真っ白な丸皿の中央に、赤くぷりぷりしたオマールエビの身を並べていく。両脇にはさみを置き、取っておいた頭と尾もそれぞれの位置に飾りつけると、皿の上に一尾のエビの姿が再現された。その周りに、エビの殻と野菜を炒めて煮込み、生クリームと合わせて仕上げた淡いオレンジ色のソースを丸く流す。

「Homard à l'américaine(オマールエビのアメリケーヌソース)、上がりました」

 この日最後のメインをギャルソン(給仕係)に手渡して、龍之介はふっと息を吐いた。

「リュウ、お疲れ。手空いてたら、ちょっとホールに顔出してくれるか」

「はい」

 龍之介は、手やコックコートに目立つ汚れがないか素早く確認して、厨房を出た。オーナーシェフの新城に付き従って、一人の女性客が座るテーブルの前に立つ。確か、二十分ほど前に、オマールエビのアメリケーヌソースを出したテーブルだ。白い皿の上には、既にエビの頭と尾が残るのみとなっている。

「白戸さま。こちらが、今日から副料理長として入った飛高です。本日のメインは彼が」

 新城に紹介され、龍之介は白戸というその女性客に一礼した。

「飛高龍之介です。お会いできて光栄です。Madame」

「あらっ、嫌やわぁ。マダムやなんて」

 彼女は頬を紅くして、ひどく上機嫌になった。マダムは女性に対するごく一般的な敬称であって、決して金持ちの奥様やセレブに限ったものではないのだが。龍之介は改めて、今自分がいる場所がフランスではなく、日本の大阪という地であることを実感した。ここは、大阪のキタと呼ばれる大阪・梅田から阪急電車で十分ほど北上した街にひっそりと佇むフレンチレストラン、「ラ・ターブル」である。

「飛高とは、私がフランス修業時代にお世話になったアンブロシアという店で一緒だったんです。彼の味覚と技術は、アンブロシアのシェフのお墨付きですよ」

「まぁ! アンブロシアって、何度も三ツ星をもらってるお店やないの。そら、今日のお料理も本格的なはずやわぁ」

 本格的ではなく、本格ですから。と、龍之介は心の中で呟いた。

「こんな若いのにフランスの星付きレストランで修業してきたやなんて、すごいわぁ。もしかして向こうのご出身? ご両親のどちらかがフランスの方とか?」

「いえ、両親共に日本人ですが、子どもの頃から外国をあちこち回って過ごしました。十四歳の頃にフランスに落ち着き、十八で料理の道に入って今年で七年になります」

 白戸夫人は、目と口を丸くして、ほうっと感嘆の息を漏らした。

「そーぉ。背ぇも高いしシュッとしてはるから、てっきりハーフさんかと思ったわぁ」

 日本はほぼ単一民族の島国だから、海外経験が豊富なだけで一目置かれるというのは本当らしい。帰国子女やハーフは羨望の的。全く、ちっぽけな国だ、と龍之介は思った。料理に関係ない話なら、付き合っている暇はない。

「海外暮らしが長かったもので、何かと至らないこともあるかもしれませんが、よろしくお願いします。Madame」

 優雅に一礼して、龍之介は厨房に戻ろうとした。しかし、待て待てと新城に呼び止められ、結局全てのテーブルに挨拶に回ったのだった。

 アンブロシアにいた頃は、龍之介が客の前に出ることなどめったになかった。あの名実共に大きなレストランでは、龍之介は二十人いるキュイジニエ(料理人)の一人。それが今では、オーナーシェフである新城と二人の内の一人だ。客あしらいも、これから身に付けなくてはいけないスキルの一つということだろう。

「いやぁ、やっぱり女性客からの評判がいいなあ。五年前、おまえを誘っておいて正解だったよ」

 閉店後、新城が満足そうに笑った。

「でも誤解するなよ。外見だけで選んだわけじゃないからな」

「わかってますよ。カズさん」

 ――俺が日本で店を出したら、スーシェフ(副料理長)として来てくれよ。でかい店にはできないかもしれないけど、誰にも文句を言われない、本当にうまいものだけを出す店をやろうぜ。

 新城がアンブロシアでの修業を終えて帰国するとき、最後に言われたその言葉を、龍之介は忘れない。本場フランスの名店で、たった二人の日本人。料理人としての腕は確かで、人柄もおおらかだった新城は、龍之介にとって兄のような存在だった。それから二年後、彼は言葉通り、地元大阪の地でフランス料理店をオープン。ラ・ターブルは隠れた名店としてじわじわ評判になり、三年経った今ではすっかり、予約の取れない人気店となっている。

