大学のキャンパスの外れにぽつんと立つ文学部四号館の四階にある、四十四番資料室。妖怪学徒を名乗る絶対城阿頼耶先輩の住処であり、学生の間では怪奇事件相談所として知られるその陰気な部屋を気弱な依頼人が訪ねてきたのは、六月中旬、梅雨入りを控えた火曜日の夕方のことだった。

 つまり、ダイダラボッチ伝説にまつわる御場島の事件が主に織口先生の活躍によって収束し、晃さんがあっさり資料室を去ってから一月余り経った後である。

 ダイダラボッチの一件が終わった直後、あたし、湯ノ山礼音は、絶対城先輩に「これからは勝手に付いていく」と宣言した。あたしとしてはそれなりに決心した上での発言だったのだが、その後先輩との関係性が変わったかと言えば、全くそんなことはなかった。

 あれ以来、先輩やあたしが大きな事件に巻き込まれていないこともあってか――それ自体はありがたいことなのだが――先輩は今まで通りにぶっきらぼうだし、資料室の居心地は変わっておらず、ついでに言うと杵松さんはいつも優しい。居慣れた空気ではあるのだが、しかし。

 とまあ、そんなことをぼんやり考えながら四号館に向かったところ、扉の前に見知らぬ女子が立っていたのだ。誰だろうと思うのと同時に、その女性は足音であたしに気付いたようで、振り返ってこちらを見つめた。

 身長百六十センチ弱、黒髪セミロングで童顔の女子学生である。体型はほっそりしておりやや猫背、長い前髪で額から眉までを隠している。蒸し暑い季節だというのに長袖のカーディガンとロングスカートにストールを身に付け、手には狐色のバッグを提げていた。美人と言えば美人だが陰気な印象を与えるその女子は、あたしを見つめて……と言うか、見上げて、言葉に詰まってしまった。

 ちなみにあたしの見てくれは、身長百六十九センチで凹凸少なめの痩せ型、ショートカットでタンクトップでホットパンツにスポーツサンダル。合気道で鍛えているおかげで、腕も脚も拳もギュッと引き締まって硬い。あからさまに体育会系なあたしの風貌は、見るからにおとなしめの文系女子には威圧感があったようだ。別に怖くはないですよ、と心の中で弁解しつつ、あたしは「あの」と口を開いた。こっちから話しかけた方が早そうだ。

「ここにご用ですか? あ、ここって言うのはこの四号館のことです」

「え、ええ、はい……。その……こちらの関係者の方ですか?」

「関係者? どうなんだろう。でも、ここにいる人の知り合いではありますよ。あたしは経済学部二年の湯ノ山礼音です。あなたは?」

 あたしが四号館の関係者なのかどうかはよく分からないが、今はこの人のことを聞くのが先だ。と、セミロングの女子は言いにくそうに目を泳がせ、小さな声を発した。いかにも女の子らしい高い声だったが、途切れ途切れなので聞き取りにくい。

「文学部一年の葛木葉子です……。実は、ここにいらっしゃる方が、その……よ、妖怪のお祓いをしてくれると聞いたんですが……本当ですか?」

 微かな声が四号館の前に静かに響く。不安げな表情や振る舞いで見当は付いていたけれど、やっぱりそういうお客さんだったか。納得しつつあたしはうなずく。

「ええ、まあ。絶対城先輩は――あ、ここにいる人の名前なんですが――その本人は、お祓いじゃなくて、伝統に則った方法で退散させるだけって言ってますけどね。それで葛木さん、どういう……?」

 どういった怪異に悩まされているんですか、と尋ねるあたし。言いにくかったら無理しなくていいですよと言外で伝えつつ問いかけると、葛木と名乗った女子は細い左腕を右手でぎゅっと掴み、ぼそりとこう告げたのだった。

「……『狐憑き』です」


***


「私の左腕に、狐が取り憑いているんです」

 四十四番資料室の奥、妖怪学の資料を満載した本棚に囲まれた応接スペースにて。革張りソファに腰掛けた葛木葉子さんは、それはもうおずおずと切り出した。

「ほう。狐憑きか」

 バリトンの効いた相槌がすかさず響く。声の主は、葛木さんの向かいに座った長身で痩せぎすの青年だ。この部屋に居付いた妖怪学徒にして怪奇事件と妖怪の専門家、絶対城阿頼耶先輩である。端整で色白な顔を長い前髪で隠し、ワイシャツに黒いネクタイ、黒い羽織を袖を通さず肩に掛けている。例によって怪しい姿だが、あたしにとってはすっかり見慣れた出で立ちだ。普通の格好をされると逆に落ち着かない。

 で、あたしはと言えば、二人分のコーヒーを出し終えた後、やることもないのでお盆を持ったまま先輩の隣に立っている。相談に口を挟むこともできないので、先輩と葛木さんとをちらちら見比べていると、先輩はじろりとあたしに横目を向けた。

「気になるからじっとしていろ、ユーレイ」

「すみません」

「ゆ、幽霊……?」

「ああ、失敬。こいつの仇名だ。湯ノ山礼音なので、姓名の最初の字を取ってユーレイというわけだ」

 簡潔にあたしのニックネームを葛木さんに説明する先輩である。その呼び方を承諾したわけではないですからね、とあたしは思ったが、じゃあ名前で呼ぶとか言われてしまうとそれはそれで大変気恥ずかしくてやりづらいので、反論は控えておく。というわけであたしが落ち着くと、先輩は葛木さんに向き直り、骨張った細長い指を組んで言った。

