鈴虫が鳴いている。ここが地球だと分かるのはそれだけだった。目を覚ました私の周囲にはまるで光がなかった。目玉に膜がかかったみたいに何も感知しない。周りが真っ暗なのか、急に失明したのか、それさえも判然としない。手を探ると地面はあるが、届く範囲にはそれ以外の何ものも存在しない。ここが室内なのか、何もない平原なのか、それとも遠い孤島なのか、やはりそれも分からない。さっぱり何も見えないので、視覚的探索をあきらめて臭いを嗅いでみた。感じるのは土の臭いと草の臭い、手掛かりらしい手掛かりは何もない。

 もぞもぞ動くうちに、ゆるゆると気を失う前の記憶が戻ってきた。私は周囲の探索をやめ、そっと自分の右手を探ってみた。

「ある」

 美術館でのことが幻覚だったのか、それとも一度とれてからくっついたのか、それは分からないが、私はとりあえずくっついてくれている右手に感謝した。

「――誰かいるのですか?」

 私が動く気配を感じたのか、暗闇の奥から声がした。声の高さからすると女性か子供のようだ。なんだか警戒しているように声が固い。

「あ、はい」

 黙っている理由もないので返事をした、

「女性の方ですか?」

 私の声を聞いて、相手は少し安堵したように息を吐いた。

「うん」あれ? この人の声どっかで聞いたことあるような気がする。誰だっけ?

「なぜここに?」

「え、さあ……」ここがどこかを知らないので。

「分かりませんか?」

「今、目を覚ましたとこなんですよ」

「そうですか、気を失ってしまうとは、さぞ恐ろしい目に遭ったのでしょう」

 ぱたぱたと、暗闇の奥から近づいてきた気配は、私の前まで来るとそっと私の手を握った。

「気をしっかりお持ちください、きっと助けが来ます」

 あ、この子年下だ。

 強く握られた手の大きさと肌の柔らかさで、私はそう判断した。その手は私より一回り小さく、とても冷たくなっていた。―――助け?

「あの、ここどこなんでしょう?」

「多分、方向からして羅城門ではないでしょうか?」

 羅城門?「えっと、最寄り駅で言うとどの辺?」

「は? えき……?」

「うん、駅、分からない?」

「何を話している!」

 男の声がして、握っていた小ぶりな手がびくりと震えた。

「誰かおるのか!」

 暗闇から、探るような男の声が投げかけられた。

 これって返事したほうがいいやつかなあ?

「えっと……いますけど」

 私は女の子を背中に隠すようにして、声のほうに振り向いた。

 バタバタと歩く複数の気配を周囲に感じるが、警戒しているのか近づいてくる様子はない。

「何奴だ!」

「ええと……」

「答えろ!」

「み、御厨紀伊、高校二年生です」私は気をつけをして自己紹介した。

「わけの分からんことを言うな!」

 わがままな人だ。そっちが言わせたのに。

「その声、女だな」

 足音が近づいてくる、土を踏む音に合わせて、暗闇の中で何かがチカチカと光っていた。見れば金属のようだ。金属というかこれ……刃物だ。

「ええ?」

 刃渡りは五、六十センチ、模造刀だとしても、持ち歩くだけで警察に捕縛される類のものだ。男はそれを鞘に納めようともせずに片手に下げている。

 少しずつ暗闇に目が慣れてきたのか、おぼろげに周囲が見えてきた。水干とか言っただろうか、男は神社の神主が着ているような服装をしている。しかしそれは祭りの行列で見かけるようにきちんとのりのかかったものではなく、だいぶ着古したものに見える。その服が何か黒い物で汚れていて、よく見れば、刃先にも同様のどす黒いものがこびりついている。そして、何やら鉄臭い。あるいはこれは……

 ――血の臭いだ。

「ぎゃふ!」女の子を背にしたまま後ずさろうとして、背中から転んだ。

 慌てた私の様子に勇気を得たのか、男は大股で近づいてくる。

「何者でも構わん、衣を脱いで渡せ」

 なにその追い剥ぎ的な発言! どうなってる? この人たちおかしい!

「早くせぬか!」

「ひい」

 男は躊躇なく私のほうに刃先を向けた。額に固まりかけた血のしずくが降りかかる。

「おい」

 その時、別の方向から声がした。

「誰だ!」

 刃物男が叫んだ。男の声にまた恐怖が宿っている。

「検非違使だ」

 その声を聞いて、女の子の手がぎゅっと私の手を強く握った。

 検非違使と言うのは確か――今昔物語とかに出てくる役職で、おまわりさんのようなお仕事だったような……???? かと思えば眼前には宇治拾遺物語に出てくるような追い剥ぎがいる。なんだこれ?

「追っ手か!」

「検非違使だと!」

「囲まれたのか」

「逃げ切ったと言うたではないか!」

 暗闇の奥にいた男たちはざわめき、口々に罵り出した。

「騒ぐな!」

 刃物男が一喝して周囲を黙らせた。

「囲まれたにしては、松明の光の一つもない、声もせぬ……ぬしは一人か?」

「………」

「おい、答えぬか!」

 検非違使の返事はなかった。暗闇から身を翻す衣ずれの音がして、次いで走り去る足音がした。

 おいおい、逃げたよ。

「逃がすな、仲間を呼ぶぞ!」

 男たちは検非違使を追ってばらばらと走り出した。走っていく方向には少しだが光があるようで、ぼんやりと人の輪郭が見えた。逃げていく検非違使の男は手足が長く、長身だった。追いかけている男たちと比べるとかなり背が大きいのが分かる。しかし、歩幅の差があるのにかかわらず、検非違使と追いかける男たちの距離はぐんぐん縮んでいった。つくづく自分が優位に立つと元気な人たちである。

「あ、そうだ! 今のうち!」

 私は周囲の男たちが検非違使を追っていなくなったのに気が付いて、急いで立ち上がった。

「何がです?」

 手をつないでいる女の子が首を傾げ、不思議そうに尋ねた。

「逃げないと」何がじゃねえぞ小娘!

