両親が亡くなった後、少年は祖父母の家に預けられることになった。

 父方の祖父母は優しい人たちですぐに温かく迎え入れてくれたが、当時五歳だった少年を育てるには高齢すぎて心許なかった。親族中が反対をし、結局少年は祖父母の家には三ヶ月と留まらず他の親戚の家に引き取られた。祖父母が大好きだった少年にとってその決定はあまりにも辛いものだった。

 親戚の家々をたらい回しにされた。歓迎してくれる家庭もあれば、お荷物を押しつけられたと不快感を露わにしてくる家庭もあり、しかしそれらは極めて稀な例で、大半は他人を住まわせるようなよそよそしさで接してきた。

 仕方のないことである。子供を一人養育するだけでも大変なことなのだ、それ以上を求めるのは贅沢が過ぎるだろう。いや、そもそも中途半端な家族ごっこは互いを疲弊させるだけと知っていた。少年も里親も、苦しむくらいならば距離を置こうと暗黙の内に了承し合っていたのかもしれない。誰にとっても都合の良い共同生活。少年はそんな家庭環境の上で育っていく。

 不気味なほど波風を立たせない暮らしは、徐々に少年の心を歪めていった。

 里親やその家族が少年に踏み込まないのは、両親を亡くした不幸に気後れしたということもあるが、それ以上に少年の雰囲気に気圧されていたからだ。

 あの目。

 あの、深い哀しみを内包した、不可思議な目。

 まるで何もかもを見通しているかのようなその目に相対する人間はわずかにでも息を呑む。関われば心を見透かされる、そんな不穏さを感じ取ってしまう。

 また、少年の表情も見る者にプレッシャーを与えた。すべてに絶望し、諦めてしまったような暗い顔。稀に見せる無表情よりも空虚な笑みは、痛々しくて、空々しくて、他人を寄せ付けなかった。物を落として失敗しても笑い、転んで怪我をしても笑う。不感症めいた言動の裏にどのような感情があったのか、仮初めの家族たちはしかし、恐れをなして暴こうとさえしなかった。

 少年の心を開かせることも、少年に心を開くことも、彼らはとうに放棄していた。


 里親を交代するたびに一時的に祖父母の家に預けられた。その期間だけが少年にとって心休まる瞬間だった。

 そんな少年の現状を憂えた祖父は言う。

「その目と体質のせいで馴染めないのはわかるよ。しかし、このまま誰ともわかり合わないつもりかい? 勇気を出して目のことを言ってみたらどうだい。きっとみんなわかってくれるさ」

 祖父母は少年の目と体質に理解があった。孫の言うことを問答無用で信じてくれ、そこに嘘が無いことも少年にはわかっていた。

 他の人間とは違う。他の大多数の人間は少年を嘘吐き呼ばわりし、気味悪がって遠ざけようとする。おそらくその反応こそが普通なのだ。

 世の中に善意は欠片ほどしかないのだと知った。

「誰も信用できないよ。顔を見ればわかるんだ。みんな、僕のことを嫌ってるって」

 祖父は沈痛な面持ちで少年を見た。この子の傷はあまりにも深く、そして業も深かった。見えないモノも視えるという少年の目は、おそらく見たくもないモノさえ気づかせるのだろう。他人を信じ切れというのは酷な話かもしれない。

「だがなあ、人間は一人では生きていけんよ。心から信じられる人が居て、その人の傍に居られることでようやく人は幸せになれるんだよ。それは恋人だったり、友人だったり、家族だったり、形は違うけれど生きていく上で大切な絆だ」

「僕にはおじいちゃんとおばあちゃんがいる。それで十分さ」

 祖父母は顔を見合わせる。老い先短い彼らでは少年とともに生きていくことは不可能だ。このまま少年を残して逝くことが忍びなく、だからこそこうして諭しているのだが。

 少年はそんなことさえも十分に理解していた。

「なら、一人でいい」

 暗い笑みを湛えて、祖父母に向かって繰り返し、言う。

「一人でもいいんだ。僕は」

 寂しそうに見つめてくる祖父母を、少年はその目に焼き付けた。


 少年は中学二年生になった。

 新しい居候先でも気まずい空気に支配され、放課後は極力学校に居残るようにしていた。相変わらず彼の傍には誰も居ない。教室の自分の席でじっと机の一点を見つめていた。その目は他人を拒絶し、絶望を宿して淀んでいる。