「それで、狐憑きと言ったが」

「は、はい」

「具体的にはどういう症状が出ている? また、どうして狐憑きと判断したのかについても聞かせてほしい」

「……ええと、その――信じられないとは思うんですが……」

「それを判断するのは君ではなく俺だ。そもそも狐憑きは、古来より広く語られる著名な怪異だが、故に、伝えられる様相のバリエーションは極めて広い。実態を確認しなければ手の打ちようも何もないんだ。君に何が起こり、なぜ君は狐憑きと思ったのか。それをまずは聞かせてほしい」

 淡々と、あくまで冷静に。落ち着いた声が資料室に静かに染み入っていく。よく通る重低音での語りに、葛木さんはこくりとうなずき、砂糖とミルクを入れたコーヒーを一口飲んだ後、ややあって口を開いた。

「……私の家の庭に、古いお稲荷さんがあったんです」


 それからしばらく、先輩とあたしは葛木さんの説明に黙って耳を傾けた。

 曰く、葛木さんの家は山陽出身の資産家で、お屋敷の庭の隅には古い稲荷社が設けられていたのだそうだ。いつからあるとも知れないその小さなお社を、葛木さんのお祖父さんとお祖母さんは「お狐様」と呼んで大事にし、狐の好物とされる油揚げを供えたりしていたとのことだ。

 だが祖父母が亡くなり、葛木さんのお父さんが家長になると、「お狐様」の扱いがおろそかになった。きちんと祀らないと「お狐様」は人に取り憑いて祟られる。そう祖父母から聞いていた葛木さんは不安がったが、合理的な性格の父親は相手にせず、昨年、家を改築する際に、お社を取り壊してしまった。

 葛木さんの身体に異変が起こったのは、それからしばらく経った頃である。左手が勝手に動いたり、あるいは動かそうとしても動かなかったり、それに油揚げが急に欲しくなったり……。

「……やっぱりだ、って思ったんです。これは、『お狐様』の祟りだ、って」

 左腕をぎゅっと押さえたまま、葛木さんはぼそりと言った。

 伏せられた顔はこの上なく弱々しく不安げだったが、無理もない。自分が悪いわけでもないのにそんなことになったら、そりゃあ落ち込むし暗くもなるだろう。不幸な身の上話に、あたしはすっかり葛木さんに同情していたが、先輩は顔色一つ変えていなかった。相変わらず冷血で平静な妖怪学徒は、冷めたブラックコーヒーを静かに飲み、「成程」と静かに言った。

「確かに狐憑きのようだな。適切に祀られなかった狐が当事者の家族に祟る話は、何例も記録されている。また、体が勝手に動いたり動かなかったり、嗜好が変わったりというのは、狐憑きの典型的な症状だ。不便だろうな」

「は、はい……。おかげで、落ち着ける時がなくって……。今は大丈夫ですが」

「ふむ。体のコントロールが奪われるタイミングは不定期というわけか。他には?」

「あと……どう言えばいいのか、その、左手の皮の下を、何かが……『お狐様』だと思うんですが……這うような感触が、何度か……。こう、ずるずる、って動いているのが、分かるんです……!」

「それは――」

 葛木さんの悲痛な説明に、あたしの背筋がぞくりと冷えた。皮膚の下を異物が這い回るなんて、気味が悪いなんてもんじゃない。これはもう今すぐ何とかしてあげるべきだろう! あたしはそう訴えながら先輩をキッと見たのだが、先輩はその視線に気付いているのかいないのか、落ち着いた態度のまま再度うなずき、口を開いた。

「皮膚下を移動する感触も狐憑きの症例としては有名だからな。事情は分かった」

「あ、ありがとうございます。よろしくお願いいたします……! お礼はきちんと」

「いや。俺には扱いかねる」

 絶対城先輩の冷徹な声が、葛木さんの言葉を遮った。

「……え?」

「へっ?」

 面食らった葛木さんと、驚くあたしの声が重なって響く。ここまで聞いておいて、これは狐憑きだって先輩も言ったのに、どうして断っちゃうんです……? 理解できずに葛木さんと顔を見合わせるあたし。葛木さんも当惑している。と、先輩は念を押すように首を横に振り、よく通る声を再度発した。

「聞こえなかったのか? 俺はこの依頼を受けないと言ったんだ」

「え? で、でも、私、もう頼るところがなくて」

「ならば病院に行くことを薦める。話は以上だ。お引き取り願おう」

「で、でも……!」

「お引き取り願う」

 葛木さんの懇願を、先輩の冷たい声がきっぱり撥ね付ける。落ち着きを保ちながらも有無を言わさぬ頑なな語調に、あたしは口を挟むことができなかった。


***


「どうして追い返しちゃったんですか? 可哀想じゃないですか」

 葛木さんがとぼとぼと立ち去った後、資料室の奥にある畳敷きのスペース。絶対城先輩の生活空間でもあるその場所で、あたしは部屋の主に食って掛かっていた。

 座椅子に陣取った先輩は、文机の上で和綴じの古本を開いている。その態度はあくまで平静で、何の感情も感じられない。あたしは先輩の真横に正座し、ドライな横顔をキッと睨んで言葉を重ねた。

 先輩の知識があれば相談に乗ってあげるくらいはできるはずなのに、あっさり帰してしまうのはあまりにひどい。狐憑きとは思えないならそう言った上で、解決法を模索するべきだとあたしは思う。向こうは先輩を頼ってきたわけで、であればせめてもう少し話を聞いてあげるべきではなかったか。おとなしい女の子が勇気を出して相談に来たのだから、応えてやるのが年長者の務めであり、云々。懇々と言葉を重ねていると、先輩は本に視線を落としたまま面倒そうに溜息を吐いた。