「心配なら無用です」

 少女は自信いっぱいの声で言った。果たして刃物男にストリーキングを要求されたことを心配せずに、ほかに何を心配すればよいのか?

「ん?」

 私はあることに気が付いた。さっきまで水につけたように冷たかった女の子の手が、ゆっくりと熱を持ち始めている。

「あの方は、あの程度の夜盗どもに後れを取りはしませぬ」

 声に迷いはない。女の子は胸を張り、勝手に確信しているらしかった。背筋を真っすぐにして立っている姿は何げに藤田さんに似ていた。

「いや、戦ってねえから!」私は頭を掻きむしった。

 目を戻すと、追いかける男の一人が検非違使のすぐ後ろまで迫り、淡い月光に反射して刃物がきらめくのが見えた。

「危ない!」私は声を上げた。

 先頭の刃物男が振りかぶった瞬間、検非違使の影が縮んで見えなくなった。急停止してしゃがんだようだ。そう分かった時にはもう遅かった。後続の男はしゃがんだ検非違使に頭上高く振りかぶった刃を届かせることができず、また、全力疾走から止まることもできず、検非違使に足を払われけつまずいた。全力疾走中の転倒である、男は跳ね上がるようにして転んだ。それと同時に絶叫がほとばしった。刀を持って頭から転んだのである。何が起こったのかは想像するまでもない。

 続いて後続の男たちに悲鳴が上がる。しかし、検非違使の姿は見えない。こちらからは、地面の下のほうで鈍く刀がひらめいているのだけが薄く見えていた。検非違使の男は立ち上がることなく、低い姿勢のまま地面を這って蜘蛛のように走り、男たちに襲いかかっていた。

 暗闇に着物の破片が影のように散っている。検非違使は光物の太刀を自分の上着で隠し、転がるようにして、走ってくる男たちに向かって切りかかっていた。だから、切りかかるたびに着物の破片が散り、悲鳴が上がる。

 そういえば、子供の頃に忍者の秘密とかいう本で、暗闇の中では姿勢を低くするほうが光の反射の関係上、周囲がよく見えるのだという知恵を読んだことがある。追いかける男たちには検非違使の位置が見えていないが、検非違使からは追っ手がよく見えているのだろう。検非違使は暗闇の戦いを熟知しているようだった。

 今度は男たちの間で、恐怖にひきつった怒号が響いた。錯乱した一人が刀を振り回して、それが仲間に当たったのだ。暗闇での同士討ちの恐怖に気付いた男たちはうろたえ、完全に動きを封じられた。

 周囲は暗闇、刀を振ることもできない。動きの止まった男たちを容赦のない検非違使の刃が襲った。男たちは完全に検非違使の策にはめられてしまったようだ。

 二つ三つと悲鳴が上がると、罵倒の声も消え、あとは斬られた男たちの苦悶の声だけが残った。

 ――――――――――――あれ? 検非違使が起きてこないな。

 私は女の子にちょっと待ってて、と声をかけて、左右の安全確認をしつつ、検非違使のほうに向かった。夜盗の人たちはお気の毒なことに、立ち上がる様子はない。

「あーもし?」

 げほげほ。

 検非違使は蜘蛛のように地面に這いつくばったまま、起き上がれなかった。

「え、だ、大丈夫ですか?」傷は浅いぞ?

 ゲホゲホゲホ。

 立ち上がる様子もないので、私は検非違使のそばに行って背中をさすった。

 げほげほげほげほげほげほげほげほぜえぜえ。

「すまん、餓鬼の頃から肺の腑が弱くてな」

 検非違使は気の毒なほど青い顔で礼を言った。

「…………」さっきまでここで大立ち回りをした立派な検非違使がいたんだが、どこへ行ったのだろう? 君知らない?

「――お前、無事か?」

 検非違使は呼吸を整えながら、私に向かって声をかけた。暗いので顔は確認できないが、思ったよりも若い声だった。さほど年齢は変わらないのかもしれない。

「はい」あなたに比べれば。

「安心しろ、すぐに仲間も駆けつける」

 道の先のほうで松明らしき明かりがこちらに向かってくるのが見えた。ちゃんとした検非違使たちがこちらを見つけてくれたようだ。

「やれやれ、俺一人にやらせおって」

 検非違使は肩に太刀を担いで、だるそうに起き上がった。遅れてきた同僚の検非違使たちに盗賊たちの手当てを命じ、私のほうに向き直った。松明に照らさせた私の姿に上から下まで視線を送り、渡来人か? とつぶやいた。

「おい、女。言葉分かるか?」

「あ、はい」君らの正体は不明だがな。

「お前、時姫様を見なかったか?」

 姫?

「藤原の姫君だ」

 姫など知らんけど、

「女の子ならいましたよ、あっちの――」

「壬生様!」

 ――と、叫んで小走りでやってくるあの子でありましょうか?

