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     凸


 年明け、森が言いだしっぺで、テニス部一年総出で藤ヶ丘市内の熊代という神社に初詣に出かけることになった。その日は午前中からテニス部の初打ちもあるので、早朝から神社に出かけるくらいならギリギリまで寝ておきたいというのが駆としては正直なところだったが、今夏の都立戦優勝祈願のため、と言われては断りづらい。欠伸をこらえながら集合場所の高校前に顔を出すと、帽子とマフラーに顔をうずめた曲野が立ったまま寝ていた。朝に弱いコイツが一人で来るはずはないので、一緒にいる新海が連れてきたのだろうなと思う。

「あけおめ」

 と、新海が白い息を吐きながら手を挙げた。

「あけおめ。髪、伸びたな」

「だいぶね。まだ寒いけど」

 新海はサッカー部っぽい髪型を少しいじりながら身を震わせる。去年の秋頃には野球部にしか見えなかったので、けっこうなペースで伸びているようだ。

「エロいやつって髪伸びるの早いらしいな」

 ニヤリ、としながら言ってやると、新海はニヤリとし返した。

「へえ。そういえば駆もプリンになるの早いよな」

「別に普通だろ」

「前に染めたのおれが坊主にしたのと同じ頃だろ。おれの髪の長さと、おまえの黒い部分の長さ比べてみる? どっちがエロいかわかるぜ」

「……しょーもない背比べしてんなよ」

 ぼそっと言いながら、曲野が薄く目を開けたので「あけおめ」と挨拶した。

「ン、コトヨロ」

 言いつつ、すでにまぶたが落ち始めている。

「おまえ、雪山で遭難したら絶対助からなそうだよな」

「行かないから……」

「っていうか、ここでも凍死しそう」

 幸い曲野のまぶたが落ちきる前に森と女子が現れて、曲野は新年早々凍死するのを免れた。

 あけましておめでとう、とさしておめでたいとも思わないが口々に言い合い、狭い路側帯からはみ出して歩き始める。全員この後に控えている初打ちのために、ラケットバッグを背負っているので、小所帯にしては膨らんで見える。正月なんて、よほどでかい通りでもなければ車なんてほとんど走っていないので、遠慮なく道路を歩かせてもらう。ラケットバッグでいびつに膨らんだ自分たちの影を、のぼりかけの朝日がアスファルトの上に長く伸ばしている。初日の出を見よう、という話も当初あったが、さすがに初打ちまで体力がもたないから、という理由で初詣だけになった。

 高校前の通りをずっとまっすぐに歩いていくと、だんだん下り坂になって、その先は他の道と合流するので道路の幅が広がっている。さすがに少し車の通りも増えてきて、横に広がっては歩けなくなる。なんとなく二列になって、縦に長い集団になる。駆は一番後ろを、宙見と並んで歩く。

「こういうふうにグループで歩いているときってさ。自然とそのグループ内でのポジション的な配置になるよね」

 宙見が言った。

「どういう意味?」

「一番前歩くのは、切り込み隊長っていうか、ムードメーカーっていうか」

 前を見ると、先頭を歩いているのは森だった。

「じゃあ宙見も前行くべきじゃね?」

「ムードメーカーは一人でいいんだよ。私はしんがりのバランサー」

「オレもバランサー?」

「進藤くんは……んー、なんだろうね。次期部長っぽいし、リーダーかな?」

 次期部長。そんな話題が出る時期なのか、と柄にもなく感慨深かった。実際、あと数ヶ月で二年生になる。先輩になるのだ。夏には、今の二年生――新三年生が引退し、部の中心は自分たちになる。そのとき、部を引っ張っていくのは、今の一年のうち誰かだ。ついこないだまで一年生だったやつが、部長になるのだという事実に気がついた瞬間、駆にはそれが自分である未来は思い描けなかった。部長ということは、ソラ先輩や、サメ先輩と同じ肩書で、同じ立場だ。あの人たちのように、後輩を引っ張っていく? 絶対に、無理。