「よくもまあ、会ったばかりの相手にそこまで同情できるものだな」

「だって葛木さん可哀想じゃないですか」

「相変わらずほだされやすい奴だ」

「何ですその言い方。ほだされやすくてすみませんね」

「別に恥じ入ることじゃない。それはお前の美点の一つだと俺は思っている」

「あう」

 不意打ちめいたコメントに、あたしの顔がかっと熱くなった。だから、そういうことをいきなり言うのは卑怯だと思うんですけども! 赤くなった顔を見られないよう視線を逸らすと、あたしはもごもごと声を発した。

「同情したってのもあるんですけど……それより、分からないんですよ」

「何がだ」

「先輩が葛木さんを相手にしなかった理由です。『狐憑き』って妖怪の起こす現象で、だったら妖怪学の守備範囲ですよね?」

「それはそうだ」

 ドライな声がけろりと応じる。和綴じの本を読み続けながら、黒衣の妖怪学徒は「先にも言ったが」と言葉を続けた。

「狐は本邦の代表的な妖怪の一つだ。動物系統の妖怪の中では最も著名と言ってよく、歴史も長いし資料も多い。その狐が起こすとされた怪異現象は極めて幅広いが、大別すると三種類に分けられる。分かるか」

「えーと」

「『化ける』『化かす』『憑く』だ。今野圓輔の唱えた分類法だな」

 相槌と同時に先輩が答を口にした。相手の回答を待たずに話を進めるのは、長文解説モードに入った証だ。どうやら先輩、きちんと説明する気になってくれたらしい。それはありがたいですが、話し相手の言葉は聞くべきだと思いますよ、ほんとにもう。そんなことを思いつつ姿勢を正している間にも、先輩の話は先へと進む。

「『化ける』は狐が己の姿を変貌させることを、『化かす』は幻覚や幻聴などで非現実的な状況を現実だと誤認させてしまうことを言う。昔話に出てくる狐の行いはこの二つに大別できると言っていい。『狐飛脚』のように、変身や幻覚以外の不可思議な力を使う話もあるが、事例は少ない」

「きつねびきゃく? 脚が綺麗な狐ですか」

「そっちの美脚じゃない。飛脚、昔の郵便配達のことだ。異様な速度で手紙を届ける飛脚がいたが、その正体は狐だったという話だな。そして、『憑く』は文字通り、対象となる人物に狐が憑依する状態を指す」

「それが狐憑きってことですね」

「そうだ。古代中国伝来の『化ける』『化かす』に比べると比較的新しい怪異であり、成立したのは近世以降だが、時代が近いが故に記録も事例も数多く、それに比例して研究も多い。さて、この狐憑きを大きく分けると二種類になる。人格が変わるパターンと変わらないパターンだ。葛木葉子の場合は後者だな」

 もうあたしに聞きもせず話を進める先輩である。さらに調子が出てきたようだ。

「ちなみに人格変異型の狐憑きが起こると、憑依された人物は平常心を失い、狐として振る舞うようになる。恒常的か一時的かは場合によるが、狐の意思を体現もしくは言語化する点は共通している。この場合の狐は、被害者やその家族に対して恨みを持っているか、あるいは自分を神として祀るよう命じる事例が一般的だ。嘉永五年の奥州の事例など、粗末に扱われたことを怒るというパターンも多いな」

「それ、葛木さんと同じじゃないですか。お稲荷さんを粗末にしたから祟られたって言ってましたよね?」

「そうだな。ついでに言っておくと、嗜好が変わってしまい、狐の好物とされるものを欲しがるのもよくあるパターンだ。油揚げや赤飯を求めるんだな」

「それも葛木さんの言ってたやつですよね……?」

「ああ。ちなみに、人格不変型の狐憑きの場合だと、体の一部に狐が取り憑き、その部分の自由だけが奪われる。葛木の訴えていたのはこの症状だな。皮膚と肉の間にいるという話も多く残っており、代表的なところでは『甲子夜話』に……」

 一定間隔で本のページをめくりつつ、先輩が言葉を重ねていく。さすが妖怪学徒、相変わらず詳しいことだ。そしてよくもまあ本を読みながら喋れるものだ。ひとしきり感心した後、あたしは眉をひそめた。

 ここまでの話を聞く限り、葛木さんの訴えた内容は、伝承の狐憑きと一致している。「そんな狐憑きがあるか」ってことならまだしも、その逆なのに受けなかった理由がさっぱり分からない。いつもだったら興味津々で聞き入るはずなのに。

「つまり、葛木さんの症状は伝統的な狐憑きってことですよね……?」

「ああ。そう言えるな。絵に描いたような狐憑きだ」

「だったら尚のこと、どうして追い返しちゃったんです? 狐憑きかどうか、確かめる方法が伝わってないんですか?」

「馬鹿を言え。事例の多さは対処法の多さとほぼイコールだ。狐の憑依を確認する手段は何例も残っている。狐の嫌うとされるものを蒲団の下に入れて反応を見るというのが一般的だな」

「へえ。狐って何が嫌いなんです? ハンターとか?」

「そんなものが蒲団の下に入るか。墓の苔や干し蛸、スルメなどだ。あとは、人の唾を食事に入れて食べさせ、騒いだら狐が憑いている――という手もあるな」

「うわ。それは狐じゃなくても生理的に嫌ですね――って、確かめられるんじゃないですか。じゃあ追っ払い方が分からない?」

「それについても、馬鹿を言え、だ。狐の落とし方は日本中に伝わっている。ざっと説明するだけでも一時間は掛かるが、聞くか?」

「気になりますがまたの機会でお願いします。と言うか、確かめる方法も追っ払う方法もあるんですよね? だったらどうして依頼を受け――」

「狐憑きへの対応なら、妖怪学より適切な学問があるからだ」

 あたしが質問を言い終える前に、バリトンの効いた声が断言した。あたしを納得させない限りゆっくり読書できないと悟ったのか、小さな溜息とともに本が閉じられ、前髪の下の鋭い双眸がこちらを向いた。