 松明に照らされたその影は、小袿姿――。国語教科書資料集に載っているあのあれ。いつも御簾の奥にいて、殿方の前では袖口で顔を隠している高貴な姫が着るという、あれ。いったい何の冗談か、と聞きたくなるようないでたちだった。

「なにこれ?」

 しかし、おふざけというには、彼女の姿はびしりと決まりすぎていた。殿方の前で顔を隠す仕草も、歩き方の立ち居振る舞いも、祭り行列で見るような、現代の平民が平安貴族の衣装を着せられているような感じではない。女の子から感じられるのは藤田さんクラスの貴族オーラ、平民が下手に口をきくと不敬罪で口を溶接されるクラスだ。

「姫様、ご無事で?」

 壬生と呼ばれた検非違使は姫に声をかけた。

「ええ、必ず助けが来ると信じておりました」

 小走りで来たからか、女の子は顔の隠していない部分をぽわっと赤くしていた。乙女が袖で顔を隠す仕草は色っぽく、私が姫に壁ドンしたくなった。

「壬生様も怪我などはありませんか?」

 女の子は先ほど震えていたことなどなかったかのように凜と立って、検非違使を気遣った。

「たかが盗賊風情、問題ありません」

「え、さっき―――」喘息の癪で起き上がれなかったよね?

 わし。

「――――――」!

 検非違使の手に口を塞がれた。というか手が大きいので顔全体が塞がれた。当然の結果として、人類の権利であるはずの発言の自由を奪われ、私はモガモガになった。

 私は自らの自由と権利を守るべく抵抗を試みたが、検非違使の手にみしりと鉄の爪的な力が準備されたため、両手を下げて早々に自由と権利を放棄した。

「……どうかしたのですか?」

「いえ、彼女に虫が」

 姫の問いに検非違使は涼しい声で答えた。

 体面を保つためなら何でもやる男のようだ。プライド高けえなあ。

「ところでこの女は?」

 検非違使のおまわりさんは、不審者を見る目で私を見つめた。

「この方も盗賊にさらわれてきたようです」

「ほう――それはお気の毒に」

 そう言った検非違使の声には、あまり感情がこもっていなかった。常識人の私を捕まえて、まだ不審者を見る目をしている。

「お前、どこの娘だ?」

「えっと……」

 ―――東京都の国立市です。状況が飲み込めない私は、ぼうっと答えた。

「京の東か?」

「東京です」そしてここはどこ?

「東の京……つまり、右京、左京で言うと、左京か?」

「東京です」そしてここはどこ?

「一条二条の道で言うとだな……」

「東京です」そしてここは――

 わしっ。

 アイアンクローされた。

「つまり、分からぬのだな」

「――――」大きな手に塞がれて、顔のない私は頷いた。

「仕方がない、今日はうちに泊めてやる」

 検非違使はため息混じりにそうに言った。

 あれ? ドSなわりに人情家だね、つんでれだろうか?

「それはいけません!」

 顔を赤くして反論したのは姫君だった。

「なぜです?」

「それはあの……あれです。あたら若い娘が、知らない殿方の家に泊まるなど、いけません」

「娘?」

 検非違使は私の顔に目線を送り、フンと鼻で笑った。

「失礼、全く気が付かぬことでした」

 いいよ、その扱いには慣れてる。私はカタツムリ、雌雄同体的生物。

「しかし、いくら得体の知れぬ者とはいえ、放り出すわけにもいきますまい。検非違使の詰め所は娘を泊めるには向かぬし、これから人をあたるには、あまりにも……」

「私の家にお迎えします」

「良いのですか?」

 検非違使は片眉を上げて、女の子を見つめた。

「ええ、彼女は夜盗から私をかばってくれました。礼は尽くさねばなりません」

「素性の知れぬ輩ですよ」

「人を見る目はあります」姫は勝手に確信していた。

「そうですか……では、お任せいたしましょう」検非違使は恭しく頭を下げた。

「はい」

 姫はカタツムリの回収を買って出てくれた。私だって、見知らぬ男の家より女の子の家のほうがありがたい。謹んで彼女の申し出を受けることにした。

「あの……ありがとうございます」

「いいえ、礼を言うのは私のほうです。私、あなたがいてくれて、とっても心強かったんですよ」

 姫なる人は私の手をもう一度握って微笑んだ。

「私は、藤原時姫と申します」

「時姫……?」

 どこかで聞いた名前だな……どこだっただろう?

 そんなことを思いながら、私は朧に光る月を見上げた。

「ところで、どこです? ここ」



 目を覚ますと、天井が寝殿造りだった。

「お目覚めですか?」

 目を覚ますと、唐衣を着たきれいなおばさんが私を見下ろしていた。背後には口をあんぐり開けて見つめてしまうような見事な唐絵屏風、美術館で見たような見事な経机や二階厨子。二階棚の香炉からは、庶民が嗅いではいけないような高貴な香りが漂っている。

「清子と申します。昨晩は娘を守っていただいたそうで……」

 おばさんには眉がなく、びっくり人間みたいに髪が長い。身長よりも長いだろう。びっくり人間でありながら、浮き世離れした美人だった。

 ―――うん、これは夢だな。そうでなければ、私はうっかり頭蓋を割ってしまい、今は病院の集中治療室にいる。お医者さんたちが頑張って私の頭蓋の中へ、こぼれ出ててしまった脳みそを詰め直しているところだ。がんばれ、お医者さん。私を救え!

