おれの財布の中には、暗号が入っている。

 それは、赤い文字で書かれているので、一見、どこかの国の呪いの言葉に見えるかもしれない。

 もしくは、ノートの切れ端に書かれた小さなものだから、何かのお守りだと思う人もいるかもしれない。

 だが、おれにとってそれは、証なのだ。

 彼女と初めて繋がりを得ることができた――大事な証。

 

 その証は、縦4・2センチ×横5ミリという、とても小さく細長い紙に書かれている。

 一文字がきっちり縦横3・5ミリの大きさで、いつも彼女が使っている六角形の赤鉛筆を使って。

 ――こう、書かれている。


 たくとんいかっんよでいな




 ティムタムのクラシックダーク、こぼしゴリラ君、赤鉛筆、裏返された何かのチラシ、その空白に書かれた文字、数字……。

 テーブルに散らばるそれらをぼんやりと眺めていると、頭の上から突然声をかけられた。

「ちょっといいかい?」

 声のした方に視線を向けると、テーブルの脇に見知らぬ男が立っていた。

 間髪いれず、半ば無意識、条件反射的に、おれは答える。

「いえ、お断りします」

 普段なら見ず知らずの相手に、そんな不躾な対応はしないのだが、幾分うんざりしていた。これで何度目か……。

 おれは、向かいに座っている――三輪ケイトにちらりと目を向ける。

 ――ケイトといれば、よくあることだった。

 男は、いきなりの拒絶に目を丸くしたが、それをすぐに微笑みに変えた。

「まだ何も頼んでいないじゃないか」

 おや? とおれは思う。男から余裕が感じられたからだ。おれは、意図していなくても他人に威圧感を与える外見をしている。筋肉質で身長も180を超えていて、おまけに目つきが鋭い。そのおれに怯まない人間は、なかなか珍しかった。

 男の顔を改めて、しっかりと見つめてみる。あと三ヶ月ほどで十九歳になるおれとは年が倍以上は離れているように見えた。

「では、何を頼みたいんですか?」

 おれがそう尋ねると、男は、微笑みを浮かべたまま、答える。

「十分でいいから時間をくれないかい、真銅達己君」

 おれの名前だった。二つの驚きがある。まずはどうしておれの名前を知っているのかということ。もう一つは、男はおれに用があるのだということ。

 ――てっきり、ケイトに用があるのかと思っていたのだが。

 おれは、一つ息を吐き、立ち上がる。

「では、二人で話しましょうか」

「すまないね」

 男の身長は175くらいで、立ち上がり、向かい合うとこちらが見下ろす形になるのだが、それでも男に怯む様子はなかった。むしろ、意図的に視線を外さないでいる。

 嫌な予感がする。おれの名前を知っていることも不気味だった。

 ――この得体の知れない男を少しでもケイトから遠ざけなければいけない。

 周囲をぐるりと見渡す。ほんの三時間前まで戦場のようになっていたこの場所――大学の食堂も、時刻は四時を過ぎており、おれたち以外誰もいない。厨房のおばちゃんすらとっくに帰ってしまった。これならばどこに座ろうが、誰かの気を煩わせることはないだろう。場所を変えるのも面倒なので、窓際のテーブルから、真逆の壁側のテーブルまで移動する。

 そして、男と向かい合って座り、改めて真正面からじっくりと見つめる。

 見た目は、四十前後といったところだろうか。無精髭を生やし、髪には寝癖がついている。少しくたびれたジャケットを着て、かなりくたびれた大きめのカバンを持っている。おそらく、この大学の学生ではないだろうし、講師でもないだろう。

「ところで、いきなり声をかけてすまなかったね」

 男は、そう言って、先程までいたテーブルのほうへ目を向けた。「綺麗な彼女じゃないか」

 それはもちろん、ケイトのことを指していた。おれには、『彼女』の部分に特別な意味が込められているように聞こえ、なぜかは分からないが少し腹が立ち、その感情のまま顔にも出した。

 が、男はやはり笑みを浮かべたまま、調子を崩さない。

「どうしたんだい? 君のガールフレンドだろう」

「……友達ですよ」

 正確に言えばおれとケイトは『友達』ではないのだが、男にそこまで正確に説明する必要もないだろう。

「ところで、本当におれに用があるんですか? あっちじゃなくて?」

 そう言って、ケイトに目を向ける。

 三輪ケイトは――アメリカ人の父親と日本人の母親を持つ、いわゆるハーフというやつで、先程男が言ったとおり、付き合いの長いおれですら時折どきりとしてしまうほどの、美人だ。大きな瞳は少し垂れていて、鼻筋はすっきり通っていて高く、口は小さいが唇は厚く潤んでいる。そして、それらが小さな顔の中に奇跡的なバランスに配置されている。

 ケイトは、ただそこにいるだけで、声をかけられるのは日常茶飯事だ。『芸能人になりませんか?』と。もはや芸能人だと決めつけ、『サイン貰えますか?』と声をかけてくる者までいる。だから、この男が声をかけてきたときも、それらの類だろうと思い、おれは「お断りします」と言ったのだ。

 男は、自信に満ち溢れた顔で、答える。

「あぁ、そうだ。ぼくは、君に用がある」

 ふと、早苗さんの言葉が頭を過った。

 早苗さんとは、ケイトの母親だ。二ヶ月前、大学の入学式の日にこう言われた。

「ねぇ、高校と大学の一番の違いって分かる? それはね、全く知らない人が敷地内にたくさんいるってこと。しかも、自分には関係のない大学関係者もいれば、一切関係のない部外者もいて、その二つが交ざり合っていて、区別がつかないの。だから声をかけてくる人には気をつけなさい。新入生っていうのは相手にとってはカモなんだから。もうね、決めつけちゃっていいから。声をかけてくる人はどちらかよ。――新興宗教かマルチ商法のね」

 そのときは、『おれのような威圧的な外見の男に声をかけてくる者などいるのだろうか?』と内心思ったのだが、ケイトに興味を持った芸能関係者でないのだとすれば、早苗さんの言う『どちらか』が今まさに現れたのかもしれない。