「狐が人に憑く話は、確かに数多く記録されている。だが、そもそも狐とは何だ?」

「えっ? えーと――犬みたいな動物ですよね」

「そうだな。イヌ科に属する哺乳類だ。狐は世界中に分布しているが、日本に生息しているのはアカギツネの亜種であるホンドギツネとキタキツネの二種だけ。では、その特徴は?」

「ええと……黄色くて、山にいて、尻尾が太くて、鼻がシュッとしてて、耳が立ってて、鳴き声はコンコンで、あと可愛い」

 あたしの把握している狐の特徴を、指折り数えて口にする。よく知っている動物のつもりだったが、案外数が出てこない。これくらいですかね、と視線で伝えると、先輩は小さくうなずいてくれた。とりあえず合格らしい。

「若干主観が混じっていたが、そんなところだな。付け加えるなら、犬と比べると眼球の白目が大きく、猫のような瞳をしている点くらいか。それと、実際の狐はコンとは鳴かないぞ。実際の鳴き声は『ヒャン』や『ギャン』に近い」

「へえ、そうなんですか。じゃあどうしてコンコンが定着してるんです?」

「諸説ある。別の動物の声を狐の鳴き声と誤認したとか、『来む』から連想されたとか……。繁殖期の狐の鳴き声は『コン』と聞こえることもあるそうだから、それが一般化したという話もあったな」

「相変わらず何でも知ってますねー。で、それがどうしたんです?」

「あの動物が人に取り憑くか?」

 疑問に疑問が返ってきた。え、と面食らうあたしを見返し、先輩は腕を組んで「考えてもみろ」と続ける。

「狐はイヌ科の哺乳類、実体を持った動物だ。人に憑依することはない」

「いや、それはそうでしょうけど――でも、先輩、今色々教えてくれましたよね」

「あれはあくまで『そういう話が伝わっている』というだけのこと。実際に起こったとは言っていないし、俺もそう思ってはいない。狐憑きと言うから誤解されやすいが、人格の変異や心身の不整合と捉えればこれは明らかに脳神経科や心療内科の領分だ」

「まあ……そう言われると、確かに」

「分かるだろう。専門的に言えば実験的認識論や精神医学の分野になるんだが、ともかく妖怪学徒の出る幕ではないし、出るべきでもないんだ。精神医学の進歩していなかった前近代ならいざ知らず、今の時代は適切な専門家がいくらでもいる」

「つまり、先輩は妖怪学の人であって、医者じゃないってことですか?」

「正解だ」

 あたしの問いかけに先輩が深く首肯する。ああ、この長い説明はそういうことか。ようやく分かってきたあたしを前に、先輩は息を吐いた。

「やっと理解したか。狐憑きは言ってしまえば脳の異常か心の病。葛木と深く話さず追い返したのも、妖怪学のジャンルからの下手な助言や解説は当人の思い込みを補強するだけだからだ」

「昔は狐のせいにしてたけど、今はそうじゃないって分かってるから……?」

「ああ。もっとも、江戸時代の時点で、狐憑きイコールある種の心身症として扱われていた節もあるんだがな。実際、近世の記録には狐憑きを『乱心』や『狂気』と同じカテゴリで扱っているものもある。さらに言うならば、狐憑きのみならず、狐に由来するとされた怪異はほとんどが科学的に説明できるんだ。これについては井上円了も明言している」

「井上円了って、妖怪学を始めた人ですよね」

「そう。怪異を科学的に解き明かす学問『妖怪学』を提唱した人物だ。あらゆる妖怪の正体について禁忌を恐れずに網羅した幻の大著――『真怪秘録』を編纂すべく、この部屋の資料を集めた一門の代表でもある」

 古びたノートや紙片や論文、覚書や和綴じ本や巻物などなどが満載された本棚を、あたしに続いて先輩がしみじみと眺める。尊敬する人物の話題だからか、口調が妙に誇らしげで、少し可愛いとあたしは思った。言わないけど。

「狐の起こす怪異の多くは、明治時代には既に幻覚や幻聴として説明されていた。『狐は人を化かしたり人に取り憑いたりする』という話が一般化していたおかげで、脳科学的に起こり得る症状が狐のせいにされてしまったというのが、円了流の解説だ」

「それ、真怪秘録に載ってるんですか?」

「普通に一般向けの著作に載っている。別に隠すような説でもなかったんだろうな。公表されていないバックデータや、それを踏まえてまとめた覚書もこの部屋にあるが、特に目新しい情報や知見は無かったと記憶している。読むか?」

「多分理解できないのでお気持ちだけで結構です」

 素直な思いを口にしつつ、苦笑して頭を掻くあたし。先輩はやれやれと肩をすくめ、「以上だ」と話を終えようとしたが、そこでじろっとあたしを睨んだ。

「――お前。納得していないな」

「え? わ、分かります?」

「顔を見れば分かるし、そんな顔をされたままだとこっちも居心地が悪い。この際最後まで付き合ってやる。釈然としない理由は何だ。全部言ってみろ」

「そ、そんなぐいぐい来ないでくださいよ。近いし! え、ええとですね……先輩が狐憑きへの対応を受けない理由は、とりあえず理解できたんですよ」

「じゃあどこが引っかかっているんだ」

「狐憑き扱いされた症状のことです。体が勝手に動くとか動かないとか、人格が変わっちゃうとか……そういう事態って、そんなあちこちで起こるものなんですか? 知識としては知ってますけど、滅多にないことだと思ってましたから……」