「今にも死にそうな顔をしているわね。そんなんだとすぐに老け込んじゃうわよ?」

 それでも、声を掛けてくる物好きが偶に居る。

 やって来たのはその中学校の生徒会長で、一学年上の女生徒である。何かにつけていつも少年の傍に寄ってくる。不思議なことに、どこに居てもこの少女には見つかってしまうのだ。

 少年は少女をつまらなげに一瞥すると、すかさず腰を上げた。

「あ、待ちなさいったら! 今日は良い物持ってきたんだから」

 少女が手にしていたのは一辺が三十センチほどの白い箱。プレゼント用のリボンに包まれたそれを差し出してきた。

「あげるわ! 遠慮せずに受け取りなさいって!」

 少年は辟易する。少女はいつも何かしらの用意をしてきて、常にハイテンションで少年を振り回すのである。

「さあ、箱の中身は何でしょう!」

「……」

 温度差は歴然。二人のやり取りは大抵こんなふうにして始まった。


    *   *   *


 山川陽子は浮かれていた。

 先週の日曜日から今日まで丸一週間、自然と口元がニタニタと歪み、気を引き締めた瞬間は数えるほどしかない。

「──山川、不気味。ごめん、お願いだから顔洗ってきて。そんでガム噛んどきなさい。できればブラックなやつを」

 保育園の同僚で先輩の小野智子に言われた台詞である。──不気味とは何だ、不気味とは。まったく酷い言い草である。陽子は智子先輩の顔を思い浮かべては憤慨し、次の瞬間にはへにゃっと相好を崩した。一人百面相で忙しい。

 そんなに気を抜いていないと陽子本人は思っているが、無自覚で思い出し笑いを繰り出していたのだから自分では気づくはずもない。そして、陽子の名誉の為に言っておくと、思い出し笑いを繰り出すほどに浮かれてしまうのも、また仕方の無いことだった。

 先週の日曜日のこと。旅人に誘われて少し遠出してきたのである。

 旅人は花束を持っていて、何も聞かされていないうちは「デートか!? もしかしてデートなのか!?」と内心で焦り、そわそわし、ドキドキしたのだけれども、旅人の表情がいつもよりどこか硬いことに気がつくと一転して不安になった。楽しいお出掛けでないことを悟り、目的地に着くまでははしゃぐまいと心に決めた。

 そして、辿り着いた場所は墓地だった。『日暮家』と彫られた墓石に花を添えている旅人を見守りながら、ああ、ここにご両親が眠っているんだ、って気づいた。お参りを終えた旅人はとても哀しげだったので、思わずその手を取っていた。一瞬後になって大胆なことを仕出かしたと思ったが、旅人は陽子の手を握り返して「ありがとう」と微笑んでくれた。

 元気になってくれて良かったとか、ご両親のお墓参りに同行させてもらえたとか、いろいろ嬉しい思いもあったけれど、帰りの電車に乗るまでの間中ずっと手を繋いだままだったことがすごく、すごく、──。

「わああ、わああ、わああ」

 怒ったり笑ったりの百面相も、このように赤面することでピークを迎える。保育園の子供たちや智子先輩以外の保育士に体調を気遣われたのも無理はない。

 いかんいかん。頬をばちんと平手で打つ。平常心、平常心。いつもの自分を意識して、旅人を必要以上に意識しない。それが今日の課題である。

 お墓参り以来、一週間ぶりに事務所を訪れる陽子であった。半年前から通い続けた駅裏の猥雑な歓楽街、そこかしこの怪しげな飲食店の呼び込みさんとすれ違いざま挨拶を交わす程度の面識を持ってしまったのは、もしかしたら悲しむべきことなのかもしれない。少なくとも両親が知ったら卒倒しそうだ。

 そうしていつものように事務所が入った雑居ビルを目前にしたとき、ビルを見上げて佇む一人の女性を見掛けた。

「……」

 思わず見入ってしまったのは、その女性があまりにも綺麗だったからだ。

 長い黒髪に走る艶やかな光沢は、テレビCMで見るようなモデル並みに美しく、眩いほどに日の光を弾いており、傷んだ箇所が無いみたいにさらさらと風に靡いている。首筋に纏わり付く髪を掻き上げる仕草には色気があり、覗いた横顔は整っていて美人だ。ただ、全体的に憂いを帯びた雰囲気に生気が薄まっているみたいで、今にも消え入りそうにも見えた。色白で覇気が無いのもその要因だ。

