バルとは、スペイン風のカフェ兼居酒屋のようなもの。

 うちは移動式のバルです。

 さわやかに風を切るキッチンカーで、都内のあちこちに出店します。

 例えば昼に大手町でお弁当を売っていたかと思えば、夕方は三ノ輪橋で仕事帰りの会社員にビールを飲ませ、深夜には六本木で外国人にワインを提供していたりする。

 ちょっと珍しい営業スタイルでしょう?

 でも料理もお酒も素敵なものを取りそろえていて、日替わりで変わるメニューもあるんですよ。

 見かけた際は、ぜひお立ちよりください。



   序章



 会社を辞めるのには多大なエネルギーがいる。労力もかかる。

 例えば退職届を円満に受理してもらうためには多くの手順が必要で、代表的なものには様々な上司との面談があるだろう。

 退職理由のヒアリングという名目で会社への残留をうながす、引き止め交渉だ。

 三ヶ月前、直属の上司との面談を皮切りにこれで四度目になる。その回数の多さは有能さの証明でもあるが、今日の相手は部署の最高責任者なので、貝原圭も内心緊張していた。

 貝原は細身のスーツが似合う男。端整な顔立ちながら、どこか人なつこくて憎めない雰囲気がある。柔らかな髪を手櫛ですきながら会議室に続く廊下を歩いていると、背後から早足で追いついてきた者に声をかけられた。

「待てよ、貝原」

 振り返ると同僚の田村潤だった。

「なんですか?」

 ほがらかな貝原と対照的に、田村は顔を強張らせて唇を噛んでいる。

 たしか田村はこれから定例の進捗会議だったはずだと貝原は思い、直後に気づく。たぶん会議室の予約システムを閲覧中、別室に登録された貝原と本部長の名前を見つけて面談の件を察したのだろう。

 田村は単刀直入に切り出した。

「考え直せ。いまならぎりぎり間に合う。本部長の引き止めを蹴ったら、さすがに後戻りできない」

「でしょうね」

「でしょうねじゃないだろ。このご時世、会社を辞めるなんて自殺行為だ!」

「そこまで悲観しなくてもなんとかなりますよ。大丈夫です」

 落ち着き払って応じる貝原に、田村は低くうなって続ける。

「なんだろうな。その自信の根拠が知りたい。お前、そんなに楽観的なやつだったか?せっかくのキャリアパスだってもったいないだろ」

「キャリアが人生のすべてじゃないですから」

 貝原が苦い顔でそう答えたとき、ふと田村の後ろから水樹と濱口が小走りに近づいてくるのが見える。

 水樹と濱口とは以前同じグループだった。田村もだ。

 それはどこにでも取りつけられる新型LED照明器具の開発プロジェクトで、貝原がデザイン班を管轄し、田村、水樹、濱口の三人が個々の得意分野をまとめた。

 開発中は苦労もしたし、会社に泊まり込んだりもしたが、最終的には秀逸な出来になり、完成品は市場に好評をもって迎えられた。有名なデザインの賞も受賞した。

 そんなこともあって、この三人と貝原はプロジェクトが終わった後もたまに飲みに行く仲だ。もっとも最近はずっとご無沙汰ではあったが。

 水樹と濱口は間近まで来ると、息を整えて貝原の顔を見上げる。

「どうしても考え直せないわけ、貝原くん?」

 現実志向の女子社員、水樹が心配そうにそう訊くと、人の好い先輩社員、濱口が眉尻を下げて口ぞえする。

「やりたいことがあるのはわかるけど、趣味にしておこうよ。うちの会社にいれば定年まで安泰だ。なにも茨の道を選択しなくたって」

 似たような言葉はいままで何度もかけられたから、耐性がある。水樹と濱口を交互に見やり、人なつこい笑みを浮かべながらも貝原はきっぱり答える。

「ありがとうございます。しかし、もう決めたことですから」

 心配して、これほど引き止めてくれる仲間のもとを去るのは心苦しいが、とどまるのが最も楽で、摩擦のない選択だからこそいまは避けたい。

「すみません。もう時間なので行かないと」

 ものいいたげな彼らの様子に後ろ髪を引かれつつも貝原は歩き出し、やがて辿り着いた会議室のドアをノックする。

「失礼します」

 室内に入ると、本部長の国広は対面の席に座るように貝原をうながした。

 光沢のある白いミーティングテーブルをはさんで、ふたりは向かい合う。

「話はすでに聞いている。まあ楽にしなさい」

 そんなふうにいう白髪交じりの髪を無造作に後ろへ寝かした国広本部長は、五十代半ばとは思えないほど精力的でエネルギッシュな顔つきだ。

 理想を追い、前に進むことが大切だという若作りな建前論をなにかにつけて口にしがちだが、その若々しい外見ゆえに違和感がない。いまは貝原の人事評価シートを綴じたファイルに目を落とし、手早くめくっている。

 ふたりだけの会議室には独特の緊張感が満ちていた。

 まもなくそれを振り払うように本部長が音を立ててファイルを閉じる。

「それでは始めよう。貝原くん、君は自分の店を出すために退職したいということだったが」

 言葉を区切り、どこか芝居がかった間を作って本部長は続ける。

「多いんだ」

 唐突な切り出しかただったが、貝原は落ち着きを崩すことなく訊き返す。

「と、申しますと?」

「決して珍しくはないんだよ。開業なり起業なりするといって、退社を申し出る者は少なくない。不思議なことに、多くが君のように二十代後半でね。不思議だ。三十路を前に、今後の人生がこのままでいいのか、はたと考えてしまうのかな」

「……そうかもしれませんね」

「少し前にも似たようなことがあった」

 本部長は鳩尾のあたりで両手を組み直して語り出す。

「他部署の話になるが、現場の中核社員が辞めるといい出して、引き止めのために私も駆り出された。ベンチャーで事業を始めたいというのが退職理由でね。いろいろと夢があったらしく、我々の説得には結局耳を貸さなかったのだが、夢と現実の間にはギャップがあるものだ。すぐに彼の会社は資金繰りに困って立ち行かなくなった」

