人は困った時に神頼みをする。

 勉強ができない時は勉強の神様に。仕事で苦しんでいる時は仕事の神様に。恋愛に悩んでいる時は恋愛の神様に。世の中には様々な神様が存在する。

 誰でも一度はこんなフレーズを口にした事はないだろうか。

「あぁ神様」「助けて神様」「お願いだからなんとかして神様」

 でも私は神様なんて信じない。

 だって幾度となく願ってきたけれど叶った事なんて一度もないのだから。所詮、神様というものは人が望んで欲して出来上がった都合のいい想像や空想の産物だと思っていた。

 世の中には何とも厄介な神様が存在している事など知らなかった。

 そう。出会うまでは。


 私、神谷千尋(かみやちひろ)の十月十日はなんともついてない日だった。

 その日の朝は前触れもなく唐突に壊れた目覚まし時計のせいで寝坊から始まり会社に遅刻。普段は優しいのに虫の居所が悪かったらしい上司にこっ酷く叱られ、慌てて着て来た服が後ろ前になっているのを呆れ顔の後輩に指摘され、入社した時から気になっていた先輩、崇司(たかし)さんに告白する決意を同期の天野(あまの)に明かしたら「崇司さんなら最近彼女できたらしいよ」と言われ、取引先との会議が中止になって書類作成に費やした三日間が無駄に終わり、やけ酒でも飲みに行こうとしたらペナルティだと残業を言い渡され、一人オフィスに残っているとメンテナンスで照明と空調を落とされた。

 その時点でもう私は泣きそうになっていたのに、電車に乗ったらたちの悪い酔っ払いに絡まれた。

 いつものコンビニに寄ると、鮭弁当の気分だったのに豚カツ弁当しかなくて、仕方なく鮭おにぎりとレジに置いてあったチョコレートを衝動的に買う。小銭がなくて一万円札を出したら、いつも会う人とは違う目つきの悪い男性店員に露骨に嫌な顔をされて舌打ちまでされた。とぼとぼと歩きながら口に放り込んだチョコレートは不味かった。

 前を向く気力がなくて俯いていたら電柱に衝突し、その弾みで倒れた先はごみステーション。

 あぁ神様。こんな私はごみだと言いたいのか。

 惨めな私を助けて神様。今にも泣き出しそうな私を助けて神様。なんとかしてよ。なんでもいいから、神様。

 本当にいたらいいのに、神様。

 見上げた夜空は墨汁を塗りたくったみたいに真っ黒で、月も浮かばず星の一つも出ていない。涙が出るほど臭いごみの山から這いずる様に脱出した時、今日が二十四歳の誕生日であったのを思い出した。

 人恋しくなって天野に電話するも繋がらない。田舎の友達の番号を出すも最近変わった名字に委縮してしまう。他に友達はいない。誰かの温もりが欲しい。慰めてもらいたい。このまま一人でいるのは辛すぎる。もう人でなくたっていい。野良猫でも捨てられた犬でも連れて帰りたい。しかしそんな都合よく猫も犬もいなかった。

 でも狸ならいた。

 何故こんな住宅街のど真ん中に狸が?などという疑問も持たずに躊躇う事なく拾い上げる。理性など完全に失っていた私はそのまま自宅に向かう。途中ですれ違ったおまわりさんには声もかけてもらえなかった。狸を抱きながら号泣している女にかける言葉が思い浮かばなかったか。職務質問で最悪な誕生日に止めを刺されなくて済んだのは不幸中の幸いだった。


 狸と一緒にお風呂に入り、狸と一緒におにぎりを食べて、狸と一緒に眠った翌朝。

 理性を取り戻した私は枕元に立つ狸にギョッとした。

「……そうだ。拾って来たんだっけ」

 さっきから、なにかもさもさとした物が顔に当たると思ったら狸の尻尾だった。ぶんぶんと振り子のように振っては私の顔を叩いている。起き上がって目覚まし時計を確認した私は、しっくりこない時刻表示に首を傾げた。床に転がっているリモコンを拾い上げてテレビを点けると毎朝見ている番組の顔と時刻が映る。

「わ。もうこんな時間!」

 目覚まし時計は壊れていてデタラメな時刻を示している。これのせいで昨日は遅刻してしまったのをすっかり忘れていた。

 急いで顔を洗い、歯を磨き、パジャマを脱ぎ捨てて服に着替える。軽く化粧をしながら服が後ろ前になっていないかチェックする。

 大丈夫だ。時間はギリギリセーフ。助かった。二日連続の遅刻は回避できそうだ。

「起こしてくれてありがとう!」

 食べてね、と田舎から送られてきたリンゴを一つ狸の前において家を出た。


 昼休みに入った蕎麦屋。よく見かける常連なおじさん達に囲まれながらとろろ蕎麦を食べていると、天野がやって来て向かいに座る。

 同じのを、とおばちゃんに注文してから可愛くラッピングされた箱を取り出した。

「誕生日、昨日だろ? 一日遅れだけどプレゼント。ディナーでも奢ろうと思ってたのに神谷、残業だったから」

「天野ぉ!」

 箱には私の好きな黄色のリボンと、私の好きな店のロゴ。涙が出そうになって堪えていたら口からとろろが出た。

 汚いなぁと顔を顰めながらもティッシュを取ってくれる天野は、田舎の短大卒である私とは違い有名大学を出ている。入社時は期待の新人と持ち上げられ、今はその期待を裏切らない活躍をして異例の出世を遂げている。会社での地位は既に雲泥の差があり、同期の誼みがなければこうして一緒にランチをする事もないだろう。

「で。崇司さんの事はどうするの?」

「んー。せっかくいい気分で食べてたのに」

 私が好きな先輩、崇司さんには既に彼女がいる。衝撃の事実を知った昨日の今日でその話はよしてほしい。

「告白しないのか?」

「そんな度胸が私のどこにある?」

 知りたくなかった。知らないまま思いを伝えて玉砕した方がまだマシだったかもしれない。私の場合は、なにも出来ずに失恋するパターンが一番引きずるのだ。同じ職場で毎日顔を合わせる相手なら尚更だ。

「崇司さんモテるから、そういう人がいてもおかしくないって今なら思うのに」

「神谷、崇司さんばかり見て現実見えてなかったかも」

 図星を指されてはなにも言い返せない。

「ちやほやされてた十代とは違うんだから。頑張れ。神谷」

 生まれてこのかた、ちやほやなどされていた時期が一度でもあっただろうか。記憶にございませんが。

「応援どうも」

 余計なお世話だ。

「天野の方こそ、どうなの。まだ彼女とかいないの?」

「外面良くしてるだけ」なんて言っているけれど、人当たり良く男女関係なく人気がある天野にずっと恋人がいないのは謎である。

「いつまでもモテ期は続かないんだから。早くつくりなさいよ。天野」

「そうしたいんだけどね。まぁ、頑張るよ」

 余裕だねぇとぼやいて箸を置く。失恋したって完食してしまう私はなんて可愛げのない女なのだろう。

 お腹が満たされたところで、ふと気が付いた。なにか重要な事を忘れているような気がする……。

 天野のとろろ蕎麦が運ばれてくるのと同時に、隣に座ったおじさんが狸蕎麦を注文した。

「あ……」

 唐突に声を漏らした私に天野が首を傾げる。

「どうかした?」

「う、ううん。なんでもないよ」

 崇司さんの事で埋め尽くされていた頭の中。『狸』のキーワードを耳にした途端、隅に追いやられていた獣の影が一気に膨らんで飛び出してきた。


 仕事を終えて帰路についた私の頭の中は、家に残してきた狸の事でいっぱいだった。

思わず持ち帰ってしまったけど、この後どうしたらいいだろうか。

 飼う?

