遠くの水面に忘れ物

 十里の海が分かつ向こう

 解けぬしがらみ神に問い

 時に戸開く、時の波

 梳いて時駆る時渡り



 蝉の鳴き声が、空気全部に溶けているみたいだった。そこらじゅうに、金たわしでコンクリートをこすったような音が満ちている。目の前にある木の電信柱にも、きっと何匹か止まっているのだろう。そこからひときわ大きく鳴き声が聞こえる。

「え、それって青斗くん、もう理科のドリル終わらせたってこと!?」

 石段の上で、鈴が驚き振り返った。ドリルの最後の問題が難しかったことを僕が愚痴ったからだ。鈴はおでこに浮かぶ汗を拭おうともせずに、目を丸くしている。

「さては僕らしくないとか思ってるだろ」

「えっ! そんなことは、別に、その……、ごめん」

 お腹の前で手をもじもじとさせる鈴を追い越す。

「まぁ、確かに僕は宿題忘れの常習犯だもんな」

 学校の授業で作ったナップサックの紐を握りながら、腿を上げて石段を上る。急な石段は、体を前に倒さないと、後ろに転げ落ちてしまいそうだ。

「でも四年生になって宿題たくさんだったし、えらいよ青斗くん。夏休み始まったばかりなのに」

 今日から八月になった。今までの僕なら、夏休みはまだ半分以上残っていると喜んだだろうが、今回はそうもいかない。

「青斗くんは体育の次に、理科が得意だもんね。次はどの宿題終わらせるの?」

「日記、とか?」

「えー。それはダメだよ。ちゃんとその日あったことを書かないと……」

 先生に怒られているところを想像しているのだろうか。鈴が眉をハの字にした。

「それに、青斗くん東京いくんでしょ? そのことだって日記に書かなきゃ」

「東京?」

「ちょっと前に、お盆くらいから家族でいくって言ってたよね? お父さんが寂しそうだからって」

 僕のお父さんは、僕が四年生になると同時に転勤することになった。今は東京へ単身赴任しているのだ。

「それ、僕はいかない」

「え? たくさん泊まるから、たくさん遊べるって楽しみにしてたのに。遊園地とか、東京タワーとかいくって」

「僕は鈴といるよ」

 だって、この夏休みは鈴と過ごす最後の夏休みなのだから。

 ひと月後、鈴はこの町から引っ越す。だから僕は、この町で鈴と最高の時間を過ごさなくちゃいけないんだ。

「鈴も早く宿題終わらせなよ。そしたらさ、いっぱい遊べるじゃんか」

「そうだね。うん。頑張る」

 本当にそうしてくれるのだろうか。念を押そうか迷って、最後にはやめた。しつこく食い下がって、鈴と喧嘩になってしまっては、そもそもが台無しだ。

 石段を登りきると、土岐波神社が見えてくる。いくつかの灯籠が並んでいる先に、僕の家より大きい本殿がある。今日も細かい装飾が太陽の光を反射してキラキラしていた。

 鈴が最後の石段を登り終えると、崩れたシャツの裾を赤いスカートの中にぴっちりとしまった。

「今日も暑いね」

「うん、暑いね」

 本殿へは向かわずに、神社の敷地沿いを歩いていく。小さい山の真ん中にある土岐波神社は、町よりも少しだけ太陽に近い。

 ぼんやりと熱を持った木の柵の向こうから、しょっぱい匂いがした。

 波に寄せられたように細かい家が、海岸沿いでぎゅうぎゅうに並んでいる。漁港ではたくさんの小さな船が明日の出漁を待っていた。ここから見るとご飯粒が並んでるみたいだ。

 海は凪いでいるが、近くへいけば水面がくしゃくしゃにしたアルミホイルのようにデコボコなのを僕は知っている。

 空と海の境をじっと見つめると、吸い込まれてしまいそうになった。

 おっきな海と、ちっさな町。

 この小さい山から見える全部が、僕と鈴がずっと一緒にいた町、土岐波町だ。

「どうする? 今日は祠までいってみる?」

「うん。そうだね。なんだかここ眩しいし」

 神社の広い境内には白い色の砂利が敷き詰められている。太陽の場所によっては、下からも熱が跳ね返ってきてじりじりと痛い。

 僕と鈴は神社の裏側へと回っていった。本殿のすぐ裏には草や木で覆われた斜面がある。真ん中の草が剥げてできた地面の筋が、さらに上へ登っていくための山道に続いている。