 人目を引くのに存在感が無い。

 美人薄命という言葉がしっくりきそうね──、なんて、失礼なことをふと思いついてからぶんぶんと頭を振る。いくらなんでも薄命はないでしょ、と内省した。雰囲気からして本当に病人である可能性もあったからだ。陽子はこれ以上じろじろ見つめるのは不謹慎だと思い、さりげなさを意識しつつ女性の前を素通りした。

「あの」

 エレベーターのボタンを押して待つ間に、女性から声を掛けられた。振り返り、正面から改めて見ると、ハッとするくらい美しい顔立ちをしていた。

「な、何でしょう」

 自分よりも断然大人びた外見をしているのに、声は少女のように高くて弾んでいた。最初に抱いた印象とは異なり、女性は溌剌とした、人懐っこい笑みを浮かべている。そのあまりの可憐さに、同性でありながら思わずときめいてしまった。

 女性は陽子の顔を覗き込むようにして接近し、親しげに尋ねてきた。

「ここに探偵社があるって聞いてきたんだけど、知ってます?」

 陽子はなぜか思考が真っ白になって、慌てて質問の内容をおさらいする。

「ここって、……このビルに探偵事務所があるかどうか、ってことですか?」

 そうそう、と女性は満足げに頷いた。

 このビルで探偵事務所といえば、日暮旅人が所長を務める『探し物探偵事務所』しかない。それどころか、この界隈に探偵事務所は今のところここだけのはずだ。

 ──それにしても、探偵社かあ。

 改めて他人の口から聞かされると、本当に探偵なんだなあ、と感慨深い。だって、この事務所に依頼人が訪れたところなんて見たことがなかったから。最近では日暮家宅に遊びに来ている感覚で、仕事場にお邪魔しているという意識はまるでなかった。雪路が聞いたら激怒すること間違いなし。

 自分の軽率ぶりに今更ながら後ろめたさを覚えた陽子は、女性に対して営業スマイルを浮かべるのだった。

「事務所でしたら六階にありますよ。ご依頼ですか?」

「あれ? もしかして探偵社の方なんですか? 職員?」

「ああ、いえ、私は探偵じゃないんですけれど。その、知り合いと言いますか」

「へー。あ、じゃあ、そこに行くんですか? 今から?」

 確認されて素直に頷いた。そのとき、背後でエレベーターの扉が開く音がした。陽子は無意識に振り返り、その直後ドンと背中を押されていた。女性にエレベーター内に押し込まれたのだ。唖然として言葉が出ない陽子に女性は花が咲いたような笑顔を向ける。

「良かった! 一人じゃなかなか入りづらかったから困っていたんです! 一緒に行きましょう!」

 陽子の手を取って喜んだ。あまりの喜びように陽子は戸惑うばかりだが、そういえば、と思い直す。

 このビルの立地はいかがわしい歓楽街の中心で、テナントの多くは怪しげなお店を経営していた。極めつけは、目的地である探偵事務所の表札がビルの入り口に掛かっていないことである。一見さんお断り、と言わんばかりの隠れ具合から危ない臭いしかしてこない。若い女性がたった一人で立ち向かうには途方も無い勇気が要るのだと、遅まきながら気づくのだった。

 半年前の自分もここに来ることを大層怖がっていたっけ。

 随分慣れてしまったものだなあ、と躊躇している女性を前にして我が身を呆れ返る陽子であった。

「じゃあご一緒しましょうか」

『6』の階数ボタンを押して、扉を閉める。

 密室に二人きりになって、女性は肩の力を抜いて一層華やかな笑顔を振りまいた。

「私、見生美月って言います! こうして知り合ったのも何かの縁だわ! よろしくお願いしますね!」

 半ば強引に握手させられる。美月の迫力に圧された陽子は、やや引き気味に自己紹介をするのだった。


「私は今年で二十五よ。じゃあ、陽子ちゃんとは一コ違いだね。あっ、陽子ちゃんって呼ばせてもらうけど、いい?」

「あ、はい。いいですよ」

「私のことは美月ちゃんでもみーちゃんでもみっちーでもいいからね!」

「……じゃあ美月さんで」

 六階に降り立っても、美月は陽子に他愛のない自己紹介めいた世間話を振ってくる。美月のテンションはなぜか上がりっぱなしだ。

 外見こそ生気を感じられないくらい華奢で儚げなのに、中身は真逆で生き生きとしている。それがフリではなく地であることは彼女の自然な表情からわかった。人見知りしない朗らかな性格から、きっと交友関係も広いに違いない。初対面の陽子に対しても壁を作らず、すでに旧友であるかのような接し方をする。大学時代からの先輩である小野智子先輩に似た感じはあるが、美月の方が物腰はしなやかだ。