 狸って許可無く飼っていい動物だっけ。待てよ。そもそも私の住んでいるアパートはペット可だったっけ。これまでペットを飼った事がない私がいきなり狸など飼育出来るだろうか。いやいや。無理でしょ。

 山に返す?

 何処の山に? この辺はあって緑地公園だ。山なんてない。一体どこから来たんだろう、あの狸。

 食べちゃう?

 そろそろ鍋の季節だし? 無理。絶対無理。魚もおろせない私に生きた狸をおろせるわけがない。

 解決策が見つからないまま家に着いてしまった。

 この扉の向こうには狸がいる。

 玄関を開けたら狸が「おかえり!」と駆け寄ってくる夢のシチュエーションを想像しながら鍵を差し込みドアノブを回す。しかし狸は来ない。当り前だ。靴を脱いでいると「おかえり」と部屋の中から男の声がした。

 咄嗟に思いついたのは兄だった。地元に根付いた兄が東京へ遊びに来た時などに何度か泊めてあげたことがある。でも合鍵なんて渡してないし、そもそも靴がない。まさか泥棒? いや違う。泥棒が「おかえり」だなんて言うはずがない。空耳? でも確かに聞こえた。はっきり聞こえた。

 恐る恐る部屋を覗く。

「……え?」

 そこには狸以外誰もいなかった。しかし私は驚愕に目を見開いた。

「どういうこと……?」

 干しっぱなしだった服や、脱ぎ捨てたままだったパジャマがベッドの上できれいにたたまれている。いつの間にやったんだ私。朝はバタバタしていてそんな暇はなかった筈なのに。

「やっぱり泥棒?」

 部屋を片付けてくれる泥棒なんて聞いた事ないけど。

「なぬ。泥棒?」

 また声がした。それもかなりの近距離で。

 誰かいる。絶対いる。すぐさま狸を抱えて化粧瓶を握った。いつ襲われても対抗出来るように化粧瓶を振り上げながら部屋の中を見回す。ベッドの下。テーブルの下。それくらいしか人が隠れる場所はない。

 でも誰もいない。

「震えておるぞ。大丈夫か?」

「大丈夫じゃない。めっちゃ怖い」

「そのように怖い顔をして。いかがした?」

「だって泥棒が!」

「それがし、ずっとここにおったが。そのような不届き者は見てござらん」

「だったら誰が……」

 あれ。と声のする方を見る。目があったのは脇に抱えた狸だった。

「何を見ておる。それがしは泥棒ではござらんぞ」

 声は口を動かした狸から聞こえる。

「……嘘でしょ」

「まことでござる」

 狸がしゃべっている。狸がしゃべっている? 狸がしゃべっている!

「それより喉が渇いた。お嬢。すまぬが冷蔵庫にジュースがあった。一杯くれぬか?」

「は、はい……」

 化粧瓶と狸をそっと戻してとりあえず従う。

「なんで冷蔵庫の中知ってるの?」

「そうだ。チーカマ一本もらい申した」

 確かにチーズかまぼこが減っている。狐につままれたような心持ちで狸にジュースを出す。狸は買って来たコンビニの袋を開けている。

「鮭弁とな。昨日も鮭を食したではないか」

 おしぼりで入念に手を拭きながら文句を言いつつ蓋を開け、小さな手で器用に割り箸を割ってみせた。

「では。ご相伴にあずかろう。いただきます」

 食べだした。一応買ってきたキャットフードには目もくれない。

「あのぉ……」

「帰ってきたら手洗いうがい。基本にござろう。それと風呂にも入られよ。タバコの匂いがキツイでござる」

 私は煙草を吸わないが、ヘビースモーカーの課長と喫煙ルームで少し話した事を思い出す。

 整理がつかないまま言われたとおりに手を洗いうがいをし、お風呂に入る。部屋に戻ると弁当は既に空になっていた。

「お嬢はいつもこんな味の濃いものを食しておるのか。自炊もしない。片付けもしない。嫁に行く気がないとみえるが。これ如何に」

「狸……さん。もしかして妖怪か何かの類だったりする?」

「それがしは狸でも妖怪でもござらぬ。お。これは?」

 勝手に私のバッグを物色しだした狸が、天野からもらったプレゼントを見つける。

「プレゼント」

「なんと。気が利くではないか」

「私のだよ」

「さようか」

「友達からもらったの」

 奪い返した箱を開けると、中から出てきたのはハート模様がかわいいガラス製のキューブオルゴール。ねじを回すと動き出したシリンダーに櫛状の金属板が弾かれて音楽を奏でる。なんてきれいな曲だろう。どっかで聞いたことある気がする。曲名は知らないけれど。

「オルゴールとはなかなかセンスの良い友でござるな」

「うん。嬉しい」

 ご飯奢ってもらうより、こっちの方が良かったかもしれない。

「さて。それがしも風呂に入るでござる。タオルどこ?」

「ちょっと待って。まさか泊まってくの?」

 しゃべる妖怪狸を飼う気はない。

「いかにも」

「そんなの困る」

「呼んでおいて今更何を申すか」

「呼んでないよ!」

「白々しい。昨日、助けて~と、それがしを呼んだではないか。だからこうして参ってやったというに」

 思い出したくもない昨日の事を思い出す。夜のごみステーションの中で確かに私は助けを求めていた。けれどそれは――

「私は、神様助けてって言ったの」

 そう。神頼みだ。妖怪狸に頼んだ覚えはない。

「それがしを何と心得る。神様でござるぞ」

 狸が神様だと言い出した。

「………………」

「その目。信じてなかろう」

「狸じゃん」

「神様にござる。山の神にござるぞ」

「や、山?」

「うむ。昔話で御存じ、有名なお爺さんが柴刈りをしたと語り継がれる名高い山の神様にござるぞ」

 背景に「えっへん」というオノマトペが見えそうなほど胸を張っている。昔話でお爺さんが山へしばかり云々とはよくある話だ。どや顔なところ悪いんだけど一体その山どこの山?

「そうですか。お呼び立てして申し訳ありませんでした神様。もう私は大丈夫ですので山へお帰り下さい」

「殺生な。何処へ帰れと申すか。それがしの山などはとっくの昔に、欲深い人間どもによって切り崩されておるというのに」

 え。そうなの? 名高い山なのに?