 男は、ふっと鼻から息を吐きだし、こちらに両手の平を向けた。

「オーケー、分かるよ」

 まるでこの世の全てが分かっているかのような言い方だった。

「――君の気持ちは分かる。警戒する気持ちも分かる。もしかすると、新興宗教とかマルチ商法とかの勧誘だと思っているかもしれない。でもね、ぼくはそのどちらでもないんだ」

 確かにおれの心を見事に見透かしているようだ。

「では、どちら様ですか?」おれは、あえて皮肉に聞こえるように『様』をつけた。

「こういう者さ」

 男は、おれの挑発的な言葉をさらりと受け流し、逆に待っていましたと言わんばかりに、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出し、テーブルの上を滑らせる。

 名刺には、中央に太文字で『稲成日里』と名前が書かれていた。そして、その右側には肩書きがある。おれは、口に出してそれを読み上げる。

「……フリーライター」

「あぁ、そうだ。フリーライターの稲成日里だ。よろしく」

 頭の中で、警報音が鳴る。赤い回転灯がくるくると回る。これは、早苗さんが言っていた『どちらか』より、ずっとたちが悪いかもしれない。フリーライターが、目つきが悪く体格がいいだけの、ただの大学生であるおれに一体何の用があるというのだ。記事になるような人生を送ってきたわけではないし、記事になるような事件に巻き込まれたことだって一度もない。

 なるべく平静を装いながら、尋ねる。

「何度も同じようなことを聞いて申し訳ないんですが、おれを誰かと勘違いしていませんか?」

「いいや、君で合っているよ。さっき君の名前を呼んだだろう、真銅達己君。ちなみに、君の住所と年齢と大学生であることは、すでに知っている」

「勝手に知ってもらっては、困るんですけどね」

 おれは、背もたれに体を預けて睨みつけたが、稲成さんは特に気にすることなく、ここまで来た経緯を話し始める。

「まずは住所から電話番号を調べたんだ。そして、君の家に電話した。すると、君のお父さんが出て、この蓮咲大学にいると教えてくれた。さらに、正門のところで学生に声をかけたら、それがたまたま君の友達でね、順調にこの食堂まで辿り着けたってわけさ。……ところで、君の友達、確か郡上君っていったかな、彼なかなか面白いね。君の特徴を聞いたら、『可愛いハーフの女の子に見惚れている、目つきが悪くて体格のいい格闘家みたいなやつがいたら、それが真銅達己です』って言っていたよ」

 思わず、ため息が漏れる。どいつもこいつも、人の個人情報をなんだと思っているんだ。

「……それで、フリーライターの方がそこまでしておれに会いに来た理由はなんですか?」

「これだよ」

 稲成さんは、そう言って、カバンから雑誌を取り出し、テーブル上に置いた。それは、芸能人のゴシップや女性の裸が載っている大学生にはまだ少し早い、社会人が通勤の間に暇つぶしで読むような、男性週刊誌だった。

 稲成さんは、その週刊誌をパラパラとめくり、広げる。見出しに、『卑弥呼は空中都市に住んでいた!?』と書かれた記事が載っていた。

「……卑弥呼……ですか? おれ、卑弥呼じゃないですけど」

「あぁ、分かっている。君は、もちろん卑弥呼じゃない」

「じゃあ、空中都市の――」

「君の住所を知っていると言っただろ。君は『空中都市三丁目』なんてところに住んでない。そんなことは、もちろん分かっている、分かっているんだ。――これを書いたのはぼくだからね」

 正直、くだらない記事だなと思ったが、口に出さなくてよかったとおれは思った。

「分かるよ。まぁ、くだらない記事だ」またしても、おれの心を読むかのように稲成さんは言う。「でも自分で言うのもなんだが、なかなか面白くて見どころはあるんだよ。ぼくは、硬派な社会記事だって書くこともあるんだけれど、こういうきわどいものが好きなんだ。この類のことを調べていると、ごくたまに、思いもよらない場所に行き当たることがあってね。そのときは、あぁここと繋がっているんだという興奮が味わえる。それは他には代えがたい体験なんだよ。……伝わっているかな?」

 なんとなく分かったが「……どうですかね」と言葉を濁す。それでも、自分の記事について、まるで虫取り網を振り回す少年のように目を輝かせながら話す稲成さんを見ていると、瞬間的にではあるが印象が随分変わって見えた。第一印象は最悪だったが、そこまで悪い人ではないのかもしれない。ただ、おれに会いに来た理由が依前として分からず、警戒は解けない。

 おれのその表情を見取って、稲成さんが言う。

「あぁ、すまない。話がそれた。本題はここからだ」

 さらに週刊誌をパラパラとめくる。次に広げてみせたのは、クロスワードパズルが載ったページだった。

 ――顔には出さなかったが、内心どきりとした。

 稲成さんの目的はまだ皆目見当がつかなかったが、そのクロスワードパズルには見覚えがあった。

 それは、オーソドックスなクロスワードパズルで、全てのマスを埋めたあと、いくつかの太枠になっているマスの文字を組み合わせることで、最終的な答えとなる一つの単語を作るのが目的となっている。さらにこの週刊誌の場合は、その答えを付属の応募ハガキに書いて送ると、抽選でプレゼントが当たる仕組みになっていた。

「実はね、このクロスワードパズルを作っている奴と出版社の忘年会で知り合ってね。ついこの間、そいつと飲みに行ったときに、一つ面白い話を聞いたんだよ。――そいつは、クロスワードパズルを作る職人で、これ以外にも七つの雑誌で連載していてね。どれもパズルの専門誌じゃなくて、この雑誌と同じようなおまけ程度のものなんだが、それだけに難易度の調整が難しいそうなんだ。簡単でも、難しすぎても、ダメ。だからそいつは、自分が設定した難易度がちょうどいいものかを確認するために、わざわざ編集部に行って、送られてくるハガキに毎回目を通しているんだそうだ。

