――騙された。

 人の波に押し出されるようにしてヴィクトリア駅を出た柊二郎は、思わずそう叫びそうになるのを必死に堪えた。

 棒立ちになった柊二郎に、周りの人波は訝しげな一瞥を送るが、それも一瞬のことですぐに関係ないとばかりに急ぎ足で通り過ぎてゆく。ここで柊二郎が叫び声をあげていたら、この街ではまだ少ない東洋人の奇行に、もっと注目が集まっていただろう。

 薄い霧が立ち込める駅前には、二階建ての乗合馬車や日本ではめったにお目にかかれない最新式の自動車が行き交っている。歩道は山高帽をかぶったフロックコート姿の男性や、長いスカートの裾を翻す若い女の子、どっかりと腰を下ろした掃除夫の老人など、たくさんの人で埋め尽くされていた。

 だが、柊二郎が足を止めたのは、駅前の人の多さや、初めて目にする異国の景色に驚嘆したためではない。

 自動車の屋根に胡坐をかいている男。

 馬車の馬をじいっと見つめている幼い男の子。

 掃除夫の老人に向かって何かを必死に訴えている老婆。

 視界に入った彼らの体はうっすらと透けている。普通、生きている人間の体は透けないものだ。つまり、彼らは本来ならばこの世にはいないはずの存在だ。

 一般的な名称は幽霊。

 幽霊はうじゃうじゃいた。その数は東京以上ではないだろうか。

 道行く人は幽霊に気付いている様子はない。彼らを視界に捉えているのは柊二郎だけのようだ。

 柊二郎は呆然とした。

 こんな話は聞いていない。聞いていた事はむしろ逆だった。だから、わざわざ海を越えてきたのだ。英語を基礎から学び直し、船酔いにも耐え、鉄道酔いにも耐え、一か月以上もかけて死にそうな思いで日本からここ英国までやってきたのに。

 どうしてこんなことになったのか。



 柊二郎が二十世紀になったばかりのロンドンの街に一人降り立つことになった、その事の発端は兄の一言だった。

 遡ること約二か月前のこと。その日、自室にいた柊二郎は、家の女中さんたちによる襲撃を受けた。そのまま引きずるようにして連れて行かれたのは、家の居間で、畳に洋風の椅子やテーブルが置かれたそこには、母、兄、弟と家族が勢ぞろいしていた。

 真正面に座っていた兄は、寝ぐせだらけの頭によれよれの浴衣姿の柊二郎を見据えると、目を眇めて出し抜けに言った。

「お前、ちょっとロンドンに留学してこい」

 柊二郎はくっきりと濃い隈がある目を大きく見開いた。

「……はあ?」

「聞いていなかったのか? だから、留学してこいと言ったんだ」

 柊二郎の反応に、兄は苛ついたかのようにもう一度大声で告げる。

「聞いてるよ、聞いていたけど……そんな、急に言われても困るよ。すぐに行けるような場所でもないし」

「なにもすぐに行けと言っている訳ではない。出発は半月後だ」

「半月後?」

「ああ。もう外務省に申請してあるから、旅券は発行してもらえるはずだ。時間はあることだし、ゆっくり準備するといい」

「時間なんて全然ないじゃないか!」

「安心しろ。船の手配もしておいた。ひと月以上の船旅になるそうだ」

 急な話の展開についていけず、唖然とする。同じ日本語を話しているのに会話が嚙み合わない。

「兄さん……それをいつ決めたんだ?」

 柊二郎がおずおずと尋ねると、兄は堂々と答えた。

「昨日だ」

 柊二郎は文字通り頭を抱えた。

「どうして決める前に本人の了解を得ないんだよ」

「聞いてもお前は嫌だというだろう? ならば聞くだけ時間の無駄だ」

 柊二郎が思わず「冗談だろう」と小声で呟くと、耳聡い兄は「冗談ではない」と生真面目に返してきた。そうだ。堅物である兄がこんな冗談を言うわけがない。

 柊二郎の家である朝倉家は、もともと代々製糸業を営む零細商家だった。柊二郎の父が明治の初めに絹織物を海外へ輸出し始めたのだが、思いがけないことに日本の絹製品は評判がよく、その恩恵を受けた朝倉家は一代で財を成した。その父は、つい半年前、この世を去った。現在その会社は兄が受け継ぎ経営している。