 私は清子夫人ににこにこと頭を下げ、太ももをつねった。痛い。

「あれ?」なぜ痛い?

「いかがしました?」

「――いや、痛いです」

「でしょうね」

 清子夫人は、自分の足をつねってねじっている客をあまり刺激せぬように、笑顔になった。

「困ったな」

「お困りですか?」

 夫人は、自分の足をつねっては勝手に悩んでいる客人に、一層笑顔を輝かせた。

「あの、ここどこですか?」

「左京の二条、藤原中正が邸宅ですが?」

「あ、番地じゃあなくて、土地……地名っていうか」

「地名……? 葛野でしょうか?」おう、知らねえ。

「えっとその、何年ですか?」

「天徳三年です」

 知らないと言いたいところだが、聞いたことがある。確か、藤田さんが壬生忠見のことで話していた年号だ。

『天徳内裏歌合、天徳四年にやったやつ。百人一首に載ってる平兼盛と壬生忠見が歌った、皇室主催の平安時代最大の歌会だよ。そりゃあ豪華な宴で、左右に分かれて赤、青のそれぞれのチームカラーで着飾って、貴族が応援に入ったの。紅白歌合戦の先祖ってとこだね。二人の恋歌の勝敗を審判が決められなくて、最後は天皇陛下が決めたって話。でも、それがあんまり悔しくて、壬生忠見は病気になって死んじゃったそうだよ。百人一首もこの華々しい二人の名勝負を意識して、この歌合わせに出た二首をわざわざ載せているんだ』

「平安時代!」

 私は叫んだ。そして周囲にひかれた。

「困ります!」

「そうでしょうね」

 夫人は根気よく笑顔を作った。錯乱した客人が落ち着くのを気長に待つ構えだ。

「だって、私、藤田さんに謝らないと!」

 客人の錯乱はしばらく収まりそうにない。夫人は輝くばかりに微笑んだ。

「何事ですか、お母様」

「時姫」

 時姫? ああ、昨日のお姫様か。

「え」

 振り向いた奥の簾から、見覚えのあるちっちゃい顔が覗いていた。

 昨日時姫と呼ばれていた女性は、貴族のたしなみとして殿方に見られぬように顔を隠していた。だから、私は今初めてその顔を見たわけだ。しかし、その顔は――

「うえ、藤田さん!?」――のそっくりさん。それが時姫?「……藤田さん?」

 私が確認するように指さしたが、貴族然としたその女の子は首を傾げた。

 そういえばこの藤田さん、本物より一回り小さい。それではやっぱり――

「……時姫さん?」

「はい」

「えっと……」藤田さんと同じ顔、これはどういうことだ? 論理的に考えるなら――やっぱり夢だな。そんなの、ありえない。そういえば、夢の中では今までに一度も見たことのない顔は出現しないのだと、聞いたことがある。夢には覚醒時に自分の肉眼で見たものしか出てこない。ここに来て一気に夢である可能性が強まったわけだ。

「……時姫さん」

「はい」

「ちょっと、私のこと、ひっぱたいてもらえますか?」

「はい?」

「叩いてください」

「いいんですか?」

 時姫さんは怯えを含めて私を見つめた。

「私は、紀伊様を恩人と思っておりますし、その方のお願いならば、聞いて差し上げたいのですが……」

「いいんです。重要なことなのでお願いします。つねるくらいでは起きないみたいなんです。自分では目が覚めるほど痛くぶてないんで、どうか強めにお願いします」

 私は頭を下げた。藤田さんに会いに行かねばならない。悠長に逃避的な夢で、藤田さんと同じ顔をした姫といちゃついている暇はないのだ。

「……痛いですよ?」

 時姫さんは、腹を決めたように私の頬に紅葉のような愛らしい手を添えた。

「是非とも、お願いします」

 頼んでから、私はふと考えた。藤田さんだったら、殴ってくれと言う相手に手加減などするまい。そう言われた瞬間、相手の顎もしくは頬骨を砕くことこそわが天命と勝手に納得して、顔骨を割りに来るだろう。それこそが彼女なりのおもてなしであると確信している。果たしてそっくりな顔をしたこの姫はどうなのだろう? 腫れるくらいはかまわないが、夢だとしても、顔を割られるのは嫌だなあ。

 ふと見つめた振りかぶった時姫さんの目は、何やら強い使命感を帯びていた。無駄に確信を持った時の藤田さんの顔だ。

「あ、ちょっと待って」

 バチン。

 ぎゃぶ。

 藤田さんもとい時姫さんは、容赦なく頬骨を割りに来た。衝撃に揺れた私の意識は、しばし暗転した。


 改めて目覚めても、天井は寝殿造りだった。

「……おはようございます」

 改めて見上げても、女房装束に身を包んだ三人の女性に囲まれていた。

 清子夫人や時姫さんはいなくなっていた。貴族然としたお二人に比べると、目の前の方々は、どちらかというと庶民側の人間に見えた。

「お加減はいかがですか?」

「昨日は盗賊に行き逢い、さぞ恐ろしい目にあったでしょう。先ほどまでかなり取り乱していたと聞きました」

「えと……」そうなっているのか。いや、そうしておこう、正気の状態で自分を散々つねった挙げ句、ぶってくれと懇願したとあっては、誤解が次の階層に進んでしまう。

「一重も奪われてしまうとは、お気の毒に」

「お召し替えをいたしましょう」

「さあお立ちになって」

 女性たちは口々に言った。私は彼女らに引き立てられるようになって、不承不承立ち上がる。三人の女性は手慣れた様子で、角盥や髪結い道具の載った二階棚を引き寄せてかしずいた。どうも彼らは、いいおうちにしかいないお手伝いさんとか、メイドさん的な方々のようだ。

「……?」

 女性たちは空港の身体検査のように私の服を探った。不審者を調査しようという試みであろう。わが人生を振り返ってみて、不審者と成人君子のどちらに属するかと言われれば、前者に傾く。私は黙ってボディチェックを受けた。

「ああ、こうなっているのですね」

 腰の辺りを探っていた一人が納得したように頷いた。

 はて、何を納得したのだろう?