 ――で、ここからが面白んだが、ある日、そいつは、あることに気がついた。七つの雑誌、全てに毎回正解を書いて送ってくる人物がいるじゃないか」

 稲成さんはそう言って、今度は、輪ゴムで止められたハガキの束を取り出し、どんとテーブルの上に置く。まるで裁判長が小槌を打つかのようだった。

 ハガキには、おれの字で『真銅達己』とはっきり書かれている。

「――君だよ、真銅達己君」

 手が少し汗ばみ始めていた。住所やおれが大学生であることは、ハガキの情報から知ったのだろう。稲成さんが向かおうとしている話の終着点が、おぼろげながら見えてきた。もし想像通りならば、おれは今、少し困ったことになっている。

 思わず唾を一つ飲んだが、喉に引っかかりうまく飲み込めなかった。

 稲成さんが続ける。

「――それで、ぼくも気になってね。そのクロスワード職人が作っているクロスワード以外のものも調べてみたんだ。……すると、どうだろう。君は、週刊と月刊合わせて、毎月、計十三の雑誌にきっちり答えを書いてハガキを送っているじゃないか。これはね、実際、君だけだったよ。懸賞マニアやパズルマニアってのは、この世に結構いるんだけれど、懸賞マニアは、手間を嫌うからこういうパズルものにはなかなか手を出さない。逆にパズルマニアは、もっと手の込んだクロスワードパズルだけが載っている専門誌なんかのほうにいくんだ」

 おれは心の中で舌打ちをした。――全部、早苗さんのせいだ。

 三ヶ月ほど前、無事大学受験に合格し暇を持て余していたおれに、ケイトの母である早苗さんが話を持ち掛けてきたのだ。稲成さんがおれに説明してくれた後半の部分と大体同じことを言って、『倍率が低いから懸賞を当てるチャンスだ』と、おれを強引に巻き込んだのだ。

 新興宗教やマルチ商法に気をつけなさいと言っておきながら、厄介事に巻き込んでいたのは早苗さん自身だったというわけだ。参謀に後ろから刺されたような、落石注意の看板が頭の上に落ちてきたような、そんな気分だった。

 黙っているおれに稲成さんが挑発的な視線を向けてくる。

「……なぁ、こんな都市伝説聞いたことないかい? 政府が作った極秘の機関が、こういったパズルを使って、天才をスカウトしているって」

「?」

 一瞬、エアポケットに入ったみたいに思考停止してしまう。話が予期せぬ方向にそれたからだ。

 確かにそんな都市伝説は、聞いたことがある。ネット上で何気なく公開されたパズルが、実はある諜報機関が仕組んだテストになっているというものだ。政府だけではなく、有名なインターネット会社がやっているなんていうのもあったはずだ。

 ……だが――。

「まさか、このクロスワードパズルが、そのスカウトのためのテストだと?」

 いくらなんでもそれはありえないだろう。そういった都市伝説では、それだけで関門となるような難問が出題されている。これはどう見ても、ただのクロスワードパズルだ。これを解いた人間を勧誘していたら『裏の機関』は新人でごった返す。

「まぁ、スカウトなんて御大層なものでもないんだけれどね」

 と、稲成さんは、意味深に顎鬚をさすりながら、続ける。「――職人に頼んで、このパズルに、ある仕掛けを施してもらったんだ」

「仕掛け?」

 そんなものがあっただろうか? 毎月、かなりの数のハガキを書いているので、自分でもなんて書いたのか覚えていなかった。

 稲成さんは、少し呆れたような息を吐きだす。

「君にとっては、仕掛けとも呼べない代物だったかい? じゃあ、あえて説明しておくけれど、このクロスワードパズルを解いて、太枠のマスの三文字を繋げて一つの単語にすると、『バイク』となるだろ。実際に、編集部にはそれが答えだと伝えていたそうだから、間違いではない。でも、このクロスワードパズルには、注意深く見た人だけが分かる『真の答え』が別に存在する。それが仕掛けだったんだ。君にとってはなんてことなかったかもしれないけれど、実際その『真の答え』に辿り着いたのは――君だけだったんだよ」

 そんなことを言われても、おれは驚きも喜びもしなかった。ただただ戸惑うだけだ。

「確かにね、この『真の答え』は、そこまで複雑なものではない。けれどね、さっき話した都市伝説みたいに、『さぁ解いてみろ』と言わんばかりの難問をネットなんかで出題したら、チームを組んで解読されるかもしれないからね。分かる人には分かる、というのが大事だったんだ。……というわけで、随分と話が長くなってしまったけれど、君に会いに来た理由はね――」

 稲成さんは、真っ直ぐにおれの目を見つめて、続けた。


「解読してもらいたい――――暗号があるんだ」


『暗号』というキーワードは、六本指の悪魔の手のように、おれの心臓を力強く掴む。それは、ここ十年ほどおれにずっとつき纏っているもので、悩まし続けているものだった。

 稲成さんは、雑誌とハガキの束の上に、プラスチックケースに入った一枚のディスクを置いた。円盤の真っ白な表面には手書きで『サンプル』とだけ書かれている。CDかDVDかブルーレイなんだろうが、区別がつかない。

「戸惑わせてしまって本当に申し訳なく思っている。けれど、色々と説明できない事情があってね。――まずはこれを見て欲しいんだ」

 ――見て欲しいということは、ディスクには映像が収録されているのか。

「変な先入観をもたれたくないので、何が入っているのか詳細は伏せておく。ただ、いかがわしいものでないから安心してくれ。これを見て、何も思わなければ、ぼくの話は忘れてくれて構わない。けれど、もし何かに気づいたら――興味がそそられたら――名刺に書かれてある電話番号に連絡して欲しい。もちろん、協力してくれるのならしっかりと報酬は払う」

 ――何かに気づいたら?