「男子の部長は森だよ、たぶん」

 そうあってほしいと思った。自分以外の誰かであってほしい。

「どうかな。部長になる人ってたぶん、こういうときしんがりだと思う」

「そうか? 先頭じゃね?」

「先頭はキャプテンかな。ウチはその役職ないけど」

 学校によっては、部長とキャプテン両方がいるらしい。なにが違うのかはよく知らない。でも確かに、キャプテンと部長両方いるのなら、引っ張っていくのはキャプテンで、まとめるのは部長の仕事のような気もする。現場を仕切るのはキャプテンで、学校組織における顔役が部長だと、前に誰かが言っていたっけ。

 女子部の部長は宙見で決まりだろう。藤村は人の上に立つのは致命的に向いていなそうだし、河原はありかもしれないが、宙見を差し置いて、ってほどじゃない。だが男子部には新海が……実力なら曲野だって、ありだと思う。

「森じゃなくても、新海だって……」

「新海くんは確かにしんがりも歩いてくれそうだけど、ここには進藤くんいるから前の方行くんだと思うな」

 新海は前から二番目を歩いていた。

「二番目は何ポジ?」

「副部長ポジ」

 曲野は真ん中で欠伸をしている。

「真ん中は?」

「みんなに大事にされるエースかな?」

「それだと宙見、どこにいてもおかしくないじゃん」

「そんなことないよ。私はバランサーです」

 宙見は笑った。ソラ先輩に似た笑みだ。

 熊代神社にたどり着くと、人でごった返していて、正月早々物好きな人たちだなと思うが、自分たちも大概その物好きなのでおとなしく列に並びお参りをする。都立戦優勝祈願、という名目だったので駆は素直にそれを願ったが、後で聞いてみたら皆十人十色に私利私欲を願っていたようで呆れた。どうせ誰かが願ってくれるから、などと、言いだしっぺのくせに言ってのける森はいっそ清々しい。結局律儀に優勝祈願をしたのは駆と宙見だけで、ここへ来るまでに宙見が言った言葉は多少なりとも的を射ていたのかもしれない。

 おみくじを引いてひとしきり盛り上がった後はそのままマックへ流れ込んで朝食を取り、眠気をこらえて初打ちへ臨んだ。全体的にヘロヘロの一年はスマッシュをスカしたり、ダブルフォルトを連発したりと、散々な結果で先輩から詰られたが、それも含めて楽しい時間だった。

 今の部は、とても居心地がいい。それは先人――先輩たちが作ってきた、藤ヶ丘高校硬式庭球部という場所が、いい場所だからだ。少なくとも三月まで、自分たちはそこに浸っていられる。後輩の面倒とか、次期部長のこととか、考えずに何もかもを任せておける。

 だからせめてそれまでは――難しいことを考えるのは、もう少し後にしようと、駆はそう思った。


     *


 三月に卒業式があって、その日は各部が三年生を見送るため、在校生が三々五々に学校に集まっていた。比較的女子が多い気がするのは、校章狙いらしい。藤ヶ丘の制服はブレザーなので、第二ボタンなんて概念はない代わり、校章が狙われるそうだ。

「ソラ先輩の校章は争奪戦だろうな」

 と森が笑っていた。確かにあの人の校章はプレミアがつきそうだ。テニス部だけでなく、クラスでも委員会でもモテるという話はポチ先輩から聞いたことがある。部では河原がファンだったはずだ。

「まあでも、先輩ってカッコよく見えるよな。数年年上なだけなのにさ」

 森の言葉は少し他人事に聞こえる。

「今年からオレたちも先輩になるんだぜ」

 そう言う駆も実感はないが。

「マジか」

「だよ」

 自分で言っておいて、変な感じがした。

 一年が、あっというまに過ぎたという実感しかない。先輩たちは、どうやって二年生になったのだろう。どうやって三年生になったのだろう。中学のときは、あまり進級の実感なんてなかった。先輩後輩と言ったって、形ばかりの敬意と権威をお互いに振りかざすだけで、結局は馴れ合い集団だったように思う。高校の先輩と後輩はもう少し……もう少し、社会的というか。こんなことを言ったら、現役社会人には笑われてしまうかもしれないけれど。

 春がきて、四月がきて、新学期が始まって、下駄箱の位置が変わって、教室の場所が変わって、そういういろんな区切りがきっと自分たちを二年生にしていくのだろう。だけど二年生になることと、先輩になることは違う。突然不安になった。オレたちはきちんと先輩になれるんだろうか。偉大な先輩ばかりを見てきたせいか、余計にそう思う。