「よいしょ」掛け声とともに私の制服のスカートが引き下ろされた。

 寝殿造りの豪奢な建物に、私の裏返った悲鳴が響き渡った。


 小袖を着て、長い袴を着せられた。清子夫人のお古だそうで、服には平民には不釣り合いないい匂いが焚き染められている。

「あのような一重にも足りぬ服でさぞお恥ずかしかったでしょう」

 年長のおばさんが、気の毒そうに言った。

 口には出さないが、人生での恥ずかしさのマックスは、さっきスカートを引き下ろされた時である。私は今までの経緯を思い出しながら、真っ赤になって服を着せられた。恥ずかしいが仕方がない、自分でやると言うには構造を知らなすぎる。

 着せられているうちに、さらに数人、小、中学生くらいの女の子がころころと部屋を覗きに来た。客が珍しいのだろう、興味深そうに私を観察している。

「しかし幸運でしたね、検非違使の方が見つけてくださらねば、今頃売られるか、冷たくなっていたでしょう」

 家政婦のおばさんが、私の襟を合わせながらそう言った。

「しかも、助けてくださったのは、あの、壬生様なのですって!」中学生くらいの子が身を乗り出して言った。

「壬生?」壬生狼? 新選組ですか?

「いやだ、壬生少尉忠見さまよ。ご存知ないの?」

 その名前を言った途端、女性陣はおばさんも含めてきゃあと叫んだ。

 なんだこれ、どこのロックスターが来日したの?

 周囲の反応を観察しているうちに小袖の上に一重を着せられ、さらにその上から四、五枚重ねて袿を着せられる。なんだかマトリョーシカの中身になった気分だ。平安の服は重い。十二単ともなると二十キロ近く増量するらしい。この重さはおしゃれと言うより少年漫画の修業に近い。

「……人気ですね、壬生さん」

「それはもう、あの方の歌には、うっとりしてしまうもの」

「壬生様の歌をお聞きになれば、心あるものは獣や虫とてあはれを感じずにはおられないでしょう」

 釈迦クラス! 歌人恐るべし。

「それに、あの颯爽としたお姿、宴の松原での競馬は忘れられませんわ、検非違使の中でも武勇に秀でていらっしゃる」

姫たちは完全にアイドルを語る、女子になっていた。

「昨日も十人からいる盗賊を葦のごとく切り倒されたとか!」

「まさか、せいぜい五、六人だったし、本人は喘息で……」

 半笑いで口を開こうとしたが、刹那、目の前が真っ暗になって、鉄の爪が閉じる映像が頭をよぎった。いかん、下手なことを口にすると、プライドの高い検非違使に頭骨の薄い部分を割られてしまう。私は口をつぐんだ。

「どうされました?」

「いえ、別に」

 私はテンジクネズミのごとく小刻みに震えながら、喘息の件を省いた壬生忠見の活躍を語ることにした。

「お強いのですね」乙女たちは、満足そうに頷いた。

 平安女は見る目がないな、口封じのために乙女にアイアンクローする男だぞ。

 ええと、つまり、今は平安時代で、年号は天徳、天徳は天徳内裏歌会が行われた年号で、壬生忠見はその歌会で負けて、失意のまま病気になって死んだそうだ。だが、壬生忠見はまだ死んでいないし、気落ちするどころか、乙女にアイアンクローをかけている。つまり、歌会はまだ行われていないらしい。まあ、そこら辺の前後関係が分かったところで、私に何か得があるわけではないんだけど。


「――御免」

 ん?

「御免」門の方から声がする。

 謝っているのでなければ、訪問者だな。

「あ、お客さんみたいですよ」

 周りに声をかけたが、家政婦さんたちは耳を澄ました後、わたわたと顔を赤くしてとんでもないと手を振った。

「? いや、出ないと……」

 言っているうちに家政婦さんは、一人二人と用事を思い出したというそぶりを見せて立ち去ってしまった。子供たちも蜘蛛の子を散らすように去っていく。そして誰もいなくなった。どうしたことか? 平安女は極端なあがり症なのだろうか?