 悩みとは無縁そうだなと直感的に思った。いや、悩まない人間なんて存在しないだろうけれど、彼女の場合、悩み事は自力で即座に解決しそうな気がする。気を沈ませて悩み続けるタイプじゃないというか。もちろん想像でしかないけれど。

 そんな美月が何を解決させたくて探偵事務所を尋ねるのか、ちょっとだけ気になった。一体どんな探し物を依頼するのだろうか。部外者である陽子にその詳細を知る権利はないから、ヤキモキするばかりだ。

 とはいえ、

「あ、あのっ」

「ん? なあに?」

 美月はキョトンとした表情で陽子の言葉を待つ。急かすのも悪い気はしたが、ここでずっと立ち話しているわけにもいくまい。

「中、入らなくていいんですか?」

「おっと」

 忘れていたのか、おどけるように舌を出す。──あ、いや、これはわざとだ。理由はわからないが、これまでのお喋りはどうやら時間稼ぎだったらしい。

「どうしたんですか? 中、入りづらいですか?」

「そんなことないよー。ただまあ、心の準備が」

「心の準備?」

 胸に手を添えて深呼吸を繰り返す。意を決したように顔を上げた美月は、打って変わって落ち着き払っている。

「ふー、さて、行きますか」

 ドアノブに手を掛ける。中に入っていく美月の背中を見つめながら、ふと、饒舌だったのは緊張を隠すためだったのかな、と思った。空元気というか、どことなく空々しさが彼女の言動にはあったのだ。もしかすると探偵に依頼することに気後れしているのかしら。

 相変わらず来客に対する配慮に欠けた事務所である。入ってすぐの応接間に雪路や旅人が控えていた例しはなく、呼び出しボタンの類も無く、来客を告げるベルが鳴るわけでもないので、訪問客は必ずここで途方に暮れることになるだろう。商売をする気があるのやらないのやら、改めて考えてみてもやっぱりわからない。

「私、呼んで来ますね」

 応接間に美月を残し、奥のリビングに向かう。一度ノックして中に入ると、リビングには人っ子ひとりいなかった。鍵は開いていたから留守というわけじゃないだろうけど。偶々席を外している最中なのかもしれない。

 それにしても、

「……うーん、見事に散らかしてくれたなあ」

 前に来たときも灯衣と一緒に掃除をしたものだが、今回は今までで一番ひどい有様だ。

 床には洗濯物の山と脱ぎっぱなしの洋服、雑誌やお菓子の袋、灯衣の私物と思われる髪留めや化粧品(!?)などが散乱していた。ここまでは、まあ、いつものことと諦めるが、それ以外にもテーブルの食器は片付けられていなかったり、珍しいことにパソコンが置かれた執務机の上も重厚な本が山となって積み上がっていたりもした。執務机は雪路君の領域だったはずだ、見かけによらず神経質な彼が散らかしっぱなしで放っておくとは思えない。そもそも、散らかす以前に必要最低限しか持ち出さない細かさもあるので、あの積み上がった本は別の誰かの仕業だろう。

 本の背表紙を見てみると、あらゆるジャンルの美術本であることがわかる。絵画、彫刻、陶器、マニアックな玩具の資料集など様々だ。あるいは建築に関する専門書も紛れてあった。あちこちのページの隙間から付箋がはみ出しており、相当熟読しているようである。今開いて置かれているのは日本画の美術本で、菱川師宣の浮世絵の解説が載っていた。

 勉強していたのが旅人であることは間違いないとして、しかしそれを意外に思ってしまう。いつも自然体な旅人が、陰でこういった努力をしていたとしても、それを表に出したことは今までなかったからだ。隙とか弱い部分を見せたがらず、誰に対しても壁を作ってきたというのに。

 生活感や人間味が表れていて、良い傾向だとは思うけど。

 ──なんだか最近、旅人さん変わってきた?