「あ、ソラ先輩」

 森が言って、駆は顔を上げた。

 すでに校章のついていないブレザー――いや、よく見ればボタンもいくつかついていない――を春風にはためかせて、こっちに歩いてくる。

「色抜けましたね」

 と森が声をかけると、眉の下をかきながら苦笑した。

「受験戦争で漂白された」

 後ろからポチ先輩と玉川先輩、女子の佐藤先輩が歩いてくる。みんな森の言う通り、日焼けがすっかり抜け落ちて、色白になっている。森や、二年生、女子部はみんなわーっと群がっていく。駆は曲野、新海と並んで三人、遠巻きにそれを眺めていた。

「駆は行かなくていいの」と、新海。

「……こういうノリよくわかんね」

「タクは?」

 曲野は無言で肩をすくめる。

「まあ、二人とも得意そうには見えないけど。でも世話んなったんでしょ?」

「なった。すごく」と、うなずく。

「じゃあ行ったら?」

「……そういう新海は?」

「おれ三年生知らねえもん」

 そうだった。二学期からやってきた新海は、夏で引退したソラ先輩たちには会っていないのだった。

「なに遠巻きにしてんだよ」

 ソラ先輩が目ざとく気がついてやってきた。

「お久しぶりです」

 と駆は頭を下げた。曲野も無言でそれにならう。

「……どもっす」

 と新海は少し気まずげだった。

「おまえが新海かー。なんか聞いてたのと印象違うな」

「なんて聞いてたんすか」

「ハゲ」

 悪気なさそうに言うのがソラ先輩らしい。新海は目を真ん丸にしていた。たまらず駆は吹き出した。吹き込んだのは絶対サメ先輩だ。

「冗談冗談。なんかもっと食えない感じだって聞いてたけど、フツーだな」

「トリミングされたんすよ」

「頭だけじゃなくて?」

「身も心もすっかりトイプードルですよ」

「前はなんだったの」

「……ドーベルマンっすかね」

「ドーベルマンの方が毛短いだろ」

「あ、確かに」

 気がつくと新海はすっかり馴染んで、ソラ先輩と談笑していた。

 そういうところが、どれだけすごいのか、今ならわかる。

 去年の自分たちが、どれほど扱いづらい後輩だったか、今ならわかる。

 一ヶ月後に自分たちが同じことをできるかと言われたら、絶対にできない。

 先輩になるということが、三年生や二年生を見るほどに、難しく感じる。

「なに深刻な顔してんだ」

 ソラ先輩が頭にポン、と手を乗せてくる。

 身長は一年前より五センチ伸びて念願の百七十に届いた。ソラ先輩とそう変わらないはずだ。だけど見上げる感じになったのは、背中が縮こまっていたせいか。

「胸張れよ。来月には先輩だぞ」

「それです」

 思わずぼやいた。

「それが、不安で」

「まあなー。俺も不安だったなー、一年の頃は」

「ソラ先輩でも?」

「当たり前だろ。ましてや一年の頃の俺、全然テニス上手くなかったしな。チビだったし。絶対舐められると思って超ビクビクしてた」

「……それ、どうしたんですか?」

「ん?」

「どうやって、その、先輩になったっていうか」

「だから、胸張ってたんだよ。とりあえず。それだけ。そしたらみんなついてきてくれた」

 駆はぽかんとした。ソラ先輩がニッと笑って、背中をバシンと叩いた。

「とりあえず胸張っとけよ。おまえ、強くなったんだし。堂々としてりゃあついてくるよ。先輩が立派に見えるのなんて、大概先輩ぶってるからなんだ。ビビって遠慮してたら、ついてくるもんもついてこないよ」

「そんなもんですかね……」

「そんなもんそんなもん」

 ソラ先輩の笑顔は、なんだか確信や自信に満ちていて、無条件に信じてみたくもなるけれど、そんな簡単なことじゃないと思う。ソラ先輩にサメ先輩たちがついていったのは、きっともっと色々な――練習態度とか、人柄とか、立ち振る舞いとか、そういうソラ先輩のコツコツとした積み重ねがあってこそで……それは一朝一夕に身につくものじゃない。