 いや、疑問より先に、まず誤解を解くのが先だろう。これがどんな話であるにせよ、その期待におれは応えられないのだ。

「待ってください。おれはそのハガキを強引に書かされていたんです。早苗さんって人に。おれがやりたかったわけじゃありません。ほら、おれと一緒にいたあの子――」

 顔をケイトに向け、親指で指す。このことでケイトを巻き込みたくなったが、説明しないわけにはいかなかった。

 と、思いもよらぬ光景が目に入り、思わず「なっ」と声が漏れた。

 先程までおれが座っていた席に、毛先を跳ねさせた茶髪の男が座っていた。

 ――郡上だった。おれのことを稲成さんに『可愛いハーフの女の子に見惚れている目つきが悪くて体格のいい格闘家みたいなやつ』とベラベラと喋った張本人であり、一応おれの友人。何を言っているかこちらには分からないが、ケイトに向かって楽しそうに話しかけている。 

 おれが稲成さんと話していることを見越して、やってきたのだろう。すぐにでも席を立ち、郡上を引っ張り出したかったが、今席を立つのはさすがに稲成さんに失礼だと思い、ぐっと堪えながら、話を続ける。

「ほら、見てください。あの彼女の姿を――」

 まるで本意ではなかったが、おれが説明したかったことがまさに向こうのテーブルで起きていた。話しかける郡上に、ケイトは目を合わせようともせず、うつむき、体を縮こまらせている。――ケイトは困っているのだ。それを稲成さんに見てほしかった。

「君が何を言いたいのか分かる。今、君もあんな風に困っているから、気づいてくれと言いたいんだろう」

 稲成さんは少し苛立っているように見えた。

「いえ、違います」自分でも驚くほど、怒気を含んだ声が出る。おれにしたって郡上のことで苛立っていた。「……彼女はよく誤解されるということを言いたいんです。テレビの影響なのか、ハーフといえば、自己主張が強く、陽気な性格だと思われがちですが――」

「つまり、ぼくも勘違いしていると――」稲成さんは、ひたすらおれの言葉を遮った。「見込み違いだと?」

 辿り着く答えは、そうなのだが、説明したかったことは違う。しっかりと訂正したかったが、稲成さんはもうおれの言葉を待ってはくれなかった。

「ぼくは自分で言うのもなんだか、引きが強いほうでね。鼻が利くんだ。ぼくは、自分の勘を信じるし、君の才能も信じるよ」

 確かに、稲成さんは鼻が利くのかもしれない。だが、今の状況は、たまたま大麻畑をすり抜けた男に、麻薬犬が吠えているようなものだ。

 とにかく、つまり――それは勘違いだった。

 落ち着き、改めてそう説明しようと思った。

 が、視線をディスクに落としている隙に、稲成さんは、姿を消していた。

 テーブルからは、ハガキの束だけが持ち去られ、広げられた週刊誌と――謎のディスクが残されていた。

 一人取り残され、大きくため息をつく。ふいに、二重らせんが頭に浮かぶ。

 互いに譲り合わないことを『話が平行線を辿る』というが、おれと稲成さんの会話は、深読みし勘違いを重ねた結果、『話が二重らせんを辿る』ようだった。

 同じく二重らせん構造を持つ遺伝子の塩基配列のことを遺伝暗号と呼ぶそうだから――二重の意味で、二重らせんのような会話だったのかもしれない。



 とりあえず、残されたディスクを上着の内ポケットに入れ、週刊誌を手に持ち、ケイトがいる席へと戻る。

 稲成さんの問題を後回しにし、郡上と向かい合う。

 ――まずは、ケイトからこいつを引き離さなくてはいけない。

「郡上、外で話そうか」

「おう、達己。どうした怖い顔して。悪いが今、ケイトちゃんと話しているんだよ」

「外だ」

 少し声のトーンを下げてもう一度言う。郡上は諦めたのか、わざとらしく大きくため息をつき肩を上げ、「分かったよ」と立ち上がる。

 おれは、食堂の入り口のところまで郡上を連れて行き、向かい合う。

「郡上、お前には色々と言いたいことがあるんだが、まず、勝手に人の個人情報を話すな」

「なんのことだよ」

 郡上は、あっちやこっちにはねた茶髪の毛先を意味もなく触る。

「さっき、お前のとこに稲成さんって人がおれのことを聞きに来ただろ」

「あぁ、あの人、稲成って名前なの?」

「だから、名前も知らない人間に、おれのことをベラベラ教えるな」

「仕方ねぇだろ。困っている人がいたら助けるのは普通だろうが。おれっちは正義だ!」

 郡上は、まるで悪びれることなく、訳の分からない宣言をしてくる。さらには、「それにしても稲成って神社っぽいよな」と、何をどう諭していいか分からないことを楽しげに言ってくる。

 ――頭が痛くなる。

 これが郡上だ。人となりを見るときに、顔や手で判断することがあるが、こいつの場合は毛先が全てを物語っている。何も考えず、あっちやこっちで遊んでいればそれでいいようなやつなのだ。それがオシャレだと思っているのか、やたらアクセサリーをつけていて、歩くたびにチャラチャラと音がする。それが郡上なのだ。

 なぜ、こんなやつと友人になってしまったのか自分でも分からない。ただ郡上は、『怖い』を超え『恐ろしい』という第一印象を与えてしまうおれに気さくに話しかけてくれた唯一の男だった。同じ専攻で、最初の講義でたまたま席が隣同士になったのがきっかけだ。「なんだか運命感じちゃうよな、おれっち郡上」と突然よく分からない自己紹介をされた。

 ちなみに、おれたちの専攻は考古学で、郡上はその動機を「ジョーンズ博士に憧れているんだよ」となぜかインディ・ジョーンズに敬意を込めながら説明しくれた。さらに、「達己も大きな石に追いかけられたいだろ」と同意を求めてきたので、「そんな理由で考古学を選んだわけではないし、できれば大きな石には追いかけられたくない」と答えると、「達己なら石を受け止められそうだもんな」と言って、おれの肩を叩いて笑った。