「それは……ごめんなさい」

 人間を代表して謝る。

「それに、ここにそれがしを連れて来たのは他でもない。お嬢でござる」

「それは……ごもっともだけど……」

「もはやお嬢に拒否する権利はないでござる」

「食べる権利はあるのかな」

「なんと。それがしを食すと申すか! お、鬼でござる。人の面を被った鬼でござる!」

「そんなに怯えないで。ごめんなさい。冗談だから」

 短い手足を震わせながらそっと後ずさる狸に「臭そうだしやっぱ無理」と思った事は言わないでおこう。妖怪であれ神様であれ、追い出したり、ましてや食べてしまったりなんかしたらきっと祟られるに違いない。

 私は我が家で一番ふかふかなタオルを差し出した。

 こうして私と神様?との生活が始まった。


   ◆


 同居二日目と三日目。休日の二日間はキレイ好きらしい神様に半ば強制的に大掃除をさせられて終わった。


 同居四日目。珍しく合コンに誘われたけど断って帰路につく。

 いつものコンビニで弁当を二人分買うと、いつも会う顔馴染みの店員が意味ありげな目をよこしてきた。勝手に推測されても期待には応えられませんので。

 玄関を開けて部屋に入ると明かりの点いたワンルームで狸が待っていた。

「おかえり」

「た、ただいま」

 二十一歳で実家を離れ、上京してからずっと一人暮らし。初めて「ただいま」を言った相手は狸。

「年頃の女子が合コンにも行かずに真っ直ぐ帰ってくるとは。なんと侘しいものか」

 自称神様の妙な狸が家にいてはおちおち遊びにも行けやしない。

「狸さん。焼き肉弁当とハンバーグ弁当、どっちがいい?」

 仕事の休憩時にさくっと狸の餌を調べてみたが、狸は雑食でなんでも食べるとあった。箸も問題なく使えることだし弁当でいいか、と安易な考えで買ってはきたけれど、二夜連続して鮭だったから気を使って魚は避けた。

「狸ではござらん。それがし神様でござる」

 神は自分に「様」を付けるものだろうか。「俺様」みたいなものだろうか。狸、じゃなくて神様はじっくり悩んで迷った末に焼き肉を選んだ。

「して。お嬢には料理を作ってやる相手はおらぬのか?」

 神様にはわかるまい。瘡蓋になる前の傷口に塩を塗りこまれるこの痛さ。黙っていると「そうであろうな」と勝手に納得された。

「部屋をみれば一目瞭然。男の気配など皆無でござる。色気のなさはブラジャーからも滲み出ておるわ」

 室内干ししている下着を憐れむように眺める神様。慌ててしまい込んだタンスの中には同じような下着が並んでいる。

「見せる相手がおらぬからして機能性ばかりを重視した色気のない下着ばかりを買うようになるのだ。なんと恐ろしいことか」

「うるさい。見せたい相手ならいるんだから」

 咄嗟に言い返した自らの言葉に怒りが鎮圧される。なんて不細工なフレーズだろうか。

「すまぬが。それがし、そのような色気のないブラジャーを見せられたところで――」

「あなたの事じゃないから謝らないでくれるかな」

 なんでもいい。と、見境無く狸を拾って来た私だけれど。短大時代になんとなく付き合った彼氏と自然消滅して以来ずっと恋人のいない私だけれど。失恋したばかりの私だけれど。

 まだ女を捨てる気はないのでござる!


   ◆


 同居五日目。珍しくカラオケに誘われたけど断って美容室へ行き髪を切った。

 帰りに新しい靴と洋服を買い、最後にランジェリーショップにも寄って最新の下着も買った。沢山の荷物を抱えていつものコンビニで二人分の弁当を買う。顔馴染みの店員の、探るような目を掻い潜りアパートへ帰る。

「おかえり」

「ただいま」

 お茶を淹れて、小さなテーブルに生姜焼き弁当と煮魚弁当を並べる。クッションに乗ってテーブルに身を乗り出した神様は五分ほど悩んでから「いただきます」と、箸を手にとり生姜焼き弁当の蓋を開けた。

「して。その髪はいかがした」

「あ。気付いてくれたの狸さん」

「それがし神様でござる」

 たとえ狸相手でも、新しいヘアスタイルに気が付いてもらえるのは嬉しい。でも、そんな事で気を許してしまうなんて私はまだどうかしているのかもしれない。

 気がついたら崇司さんの話をしていた。

 片思いしていた事。崇司さんには彼女がいて告白も出来ずに失恋した事。崇司さんの好みだと聞いて伸ばしていた髪を切った事。崇司さんが褒めてくれたファッションブランドとは別の靴と洋服を買った事。

 神様は小さな手で器用に箸を使って生姜焼きを食べ、時折り「ほう」とか「うむ」とか適当な相槌をうっている。下着を買った事は言わなかった。

「お嬢はそれでタカシとやらへの未練を断ち切ったのでござるな」

「まぁね。男は崇司さんだけじゃないもん」

「さようか。そう言えばお嬢に荷物が届いておった。これでござる」

「人の荷物を勝手に開けないで。注文してた新しい目覚まし時計だ。良かった。スマホのアラームじゃなかなか起きられないんだよね……あれ。荷物どうやって受け取ったの?」

 玄関には鍵をかけてあったはず。小さな狸に解除は出来ないだろうし、ドアを開けたとしても配達員が狸相手に荷物を置いていくはずはない。

「ハンコの場所なら知っておる」

「なんで知ってるの。ってゆーかハンコ捺したの? どうやって?」

「なに。そんな事も知らぬのか。ハンコを、こう、朱肉に押し当ててだな」

「そうじゃなくて。狸が荷物を受け取れるはずがないでしょ」

「それがし神様でござる。しかし人間の世においては人間の姿でなければ面倒な事も多い」

「もしかして、人間になれたりするの?」

「いかにも」

「すごい。やって見せて」

「よかろう」

 神様はどこからか取り出した葉っぱを頭に乗せると、ぽっこりとしたお腹を三回リズミカルに叩いた。

 次の瞬間。狸は姿を消し、代わりに現れたのは人間の男。

「いかがした。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」

「……その声はやっぱり狸さん。いや、なんか思ってたのとちょっと違うから……」

「それがし神様でござる。異なことを申すな」

「だって。ちょんまげとか。着物とか。てっきりサムライ的な人が出てくるもんだとばかり……」

 確かに神様は人間になったけれど――

「普通の人じゃん」

 そこにいたのは茶髪にデニムパンツを穿いた、どこにでもいそうな男。年は二十歳前後といったところか。ピアスにネックレスまで着けている。独特な言葉使いからして想像を勝手に膨らませた私が悪いのかもしれないけれどガッカリ感は大きい。しかしよく見てみると、甘い顔立ちがちょっとかっこいいかもしれない。