「今日のオマール・ア・ラメリケンヌ、盛りつけも綺麗だって、お客さん感激してたな。常連さんに、新城シェフは普段こんなに凝った盛りつけしはれへんからー、って笑われちまったよ」

「そういえばカズさんは、素朴な田舎風煮込みとかが得意でしたよね」

「おまえほど器用じゃないもんでな。ま、そのへんは上手いこと分担してやっていこうや」

 スーシェフとして入ったその日から、メインの肉料理と魚料理の内の一方を任せてくれる。こういう先輩だから、心置きなく腕を揮えるというものだ。

 料理は文化文明の象徴。中でも味も見た目も洗練された伝統的フランス料理は、人類の食の頂点に君臨すると、龍之介は思っている。

 料理にはいっさい妥協は許されないし、したくない。


 翌朝。厨房に入ってきた新城は、驚きの声を上げた。

「リュウ。もう仕込みを始めてたのか?」

「カズさん! このフォンの味、見てもらえませんか」

 龍之介は、弱火で煮込んでいたフォン・ド・ヴォを小皿に取って、新城に差し出した。フランス語で、フォンは出汁、ヴォは子牛のこと。すなわち子牛の出汁である。肉の煮込みに使ったり、煮詰めてソースにしたりするフランス料理の基本の一つだ。

「フォンって……今日のメインで使う分は昨日仕込んでたはずだろう」

 新城は怪訝な顔で、その飴色の液体を口に含んだ。そしてハッと息を呑む。

「アンブロシアのフォン・ド・ヴォと全く同じ味だ。おいおい、日本でここまで完璧に再現はできないはずだろう」

「水が違いますからね。日本に来て最初に水の味を確かめたんですが、ここまで違うかと正直焦りました。フランスの水はミネラルを多く含む硬水ですが、日本は軟水。本来、フォン・ド・ヴォのように肉を長時間煮込んで旨みを抽出する場合、硬水でないといい出汁は取れませんから」

 硬水で肉を煮ると、ミネラル成分が肉の血や臭み成分と結合するため、水がアクでにごりにくく、旨みのある澄んだ出汁が取れるのだ。

「昨日、日本の水でフォンを作ってみましたが、やっぱり満足できなくて。店を閉めた後、硬度の高いミネラルウォーターを使って一から作り直してみたんです」

 フォン・ド・ヴォを作るには、まず子牛のすね肉と骨、ネギやセロリなどの香味野菜をオーブンでしっかり焼き、それから鍋に移して八時間ほど煮込む。小まめにアクを取らなければならないから、付きっきりの作業だ。

「まさかそこまでするとはなぁ……お前、ほとんど徹夜だろう」

 新城は呆れ半分感心半分といった様子である。

「もともと店に寝泊まりさせてもらってますし。料理のことを考えるなと言うほうが無理ですよ」

 日本で住む部屋が決まるまでの間、この店の休憩室が龍之介の仮住まいである。新城は自宅に泊まるよう勧めてくれたのだが、数ヶ月後に出産を控えた奥さんもいる先輩の家に厄介になるのは気が引けた。

「それにこれで、日本でも手間さえ惜しまなければ、本物のフレンチが作れることがわかりました。今日のメインの肉料理は、このフォンを使ってBoeuf bourguignon(牛肉の赤ワイン煮・ブルゴーニュ風)にしましょう」

「……そうだな。それでいってみるか」

「ラ・ターブル」の営業はランチとディナーの二回。午前十一時、時間通りにランチの営業が始まった。初日にも感じたことだが、新城は客が来店したときや調理の合間に、客と雑談をすることが多い。最近どうしてるとか、昨日の夜は何を食べたとか。そのせいで調理のペースが乱れるのが龍之介は少々不満だったが、それでも料理に影響は出さなかったはずだ。それなのに、

「また、少し残ってる」

 ギャルソンが下げてきた皿を見て、龍之介は眉をひそめた。

 贅沢に大きめに切り分けた牛肉は、赤ワインとフォンでじっくり煮込んで柔らか。ソースには光沢が出るまで煮詰めた赤ワインを加え、コク深く仕上げた。そんな贅と手間の限りを尽くした自信作のブフ・ブルギニョンを、残さず平らげる客がほとんどいないのである。アンブロシアでは、メインの皿は、ソースまで舐め取ったかのように綺麗になって戻ってきたというのに。