 ――そのとき不覚にもおれは、こいつは馬鹿だが根は悪い奴ではないのかもしれないと思ってしまったのだ。

 思わず向かい合う郡上に、ため息が漏れる。

「とにかく、ケイトが困っているんだ」

「達己、お前な、何を馬鹿なことを言っているんだ。あれのどこが困っていたんだよ」

 おれは、郡上の頭をUFOキャッチャーのように掴み、強引に窓ガラス越しに見えるケイトに目を向けさせる。

 ケイトは、郡上が席を離れた今でも、肩をすぼめてうつむいたまま、固まっていた。

「逆に、あのケイトを見て、どうして困っているって分からないんだ」

「あれは、奥ゆかしいっていうんだろ」

「違う。お前に話しかけられるのが怖いんだ」

「えっ、まじ?」

 郡上は、心底驚き、ショックを受けた顔をこちらに向けてくる。おれは本当に気づいていなかった郡上に驚く。

「……で、お前、ケイトになんの用だったんだ?」「あぁ、そうだ。実は、その件で達己にも協力して欲しいことがあるんだ」「協力はできない」

「いやいや、最後まで聞けよ。――ほらこの大学ってさ、これだけだだっ広いキャンパスがあって、たくさんの素敵な女子学生で溢れているのに、『ミスキャンパス』ってやつがないだろ」

 ほらと言われても困るが、確かにそんな話を聞いたことがある。他の大学では当たり前のように行われている校内一の美女を決める『ミスキャンパス』というイベントが、この蓮咲大学では開校以来、一度も行われたことがないそうだ。理由は定かではないが、歴史が古い分、硬派なところがあるのかもしれない。

 大体、郡上の思惑が分かってきたが、おれは、あえて何も言わなかった。

「でさ、やったことないんだったら、おれっちがやろうと思って」

 ――やっぱり。これが郡上だ。最近、キャンパス内で女性に声をかけまくっていたのは、それが理由だったのか。ただのナンパだと思っていたが……。

 互いに自己紹介をしたとき、郡上が最後にこう宣言したのを思い出す。

『いいか達己。おれの頭の中には綿飴が詰まっているんだ。だからおれは、甘く軽いことしか考えられないんだ!』

 郡上の考えは大体分かった。そろそろ話を切り上げたかった。

「で、ケイトにそのミスキャンパスに出てほしいって頼みに来たのか?」

「いや、実はすでに応募用紙は三日前に渡しているんだ。今日は、それを受け取りに来ただけだ」

「……郡上よ、ケイトを見ていて、そんなことに向いていないって分からないか?」

「いや、おれっちには、ケイトちゃんが可愛いってことしか分からないけど」

 ――分かれ、頼むから。

「……で、おれに協力しろっていうのは、ケイトを説得して『ミスキャンパス』に出場させろってことか?」

「話が早いな達己。いいのか?」

 いいわけないが、これ以上郡上と話していても仕方がない。

「――あぁ。じゃあ、聞いておくよ」

 おれはそう言って、踵を返し、食堂に戻る。もちろん嘘だったが、あとでなんとでも言えばいい。背中に、「頼んだぞ」と郡上の期待を浴びるが、もう何も返さなかった。


 食堂に戻ると、ケイトが先程と同じ体勢で固まっていた。

 肩を上げ、顎を下げ、うつむいていた。テーブルの下に妖精だか小人だかがいて、悪さをしないか監視しているかのようだった。

 郡上との全く身にならない会話で忘れかけていたが、稲成さんに見てもらいたかったのは、まさにこのケイトの姿だった。『ハーフといえば?』と皆に連想させると、『陽気』で『表情が豊か』で『誰とでもすぐに打ち解けてしまう』とイメージする。

 だがケイトは――。

「大丈夫か?」

 おれが尋ねると、ケイトはしばらく間をおいた後、小さく頷いた。すでにうつむいていたから、まるでうとうとと眠っているみたいだった。そして、またしばらくじっとした後、顔を少しだけ上げ、言った。

「……郡上君は、もう行っちゃった?」

「あぁ」

「……ありがとう」

 馬が草を食べる音よりも小さな声だった。

 ――ケイトは、『超』がつくほどの人見知りなのだ。そして恥ずかしがり屋。

 まずは、稲成さんにそのことを知って欲しかった。


 誤解を解くために知って欲しかったことその一――ケイトは人見知り


 そして次に知って欲しかったこと、それはケイトが好きなものだ。

 ケイトは、甘いものが好きだ。特にティムタムというオーストラリアのお菓子のクラシックダークという味のものが好きだ。そして、『こぼしゴリラ君』という起き上がりこぼしをゴリラに見立てたキャラクターが好きだ。さらに、六角形の赤鉛筆が好きだ。赤鉛筆で思いついたことを書きこむのが好きだ。

 それらが全て、テーブルの上に載っている。

 袋から出され三つほど食べられたティムタムのクラシックダーク(稲成さんが来るまでは一つしか食べられていなかった)。筆箱から取り出され並べられた、ゆらゆらと揺れる五つの『こぼしゴリラ君』の消しゴム。六角形の赤鉛筆。そして、A4サイズの何かのチラシ、その裏面の白紙に赤鉛筆で書かれた文字、数字……。

 ――これを稲成さんに見せれば、きっと分かってもらえただろう。

 ケイトに視線を戻すと、まだ何か言いたそうにもじもじとしていた。

「どうした?」

 ケイトは、おれの声が届いていないんじゃないかと心配になるくらいの間をあけた後、

「……たっくん」

 ケイトはおれのことを『たっくん』と呼ぶ。真銅達己の達己を取って、『たっくん』。『たっくん』と呼ばれる柄ではないが、とにかくケイトはおれのことをそう呼ぶ。

「どうした?」

 もう一度尋ねてみる。

 また間があく。仕方がない、ケイトは思ったことを口にするのに時間がかかるのだ。おれは辛抱強く、ケイトにプレッシャーを与えないように、彼女の言葉が続くのをじっと待つ。

