「……っ!」

 粘りつくような湿気の漂う、六月半ばの午後九時過ぎ。東勢大学第二教室棟の中庭に、女性の息を呑む声が響いた。

 夜遅くまでキャンパスに残る学生は多いが、それは各学部の研究室やサークル棟の話であって、この教室棟は例外だ。午後六時に講義が終わるのと同時に、基本的に無人となる。そんな閑散とした建物が四方を囲む中庭に、リクルートスーツ姿の小柄な女性、そして黒の羽織の青年の二人が立っていた。口を押さえて前を――いや、上を見つめる女性の傍らで、黒い羽織を纏った青年は興味深げにうなずき、言った。

「出たな」

 バリトンの効いた低い声が、人気のない夜の校舎に染み入っていく。

 声の主である青年の年齢は、見たところ二十代の半ば。細身の長身に白のワイシャツと黒のネクタイを付け、その上に黒い羽織を重ねるという奇妙な風体だ。整った顔立ちではあるのだが、前髪が目に被さるほど長く、肌も幽鬼のように青白いせいで、怪しいことこの上ない。

 オカルト絡みの相談先として学生の間に名を知られる怪人物、絶対城阿頼耶先輩は、今日もやっぱり陰気で奇怪で、そして仏頂面だった。

「君は悪霊の仕業と類推していたようだが、当てが外れたな。これは立派な妖怪だ」

「よ、妖怪……?」

 きりっとした気の強そうな顔の女性が、絶対城先輩の言葉を繰り返す。メイクは控えめ、髪は黒のセミロング、新しいのにくたびれているリクルートスーツは地味な紺色。今回の依頼人は、先週に先輩を訪ねてきた時と同様、「ああ、就職活動で大変なんだな」と一目で理解できる出で立ちだった。そんな彼女の言葉を受け、黒の羽織の怪人は、小さく首を縦に振る。その間も、先輩の視線は、たった今現れたばかりの前方のそれに――二人の前に立ち塞がる巨大な影に、向けられたままだった。

 それの身長は、ざっと五、六メートルはあるだろうか。全身は薄い黒一色で、丸い頭とずんぐりした胴体というシルエットは、テルテル坊主かトイレの男女区別のマークを思わせた。虚像か影のような体には実体がなく、何かを言ったり動いたりすることもないのだが、ただ立っているだけでも存在感と威圧感は充分だ。

 ……仕掛けを知らなかったら、あたしも驚いただろうな、これは。

 中庭を見下ろす教室棟の二階で、あたし、湯ノ山礼音は、思わずつぶやいていた。同時に、先輩の羽織に仕込んだマイクの拾った声が、イヤホンから聞こえてくる。

「就職活動を始め、最近は何事につけても上手くいかない。前に進む気力すら出ない。今まではこんなことはなかったし、何かに憑かれてるんじゃないか――。君にそう相談された時から、おおよその見当は付いていたが、案の定だったな。見ろ。こいつが、君に取り憑き、君の前を塞いでいたモノ。妖怪『見越し』だ」

「み……見越し……?」

「足がふらついているだろう。それに呼吸も荒くなっているはずだ。違うか?」

「……い、言われてみれば!」

 絶対城先輩の問いかけに、依頼人がハッと息を呑む。その反応が予想通りだったのだろう、先輩は小さくうなずくと、抑えた声での解説を再開した。

「それが見越しの力だ。進行方向に立ち塞がり、足取りをもつれさせ、平常心を剥ぎ取り、最終的には命を奪う。のびあがりや見上げ入道など、同種の妖怪は数が多いので正確な同定は困難だが、対処法は共通しているので問題はあるまい。教えた内容は覚えているな?」

「はっ、はい……! でも、まさか、妖怪がこんなくっきり見えるなんて……」

「俺も驚いているところだ。だが、こいつがここまで顕在化した理由は想像できる。この種の妖怪は、ただ物理的に歩行を阻害するだけではない。精神的な前進をもこいつらは拒み、そして立ち止まる人間を好むんだ。つまり、見越しが成長したのは、ひとえに君の後ろ向きな態度が原因だ」

「そ……そんな……」

 先輩の冷酷な宣言が、スーツの女性に突き刺さる。よろけるように一歩下がった彼女に、先輩は振り返りもしないまま、冷徹な声で語り続ける。

「立ち向かうのをやめるつもりか? それもいいだろう。だが、俺は言ったはずだ。不穏な心や虚実の挟間に湧く存在に――妖怪に打ち勝つには、霊能力も高価な札も必要ない。先人の残した正しい知恵があれば充分だ、と」