「誰かおらぬか?」

 外からは困ったような声がしている。まずいな、注意しといて私が居留守を使うというのは非常に体面が悪い。

「はーい」私は長い袴をまくって、部屋の出入り口になっている格子の外に出た。

「ごめ――?」

「はい、どなたで?」

 私は裸足で庭へ出て、門からひょっこりと顔を出した。

「壬生忠見と申す」

 ロックスターもとい、きょとんとした顔の壬生忠見がいた。

「なんでお前が出てくる?」真っ当なご意見。

「なんか、みんなロックスターに会うのが恥ずかしいらしくって」

「ろっく?」壬生は不審な顔をした。

「何か御用で?」

「ああ、昨日の報告だ、俺には盗賊が時姫様の牛車を狙って襲ったように思えてな。賊どもを少し締め上げてみた」

 壬生は顔を寄せて、息のかかる距離で私の表情をうかがった。

「な、何か?」

 近い、顔近い。

 私は顔をのけぞらせた。

「銭をもらって時姫様を襲ったようだ、しかし、銭さえもらえば何でもする輩だ。顔を隠した男に金をもらったので、言うとおりに姫をさらったと言うばかりで、誰に指図されたか全く分からなかった」

「嫌ですねえ、そういう人」

「お前は違うのか?」

「へ?」馬鹿にするな。と、怒るほど銭を拒む人間ではないけれど。

「おかしいではないか、賊は初めから時姫様が狙いだった。それなのに、なぜお前はあの場にいた? 奴らには渡来人をさらっている暇などなかったはずだ」

「ですねえ」私は頷いた。

「お前は何だ、賊の仲間か?」

「い、違いますよ」

 え、この人、私を誘拐団の仲間だと疑っているの? 冗談じゃあない。

「ならば何だ」

「えっと……渡来人?」

「この国に何をしに来た? お前のような無芸無学の人間が海など渡れるはずがない」

 失礼な人だな。君に私の何が分かるのさ、私は憤慨した。壬生忠見の言葉は、色々と的を射ていたからこそ言葉の刃は私にぷすぷす刺さり、私は頭にきた。

「わ、私だって、昔はちゃんとできたんです、でも……」

 私はうつむいた。胸を張って言えることではないが、それ以外はさらに無芸だ。

「何ができるというのだ?」

「……絵が描けます」

 私は声を細らせた。藤田さんの顔が浮かんで鼻がつんとした。

「ほう、ちょうどいい」

 壬生は片眉を上げて私を見つめた。

「これから時姫様にお会いする。それですべてはっきりするはずだ」

「……?」私は自分の記憶を探り、美術館で藤田さんが言っていたことを思い出した。

『藤原時姫』

 それは、藤田さんの家にあった、あの掛け軸を描いた女性の名前だった。



「時姫様にお会いになられるのですか?」

 壬生が家政婦さんに声をかけると、彼女はしばし壬生の顔に見とれた後、困った顔をした。

「おらぬのか?」

「いいえ、本日は外出の予定はございません、ただ……」

 ただ?

「今日は大和絵の講義を受けておりますので、あまりうるさくなされぬほうがよいかと」

「ほう、相覧様が来ているのか、ちょうどよいではないか」

 何かたくらんだ顔をして壬生が言った。

「そうらんさんって?」

「東寺の僧侶なのですが、大和絵の名手でもあります。それに――」家政婦さんはそっと口に手を添えて、私に顔を寄せた「とても怖いお方です」

「…………」芸術系の先生って、怖い人は際限なく怖いんだよなあ。

 人類は自らを正義と思い込んで振り下ろす鉄槌と、相手のためになると振り上げる鉄拳は手加減をしない。よって愛の鉄槌は、喧嘩の時のそれより痛い。私は自分の実体験を思い出しつつ、テンジクネズミのような目で壬生を見た。

「今日はやめない?」

「馬鹿を言え、こんな良い状況がほかにあるか」

 恐ろしい絵画教師の存在に喜ぶ君は変態か? 私は、ずんずん廊下を進む壬生の横顔を睨んだ。

「人ん家の習い事の時間に踏み込むなんて、無神経だと思います」

 私は常識を盾に取り、壬生に文句を言った。

「ふん、両方昔なじみだ。いくら俺でも、藤原の家でそこまで型破りはせぬ」

「知り合い?」だからと言って人様の家を我が物顔で歩いていいことにはならんと思うよ。

 壬生は私の制止も聞かずに、勝手知ったる様子で廊下を進み、奥の一室を開けた。

きゃっという声がして、時姫ちゃんが顔を隠した。かわいい。

 そして――

「馬鹿者が!」

 衝撃波とともに叱責が飛んできた。

 声量豊かな叱責は、打ち上げ花火のような衝撃をはらんでびりびりと私の骨格を揺らした。

 まるで木乃伊みたいに骨ばった僧形の老人が部屋の中央にいる。そして、その後ろには巨大な虎が描かれた屏風、怯える私には、もはや虎が吠えたのか、老人が怒鳴ったのか判然とせぬ。

 ――逃げたい。

 そう思い、後ろに下がろうとする私の肩を壬生忠見ががっしりとつかんだ。

「巨勢相覧殿もご健勝でなにより。てっきりもう、仏の許に行っていると思いましたよ」

 ごつ。

 私にしては、至極俊敏に壬生忠見の膝を蹴っていた。

「何をする!」

 ちょっと待て、お前こそ何を言っておる、あれだぞ、これがあのあれの、こここここ巨勢相覧だと?