「皆さん、おいしい、本格的やって褒めてはったんですけどね」

 ギャルソンはそう言うが、だったらなぜ残されるのかと、いっそう不満はつのった。

「日本とフランスの違いかもしれんな」

 その日の閉店後、新城はそう呟いた。少し考えて、龍之介の頭に浮かんだのは、

「量ですか。日本人の食べる量の感覚を、俺がまだつかめていないから……」

「あー、それもあるかもしれんが……」

 新城は天井を見上げてから言った。

「なぁ、リュウ。ここはフランスの一流店じゃない。俺たちの店なんだから、もっと自由にやっていいんだぞ」


 それから三日間。若鶏のソテ・シャスール風、舌平目のデュグレレ風、子羊の香草風味焼き。何を作っても、龍之介の料理が完食されることはなかった。食べ残しを廃棄するたび、自分の料理が理解されないことに、焦りと苛立ちを感じる。

 自由にやっていい、とはどういうことだろう。夕方、ディナーの営業が始まる前の厨房で、龍之介はそればかり考えていた。龍之介が不自由を感じているとしたら、やはり材料のことだ。鳩肉やうさぎ肉、フレッシュハーブや発酵バターなど、フランスでは当たり前のように使っていた食材が、日本では手に入りにくかったり、驚くほど高価だったりする。だがそれも、「本格フレンチを提供するため」と割り切ってもっと自由に使えと、新城は言いたかったのだろうか。

 そのとき、店の表玄関が開く音がした。まだ仕込みの時間だから、ギャルソンは出勤していない。仕方なく龍之介が出ると、玄関扉の前に、一人の少女が立っていた。見たところ十代後半、高校生くらいだろうか。店内をきょろきょろと見回すたびに、短いポニーテールが金魚の尾びれのように揺れている。服装は、すらりとした足が映えるショートパンツにカジュアルなチュニック。どう見ても、一人でフランス料理を食べに来たとは思えないが、

「Mademoiselle」

 龍之介は、あくまで紳士的に声を掛けた。

「申し訳ありません。まだ準備中で、ディナーの営業は六時からなのですが」

「飛高龍之介……さん?」

「え? はい……」

 どうして名前を知っているのだろう。尋ね返す間もなく、少女は龍之介の腕をつかんで詰め寄ってきた。コックコートの袖をまくった素肌の腕に、ひんやりした小さな手の感触が伝わる。

「良かった。やっと会えた……! 世界中どこまでだって捜しに行くつもりだったのに……まさかこんなに近くにいたなんて」

 見上げる大きな瞳が、潤んで揺れている。おいおい。誰だ、この娘。

「お願い! あたしと一緒に来て!」

「Hein!? 何言って……!」

 彼女に腕を引っ張られた瞬間、百八十三センチある龍之介の体が軽々と浮いた。弾みで、周りのテーブルや椅子がなぎ倒される。怪力女か、こいつ。

「ちょっ、放せって!」

「あなたが来てくれなきゃ困るの! 引きずってでも連れていくから!」

 その気迫と、華奢な体からは想像もつかない力に、身の危険さえ感じる。このままでは本当に外まで引きずり出されかねないと、龍之介は、彼女の手を本気で振り払おうとした。そのとき、背後からのんびりした声が近づいてきた。