 毎日この神社に通う近所のおばさんも、ここより上へはいかない。大人たちは、これが道なのだとは分かっていないのかもしれない。

 近づくと、草の青い匂いが鼻をくすぐった。なんだか秘密のダンジョンに踏み込むようなドキドキを、いつも感じる。

「とーくの水面に忘れ物、とーりの海が分かつ向こう」

 鈴がリズミカルに口ずさみながら、上へと登り始めた。僕もそれに続く。茂った青葉が作った影の下に入ると一瞬だけひんやりとした。

 僕も途中から鈴の歌に参加する。

「時に戸開く、時の波。といて時かるときわたり」

 鈴と目を合わせてから、勝手に僕らで作った続きを叫ぶ。

「原始時代にドッキリバッタリ時渡り!」

 町に伝わるお歌を馬鹿にするんじゃないとばあちゃんは怒るが、最後のこの大サビを叫ぶために歌っているようなものなのだ。

 けらけらと笑いながら、もう一度最初から歌い直す。

 けもの道みたいに見えるけど、時々木でできた階段があるので、それが一応道なんだと分かる。そんな山道の左右には人の気配もなくて、大声で歌い放題だ。

 二回目の歌が終わりかけた頃、坂道がゆるやかになる。

「よっ」

 わざと声に出して、道へと飛び出した木の枝を横に避ける。僕の後に続いた鈴は、その下をゆっくりとくぐった。鈴はいつも通り、スカートの裾を地面につけないように、手で押さえていた。

 そこは教室の半分ほどの広さだけ、あたりの木がくり抜かれている。地面の上には腐った葉っぱや木の枝が落ちていて、その周りはまた草に覆われている。

 石でできた祠が立っているのは、そのスペースの真ん中だ。今日も苔むした祠は、原始時代からそこにあったかのようにずっしりと居座っている。土岐波神社の本殿にある灯籠を四つ集めたくらいの大きさで、小人が住む小屋のようだ。正面には四角い穴が開いていて、その中には誰がいつ置いたのか分からないが、白い湯呑みが置いてある。

「いどーかんりょー!」

 意味もなくつけていた腕時計のストップウォッチを止める。電子音と共に、コンマ何秒までのタイムが表示される。今日は鈴と合流してからここまで来るのに三十分かからなかった。29分と32・22秒だ。

 ここに来るのに少しだけ時間が余分にかかるけど、僕はこの場所が好きだ。この湿った感じが夏は涼しくて気持ちがいい。それにめったにここへ大人たちは来ない。

 祠の土台へと腰かける。石の祠自体もひんやりしていて、ズボン越しにも冷たさが伝わってくる。

「トキコさま、失礼します」

 鈴が祠に向かってぺこりとお辞儀をしてから、僕の横へと座った。

「毎回そんなことしなくたって大丈夫だよ」

「でも、一応。トキコさまが怒って、ばちが当たったりしたら、怖いからさ」

「ばちってなんだよ。それこそ原始時代にタイムスリップさせられるとか? 恐竜のお腹の中に」

「原始時代に恐竜はいないよ」

 僕に冗談を言ったつもりはなくて単に間違えただけなのだが、鈴がくすりと笑った。

「まぁ、とにかくさ。お辞儀なんてしてない僕が平気じゃん」

「それは、確かに、そうなんだけど……」

 指をもじもじと絡ませながら、鈴が言い訳を探す。

「まぁ、鈴のお辞儀が二人分だから、僕にばちが当たらないのかもね!」

 僕が代わりに考えた理屈に、鈴の表情が明るくなった。

「そうだったら嬉しいな。青斗くんの分もお辞儀頑張るね」

 鈴が握り拳を二つ作って、小さく気合いを入れる。

「そういえば、さっき海で、保くんたちが釣りしてたね」

「嘘、見えなかった」

「多分だけどね。いつもの赤いシャツで保くんって分かっただけで、小さくしか見えなかったし」

 保は今、四年二組のボス的存在だ。いや、四年生全員のボスと言ってもいいかもしれない。できるだけ関わり合いになりたくないのだが、僕と鈴が一緒にいるところを見ると、いちいちからかってくる。僕らの地区とは反対側に住んでいて学校がなければ安心かと思いきや、時間のある夏休みは時々こちらの海に遊びに来る。