「こせのおうみって、巨勢相覧?」

 私は石膏像のような動きをして、部屋の奥にいる皺に覆われた老人を指さした。

「何を言っておる、奴のほかにそんな坊主がいるものか」

「平伏しなくていいの? 五体投地のほうがいい?」

「絵師風情に頭を下げる必要があるか?」

 黙れ、歌人風情。

「あなた、源氏物語読んだことないの?」私は小声で言った。

「なんだそれは? どこの源氏だ?」

 壬生は呆れた顔をした。この様子では、源氏物語はまだこの世にないらしい。

『この竹取の絵は巨勢の相覧の筆で、詞書きは貫之がしている。紙屋紙に唐錦の縁が付けられてあって、赤紫の表紙、紫檀の軸で穏健な体裁である』源氏物語の『絵合』の一節だ。ここの『貫之』は、古典の授業でもやる『土佐日記』の作者であり、三十六歌仙の紀貫之。百人一首の三十五番目の人。

 想像するに、巨勢相覧という方は光源氏みたいに地位も家柄もある最高位の貴族が所蔵するような絵を描く人の代名詞だったのだろう。文学といえば紀貫之、絵師と言えば巨勢相覧、といった具合の有名ブランドだったのではないだろうか? つまり、平安の最高峰の絵師といって過言ではない。

「何をこそこそとしておる!」

 私がまごまごするうちに、衝撃波の二発目が飛んできた。

「おお、この渡来人、大和絵を学びに来たそうだ。是非とも相覧殿の弟子になりたいと申してな、腕を見てやってほしい」

 そう言って、壬生はにやりと笑った。

「な!」何をほざくか!

 私は速攻で逃亡を図ったが、十五キロ増になった服ごと猫の子のように壬生に吊り上げられた。

「本当ですか!」

 それを聞いた時姫さんは声を上げた。

「本当だ。絵の技術も一級品だと自分で言っている」

 部屋の奥で時姫さんの目が光った。この顔を私は現代で見たことがある。面白い玩具を発見した藤田さんの顔だ。期待を帯びた熱っぽい視線を感じる。こんな状態のことを四文字熟語でなんと言ったかな。そう、四面楚歌。

「―――弟子、だと?」

 猛禽類に似た老人の睨みが私を射た。気弱なうさぎさんだったら、もうストレスで吐血しているだろう。

「ひい」私は身をすくませた。

 相覧は立ち上がると、どすどすと私の前に歩いてきた。

「本気で言っておるのか?」

 イヤイヤイヤ、大和絵の創始者にそのようなことを。滅相もない!

 私は首を振って取り消そうとした。

「す――」いません、私のような虫が絵画の道を進むなどとほざいて申し訳ありません。金輪際絵にかかわることなく石の下でダンゴムシっぽく鰓呼吸して暮らします。

 ――とは言えなかった。

 時姫さんが藤田さんと同じ顔で残念そうに私を見つめているのが目に入ったからだ。私の言葉は止まった。


『本当に残念だわ』


 藤田さんの言葉が脳裏に響いた。

 え、私、千年さかのぼって、もう一度藤田さんに失望されるの? それってあんまりじゃあないか?

 す―――――――。

「す――きですよ、絵画」私の馬鹿!

「娘の習い事のつもりか?」

「ち、違います」私は震えながらもなんとか踏みとどまった。

 小袿姿のいいところは、厚着なため、両脚ががくがくに震えていても誰にもばれないところだ。私は何とか人類の尊厳としての二足歩行を保った。

「学ぶ気があるのか? なら学を見せてみろ」

「学?」数学? 化学?

「詩をそらんじてみろ、手習い娘との差はそこであろうからな」

「し?」

 平安時代で歌と言えば短歌、長歌。詩と言えば漢詩。文字は漢字と平仮名の両方ある時代だけど、公文書は漢文でないといけない。公務員にとっては当然の教養ではあるが、女性は学問から遠ざけられる時代だ。学者の娘でもなければ、女性はそうそう漢詩を扱えたりしない。

「いや……私、授業で漢文選択してないんで……」

「知らぬか」

「はい」

「ならば用はない、帰れ」

 相覧は、にべもなく背中を向けた。

 時姫さんは、やっぱりがっかりした顔をした。

「やれやれ、腕を見てもらわねば、検分にならんのだがなあ」

 私に盗賊疑惑をかけている検非違使は、困ったように頭を掻いた。

「わしの知ったことか」

「検分はせぬ、俺のために屏風を描くこともせぬ、つかえぬじじいだ。貫之殿が名を売る手伝いはしたくせに」

 紀貫之は屏風歌の名手でも有名。屏風歌は基本的に先に絵の制作が行われ、それにしゃれた歌を付けて完成する。あくまで、良い屏風絵があってこその屏風歌だ。貫之が歌人として有名になったのは、屏風歌の流行が大きく背中を押したそうだが、それも良い絵師あってのことだろう。

「ふん、絵師くらい自分で探せ」

 相覧は興味を失ったように、元の円座に座った。

「当代一の絵師ともなれば余裕だな。だが、先代は越えられたか?」

 壬生は相覧の後ろにある虎の屏風を顎で指した。

 ほうほう、見事な虎だな、先代というと巨勢派の初代、巨勢金岡の作か、さすがだなあ、あの虎の目のなまめかしさといったらまるで人間――――。

 鑑賞モードに入った私は、ふと頭の中をよぎった月夜に吠える虎に息を止めた。

「壬生忠岑の坊主が言うことか、貴様こそ――」


「あああ!!!」


 私は叫んだ。

「私知ってる! ちゃんと漢詩、知ってたよ藤田さん!」

 誰だ、ふじたさん。と相覧が常識的なことを訊いたが、受け流した。

「漢詩、知ってます。歌えます」

 私は勢いのまま言った。

「……何だ? 白氏か?」

 壬生が疑わしそうに訊いた。

「あつしです」

「?」

 中学の国語でやった。教科書では定番の小説らしい。

「言ってみろ」

 相覧も不機嫌そうに言った。

 私は一息に知っている漢詩を歌った。

「 たまたま狂疾に因りて殊類となる  災患相重なりて逃がるることできず

  今日の爪牙誰かあえて敵せん    当時の声跡ともに相高し

  我は異物となる蓬茅の下にあり   君はすでに軺に乗りて気勢豪なり

  この夕べ渓山にて明月に対して   長嘯を成さずしてただ嘷ゆるを成す 」


 中島敦の『山月記』に出てくる漢詩だ。主人公は自分の才能を過信して人生を棒に振る男、俊才李徴。彼のことは他人とは思えず、私は大掃除で古い教科書を見つけるたびにこれを読み返していた。近々では、藤田さんも敦のファンだと知り、敦の全集まで買って読んだ。