「なんだ、なんだ。騒がしいと思って来てみたら……」

 新城は、少女に腕を引っ張られて踏ん張っている龍之介を物珍しげに見つめて、

「リュウ。その子、おまえの何?」

「知りません、初対面です! 俺にも何のことかさっぱりで……人違いじゃないかと」

「あなたのおばあさんが、亡くなったの」

 声を低めて、ゆっくりと彼女は言った。

「茶鳥恵味さん。あなたのおばあさんで間違いないでしょ? 先月亡くなったの」

「あ、ああ……」

 それは確かに、龍之介の祖母の名前だった。

「おいおいリュウ、大変じゃないか。とりあえず君も上がって。ゆっくり話を……」

「いや、いいんですよ、カズさん。それより仕事に戻らないと開店に間に合いません」

 落ち着き払った龍之介の態度に、彼女が目を剥いた。

「ちょっ……! 何言ってるの? 自分のおばあちゃんが亡くなったっていうのに!」

「確かに茶鳥恵味は俺の母方の祖母だけど、ろくに会ったことさえない。俺が三歳の頃に母親が死んで、それ以来ずっと疎遠だったんだ」

「あ……」

 少女は、急にしおれたように俯いた。居心地の悪い沈黙を、新城が破る。

「まぁ、とりあえず二人とも座れよ。大事なことだから、ちゃんと話をしよう」


「あたし、泉蛍っていいます。浪花大学の二年生です」

「へー、浪花大学か。賢いんだなぁ」

 新城が感心する一方で、龍之介は、えっ、と声を上げた。蛍の前に紅茶のカップを出しながら、おうとつの少ないその顔をまじまじと見つめる。

「大学二年? ってことは、二十歳くらいなのか。高校生かと思った」

 蛍は目をぱちくりとさせて言葉を失った。新城が、ごめんね、と笑いかけ、

「こいつ長いことフランスにいたから、感覚が基本的に欧米基準なんだよ」

 と、女性に対する龍之介のあるまじき失言をフォローした。

「それで、浪花大学の学生さんが、どうして龍之介のおばあさんのことを?」

 新城に問われ、蛍は居住まいを正して話し始める。

「茶鳥恵味さんは、浪花大学の近くで『ひばり荘』っていう学生用の下宿をやってたんです。あたしも入学したときからお世話になってて」

 浪花大学は、この店の最寄駅と同じ沿線、同じ市内にある大学だ。西日本を中心に各地から学生が集まる、それなりに名の知れた大学だという。

「先月、八月の十四日、恵味さんが下宿で倒れたんです。すぐに救急車を呼んで病院に運ばれたんですけど、脳卒中で……意識が戻らないまま二十四日に亡くなりました。恵味さんの親戚を調べたら、飛高龍之介さんっていうお孫さんがいることはわかったんですけど、ずっと外国にいて連絡が付かないから、下宿生の皆とご近所の方たちとでお葬式を出したんです」

「そうか……大変だったねぇ」

 新城がうんうんと頷いてから、横目で龍之介を見た。おまえがちゃんとしないから、とでも言いたげだ。

「俺にどうしろと……葬式までしてもらったのなら、もうすることもないでしょう」

 龍之介がぼやくと、蛍が勢いよく立ち上がった。

「龍之介さん! お願いします! ひばり荘を継いで、恵味ばあちゃんの代わりに下宿を続けてください!」

「Ça alors!(なんだって)」

 龍之介は思わず声を上げた。日本に来てから一週間になるが、咄嗟に出る言葉はやはりフランス語だ。

「下宿を継ぐ!? なんで俺が?」

「だって、恵味ばあちゃんの血縁者は龍之介さんだけでしょ? このままひばり荘を畳むことにでもなったら、あたしたち下宿生は路頭に迷うしかなくなっちゃう」

「いや、待て。下宿がなくなってもアパートとかを借りて住めばいい話だろ。だいたい、今どき日本の大学生が下宿暮らしなんかしてるのが驚きだ」

 勢いに任せて反論すると、蛍は一瞬黙り込んだ。細い肩が震えている。

「ひばり荘は、あたしたちの大事な居場所なんです。帰ったらいつも皆がいて、恵味ばあちゃんが作ってくれた晩ごはんを皆で食べて……あそこがなくなったら、あたし……」

 ただでさえ年齢より若く見える彼女が、いっそう幼く頼りない存在に見えて、龍之介はたじろいだ。かといって、上手い言葉も見つからない。

「へぇ。下宿って、やっぱり食事付きなのか。いいもんだなぁ。龍之介のおばあさんって、料理が上手かったの?」

 さり気なく話題を変えてくれた新城が神様に見えた。今にも泣き出しそうだった蛍の顔が、パッと明るくなる。

「はい! 恵味ばあちゃんのごはんはいつも本当においしくて、懐かしい味なんです。日本中の料理作れるんじゃないかなっていうくらい、毎日色んなメニューが出てくるし。あたしたちきっと、日本一滋養があっておいしいごはん食べてた大学生だと思う」

 へぇー、と感心してから、新城は龍之介を振り仰いだ。

「おまえの料理の腕って、おばあさん譲りだったのか?」

「さっきも言いましたけど、俺は祖母とは完全に疎遠で、顔すら覚えてないんです。三歳のときに母が死んでから、ずっと父と海外を回ってたので」

「ってことは、おまえ、おふくろさんやおばあさんの手料理を食べた覚えも……」

「全くありません」

 そうか、そういうことか……と、新城は顎に手を当てて思案顔をしていた。そして、拳でポンと手のひらを叩く。

「よし、リュウ! おまえ、おばあさんの下宿に行ってこい。店のことは心配しなくていいから」

「「えっ!?」」

 龍之介の驚愕に満ちた声と、蛍の期待に溢れた声が重なった。

「お、ハモッたな」

「ハモッたな、じゃないですよ! 何考えてるんですか、カズさん。下宿なんか行って俺にどうしろって言うんですか」

「だから、料理とか掃除とか洗濯とか? おばあさんがやってたこと全部だよ」

「俺はそんなことをするために日本に来たわけじゃありません!」

「でも現実問題、身内がおまえしかいないってことは、おばあさんが遺した土地や建物は全部おまえが相続するはずだろ。それをどうするかはおまえの自由だが、このまま下宿を畳んじまうのは、あまりに酷だ。最初で最後のおばあさん孝行だと思って、ちゃんと面倒見てやれよ。オーナーシェフとしての命令だ」