「一緒にいたのはやっぱり亮太くんと英二くんかな。あともう一人いたけど誰だろ」

「げげ、あいつまた子分増やしてるのかよ」

「子分だなんて」

 保にぶたれたくなくて一緒にいるのに、それを友達とは呼べないだろう。しかも、彼らは月に一個、保にガチャガチャの消しゴム人形を年貢として納めている。

「あいつ態度と体だけはでかいんだよなー」

 僕に賛成するわけにいかないのか、鈴が困ったように笑った。鈴は人の悪口は言わない。

「でも、青斗くん、この前保くんからヒット打ってた。あれすごかった」

「ヒット? いつだっけ?」

 記憶を掘り返すが、心当たりがない。

「ほら、体育で。夏休み前の最後の授業だったから、野球やろうってなった時」

「あぁ、あの時の」

 おぼろげながら思い出した。同時に苦笑いをする。正直あまり思い出してほしいことではなかった。

「あれはヒットっていうか、セーフティバントだよ……」

 クラスでも前から数えたほうが早い体格の僕に、保の剛速球は打てない。だから仕方なくバットに当てることだけ頑張ったのだ。セーフになったのは、キャッチャーがボールの処理をもたついたからだ。できることならもっとかっこいい出塁をしたかった。

 保からホームランを打つ自分を想像する。マウンドで尻餅をつくあいつの周りを、拳を掲げて回るのだ。

 しばらく想像してから、頭の中でしかそれをできない自分が恥ずかしくなってやめた。

「でも保くん残念そうだったよ。他の人にはヒット打たれてなかったから、なんだっけ? ノーキットノーラン?」

「ノーヒットノーラン。試合の中で一度も打たれないってことだけど……あ、そうか、だからか」

 思わず出た僕の呟きの意味が分からないのか、鈴が首を傾げた。

「ほら、あの日の放課後、保の機嫌が悪かっただろ。それ、僕がヒット打ったからだったんだなって」

「あぁ……」

 その日の帰りに起きたことを鈴も思い出したのか、苦い顔をしてうつむいた。

「あの時は、その、ごめんね……」

「いいって、謝らないでよ。あれは僕が悪かったんだって」

 僕と鈴は、その日の帰り道に大喧嘩をした。その時のことはよく覚えている。

 原因は保だ。いつものように僕が鈴と帰ろうとした時、あいつがつっかかってきた。

 保は鈴の手提げバックを奪って、亮太と英二と投げ始めたのだ。僕は必死に取り返そうと追いかけたが、相手が三人では難しかった。

 そんな僕を見かねた鈴は「そんなのいらないから。大丈夫」と僕を説得したのだ。

 僕は鈴のその言葉を聞いて、頭に血が上ってしまった。

 鈴の手提げバッグが、最近お母さんに買ってもらったばかりの大切なものだと僕は知っていたからだ。

 それに、保から取り返してあげられないかっこ悪い自分が悔しかったし、恥ずかしかった。

 僕はその時「なんでそんなに弱っちいんだよ! 嫌なら嫌って言えよ!」と鈴に怒鳴って帰ってしまったのだ。

 今思うと、そんな自分を殴りたくなる。全然大人じゃない。大嫌いだ。

「でも、ありがとう。仲直りできてよかった。青斗くんから謝ってもらっちゃったけど……」

「いや、いいんだって。僕が悪かったんだから」

「ううん。違う。やっぱり、私その、自分の考えてることとか、思ったことを人に言うのが苦手だから」

 鈴は学校の授業で先生にあてられると、立ち上がりはするものの黙り込んでしまう。勉強はできるから、答えは分かっているはずなのに。

「だから、私、その、頑張ることにしたのね。夏休みの目標」