「それはお伺いしましたけど……でも私、やっぱり怖くて」

「だから俺を盾にすると? 実に見上げた根性だな。ああ、無論、俺が祓うのは簡単だ。しかし、そうしたところで、見越しはきっとまた君の行く手に現れる」

 自分の後ろに隠れてしまった依頼人に向かって、先輩の口調が徐々に強くなっていく。自分で仕掛けたトリックを前にして「きっとまた現れる」もないとは思うが、ここから見る限り、彼女は完全に先輩を信じ切っているようだ。と、次の瞬間、不動を保っていた見越しが動いた。

 見越しの腕のない胴体がぐにゃりとうねったかと思うと、背丈がさらに伸びていく。その異様な光景を前に、彼女はびくんと震えたが、先輩は「恐怖心に反応して成長したのか」とつぶやき――そして、無情にも依頼人を前へ押し出した。

「悠長に論議している暇はない。やれ」

「え? えっ、ええと……」

「早くしろ! 伸びきった見越しは命を食らうぞ!」

「え、あっ、は、はいっ! ええと……確か、足を踏ん張って、それと、見上げるんじゃなくて、目線を上から下へ、徐々に見下ろすように……」

 先輩に教えられた対処法を口に出して思い出しつつ、就活生が視線を下へと向けていく。それを見た先輩は、認めるようにうなずき、言った。

「いいぞ。後は、とどめの一言だ」

「ええと……、み――『見越した』っ!」

 そそり立つ影の巨人に向かって、依頼人が言い放つ。

 と、その言葉を浴びた巨人は、一瞬ぴたりと動きを止め――そして、あっけなく消失してしまった。

「よし」

 一件落着と言いたいのだろう、不安げに見詰められた先輩が小さく肩をすくめてみせる。それを見た依頼人は「で、できた……」と長い安堵の溜息を吐き、そのまま腰を落としてしまった。へたりこむ彼女の傍らで、黒の羽織の怪人が口を開く。

「成功だな。君の足を止め、進路を妨害していた妖怪は、これで消えた。少し休んで、落ち着いたら帰るといい」

「あ……ありがとうございます……」

「礼には及ばない。相応の手数料も既に受け取っているからな」

 夜の闇を見上げながら語る先輩。その視線の先には、既にあの影の巨人の名残はどこにもなく、ただ、初夏の夜特有の蒸し暑い空気が残るのみであった。

 ……まあ、いくら梅雨入りしたとは言え、この湿度は明らかに高すぎるのだが、依頼人さんは気付いてないようなので結果オーライだ。お疲れ様でした、と内心でつぶやくのと同時に、先輩は興味深げな声を発した。

「実に貴重な体験をさせてもらった。一応礼を言っておこう」

「き、貴重って……。私は、死ぬかと思ったんですよ?」

「妖怪とはそういうものだ。ああ、また君が――あるいは君の知人が奇怪な事件や存在に遭遇したなら、いつでも訪ねてくるといい。妖怪学の徒にとって、怪異を実体験できる機会は見逃せないからな」

「あっ、は、はい……。ええと、ご連絡先は、あの場所で……?」

 座り込んだまま依頼人が問いかける。それを受けた絶対城先輩は、無言で首を縦に振り、そしてお馴染みのフレーズを口にしたのであった。

「文学部四号館四階、四十四番資料室。俺はいつでもそこにいる」


***


「まったく。この時期になっても内定が取れないだの、完全に気力が尽きてしまっただのと持ちかけられても困る。どうにか見越しのせいに仕立て上げることができたからいいようなものの……。俺は相談員でもなければカウンセラーでもない」

 で、その三十分後の同じ場所。依頼人さんが帰った後の中庭で、先輩はぶつぶつと文句を垂れ流していた。よっぽど不本意な案件だったのだろう、眉間の皺が普段の五割増しくらいに険しくなっている。その愚痴を聞きながしつつ撤収作業を始めつつ、あたしは先輩へと声を掛けた。

「そこまで言うなら、依頼を受けなかったら良かったじゃないですか」

「それも考えたが、あの依頼人、もしかして悪い霊に憑かれているんじゃないか、などと言い出したろう。元々オカルトへの関心が高いのだろうが、あの場で追い返したら、救いを求めて胡散臭い霊能商法に首を突っ込みそうな気配がしたからな」

「そうならないよう助けてあげたってことですか? 先輩、意外といいところが」

「そんなわけがあるか」

 もしかして改心したのかと思って尋ねたあたしの言葉を、ドライな声が打ち消す。あ、やっぱりか。無言で呆れるあたしに向かって、先輩は淡々と先を続けた。

「以前も言ったろう。馬鹿が詐欺に引っ掛かろうが身銭を失おうが、俺の知ったことではない。だが、悪霊だの地縛霊だの守護霊だのの跋扈は見過ごせんからな」

「霊、嫌いなんですか? 妖怪は好きなのに」

「一緒にする奴があるか。妖怪は、世界そのものへの畏敬の念と、人間の想像力との挟間から自然発生した、極めて興味深い存在だ。一方、霊は、不可思議に対する安易な解答と、娯楽としての恐怖とを同時に求める心理が半ば意図的に創造した、近代的な概念に過ぎない。深みが全然違う」