 つまり柊二郎は兄に養われている立場であり、逆らう権利などなきに等しく、ぐっとおし黙るしかない。

「やっぱり、柊二郎兄さんには無理じゃないかな。だって、日本の大学だってまともに行けずに休学したままだろう?」

 代わりに口を開いたのは、末の弟だった。

「引きこもりに留学は厳しいんじゃないのかな」

 現在柊二郎は通っていた大学に休学届を出している。そして何をするでもなく、絶賛引きこもり中だった。

「だからだ。このままだとその馬鹿は卒業もできずに退学、ろくな仕事にも就けず引きこもったまま、ただの穀つぶしになる」

 仮定形ではなく断定形だった。それが兄の中では揺るがぬ未来であるらしい。そして弟も否定はしなかった。むしろ「まあ、そうか」と納得した。

 柊二郎も反論できなかった。努力家で優秀な兄、世渡り上手でなんでもそつなくこなす弟に比べ、柊二郎は昔から何をするにしても平均以下の落ちこぼれ。体もヒョロヒョロで頼りなく、兄弟の中のみそっかすである。大学に入れたのも奇跡だと言われたものだ。

「無職のままでは外聞が悪い。そうなるといずれうちの会社で引き取らねばならなくなるだろう。そうなると多少は使い物になってもらわなくては困る。何もできない人間を雇うような余裕はないんだ。だが、こいつの場合、語学ならば少しは使い道がある」

 何をやっても駄目な柊二郎であったが、兄弟よりも少しだけ英語ができた。

 父の仕事の関係上、外国人が家に出入りする機会が多く自然と興味を持つようになった。今では簡単なことならば意思疎通ができるまでになっている。神も柊二郎を見捨てず、一つぐらいは得意分野と呼べるものを残しておいてくれたらしい。

「例え大学を卒業できずとも留学の経験があれば人の見る目は変わるものだ。帰ってきたらこき使ってやるから、ロンドンへ行って箔を付けて来い」

 兄のことだから冗談でもなく、本当に休みなくこき使うつもりなのだろう。

 休みなく働かされる未来が容易に想像できて、柊二郎に悪寒が走る。

 絶対に嫌だ。何としてでも断ろう。徹底的に部屋に閉じこもろう。

 反駁しようとしたときだった。

「柊二郎さん。母さんもね、いいお話だと思うの」

 とずっと黙り込んだままの母が急に話に入り込んできた。内容はともかく、その口調は明るい。父が亡くなったばかりの頃はずっとふさぎ込んでいたが、時間と共に生来の何事にも前向きな母に戻ったようで、少し安心する。

「このままずっと家にいたら、病気になってしまうわ。今も顔は青いし隈もあって、病人みたいじゃないの。昔は誰よりも活発で、目を離すとすぐに迷子になってしまうくらいだったのに。亡くなったお父さんも、きっと心配していらっしゃるわ」

「今、幼い頃のことを持ち出されても……」

「だからね、少し環境を変えてみるのもいいと思うのよ」

「少しどころじゃない気もしますが」

「じゃあ、思い切って環境を変えてみるのもいいと思うの」

「表現の問題ではないです。それに、そもそも何故ロンドンなんですか?」

「ロンドンにはブルックご夫妻が住んでいらっしゃるでしょう?」

 母が言っているブルック夫妻とは、父が仕事で世話になったイギリス人夫妻のことだ。仕事の都合で日本に来るたびに朝倉家に滞在していて、柊二郎も懇意にさせてもらっている。

「ブルック夫妻が留学するなら是非って提案してくださったのよ。それにね、ロンドンには幽霊なんかいないらしいの。だから、柊二郎さんもきっと安心して勉強ができるわ」

 母の口から飛び出した言葉に、思わず表情が引きつった。

 柊二郎が大学を休学して引きこもっている原因、それが幽霊だった。

 幼い頃、池で溺れ死にそうな目に遭った日を境に、突然その姿が見えるようになってしまった。今だって、窓からじっと室内を覗き込んでいる老婆の霊が見える。その不気味な幽霊から、柊二郎は目を背けた。

 道端で、駅で、学校で――どこへ行っても幽霊たちは柊二郎を無遠慮に見てくるし、ちょっかいを出してくる。血みどろの首のない幽霊に追いかけまわされたこともある。どうにか中学(五年制の旧制中学)はぎりぎりの成績で卒業できた。しかし、その後にどうにかこうにか進学できた大学は、様々な人が出入りするせいか幽霊が集まりやすかった。常に誰かに見られているという状況に耐えられずに休学、部屋に閉じこもるようになってもうどれだけの日々が過ぎたことだろう。