「頑張るってなにを?」

「思ったこと、ちゃんと言うって。嫌なら嫌って言うし、すごいと思ったらすごいって言う!」

 しきりに鈴が頷く。二つにまとめられたおさげがそのたびに揺れた。

「そっか、頑張れよ」

 僕には当たり前のこと過ぎて、アドバイスのしようもない。

「だから、あの時の、ヒット打って走ってる時の青斗くんもね、その、あの……」

「なに?」

「か、かっ、その、すごく、かっこ……」

 ただでさえ気温のせいでほてっていた鈴の顔が、赤くなっていく。

「か、か……」

「か?」

「かけっこ! したいなーって思った!」

 蝉が、ジジッと音を立てて、近くの木から飛び立った。

「そっか、する? かけっこ」

 なぜか鈴が頭を抱えたまま「ううん。いいや」とうなだれた。

「いいじゃん、鈴がやりたいならやろうよ。かけっこ」

 自分から提案したことなのに、鈴は乗ってこなかった。

「あ、そうだ。やりたいっていえばさ、昨日《やることリスト》を作ったんだ!」

「宿題の予定表?」

「違うよ、《やらなきゃいけないことリスト》じゃなくて、《やることリスト》!」

 ナップサックから、折りたたんだチラシを取り出して広げる。

「ちょっと見にくいのはごめんな。かすれたサインペンしかなくてさ」

「えっと、花火をやる。プラモデルを完成させる。貝殻を集める。葉っぱレースで一分を切る。豪快ドッジを全クリする……」

 鈴が三分の一くらいで、読み上げるのをやめた。

「たくさん過ぎない?」

「え、もう一枚あるんだけど」

「そ、そんなにたくさんはできないよ。それにプラモデルはもういいって言って、青斗くんがおうちの倉庫にしまったでしょ?」

 僕の五月の誕生日に買ってもらったプラモデルだ。お父さんが四年生になったのだからと、一番大きなやつを選んでくれたのだが、難しくて完成しなかった。

「倉庫で見つけたんだ。鈴も完成したの見たいだろ?」

「えっと……、なんて名前のロボットだっけ?」

 一緒に作り始めたのに、鈴は名前も覚えていなかった。もしかしたら鈴は僕に付き合ってくれていただけだったのかもしれない。

「じゃあ、プラモデルはいいや。他のを片っ端から……」

 鈴が、つま先をあげたり下げたりしてそわそわしている。

「やだ? やりたくないのがあるなら消すけど」

「ううん。そうじゃなくて。別にこんな予定なんか立てなくても、遊べる日に遊べたら、それでいいよ」

 残念というより、少しだけお腹がむかむかした。一晩かけて考えたのだ。素敵な夏休みにするために。なのに、その一つだって鈴には必要とされなかった。今周りに誰かがいたら、かっこ悪いと笑われるだろう。

 思わずチラシの端を握りこんでしまう。

「じゃ、じゃあさ! 鈴が考えてよ!」

「え? 私が?」

 苦し紛れに言ったことだったが、ナイスアイディアだと気がつく。

 鈴が受け入れる前に、ナップサックからサインペンを取り出した。祠の台座を机代わりにして、僕の書いた文字全部にばってんをつけてから、横に残ったスペースに《真やりたいことリスト》と書き込む。

「ほら、なんか言ってみてよ」

「え、えっと、青斗くんと遊ぶ……?」

「だからそれでなにをするかって話じゃないか」

「あ、ごめん」

 鈴があちこちに目線をやりながら悩む。

「あ、そうだ、あのね、今日はちょっとやりたいことあった。やりたいっていうか、頼みたいことだけど。あ、でも、できるかどうかは分からないし、青斗くんが嫌なら別にいいんだけど」