 それでも――胸を張るくらいなら、真似できるか。

 背筋を伸ばすと、少し世界が広がった。春の空には、桜の花びらが舞っている。少し強い風が吹いている。あっというまに春を押し流して、夏を連れてきそうな風だ。のんびりしている暇なんて、きっとない。

「頑張れよ。都立戦は応援行くわ」

 結局袖のボタンすら一つもなくなったブレザーを颯爽と翻して、ソラ先輩は三年間の学び舎に背を向け去っていった。その背中に深く頭を下げ、色々教えてくれてありがとうございました、と胸の中で礼を言った。



   1‐1



     凸


 藤ヶ丘高校硬式庭球部では、春休みから新入生の練習の参加が認められている。毎年ホームページに告知が出るのと、合格発表のときにチラシを配ったり、学校の敷地を囲うフェンスにもポスターで掲示が出る。そこに部長と、新二年生の中から選ばれた教育係の連絡先が載り、参加希望の生徒はそれを見て連絡してきたり――あとは当日の飛び入り参加も可だし、在校生とのコネでやってくるやつもいる。駆は去年、ポスターを見て連絡をしたクチだ。

 昨年の藤ヶ丘は公立校としてはそこそこの結果を残しているが、学力でも立地でも敵わない山吹台高校(去年の都立対抗戦優勝校だ)という目の上のたんこぶがあるので、有力な選手はそっちに流れるだろうとはサメ先輩の言だった。もちろん、私立へ行くやつもたくさんいる。監督がじきじきに声をかけて――なんてことは、藤ヶ丘では当然ない。そもそも監督はいないし、顧問だって滅多に練習に出てこない名ばかり顧問だ。

 だから、新入生の勧誘は、ある意味至上命令だった。入部が約束されたエリート選手がいない分、春休みから練習に参加してくれるような経験者は、なるべく本入部まで持っていきたい。そのためには藤ヶ丘高校硬式庭球部が魅力的な部であることをアピールしていかなければならない。当然、感じの悪い先輩なんてものは、いるべきではない。森が教育係になったのは至極自然な流れだった。女子部は藤村だそうだ。

 去年の春休み練習に参加していたのは駆と、曲野。森は出ていない。他にも参加していたやつはいたが、結局本入部には至らなかった。今年はどれくらいくるのだろう。


 春休み練習初日、さっそく新一年から参加の申し出があったそうだ。前日に森がメールで回してきた。一年前、後輩として先輩に会いにいくときも少なからず緊張したが、今年先輩として後輩に会う方が緊張するかもしれない。一年前に見た先輩がみんな堂々としていたのを思い出すに、自分の小心さに嫌気がさしてくる。曲野は我関せずで寝ていそうな気がしたので、思わず新海にメールしたら「いいからさっさと寝ろ」と返ってきた。なんでみんなそんなにハートがタフなんだよ?

 翌日は少し早く家を出た。起きた時間がいつもより十分早かったので、朝食も、歯磨きも、トイレも、全部前倒しになって、家を出る時間も綺麗に十分早くなった。自転車に乗って学校へ向かう道は、もう通い慣れた道だ。自宅前の急な坂道も、その先の狭い道も、緩く長く続く往路の下り坂も――一年前、その道を意気揚々と、新品のラケットを担いで自転車を漕いでいた自分を思い出す。あれからラケットも自転車も、細かい傷が増えた。背も五センチ伸びた。今度は新品ピカピカの制服を着た一年生が、高校生活に目を輝かせてやってくるのを、オレたちが迎える番なのだと実感する。

 普段でさえ早いのに、十分も早く家を出てしまったので、コートに着いたのは当然一番だと思っていた。

 コートのフェンスの陰からぬっと、ガタイのいい人影が現れて、駆は危うく悲鳴をあげかけた。

「……嵐山、です」

「は?」

「嵐山竜児、です。連絡した」

 ぼそぼそした声で名乗ったその人物が、新一年生だと気づくのに数秒かかった。


 無口。

 と言われると、曲野を思い浮かべる。だがその曲野の方が、まだおしゃべりだ。コイツに比べれば。

 中肉中背。背丈は曲野ほど。細い目と、短い髪の毛。

 嵐山竜児、と名乗ったその声しか、駆はまだ聞いていない。

 部活動――特に運動部では声出しという概念は一般的で、体育会の悪癖だと言うやつもいるけれど、駆はそのノリが嫌いではない。サッカー部でも、野球部でも、もちろんテニス部でも、練習中には声を出す。その声が校庭や、コートに反響して、校舎の中まで響く。校舎の中からは逆に、吹奏楽部や管弦楽部の音出しが聞こえる。放課後の雑多な音の混ざり合いは、いかにも部活という感じがして、気持ちが高揚する。