 しかし、これは家族の間だけの秘密だったはずだ。約束をしたわけではなかったが、暗黙の了解というやつだったのだが。

「お母さん、まさかそのことをご夫妻に話したんですか?」

「そのことって幽霊のこと? ほんの少しだけよ。お手紙でね、ロンドンに幽霊はいますかって聞いてみただけよ」

 母はにこにこと笑っている。

 それと相反するようにして、兄の眉間の皺は深くなり、弟は苦笑した。

 二人とも柊二郎の話はまるで信じていない。「馬鹿なこと言うな。幽霊などという非科学的なものなどいない」と兄は怒るし「どっちかっていうと、兄さんが幽霊みたいだよね。見た目が病人みたいで不気味だし」と弟には笑われる。だからこそ、ここ最近は兄弟がいる前でこの話題は一切出していない。

 彼らの気持ちもわからないではない。二十歳になった男が幽霊などとなに寝ぼけたことを言っているのか、と彼らの立場であれば柊二郎もきっと思った。

「本当に親身になってくださったの。お知り合いが働いているからって大学も紹介してくださるそうよ。それに下宿先も、ご夫妻の屋敷に住めばいいっておっしゃっているわ。こんないい話ないと思うの。柊二郎さんたら、幸運ね!」

 母は無邪気にはしゃいだ。

 絶句している柊二郎に、弟がニヤニヤしながら言った。

「とにかく行ってみたら?」

 柊二郎は無責任に面白がっている弟を睨みつける。

「そんなに軽く言うなよ」

「家長はもう決めちゃっているし、これじゃあもう説得は無理だよ。僕はいい話だと思うよ。面倒な手続きはみんなやってくれるし、下宿先ももう決まったようなものだし、何の障害もないじゃないか」

「他人事だと思ってるからそんなに適当に言えるんだ」

「そんなことないよ。それに、本当に幽霊がいないかもしれないよ」

 その言葉に、柊二郎の心が傾いているのも事実だった。

 幽霊がいない心安らかに暮らせる場所。それは柊二郎にとって夢のような話だった。

 ずっと気を張っていて、満足に眠ることもできないでいた。それに引きこもる自分に対する家族の視線も痛かった。心は限界だった。ここではないどこかへ行きたいと思っていた。例えどんな土地であっても、今いるここよりはずっとマシだろうと。藁にでもなんにでも縋りたい、そんな気持ちだったのだ。思えば、判断力が低下し、深く考えることができない状態だったのだろう。冷静に考えればそんな都合のいい場所はないとすぐわかることだったのに。

 もともと拒否権はなかったのだ。流されるようにして、柊二郎は兄の命令に頷いた。

 そして半月後に柊二郎はヨーロッパ行きの船に乗り込んだ。横浜港を出発し、香港、シンガポール、スリランカなどを経由してきた。港に寄港するたびに船を下りたが、どの街でも幽霊を見かけた。やっぱり幽霊は国境も人種も関係ないんだなあと落胆した。でも心のどこかで、ロンドンは違うかもしれない、ブルック夫妻の証言もあるのだし、と小石程度の希望も持っていた。が、しかし、ヴィクトリア駅に降り立った今、そのちっぽけな希望も粉々にうち砕かれた。

「シュウ、どうしたの?」

 駅を出たまま立ち尽くしていた柊二郎を不審に思ったのだろう。駅で出迎えてくれたブルック夫人が心配そうに声をかけて来た。

「あの、ロンドンに幽霊なんていたりしないんですよね?」

 思い切って柊二郎は質問した。夫人は「幽霊?」と目を真ん丸にしてからふっと微笑んだ。

「いると思うわ。私は見たことがないし、霧のせいで見間違ったなんていう人もいるけれど、ロンドンの人間はみんないるって信じているし、幽霊の話が大好きなのよ」

 予想外の夫人の答えに、柊二郎に衝撃が走る。

「……母は夫人にロンドンに幽霊はいないと、そう手紙で聞いたと言っていましたが」

「それは変ね。私はあなたのお母様にそんなこと聞かれてないわよ?」

 そういうことか。今になって合点が行った。

 母が言っていたことは嘘で、すべては引きこもっていた柊二郎を家から引きずり出そうという家族の策略だったのだろう。

 睡眠不足やストレスのせいで目が曇っていた自分は、まんまと彼らにはめられたのである。家族のしてやったりという顔が頭を掠め、笑い声も聞こえた気がした。

「――騙された!」

 今度こそ、柊二郎はロンドンの曇った空へ向かって叫んだ。



 胸が苦しい。苦しさに柊二郎が目を開けると、自分の胸に乗っかっているふさふさの灰色の毛並みの猫と目が合う。鼻がぺしゃんこに引っ込み、目つきも悪く、とてもかわいいとは言えないような造作だ。