 中庭に立ったまま、仏頂面をあたしに向けて先輩が語る。話が難しくてよく分からないが、要するに妖怪と霊は違うんだ、俺が好きなのは妖怪なんだと言いたいらしい。そんなもんなんですかね、と、適当な相槌を打てば、先輩は「もういい」と言いたげに肩をすくめた。

「大体、可哀想だから依頼を受けてやれ、あわよくば励ましてやれとしつこく言ったのはユーレイ、お前だろうが。俺は俺なりに最善を尽くしたし、自分のネガティブさに悩んでいた依頼人は、原因が消えたことで――正確には、そう思い込むことで、少しは前向きになれたはずだ。結果に文句はあるまい」

「そりゃそうですけど」

 先輩の言葉に、あたしは煮え切らない顔でうなずいた。ちなみに「ユーレイ」というのは、あたしこと湯ノ山礼音のニックネームだ。苗字と名前の頭文字を取ると「湯」と「礼」だからユーレイ、というわけである。

 正直、あまり気に入っている呼び方ではない。ついでに言えば、女子にしては背が高く、髪も短いせいで男に間違えられがちな身としては、白の着物と黒のロングの儚げな女性を思わせるこのあだ名が似合っているとも思えない。思えないのだが、いくら文句を言っても命名者が改めてくれないのだから仕方ない。命名したのはもちろん、目の前の仏頂面の黒い怪人、絶対城阿頼耶その人だ。霊が好きじゃないのなら、後輩にこんな仇名を付けないでくださいよ。心の中でつぶやくと、あたしは「でも」と言葉を重ねた。

「だからって、あの人の就活が成功するとは限りませんよね……」

「そこまで面倒を見られるか。俺は弱気の原因を見越しに押し付けた上で、取り払ったにすぎん。これでも上手くいかないのなら、後は本人か企業か社会の問題だ。もはや妖怪学の範疇ではない」

 全く悪びれる様子のないまま、先輩は自分の専門分野の名称を口にした。

 妖怪学。妖怪の伝承に隠された本当の姿を調べる学問のこと。そんな名前は大学のシラバスにも載ってないし専門の研究室もないのだが、この先輩は一人でそれをやっている。具体的に何をしているかと言えば、文学部四号館四階は四十四番資料室に残された大量の妖怪学の研究成果を解読しつつ、相談に訪れる学生相手にインチキなお祓いや胡散臭いお呪いで――本人は「伝承に則った適正な対処法だ」と言っているけど――小金を稼いでいるわけだ。

 この人の根城である文学部四号館四階の四十四番資料室は、学生の間ではオカルト相談所として地味に有名で、実際、あたしが先輩と知り合ったのもその噂を聞いたからだ。初めて資料室を訪ねた時はまさか、こんな風にインチキの片棒を担がされることになるとは予想してませんでした。

 ……まあ、インチキとは言え、誰かに迷惑を掛けてるわけじゃなし、妖怪のせいってことで何かが解決するなら、それはそれで悪くないとは思うんだけど。だよね。

 言い訳めいた理屈を心の中でつぶやきながら、中庭の隅に這わせた電気のコードを巻き取っていく。細いコードではあるけれど、長さがあるので結構重い。

 なお、今回のギミックは、専用の機械で霧を発生させておき、その霧をスクリーン代わりにしてプロジェクターで影法師の映像を映写する、というものだ。水蒸気がスクリーンになるなんてあたしは知らなかったのだが、この仕掛けの発案者兼作成者に言わせれば、定番の手法ではあるらしい。

 資料室のギミック担当である杵松さん曰く「ステージショーやアトラクションでは結構使われてるんだよ。霧のスクリーンは、ピントがしっかり合わせられないから、投影される映像はどうしてもボケちゃうんだけど……でも、見越しは元々ぼんやりした影法師って設定の妖怪だから問題ないよね」とのことでした。

 タネを知ってしまえば単純な仕掛けだが、黒い影法師がいきなり目の前に現れて巨大化していくインパクトは絶大で、仕込みで初めて見た時はあたしも息を呑んで驚いた。あの依頼人さんは、さすがにあっさり信じすぎだとは思うけど、自分の足が急に動かなくなったら、妖怪の仕業と思い込んでも仕方がない。