「……さっきの人」

 どんどん声が小さくなる。分厚いガラスの向こうから話しかけられているんじゃないかと思うくらいの声量だった。

 ケイトは、手に持ったままだった週刊誌を上目遣いでチラチラと見ている。ようやく何を尋ねたいのか分かった。おそらく、『なんの用だったの?』と続くのだろう。

 おれは、テーブルの上に少しスペースを作り、週刊誌を広げ、クロスワードパズルのページをケイトに見せる。

「なぁ、この号の答えって、なんだった?」

 ケイトの目が週刊誌に落ちる。

 ――口の中が、飴をなめているみたいに微かに動く。

「……『18』だよ」

 ケイトは、自分の声量に自信がないのか、わざわざ紙に赤鉛筆で『18』と書く。

「どうして、『バイク』じゃないんだ?」

 確か稲成さんによれば、太枠のマスを繋げれば、『バイク』となり、それが通常の答えのはずだ。

 ケイトは、週刊誌に直接赤鉛筆で書き込み、マスを埋め始める。行動が徐々に大胆になっていく。左手の人差し指で、栗色の癖毛をくりくりと回す。閉じられた口がより激しくもごもごと動く。おどおどとしていた目が、光り輝き始める。

 ――それらは全て、ケイトがあることをしているときの癖だった。

「これは、答えとなるワードが、『鍵』にもなっているんだよ」

 ケイトは、先程とは違って、はっきりと張った声を出す。

 クロスワードパズルの『鍵』とは、枠の横に書かれているヒントのことだ。

「全ての答えが、語呂合わせで数字に変換できるようになっていたの。例えば、ほらここ」

 ケイトは、ぴんと力強くクロスワードパズルのマス目を指さす。ケイトが、『イチゴオレ』と埋めたところだ。

「『イチゴオレ』なら『イチ』が『1』、『ゴ』が『5』、『オ』は英語の『O』で『0』、『レ』は『零』だからこれも『0』となって、繋げると、『1500』」

 ケイトは、紙に、説明通り、『1500』と書き込む。

 確かに、枠に書かれた他のワードを見てみると『サンゴ』や『シシ』と、語呂合わせで『35』や『44』と数字に変換できるものになっている。

「で、太枠のマスを繋げると、『バイク』になるんだけど、これは語呂合わせで『819』にするよりも、『バイク』を『9の倍』と読んで『18』にしたほうがしっくりくるかなと思って」

 ケイトは、まるで別人に体を乗っ取られたかのように、すらすらと説明してくれる。

 チラシの裏面には、複雑なアルファベットと数字の羅列がぎっしりと書かれている。おれはやはり、稲成さんの誤解を解けなかったことを悔やんだ。

 

 誤解を解くために知って欲しかったことその二――ケイトは暗号が好き


 この状況を見れば、さすがに伝わったはずだ。クロスワードパズルを解いていたのは、おれではなく――三輪ケイトだったということを。

 ケイトは暇さえあれば、世界的に有名な未解読の暗号を解読しようと試みるほどの暗号好きだ。難しければ難しいほどやる気になるのだが、こういった簡単なクロスワードパズルも好きで、日常的に週刊誌の端に載っているものを解いては楽しんでいる。

 もちろんそれは趣味の範囲で、ケイト自身は、ただ解いているだけで満足していたのだが、応募できるものは応募しようと言いだした人がいた。

 ケイトの母――早苗さんだ。

 おれは、反対した。ケイトは人見知りの恥ずかしがり屋で、とにかく目立つことを嫌うからだ。すると早苗さんは、さらにこんな提案をしてきた。

「だったら、たっくんがハガキを書けばいいじゃない」

 おそらく最初から全部、計算していたんだろう。早苗さんは本当にケイトと血が繋がっているのかと思うくらいアクティブな人で、常に自信に満ち溢れていて、その言葉には妙な説得力がある。気がつけば、ケイトが解いた答えを、おれがハガキに書いて送るということになっていた。

 ――という話を稲成さんに説明したかったのだが……。

 ケイトに視線を戻すと、饒舌に語っていたことが幻覚であったかのように、元の人見知りの女の子に戻っていた。自分でも、積極的に語っていたことが恥ずかしかったのか、少し顔を赤らめもじもじとしていた。

 おれは、週刊誌のクロスワードパズルと稲成さんの話がどうつながるのか、順を追ってケイトに伝えた。本来ならば、ケイトに依頼されるべき話だ。

 そして、稲成さんが残していったディスクを上着の内ポケットから取り出す。

 ケイトは、まるでおもちゃを見つけた子どものように、自ら素早く手を伸ばし、ディスクの端を掴んだ。

 また、目の輝きが一時的に戻っていた。ケイトの瞳は、青と金茶が混ざり合った複雑な虹彩をしているため、それはまるで宇宙の誕生を見ているかのようだった。

「見たいのか?」

 おれがそう尋ねると、ケイトは素早く頭を上下させる。

 聞くまでもないことだった。ケイトは、パズルを――いや、『暗号』を前にすると、人が変わるのだ。

 そこでふと、あることに気づいた。

 ――郡上悪いな。

『ミスキャンパス』の参加是非についても、しっかりと答えは出ていたようだ。

 おれは、ケイトがメモ用紙代わりにしていたチラシを裏返す。

 それは、『蓮咲大学ミスキャンパス』の応募用紙だった。



 稲成さんには、おれとケイトの関係を『友達』と説明した。

 けれど、正確に言うならばおれたちは――『幼なじみ』だ。

 


 ケイトが隣に引っ越してきたのは、小学三年生の秋、九月十三日の日曜日だった。おれは、日付を覚えるのが苦手で、両親の誕生日すら(特に親父は)うろ覚えなのだが、その日のことははっきりと覚えている。

 朝、おれは隣から聞こえる騒がしい物音で目を覚ました。レースのカーテン越しに窓の外を見てみると、隣の家の前に大きなトラックが止めてあって、作業服を着た体格のいい男の人たちが、家具や段ボールを運び込んでいた。

 隣の家は、おれの家と同じような二階建ての一軒家で、元々は若い夫婦が住んでいた。若い夫婦が建てたのか、リフォームしたのか、それは分からない。とにかく、物心がつくころにはその家はそこにあって、若い夫婦が住んでいたのだ。けれど、いつの間にか若い夫婦はいなくなっていて――どうやら離婚したらしい――長い間そこは空き家になっていた。