「なに?」

 短く聞き返す。鈴の遠慮をやめさせるには、それが一番早い。

「あ、あのね」

 鈴がポーチを開いて、中から給食袋を取り出した。カチャンとガラスの音が鳴ったので、中身はコップやお箸じゃないようだ。

「これ、青斗くん直せないかな?」

 鈴が給食袋を逆さにして、チラシの上に中身を広げた。木片と一枚のガラスといくつかのネジが、セロハンテープや接着剤と一緒に出てきた。

「写真立て?」

 そのバラバラのパーツからそうだと分かったのは、最後に一枚の写真が出てきたからだ。

 映っている看板には〈入学式〉と書かれている。その隣でおめかしした一年生の鈴と、鈴の両親が立っている。

「あのね、今日朝起きたら、壊れてるのを見つけたの。お母さんがお父さんと話してる時に、腕ではらっちゃって……」

 朝起きてから見つけたのに、なぜ壊れた理由を知っているのだろうか。

 疑問に思うが口には出さない。多分きっと鈴はその様子を見ていたのだ。それに鈴の両親が気づいたかどうかは分からないけれど。

「直そうと思ったんだけど、その、うまくいかなくて……」

 自分が壊したわけでもないのに、鈴は申し訳なさそうにうつむいた。

「お母さんに頼めないの?」

 鈴が首を横に振ってから「ゴミ箱に入ってたから」とだけ呟いた。鈴の両親は、この写真立てを直すつもりはないようだ。

 鈴が広げたパーツを見直す。ガラスの板や飾りは割れていないが、写真を囲む枠は角のところで割れていた。

「やってみるよ」

 鈴の《やりたいことリスト》一つ目だ。

「ほんとに? あ、でも、もし無理そうだったら、いいからね」

「大丈夫。工作は僕のほうが得意だろ?」

 あのプラモデルは投げ出したけれども。

 鈴に元々の形を聞き出しながら、葉っぱや花の飾りを接着剤でくっつけていく。

 鈴が僕の作業を見守りながら、唾を飲み込んだ。僕はそれを少しだけプレッシャーに感じてしまう。

「す、鈴、あんまり見られると緊張しちゃうよ」

「あ、ごめん」

 鈴はすぐに立ち上がってから「ここらへん歩いているね」と言って祠の周りを歩き始めた。そうしながらも、時々ちらちらとこちらを見ているのが、気配で分かった。

 写真に写る両親は笑顔だった。この頃は、喧嘩なんてしていなかったのかもしれない。

 鈴の両親の離婚が決まったのは、春の終わり頃だったらしい。

 鈴のお父さんは警察官で、お母さんは介護士さんだ。働いている時間がバラバラで、一緒に家にいる時間がつくれなかったせいじゃないかと僕のお母さんは言っていた。

 なんで喧嘩なんてするんだ。大人なんだからすぐに謝ればいいじゃないか、なんてことを思ったけれど、直接注意できるはずもない。

 だからこそ、せめてこの写真立ては元通りにしたかった。

 割れた木枠を合わせてみる。力を入れて抑えている間はいいが、少しでも力を抜けば、すぐに隙間ができてしまう。なによりもちゃんとくっつけようと思うと、接着剤自体がはみ出してしまう。

「もう、うまくいかないな……」

 いらいらして歯を食いしばった時、鈴が祠の向こう側で悲鳴をあげた。

「きゃあ!」

「鈴!? どうしたの?」

 尻餅をついている鈴にあわてて駆け寄る。僕がやってくると、鈴は震える指で、草むらを指さした。

 ごくりと唾を飲み込んでから、草むらの中へと進む。

 そこには、女の人が倒れていた。グレーのシャツから白い腕が伸びている。腕と変わらないくらい細い脚は、ぴったりとしたジーンズで膝下までが覆われていた。そんな腕と足を折りたたんで、女の人は丸まっている。茶色く染まった長い髪だけが、クジャクの羽のように地面の上で広がっていた。