 三年もたずに廃業だ、と本部長は平淡な声でいい、会社の七割が創業して三年以内に潰れるのだと続けた。

「統計的な真偽はともかく、そういう話はたまに耳にしますね」

 とりあえず口ではそう答えつつ、貝原は冷静に思考を走らせる。

 いまの話の真偽はともかく、退職を思いとどまらせるのに最も効果的なのは不安をあおることであり、これは交渉術の一種でもあるだろう。

 大手総合電機メーカーであるこの山之内電機で、貝原の所属する家電開発部は花形部署のひとつ。そこを長年牛耳ってきた本部長は、たくみな手練手管で対立派閥の人材を取り込んできた裏の実績がある。嘘も方便も猿芝居もお手の物だ。

 とはいえ、貝原はグループマネージャーの地位に就いてからも、べとつく社内政治や足の引っ張り合いからは距離を取ってきた。そういう意味では本部長にとって真に必要な人材ではないはずだから、その面を強調すれば早めに終わらせられるだろう。

 貝原は、やや大げさな明るい声で意思表示した。

「それでもやはり私は夢に挑戦するつもりです。予測と結果の間にギャップがあったら、その都度調整すればいい。理想を追い、前に進むことが大切なのだと本部長も常々おっしゃっているじゃありませんか。大事なのはそのスタンスなのでしょう?」

 軽く思考を誘導した。意図的に青臭さを前に出し、また、相手がよく使う建前論をあえて引用することで反駁しにくい流れを作る。

 結果的に本部長は鼻白んだように太い眉を持ち上げてこぼした。

「まあ……たしかに正論だ。それに意思も固そうだな?」

「実のところ、面談のたびに意思が固くなっている気がしていまして」

 うまくいったようだ。軽く両手を広げる貝原に、そうか、と本部長は嘆息する。

「残念だ。正直もっと現実主義者だと思っていたよ。君ほどの人間がもったいない」

 くしくも先程の田村と同じ言葉をかけられて、貝原は少し複雑な気分になった。

「なあ貝原くん。プロダクトデザイナーとしての君はたしかに優秀だが、新しい商売を起ち上げるのには、また別な力が必要だ。苦労するぞ?」

「理解しております」

「会社を離れればなにもかも自己責任で、失敗しても誰も守ってくれない」

「覚悟の上です」

 そうか、と本部長は鼻孔から長い息を吐き出して告げた。

「なら仕方がない。どのみちその程度の甘い判断力では、いまより上には行けないだろうからな。会社の力なしでどこまでできるか、せいぜい夢を追うといい」

 では面談はここまで――。

 翻意の可能性がないと踏んだのか、本部長は案外あっさりと話を打ち切った。

 呆気ない幕切れに内心拍子抜けしたが、最後にひと言告げておきたくなる。概して温厚に見られがちだが、貝原はそれだけの人間ではない。

「本部長」

「なんだね?」

 貝原は前髪をかき上げると本部長に正面から顔を近づけ、涼しげな微笑を浮かべたまま相手の眼底を見すえて口を開く。

「ご助言まことにありがとうございました。決して忘れないように、いまの言葉は胸に刻みつけておきますので。会社の力なしで、せいぜい夢を追わせていただきます」

 現代は高度情報社会。たいていのことがネットでわかる反面、経済的合理性に背く選択をする者には、ある意味、風当たりが強い時代でもあるだろう。

 だがそれでも大人にだって、夢や希望みたいなものがあってもいい。貝原はそう考えているし、実現が不可能ではないことを証明するつもりだ。自分にはできる。

 貝原の静かな笑顔の迫力に気圧されて、本部長は黒目をそらしてつぶやく。

「誤解しないでほしいが、悪意でいったわけではない。ただ、そういう意気込みが案外長続きしないことを多くの人を見て知っているから……。だが君の姿勢は買おう。成功を祈っている」

「ありがとうございます」

 今度は本音で礼をいい、貝原は頭を下げた。


 この日の面談後、退職届はつつがなく受理されて、貝原はいままで勤務してきた山之内電機を退職し、二十代後半でサラリーマン生活に終止符を打った。

 夢を追っての貝原の門出をある者は祝い、ある者は寂しがったが、日々の仕事に追われるうちに、それらの感情は少しずつ思い出に変わって風化していく。

 そして会社を辞めてから二年が経過して――。



   魚介のパエリア



 宣伝用の立て看板を貝原圭が運んでいると、スーツ姿の女性が声をかけてきた。

「もう買えますか?」

「申し訳ありません。まだ開店準備中なんです」

「じゃあまた今度」

 そういって小走りに隣のキッチンカーへ向かう女性の後ろ姿を見送り、貝原は立て看板を目立つ場所に設置する。

 ふう、と一息つくと、初夏の心地いい風が吹き抜けて、貝原の柔らかな髪と愛用のエプロンをそよがせた。

 見上げれば、今日は透きとおるほど爽やかな青空。

 周囲を囲む、銀色の高層建築とのコントラストも美しい。

 いまは梅雨入りして間もない六月。雨が降ると売上に影響が出るから、この天気は率直にありがたかった。

 今日は期待できそうだと思いながら、貝原は自分のキッチンカーへと足を向ける。

 レトロで洒落たデザインの車体だ。

 カラーリングは落ち着きのある優しい黄緑色。所々にアクセントとしておりまぜた色彩が瑞々しい野菜や果物を連想させる。

 助手席のドアの横からはカウンターが出る作りで、そこが料理を受け渡す場所だ。窓は広く取ってあるが、上のひさしが直射日光や小雨をさえぎるので問題ない。

 よく手入れされているので一見、新品同様ではあるものの、これはもともと中古で購入したバンを改造したもの。デザインや塗装は貝原が自ら行い、調理営業に必要な設備は業者と相談しながら取りつけた。

 車体に書かれた店名は『ウツツノバル』。これが貝原の店である。

 営んでいるのは文字どおりバルだ。

 バルとはスペイン風のカフェ兼居酒屋のような意味で、イタリアではバールと呼ばれる。ただ、特定の国にこだわっているわけではないので、気が向けばなに食わぬ顔でピザやパスタも出す。

 と、それくらいのゆるさで気ままに都内各所に出店するのが、この店のスタイルだ。

 もっともそれだけで食べていくのは難しいので、気ままでない営業もしているが。

 まあ最初はなにも知らなかったからな、と苦笑しながら貝原は車の周りに、のぼりやメニューボードを手際よく設置していく。

 簡素なイートインスペースを周りに設営する場合もあるが、ここは有楽町にある大規模な総合文化施設、東京国際フォーラムの地上広場だ。ホール棟とガラス棟の間には、緑とベンチがふんだんにあるので今日は必要ない。

