大学卒業後、地方の小さなシステム開発会社に就職した高坂賢吾は、入社からちょうど一年が過ぎた頃、聞けば誰もが首を傾げるような理由で会社を自己都合退職した。それからほぼ一年おきに同じようなことを繰り返し、職場を転々としているうちに、ふと精神を病んだ。しかし本人に病の自覚はなく、ひどいときは呼吸さえ億劫になるほどの憂鬱も、ふとした瞬間に頭をよぎる死の誘惑も、夜中わけもなく溢れ出てくる涙も、すべては冬の寒さのせいにすぎないと考えていた。

 二十七歳の冬のことだ。思えば、奇妙な冬だった。いくつかの出会いがあり、そして別れがあった。幸福な偶然があり、不幸な事故があった。大きく変化したものがあり、まったく変わらなかったものがあった。

 その冬、彼は遅すぎる初恋を経験した。相手は一回り近く年下の少女だった。心を病んだ失業中の青年と、虫愛づる不登校の少女。何から何までまともではなくて、しかし、紛れもなくそれは恋だった。



         *


「終生交尾?」と高坂は訊き返した。

「そう。終生交尾」少女は肯いた。「フタゴムシはその半生を、パートナーと結合したまま過ごすの」

 少女はキーホルダーを取り出して高坂の目前に掲げた。

「これがフタゴムシだよ」

 高坂は顔を寄せ、キーホルダーをじっと見つめた。デザインは簡略化されていたが、それが二対の翅を持った生物を模したものであることが見て取れた。前後の翅で形が異なり、前翅は後翅の三倍ほどの大きさがあった。一見すると、ただの蝶のようだ。

「こんな美しい姿をしてるけれど、扁形動物門単生綱に属する立派な寄生虫なんだ」

「ただの蝶のように見える」

「よく見て。触角がないでしょ?」

 少女の言う通り、その生物には触角がなかった。単にデザイン上の都合で省略されただけとも取れるが、彼女にとってそれは重要な違いらしい。

「これは、二匹のフタゴムシがX字状に癒着した姿なの」

 少女は両手の人差し指を交差させてその様子を表現した。

「終生交尾というからには」高坂は穏当な表現を選んで言った。「癒着後は、常に交接の状態にある、ってこと?」

「ある意味ではそうだね。それぞれの雄性生殖器官を、相手の雌性生殖器官と繋げている状態」

「それぞれの?」

「うん。フタゴムシは、一個体が雄の生殖器官と雌の生殖器官の両方を持ってるの。雌雄同体ってやつだね。だから、本来なら交尾相手がいなくても自家受精を行えるはずなんだけれど、なぜかそうはしない。苦労してパートナーを見つけ出して、互いの精子を交換する」

 高坂は苦笑いした。「贅沢な話だ」

「一人でもできることをあえて二人でする、っていうのが憎らしいよね」と少女は同意した。「でも、見習うべきところもあるよ。たとえば、フタゴムシはパートナーを選り好みしない。まるで一目惚れが宿命づけられているかのように、生まれて初めて出会った相手となんの疑いもなく結合する。それに、フタゴムシはパートナーを最後まで見捨てない。一度繋がったフタゴムシは、二度と互いを離さないの。無理に引き剥がすと、死んじゃうんだ」

「それで、『終生交尾』か」高坂は感心して言った。「すごいな。比翼の鳥みたいだ」

「そう。まさに比翼の鳥、連理の枝」少女は身内を褒められたかのように誇らしげに言った。「おまけに、この寄生虫は鯉に寄生するんだ」

「コイ?」

「そう。恋に寄生する。できすぎた偶然でしょ? さらにつけ加えると、鯉に寄生することに成功したフタゴムシは、二十四時間以内に目玉を捨ててしまう。恋は盲目、ってわけだね」

「恋は盲目」と彼は声に出して繰り返した。「君の口から、そんなロマンチックな言葉が聞けるとは思わなかった」

 少女はそれを聞いてふと我に返ったように目を見開き、少しの間を置いて顔を伏せた。

「どうしたの?」

「……よくよく考えると、生殖器官がどうとか交尾がどうとか、あまり人前で話すような内容じゃなかったね」彼女の頬はうっすらと紅潮していた。「馬鹿みたい」

「いや、面白かったよ」少女の取り乱し方がおかしくて、高坂は思わず噴き出した。「続けてくれ。寄生虫の話」

 少女はしばらく黙り込んでいたが、やがて少しずつ語り出した。高坂は彼女の話にじっと耳を傾けた。





 蛇口から流れ出る水は刺すように冷たかった。だが、悠長に温まるのを待っていられるような余裕はない。高坂は手を洗い始めた。たちまち両手は流水に温度を奪われ、感覚を失っていった。一旦水を止め、石鹸を泡立てて隅々まで入念に洗い、再び水を流す。泡が流れきったあとも、彼は手を流水に晒し続けた。二分ほど経ったところで、ようやく給湯器が自分の役割を思い出したのか、にわかに蛇口から湯が流れ始めた。冷えきった両手がじんじんと痺れ、熱いも冷たいもわからなくなった。