 唖然とする龍之介の肩を、新城が軽く叩く。

「何もずっとってわけじゃない。いずれは下宿を管理してくれる人を雇えばいいんだから、それまでの辛抱だ。なんなら、俺がツテを頼りに探しといてやるからさ」

 蛍が新城に向かって、「よろしくお願いします!」と頭を下げた。どちらがより権力を持っているか、既に見抜かれている。そして、いやいや、と笑顔で手を振る新城。

 Ne concluez pas sans permission...(勝手に話をまとめるな……)


 翌日の午後、龍之介は『ゆめはし』という駅で電車を降りた。『ラ・ターブル』の最寄駅と二駅しか違わないが、精神的距離は日本とフランスほど遠い。

「龍之介さーん」

 西改札口の外で、蛍が手を振っている。龍之介が改札を出ると、彼女はほっと安堵の息を吐いた。

「良かったぁ。来てくれたんですね」

「まぁ、オーナーシェフのご命令だからな」

 そっけなく答えた龍之介の顔を、蛍はじっと見上げる。そして何を思ったか、黒目がちな瞳をぱちぱちさせながら、百八十三センチある龍之介の周りをぐるりと回り始めた。パリの二十歳の女性なら、絶対にこんな幼稚で奇怪な真似はしない。

「なんなんだ、いったい」

 一回りしてきた彼女は、ようやく足を止めて一言。

「前にどこかで会いましたっけ?」

「は? 昨日、店で会ったばかりだろ」

「いえ、そういう意味じゃなくて……ま、いっか。荷物、それだけですか?」

 龍之介の持ち物といえば、せいぜい一泊旅行サイズのショルダーバッグと、薄くて細長いアタッシュケースだけ。龍之介は、あぁ、と頷いた。

「自分の体さえあれば仕事はできるし、長居するつもりもないからな」

 祖母が遺した下宿なんて早く誰かに譲るか管理を任せるかして、自分は一日でも早く本業に戻りたい。それが、龍之介の本音だった。

 尊敬する先輩の店の副料理長となり、誰にも文句を言われることなく、本当にうまい料理を追求できる日々が始まる。そう思って日本へ来たというのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 駅を出ると、道は正面と左右の三方に分かれ、左右の道はアーケードで覆われていた。道の両側には野菜、魚、肉、惣菜などの店が軒を連ね、店先で店員が呼び込みや接客をしている。その光景を見て、龍之介はハッと息を呑んだ。

「Marché...?」

 道を右に曲がって歩き出していた蛍が、驚いて振り返る。

「何、その無駄にオシャレな言い方。普通の商店街ですよ?」

「だから、マルシェ(市場)だろ。日本の街にもこんな対面販売式の店があったのか。コンビニとスーパーとデパート以外はとっくに絶滅したと思ってた」

 パリでは、マルシェこそ人々の胃袋だ。早朝から、あちこちの通りや広場で定期的に青空マルシェが立ち並ぶし、常設の屋根付きマルシェもあり、どこも人で賑っている。龍之介も休日はよくマルシェ散策に出かけ、色とりどりの野菜や果物、新鮮な魚介や肉、フランス各地のチーズやワインを隅々まで見て回るのが楽しみだった。

 舌の肥えたパリっ子、世界各国から訪れた食通、自慢の食材について語る店員たち。

 パリのマルシェには、食にかける人々の情熱が満ちていた。

 そんな日々を思い出し、近くの鮮魚店から聞こえる会話に耳をそばだててみる。

「奥さん、今日はええ鯖が入ってまっせ。よう脂のっとるから、サッと焼いてレモンかポン酢でもちょろっと掛けたらもう最高や」

「せやなぁ、ほな三切れもろてくわ」

 聞こえてくる会話はこてこての大阪弁で、なぜか無駄に擬態語が多くて、人生のほとんどを海外で暮らしてきた龍之介には聞き取りづらい。というか気品がない。途端に、パリの流麗で音楽的なフランス語の響きが、無性に恋しくなった。

 そうだ、ここは日本の大阪なのだ、と龍之介は改めて思った。パリの中心地にあるマルシェ・サントノレ広場や、人も食材も山と溢れて活気が絶えないバスティーユのマルシェとは、本質的に違う。