 ふと、拾って来た日に一緒にお風呂に入った事を思い出す。

「お嬢。顔が赤いようだが」

「なっ。なんでもない。それより、葉っぱなんてどこから持ってきたの。何だか嫌な予感がするんだけど?」

「あれだ」

 神様が指差した先には観葉植物のパキラがあった。

「嘘でしょ。大事に育ててるのに。減ってる。葉っぱが減ってる!」

 言われてみれば水をやった時に、なんとなく違和感があった。どうして気が付かなかったんだろう。

「いけなかったか」

「これは大事な物なの。入社した時にオフィスは殺風景だからって崇司さんが私のデスクに置いてくれたやつなんだから!」

「嬉しさのあまり大事に育て過ぎて大きくなって文机に置けなくなり、やむなく持ち帰りこの部屋で育てておると、そんなところでござろう」

「そんなところだよ!」

「なんとも未練がましいでござるな」

「うぐっ……」

 男は崇司さんだけじゃない。でも、崇司さんはこの世に一人しかいない。口では前向きな事が言えるようになったけれど、まだ新しい恋へと気持ちを切り替えるには時間が必要みたいだ。

「使ってください」

「よいのか。ならば頂戴いたす」

 こうして私は思い出の品とも決別。神様には毎朝の水やりという日課がついた。


   ◆


 同居六日目。珍しく飲み会に誘われたけど断ってスーパーに立ち寄り食材を買う。

いつものコンビニを素通りし、清掃中だった顔馴染みの店員の確信したような目を掻い潜り帰宅する。「おかえり」「ただいま」のやりとりも自然になってきた。

「お嬢。弁当がないではないか」

「大丈夫。ご飯なら私が作るから」

「昨日あれだけ買い込んだのだ。さぞ財布も軽かろう」

「お察しの通りで」

 今月自由に使えるお金は殆ど使ってしまった私にはコンビニ弁当も贅沢品だ。

 小さなキッチンに立ち、あまり使った記憶も痕跡もない調理道具を取り出して料理に取りかかる。テレビを見ながら粘着ローラーの付いたクリーナーをあちこちでコロコロさせている神様を背に、作業すること一時間。

「できたよ」

「なかなかうまそうではないか。いただきます」

 いただきます。子供の頃は当たり前の儀式として言っていたこの言葉も一人暮らしを始めてからは言わなくなっていた。子供の頃つい言い忘れた時に、作ってくれたお母さんと、命を繋いでくれた食材への感謝の気持ちを忘れるな、と父に叱られ初めてその意味を知った。神様と一緒に手を合わせてみると食する事が出来る感謝の気持ちがぽっくりと胸に湧く。手間はかかるけど自炊も悪くはない。神様は小さな手でスプーンを掴むと一口頬張った。

「……お嬢。これは何でござるか?」

「へ。カレーライスだけど。知らないの?」

「それがし、このような不味いカレーなど知らぬでござる」

 失礼だなぁと反論するも一口食べたらその意味が分かった。

「なにこれ。ちゃんと作り方見てやったのに。お母さんがいつも使ってたのと同じカレールゥ使ったのに。なんでなの?」

「こっちが聞きたいでござる。わっぱでも作れるカレーをいかようにしたならばこんなにも不味く作れるのか」

「んー。おかしいな。こうなったら最終手段!」

「お嬢。なにをかけているのでござるか?」

「マヨネーズ」

「なんと。よせ。はやまるでない!」

「よし。うん。これならイケるよ。食べてみて」

「戯言を申すな。こんなもの食えるわけが…………あれ。食えるでござるな」

 無事に完食した。

 空っぽになったお皿を見て気をよくした私は神様に天野の話をした。

「初めて会ったのは会社の面接会場。席が隣だったから覚えてたんだよね。入社日に再会しておしゃべりしたら気が合って。二人だけの同期ってのもあって。それから仲いいの。あのオルゴールくれたのも天野なんだよ」

「あぁ。あのオルゴールか」

「うん。女子力が高くてね。ラーメン食べる時なんか、猫舌だし音を立てるのが恥ずかしいからって啜って食べないんだよ。パスタ食べる時みたいに麺をレンゲに乗せてフーフーしてるんだから。こっちじゃ友達って言えるの天野だけなんだよね。天野にならなんでも話せるし」

 しゃべる狸と同居してる。なんて、これはさすがに言えないけれど。

「会社の女の子達とも普通には話すんだけど、みんな地味な私とは違って華やかだし、婚活の一環だとかで毎日手の込んだお弁当作ってきてるからランチの輪にも入れないし、天野みたいに心置きなく話せる人はいなくって」

「さようか。ところでさっきからなにをしているのでござるか?」

「狸さんの寝床を作ってるの」

「それがし神様でござる」

「前に実家からフルーツの盛り合わせが送られて来た時のカゴなんだけど。ここにブランケットを敷きつめれば。ほら。完成」

「神様をこんな窮屈な籠に入れると申すか」

「神様の特等席でございます」

「さようか。では入ろう」

 これでも一応嫁入り前の乙女なので。人間に化けたあの姿を見てしまったからには一緒にベッドに入るのは抵抗がある。神様はカゴが気に入ったようで背中を丸めると間もなく寝息を立てだした。


   ◆


 同居七日目。珍しく食事会に誘われたけど断って会社を出た。

 節約中の私には帰る以外に選択肢はない。

 はずだった。

 予測もつかない出来事が起こったのは、神様が待つアパート目指して電車に乗り込んだ直後の事だった。


「おかえり。遅いではないか」

「ただいま。ごめんね。すぐご飯作るから」

 備蓄していた菓子類が無くなっているのを見て少し罪悪感が払い落とせた。有言実行。すぐに用意できた食事をテーブルに出す。神様は「いただきます」と箸を手に食べ始めた。

「お嬢は食べないのか? 昨日の残りでこしらえたこの、いまいちなカレーうどん」

「いまいちとか言わないでよ。私は食べてきたからいい」

「なにやら落ち着かぬな。腹が減っておるのなら半分やるぞ。このいまいちなカレーうどん」

「いいってば。シャワー浴びてくる」

 マヨネーズと七味をかけてあげると神様は文句を言わなくなり黙々と食べだした。

シャワーから出てくると汁まできれいに飲み干して完食していた。

「お嬢。風呂に入りたいのだが背中を流してはくれぬか。手が届かぬからして洗えず痒いのだ」

「人間になって入れば。そうしたら手は届くでしょ」

「そうしたいところがだ、狭い風呂には小さい体が理に適うておろう」

「狭いとか言わないでよ。これでもここは私の城なんだから」

 城にノミを繁殖させられても困るので洗ってあげることにした。

 小さくて愛らしい程の無防備な背中に気を許した私は、今日の予測もつかない出来事を話した。

 元カレから電話が来たのは本当に急だった。混み合った電車に乗車中だった私は慌てて次の駅で降りたが、久しぶりに聞くその声に只々驚くばかりで暫くホームに立ち尽くしていた。地元で付き合っていた元カレはいつの間にか上京していて、偶然にも近くに住んでいる事が判明した。

「気持ちは分かるんだ。私もこっちに来た頃は寂しくて田舎の友達によく電話してたから。会おうって言われて、近くのコンビニで待ち合わせしたの」

 終わりの言葉もなく終わっていた元カレは「久しぶり!」と、まるでつい先週まで会っていたかのような軽々しさだった。戸惑いつつも顔馴染みの店員の窺う目を掻い潜り私達はコンビニを出た。