 チクリと胸に痛みが走り、「?」陽子は首を傾げた。なぜか焦燥感を覚え、そう感じてしまったことに戸惑う。まるで見てはいけないものを見たような居心地の悪さだ。

「……ううん。気のせいよね」

 何を不安に思うことがあるんだ。悪いことのはずないじゃない。陽子は今にも崩れ落ちそうな本の山を少しだけ整理することで気を紛らわした。

 背後で扉が開き、旅人が辞書を手に自室から出てきた。視線は辞書に釘付けで陽子の存在に気づいていない。リビングに入ってからようやく顔を上げた。

 陽子を認めると、とても嬉しそうに目を細めて、笑った。

「ああ、いらしてたんですか」

 その無邪気な仕草に陽子の頬も赤くなる。

「お、お邪魔してます。あ! ごめんなさい、勝手に入っちゃって!」

 頭を下げた瞬間、おや? と何やら見慣れぬモノを見たような気がした。

「謝るのは僕の方です。今日いらしてくださることを知っていたのにお出迎えもできなかったんですから。お待たせしてしまいましたよね?」

「……」

「? どうかしましたか?」

 旅人は不思議そうに首を傾げるが、不思議と言えば旅人の顔にある。いや、不思議なんかじゃ生温い、激震が走ったくらいの衝撃だった。

 旅人が眼鏡を掛けていた。

 細長のフレームのせいか、いつもより六割増しで知的に見えて思わず見惚れてしまったけれども、いやいや、そんなことよりも!

「た、た、旅人さん! それ!? え、え、えええ!?

 旅人が! 眼鏡を! 掛けている!?

 慌てふためく陽子を、旅人はキョトンと見守った。突然背後から現われて、笑顔を向けられて、トドメに眼鏡なのだからこれくらいの混乱は当然だった。

「め、眼鏡!? 眼鏡掛けてます!」

 指摘された旅人は「ああこれ」とフレームを持ち上げた。陽子とは対照的に暢気な対応である。「どうでしょう? 似合ってますか?」って、それどころじゃない!

 似合っているけれども!

「どうしたんですか!? も、も、もしかして目悪くなっちゃったんですか!?

 そんな前兆はどこにも無かったのに。いや、それとも陽子が見落としていたのか。

 旅人には聴覚、嗅覚、味覚、触覚の、いわゆる五感のうちの四つが欠落していた。代わりにすべての感覚を視覚で補っており、例えば音や匂い、味などの情報を可視化することで認識し、健常者と同じように振る舞えているのだ。

 もちろん、その分目に掛かる負担も大きくなる。目の疲れはやがて高熱を出すことで体にも現れるが、しかしそれは目の健康を維持するために体が無理やり引き起こすものらしく、体調不良で倒れたとしてもさほど慌てることはない(高熱を出して倒れる様は正直心臓に悪いけれど)。

 それよりも憂慮すべきは視力の低下であった。

 旅人の目は五感を一手に担っている。視力の低下はすなわち、五感すべての低下も意味しており、もしも失明しようものなら旅人は何も感じることのできない植物人間になってしまいかねないのだ。目が見えづらい、ただそれだけでも旅人にとっては死活問題。悠長に構えている場合ではない。

「旅人さん!?

 思わずその顔に両手を添えていた。

 縋りつく陽子を、旅人は苦笑して押し留めた。

「大丈夫ですよ。別に視力が下がったとかそういうことじゃありませんから。これはパソコンの光から網膜を守る眼鏡らしくて、パソコンで調べ物をするときはなるべく掛けるようにとユキジから強く言われてるんです。最近は僕もよくパソコンを使うようになったので。どこまで効果があるかわかりませんけれど、気休め程度に」

「……本当に? 視力が下がったりとかは無いんですね?」

「はい。本当です。なんでしたらどうぞ掛けてみてください」

 眼鏡を渡されたので覗き込む。陽子の視力は両方とも裸眼で一.五だが、レンズ越しでも視界はまるでブレない。度が入っていない眼鏡だった。

「良かった」

 ほう、と息を吐く。勘違いで済んで本当に良かった。というか、まったく、人騒がせな。

 けれど、実際に旅人の視力が下がったらどうすればいいんだろう。不意打ちだったとはいえ、いやだからこそ、もしものことを想定する必要があるなと陽子は思った。

「心配を掛けてしまったようですね。ごめんなさい」

 陽子はハッとした。慌てていたとはいえ、旅人の懐に入り込んでしまっていた。もはや抱き合う一歩手前、見上げれば旅人の顔が至近距離にあり、陽子はぎこちなく一歩、二歩と後退した。