 水を止め、ペーパータオルで丁寧に両手の水気を拭き取る。そして痺れの残る両手を顔に近づけ、目を閉じて匂いを嗅いだ。完全に無臭であることを確認すると、調理台にあったアルコール消毒剤を両手に万遍なく塗りたくった。だんだんと、心が落ち着いてきた。

 居室に戻り、ベッドに寝転がった。真っ白なカーテンの隙間から差し込む光は弱々しく、早朝のようでもあったし、夕方のようでもあった。だがどちらにせよ、今の彼の生活において、時刻というものはあまり重要ではなかった。

 窓の外からは、子供たちの声が絶え間なく聞こえていた。近所に小学校があるせいだ。子供たちの楽しそうにはしゃぐ声を聞いていると、ときおり、息苦しくなるような悲しみに襲われた。高坂は枕元のラジオを点けて、適当な周波数に合わせて音楽を流した。ノイズ混じりの古い歌が、子供たちの声を覆い隠してくれた。


 最後の仕事を辞めてからというもの、高坂は次の働き口を探すこともせず、貯金を食い潰しながら、一日中ベッドに横たわって何か考えるふりをしていた。もちろん、実際は何も考えていなかった。体裁を繕っていただけだ。こうして僕は来たるべきときに備えて気力を蓄えているのだ、と彼は自分に言い聞かせていた。「来たるべきとき」というのがいつを指すかは、彼自身にもわからなかった。

 週に一度、買い物のためにやむを得ず外出したが、それ以外の時間は部屋に籠もって過ごした。理由は単純だ。彼は重度の潔癖症だったのだ。

 高坂が住んでいるのは、最寄り駅から徒歩二十分圏内にある、1DKの小綺麗な賃貸マンションだった。彼にとって、部屋は唯一無二の「聖域」だった。そこでは常に二台の空気清浄機が稼働しており、消毒液の匂いがうっすらと漂っていた。フローリングは新築と見紛うほど綺麗に磨かれていて、飾り棚には使い捨てのラテックス手袋やサージカルマスク、除菌用のスプレーやウェットティッシュなどが並んでいる。衣服や調度品の大半は白やそれに近い色のもので、クローゼットには袋に入ったままの新品のワイシャツが何枚もストックされていた。

 一日に百回以上も手を洗うので、高坂の手はひどく荒れていた。爪は丁寧に切られていたが、利き手の人差し指の爪だけは長めだった。これは、素手でエレベーターやATMのボタンに触らざるを得ないような状況に追い込まれたとき、皮膚で触れずに済ませるための苦肉の策だ。

 それ以外で高坂の体に清潔と言いがたい箇所があるとすれば、髪の毛だった。彼の髪はいささか長く伸びすぎていた。部屋を綺麗に保つためにも髪は短いほうがいいということは承知していたが、彼は美容室や理髪店が大の苦手で、限界まで散髪を先延ばしにする癖があった。

 潔癖症と一口に言っても、実に多様な症状がある。彼らの「不潔」への認識を掘り下げていくと、そこには不合理な信念が散見される。潔癖症を自称しているにもかかわらず自室が汚れている人などは、その典型だ。

 高坂にとって、不潔の象徴は「他人」だった。実際に汚れているかどうかより、そこに他人が関与しているかどうかが最大の問題だった。他人の手に触れたものを食べるくらいなら、賞味期限を一週間過ぎたものを食べるほうがましに思えた。

 彼にとって自分以外の人間は、細菌を培養するシャーレのようなものだ。指先で触れられただけで、そこから雑菌が繁殖していき、全身が汚染される気がする。高坂は親しい人間が相手でも手を繋ぐことができなかった――もっとも、幸か不幸か、今の彼に手を繋ぐ相手など一人もいなかったが。

 言うまでもなく、この潔癖症は、社会生活を送る上で大きな障害となった。他人を汚物そのものと捉えている者に、良好な人間関係が築けるはずもない。他人と関わり合いになりたくないという彼の本音は様々な形で表面化し、周囲の人間を苛立たせた。愛想笑いができない、人の名前を覚えられない、話し相手と目を合わせられない……挙げ出したらきりがない。