「ベス……エリザベス……重いんですけど……」

 柊二郎が文句を言っても、ベスは降りるどころか大儀そうにくわっと欠伸をした。

 まあ、重くても眠れるし、と瞼を閉じようとすると、ドアを激しくノックする音がして「いい加減起きてちょうだい」という家主の声がした。

 柊二郎はちらりと窓辺に目を遣った。暗い色の重苦しいカーテンの隙間からは、弱々しい明かりが漏れていて、とっくに日が昇っていることを証明している。家主の足音が遠ざかる。するとベスが床に飛び降り、ドアをがりがりとひっかき始めた。そのひっかき音に、柊二郎は二度寝をすることを諦めた。

 ベッドから降りて扉を開けてやると「ご苦労」とでも言うように鼻を鳴らし、ベスは悠然と階段を下りて行った。

 柊二郎は一つ息をつくと、のろのろと洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗った。

 家族に騙され、ロンドンにやって来てから早一か月が経とうとしていた。

 本来ならばブルック夫妻の屋敷に居候させてもらい、そこから大学に通う予定だった。しかし、屋敷は伝統ある古い建物で、生きている人間よりずっと幽霊が多いという有り様だった。ある意味日本の自宅よりも酷いところに長居できるわけもなく、柊二郎はすぐにどこかに下宿することを決めた。

「この屋敷が気に入らなかったのかしら……」

 ブルック夫人に悲しまれて心が痛んだが、それよりもここを出なくてはという意志が勝った。屋敷に留まれば柊二郎の精神は持たない。

 良心の呵責に苛まれながら、柊二郎は新たな下宿先を探した。

 新聞広告で下宿の募集をかけ――これにはたくさんの応募があった――見つけ出したのがブルームズベリーの端に佇むこの下宿だった。ハムステッドにあったブルック夫妻の屋敷より、ロンドンの中心地に近いこの地域にもまた、幽霊はたくさんいた。

 しかし、この下宿には幽霊を追い払ってくれる救世主がいたのだ。あの少々不細工で無愛想な猫、エリザベス(通称ベス)だ。

 ベスの目にも幽霊が見えるらしい。彼女は部屋に入ってきた幽霊にすぐ気付き、ずっと威嚇し始めるのだ。すると幽霊たちは気まずそうに出ていく。下手なお札やお守りよりもずっと効果があった。

 建物の状態や下宿代よりも、ベスがいるからここに決めた。当然そんなことはブルック夫妻には言えないので、柊二郎が聴講生となったロンドン大学に近いからという理由を押し通して納得してもらった。無論その大学も幽霊ばかりなので通っていない。

 顔を洗って着替えが終わると、階段を下りて食堂に向かう。

 食堂には真っ白な髪の小柄な老婦人がいた。下宿の主人であるグリーン夫人だ。さきほど、ドアをノックしていたのは彼女だろう。

 窓の近くで新聞に目を通していた夫人は、柊二郎に気付くとその顔を上げた。

「おはようございます、シュウ。やっと起きてきましたね。朝食のベルを鳴らしたのはもう二時間も前ですよ? いつになったら、時間通りに起きてくれるのかしら」

「……すみません、グリーン夫人」

 朝とは言えないような遅い時間である。他の下宿人はとっくに出勤なり登校なりしたようで、女主人以外には誰もいなかった。

 柊二郎が椅子を引いて腰かけると、メイドが無言でパンと皿を持って来た。皿にのった少し焦げたベーコンと卵はすっかり冷めている。起きたばかりでまったく食欲はなかったが、夫人の手前しぶしぶパンにかじりついた。

(味噌汁が飲みたい……)

 日本でも洋食は食べていたが、毎日続くとやはり母国の味が恋しくなるものだ。

 もそもそとパンを咀嚼していると、目の前に紅茶が置かれる。ミルクと砂糖が添えられ、英国ではそれらをたっぷり入れて飲むのが一般的らしい。

「まったく、物騒な世の中ですね。メイフェアのほうではまた窃盗事件があったそうですよ。この前ケンジントンでもあったばかりなのに。これも使用人が犯人ですって。いったい何件目なのかしら」