「嵐山ァ。声出せよー!」

 嵐山は微妙に嫌な顔をする。口を開いているのは見える。だが、肝心の声がしない。口元まで顔を寄せて、耳を澄ませてみたら、聞こえるのかもしれない。

 だがこの嵐山、癪なことにテニスは抜群に上手いのだった。左利きで、曲野ほどではないが薄めのセミイースタングリップ。フラット気味の低弾道でネットすれすれを通すフォアハンドは、試合で見ていたらさぞかし冷や冷やしそうだが不思議とミスが出ない。

「上手いな」

 と曲野が素直な感想を述べた。

「声出さないけどな」

 駆はため息交じりに返す。しかも嵐山、やたらと鬼気迫る感じで練習に臨むので、微妙に注意もしづらい。

「声出せーって言われたらさ。普通声出すじゃん。オレらだって去年、それくらいはしてたじゃん」

「まあな」

 曲野も大概声出しは苦手にしていたが、それでも先輩にド突かれたら無理矢理声を張り上げていた。

「それをしてくれないやつは、どうしたらいいのかね」

「後輩に指導って、よくわからん」

 曲野が珍しくぼやいた。

「わからんね」

 駆もうなずいた。

「四月からもっと来るわけだろう?」

「だな」

「テニス教える分にはやぶさかじゃない。でも部のルールとか、規律みたいなの、守らないやつは」

 曲野が言葉を切ったので、駆は冗談交じりに後を引き取る。

「……締め上げる?」

 曲野が苦笑した。

「声出しくらいで、って思うしなあ。せっかく上手いやつ、そんな理由で嫌にさせて退部させたくないし」

「難しいな」

「難しいな」

 しみじみうなずき合っているうちに、今度は森が声を張り上げているのが聞こえた。

「嵐山ァ。声出せよォ!」

 嵐山はまた口だけ動かしていたが、駆にはやはり聞き取れなかった。


 四月になって学校が始まると、本格的に一年生が練習に参加してくるようになって、駆たちもいよいよ先輩というやつにならざるを得なくなった。

 どうにも今年の一年は、クセモノぞろいのようだ。

 なんて言うと、おまえらが言うな、とサメ先輩は笑うが、実際問題去年の自分たちと今年の一年、どっちが面倒くさいかって言ったらたぶん今年の一年だ。

 無口で絶賛声出し拒否中の嵐山を筆頭に、人懐こいが微妙に抜けていて先輩後輩という概念がいまいち理解できていなそうな村上、とにかくチャラい石川、ビビっているのか育ちが良過ぎるのか敬語が異常に丁寧な矢田、エトセトラ、エトセトラ。

 厄介なのが、そいつらがどいつもこいつも、そこそこに実力者だということだ。硬式歴一年の駆からすれば、全員自分よりテニス経験は長い。ソフトテニスの経験を入れたって四年だ。嵐山や村上はガキの頃からテニスをしているという。

 教育係は森だが、それでも駆たちだって指導に当たらないわけにはいかない。一年は放課後は先輩たちよりも早くコートに来て、ネットを張り、ボールを出して、コーンを置く、そのやり方。備品のある場所、鍵の借り方、部室の使い方。それから準備体操やアップの声出しの仕方、朝練のルールや顧問の先生の紹介。テニス部だからって、テニスだけをやってればいいのならそれは部活じゃない。中学までのそれとは、やっぱり緊張感も違う。

 自分が準備をしなくてよくなったことは違和感しかなくて、駆は未だに放課後は誰よりも早くコートへ行って、ついつい一人でネットを張ってしまう。少し遅れて一年がやってきて、はっとしたように「俺やります!」とすっ飛んでくると「お、おう」と微妙に手持無沙汰になって、コートの中をウロウロしているうちにまたコーンを出したりして次の一年に「俺やります!」と食いつかれる。森には「なにやってんだよおまえ」と笑われた。