「確かにオシャレじゃないし、規模も小さいな。この商店街は」

 龍之介はあからさまに落胆した。意見をストレートに表明するのはフランス仕込みの流儀である。ここには、自分の料理に対する情熱と美的センスを満足させてくれるものはなさそうだ。もう辺りの店には目を向けまいと、俯いて歩き始めた。

 そんな龍之介の態度に困ったような笑みを浮かべながら、蛍は辺りを見回す。

「でもあたしは、ゆめはしのアットホームな雰囲気、気に入ってますよ」

「アットホームねぇ……こんな下町っぽい雰囲気の街に、本当に大学があるのか? どう見ても、若者の街って感じじゃないけど」

 尋ねると、蛍は来た道のほうを指差しながら答えた。

「ありますよ。今は下宿に向かうから駅を出て右に曲がりましたけど、わに大に行くときは左に曲がるんです」

「わに大?」

 首を傾げると、蛍はなぜか嬉しそうに龍之介を見上げた。

「浪花大学のあだ名です。なんでか、わかります?」

 龍之介は少し考えて、

「『なにわ』を逆から読むと、『わにな』だから……?」

「半分当たり! でも、もう一つ理由があるんです。昔、浪花大学のキャンパスで、建設中の敷地からワニの化石が見つかったの。日本にワニがいたなんてびっくりでしょ? それが学術的にも価値のある大発見で、浪花大学といえばワニってイメージが定着したというわけです。そのワニは、発掘場所である浪花大学キャンパスが『かなえ山』にあることにちなんで『カナエワニ』って呼ばれてて、大学のマスコットキャラクターにもなってるんですよ。ほら、これ!」

 蛍がかざしたスマートフォンには、緑色のワニのマスコットがぶらさがっていた。頭に花をのせ、ウインクした目には長いまつげ。メスか。どうでもいいけど。

「化石の何がそんなにいいんだろうな。大昔の非文明的なものより、洗練された新しい文化のほうがずっといい」

 ワニについて熱弁する蛍の様子がある人物と重なり、龍之介はつい尖った言い方になった。蛍が戸惑った表情で小首を傾げる。

「あー、悪い。もしかして蛍も化石とかワニとか、そういうのを研究してるのか」

「え、いえ。あたしは工学部の建築学科で……って、えっ! ケイ!?」

 蛍は急にひっくり返った声を上げた。心なしか顔が赤い。

「名前、蛍で合ってるよな?」

「あ、合ってます……けど……」

 そっか、龍之介さんはずっと外国にいたんですもんね。下の名前で呼ぶのくらい普通ですよね――ごにょごにょと呟く蛍の声は、辺りの喧騒に紛れてよく聞こえない。

 平日の午後三時過ぎ。アーケードの下は、買い物に来た地元の主婦、下校中の小学生、駅へ向かう人々が行き交っている。皆どことなく早口で早足で、龍之介とすれ違うと、並外れた長身のせいか、よそ者の空気を感じ取るのか、物珍しそうな顔をする。

 やはりここは自分のいるべき場所ではない。そう思わずにはいられなかった。

 アーケードの終点。青い空の下に出ると、太陽の眩しさに一瞬目がくらんだ。

「もう九月なのに、大阪はいつまでも日差しが強いんだな」

「え? そうですか? あたしの地元はもっと強かったんですけど」

 そう言って、蛍は懐かしむように青い空を見上げた。

 小さな川に架かった赤い橋(柱に「赤い橋」と書いてあった。そのままだ)を渡ると、途端に住宅地という風情になった。一般住宅やファミリー向けマンションのほか、大学周辺だけあって、学生向けのワンルームマンションも多い。

 商店街から五分ほど歩いた頃、緑の木々で周囲を覆われ、赤い鳥居が立っている一角が見えた。どうやら神社があるらしい。

「あれが、ひばり荘です」

「は!?」

「あの、二ツ木神社の向かいにある二階建て」

 あぁ、神社の向かいか。最初に神社が目に飛び込んできたから、龍之介は周りが見えていなかった。改めて見ると、神社の向かい側に、標準的な民家を横に二棟つなげたような建物が建っている。門扉の隣に書かれた「ひばり荘」の文字は掠れていて、名前を知らなければ絶対読めない。建物自体も、予想を裏切らずかなり年季が入った印象だ。いっそ、このまま畳んでしまったほうがいいのではないだろうか……