 とにかく、他人と接するのが苦痛でならなかった。会社で働いていた頃は何もかもがストレスの種で、睡眠欲以外のあらゆる欲求が消え失せていたものだった。

 ことに、飲み会や社員旅行といった社内行事は地獄そのものだった。そうした行事のあとでは、ときには帰宅後四時間にもわたってシャワーを浴び、ベッドに横たわって音楽を聴き、精神をチューニングし直さなければならなかった。そうやって、この世界には聴き入るだけの価値がある音も存在するのだということを自分に教え込んでやらないと、耳を引きちぎってしまいたくなるのだ。そういう夜は、音楽なしでは眠れなかった。

 要するに僕は人間に向いていないのだ、と高坂は自分の社会不適合について半ば開き直っていた。おかげで彼はどこの職場でもたちまち居場所を失い、逃げ出すような形で辞職することになった。

 繰り返す転職は、自分の見込みのなさをひとつひとつ確認していく作業だった。たった数年の社会生活のあいだに、自分という人間を余すところなく否定された気がした。お前は何をしても駄目なんだ、と烙印を押されたようだった。

 青い鳥を探していたわけではない。そんなものがどこにもいないことは、初めからわかっている。誰にでも天職があるというわけではないのだ。結局、多かれ少なかれ誰もがそうしているように、どこかで折り合いをつけてやっていくしかない。

 しかし、頭では理解していても、心はついてこなかった。高坂の神経は日々着実に磨り減っていき、それにつれて強迫症状は悪化していった。心が淀むのに反比例して身の回りは清潔になり、部屋はほとんど無菌室の様相を呈した。




         *


 ベッドに寝転んでラジオの音楽に耳を澄ましつつ、高坂は数時間前の出来事に漠然と思いを馳せていた。

 そのとき、彼はコンビニエンスストアにいた。両手には使い捨てのラテックス手袋を装着していた。これは潔癖症の彼にとって外出時の必需品で、特にコンビニエンスストアやスーパーマーケットのように、他人がべたべたと手を触れたものに触らなければならない場所では絶対に欠かせないものだった。

 その日もきちんと手袋をした上で買い物に臨んでいたのだが、途中で問題が発生した。ミネラルウォーターを取ろうと陳列棚に手を伸ばしたとき、突然、ちくりと右手人差し指の関節が痛んだ。見ると、皮膚がひび割れて血が滲んでいた。よくあることだ。普段から手を洗いすぎるのに加え、乾燥する時期だということも重なり、彼の手は働き始めの美容師みたいにひどく荒れていた。

 血がじわじわと手袋の中を浸食していく感触に耐えられず、彼は右手の手袋を脱いで捨てた。さらに、片手だけ手袋をしているというアンバランスな状態が気に入らなくて、左手の手袋も捨ててしまった。そしてそのまま買い物を続けた。

 レジ係をしていたのは、この店でよく見かけるアルバイトの女の子だった。髪をコーヒーブラウンに染めた愛想のよい女の子で、高坂が商品をレジまで持っていくと満面の笑みで対応してくれた。そこまでは特に問題はなかったのだが、高坂が釣り銭を受け取ろうとしたとき、レジ係の女の子は彼の手をそっと包み込むようにして小銭を彼に渡した。

 これがまずかった。

 直後、高坂は反射的に、彼女の手を振り払ってしまっていた。小銭が勢いよく床に散らばり、店内にいた人々は一斉にそちらを振り返った。

 彼は呆然と自分の手を見つめ、レジ係の女の子が慌てて「すみません」と謝るのも聞かず、小銭を拾いもせず逃げるように店を出た。そして一目散にマンションに戻り、長い時間をかけてシャワーを浴びた。それでも手に残った不快な感覚は消えず、浴室を出たあとであらためて手を洗い直したのだった。

 一通りの流れを思い返したあと、高坂は溜め息をついた。自分でも異常だとは思う。しかし、どうしても素手で肌に触れられることに耐えられないのだ。

 加えて、高坂はあのレジ係の女の子のような、女らしさを感じさせる女が苦手だった。それは女性に限らず、男らしさを前面に押し出したような男も、やはり同様に苦手だった。どちらも同じくらい、不潔な感じがした。まるで思春期に入り立ての少女のような言い草だが、事実そう感じられるのだからどうしようもない。

 子供の頃は、年を取るにつれて潔癖症も自然に治っていくだろうと思っていたが、実際はむしろ悪化の一途を辿っていた。この調子では結婚はおろか友人を作ることもままならないな、と彼は内心でつぶやいた。