「これって、まさか……」

「死体じゃないよ……」

「わああ!」

 後ずさった拍子に、かかとを石にぶつけて尻餅をつく。

「頭痛いから、あんまり大きな声出さないでくれる?」

 お姉さんは木の幹を支えにしながら立ち上がった。彼女の髪から、ぱらぱらと葉っぱと土が落ちた。ごしごしと頬を乱暴に拭くと、細くて鋭い目をこちらに向けた。

 鈴と顔を見合わせてから、僕らも立ち上がる。

「お、お姉さん、こんなところでどうしたの?」

「あーなにこれ、二日酔い……?」

 お姉さんは僕らの質問に答えることなく、自分のおでこに手を当てた。

「君さ、飲むものもってない?」

 お姉さんが僕に向かって手を伸ばす。

「あ、わ、私、水筒持ってます! いりますか?」

 鈴がもたつきながら、ポーチから水筒を取り出した。蓋のコップに麦茶をついで、お姉さんに手渡す。

 お姉さんは一口で麦茶を飲み干すと、さらにもう一杯を要求した。鈴が指示されるがままにもう一度つぐと、お姉さんは二杯目の麦茶を頭にかけた。

 お姉さんが頭を振って濡れた髪を揺らすと、水滴が僕のほっぺたに跳ねた。

「あー。生き返ったー」

 お姉さんがジーンズのお尻をぱんぱんとはたいて、泥を落とす。派手なピンクと黄色のスニーカーの上に泥が落ちたが、そっちは気にしなかった。

「ありがとう。ほんと助かったよ」

「ど、どういたしました」

 鈴が返事を間違えながら、水筒のコップを受け取る。

 お姉さんは手首についた銀色のブレスレットをいじった。首を傾げながらしばらくそうした後、僕に尋ねてきた。

「ねぇ、少年。今って何時? 昼ってことは分かるんだけど」

 時計をした腕を掲げると、お姉さんが僕の手首を掴んだ。その手はさっきまで水風呂に入っていたのかと思うほどに冷たくて、思わず背筋に鳥肌が立った。

「十三時二十分……」

 お姉さんは時間を読み上げると、大きなため息をついて口元を抑えた。

「だよね。太陽めっちゃ高いもんね」

 しばらくお姉さんが黙り込む。僕と鈴は互いに顔を見合わせながら、お姉さんがなにか言うのを待つ。

 お姉さんは僕らに反応を返すよりも先に、突然あたりをきょろきょろとし始めた。

「君たち、ここらへんでこれくらいの鞄を……あ、あった」

 お姉さんが、木の幹の陰から大きなリュックサックを引っ張り出した。濃い緑色のリュックにはところどころに赤い斑点がついている。

「わ! 血!? それ!」

「えぇ!」

 僕の言葉に、隣にいた鈴が身を固める。

「違うわよ。ほら」

 お姉さんはリュックを僕らの顔の前に差し出した。ぬるっとした匂いが鼻に入る。

「これ、絵の具……?」

 鈴の言葉に、図工で使う絵の具の匂いに似ていると気がつく。近くで見てみると、赤い斑点の他に、黄色や青などの絵の具もついていた。

「前の絵で、赤使ってドリッピングしたからね」

「ドリッピング?」

「筆をぶん回して絵を描いたの」

 お姉さんの鼻筋はすっと通っていて高い。目は鋭くかっこいい。綺麗なこの人が筆をぶん回しているところを想像すると、なんだか怖かった。

 逆に鈴はお姉さんに興味をもったのか、僕よりも一歩前に出る。

「お姉さんは、絵描きさんなんですか?」

「――の卵だね。美大生だから」

「びだいせい……。は、初めて見た」

 ため息をつく鈴を無視して、お姉さんは鞄の中をごそごそと探った。

「筆、画材……よし、なんも盗られてないね」

「お金は?」

 僕に指摘されて初めて、お姉さんはリュックのサイドポケットを探り財布を取り出した。

「うん、ちゃんとあるよ。中身も増えちゃいないけど」

 お姉さんがリュックを肩に担いでから、大きくため息をついた。

「で、ここは土岐波町で合ってるのかな……?」

 不思議な質問に鈴と目を合わせる。

「そうだけど。ここまでどうやって来たの?」

「いや、昨日の夜に電車で来てさ。夜景が綺麗なとこでも探そうかなーって歩いてたんだけど……。途中から記憶がないな……」

 お姉さんがガシガシと髪を掻くと、さっき頭にかけた麦茶がまた飛んだ。