 しかしそんな中でも嵐山はやっぱりマイペースというか、悪い意味で。相変わらず声は出さないし、そもそも無口で、無愛想で、ニコリともしない。練習は黙々と、何かに憑かれでもしたかのようにこなす。それがさらに話しかけづらいオーラを作っていて、他の一年ともほとんど話していないようだ。練習は病的とはいえ熱心は熱心なので、なんというか、テニスさえできれば他はどうでもいい、みたいに見える。

 ソラ先輩ならどうするだろう、という考えがよくよぎる。すでに卒業してしまったあの人は、もうコートはおろか、学校にだって来ないのに。


 たまたま練習がオフの日に、学校の近くの小さな球場(球場の周囲がちょうど四百メートルほどのジョギングコースになっている)で走り込みをしようと思ったら、嵐山が走っていた。

 黒のハーフパンツに紺色のシャツをぐっしょりと汗に湿らせて、受験上がりのブランクを吹き飛ばすかのように快調なペースで飛ばしている。と、いうか、正直飛ばし過ぎだ。部内では短距離長距離ともにベストタイムを持つ駆でも、そう何周も保たないペースだ。

「飛ばし過ぎじゃないか? なんの罰ゲームやってんだおまえ」

 横に並んで声をかけると、嵐山は目を見張って駆を見た。

「なに驚いてんだよ。オフの日に走るのは自分だけだと思ったか?」

「いえ……」

 ぼそっとした声。えらく久々に聞いた気がする。

「ついてこれる人がいるとは、思わなかったので」

「そっちかよ」

 駆は苦笑する。飛ばしている自覚はあったらしい。

「体力つけたいなら、早く走り過ぎると逆効果らしいぞ。今ゼイゼイ息切れしてるだろ。それって無酸素運動なんだってさ。無酸素運動でつくのは筋力の方。見た感じおまえはそっちは足りてそうだけどな」

 嵐山がまた目を丸くした。

「有酸素運動にするには、どうすればいいんですか?」

 意外にも食いついてきた。テニスのこととなると素直なのか。

「あんまり遅過ぎてもダメだから、まあ、ほどほどに速いペースってことになるのかな。ちゃんと呼吸できる余裕があるくらいの。オレもあんま詳しくないけどな」

 嵐山がだんだんとペースを落としていったので、駆も合わせて落とす。ようやく少し余裕があるくらいになってきた。

「これくらいのペースで、まあ三十分くらいかな。一日に大量にこなすよりコツコツ続ける方が効果あるって。あ、でも中一日二日とかレストは入れた方がいいらしい」

「詳しいんですね」

「受け売り」

 部活でこの一年、色々な人と、色々話して、得た知識だ。

「おまえもけっこう、よくしゃべるんだな」

「別に、フツウです」

「今日はな。いつもは全然しゃべんないじゃん」

「必要に応じてしゃべってますよ」

 ぼそっとしたしゃべり方のまま、そっけなく言って、嵐山は急に立ち止まった。

「なんだ、上がるのか?」

 無言で頭を下げる。上がるつもりらしい。駆はその場で駆け足をしながら、声をかけた。

「ランニングの後、急に立ち止まんない方がいいぞ。一周くらいゆっくり歩いて、それから上がれ」

 言い捨てるようにして踵を返し、ペースを上げた。一周走って三周目に入る途中で、歩いている嵐山を抜かしたのでよしよしと思った。


     *


 インターハイ予選が始まろうとしていた。

 四月に個人戦の予選、五月には団体戦の予選が始まる。去年は参加できなかった個人戦も、二年になった今年は参加できる。個人戦での単複重複可。個人と団体のスケジュールはブッキングしないので、そっちも重複可。なので曲野や新海はわりと出ずっぱりだ。大会規定で転校後六ヶ月以内の選手は出場できないのだが、新海はその点をクリアしているので問題ない。

 駆は曲野とのダブルスで出場が決まっていた。第一週の会場は、松耀高校という、都立の新設校になる。サメ先輩情報では、新設校だが有力な選手に声をかけてメンツをそろえてきているので、油断ならないチームらしい。