         *


 九歳の頃、高坂には母親がいた。彼が十歳になる直前に、母親は他界した。事故死とされているが、高坂は未だに自殺を疑っている。

 美しい女性だった。教養豊かで機知に富み、音楽や映画の趣味もよかった。高坂の父と出会うまではエレクトーン講師をしていたそうだ。小規模な自宅教室だが評判は高く、わざわざ遠方から足を運んでくる生徒も少なくなかったという。

 彼女のような完璧な女性が、なぜ父のような凡庸な人間を伴侶に選んだのか、高坂には不思議でならなかった。控えめに言って、彼の父親は𠖱えない男だった。顔はそれぞれのパーツが噛み合っておらず失敗したモンタージュのようだったし、稼ぎは少なく、趣味はないが仕事熱心というわけでもなくて、長所らしい長所が見当たらなかった(もっとも今の高坂からすれば、「普通に所帯を持って暮らしていた」というだけで十分尊敬に値するのだが)。

 高坂の母は自分に厳しい人間で、息子にも彼女と同等の努力を要求した。高坂は物心つく前から色々な習い事を強制され、家にいるときも分単位で母の決めたスケジュールに従わされた。幼い彼は、母親というのはどこの家も皆そういうものだと思っていたので、自分の生活に疑問を抱くこともなく従順に母の言いつけを守っていた。逆らえば、裸足のまま家から閉め出されたり丸一日食事を抜かれたりするので、そうするほかなかった。

 高坂の母は、息子が彼女の期待の半分にも応えられないことに、腹を立てているというよりは困惑しているようだった。なぜ私の分身であるはずのこの子は、私のように完全ではないのか? ひょっとして、私の育て方に問題があるのではないか?

 不思議と彼女は、高坂の資質を疑うことだけはしなかった。しかしそれは親の贔屓目というよりは、歪んだ自己愛の表れというべきだろう。自分の血を疑うよりは教育方法を疑うことを選んだというだけの話だ。

 完全主義者の多くがそうであるように、高坂の母もまた綺麗好きな人間だった。高坂が部屋を散らかしたり汚れた格好で帰ってきたりすると、母は心底悲しそうな顔をした。怒鳴られたり叩かれたりするより、高坂にとってはそちらのほうがよほどきつかった。逆に、高坂が進んで部屋を片づけたり手洗いうがいをしたりすると、母は必ずそれを褒めてくれた。勉強も運動も取り立てて得意ではない彼にとって、それは母に喜んでもらえる数少ない機会だった。自然と彼は、同年代の子供と比べて綺麗好きな少年になっていった――あくまで常識的な範囲で。


 異変が訪れたのは、九歳の夏の終わりだった。ある日を境に、母は人が変わったように高坂に優しくなった。まるで今までの自分のふるまいを悔いるように、それまで彼に課していた規則をすべて廃し、愛情深く接してくれるようになった。

 あらゆるくびきから解放された高坂は、初めて味わう子供らしい自由な生活に夢中になるあまり、母の態度の急激な変化について深く考えてみようとはしなかった。

 ときどき、母は高坂の頭にそっと手を置いて、「ごめんね」と繰り返しながら彼の頭を撫でた。何について謝っているのかは計りかねたが、それを訊ねたら母に悪い気がして、高坂は黙って頭を撫でられるに任せていた。

 あとになって、わかった。彼女は、これまでしてきたことについて謝罪していたのではなく、これからすることについて謝罪していたのだ。

 一か月だけ優しい母親を演じて、母は死んだ。車で買い物に出かけた帰りに、法定速度を大幅に超えて走行していた車と正面衝突したのだ。

 当然、それは事故として扱われた。しかし、高坂だけは知っていた。その道が、ある特定の時間帯、自殺にうってつけの場と化すことを。それを教えてくれたのはほかでもない母だったのだ。

 母の葬式の直後、高坂の中で何かが変わった。その夜、彼は何時間もかけて手を洗い続けた。母の遺体に触れた右手が、気持ち悪くて仕方がなかったのだ。

 翌朝、高坂が浅い眠りから目覚めたとき、世界は一変していた。彼はベッドから跳ね起きると、血相を変えて浴室に飛び込んだ。そして何時間にもわたってシャワーを浴び続けた。この世に存在する何もかもが、汚らわしく思えた。排水溝の髪の毛、壁の縁のカビ、窓のサッシに溜まった埃、それらを見ただけでぞくぞくと背筋に悪寒が走った。

 このようにして、彼は潔癖症になった。

 高坂本人は、母の死と潔癖症のあいだに、しかし直接の因果はないと考えている。それはあくまできっかけのひとつにすぎない。あの一件がなかったとしても、いつかは別の何かが引き金となって僕を潔癖症に目覚めさせていただろう。もともと僕の中にそういう素質があったというだけなのだ。