 と、ふいに車の近くで気の抜けた声がする。

「んーっ……。いい天気だ」

 視線を向けると、阿南礼二が大きく伸びをしていた。

 彼は両腕をゆっくり下ろすと、今度はその場で軽い屈伸運動を始める。

 仕事の前にウォーミングアップとは、珍しく気合が入っている。あいつもやっと従業員の自覚が出てきたらしいと思い、貝原はほくそ笑むが、やがて体操を終えた阿南の口から放たれたのは予想外のひと言だった。

「寝よう」

 阿南は木陰のベンチへ歩みよると、ごろりと長身を投げ出して仰向けになった。

 寝るのか――。

 自他ともに認める人当たりのいい男、貝原の眉がわずかにぴくつく。

 まあ、たしかに彼の暮らしぶりを考えると熟睡できていなさそうだし、眠くなるのもわかる気はするが、もちろんかまうことなく放っておく。この場所での開店は十一時半から。並んだほかのキッチンカーはすでに準備万端なので、作業を急ぎたい。

 晴天の下、ベンチで優雅にごろ寝する阿南から、ほかのキッチンカーへと視線を移して貝原はつぶやく。

「それにしても、このメンバーに加えてもらえて本当に助かった……」

 何気ない口調ながらも、本音だった。

 貝原が店舗ではなく移動販売を選んだ理由はいくつもあるが、教科書的なスタンスで答えるなら、やはりリスクの軽減だろうか。固定店舗は初期費用や家賃などの固定費が高額だし、なにより途中で路線変更するのが難しい。

 だが、移動販売なら比較的低いコストで始められる。新しい試みもしやすい。

 場所が固定されないということは、思い立ったら別な場所に行き、新メニューだけで試験的に営業することも可能なわけで、つまり軌道修正が店舗より楽なのだった。

 もちろんいつかは貝原も店舗を持つつもりでいる。

 だがそれには修行を兼ねてまずは移動販売で成功し、この路線で問題がないのを確信してからにするのが堅いやりかただろう。退職金などの貯蓄とは別に、移動販売の利益だけである程度の額に達したら、踏ん切りがつくのかもしれない。

 とはいえ、現状は貯金どころか完全に赤字の状態だから、当分苦労しそうだが。

 そもそも想定外だったのは、移動販売で店を出すこと自体の難しさ。

 単純に法的な問題だ。

 いまの道路交通法では道路での営業が禁止されており、許可を得ることも難しい。

 まれに見かける屋台のラーメン屋などは厳密には違法で、昔からあるがゆえに警察が見て見ぬふりをしているだけなのだった。

 公園をはじめとした公共の場所も、行政から使用許可を取るのは困難。

 となると出店する場所は必然的に商業施設や駐車場などの私有地になる。問い合わせして、承諾されて初めて出店できるという流れだ。

 だが、いい場所は競合相手も当然狙ってくるし、せっかく決めた場所を後から大手に奪われるケースもある。どんな業界でも、新参者にはたいてい風当たりが強い。

 商売を始めた最初のころは、月に十日も出店できずに大赤字を計上して、貝原はつい黄昏れたものだった。

 そんな経緯もあり、開業二年目のいまはイベント運営会社に登録し、週に何度か出店場所を斡旋してもらっている。仲介料はかかるが、人の集まる場所にこうしてキッチンカーが何台も並んでいれば活気が出るし、単体で営業するときより売上はいい。

 ここ東京国際フォーラムの広場は、たぶん売上が最も見込める場所のひとつだ。このままいけば今年は赤字をまぬがれる可能性が高い。

 もちろん問題などを起こさなければの話だが、などと考えながら貝原が開店準備を終えた時、阿南がベンチの上でむくりと身を起こした。

「んー、不思議だ。昼寝には絶好の日和のはずなのに、なぜか眠くならない」

 阿南はパンツのポケットに手を入れて飄々と貝原のそばに近づいてくると、にやつきながら口を開く。

「小腹が空いているせいかもしれないな」

「だから?」

「なにか食べたい。満腹になれば、きっと気持ちよく熟睡できる」

「そうか。なら、空腹を抱えてずっと起きてろ」

 たいていの相手に敬語を使う貝原も、阿南にだけは対等の口調で話す。これは初めて会った小学生のころから変わらない。

 貝原と阿南は幼馴染なのだった。

 絆の深さは親友以上、あるいは兄弟以上だったかもしれない――と胸を張っていいたいところだが、微妙にわけありの関係で、性格は正反対だ。外見も対照的である。

 人当たりがよくクリーンな印象の貝原に対して、阿南は自由奔放で華美な外見。今日は陽射しがまぶしいのかサングラスをかけている。

 ひょろりと痩せた体は百九十センチ近くあり、着ているのはアロハシャツだ。どう見てもまともな勤め人ではない。

 陽気で人を惹き付ける魅力があるが、それ以上に謎だらけでつかみどころがなく、彼をひと言で表現するなら「不思議な大人」というところだろう。

 貝原は軽く腕組みして、そもそもの疑問を口にする。

「だいたいお前、仕事を手伝うためについてきたんじゃないのか? 別に期待してはいなかったけど」

「手伝ってるよ」

「なに……? その心は?」

 すると阿南は、見る者すべてを魅了するような極上の笑顔で答える。

「いうなれば、働きアリと働かないアリの効果。さぼってるアリがいるほうが働きアリはがんばって働くんだ」

「そうか。なら衝撃の事実を告白しよう。俺はアリじゃない」

「ほんとに?」

 大げさにのけ反った後、「まあ知ってるけど」と真顔に戻って阿南は続ける。

「でも、よく働く人だけの集団より、駄目な人をある程度混ぜたほうが効率が上がるのは事実だよ」

「すごいな。こんなにストレートな駄目人間宣言は、いま初めて聞いた」

「ようやくわかってもらえて嬉しいね。というわけで、お腹が空いた」

 愚にもつかない屁理屈にまともに取り合うのが面倒になってきたので、貝原はエプロンのポケットから棒状のスナック菓子を取り出した。たまたま持ち合わせていた一本十円のその菓子の包装を解き、無造作に阿南の口に突っ込む。