「起こるんじゃないかなあ。人間の脳って結構勘違いしやすいし」

 ふいに後ろから響いた親しげな声が、先輩の代わりにあたしの問いに応じた。振り向くと、本棚の陰から眼鏡の青年が現れるところだった。

 水色のシャツに腕まくりした白衣を重ね、明るい色の髪は短く、表情は柔和で穏やかだ。絶対城先輩の貴重な友人であり、理工学部の四年生、杵松明人さんである。お菓子の入ったエコバッグを下ろした杵松さんは、「興味深い話題だね」とあたし達に笑いかけると、部屋の隅の炊事スペースへ向かった。

「コーヒー淹れるけど、要る?」

「あ、いただきます」

「俺の分も頼む」

 ほぼ同時に応じるあたしと先輩。同じ道具と豆と水を使っているはずなのに、なぜか杵松さんが淹れると味が全然違うのだ。杵松さんは「了解」と優しく微笑み、使い古した薬缶に水を入れて火に掛けた。

「ちょっと待っててね。あ、お茶請け買ってきたから良かったら」

「いつもすみません。それで杵松さん、今の話ですが」

「ああ、脳は勘違いしやすいって話? これは本と講義の受け売りなんだけど……」

 手慣れた様子で戸棚からフィルターやコーヒーを出しながら、杵松さんが応じる。と、杵松さんはそこで一旦言葉を区切り、部屋の主である友人に目を向けた。眼鏡越しの視線を向けられた先輩は無造作に小さくうなずき、それを見た杵松さんは軽く微笑み、口を開く。「僕が説明していいのかな?」「任せた」「オッケー」とかなんとか、そんな会話を無音で交わしたのだろう、多分。

「湯ノ山さんは、脳の機能は分かるよね。五感が知覚した情報を整理・判断して、人体を動かすのが脳だ。この器官は、ざっくり分けて約三十個の情報処理系統モジュールから成り立っているわけだよね」

「わけだよねと言われても初耳ですが……そうなんですか?」

「僕の知ってる限りでは。で、このモジュールのどこかにエラーが起こると、現実を把握する能力や、体の統制機能が上手く働かなくなってしまう。しかもモジュール構造は結構複雑だから、エラーは割と起こるんだ。スピードや色だけが認知できないとか、風景は理解できても人間の顔かたちを認識できないとか。人格を統一管理する機能がエラーを起こすといわゆる多重人格になるし、右半身と左半身が反発し合った事例もある。これらはどれも、過去だったら『狐憑き』って言われた事例なんだ」

「へえ……。でも、どうしてそれが狐の仕業にされちゃったんですかね」

「心理的防衛機構だろうね。人間の脳――心には、現実を受け入れたくない時に、都合の良い理由を作り出して信じ込む働きがあるんだよ」

 しゅう、と薬缶が蒸気を噴いた。お湯が沸いたようだ。少し沸き立たせた後、杵松さんは火を止めた。お湯を冷ましつつ、慣れた手つきでフィルターに粉を入れつつ、杵松さんが先輩に同意を求める。

「だよね阿頼耶」

「反動形成や否認と呼ばれる現象だな。自己評価を危うくする事物を隠すために無意識に嘘を吐いたり、明白な事実を認めなかったりするわけだ。分かるか」

「え? えーと、それは分かりますけど、だからつまり……?」

「だからさ湯ノ山さん。人間って誰でも、自分の状態が正常じゃないってことは認めたくないんだよ。でも心と体は正直だから、どこかが悪い以上、体が動かなかったり、言動が普段と変わったりする。そうなった時、自分はまともだと思い込みたい人間は原因を自分以外のものに求めるんだよ。不調の理由を押し付けられるモノは何かないだろうか、ってね。そこで出てくるのが」

「あっ、そういうことか! そこで狐なんですね」

「正解。心身は強くリンクしてるから、心が『これは狐の仕業だ、狐憑きだ』って決めると体も続く。結果、いかにも狐憑きらしい症状が起こったりするわけさ」

 穏やかな口調で説明しながら、杵松さんは粉を敷き詰めたフィルターに優しくお湯を注いだ。コポコポとリズミカルな音が響き、コーヒーのいい香りが漂い始める。もう分かったろう、と声を発したのは絶対城先輩だ。

「あの依頼人、葛木葉子の場合も、おそらく明人の語ったパターンだ」

「つまり――左手に不調が起こる、自分以外の原因を探す、稲荷社のことに思い当たる、これは狐のせいじゃないかと発想する、間違いないと決めつけてしまう、より狐憑きらしい症状が起こる……ってことですか?」

「そういうことだ、ユーレイ。であれば、伝承通りの症状が出てしまっていることも納得できる。祖父母が稲荷社を祀っていたなら、その手の話を聞いていても不思議ではないからな」

「しかも全ては無意識下で起こったことだから、本人には分からない」

「明人の言う通りだな。この状況で他人が葛木の説を認めてしまうと、彼女の思い込みを補強することになってしまう。だから俺は彼女を追い返したんだ」

「へえ……なるほど……!」

 絶対城先輩と杵松さんのテンポよく交代しながらの解説に、あたしはしみじみうなずいた。丁寧な解説ありがとうございます。二人に向かって頭を下げると、杵松さんは「どういたしまして」と笑ってくれたが、先輩は顔をしかめてあたしを見た。