「あ。そう言えば先輩。どうやってあのお姉さんの足をふらつかせたんです?」

「ここに出向く前、清めの水だと偽ってアルコールを飲ませておいた。彼女が酒に弱いことは、前もってリサーチ済みだったからな。おかげで少々理性も弱くなっていたのだろう、俺の話もあっさり信じてくれたし、一石二鳥だったな」

「……納得しました」

 相変わらずの手腕に感心と呆れの入り混じった声を漏らしつつ、プロジェクターに続くコードを回収していく。映写する光が依頼人さんに見えてしまってはまずいので、プロジェクターは絶妙な位置に仕込んであるし、先輩がどこかから調達してきたフォグマシンと呼ばれる霧発生機も、植え込みに隠れている。あの機械が中庭に水蒸気を充満させていたのだから、湿気が高いのも当然というわけだ。

 ……ああもう、電源はとっくに切ったのにまだ蒸し暑いし。

 ふう、と肩で息をしながら、あたしは先輩へと再び問いかけた。

「聞こうと思ってたんですけどね、今回持ち出した妖怪って何なんです?」

「見越しと説明したはずだが」

「そうじゃなくて、本当は何かって話ですよ」

 先輩に背を向けたまま問いかける。湿気の中で体を動かしているせいで、剥き出しの腕や脚は汗まみれで、タンクトップも肌にべっとり張り付いている。首に掛けたタオルで胸元をぬぐうと、あたしは「いつも言ってるじゃないですか」と続けた。

「あの妖怪は実際は何々だったのだ、って話。見越しって、目の前の人影がいきなり大きくなるって妖怪なんですよね。その話の元ネタは何だったのかなと思って。異常に成長の速い植物とか?」

「そんなものがあるか。例えば竹はかなり速く育つ植物だが、それでも二十四時間で一メートルが限度だ。見上げるほど育つには数日かかる」

 思ったままを口にすれば、豆知識付きで即座に否定されてしまった。そりゃそうか。でも、だったら、見てる間にギューンと伸びるものっていったい何だ。

「あ、ナメクジとかカタツムリの目? 地下に生息する巨大ナメクジがいてですね、地上に触覚だけを突き出して、それが伸びるのが人影のように見えるとか」

「馬鹿か、お前は。いや、尋ねるまでもないな。馬鹿だ、お前は。考えてもみろ。数メートルの触覚を持つナメクジがいたら、その全長は三十メートル近くにもなる。内骨格も外骨格も持たない軟体動物が、そんな巨体を保持できるわけがない」

「……そんなに全力で否定しなくてもいいじゃないですか」

 ぼそりと卑屈な声が出た。そりゃ、先輩の言うことはもっともですし、自分でも今のアイデアはどうかと思いますよ。でも、罵倒を交えて論破するのはやめません? そんな思いを込めてじろっと見つめてやれば、先輩は羽織の袖から煙草とジッポライターを取り出し、肩をすくめた。

「そもそも発想が違う。見越しのことを、お前は実在の生物を妖怪として捉えたもの――『仮怪』の一種と思っているようだが、正解はそこにはない。ある種の宗教的儀式が形骸化して生まれたのが、見越しという妖怪なのだからな」

「宗教的儀式……? 要するに、あの巨大影法師は元々神様ってことですか?」

「そうだ。伊勢神宮を中心とした体系的な神道が確立する以前に信仰されていた、古代の神。資料室で解読した『真怪秘録』編纂用の資料によれば、それが見越しの原型だ。古い神は高所から人を見下ろすのが常で、その位置が高いほど偉大で畏怖すべき存在となる。例えばユーレイ、古代の出雲大社の本殿の高さを知っているか」

「……あたしが知ってると思います?」

「思わんな。ちなみに正解は四十八メートルだ」

 しれっと答えやがる先輩である。いじめだ、と、聞えよがしに漏らしてやれば、黒の羽織の怪人は右手で煙草をもてあそびながらドライな声を返してきた。

「無知は罪ではないが、明示されるべき事実だからな。ともかく、古代の神は高い所にいたわけだ。古代社会では超常的存在の力は大きいのが常だから、人間の足を止め、ひれ伏させるほどの威厳ももちろん持っていたのだろう。だが彼らは零落した」

「零落って、落ちぶれるって意味ですよね。つまり、その昔の神様は、誰からも信じられなくなっちゃった、ってことですか?」

「ああ、そうだ。遊行する神に出会ったら足を止めて敬意を示すというしきたりは、いつしか意味を失っていき、彼らは『巨体で立ちはだかり、強制的に人の足を止める妖怪』となったんだ。視線を上から下へ動かす――つまり、見下されれば消えてしまうほど弱い存在としてな」