「それから、彼の車でイタリアンレストランに行って、近況報告しながらご飯食べたんだ」

 私にとっては初めての彼氏だった元カレ。付き合っていた頃を思い出さずにはいられなかった。学生だった私達が社会人になっている。ファミレスが常だった私達がおしゃれなレストランに来ている。奢ってくれたのも初めてだ。浮き彫りになった違いに短くはない年月を感じた。

「また会おうって約束したの。昔の恋人と友達になるって話はよく聞くし、嫌いで別れたわけじゃないし、これもアリだなって思ったんだけど。帰りにね……やりなおさないかって言われちゃって」

 思いがけない申し出に、なにも言えずに帰って来てしまった。

「タイミングが悪いよ。勿論、彼は知らないんだけどね。私が失恋したてだって事は」

「逆だ。いいタイミングではござらぬか。タカシを忘れさせてもらえばよかろう」

 泡を流した神様は浴槽をよじ登ってお湯の中にダイブした。溺れるのではと心配したが、顔とお腹を水面から出してぷかぷかと浮いている。

「それじゃ、まるで彼を利用するみたい」

「そやつとて同じだ。寂しいからお嬢が必要なのであろう。互いに利用しあうのも人でござる」

 神様の言う「人」という響きが妙に胸に刺さった。恋人の始まりは必ずしも純粋な想いとは限らないのかもしれない。

「……気持ち良さそうだね。温水プール」

 なんだか気が滅入りそうで話題を変える。

「うむ。悪くはないが。昨夜はついうとうとして危うく溺れるところでござった」

「そうなの?」

「人では狭くて敵わぬが、この体では深すぎるのだ」

 かと言って湯を減らせばすぐに冷めてしまう。

「お嬢。広い風呂のある家に越したらどうか?」

 広いお風呂のある家にあなたが越してください。

「そんなに言うなら銭湯に行けば?」

「なぬ。あるのか銭湯!」

「うん。ちょっと歩くけど」

 城の浴槽が神様の溺死現場になっては困る。それに、いつも部屋をきれいに掃除してくれている神様の「広い風呂に入りたい」というささやかな願いくらい叶えてあげてもいいだろう。

「お金かかるから毎日は無理だけど、たまにならいいよ」

 すると神様はバシャバシャと激しい水飛沫をあげながら万歳を連発しだした。

「そんなに嬉しいんだ」

「ちがっ。違う。はひっ。助けぷへっ!」

「……あれ。もしかして溺れてる?」

「あひっ。あああ足攣ったでござる!」

「えぇ!」

 慌てて神様の体を両手ですくい上げた。

「危なかった。狸さんも足とか攣るんだね」

「それがし神様でござる」

「神様も足とか攣るんだね」

「みなまで言うでない」

 恥ずかしかったのか、タオルを頭からすっぽりと被ってそっぽを向いてしまった神様。そっと浴室を後にして部屋に戻った私は迷わずインターネットで子供用の浮き輪を注文した。


   ◆


 同居八日目。午後の会議を断り、昼間の空いている電車に乗る。

 いつものコンビニには顔馴染みの店員の姿はなく、代わりに見覚えのある目つきの悪い店員がレジに立っていた。誕生日に一万円札を出して舌打ちされた記憶がぼんやりと脳裏に浮かび上がる。恐る恐る覗いた財布にあった小銭にほっとしながら会計を済ませた。

 通い慣れた道も、通る時間が違うだけで雰囲気がまるで違って見える。平日の昼間に帰ってくる玄関なんか歪んで見える。目眩までする。

「おかえり。今日は随分早いではないか」

「ただいま。熱があるから早退させてもらったの。風邪ひいたみたい」

 買ってきた風邪薬を飲み、体の芯から冷えるような悪寒に堪らずベッドに潜り込む。

「狸さんにも風邪ってうつるのかな」

「それがし神様でござる。神様は病気などせぬ」

「よかった。夜まで寝るから。それでも食べてて」

 神様がレジ袋に顔を突っ込み肉まんを取り出すところまでは記憶にあったけれど、気がついたら夜になっていた。

 薬が効いたか熱は下がり食欲もある。玉子粥くらいなら作れるなと立ち上がった時にスマホが鳴った。天野がお見舞いに近くまで来ているのだという。しかし、近所には似たようなアパートが点在しているために迷っているらしい。

 厚手のパーカーを羽織ってコンビニまで迎えに行くと、スーパーの袋を両手に提げた天野がいた。プリンを買ってもらい、顔馴染みの店員の訝る目を掻い潜ってアパートへ戻った。

「実はね。ペット飼ってるんだ」

 特等席で丸くなっている神様を見て天野は一瞬ギョッとしたが、それでも「こんばんは」と背中を撫でてスキンシップを図りだした。

「名前は?」と聞かれて咄嗟に「ポコ侍」と答えた。物言いたげにじろりと私を見上げた神様はぐっと口を噤む。焼き肉をご馳走するかわりに、しゃべらないと公約させてあるのだ。

「キッチン借りるよ」

 天野は手際よく料理をはじめた。そして出来上がったのはとん汁。

「おいしい。天野はいつ結婚しても困らないね」

「相手がいればな。それよりさ、ポコ侍がヨダレ垂らしてるんだけど。もしかして食べたいのかな。あげてもいい?」

 神様の口に入るように天野は具を小さく切ってから与えた。箸を使って食べ始めた神様に天野は驚きを通り越して笑いだす。

「思ったより元気そうだな」

「うん。ただの風邪だし」

 きっと元カレの事を考え過ぎて知恵熱出ただけだし。治ったら天野に相談してみよう。

「デスクは散らかってるのに部屋は片付いてるんだ。意外」

 そういえば私の部屋に天野が来たのはこれが初めてだ。

「う、うん。まぁね」

 キレイ好きな神様が片付けてます。とは言えない。なんかごめんなさい。

「あのさ。神谷、もしかして彼氏でもできた?」

「それ、どういう意味?」

「まわりが噂してるんだよ。服装や髪形が変わったし、付き合いも悪いってさ」

「最近やたらと誘われるんだけど、なんでだろう。ポコ侍が心配だから帰ってるだけだよ。それに服も髪も崇司さんの好みをやめたってだけ。天野なら分かるでしょ」

「それなんだけどさ……」

「なに? もしかして崇司さん怒ってた? やっぱり会議だけは出たほうがよかった?」

「いや。それは問題ないけど。前に話した崇司さんの話は覚えてるよね?」

「彼女が出来たって話?」

「そんなこと言ってない」

「……え?」

「また勝手に聞き間違えてる。僕は、崇司さんには好きな人ができたらしいって言ったんだよ」

「なんだ。同じ事じゃん」

「その崇司さんの好きな人っていうのが神谷でも、そう言える?」

「へ……? わ、私?」

「今日、信也(しんや)さんに言われた。協力してほしいって」

 信也さんとは、崇司さんの同期で天野の直属の上司でもある。

「最近、誘われる事が多いだろ。あれ、信也さんの企み。崇司さん、チャラそうに見えて実はシャイだから周りと一緒に神谷を誘ってたってわけ。でも悉く断られて難航してるから恋人がいるんじゃないか、聞いてこいって。陰でこそこそするのは嫌いだから正直に話そうと思って」