「あら、蛍さん」

 背後から、詠うような声が聞こえた。振り返ると、鳥居の向こうから一人の若い女が歩いてくる。白い上衣に赤い袴、長い黒髪を一つに束ねた姿は、紛うかたなき巫女だった。石畳の上をすべるような優雅な足取りに、思わず目を奪われる。

「あっ、神楽さん。ごきげんよう」

 蛍がぺこりと頭を下げる。神楽と呼ばれたその巫女は、はんなりとした笑みを浮かべて、ごきげんよう、と返した。そして、隣に立つ龍之介に優しい視線を向ける。

「こちらの背ぇの高い方は?」

「Quelle belle femme!(美しい……!)」

 龍之介が思わずフランス語で口走ると、神楽は、え? と小首を傾げた。

「いや、失礼。きみがとても綺麗だったから」

 蛍が、ぎょっとした顔をする。一方、神楽は一瞬きょとんとして目を瞬いたものの、「おおきに」と微笑んだ。

 これだ、こうでなければ、と龍之介は一人頷く。この数日間、特に昨日蛍が「ラ・ターブル」に飛び込んできてからというもの、調子が崩れっぱなしだったが、自分に似合うのはこういう空気だ。紳士的に、華麗に、そして優雅に。そう、品格と教養に満ちたフランス王侯貴族の如く。

「なぁんか、あたしのときと態度が全然違うけど……」

 蛍は口を尖らせてぼやきながらも、神楽に龍之介を紹介した。

「こちら飛高龍之介さん。恵味ばあちゃんのお孫さんで、ずっと外国にいたんだけど、今日からおばあさんの代わりに下宿をお世話してくれることになったの」

 ついさっきまで、このまま畳んでしまったほうが……と思っていたことはひとまず忘れて、龍之介は軽く会釈した。

「まぁ、恵味さんの。このたびはご愁傷様でございました。わたし、この二ツ木神社の宮司の娘で、琴宮神楽と申します。どうぞよろしゅうに」

「Enchanté(初めまして)、神楽」

 深々と頭を下げる神楽に、紳士的な笑みで応える。

「ほんま、恵味さんと玲子さんに、よう似てはる」

 濡れたような黒い瞳で龍之介を見つめながら、神楽は感慨深げに呟いた。

「母のことも知ってるのか?」

「わたしは直接お会いしたことはありませんけど、わたしの母が玲子さんと同い年で、学生の時分から仲良うしていただいたそうです。その頃の写真には、玲子さんと一緒に写ってるのもようさんありまして」

 龍之介自身さえほとんど記憶にない母の顔を、まだ二十二、三歳と思しきこの巫女が知っているというのは、不思議な気分だった。

「よろしかったら、いつでも見にいらしてくださいね」

「え。いや、別に……」

 心を読まれたような気がして、ドキリとした。それじゃ、俺たちはこれで、と下宿に向かって歩き出したのだが、

「龍之介さん」

 神楽に呼ばれて、龍之介は振り返った。彼女の漆黒の瞳と視線が交わる。

「龍之介さん。あなたの身ぃに、これから不思議な出来事が起こるかもしれません。ですが、この家に宿るおばあさまとお母さまの御霊が、きっとあなたを守ってくれはりますよ」

 巫女の静かな声に一瞬ぞくりとしたが、龍之介は何でもないように苦笑する。

「それは神のお告げか何かか? これ以上、予定外のことが起こってもらっちゃ困るんだけどな」


「ただいまー」

 蛍が玄関の引き戸を開けた。引き戸なんて、現代の日本では旅館か日本料理屋にしかないと思っていた龍之介は驚いた。そのまま中へ進もうとすると、

「龍之介さん! 靴! 靴脱いでください!」

 蛍に後ろから服の裾をつかんで引き戻された。やっぱり怪力だ、この女。

「人前で靴を脱ぐなんて、服を脱ぐようなものだぞ」

「じゃあ、スリッパ出しましょうか」

「いや、そういう問題じゃ……」

 龍之介はまたもペースが乱れていることに気づいて、口をつぐんだ。首を左右に振り、華麗に、優雅に、と自分に言い聞かせる。

「まぁ、いいよ。Á Rome il faut vivre comme à Rome.っていうしな」

「何の呪文ですか、それ」

「ローマにいるときは、ローマ人の為すようにせよ」

「あぁ! 郷に入っては郷に従え?」

 龍之介がたたきに突っ立ったままあれこれ葛藤している間に、蛍は玄関を上がっていた。そして、ごく自然にしゃがみ込み、自分が脱いだサンダルを揃えて隅に寄せる。日本人はそこまでするのかと思いながら、龍之介も仕方なく靴を脱いで蛍に倣った。