「それはまだ完全に納得していない顔だな」

「な、何ですか、その決めつけ! あたしどんだけ聞き分けないんですか」

「別に責めているわけじゃない。で、どうなんだ。違うのか」

「いやまあ……違わなくもないですが……。人間の心って、そんな思い込みやすいものなのかな、って」

「頭の固い奴だな。明人がモジュール構造の話をしたろうが」

「専門的すぎてストンと納得しづらいんですよ」

「手品や詐欺がずっと続いてるのは何でだと思う。人は思い込みやすいからだ」

「それはそういうプロがいて、そういう技術だからでしょ? 話が違うと思います」

 先輩を見返して反論するあたし。先輩はそろそろ説明するのに飽きたのか、億劫そうに肩をすくめた。自分で話を振っておいて面倒がらないでほしい。と、そこに杵松さんがコーヒーカップ三つとお茶請けのクッキーの載ったお盆を持って割り込んだ。

「はいお待たせ」

「どうもありがとうございます」

「ああ――そうだ、丁度いい。明人、お前そこに座れ」

 湯気を立てる愛用のカップを受け取りつつ、先輩が杵松さんにぞんざいに命じる。文机にカップを並べた杵松さんは、いいけど、とうなずいてあたしの前に座った。

「で、何をするんだい?」

「心身の不安定さを示す実験だ。ユーレイのような奴には、理論より実践が手っ取り早いからな」

「実験? いいですよ、そんな大げさな。コーヒー冷めちゃいますし」

「安心しろ、すぐ終わる。ユーレイはそこで正座していればいい。ああ、カップは机に置け。明人はユーレイと向かい合って座ってくれ」

「ああ、ゲシュウインドの実験だね。了解」

 杵松さんが悪戯っぽく微笑み、あたしと向き合って座り直した。親しい人の見慣れた顔だが、真っ正面でお見合いすることはあまりないので結構照れる。「よ、よろしくお願いします」「こちらこそ」などと挨拶していると、先輩はカップを文机に置き、あたしの右隣に寄り添って座った。これまた近いので恥ずかしい。だが先輩は、目の前の後輩の照れなど気にもせず、無造作にあたしの右手を取って――低い体温が伝わってくる――「目を閉じろ」と告げた。

「俺が良いと言うまで開けるな。いいな」

「え? ま、まあ、良いですけど……変なことしないでくださいよ」

「俺を何だと思っているんだ。断りもなくそんなことはしない」

「じゃあ許可したらやるんですね……」

「……うるさい」

 先輩は恥ずかしげにつぶやくと、あたしの右手を持ち上げた。目を閉じているので見えないが、体が動くのは分かる。と、右手の指先が何かに触れた。あたしの顔より少しだけ高い位置で、尖って硬くて温かい。

「これ……杵松さんの鼻ですか?」

「正解。ちょっとくすぐったいね」

 杵松さんの苦笑が響く。同時に、あたしの鼻の頭に冷たい指先が触れた。ひゃっ、と自然に声が漏れる。この指先の体温からして、これは……。

「先輩ですよね?」

「ああ。分かっていると思うが、俺は今、お前の手を明人の鼻に当てさせ、なおかつ自分の左手でお前の鼻に触れている。そして――」

 そこで黙り込むと、先輩はモールス信号のような不定期なリズムであたしの手を振り、杵松さんの鼻の頭を軽く叩き始めた。同時に、あたしの鼻先に触れた先輩の手も同じタイミングで動き始める。トン、トトトン、トン、トントトトン……。不定期なリズムが指先と鼻の頭に繰り返し響く。これが何なんだと思ったが、数十秒それを続けているうちに、不思議な感覚が湧き上がってきた。

「……え? あ、あれ? これって……」

「どうだ。右手で自分の鼻を叩いているような感じがしないか」

「それか、右手を伸ばした先に自分の鼻があるような気がするかも」

「た、確かに……! そのどっちもです……何これ?」

 絶対城先輩と杵松さんの問いかけに、あたしは目を閉じたままうなずいた。何だこれ、ものすごく気味が悪い! その反応が狙い通りだったのだろう、先輩は「分かったか」と告げて手を止めた。

「右手の指先が他人の鼻に触れるタイミングと、自身の鼻に他人が触れるタイミングが一緒であることから起こる、一種の錯覚現象だ。こんな簡単な実験で自他の境界が不安定になってしまう程、人間の脳と心は危ういという好例だな」

「なるほど……! 今度こそ納得しました。ところで先輩」

「何だ」

「あたし、いつまで目を閉じていればいいんですかね……?」

「はあ? もう開けて良いに決まっているだろう。馬鹿かお前は」

「そ、そんな言い方しなくてもいいでしょう! 良いって言うまで目を開けるなって、先輩自分で言ったじゃないですか」

 呆れかえった声を受け、あたしは目を開いて食い下がる。そのやりとりを前に、杵松さんは自分のカップを取り、心底微笑ましそうにうなずいたのだった。

「いつもながら、厚い信頼関係だね」

「違う」

「そういうのじゃないと思います」


***


 その翌週の金曜の夜、大学から少し離れたところにある、和食のお店の個室にて。

「何度頼まれても、俺の返事は変わらんと言っているんだがな……」

 絶対城先輩はやれやれと重い溜息を吐き、羽織の下の華奢な肩をすくめてみせた。なかなかお疲れのご様子だ。先輩の向かいに座ったあたしは、先輩の隣の席の杵松さんと少しだけ顔を見合わせ、溜息の主へと向き直った。