「ふがっ!」

「これでも食べてろ。で、黙ってろ。俺はもう仕事の時間だ」

 底抜けに明るい陽射しの下、スナック菓子をぼりぼりと咀嚼する阿南の横を小走りにとおりすぎ、貝原はキッチンカーのドアを開けて車内に入る。


     *


 幼馴染ながら、いまの阿南礼二のことはよくわからない。

 なんの予告もなく、彼はかつて突然姿を消したからだ。親交には大きな断絶があって、ずっと音信不通だった。再会したのはごく最近だ。

 あれは二週間前、知人の紹介で貝原が日暮里に出店したときのこと。時刻はちょうど午前零時を回ったころだったと記憶している。

「……仕方ない。こんな日もある」

 深夜、無人のコインパーキングに駐めたキッチンカーの中で、貝原はつぶやいた。

 イベント会社をはさんだ営業は場所探しが楽だが、仲介料がかかる。いい場所を自力で確保するのが本来はベストで、ふだんの仕事の合間をぬい、貝原は出店場所の開拓をコンスタントに行うようにしていた。

 だがその夜の営業はひかえめにいっても大失敗。おそらく住宅街の微妙に奥まった場所なのがネックだったのだろう。

 通行人はとぼしく、キッチンカーまで来てくれる者はさらに少なく、結局客は数人だけ。その数人もビールと料理を少し頼んだだけで、とうの昔に帰ってしまった。

 今夜はもうお開きにするか。そう決めた貝原は車から出て、周辺に作ったイートインスペースを片づけ始める。

 そのとき、ふと一番奥の薄暗いテーブルに誰かが座っていることに気づいた。

 まだ残っている客がいたとは思わなかった。こちらに背中を向けているから顔は見えないが、その男はテーブルの上の料理をフォークで遊ぶように突き回している。

「お客さん? 申し訳ありませんが、今夜はそろそろ店じまいを――」

 近づいて声をかけると、その男は振り向く。刹那、貝原は短く息を呑んだ。

 阿南礼二だった。

 あの、阿南だ。

 突然わけのわからない津波にも似た感情にのみこまれ、子供のころから青春時代にかけての様々な出来事を一瞬のうちに思い出し、胸が強烈に締めつけられた。

 何年ぶりになるのだろう。最後の記憶が中学時代だから、もう十五年以上も前になるのか。当然、彼の外見は多少変わっていたが、不思議なことに一目で判別できた。

 かける言葉が見つからずに貝原が立ち尽くしていると、阿南が先に口を開く。

「やあ、元気だった?」

 サングラスを取り、阿南は邪気のない笑みを浮かべる。

 それは夏休み終了後、新学期の最初の日にクラスで顔を合わせたときのような、あまりにも何気ない態度だった。

 だが、こいつはこういう男だったとすぐに貝原は思い直す。飛び上がりたいような内面の興奮を押し殺し、貝原は震える指で前髪をかき上げながら答えた。

「……それなりに元気だった」

「だろうね。見ててわかったけど」

「なら聞くな。そっちも元気そうだな」

「まあね。君の目が相変わらず節穴だから安心してたところ」

 腹立たしいことをあっけらかんというあたり、昔と全然変わっていない。予告もなく、突然こうやって雲霞のようにわいて出るあたりもだ。

 そう、阿南は昔から誰よりも陽気で飄々としていた。自由で、何物にもしばられていないように見えて、密かにあこがれた時期もある。無知ゆえの幸せな日々だった。

 苦い郷愁にひたっていると、阿南がフォークの先をキッチンカーに向けて続ける。

「それにしても、貝原って店をやってたんだね。意外だな。お堅いサラリーマン街道一直線だと思ってた」

「お堅いサラリーマンやってたよ。二年前に脱サラしたんだ」

「ウソ。なんで?」

「夢を追って」

「それこそウソだ」

 阿南はぷっと噴き出した。眉根をよせる貝原に、わけ知り顔で彼は続ける。

「昔から堅実志向だった貝原が、夢を追うなんて柄じゃない。いい、いい。言葉にしなくても俺にはわかる。なにか人にはいえない理由があるんでしょ?」

「そんなものはない」

 阿南の問いをはねのけると、貝原は声の調子を少し落として続ける。

「俺はただ……目の前の人を喜ばせて、それを直に見られる仕事がしたくなってな。なにか現実的な手応えを感じたくなったんだ。それには店をやるのが一番だろ?」

「あ、わかった。部下の女の子にセクハラしてクビになったんだ」

「人の話を聞け!」

 思わずにらみつけるが、もちろん阿南はその程度で黙る従順な男ではない。

「大丈夫、ちゃんと聞いてるって。なぜ貝原圭は店を始め、そこにはどんな思いがあるか? ひと言でいえば、客との一期一会を大事にしたい。そういうことでしょ?」

 建前としては、と付け加える阿南に、貝原はこころもち唇をとがらせてぼやく。

「本音だ」

「そのむっとした顔、昔と変わってない。なんだかうれしいよ。でも、まさか君が料理に手を出すとはね。俺には脱サラの経験はないけど、会社を辞めてすぐにこういう店って出せるものなの?」

「出してるだろ、実際。何事もやりかた次第だ」

 実は世間の多くのサラリーマンが思うほど、開業のハードルは高くない。

 例えば調理師免許は飲食店を開くのに必須ではなく、あれはあくまでも調理師を名乗るための許可だ。持たないプロの料理人は大勢いる。

 法的に必要なのは食品衛生責任者で、これは各施設に必ずひとり置くことが義務づけられており、日本食品衛生協会の講習を約六時間受けることで就任できる。

 ほかにも保健所で交付される営業許可証、特種な車がつける8ナンバーのプレートなど、必要なものは細々とあるが、いずれも比較的簡単に手に入るものだ。

 店を出すこと自体は決して難しくない。儲かるか儲からないかという、最も重要なポイントを抜きにして考えれば。

「料理は最初、スペイン料理の教室にちょこちょこ通って教わった。でも、大部分は独学だ。なにか作るのはもともと好きだし、熱中してるうちに自然といろいろ作れるようになったんだ」