「え? なに? 待って。ちょっと待って」

 崇司さんが私を? そんな馬鹿な。当事者だよね私? あまりに想定外な内容で脳に入ってこない。まるで他人事のようで全く馴染んでこない。

「正直に話し過ぎだよ。そんな事急に言われても。うわ。どうしよう。どんな顔して崇司さんに会えばいいの。会社行きづらい。休んじゃおうかな」

「月曜日の打ち合わせまで休んだらさすがに怒られるだろうね」

「そんなぁ。やっと気持ちの切り替えがつきそうだったのに」

 じくじくしていた傷が、やっと瘡蓋になったところなのに。

「それじゃ。帰る」

「嘘でしょ。帰っちゃうの。泊っていきなよ」

「無理でしょ。風邪うつっても困るし。しっかり寝てな」

 目が回るのは風邪のせいだろうか。混乱する私を残して無情にも天野は帰っていった。

 静まり返った部屋で耳を澄ませていた神様は天野の足音が消えたのを確認した後、苛立ちを露わにして私の足を尻尾で叩いた。

「痛いよ」

「ポコ侍とはなんだ。まるでそれがしがヘッポコみたいではござらぬか」

「そうかな。けっこう可愛いと思うけど」

「お嬢にはネーミングセンスの欠片もないでござる」

 今はそれどころじゃないんだけど。整理の付かない頭が重くて天井を仰ぐ。

「しかし、あれが天野か。眼鏡も時計も実に良いセンスをしておる。料理も出来て気配りも出来るとは感服するでござるな」

「うん。あ。それ私のプリン」

「しかし男ではないか。それがし、てっきり女子の友だとばかり思っておった。すまぬがマヨネーズを取ってくれ」

「まさかプリンにかける気? 言ってなかったっけ。天野は無駄に女子力が高い男友達だよ」

「なるほどな。この部屋を見ればお嬢に音楽の趣味がないのは分かっておった。解せないでおったがこれで分かったでござる」

「なんの話?」

「天野とやらはお嬢を好いておる。ラブでござる。さっきの様子を見ていても瞭然」

「やだな。ただの友達だって」

「ならばアレをいかに心得る」

 小さな手が、天野からもらったオルゴールを指差す。

「あれがどうしたの?」

「あの曲を知っておるか?」

「聴いた事はあるよ。流行ってなかったっけ。ドラマの主題歌とかで。確か歌ってるのは……」

「レルスタでござる」

「そうだ。レールスターズだ」

「知っておったか」

「勿論だよ。有名なバンドだもん。メンバー全員が電車好きって理由でついたバンド名がレールスターズ。通称レルスタでしょ」

「うむ。して曲名は?」

「それは知らない」

「何故にバンド名の由来まで知っておいて曲名を知らんのだ」

「有名な曲が多くてどれがどれだか。メロディとタイトルが結びつかなくて。待って。今思い出すから」

「もうよい」

 神様はため息交じりに「やれやれ」と首を振った。

「あの曲のタイトルは、『君が好き』でござる。おそらく天野の気持ちがそのまま込められておるのだろう」

「君が……好き……?」

 あれ。おかしいな。焦点が合わない。熱い体が自身の熱で溶けていく。床に沈み込んでいくような感覚に抗えず身をゆだねたところまでは覚えていたけれど、気が付けば私はベッドで眠っていた。


   ◆


 同居九日目の土曜日は病院へ行き、日曜日となる十日目はしっかりと体を休めた。


 同居十一日目。今日は誰からも誘われなかった。マスク姿の病み上がりを遊びに誘うほど信也さんは非常識ではない。

 いつものコンビニで焼き肉弁当を買うと、顔馴染みの店員が「今日で最後なんで」と新発売のお菓子を一箱くれた。若いのに意外と律儀だ。お弁当ばかり買っていたけれどお得意様扱いされるのはちょっと嬉しい。

 人の好意は素直に受け取る。「ありがとう。元気でね」と言うと店員は初めて笑った。愛想がいいわけではなかったから気がつかなかったけれど、なかなか笑顔が素敵な男の子だ。

 アパートに戻ると神様が玄関で待っていた。

「おかえり。おぉ。約束は忘れていなかったのだな。心配しておったでござる」

「ただいま。焼き肉より私の心配してよね」

「咳も出ておらぬのにマスクなど必要ないではないか。どうせタカシとまともに顔を合わせられずに顔隠しのつもりでおったのであろう」

「お察しの通りで」

 いちいち言わないでいただきたい。崇司さんのいるオフィスで平然を装うのがどれほど大変だったか。焼き肉の事しか頭にない神様には分かるまい。

 神様は焼き肉弁当を開けて、私は天野が作ってくれたとん汁の残りを温め直す。天野はたくさん作って余った分を小分けにし、冷凍保存しておいてくれた。その女子力たるや高すぎて、最早お母さんの域だ。

 いただきます。手を合わせると複雑な気持ちになって気が滅入る。

「お嬢、いかがした? 何事かとそれがしに聞いて欲しそうな顔でござるな」

「……この前、狸さんが変なこと言うから」

「それがし神様でござる」

「今日ね、天野とお昼を一緒に食べたんだ」

「中華であろう。匂いでわかる」

「冗談でね、私の事好きだったりするのかな。なんて聞いてみたら……」

「……ら?」

「……顔を赤くしてなにか言おうとしてた。けどそこでスマホが鳴って。急用ができたからって、店出て行っちゃった」

「否定はしなかったのでござるな」

「うん。取引先へ行ってそのまま直帰したらしくて。その後は会ってない」

 高い確率で的中を叩き出すと言われる女の勘というものが一応女である私にも備わっているのならば、神様の言うとおり天野は私に気があるのでは?と思わざるを得ない状況だったのは間違いなかった。

「随分と奥手なのだな。天野は」

「私より女子だからね。でも、さっき連絡きたんだ。明日、大事な話があるから今日行った店に来てほしいって」

「いよいよ告白か。して。行くのか?」

「それが。元カレからも連絡があって。この前の返事を聞かせてほしいから明日、この前のレストランに来てほしいって」

「中華か。イタリアンか。迷うところだな」

「ううん。まだある。崇司さんもね、快気祝いにご飯奢るから会社の親睦会で行った料亭に明日行こうって。……二人きりで」

「和食も捨てがたいな。しかし皆揃って明日にせずとも。和、洋、中。究極の選択にござる。モテる女子は辛いな」

「食べ物は関係ないでしょ。モテ期って、もっと楽しいものだと思ってたのに……」

「それがしなら天野だな。出世も見込めて料理もうまい。その上気心の知れた間柄ときておる。付き合えば延長線上に結婚がはっきりと見えるではないか。お嬢でも嫁に行けるというものだ」