 しばらく引っ越し作業を見ていると、隣の家の鎧戸が唐突に外された。ちょうどおれの部屋の真向かいにある窓だ。

 その向こう側に――ケイトと早苗さんがいた。

 先に目が合ったのは早苗さんだった。おれは思わず「あっ」と声を漏らし、早苗さんも「おっ」と顔を綻ばせた。ケイトはおれを見て、チーズをこっそり食べていたのを見つかったネズミのように、体をビクンとさせた。

 ――それが出会いだ。ほぼ十年前だから、おれもケイトもまだ九歳だった。

 早苗さんは、薄いニットのシャツを腕まくりし、髪を後ろにくくっていた。おれの第一印象は『魔女みたいな人だな』だった。活力に満ち溢れていて、年齢を見て取れない(もしくは惑わされる)美しさがあったからだ。実際、当時何歳だったのか、早苗さんに歳を聞くのは禁句なので、現在でも謎のままだ。

 そして、ケイトを初めて見たときの感想は、『この子は現実なのか』だった。

 今は栗色の髪も当時は金色に近く、癖もほとんどなくサラサラで、青と金茶が混ざった目はくりくりとしていて、まるで人形――というか、早苗さんが『魔女』に見えたおれには、その魔女の周囲をふわふわと飛ぶ『妖精』だとかそんな類の現実離れした幻想的なものに見えた。

 ケイトの手には――ピンク色のゴムボールが握られていた。

 ケイトはおれに気づくと、慌てて早苗さんの後ろに隠れた。その早苗さんは、窓を開き、体を少し乗り出してきた。

「今日から隣に引っ越してきました! わたしが三輪早苗、で、この子が――」

 早苗さんは快活な声でそう自己紹介し、後ろに隠れるケイトを引っ張り出そうとしたが、ケイトは嫌がり、ゴムボールを両手でぎゅっと握ったまま、早苗さんの腰のあたりに顔をうずめた。

 早苗さんは笑い、ケイトを前に出すことを諦め、

「恥ずかしがり屋なのよ。この子はケイトね」

 と教えてくれた。おれも、「真銅達己です」と名乗り、この家には親父と二人暮らしをしていて、今はその父が仕事に出ているため、一人で留守番をしていると言った。ちなみに、おれの母は幼いときに癌で死んでしまった。

「じゃあ、今日からたっくんって呼ぶわね」

 早苗さんはそう言って、体をさらに乗り出し、手を伸ばしたが、塀を一つ隔てているため、握手ができるほど互いの家は近くなく、空の手を振り握手をするふりをした。

 そういえば、最初におれのことを『たっくん』と呼んだのは、早苗さんだった。

 その後、早苗さんがおれの年齢を聞いてきたので、その流れでケイトがおれと同じ歳の九歳で、小学三年生だと知った。ケイトはその間も、早苗さんの後ろに隠れたままだった。

「ねぇ、たっくん」

 早苗さんは改めてそう呼んで、強い眼差しでおれを見つめた。

「一人の男として君に頼みたいことがある」

 当時、小学三年生であったおれに、早苗さんはそう言った。『男の子』ではなく『男』として、と。

「……なんですか?」

 何を頼まれるんだろうというプレッシャーと、一人の男として見込まれた嬉しさと、ほんの数分前に出会ったばかりの隣人の子どもに何を頼むんだろうという疑問とが混ざり合い、複雑な気分だった。

 早苗さんは、おれの目をしっかりと見つめたまま、力強くこう言った。


「――ケイトのことを守ってあげてね」


 それは、まさに魔女の呪文のように、おれの体を痺れさせた。頭の中でつむじ風が巻き起こり、言葉を一つ残らず奪い去っていった。

 その後のことはよく覚えていない。おれはきっと頷いたんだと思う。

 ――そしておれは、その目の前にある窓の向こうが、ケイトの部屋だと後で知った。


 翌日、おれのクラスにケイトが転校してきた。

 普通転校生がやって来ると前に立たされ、自己紹介をさせられるのだが、どうやら早苗さんからケイトが極度の恥ずかしがり屋であることを伝えられていたらしく、担任から『三輪ケイト』と名前だけ皆に紹介され、ケイトは頭を下げただけだった。ケイトは自分が大人しい性格だということをアピールするために、金色の髪を両端で三つ編みにしていた。

 それでも、ケイトの目立つ容姿を隠しきることはできるはずもなく、おれのクラスは台風が来る前の日みたいな騒ぎになった。ひそひそ声が混ざり合って、一つの叫び声に聞こえてしまうぐらい、皆がケイトに注目した。

「日本語は話せるの?」「アメリカのどこに住んでいたの?」「もしかしてテレビとか出る人?」

 四方八方から飛んでくる質問にケイトは、ただただ体を縮こまらせるだけだった。本当に、そのまま消えてしまうんじゃないかと思うくらいだった。

 ――ケイトのことを守ってあげてね。

 おれの頭の中で、早苗さんの言葉が、遠くから聞こえる寺の鐘のように鳴り響いていた。 

 おれは、まるでその言葉に操られるように、ケイトの前に立ち、皆をなだめて落ち着くように言って回った。

 男子生徒はすぐに理解を示してくれた。当時からおれは体格がよく、近所の空手道場に通っていたので、達己をもじり『達人』というあだ名がつけられるほど男子生徒からは一目置かれていたからだ。

 問題は女子生徒だった。ケイトは、ただの恥ずかしがり屋で、皆と打ち解けられないだけなのだが、女子生徒からは、クールな女の子だと思われた。そこで関心を失われればまだよかったのだが、クールは、気取っていると言い換えられ、悪い噂もたった。大抵は、ケイトの容姿に嫉妬した生徒が発信源だった。