 そこまでを語ると、先輩は「完全に忘れ去られたほうが、彼らにとっては幸せだったのかも知れないな」と付け足しながら、手にしていた煙草をケースに戻した。結局吸わないことにしたらしい。あたしが煙草を好きじゃないのを知ってて気を使ってくれたのだろうか。いや、まさかこの勝手な人に限って、そんなことはないだろう。自意識過剰だぞ、と自分で自分に突っ込みながら、コードを束ね終える。後は、杵松さんが取りに行ったリヤカーに機材を積みこめば撤収は完了だ。額の汗をぬぐうと、あたしは立ち上がって先輩へと振り向いた。

「しかし、見越しが神様って言われても、あんまりピンと来ませんねえ。忘れられちゃった神様なんだから、それが当然なのかもですけど」

「彼らがかつて神だったことの証拠は、今もしっかり残っているぞ。意味は消えても、言葉はしぶとく生き残るからな。お前も知っているはずだ」

「はい? いや、あたしはそんなの知りませんよ。先輩ならともかく」

「神社の祭礼の際、神が遊行のために利用する乗り物のことを何と言う?」

「神様の乗り物? そりゃ、お神輿――あ」

 何気なく口にした言葉に、あたしは思わず目を丸くした。神輿、イコール、みこし、イコール、見越し。漢字は違えど発音は同じ。それってつまり、本来は同じものだったってことですか? コードの束を手にしたまま驚くあたしを見て、先輩は満足げに小さくうなずいた。

「理解したか。ちなみに、依頼人にも話したことだが、見越しの同類の妖怪は極めて多い。ほぼ日本全国に伝わっていると言ってもいいほどにな。となると、ここで一つの疑問が湧く。彼らはなぜそんなに広く伝わったと思う?」

「……ですから、あたしが知ってると思います?」

「思わんが、知らなければ考えろ。ここで注目すべきは、彼らを祓う際に用いられる『見越した』という決まり文句だ」

「はあ」

 汗を拭いつつ相槌を打つあたし。その気の抜けた返事に呆れることもなく、先輩は淡々と先を続けた。

「お前が理解した通り、遊行する神の乗り物を示す『御輿』が転じたのが見越しという妖怪だ。『見越した』というキーワードはそこから連想されたものにすぎないが、後世の人々はそこに別の意味を見出した。先を見越す、という表現があるだろう?」

「準備して備えておくってことですよね」

「そうだ。つまり、『見越した』という言葉は『今後に起こり得るトラブルへの予測と対処を終えた』と宣言することでもあったんだ。未来が常に不確定で不安なものである以上、行く先の安心と安全を口に出して確約する行為は、人々の共感をたやすく得たことだろう。だからこそ『見越した』という力強い宣言とセットになった妖怪、見越しは、名前や形を変えながら、日本中に伝播していったんだ」

「へえ……。って、もしかして先輩、だから今回の妖怪に『見越し』を選んだんですか? ほら、依頼人さんが、これからに自信が持てるようにって」

 だとしたら、随分行き届いた心配りであるが、この偏屈で仏頂面の変人にそんな気遣いができるものだろうか。そう思って尋ねてみたのだが、先輩は何も答えず、ただ無言で肩をすくめてみせた。この話をもう続けるつもりはない、と言いたいらしい。相変わらず自分勝手な人である。慣れたけどね、と自嘲していると、爽やかな声が耳に届いた。

「やあ、お待たせ」

 その声に振り返れば、銀色の四角い機械を乗せた台車の傍らで、白衣の上級生が片手を掲げて微笑んでいた。明るい色の短い髪に、眼鏡の似合う穏やかな笑み。絶対城先輩の貴重な友人にして理工学部の三年生、インチキ用のギミック担当でもある杵松明人さんだ。どうやら杵松さん、先にフォグマシンを回収してきたらしい。お疲れ様です、と一礼すれば、白衣と眼鏡の元演劇部員はあたしの手にしていたコードを手に取りながら優しく微笑んだ。

「どういたしまして。後はコードとプロジェクターだね。阿頼耶、これって全部四号館の倉庫から出してきたんだっけ?」

「ああ。適当に入れておいてくれ。どうせスペースは空いているからな」

 にこやかに問いかける友人にぶっきらぼうに応じると、絶対城先輩は「任せたぞ」と付け足しながら背を向け、歩きだしてしまう。いやいや、ちょっと待て。

「またあたしが一人で運んで片づけるんですか?」

「明人は仕掛けの考案と手配を担当したし、依頼人を言いくるめたのは俺だ。そもそもはお前が受けろと言ってきた依頼だぞ。お前も少しは働け」

「少しって……セッティングで実質的に動いたのはあたしなんですけど」

「肉体労働はサンプルの役目。適材適所だ。あと、分かっているだろうが、片付けが終わったら資料室に来い」

 命令を矢継ぎ早に投げつけられ、あたしは「え」と声を漏らした。予想はしてはいましたが、やっぱりそう来たか。傍らの黒の羽織の怪人を上目遣いで見上げると、あたしはもごもごと言い返してみた。