「天野は友達だもん。考えられないよ。確かに一緒にいると落ち着くし。私の事よく理解してくれてる。大事な人だけど。でも、ときめかない」

「ならば先輩か。好いておったのだろう。両想いではないか。これにて一件落着にござる」

「そのはずなんだけど。勘違いとはいえ一度区切りをつけちゃうと、……なかなか元には。それに天野に、なんか悪いような」

「では元カレか。互いに故郷を出た寂しい者同士、温め合うのもいいだろう」

「嫌いじゃないし、今でもタイプではあるんだけど。……でも元の鞘に戻るには時間が開き過ぎてる気がするし。それこそずっと一緒にいてくれた天野に悪い」

「もう答えは出ておるな。お嬢は先程から天野の事ばかり気にかけておるではないか」

「そんなことは――」

 言いかけて、オルゴールに目がいっているのに気付いた。

 女の子が好みそうな可愛い雑貨店に一人で入ってプレゼントを選び、リボンの色まで指定する。

 そんな天野のちょっとぎこちない姿が目に浮かぶ。

 君が好き。仕事は出来るくせに、こんなにも近距離で遠まわしな表現しかできない天野はなんて臆病な奴なんだろう。なんてバカな奴なんだろう。なんて可愛い奴なんだろう。

 大好きだ。

 でも、友達だ。他にはいない大切な友達。どうして涙が出てくるのだろうか。ぽろぽろと涙と鼻水を流しながらとん汁を食べる私に神様はそっとティッシュを差し出し、焼き肉にマヨネーズをかけた。

「崇司さんのところに行ったら。やっぱり告白とか、されるのかな?」

「そう考えるのが妥当でござろう」

「もしかして天野、私が先輩に誘われたの知ってて同じ日に、なんて事は……」

「そう考えるのが妥当でござろう」

「それじゃ。断ったら私、天野を振ったことになる……の?」

「そう考えるのがモグモグ――」

「妥当でござろう?」

「いかにも」

 涙を拭ったティッシュで洟をかむ。ついでに神様の口周りについたマヨネーズを拭ってあげようとしたらかわされた。

「そういえば元カレもキレイ好きな人だったな。映画観て泣いてた私にハンカチ貸してくれたんだけど、それで洟をかんだら怒られた。ちょっと本気で」

「それはお嬢が悪い」

「久しぶりに会えて嬉しかったけど。もう過去の人なんだなって思うんだ」

 レストランで楽しい時間を過ごせたのは、楽しかった日々を共有した過去があったからだ。あの頃の記憶は蘇っても、あの頃の気持ちまではもう戻りそうにない。

「元カレにはもう会わない」

「はいイタリアン消えた」

 神様は食べるのをやめないが、小さな目だけはまっすぐこちらを向いている。

「天野も。やっぱり友達だし」

「中華は捨てがたいな」

 私は天野が好きだ。でもそれは、崇司さんを目で追う度に胸をドキドキさせていたそれとは違う。天野が男であっても女であっても、私はきっと天野を好きになり友達になっていたに違いない。

「……やっぱり私は崇司さんを選ぶべきじゃないかな。ずっと好きだったんだし」

「和食か。まぁ悪くはなかろう」

「これって正解だと思う?」

「正解も不正解もお嬢次第だ。答えは一つとは限らぬでござる」

 こんな時の正解とは、一体なんなのか。答えは一つとは限らない。それなら、選んだ先に正解も不正解もどちらもないなんて事もあるのだろうか。

「とん汁に流した涙の意味が分かればお嬢も……ってコラ。それがしが話しておるときに洟をかむでない」

「ごめん。なんか言った?」

「早う食え。冷めるでござる」

 すっかりぬるくなってしまったとん汁を掻き込む。もやもやとする胸を通り抜けて胃に収まっていくとん汁は、やっぱり美味しいけれど、昨日より少ししょっぱいな。

こんな時でも完食してしまう私はやっぱり可愛くない。


   ◆


 同居十二日目。残業もなく、誘われる事もなく、午後五時の定時で上がる。

 スーパーで食料を買って一度アパートへ戻る私の足取りは重かった。いっその事、季節外れの台風でも接近して外出不可能な状況になってくれないだろうか、なんて思いながら見上げた空は澄んでいて一番星が輝いている。私の心は晴れないのに、今夜の空はなんてきれいなんだろう。

 玄関を開けるのと同時に深いため息が零れた。

「おかえり。勝負下着ならそこに出しておいたでござるよ」

「ただいま。何度も言うけど勝手にタンスを開けないでよ」

 シャワーを浴びて化粧を直す。視界の隅に随分と葉っぱが減ってしまっているパキラが映る。崇司さんにもらった時は手のひらサイズだったこの観葉植物も、二年目になる今ではバケツ程の大きさがある鉢にしっかりと根を張っている。

 ご飯を炊いて豆腐とわかめの味噌汁を作り、白身魚の切り身を焼いて大根おろしを添えた。

「ちゃんと夕食っぽいの初めて作った」

「料理には人柄が出るものだ。質素な膳でござるな。汁にダシは入っておるのか?」

「ダシって何?」

「いただきます」

 具が少ないのが気に入らなかったのか、神様は味噌汁に鰹節を入れて食べだした。

「今日は銭湯に行っていいから」

 銭湯までの道を説明して小銭と部屋の合鍵を渡し、失くさないでねと念を押す。

「……それじゃ。行ってきます」

「うむ。この質素な膳とは雲泥の差であろう豪華な膳を食うてまいれ」

「質素とか言わないでよ。それに食べ物は関係ないから」

 バッグとはおりを持って神様に背を向ける。後は靴を履いて外に出るだけ。崇司さんが待っている店に行くだけ。美味しい料理を食べて、告白されたら頷くだけ。慣れないモテ期の迷路で迷子になった私に、ナビゲーションシステムがそう経路誘導している。従えば辿り着けるはずだ。

 辿り着ける? 何処に?

 私は何処に辿り着こうとしているんだろう。足が止まったまま動かない。

「……狸さん」

 玄関に出しておいたお気に入りの靴を前に、足を入れることなく立ち竦む私は背を向けたまま神様を呼んでいた。

「それがし神様でござる」

「………………」

「お嬢。いかがした?」

「……私ね。崇司さんに彼女がいるって勘違いした時、すごくショックだったんだ」

 まるで両足が鉛になったみたいに重くて動かないのに、口はよく動いた。

「でも、崇司さんが私の事好きだって知った時はビックリして。驚きを通り越してどうしたらいいか分からなくて。……嬉しいとも思わなくて」

 ただ困惑していた。嬉々とするものが少しも湧き出なかった。ずっと憧れていた人なのに。恋をしていた人なのに。

「元カレに未練はないし。天野は友達。選ぶなら好きだった崇司さんだって頭では分かってるんだけど。どうしてかな。前に進めない」

 私ってこんな泣き虫キャラだっけ? 堪え切れずに流れた涙が、折角直した化粧を崩していく。

「本当に好きだったのに……。好き、だった? あれ。じゃぁ、今は……?」

 答えはどこからも出てこないのに涙だけは次々と目から溢れ出てくる。止めなくてはと思う程に、それは止まらなくなる。背を向けていても震える声で泣いているのはきっとバレている。