「ってことは、葛木さん今日も来たんですか」

「この顔を見れば分かるだろう」

 くたびれた口調で言い放ち、先輩は半球形のグラスを取って冷酒を飲んだ。

 先輩が先週追い返した「狐憑き」の葛木葉子さんは、あれから何度も狐落としの依頼に四十四番資料室を訪れていた。あたしが顔を合わせたのは三、四回だが、聞くところによると毎日必ず……どころか一日数回来ているらしい。絶対城先輩はその度に追い返しているのだが、葛木さんが諦める気配はないとのこと。追い返すしかない相手の度重なる訪問と懇願は、ずっと資料室にいる先輩にとっては結構なストレスになっているようで、最近の先輩は明らかに参っていた。バリトンボイスに張りがないし、元々良くない顔色はいっそう悪い。あたしよりよっぽどユーレイだ。

 だったら一時的に資料室から離れれば良さそうなものだが、この妖怪学徒は本質的に出不精なので自分から外に出ることはまずない。見兼ねた杵松さんは疲れた友人を食事に誘うことを思い立ち、ついでに賑やかしとしてあたしにも声を掛け、ここに赴いたのであった。

 このお店、あたしはまだ三回目だが、先輩と杵松さんにとっては来慣れた場所らしい。淡いブルーの半袖開襟シャツ姿の杵松さんは、手慣れた様子でサラダを取り分けながら、隣席の友人に苦笑を向けた。

「なかなか根気のある人なんだね、葛木さん。見た目は気弱な文学少女っぽいのに」

「根気と言うか、あれは意固地なんだろうな。自分の左手には狐が憑いており、それを俺なら落とせると信じ込んでしまっているんだ」

「ちなみに阿頼耶、葛木さんの左手が勝手に動くところは見た?」

「一度も見ていない。そして、本人の主張する異変が第三者の前では起こらないというのは、虚言や狂言の特徴の一つだ。彼女の場合は意図的に嘘を吐いているわけではないだろうから、そこを糾弾するわけにもいかないんだが……」

「とにかく断るしかないんじゃないですか? 妖怪学の領分じゃないよ、病院行った方がいいよって言い続ければ、葛木さんだって諦めると思いますよ」

「世の中、お前みたいに割り切った判断ができる人間ばかりじゃないんだ。葛木は明らかに出来ないタイプだし、諦める気配がないどころか、日に日に熱心になっている。昨夜は父親を連れてきて、二人がかりで説得されたんだぞ」

「父親? それって、葛木さんの家のお稲荷さんを壊した人?」

「ああ。地味な中年男性だった」

 やれやれと言いたげにうなずく先輩。カレイの煮付けを例によって綺麗に食べながら、くたびれた顔の妖怪学徒は再び重たい溜息を落とした。

「曰く、私の不徳の致すところで娘に狐が憑いてしまった、貴方は実績のある方と聞いているから狐を追い払ってほしい、金は言い値を出す――とのことだ」

「阿頼耶は、出来ることはないって言ったんだよね」

「言った。むしろ心療内科の領分だとも明言した。葛木本人にも何度も説いているんだが、それを踏まえたのだろうな、葛木の父親は診断書まで持ってきた」

「診断書ですか?」

「医者に見てもらったが医学的に悪いところは見つかりませんでした、という内容だ。そういう結果が出ることだってあるだろうが、だからと言って妖怪学で解決できるわけではないし、こっちに振られても困る。狐憑きが心身症として診断・治療された例も幾つか挙げたんだが、『娘におかしいところはないのだから、これは狐の仕業に決まっている』の一点張りで、結局ずっと平行線だ」

「じゃあいっそ、四号館に鍵掛けちゃうとか? ほら、あの建物って先輩が大学に貸してるわけですし、それくらいは」

「無茶を言うな。あそこは仮にも大学の施設であり資料室なんだぞ。学問の自由の観点からして、万人に門戸を開くのは当然だ」

 きっぱり言い切る先輩である。それは大変立派なポリシーだとは思うが、資料を求めてくる人なんか見たことないし、先輩がどんどん疲弊していくのを見るのは実際辛い。あたしは唐辛子の天麩羅を頬張ると、どうしたものかと首を捻った。

「純粋に困ってる人の対応って難しいですよね……。葛木さんが力任せにお祓いを頼んでくるような相手だったら、追い返しようもありそうなのに」

「やあ、湯ノ山さんらしい発想だね」

「お前ならそう言うと思った」

「二人ともあたしのこと馬鹿にしてません?」

「誤解だよ。ね、阿頼耶」

「ああ。お前の単純明快な思考回路は実際羨まし――」

 杵松さんに先輩が同意した時、黒い羽織の内側からくぐもった振動音が響いた。携帯電話に着信があったようだ。会話を中断して携帯を取り出した先輩は、液晶画面を見て心底げんなりとした顔をした。察した杵松さんが問いかける。

「葛木さんかい?」

「ああ。父親の方だがな。どこで番号を知ったのか……」

 杵松さんにうなずき返した後、先輩は少しだけ逡巡し、電話に出た。無視してもまた掛かってくるのが分かっているのだろう。お疲れ様ですと視線で告げた先で、「絶対城だが」と声が響く。

「繰り返しになるが、貴方の娘の狐落としを行うつもりはない。妖怪学に携わる者として安易な怪異認定は行えないと、俺は何度も説明したはずだ」

 意志の強さを感じさせるきっぱりとした声が、料理屋の個室に染み入っていく。疲れてはいながらも毅然としたその態度に、あたしは思わず見入っていた。相当うんざりしているはずなのに、声を荒げないのは凄いし偉い。あたしだったらキレている。

 葛木さんのお父さんが反論しているのだろう、先輩の電話からは低い男性の声が漏れ聞こえてくる。邪魔するわけにはいかないので杵松さんともども黙って見守っていると、先輩は首を横に振り「それは聞いた」と疲れた声を発した。