「今から資料室って……もう遅いし、明日じゃ駄目ですか?」

「定期的に確認し記録を取るのが重要なんだ。言ったろうが」

「聞きましたけど……。あれ、時間掛かりますし、汗も流したいですし、あと、さすがにそろそろ空腹が限界で」

「サンプルが観察者に歯向うのか? お前の胸元のそれを無償で提供し、あまつさえ壊れる度に補修してやっているのは誰だ?」

 歯切れの悪いあたしの反論に、先輩が質問で切り返す。その視線の先にあるのは、女子大生にしては貧相なあたしの胸……ではなく、そこにぶら下がったシンプルな竹製のペンダントだ。

 ああもう、ずるいですよ先輩、それを持ち出されるとあたしは従うしかないって、誰よりも知ってるくせに。

 この変人と知り合って数ヶ月、いろいろあってちょっと距離が近づいたかとも思ったが、この上下関係は全く変動していなかった。あ、いや、別に仲良くなりたいわけでもないんですけどね……? とかなんとか、内心でそう弁解した頃には、先輩は既に歩き出していたわけで。

「ほんとにもう。何でそう自分勝手なんです……?」

「阿頼耶が勝手なのは、今に始まったことじゃないからさ」

 恨み事を漏らしたあたしを慰めるように杵松さんが微笑み、「手伝うよ」と言い足してくれる。その笑顔はいつも通り柔和で優しげだったし、心遣いも嬉しかったけど、絶対城先輩をあんまり甘やかすのもどうかと思いますよ。


***


 で、時刻はそれから少し進み、午後の十時三十分。

「どうした。早くしないか」

 バリトンの効いた声が、目と鼻の先からあたしを促す。キャンパスの外れの文学部四号館四階、四十四番資料室の奥。林立する本棚に隠れるように設けられた畳敷きの生活空間にて、あたしは、絶対城先輩と向かい合って座っていた。

 というか座りながら困っていた。

「え、えーと……」

「怖がることはない、思ったままでいいんだ」

 いやしかし、思ったままと言われてもですね。そんな間近から見つめられると緊張するし恥ずかしいし、せめてもう少し離れてくださいよ、先輩。

 もっとも、あたしは長身短髪で化粧っ気なしの合気道使いという、実に年頃の女子らしからぬ見た目と性格の持ち主だし、一方の先輩も、若い男性らしい嗜好を今まで全く見せたことのない怪人である。顔を赤くするのは意識しすぎなんだろうけど、見知った異性にまじまじ見据えられるのは、やっぱり、こう、何というか。

「おいユーレイ」

「そわそわと――って、はい?」

 現実逃避気味に余計なことを考え始めていたあたしの心を、低い声が呼び戻す。間抜けな声を漏らしたあたしを、絶対城先輩の暗く鋭い双眸がまっすぐ見据えていた。

「お前。集中してないだろう」

「ばれたっ? ……すみません、ちゃんとやります」

 小さく頭を下げ、気持ちを切り替える。絶対城先輩は無愛想でぶっきらぼうで仏頂面な変人だけど、ずっとあたしを悩ませていた耳鳴りを封じてくれた恩人なのは確かだし、今月初めには命まで救われている。恩を受けた以上返すのが人の道であり、あたしの流儀だ。というわけであたしは、言われた通りに先輩を見つめ返した。

「……しかしこれ、事情を知らない人が見たら、何だと思うでしょうね」

「お見合いかな」

 あたしがぼそっと漏らした一言に、柔和な声が応じた。その声に釣られて視線を向ければ、畳敷きスペースのすぐ隣、応接セットのソファで読書中だった杵松さんと目が合った。その落ち着いた笑顔と佇まいは、絶対城先輩の相手で疲弊したあたしをいつものように癒してくれたが、それはそれとして今のは聞き捨てなりません。

「とんでもないこと言わないでください、杵松さん。何が悲しくて絶対城先輩とお見合いなんか」

「そこまで反論しなくても。相手が阿頼耶じゃ嫌なのかい?」

「え? ええとその――ほら、絶対城先輩もあたしとお見合いは嫌でしょう?」

「いいから集中しろと言っている。明人もこいつの気を逸らすな」

「これは失敬。じゃ、続き頑張ってね」

「……ありがとうございます」

 苦笑しながら読書に戻った杵松さんにうなずき返し、あたしは目の前の絶対城先輩へと向き直る。しかしこの光景、ほんとにお見合いとしか言いようがない。実態は全然違うんだけど、と内心でぼやいていると、先輩が口を開いた。