「ふうん。まあ、君は昔から凝り性だったからな。でもなんでスペイン料理?」

「バルといえばスペインだろ」

「それはわかりやすい」

 阿南はくしゃっと破顔して、まもなく少し改まった声を出す。

「でも、冷静に考えると変じゃないかな」

「どこが」

「絶対変だよ、この店の名前」

「脈絡ないな! スペインの話の続きかと思った。というか、なにが変なんだ?」

 阿南の話はよくあちこちに飛ぶ。軽く肩をすくめると、車体に書かれた『ウツツノバル』という店名を眺めて阿南は涼しげに答えた。

「だって、夢を追って脱サラしたわりには、現実だから」

「は? どういう意味だ?」

「ウツツは現実って意味でしょ。夢とウツツってよくいうし。これ、要は『現実のバル』ってことだよね?」

 阿南の指摘に、貝原は一瞬ぽかんとしたが、まもなく表情を柔らかにゆるめた。

「……たしかにそうだ。お前はほんと、昔から妙なところに気がつく」

「だろう? あれ、違った?」

「いや、それでいい。この店は夢を追いかける、現実のバルだ」

 その定義が自分でも気に入ったせいだろうか。なんとなく話を聞いてほしい気分になり、貝原はいままでのことを阿南に語ってきかせた。 

 退社後、バルを始めるまでの怒濤のような日々。あまりに慌ただしく、いまもまだ消化しきれていないもろもろのこと。退社による年金や保険の切り替え手続きがあり、肝心のバルの開業準備があり、料理の勉強をしてキッチンカーを用意して、仕入れ先を確保して――と、それらをするうちに飛ぶように時間がすぎていったこと。

 また、すぎた日々の中に置き去りにしたものもある。

 会社を辞める間際、田村、水樹、濱口たちに引き止められて再三考え直すことをすすめられたが、貝原は夢を追うと主張して押し切った。向こうはこちらの強情さに呆れ果てたのか、最後はどこか見放したような雰囲気が漂っていた。

 後でフォローを入れようかとも思っていたものの、なにかと忙しい日々が続き、結局二年近くも放置してしまう。もはや連絡はとだえて、そこの人間関係は切れた。ちょっと後味が悪いという心残りは、いまも胸の片隅にある。

 キッチンカーを眺めながら長々とそんな話を語り終えると、貝原は気を取り直して明るい声を出した。

「俺の話は大体こんなものだけど……退屈だったろ? それより阿南、お前はどうしてた。いままでどこにいたんだ?」

 返事はなかった。

「阿南?」

 奇妙な不安を感じて振り返ると、目に入ったのはスツールに座ったまま気持ちよさそうに寝ている阿南の顔だった。こいつ、と貝原は片方の眉をぴくつかせる。

「起きろ」

 骨張った阿南の肩を揺さぶったが、起きない。よく見ると頬が少し赤いから、たぶん客がテーブルに置いたままにしたビールを飲んだのだろう。

「なあ、起きろって。こんな場所で寝られたら困る」

 貝原がそう口にしたとき、阿南が譫言のようになにかつぶやく。

 聞き取りにくい。だが、どうやら両親を呼んでいるようだ。

 いい年してなんて寝言だと思いながら、貝原は顔を近づけて耳をそばだてる。

「……なんで……死んだ」

 聞き取れた言葉に一瞬ぎょっとした。直後になぜか子供のころの阿南と、調理のコンサルティングファームを営んでいた彼の両親の姿が、胸をよぎって消えていく。

 阿南は中学を卒業する寸前、家族ともども忽然と姿を消したのだった。

 本当に、あれからなにがあったのだろう。お前はなぜいまここに現れた?

 貝原自身、過去に事情があって、この手のことには慎重にならざるを得ない。あやまちを繰り返すのはごめんだと唇を噛み、しばらく黙考していたが、やがて深呼吸して気分を切り替えた。

 現実問題、とにかくこの場を片づけなければ撤収できない。それに、こいつには借りもある――。

 などと考え、仕方なく車に乗せたのが実は間違いのもとだったようだ。そのまま車内でひと晩眠らせ、翌朝起こしに行くと阿南は車から降りようとしない。

 それどころか、このまま仕事に同行すると申し出て、貝原の頬を引きつらせた。

「お前、なんのつもりだ。いい加減に帰れ!」

「この店って人手が足りてないよね?」

「それがどうした?」

「やとわれてあげよう」

 にやにやしながら人を食った申し出をされて貝原は面食らい、そのはずみで昨夜の様々な感情が再び胸に浮かび上がる。苛立ちにまかせて問いただした。

「本気でいってるのか……? そもそもお前、いまどこに住んでる? 仕事はどうした? ここに来た目的はっ?」

「あいにく住んでいる場所はない。仕事も目的もない。となれば、まるで降りたての雪のようにまっさらで綺麗だろう?」

「ふざけるな!」

「ふざけてはいない。家はもう引き払ったし、いまは毎日ぶらぶらして暮らしてる。寝る場所は駅だったり公園のベンチだったり、バラエティに富んでるよ」

「そんな……。じゃあ食事なんかはどうしてるんだ?」

「夜の町に繰り出しておねだりだ。初対面でも、なぜか女の人は俺に優しい。まあ、たまに警察を呼ばれたりもするけど」

 無茶苦茶だ、と貝原は言葉を失う。阿南はもともと変わり者だったが、昔に輪をかけて、頭のどこかが吹っ切れてしまったらしい。

 放っておいたら彼は早晩どうしようもなくなるだろう。ある朝、路地裏で冷たくなっている可能性もなくはない。十代のころのあの事件以来、長年気にかけてきて、やっとまた会えた幼馴染がそんな最期を迎えたら、冗談ではなく後味が悪すぎる。

 彼になにがあって、いつからなぜそんな生活をしているのか……?