「熱中症とか? それで倒れちゃったんですか?」

 鈴が尋ねると、お姉さんは「そうね。多分それだ」と鈴を指さした。

「あのさ」

「はい」

 二人揃って返事をする。

「とりあえず、町まで案内してくれないかな?」

 鈴が「いいですよ」と言い出しそうになるのを僕は遮る。

「僕らこれから遊ぶんだ。それに、写真立てだって直さないといけないし」

「写真立て?」

 お姉さんが、直し途中の写真立てが置いてある祠へと目をやる。

「あーなんかそんな話してたね。ぼーっと聞こえてはいたよ」

 お姉さんは祠へと歩き始めた。一歩遅れて僕と鈴が追う。

 祠の前にしゃがみこむと、お姉さんが写真立てのパーツを眺めた。

「大体もう僕が直したよ。その、枠の傷は、まだ目立つけど……」

「ふーん」

 図工の先生に作品を採点されているようなバツの悪さを感じる。

「あのさ、これお姉さんが綺麗にしたら、代わりに町まで案内してくれない?」

 お姉さんがなにかを企んでいるかのように笑う。犬歯が鋭かった。

「綺麗にって……」

 鈴と目を合わせている間に、お姉さんは動き始めた。リュックサックを地面に置いて開けると、クリアボックスを取り出した。中にはたくさんの絵の具のチューブが入っている。チューブの色はどれも銀色で、くしゃくしゃになったものから、まだぱんぱんのものまで様々だった。組立ブロックで僕らが遊ぶ時のように、ガチャガチャと、お姉さんがその中を漁る。

「これと、これと、あとこれか?」

「あ、あの、お姉さん、これって……」

 鈴が開けっ放しになったリュックの中を指さした。

「ん? 私のスケッチブックだよ。暇なら見てれば? バッテリー生きてれば携帯のデータも見せてあげられたんだけどね」

 許可を得た鈴が、スケッチブックを取り出し、一番上の厚紙をめくる。

「わ……」

 鈴が息を飲むのをみて、僕も鈴の後ろに回って覗き込んだ。

「うわ」

 描かれていたのはリンゴだった。今にもいい匂いがしてきそうなくらいにリアルで、小さい黄色の点々まで描き込まれている。

「すごい、なんか、写真より、綺麗……」

 鈴はスケッチブックを持ったまま固まっている。

「これ、お姉さんが描いたの?」

「人が描いたもん持ってたら驚きでしょ」

 お姉さんがクリアボックスから三つの絵の具を取り出していた。白色のチューブに貼られたシールには、それぞれ茶色と、赤と、黄色がプリントされていた。黄色や赤で、写真立てをカラフルにしてしまうのではないかと、僕は不安になる。

 お姉さんはどこか楽しげに、チューブの蓋を外した。茶色をひとかたまり、そして、赤と黄色はほんの少しだけ手の甲にのせた。

「おっけ、こんなもんかな」

 お姉さんが人差し指で、絵の具を混ぜ始めた。

 茶色をこねながら、赤と黄色を少しずつ足していく。まるで魔女がかき混ぜる魔法の薬品を見ているかのようだった。

 最初は明るすぎるように見えていた茶色が、落ち着いた色合いに代わっていき、やがて、写真立てと全く同じ色へと変わった。

 鈴が隣で小さく「わぁ」と呟いた。

 お姉さんは僕が直した写真立ての木枠を持ち上げると、消えない割れ目の上を人差し指でなぞった。一度全体をなぞってから、最後に細かくなじませていく。

「消えた……」

「ごまかしただけよ」

 最後につけた絵の具にふっと息を吹きかけてから、お姉さんは写真立てを僕に渡した。

 近くで見てさらに驚く。どこに割れ目が残っていたのか見失ってしまうほどに、木枠の繋ぎ目は分からなくなっていた。

「すごい……」

「へへ。だろー?」

 隣で写真立てを覗いていた鈴の目が一瞬だけうるんだ。これで鈴の両親が仲直りするわけでもなんでもない。それでも、鈴にとっては、きっと意味のあることだ。お姉さんは、いとも簡単にそれをやってみせた。

「ありがとう」

 僕のお礼で我に返って、鈴も「ありがとうございました!」と頭を下げた。

 お姉さんはクリアボックスに入っていたボロ布で、手の甲と人差し指を拭く。

「さて、というわけでもしよかったら、町まで案内してくれないかい?」