 それでもおれは根気強く、ケイトの誤解を解いて回った。ときに茶化されもしたが、特に気にはならなかった。

 ほどなく、おれの説得が通じたというよりも、皆がケイトに慣れたのか、やはり注目を集めてはいたものの、そこまで騒がれることはなくなった。

 ケイトのほうが皆に慣れるということは、最後までなかった。ケイトは、おれにすらなかなか心を開いてはくれなかった。転校してきたその日から、常に登下校を共にしていたのに、しばらくは一言も口を開いてはくれなかった。出会ったときに持っていたピンク色のゴムボールを常に手に握っていて、おれが何か話しかけると過剰にそのボールを揉み解して、まるでおれの声が聞こえていないかのような素振りを見せた。

 初めて、ケイトからメッセージを受け取ったのは、転校してきて一ヶ月くらい経った頃だった。


 たくとんいかっんよでいな


 ケイトは、当時から六角形の赤鉛筆をこよなく愛していて、ノートの端に縦にその赤鉛筆で文字を書き込むと、定規で切り取り、おれに手渡した。縦4・2センチ×横5ミリという、とても小さく細長い紙きれで、まるで菓子についているアタリの紙みたいだった。

 おれは、何がなんだか分からなかった。

 すると、ケイトは、持っていた赤鉛筆をおれに差し出した。おれは、感覚的にケイトの意図を汲み取り、「こういうことか?」と紙の切れ端を、赤鉛筆に、ぐるりと巻きつけた。

 そして、驚いた。

 六角形の赤鉛筆の一辺は、3・5ミリになっていて、紙を巻きつけるとちょうどその一辺に一文字が収まるようになっていた。あとで知ったことだが、それはスキュタレーと呼ばれる最古の暗号の一つだった。

 暗号には、必ずそれを解読するための『鍵』がいる。スキュタレーの場合は、ある特定の棒だ。細長い紙を棒に巻きつけることで、とびとびになっていた文字が読めるようになるのだ。

 ケイトが作ったものは、六角形の赤鉛筆が、スキュタレーの棒、『鍵』になっていた。紙の切れ端で作った『たくとんいかっんよでいな』という謎の暗号文は六角形の赤鉛筆に巻きつけることにより、『たくとんいか』と『っんよでいな』に分割され、それを横に読んでいくと言葉が浮かび上がった。


 たっ

 くん

 とよ

 んで

 いい

 かな


『たっくんとよんでいいかな』

 ケイトは顔を真っ赤にし、うつむいていた。その日から、ケイトはようやく少しずつ話してくれるようになった。ピンク色のゴムボールを学校に持ってこなくなったのもその日からだった。

 実際に、おれのことを『たっくん』と呼ぶようになったのは、そこからさらに一ヶ月くらいかかったのだが――。

 その後、早苗さんから、ケイトが暗号好きであることを聞いた。ある日、おれの親父とケイトと早苗さんで、ケイトの家で一緒に食事をしたときにその話になった。

 どうやらそれは、アメリカ人のお父さんの影響らしかった。ケイトのお父さんは、NSA(アメリカ国家安全保障局)の暗号開発の部門で働いていて、ケイトに幼少期から暗号をクイズと称して出題していたらしい。

「ケイトは、わたしじゃなくあの人に似たのね」

 早苗さんは少し寂しそうな顔でそう言った。そして、こう続けた。

「あの人は、もういないの」

 おれには、『ここには』という意味ではなく、『どこにも』という意味に聞こえた。おれは、自分の母親のことを思い出し、胸が痛くなった。ケイトはうつむいていて、表情が読み取れなかった。ちなみに、おれの親父は早苗さんに惚れていて、それを聞いて、自分が守らなくてはいけないと鼻息を荒くしていた。

「あの人がね、暗号に夢中になっているケイトを見て、こう名づけたの。それは、あの人自身が小さい頃に呼ばれていたニックネームだったんだけれど……」


 ――――『暗号中毒者』。


 ケイトの父は、まるで称号のように、自分につけられていたニックネームをそのまま子どもにつけたのだ。九歳のおれには意味が分からず、あとで親父に教えてもらった。おれは意味を知り、自分の娘を『中毒者』だなんてよく言うなと思ったが、ケイトのことを知るにつれて、まさにぴったりな表現だと実感した。

 ケイトは、暗号を前にすると一時的に他人のことを頭から消し去り、夢中になってしまう。それは、暗号好きというよりかは、暗号にとり憑かれているといった感じだ。

 あの『たくとんいかっんよでいな』と書かれた紙の切れ端にしても、おれの目の前で、すらすらと書いたのだ。つまり、ケイトは頭の中で暗号文を組み立てていたということだ。九歳にして、いとも簡単に――。


 結局、おれは早苗さんに初めて会ったときに言われた『ケイトのことを守ってあげてね』という頼みごとを今でも忠実に守り続けている。

 ずっとケイトの傍で見守り続けているのだ。――幼なじみであり、保護者代理。

 高校を卒業するまではずっと同じクラスだった。どうやら、早苗さんが裏で学校側に依頼していたようだ。早苗さんは、駅前で、『どこかの国から輸入してきた何に使うのかよく分からない雑貨品』を売っているのだが、小中高の校長室には、必ずその奇妙な形をした輸入雑貨が最も目立つ場所に置かれていた。

 蓮咲大学には、ケイトが理学部数学科の推薦で入ったので、おれは、文学部の考古学専攻を選んだ。もちろんジョーンズ博士に憧れたわけではない。おれが選べる選択肢の中で、考古学が最も暗号と関係していたからだ。勉強がそれほど得意でなかったおれは、必死で勉強した。――全ては、ケイトを守るため。

 おれは自分に嘘をつくのが嫌いだ。

 だから正直に言うが、やはりおれは――ケイトのことが好きなのだと思う。

 誰にも言ったことはないし、周りに誰もいなくたって口にすらしたことがないが。

 当時の心境をはっきりと思い出すことはできないが、出会った瞬間から好きになっていたのだろう。ケイトの内面をより深く知っても、『暗号中毒者』であることを知っても、その気持ちに変わりはなかった。

 それでも、おれは『幼なじみ』のままでいいと思っている。ケイトを困らせたくないからだ。できるだけ長く、ケイトの傍で見守っていたいから。

 おれは、ケイトから貰った暗号文を――今でも財布の中に入れている。