 問いを重ね、事情をなにもかも聞いてしまったら、自分は性格的に必ず最後まで関わることになるだろう。それを知っているから、いまはあえて核心に触れない。

「……一週間だけやとってやる。それまでに行き場を探せ」

 彼を見捨てる罪悪感からは逃れつつも、それでいて深入りは避けた。後ろめたさで目を伏せる貝原と対照的に、阿南はくしゃっと無邪気な笑顔を見せる。

「ありがとう」

「寝るときは仕込み場を使え。毛布は自分で用意しろ」

「この暑いのにそんなものいらないよ。なんにもいらない」

 阿南は明るくも、どこか突き抜けてしまった人のように透明に笑い、それを見るとなぜか流されてしまう貝原がいる。

 阿南には昔からいつも振り回されてきた。幼馴染とはいえ、これでは当時となにも変わっていないと思いながら、貝原は人知れず自分に呆れるのだった。

 そして案の定、阿南は一週間が経っても出ていかなかった。

「おい……」

「悪いけど貝原、もう少し待って。今日はほら、仏滅だ」

「お前、大安の日はめでたくて出ていけないっていってただろ!」

 とにかくいろいろと理由をつけては阿南はこの場所にとどまり、貝原の首を傾げさせる。なにを考えての行動なのか? 本当に、不思議なやつとしかいいようがない。

 と、思っているうちにかれこれ二週間が経過して、いまに至るのだった。


     *


 長い回想から現実に立ち戻り、仕事に集中すれば貝原の作業はすこぶる早い。

「いらっしゃいませ。ご注文は?」

 キッチンカーの中からカウンター越しに訊くと、たぶん会社員であろう落ち着いた雰囲気の女性が、少し頬をほころばせて注文を告げる。

「Aセット」

「魚介のパエリアとサラダですね。少々お待ちくださいませ」

 会釈すると、貝原はパエリア用の鉄鍋のひとつに向き直り、強火で熱しながら揺らし始めた。じゅうじゅうと香ばしい音が立ち、熱が全体に伝播していく。

 一口大に切った鶏の胸肉と、あさりとムール貝からおいしいエキスがさらに染み出し、混ざり合った香りは強烈に食欲を誘った。

 オリーブオイルと魚介のうま味をたっぷり吸った、風味豊かなパエリア。歯応えぷりぷりのむき海老が、ライスの間に見え隠れしていてシズル感もいい。

 貝原は手際よくそれをプラスチック容器に盛りつけると、上からイタリアンパセリをさっと散らす。これでできあがりだ。

 小さなカップに入ったサラダと一緒にパエリアを渡し、代金を受け取った。

「ありがとうございました。またお越しください」

「はい」

 貝原からランチを受け取った女性はうれしそうに去っていき、今度は次の客が列から一歩前に進み出てきて注文を告げる。

 時刻は正午を少し回って、ちょうどかき入れどきだった。

 ランチ用に出店する場合、その場で一から調理していては時間がかかる。客はそんな気長に待ってくれない。

 貝原の場合はメニューをしぼり、事前に仕込み場所で作ってくるようにしている。現地では加熱と仕上げをするだけだから、あまり待たせず、それでいて味もいい。

 昼のメニューはAセット、Bセット、Cセットの三種類と、本日のパエリア。別売りでカップに入ったサラダと、数種類の日替わりタパスと、ドリンク類がある。

 セットの内容は定期的に変更して反応をうかがう方針だ。評判のいいものは長くメニューに残り、そうでないものは花の命より短く消えていく。

 夕方から夜の営業では酒を扱うので、完全に別のメニューになるが、この時間帯はまだ考えなくていいだろう。目の前の注文に集中して料理を仕上げていく。

「ふう」

 やがて貝原のキッチンカーに並んでいた客の列が消えた。汗をぬぐって一息ついていると、のんきにあくびをしながら阿南が近づいてくる。

「ねえ、もういいんじゃない? そろそろ食事にしよう」

「お前なあ……」

「俺は知ってるよ。貝原はインテリだって。インテリは働かざる者食うべからずなんて陳腐な言葉は口にしないんだ」

「お前、確実にインテリを舐めてるよな?」

「なぜわかった」

「働かざる者食うべからず。これで満足か?」

 阿南は一応、貝原にやとわれた立場ながらも大半の時間はさぼっている。今日も貝原が働く姿を見物しながらベンチでごろ寝したり、その辺をぶらついて遊んでいた。

「というかお前、わざわざついてくるのになんで仕事を手伝わない? 給料はいらないって意思表示か?」

 貝原が苦言を洩らすと、阿南は前髪をいじりながら応じた。

「褒めてあげよう。正解だよ」

「お褒めに預かり光栄だけどな。お前の言葉がどこまで本気なのか、俺にはいまだにわからないんだが?」

「だいたいぜんぶ本気。でもそれが世迷い言に聞こえるとしたら、やっぱり俺はどこか欠陥のある人間なのかもね」

「……別に世迷い言とまでは思ってない」

「そう? まあ、仕事はいまのところひとりで回せてるでしょ。ほんとに忙しいときは手伝ってあげるよ」

 と、埒もない話をしていたとき、新しい客が近づいてくるのが見えた。

 Yシャツにスラックス姿で、見た目は二十代前半の会社員。彼は小走りにキッチンカーの前まで来ると慌ただしく注文を告げる。

「この、Aセットのパエリアだけください!」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 貝原は阿南以外の者には、とても物腰おだやかに応対する。その切り替えの早さはメジャーリーグ投手の球速以上だと阿南にはよくいわれている。

 貝原は魚介のパエリアを手際よく仕上げて容器に盛り、青年に渡した。

「どうも!」

 受け取った途端、青年はパエリアの容器を持って走り出す。かなりの勢いだ。遠ざかる彼の背中を呆気に取られたように眺めながら、阿南が隣の貝原にぼそりという。

「なんだあれ? よほど空腹だったのかな」

「どうだろう……」

 客の事情には極力しゃしゃり出ない方針とはいえ、いまの様子は少し気になった。

「でも、こんな場所でむやみに急ぐと」

 と、阿南が口にした直後、「ぎゃ!」と奇声がして、貝原はつい目をおおう。遠くで青年は派手に転び、購入したてのパエリアを思いきり地面にまき散らしていた。


     *


「すみません……。ご迷惑おかけして」

「かまいませんよ」

 さすがに見て見ぬふりはできず、青年が地面にばらまいたパエリアを片づけるのに貝原と阿南も手を貸した。周辺が無事に綺麗になると、青年は恐縮して貝原たちに何度も頭を下げながら、もう一度パエリアを買い求めにキッチンカーへと引き返す。

「実にいい転び具合だったよ。でも、なぜあんなに急いでたの?」

「おい、阿南」

 口のききかたを貝原はたしなめるが、たしかにそうですね、と青年は苦笑した。

「冷めないうちに早く食べようと思って……たんですけど、よく考えたら会社まで戻ることはなかった。せっかく外に来たんだから、ここで食べればよかったんです。ふだんは社食しか使わないもので、つい」