 玄関脇には大きな下駄箱がある。ひばり荘の下宿生たちは、この玄関と下駄箱を共同で使うのだろう。ここから先は全て共用スペース。本当に、前時代的な下宿屋だ。

「今は皆出かけてるけど、今日は七時には帰ってくるはずです。龍之介さんが来てくれるから、久しぶりに皆で揃って晩ごはん食べようって言ってありますから」

「下宿生の人数は?」

「今は五人です。あたしを入れて女子が三人と、男子が二人。皆わに大生だけど個性的で、いい子ばっかりですよ。一言で言うとね、美人なお姉さんとラグビー部の一年レギュラーと漫画家の卵と芸人志望! で、あたしは……うーん」

「La fille herculéenne(怪力娘)」

 え? と蛍が首を傾げる。龍之介は素知らぬ顔で話を変えた。

「五人だな、人数さえわかればそれでいいから。厨房を見せてくれ」

「厨房? あぁ、台所ですか。でも、とりあえずその荷物置きましょうよ。龍之介さんの部屋……といっても、もともとは恵味ばあちゃんの部屋なわけですけど」

 言いながら、蛍は一階の奥にある和室へ進んだ。襖を開けると、イグサの香りが漂ってくる。入口の鴨居は龍之介の目線のすぐ上にあるから、部屋に入るときは、いちいち頭を下げなくてはならないのが面倒だ。

 龍之介は、床の間の隣に並んでいる二つの祭壇のようなものに目を留めた。両開きの扉が閉じられて、細長い白い紙が貼ってある。

「あ。それ、恵味ばあちゃんの旦那さんと娘さんの祖霊舎です」

「祖霊舎?」

「仏教でいう仏壇みたいなもの。今は恵味ばあちゃんの忌中だから閉じてあるけど、普段は外扉を開けて遺影も置いてあるんですよ。五十日祭が終わったら、恵味ばあちゃんの御霊も旦那さんの祖霊舎に祀るからって、神楽さんが言ってました」

 龍之介にはピンとこない話だった。白木でできた祖霊舎はシンプルで飾り気がない。

「まぁ、仏壇ほど辛気臭くなくていいけどな」

 そう呟いて、ショルダーバッグだけをどさりと畳に置く。

「で、厨房はどこだ?」

 尋ねたが、蛍はぼんやりと部屋を眺めていて返事がない。「蛍?」と呼ぶとようやく我に返り、「あ、台所。こっちです」と慌てて和室を出た。

「そのケース、何が入ってるんですか?」

 蛍は、龍之介がアタッシュケースを持ったままなのに気づいて首を傾げた。

「包丁」

「えっ、わざわざ自前で? 台所に、恵味ばあちゃんが使ってたのがありますよ」

「包丁次第で料理の出来は変わるんだ。手入れの悪い包丁で料理するのだけはごめんだからな」

 日本に来るとき、家財道具や持ち物はほとんど手放した。龍之介にとって大切なものといえば、この包丁一式とショルダーバッグの中の料理書くらいだ。

「恵味ばあちゃんの包丁は、大事に手入れしてあると思うけどなぁ……」

 背後で、蛍がどこか寂しそうに呟いた。

 案内された場所は、まぁある程度予想していたことではあるが、小さくて簡素で、本当に「家の台所」だった。流しの端からガス台の隅までの間口が、手を伸ばせば届きそう。調理台の上は開き扉の戸棚になっているが、これまた龍之介には低くて、背筋を伸ばせば頭をぶつけそうだ。コンロは大鍋なんて置けそうもない家庭用が三口のみ。下に魚焼きグリルはあるが、作りつけのオーブンはない。目に付く調理用機器といえば、妙に大きな炊飯器と、どこの家庭にもありそうなオーブンレンジとトースターだけ。

「おそろしく非文明的な空間だな。二十世紀で時が止まってるんじゃないか」

 龍之介は冷蔵庫に歩み寄り、遠慮なく扉を開けた。冷蔵室、冷凍室、野菜室。全てチェックしたが、生鮮食品はほとんど入っていない。この台所が主を失ってからの時間の長さが感じられた。

「夕食は七時だったな。とにかく買い出しに行ってくる。この辺りで、食材が買える場所は?」

「恵味ばあちゃんは、ほとんど駅前の商店街で買い物してました。後は……駅の西口を出てまっすぐ進んだら、阪急系列のスーパーがあります。ちょっと変わった調味料とか輸入ものとかも売ってるとこ。あ、買い出しならあたしも一緒に――」

 返事もせずに、龍之介は台所を後にした。

 この不本意極まりない環境で自分を保つためには、料理しかない。