「どうだ? 何でもいい、お前の心に浮かんだままに言ってみろ」

「えーと……『何か食べたい』?」

「違う。『なぜ俺の心が読めない』だ。それはお前の思いだろう」

 浮かんだままを口にすれば、呆れた声で即答された。違いますよと頬を膨らませるあたしを前に、先輩は露骨に肩をすくめ「お前それでも覚の子孫か」と言い足した。

 覚。山に住み、人の心を読む人間型の妖怪の名前だ。先輩によれば、その実態は読心能力を持った人間だったらしい。そして何と、あたしの先祖にも覚と呼ばれた人がいたようで、その力は不完全ながらあたしにも受け継がれていたりする。

 幼い頃からあたしを苦しめていた原因不明の耳鳴りの正体は、不定期に覚醒する覚の力が勝手に受信した、周りの人の思考だった。相談を聞いてその事実に気付いた先輩は、あたしに耳鳴り封じのペンダントを与え、能力制御のための訓練を行うとともに、定期的に力の具合を調べることにした。つまり、このお見合いもどきは、妖怪学の研究者である絶対城先輩による、覚のサンプルであるあたしの能力の定期検査というわけだ。

 ちなみに、あたしが自分の力のことを知ったのはずいぶん遅く、今月初めの「ぬらりひょん」事件の最中だ。その事件の中で、絶対城先輩がどうやら名のある家の出でありながら、家名を捨てて妖怪学の道に走ったこともあたしは知った。先輩にとっては思い出したくもないことなのか、何も話してくれないので、詳しい事情はさっぱり分からないままだけど。目の前の人の心が読めれば一発で理解できるのだろうが、いくら集中しても何も伝わってこない。首を左右に振って「さっぱりです」と伝えれば、先輩はもともと不機嫌な顔をさらにしかめた。

「なぜ全く心が読めなくなった? 地下室で柔道部連中とやりあった時は、完全に覚の力を使いこなしていただろうが」

「そう言われても……。いくら心を読もうとして集中しても、ノイズっぽい音が聞こえるだけなんです。チャンネルの合ってないラジオみたいな」

「ノイズが聞こえる? ということは、能力が失われたわけではないんだな?」

「あたしに聞かれても分かりませんよ。まあ、理由は何にせよ、人の心なんか読めないほうがいいですけどね」

「呆れるほど気楽な奴だな。テレパスなら苦悩しろ」

 けろりと応じたあたしに冷たい視線を向けると、先輩は「もういいぞ」と口にした。今日の検査はここまでらしい。検査結果をノートに記し始める先輩を前に、あたしは傍らに転がしてあったお守りを取り、首に掛けた。十センチほどの竹の輪っかにチェーンを付けただけのシンプルなペンダントだが、身に付けるだけで耳鳴りを完全に封じてくれる優れものだ。起伏に欠ける胸の上で竹のリングを軽く引っ張り、チェーンをピンと張れば、耳の奥で鳴り続けていたノイズが消える。同時に、居心地の良い安心感がほっと全身を包み、あたしは思わず溜息を漏らしていた。

「ふう。やっぱこれがあると落ち着きます」

「覚の子孫も大変だね。検査お疲れ様でした、湯ノ山さん」

 いつものように、的確なタイミングで杵松さんがお茶を出してくれた。あたしが空腹を訴えていたことを気遣ってか、分厚いクッキーが数枚添えてあるのが実に嬉しい。ありがとうございます、と湯飲みとお皿を受け取り、クッキーに手を伸ばせば、絶対城先輩は記録ノートを卓袱台に広げたまま難しい顔を続けていた。

「なぜ力が使えなくなった? いや、数週間の検査結果を見る限り『なぜあの地下室では心が読めた?』と問うべきか? 何が違う? 危機から来る緊張感の有無か? やはり、あの時のようにアルコールを摂取した上での再検査を行う必要が……」

「それはもうやりませんからね」

 先輩の延々続く自問自答に、あたしは慌てて口を挟んだ。アルコール、つまりお酒は、覚の能力を確実に覚醒させ、かつ受信感度をぐんと向上させてくれるのだが、後遺症がきついのだ。地下室で暴れたあの日の午後から丸一日、あたしは激しい頭痛に苦しんだのである。

 先輩に言わせると「脳の処理能力を超えた情報を扱った反動だろう」とのことだが、理由はどうあれ、二度と味わいたくない痛みだった。能力を強化しないと死ぬって状況ならともかく、先輩の知的好奇心を満たすためだけにあれを再度体験するのは、絶対にお断りしますので。湯飲みを手にしたままきっぱり告げれば、絶対城先輩はうんざりした目をあたしに向けた。