「だから、狐は単なる哺乳類で、怪異を為すことはないと言っているだろう。貴方の娘の場合も心因性の――何? 医者に代わる?」

 先輩の語りが止まり、電話から漏れる相手の声が別のものへと変わった。先ほどより若い感じの男性の声だ。簡単なあいさつを済ませた後、先輩は続ける。

「貴方の書かれた診断書は拝見した。いや、貴方を疑っているわけではない。失礼ながら経歴や実績は調べさせてもらったからな。怪しむべきところはなかったが――ああ、俺が妖怪を祓ったり退散させたりしていることは確かだ。ただ、それはあくまで妖怪学の一環として研究目的で行っているもので、引き受けるのは古来の対処法が有用であると考えられる場合に限っている。何でもかんでも受けるような、そこらの除霊屋と一緒にされては心外だ。そして妖怪学を踏まえた上で言うならば、狐憑きは一種の心身症である可能性が極めて高く――何?」

 ふいに先輩の声調が変わった。電話の向こうの医者が長く語っているのだろう、先輩は時折相槌を打つだけで、聞き手に回っている。そうしてしばらく相手の話に耳を傾けた後、先輩は息を大きく吐いてうなずいた。

「……分かった。儀式の日時は追って伝える」

 意外な答が静かに響く。え、受けるんですか? 驚くあたしが見つめる先で、先輩は「伝承通りの狐落としには相応の準備が必要だ。用意が整ったら連絡する」と言い足して電話を切り、それはもう大きな溜息を落とした。同時にあたしが口を開く。

「先輩、受けちゃったんですか?」

「説得されたみたいだけど、何を言われたんだい? はい、とりあえずどうぞ」

「それが――ああ、すまんな」

 杵松さんがそっと差し出した冷酒を、堅く細く白い指が受け取る。一息でぐい呑みを空にした後、先輩は自嘲気味に肩をすくめ、口を開いた。

「『騙してやってほしい』そうだ」

「騙す……?」

「ああ。医者曰く、明確な診断結果こそ出せなかったが、医者の勘からして葛木葉子の症状はまず間違いなく心因性のものである。彼女は狐が腕に取り憑いていると信じ込んでしまっており、この場合、最適な対処法は『狐が腕から出て行く』と思えるような体験をすることだ。悪く言えば騙すわけだが、葛木が稲荷の祟りを信じている以上、医学的な処置よりもオカルトが有効であるから、医者としても伝統に則った狐落としを頼みたい――とまあ、そんなことを言われた」

「なるほど。それで引き受けることにしたと」

「妖怪学をオカルトと一緒にされるのだけは心外だったが、主張は理解できたからな。何度も何度も依頼に来られることを思えば、これでカタが付くなら御の字だ。それに何より、彼女を助けてやってほしいとああまで熱心に言われると……」

 そこで言葉を区切ってやれやれと首を振り、先輩は手酌でお代わりを注いだ。しみじみと冷酒を呷る先輩を前に、あたしは杵松さんと顔を見合わせた。

 まあ、先輩の性格的に、相手の言い分に納得したから依頼を受けたってのは嘘じゃないだろう。厄介払いをしたかったのも本音だとは思うが、オッケーした最大の理由は、どうやらそこじゃなさそうだ。

「先輩、要するに、葛木さんに同情しちゃったわけですか……?」

「みたいだね。阿頼耶、何だかんだ言って優しいし、面倒見もいいから」

「ですよね。ぶっきらぼうで適当な癖に、妙に責任感あるし」

「だから僕は阿頼耶が好きだよ。湯ノ山さんもそうだろ?」

「です――って、あ、この『好き』はそういうのじゃないですからね」

「はいはい」

「うるさいぞお前ら。そういう話は当人のいないところでやれ」

「す、すみません」

 呆れた先輩にじろりと睨まれ、慌てて口をつぐむあたし。一方の杵松さんは「了解」と嬉しそうに黙り、あまり反省していなさそうな顔を隣の友人へと向けた。

「ともかく、狐落としをやることになったわけだよね。大丈夫なの?」

「その手の呪法や儀式は山ほど伝わっているからな。適当なところを見繕えば、それらしい形に仕上げることは可能だが……それだけでは足りないな」

 ふいに先輩の声のトーンが切り替わった。あからさまに億劫そうだった態度と表情が一変し、やってやろうじゃないかと言いたげな不敵なオーラが溢れ出す。それを見た杵松さんは、悪戯を持ちかけられた少年のような笑みを浮かべ、だよね、と力強い相槌を打った。

「狐が確実に出て行ったって思わせなくっちゃいけないもんね」

「そういうことだ。意志に反して動かなかった左手が、儀式を経て動くようになる。そういう状況を作る必要があるんだが、どうすればいいものか」

「それなら一つアイデアがあるよ」

「早いな。さては明人、ずっと考えていただろう」

「まあね。実は、この間のゲシュウインドの実験の時から思い付いてたんだけど、阿頼耶が依頼を受けなかったからさ。でも、やるとなれば話は別。具体的には――」

 杵松さんが熱心に伝え、先輩がふんふんとうなずきながら興味深げに聞き入る。顔を近付けて語り合う二人を前に、あたしは思わず苦笑していた。なんだかんだ言っても、二人とも、インチキのお祓いを仕掛けるという行為自体が好きなのだろう。

「まあ、そうでもなけりゃ続けてないですよねー……」

 感心二割、呆れ八割くらいの声が自然と漏れる。馬鹿にしたような言い方を咎められるかなと思ったが、先輩と杵松さんの耳にはあたしのコメントは全く届かなかったようで、二人は狐落としの仕掛けについて熱い討論を続けていたのだった。

 相変わらず仲のよろしいことで。