるが学校に馴染めるようになっていた。

 おかしな噂を耳にしたのは、転校から十日ほど過ぎた日の事だ。

「なんかさ、外国人が妖精探しに来てるらしいよ」

 授業の中休み。隣の席から聞こえた言葉に翠子の関心は一瞬で奪われた。

 数人のクラスメイトが机を囲んで楽しそうに話している。

「えー、妖精? そんなのいるの? 妖怪の間違いじゃない?」

「そんなことないよ! コロポックルだって妖精だし! 妖精の世界だってコクサイ化してるかもしれないでしょ!」

 そういえば、と別の子が口を開く。

「おととい、下の町の畦で白いイモリが見つかったよね。このあたりって、昔から神隠しとかツチノコとか、不思議な話多いし」

「そうそう、千手観音様みたいなカエルが見つかったときも、大人が神様のお使いだって大喜びしてたよね!」

 下の町――この町の下流にある町の事だと翠子は遅れて気づいた。

 隣町なら学区に隣接していて、そう遠くない。

「だから、そういう生き物が暮らす場所があって、外国からも人が探しに来たんじゃないかって。青い目の、おっきな人らしいよ。白衣着て網持ってたって」

 白衣、という言葉に、急に同級生たちは真面目な顔つきになった。大学教授か研究者かと、話に花が咲く。翠子も話に加わりたかったが、なかなか勇気が出なかった。

 声をかけてみようと思うのだが、言葉が喉に張りついてうまくいかない。うずうずしながら同級生たちを見つめていると、頭上から声がした。

「気になるの? ああいう話」

 びっくりして顔を上げると、机の横に大智が立っていた。

 大智は翠子の家の近所に住む男の子だ。翠子より少しだけ背が高く、短く刈った髪と明るい瞳をしている。

「イモリ好きなの?」

 重ねて訊かれ、翠子は首を横に振った。別にイモリが好きなわけではない。

「だって、真っ白なイモリだよ? アリスが不思議の国に迷い込んだのも、白いイモリさんを追いかけたからだよ」

「……それ、白ウサギじゃないっけ?」

「いいの、このへんにウサギいないから。だから代わりにイモリなんだよ。妖精さんって本当にいるんだね。白イモリさんに会えた人、いいなあ」

 翠子がうっとりとして呟くと、大智は吹き出して笑った。

「ばっかだな。そんなのいるわけないよ」

 いるよ、と抗議すると、どこに、とすぐにばかにした声が返ってくる。

 翠子は少しむっとして答えた。

「ほんとだよ、山とか森には、探せば絶対不思議の国の入り口があるんだから」

「へー。お前、山に行けるの? 気持ち悪い虫がうじゃうじゃいるのに? 暗いし、オバケでるし、ヘンな鳴き声が聞こえるんだよなー。そんなとこに行けるんだ?」

「行けるよ。こわくなんか、ないし……」

 声が尻つぼみになると、大智はにやにやした。

「うそつけ、弱虫。こわいくせに」

「……こわくないよ」

「やーい、こわがり」

「こわくないもん!」

 どうして男の子ってこんなにいじわるなんだろう。

 翠子が頬を膨らませると、大智はさらに言った。

「そんなにこわくないって言うんならさ、不思議の国があるって場所に連れてってみろよ。どーせ場所わかんないっていうんだろ」

 翠子はびっくりして目を瞬いた。

「それって……いっしょに探してくれるってこと?」

 えっ、と大智が声をもらしたが、翠子は気づかなかった。椅子から立ち上がり、大智の方に身を乗り出す。

「学校の林とか、裏山にも行ってくれる?」

「ばっ……、だれがそんな」

 翠子が目を輝かせて詰め寄ると、大智はおののいたように体を反らせた。

「ほんとのほんとに、いっしょに来てくれる?」

 祈るような気持ちで大智の瞳を見つめていると、大智は顔を真っ赤にして「お、おう……」と頷いた。

 山や森に行ける。そう思うだけで翠子の心は翼が生えたように軽くなった。

「ありがとう!」

 翠子は心から大智に感謝した。


 その日から、大智と過ごす時間が増えた。校庭、空き地、裏山。探す場所は山ほどあった。特に妖精が出たと噂のあるポイントは念入りに見てまわった。近所も田んぼや畑ばかりなので、どこに不思議な生き物が潜んでいてもおかしくない。その上、時々網を持った外国人を見かけるので、翠子の気持ちは急き、ますます探索に力が入った。

「なんで妖精とか好きなの?」

 大智にそう訊かれたのは、いつものように不思議なもの探しをしていた時だった。

 翠子は薄曇りの空を眺めながら考え、首を捻った。

「よくわからない。でもファンタジーとか不思議なことって、ドキドキする」

 ここじゃない不思議な場所。夢と魔法のある世界。そういうものに強く心が惹かれた。理由はうまく説明できないが、改めて好きなのだとわかった気がした。

「好きなものに理由はないかあ」

 大智はしみじみ呟いて、ふと顔を明るくした。

「じゃあさ、レイヨンヴェールって知ってる?」

「レイ……?」

「レイヨンヴェール。太陽が沈むとき、一瞬だけエメラルド色に輝くんだ。ハワイとかで見られるんだけど、すげー珍しい現象で、見ると幸せになるんだって。その光を見た人は真実の愛に目覚めるって伝説もあるんだ。な、不思議だろ」

 宝石のエメラルドのような太陽を想像して、翠子は目を輝かせた。

「すてきだね。ダイはすごいこと知ってるね!」

「おれ、科学オタクだから。うちにそういう面白い雑誌がいっぱいあるよ。実験キットとかもね。科学と不思議なことって、そんなに遠くない気がするんだ。魔法じゃないけど、魔法みたいなことならできるし」

 大智はにかっと笑ってから、ふと表情を曇らせて言いづらそうに言った。

「あのさ、前、教室でのことだけどさ……。悪かった、言いすぎた。お前が、おれと同じで、こういう話が本当に好きかわからなかったから。口先だけかと思って」

 翠子はびっくりして大智を見た。大智があの時の事を気にしていたなんて、考えてもみなかったのだ。

 なんだ。ダイって、いじわるなんかじゃないんだ……。

 ごめん、と頭を下げる大智に、翠子は頭を振った。