「そこまで無理強いする気はないと言ったろう。サンプルを壊しては元も子もない」

「またそういう言い方する。体を気遣ってるんだ、とか言えないんですか?」

「思ってもいないことを口にしろと? 実在する怪異――『真怪』は、いずれも貴重なサンプルだという話は、何度も聞かせたはずだろうが」

「はいはい。あ、真怪と言えば、織口先生どうなんです?」

「何だ、藪から棒に」

「真怪繋がりで思い出したんですよ。あの先生、あたしと同じ真怪だったでしょ? 『二口』でしたっけ」

 おっとりしたお嬢様風の美人准教授を――正確には、その長い髪で隠されていた後頭部の第二の口のことを思い出しつつ、あたしは先輩に問いかける。織口先生は、一度はあたしを殺そうとした人ではあるけど、いろいろ事情もあったみたいだし、何より、同じ真怪同士。あまり憎む気にはなれないのであった。絶対城先輩のことを教えてくれたという意味では恩人だし。

「先輩、二口の治し方を知ってるとか言ってたじゃないですか。織口先生が資料室に相談に来てたのは知ってますけど、あれからどうなったかなと」

「真怪秘録編纂のために集められた資料の中に、『生来の二口は真怪にして、一種の病魔なり。治療に際して伽婢子の人面瘡の項に記されたる方法が有効なるは、彼の怪異の亜種故か』と記されていたからな。『伽婢子』の記述どおりに、貝母という薬を与えてみた」

「与えてみたって、そんな実験みたいな……。ちゃんと効いてるんですか?」

「二口は少しずつ小さくなっているとは聞いているぞ」

 ノートに何やら記しながら、こともなげに応じる先輩。その言葉に、あたしはきょとんと目を丸くした。本当に二口の治療法を知ってたのにも驚いたけど、それより。

「素直に治したんですか? 織口先生のこと、あれだけ毛嫌いしてたのに?」

「好悪はこの際関係ない。無論、代金はしっかり受け取っているし――それに、向こうが約束を守った以上、こっちもそれなりに真摯に応じるべきだろう」

「ああ、例の柔道部の告発状のことだよね。研究室でも噂になってたよ」

 口を挟んだのは杵松さんだ。柔道部の連中が代々繰り返してきた傍若無人で非道なあれこれ。その詳細を記した差出人不明の告発状が、全学部の学務や、さらには警察署や新聞社などに届けられ、同時に大学のサイトにアップされた話は、あたしも耳にしていた。てか実際に見た。言うまでもなく、やったのは織口先生である。

 まあ、それだけなら怪文書扱いされてお終いだったろうが、それが呼び水になったのか、「あの告発状の内容は真実だ」と主張する証言者や被害者がぞろぞろ登場したあたりで話は大きくなってきた。そうなると大学としても対応せざるを得ないし、調べてみると悪行がまあ出るわ出るわ。かくして、目下のところ柔道部は無期限活動停止扱いとなっている。取り調べを受けている部員も多いとか。

 で、そうなると、顧問だった織口先生も何らかのお咎めを受けることになりそうなものだが、そうならないのが恐ろしいところである。どんな手を使ったのか、あの先生は社会的には全く無傷のまま、今も元気に文学部の准教授を続けているのでありました。それを知った絶対城先輩は、「やはり食えない女だ」と、呆れと賞賛と警戒をないまぜにしたような感想を漏らしてたっけ。

 まあ、織口先生は改心したようだし――少なくともあたしにはそう見える――柔道部が表立って狼藉を働けなくなっただけで、結果としては充分だとは思うけど。

「しかし、学外でも評判悪かったんですね、あの部。合気道教室でも同情してる人いませんでしたよ」

「教室? ああそうか、湯ノ山さん、公民館の教室通い始めたんだっけ」

 慣れた手つきとタイミングで絶対城先輩にカップを差し出しつつ、杵松さんがあたしに尋ねる。眼鏡越しの穏やかな視線を向けられ、あたしは首を縦に振った。

「週一の初心者向け講座ですから、クラブや道場とは違いますけどね。でも、何もしないとどんどん体が鈍っちゃいますし、一回初心に帰るのもいいかなと思って。ほら、また絶対城先輩守って戦うこともあるかもしれませんから」

「頼もしいな。有能なボディガードができて良かったね、阿頼耶」

「くだらん。あんなことがそうそうあってたまるか」

「でも、備えあれば憂いなしですよ?」

 杵松さんが穏やかに微笑み、絶対城先輩が仏頂面で呆れ、そこにあたしが切り返す。

 この資料室に通うようになって二ヶ月半、あたしは何だかんだでここに馴染んでいた。まあ、未だにサンプル扱いが続いていることへの不満はあるし、入学前に夢見ていたような、コンパとイベントに彩られたキャンパスライフに憧れる気持ちも捨ててはいませんが。