 個人戦は各選手会場が異なるので、試合のないメンバーはどれか一つ会場を選んで、そこへ応援に行くことになる。これは、基本的に仮入部中の一年を除けば全部員の義務だ。五月を待たずすでに本入部を決めている一年は、部員としての扱いになるので、やはり義務になる。今年の一年では、嵐山、村上、石川がすでに本入部を決めてくれていた。

 この点は、森がきちんと説明したはずだった。週末にインターハイ予選がある旨。それから、部員には応援に行く義務がある旨。仮入部の一年は任意だが、本入部を決めた一年は部員として同じく義務が生じる旨。

 どこの会場へ行くかは自由で、二年生以上は同学年の試合を観にいくことがほとんどだ。あるいは、家から近い会場。別に難しいことを言われているわけではない。チームとして、試合に出る選手を応援しようという、ただそれだけのことだ。

 だが、どうにもわかっていないやつが一人だけいそうな気がする。

 松耀高校は新設校だけあって綺麗なコートだった。やはり最近の流行りはオムニコートらしい。古い学校だと、オムニの人工芝がツギハギになっているようなところもあるが、さすがにそんなこともない。砂の一粒一粒の大きさまでそろっていそうな、鮮やかな緑色をした綺麗なオムニだ。

 教育係の森が自分たちの試合を観にくるというので、村上と石川はそれについてきたようだった。クセの強い一年二人だが、森はなんとなくあしらえるようになってきたらしい、遠目にはきちんと先輩をしているように見える。

「嵐山、別の会場行ったのかな」

 駆がぽつりとつぶやくと、曲野が答えた。

「んー、サボってそうだな」

「やっぱ?」

「応援きたところで声聞こえなそうだけどな」

「それなんだよな」

 駆は頭をかく。

「まあ、いないやつのことあんまり気にしてもしょうがないだろ。試合に集中」

 曲野がグリップテープの巻き具合を確かめながら言う。

 公式戦でのダブルスの試合は久々だった。去年の新人戦の後、都選抜の結果は散々で――それは自分たちが調子悪かったとかそういうのではなく、やはり私立が強過ぎたという点に尽きるのだが――藤ヶ丘高校は全国選抜には進めなかった。年内に公式戦がすべて終わり、そこからはいわゆるオフシーズン。だから公式試合は、実に五ヶ月ぶりくらいになる。

 市民大会などの小さな試合はあったが、基本的には練習とトレーニングにオフの日々は費やされてきた。駆は秋頃から改造に取り組んできた両手バックハンドと、ボレーの技術に磨きをかけていた。変なクセがつく前に、正しいフォームと正しい打点を覚え、体に染みこませる。やることは気が遠くなるほどの反復練習。ひたすら手出しのボールを打ち、外野に間違いを指摘してもらい、それを修正。ミスを少しずつ減らして、正しいショットの割合を上げていく。八割を越えたら、今度はネットの向こうから、ラケットでボールを出してもらい、より活きたボールで再び反復練習。手出しのときは自分もその場からほとんど動かないが、ラケット出しのときは左右に振ってもらって、動きながら打つ――いや、実際には打つ瞬間には止まっていなければならない。移動方向に体を流しながら打つと、手や腕の力だけでラケットを振ってボールを打つ、いわゆる〝手打ち〟になってしまって、全然パワーが伝わらない。左右に振り回されても、しっかりボールに追いついて、一度止まって、手出しのときと同じ正しいフォーム、正しい打点で一定のボールを打つ。それができるようにならなければ、試合でなんて到底使えない。

 インハイ予選はいい機会だった。結局のところ、実戦で試してみなければ、どこまで身になっているのかはわからないのだ。

 トーナメント表を見ていると、互いに順調なら三回戦で松耀のペアに当たることがわかった。サメ先輩の言葉を思い出して、松耀の実力を測る意味でも三回戦までいっておきたいなと思う。

 一回戦。ラケットトスで相手が勝ち、リターンを選択した。

「どっちがサーブ打、」

 駆は途中で口をつぐんだ。曲野の目が、俺が打つと言っていた。コイツも、久々の公式戦でうずうずしているようだった。

「前、出るぞ」

 曲野が言った。サービスダッシュの宣言。

「一本先行な」

 駆が言うと、うなずいた。

 久々のハイタッチは、心地よく春のコートにこだました。