「こちらこそ、ごめんなさいでした」

 不意に一週間前に手を繋いだ記憶が蘇る。旅人を必要以上に意識しないという今日の課題はあっさりと失敗に終わった。火が出そうなくらい顔が熱い。

「あ、えっと、──と、ところで、今日は旅人さんだけですか?」

 誤魔化すように話題を変えるが、気になっていたことでもある。

 雪路が不在なのはよくあることだが、灯衣が休日に留守にするのは珍しい。特に陽子が訪問するときは必ずと言っていいほど旅人の傍に引っ付いていた。

「雪路はお仕事で出掛けています。灯衣はお友達のところです。二人とも夕方には帰ってくると思いますけど」

 旅人は執務机に近づいていき、手にしていた辞書を山と積まれた美術本の上にぽんと置く。すると、奇跡的なバランスで直立していた本の山が呆気なく倒壊し、床にドササッと崩れ落ちた。派手な音を立てたので思わず目を瞑ってしまった。触覚が無い彼の手は、当然重さも感じないので、度々物を雑に扱うことがある。目には『重さ』が視えていても、触れるその手に感覚が無ければどんな物だって不器用にしか扱えない。

 旅人は呆然と跳び散らかった本達を見下ろし、深く重たい溜め息を吐いた。

 陽子に向き直り、提案する。

「お茶にしましょうか」

「いやいやいやいや」

 諦めるのが早すぎる。旅人はもう手を施せばその分だけ散らかしてしまうことを理解していて、だから片付けようとしない。リビングの惨状がどうやって生み出され、どうして放置されているのか、その理由が垣間見えた瞬間だった。

「大切な本じゃないんですか?」

 せめて折れ曲がりが起きないように開いて落ちた本を拾って、壁際に置き直す。

「仕事に必要だったので勉強していたんです。すべてユキジの実家から持ち込んだものです。ユキジに『あまり破くなよ』と忠告されていたので、なるべく持ち運ばずに一箇所にまとめておいたんですが」

 それで執務机に山が出来たというわけか。雪路の忠告が破かれることを前提にしたものであるところに信用の無さが窺える。

 ──やっぱり私が片付けないとだなあ。というか、今日も元々お掃除するためにやって来たんだし。この際だから先にやっつけちゃおう。

 おっと。その前に。

「あの、旅人さん。実は応接間に──」

 眼鏡騒動があったおかげで大切なことを忘れてしまっていた。腕まくりをしつつ旅人に来客があることを告げると、旅人は一瞬怪訝な顔をした。

「依頼人……? 向こうの部屋に、ですか?」

「はい。エレベーターで一緒になって、そこまでお連れしたんですけれど……」

 まずかっただろうか。旅人は驚いたみたいに固まって、応接間へと繋がる扉をじっと見つめている。もしかして今日は休業していたとか……。いやでも、事務所の扉にはちゃんと『OPEN』の札が掛かっていたと思うのだけれど。

 なぜか戸惑っている旅人の視線の先で、扉がゆっくりと開かれた。

「あのう、今、大きな音がしませんでした?」

 本が崩れた音を聞きつけたのだろう、恐る恐るリビングに入ってきた美月が、まず部屋の散らかり具合に眉を顰め、次いでこちらを向いて「あ」と声を漏らした。

「……」

 旅人と美月は顔を合わせた瞬間、なぜか硬直した。それを若干不思議に思った陽子だが、固まる二人に挟まれて、なんとなく取り次ぎしないといけない雰囲気になり口を開いた。

「あの、旅人さん、こちらがその依頼人の方でして、」

「美月……先輩……」

 遮るようにして、旅人は美月をそう呼んだ。

 そして、美月もまた旅人に呼び掛ける。

「久しぶり。大きくなったね、旅ちゃん」

「……………………」

 ──先輩? 旅ちゃん……?

 今度は陽子が固まる番だった。旅人は呆然と、美月は嬉しげな笑みを浮かべながら、互いを見つめ合っている。旅人の視界から、意識から、陽子の存在が遠退いていく。身動き一つ取れず、久しぶりの再会に思いを寄せる旅人の顔を見上げて押し黙る。

 美月の弾んだ声に、陽子の体がびくりと震えた。

「やっと会えた! 旅ちゃん、会いたかった!」