「勤務先は?」

 阿南のぶしつけな質問にも青年は律儀に答える。「山之内電機。関東支社です」

「それは偶然。貝原と同じだね」

「同じ? そうなんですか?」

 好奇の目を向けてくる青年に、貝原は苦笑して手のひらを振った。

「もとです。二年前に脱サラしましたから。いまはこの移動式バルのマスターです」

「うちの会社を脱サラされたんですか。すごいなあ」

 別にすごくはないと思いながら、貝原は柔らかに微笑んでその話題を流す。

 だが、そんな貝原の微笑の意味をおそらくは取り違え、シンパシーめいたなにかを感じたのだろう。青年は新品のパエリアの容器を手に、キッチンカーの前で自己紹介を始めた。

「僕は星野といいます。四月に入社した新卒一年目で、いまはビジュアルコンテンツ開発部で研修を受けてます」

 仕事で使うMAYAの操作にまだ慣れなくて、と首の後ろをかく星野を横目に、阿南が飄々とした顔でつぶやく。

「マヤ? ガラスの仮面だね」

「違うとわかってていうのはやめろ。CG制作ソフトだ」

 と、阿南をいなした貝原が仕方なく自分たちも名乗ると、「貝原さんと阿南さんですか」と星野はうなずいて話を続けた。

「実は昨日、ネットでここのパエリアがおいしいって書き込みを見たんです。場所を調べたら、昼休みに充分行ける距離だなと思って。それで午前の業務が終わってすぐに会社を出たんです」

「神田からなら電車で五、六分ですか。そうですか、うちのパエリアを――」

 パエリアはバルのメニューとしては定番なので、貝原も力を入れている。

 材料と味。おいしさと価格のバランス。ずいぶん試行錯誤を繰り返したものの、それだけに自信作でもあり、わざわざ買いに来てくれたのはうれしい限りだ。

「すみませんが貝原さん、ここで食べちゃってもいいですか?」

 機嫌をうかがうように星野に顔を覗き込まれて、貝原は爽やかな笑顔を返す。

「もちろん。せっかくですから、座ってゆっくり召し上がっていってください」

 貝原がキッチンカーから出してきたスツールに腰をおろすと、星野は勢い込んで容器の蓋を開ける。途端に魚介のうま味を凝縮したような香ばしい香りが立ち上った。

 ライスの黄色、ムール貝の殻の黒、トマトの赤。鮮烈な色彩が心を浮き立たせる。

「これはおいしそうだ。いただきます!」

 華やいだ声を上げると、星野は先割れスプーンでパエリアをすくった。口に入れた瞬間、目が丸くなり、顎を動かすたびにそれが細められて、柔らかな笑顔に変わる。

「……うまーい!」

 歓声の後、今度は容器の底をさらうようにして星野は山盛りのパエリアをスプーンにすくう。すべての具をうまく乗せているから、これをほおばれば味わえるだろう。

 炒めて甘くなった玉葱。ぷりっとした食感のむき海老。あさりとムール貝のうま味を吸ったライス。鶏肉のきめ細かい繊維の噛み心地。オリーブオイルとにんにくで炒めた濃厚なトマトの酸味。それらが渾然一体となった味が。

「これ、すごくおいしいです、貝原さん!」

「ありがとうございます」

 人なつこく会釈する貝原の前で、星野は矢継ぎ早にパエリアをぱくつく。

 それは見ているだけで気持ちよくなる旺盛な食べっぷりで、若いな、と貝原は内心微笑ましく感じるが、考えてみれば新卒一年目でいまが六月だから、彼はつい先日まで大学生だったということだ。いくらでも食べられる年頃だろう。

 そして食べすぎて午後は船をこいだりするんだ、などと思いながら貝原が目を細めていると、隣にいた阿南が悪戯っぽく口を開く。

「君、おいしそうに食べるね。星野だっけ? ほんとにパエリアが好きなんだ」

「ふぁい」

 口にものを入れてしゃべらなくていい、と阿南は手で星野を押しとどめて続けた。

「でも、そんなにパエリアが好きなら、こういう店に来ることないのに。もっと本格的なスペイン料理店に行けば?」

 明るくすべてをぶち壊すような阿南の言葉に、貝原の表情筋は凍りついた。

 まもなく星野は口の中のパエリアを飲みくだすと、静かに嘆息して口を開く。

「ですよね……」

 同意しやがった、と貝原が半眼になった直後、星野ははっと背筋を伸ばす。

「あ、違うんです! そういう意味じゃなくて」

「かまいませんよ」

 黒目をそらした端整な笑顔で貝原が答えるも、星野は生真面目に食い下がった。

「いえ、ほんとに違うんです。ここのパエリアを買いに来たのには、わけがあって。実は作りたいパエリアがあるんです。どうしても記念日に作ってあげたいから」

「記念日?」

 突然なにをいい出すのかと貝原と阿南は戸惑い、それで星野は先走ったことに気づいたようだ。短く咳払いして、どうしようかなと若干はにかむ。そこにはむしろ話したがっている素振りが見え隠れしていた。

「大学時代からつき合っている彼女がいるんです。でも、最近すれ違ってばかりで、うまくいかなくて。お互いの勤務先が違うから、ある程度は仕方ないんですけど、こんなに噛み合わなくなるとは予想しませんでした」

「すれ違いというと、例えばどういったことですか?」

「いろいろと……そうですね、広範囲にわたって」

 星野は顔を沈鬱にくもらせて語り始めた。


 星野の彼女、池辺菜央はこの春、都内の印刷会社に就職した。

 山之内電機は残業の多い会社だが、新人研修の間はまだひかえめ。ところが菜央の勤務先はそうではなく、また、彼女が実務能力に長けることもあり、即戦力として業務に組み込んでいるという。

 だからお互いの日々はとても多忙。学生時代はほぼ毎日顔を合わせていた星野と菜央も、週に一度しか会えない状態がずっと続いている。

 週末、ひさしぶりに会っても妙に会話がはずまない。疲れがたまっているのも理由のひとつではあるが、一日の大半を業種の違う会社で各々すごすため、共通の話題が見つからず、話が合わせにくいのだった。

 仕方なく仕事について一方が話し、一方が聞く。興味のないジャンルの話は得てして退屈なものだから、自然とむなしい雰囲気が漂い出す。

 また、価値観にも少しずつ違いが出てきている。

 休日はストレス解消に思いきり羽を伸ばしたい星野と、堅実に生活したい菜央。そのことで片方が意見をいえば、噛み合わない空気が口論に発展することも多い。

 そういった多少のずれが日を追うごとに、大きな不一致へと育ちつつある。


「社会人って、思った以上に大変だったんだなと最近は痛感してます」

 そんなふうに結ぶと星野は嘆息し、貝原は神妙な面持ちで相槌を打った。

「たしかに、学生時代と同じ関係をそのまま続けるのは難しいかもしれませんね」

 いまとなっては遠い過去ながら、貝原も新人サラリーマン時代には同じ感想を抱いたものだ。各々が各々の職場の水に心身を慣らしていく順応の時期。その苦労をほかの組織に属する者が、実感をもって想像するのは困難だろう。