「自分の気持ちが分からないよ。誰が好きかも分からない。こんな私に選ぶ権利なんて無い。私は何処にも行けない」

 こんなんじゃ崇司さんに会いに行けない。合わせる顔がない。元カレや天野にも申し訳がない。

「狸さん神様なんでしょ。私を助けに来たんなら、今助けてくれないかな。かなりピンチです」

「なにを申すか。食事中だぞ。今は無理でござる」

 濡れた頬をそのままに振り返ると、神様は真剣な面持ちで焼き魚にマヨネーズをかけていた。

「私は……どうしたらいい?」

「そうだな。先ずは洟をかむでござる」

 神様は傍らにあったティッシュ箱に向かって尻尾を振り下ろした。球のように打たれたティッシュ箱は、神様の手によって磨かれた床の上をするする滑って私の足元に当たって止まった。拾い上げて言われたとおりに洟をかむ。

「して。お嬢はそれがしにどうしてほしいのだ。はっきりと申せ」

「……引き留めてほしい」

「うむ。帰って来た時から、そう顔に書いてあったでござる」

 それなら、もっと早くにそうしてくれないものか。

「ここは洒落た料亭でもなくば膳も質素だが遠慮はいらぬでござる」

「ここ私の家。それ私が作ったご飯」

「どこにも行けぬと言うなら戻ってまいれ」

「……え?」

「引き留めろと言ったのはお嬢でござろう」

「そ、そうだけど。いいのかな……。それで」

「それとも背中を押してほしいと申すか?」

 咄嗟に首を振る。

 この先に行き場所など無いことはもう分かっている。だから足も動かないのだ。崖の上に立っているのと同じ。迷っている私の前に道はない。背中を押されようものならあっという間に滑り落ちて、右も左も分からない谷底で途方に暮れてしまうだろう。

「今は選べぬと言うなら、それがお嬢の答えでござろう」

「…………」

 私は見落としていた。

 崇司さんか。元カレか。それとも天野か。三択だと固く思い込んでいたが、誰も選ばないという選択肢もあったのだ。

 頷いて見せると途端に足が軽くなった気がした。

 はおりもバッグもそのまますとんと床に落とし、スタンバイしていた靴も下駄箱に戻した。これが私の答えだ。楽になった足とは裏腹に、心に引っかかって取れない蟠り。

 きっとこの答えは正解ではないのだろう。しかし自分を騙したり偽ったりしない点では不正解でもないと言えるかもしれない。

「後悔はせぬか?」

「うん」

 ティッシュ箱を抱えて玄関を離れた。どこにも行かない。そう決めたことに迷いはなかった。私は崇司さんみたいにはモテない。元カレみたいに恵まれた容姿ではない。天野みたいに女子力も高くはない。三人の誘いを断るなど身の程知らずなのは承知のうえだ。

「そんなところにボーっと立たれては食べづらい。お嬢も自分の飯を装うでござる」

「……あいにく食欲はなくてですね」

「それがしは食事中だ。ここに戻るのならば相手に合わせるのがマナーでござろう」

「……わかったよ」

 神様に急かされるようにお椀に味噌汁を注ぎ、茶碗に白米を盛る。食卓に並べて向かいに座ると、神様は無言で残っていた魚を半分に切り分け、私の茶碗に乗せてくれた。

「やさしくされると泣きたくなる」

「そうか。マヨネーズもかけてやろう」

「それはやめて」

「さようか」

 持ち上げたマヨネーズを不満気に置いた神様が、なんだかおかしくて吹き出してしまう。

 いただきます。と手を合わせて味噌汁を啜る。料理には人柄が出ると神様は言っていた。薄いなぁ。これ。決定的になにかが足りない気がする。

 誰かを選ぶには、私にはいろいろなものがまだ足りないのだろう。

「……足りない」

「うむ。これだな」

 そういって神様が差し出したのは半分残った鰹節のパック。味噌汁に振りかけてみると、まるで踊るようにふわふわと動きながら汁に浸かっていく。飲んでみると確かに風味が増した。

「ため息を零すのはよいが、鰹節は零すでない」

「……こんな私を誘ってくれたのに。三人に対してなにも返せない無力感と罪悪感が胸の奥で燻ってる」

「痛むか」

「うん。でも、これは足りないなにかを補っていくのにきっと必要な要素のように思うんだ」

「お嬢のダシでござるな。味に深みが出るのと同じで、痛みというのは人間に深みを与える。痛みを知ればこそ強くも優しくもなれるでござる」

 ダシというのがよく分からないけど、神様の言葉には心にスッと入って沁みていく妙な説得力があった。

「ダシガラも食えるしな。無駄な物などなに一つないのだ。選ばないというお嬢の選択もそうだ。しかし、いずれ決断せねばならぬ時が来るであろう。その時は……ってコラ。それがしが話しておるときに洟をかむでない」

「ごめん。最後のほう、なんて言った?」

「……もうよい。それよりお嬢」

「うん?」

「おかえり」

「…………」

 どこにも行けなかったけれど、私の居場所はここにあった。自分の家だけれど、私を許してくれる存在がいるこの場所は、なんてありがたいんだろう。

「狸さん」

 それがしは神様で――。言い終わらないうちに手で遮り、キョトンとしたところをすかさず抱き上げ、ぽっこり膨らんでいるふわふわのお腹に顔を埋め込んだ。

「わっ。よせっ。そんな汚れた顔をくっつけるでない! 離せ。うへっ。くすぐったい。やめろ~」

 手足をバタつかせて抵抗する神様に、さらに顔をぐりぐり押し付ける。狸のお腹は白いものだと思っていた。それは、よく行く蕎麦屋の玄関先にいる狸の置物がそうであるからだ。しかし神様のお腹は黒かった。器用に生きられない私を、涙と鼻水ごと受け止めてくれる黒いお腹は柔らかくて暖かい。そして少しマヨ臭い。

「ただいま」


 最悪な誕生日の終わりに神様を拾った。

 しかしこの神様、救いへと導いてくれるわけでも、有難い助言を授けてくれるわけでもない。願いを叶えてくれるわけでもなければピンチを救ってくれるわけでもない。

 ただ居座るだけ。

 ただ「ただいま」と言わせてくれるだけ。



   ◆


 外灯が点る公園のベンチで一人座っている男の前を一人、また一人とジョギング中の男女が通り過ぎていく。

「やっぱ来ないよな」

 立ち上がると不意に視線を感じて足下を見る。

「わ。珍しいな。どうしてこんなところに?」

「それがし参ったが」

「へ。誰?」

「ひとっ風呂浴びる前に付きあってやろう。その店にマヨネーズはあるか?」

「変だな。確かに声はするのに狸以外誰もいない。まさか……。いや違うな。俺、霊感とか無いし」

「それがし神様でござる」

「……お祓いってどこでやってんだっけ?」

 顔を見上げている狸。その後ろ手に、一つの菓子箱があることに男は全く気が付いていない。箱の底には『鉄板料理の美味しい店があるんで良かったら一緒に行きませんか。明日、いつもコンビニに来ている時間に○○公園で待ってます』と書かれたメモが貼ってある。

 青ざめた元コンビニ店員の男は、狸を置いてその場を走り去っていった。