 それに、山月記自体は中国の人虎伝を元にした物語なので、中国文化の影響の強い平安人にはよく理解できるもののはずだ。

「な……馬鹿な、わしは歌のために漢詩も余すところなく学んだ。しかし、こんな歌は知らんぞ」

 つまらなそうに聞いていたはずの壬生が、一転して慌てたように言った。良い気分である。

「即興で作ったとでもいうのか? だがそれにしては……」

「――美しすぎるな」

 相覧は、壬生が言わずにおこうとした言葉を引き取って言った。

「ぬう……」それを聞いた壬生は、腕を組んで不機嫌そうに口をつぐんだ。

 はてさて、自分の歌が平安の壬生忠見を黙らせたと知ったら、李徴さんはどんな顔をするのだろう?

 壬生が慌てたのが楽しかったのか、相覧は高らかに笑った。私もつられてへへへと愛想で笑ったら壬生に鼻をつままれた。

「よかろう、腕を見てやる」

 相覧は口を引き締めて、私に筆を差し出した。


「――ひどいな」

 相覧は私の描き上げた絵を見て言った。

「それは、絵の心得がないということか?」

 壬生が横から顔を出して絵を覗いた。

「貴様は顔を出すな!」

 相覧は手近にある筆を取って壬生の頭を叩いた。完全に悪ガキへの対応だ。

 時姫さんがそれを見てくすくすと笑っている。

 なんだか仲がよさそうだな。この二人。

「ひどいのは中身だ。人間性が空っぽだ。見れたものではない」

 中身がだめだと言われたら、人としてなんか終わりっすね。わたくし外見の資本は元よりございませぬし。

「だがな――」

 相覧は改めて私の絵を見下ろした。

「これは一時期に何百枚と集中して描いた者の絵だ、見事な土台ができておる。この娘が習いたいというなら、わしには断る理由はない」

 え。

「私に教えてくれるんですか?」巨勢相覧が?

「礼なら自分の師匠に言うんだな、お前のようなでくの坊によほど目をかけていたのだろう」

「…………」

 私は絵画教室の先生を思い出していた。

 陽気なお酒のみだった。先生が陽気に一日で十枚二十枚とざくざくデッサンを描くので、幼児の私はそれが普通なのだと思って見習っていた。絵にさして興味もない阿保の子供をその気にさせられたのだから、教え方もかなり熟練したものだったのだろう。

 先生の元を離れてからは、あまり良い教師に恵まれなくて、私は少しずつ絵から離れていった。もしこのまま絵を描くのをやめてしまっても、あの先生だけは嫌いになることはないだろう。

 私は手を合わせた。お酒のみの先生の寿命はあまり長くはなかったから。

「――うれしい」

 後ろから時姫ちゃんが抱き着いてきた。いけない、私には藤田さんが。

「先生の弟子で女は私一人だったの。殿方とは意見を交わすことも難しいし、うれしいわ」

 彼女が首筋に頬肉を擦りつけてきたので、そのすべらかな柔らかさに、私は正気を失いかけた。

「これ、時姫殿。下々の前ですぞ」

 相覧にたしなめられて、時姫ちゃんは慌てて顔を隠した。

 下々代表の壬生は、憮然として胡坐を組んでいる。

「皆さんは、お知り合いなんですか?」

 私はさっき壬生が言っていた言葉を思い出して訊いた。知り合いだと言ってはいたが、僧侶と貴族と検非違使。あんまり交流があるとは思えない。

「私のお母様は、幼少より藤原定方様に歌を習っておりました。私ははじめ定方様の子の朝忠様に絵と歌を習っておりました」時姫ちゃんが答えた。

 誰それ?

「先年亡くなったが、紀貫之ら『古今和歌集』撰者の支援者だ、和歌に限らず全ての芸術を愛する方だった」

 巨勢相覧が説明した。

 ああ、その定方さん、ご本人も百人一首に載っておられる人、二十五番『三条右大臣』。ちなみに息子さんも百人一首に載っている『中納言朝忠』。四十四番。

 壬生忠見は『古今和歌集』の撰者の壬生忠岑の息子で、巨勢相覧は屏風歌の名手である紀貫之と親交が深かった。当時の定方さんの家は平安の芸術家サロンといったところだったのだろう。

「定方様は才のある者は老若男女分け隔てがなかった。こやつらのことは赤子の頃から知っておる、手のかかる餓鬼どもだ」

 相覧は二人を見回した。

「はい、兄妹のように育ったものです」

 時ちゃんはそう言って袖で顔を隠し、ほほを染めた。

 ははあ。そういう関係ですか。

 私も相覧さんにならって、姫とロックスターを見比べた。