 友人にせよ恋人にせよ、学生時代と同じ関係を望むのは傲慢というものだ。

 それとなく貝原がそんな忠告をすると、星野はもっともらしい顔でうなずく。

「だから今後は僕らも歩みよらなきゃいけないと思って。なにかこう、互いをいたわる気持ちというか……それを表明するためにもパエリアなんです」

 妙に感情のこもった宣言だったが、隣にいた阿南は冷めた顔で耳をほじっていた。

「話の流れが意味不明だよ。結局このとっちゃん坊やはなにがいいたいんだ?」

「阿南、失礼だろ!」

 これでなぜ、やとってほしいなどと言い出したのか理解に苦しむ。間違っても接客だけはまかせてはいけないと思った。

 そして、とっちゃん坊やなんて言葉はひさしぶりに聞いた、などと頭の片隅で思いながら貝原は星野のいわんとするところを要約する。

「つまり星野さんがいいたいのは、その彼女の好物のパエリアを作ってご馳走することで、ささやかな気持ちを示したい……と、そういうことなんですよね?」

 貝原さんはさすがに理解が早い、と星野は両目を輝かせて続けた。

「別になにか明確なものを求めてるわけじゃないんです。でも、ずっとすれ違ってばかりだから、こういうことも大事かなって」

「素敵な心づかいだと思いますよ」

 貝原の同意に、星野はうれしそうに頬をゆるめて続ける。

「菜央はほんとにパエリアが大好きで。つき合い始めて初めて作ってくれた料理もオリジナルレシピのパエリアでした。あれは本当においしくて」

 感動したなあ、と星野は少し遠くを見るようにつぶやき、表情を引き締めた。

「だから今度は僕が作ってあげたいんです。来月、カップルになって四年目の記念日だから、そのときサプライズ的に」

 料理にうとい星野が菜央に知られず、彼女のオリジナルパエリアを再現する最も手堅い方法は、それに似た味を見つけ出して、作り手にレシピを教えてもらうことだ。

 だから都内をあちこち食べ歩き、その味を探したが、なぜかどれもぴんと来ない。

 やがて膠着状態に陥り、ネットで別方面を調べていたところ、このウツツノバルの魚介系パエリアが口コミの内容的に近いと感じた。だから足を運んだのだという。

「なるほど。そういうことでしたら、私が作りかたをお教えしましょうか?」

 苦労して編み出したレシピを普通なら教えたりしないが、若いカップルの助けになるのならかまわないと思って貝原は持ちかけた。

 この仕事を始めた動機は客との一期一会であり、実感のある客とのふれあいを求めてのこと。こうした縁も大事にしたいと胸中でつぶやく。

 ところが星野は気まずそうにかぶりを振った。

「いえ、お気持ちはうれしいんですけど、これは探している味とは違ったので」

「違いましたか。どのあたりが?」

「すみません、味はおいしかったので誤解しないでください。ムール貝とか海老とかあさりとか、使ってる材料もすごく近かった。でも……香りが決定的に違うんです」

「香り?」

「はい。ライスから醸し出される匂いが全然違っていて」

 すみません、また次の店を探して調べてみます、と肩を落とす星野を見ながら貝原は自分の顎先をつまみ、なるほどな、と密かに得心する。

 ところが直後に突然、阿南が「ああ、そうか」と明るい声を上げた。

「ひらめいたよ。そのパエリアの悩みを解決する方法」

「ほんとですか!」

 星野は前傾姿勢で興味を示し、貝原もまた無言で阿南の動向をうかがう。

 というのも、かつて阿南の両親は調理関連のコンサルティングファームを営んでおり、料理については彼も素人ではないことを思い出したからだ。

 かくして阿南は実に平然とした顔で、度肝を抜くような言葉を放った。

「彼女と別れればいい」

 貝原と星野は、思わず口を開けて固まった。

「だって君、まだ学生気分が抜けていない。働いてれば、この先どんどんすれ違いは増える。合わない相手とはいまのうちに別れたほうが身のためだ」

 こいつはどこまで人を食っているのか。

 ひねくれているにも程があると思い、貝原が鋭い視線を向けると、意外にも阿南はいたって真顔で、皮肉や悪意はかけらも見当たらない。

 どうやら単に親切心から正直なアドバイスをしただけのようだとわかり、貝原は内心愕然とする。やはりこいつは昔に輪をかけて、なにかが欠落しているようだ。

 星野も貝原と同様に数秒言葉を失っていたが、この発言は聞き捨てならなかったらしく、我に返ると食ってかかった。

「……あ、あのですねぇっ! 合わないのは勤務先のことだけ! 菜央はいい彼女なんです。てきぱきしてて、それでいて思いやりがあって、優しくて」

「あ、のろけが始まった」

「のろけじゃなくて、ほんとにいい子なんだ! 学生時代、風邪で熱を出した僕を看病してくれたこともある。特製の水出し緑茶を何度も飲ませてもらった。静岡のお茶農園の子だから育ちもいいんです。親孝行で、よく家の手伝いもしていたみたいで」

 だんだん本格的なのろけになってきたな、と思いながら貝原は仲裁に入る。

「素晴らしい女性なのですね、その菜央さんというかたは。非常識が人の形になったこの阿南とは雲泥の違いです。失礼をいって申し訳ありませんでした」

「別に貝原さんが謝ることじゃないですけど……。阿南さん、あなたは好きな人がいないから別れるなんて軽々しくいえるんだ!」

「そんなことがどうして君にわかるの?」

 ずばりと正論を返された星野はあからさまにむっとして、早くも怒りが再燃しそうな雰囲気だ。対照的なふたりの様子を前に、貝原は嘆息して考える。

 こうしてできた縁を、いまの自分は大切にしていく必要があるのかもしれない。

 そもそも常連になりうる客を阿南の奔放な言動のせいで失うのは、自分の能力不足を認めるようなものだ、などと考えながら軽く手を広げて口を開いた。

「星野さん。なにはともあれ、せっかく関わったのです。よろしければこの件の解決、私にお手伝いさせてくれませんか」

「え?」

「あなたがこのパエリアをお気に召さなかったことには理由があるのです。明日もう一度ここに来てくれれば、今度はきっと満足していただけるでしょう」

 星野はしばらく茫然としていたが、やがて期待に目を輝かせてうなずいた。