「はあ」

 憤然とする夫人に、柊二郎は適当に相槌を打つ。

「シティでは強盗、ピカデリーでは殺人、イースト・エンドは言うに及ばずね。あら、この殺人事件も犯人が捕まっていないのね。警察はいったいなにをしているのでしょう。さっさと逮捕してほしいものだわ」

 グリーン夫人は読んでいた新聞を畳むと、眼鏡をはずした。

「ところで、シュウ、今日こそ大学に行くのかしら?」

 今日も来たな、と柊二郎は身構えた。自分にできるだけの最高の笑顔を作る。

「いえ、今日は部屋で勉強しようかと思っています」

「昨日もずっと部屋に閉じこもったきりだったでしょう? たまには学校で勉強するのも気分が変わっていいと思いますよ。今日はこんなにいい天気ですし」

 グリーン夫人は窓の外を見た。が、青空どころか何も見えない。また霧が出ているのだろう。

「いい天気、ですか?」

「冬のロンドンにしては悪くない天気なんですよ。霧も薄いし」

 グリーン夫人はこほんと一つ咳払いをした。

「とにかく、一人で部屋に閉じこもってばかりでは体に毒です。実際、あなたいつも顔色が悪いもの。たまには誰かとお喋りでもしたほうがいいですよ。英語を勉強しにきているんですからね」

「顔色が悪いのは生まれつきですからご心配なく。グリーン夫人たちと話しているだけでもいい勉強になりますよ」

「わたくしはともかく、メイドたちは駄目です。下町訛りがきつくってひどいものだわ。ちゃんと仕事をしてくれるからいいけれど、あなた、あんな喋り方なんて覚えないでくださいね」

「僕にとっては早すぎて聞き取るので精一杯です」

 ここイギリスでは階級によって喋り方が異なる。そのため中産階級であるグリーン夫人と労働者階級で下町育ちのメイドたちでは、同じ英語であるのにまったく喋りが違うのだ。メイドたちの言葉――コックニーというらしい――のことをグリーン夫人は大いに嫌っていた。柊二郎もまだまだ聞き取るのに苦労している。

「大学に行ってたくさんの人と友達になるのがいいと思いますよ。それか、この下宿の人と交流するのがいいわ。みんないい人なんですよ。ウィルクスさんなんてどうでしょう。年も近いし雑誌記者だからいろんなことを知っているんですよ。ちょっと変わり者ですけれどね」

 柊二郎が目をそらすと、グリーン夫人はゆっくりと首を横に振る。

 そして「わたくしはあなたを心配しているのです」と続ける。

「シュウ、わたくしはブルック夫妻にあなたのことをくれぐれも宜しくと頼まれています。だからあなたがちゃんと大学に行って勉強ができるようにサポートする義務があるのです。夫人からはあなたの心は不安定で体調もよくないと聞いています。たった一人で異国に来たんですもの、心細いのは当たり前です。だから体調が優れないときには無理に大学に行かなくてもいいとは思います。でもね、あなたがロンドンへ来てもう一か月経つでしょう? なのに、まだ数えるほどしか大学に行っていないではないですか。このままだと、ブルック夫妻に合わせる顔がありません」

 これはまずい。このままだと、夫人のご高説にからめ捕られて、夕方まで付き合う羽目になる。

 どうも夫人はロンドンにおける柊二郎の保護者を気取っているようなのだ。子供たちが独り立ちをしていて寂しさがあるのかもしれないが、一番はブルック夫妻に面会したせいだろう。よく世話してやってほしいと言われ、すっかり張り切ってしまったのだ。

「大学に行くのが嫌なら、そうだわ、わたくしと一緒に孤児院に行きましょう。今度チャリティーコンサートを開く予定でその準備があるんです」

 柊二郎は無理やりパンとベーコンを口の中に詰め込むと、甘ったるい紅茶で流し込んだ。そして、カップを置いて立ち上がる。

「出かけてきます」



 コートを羽織り、帽子と傘を手にして外に出ると、あまりの寒さに体が震えた。もう二月も後半に入っているが、まだまだ冬の空気が居座っているようだ。

 グリーン夫人のお節介から逃げるために外に出たものの、大学に行く気にはなれなくて、仕方なく道をそぞろ歩く。この寒さのせいか歩いている人はあまり見かけない。繁華街の近くならば、道を埋め尽くすほど人でいっぱいなのだろうけれど、そういうところは幽霊もいっぱいだ。

 とぼとぼと歩いていると、霧の中から辻馬車が現れ、柊二郎の横を通過していった。風が吹く。肌を刺すような冷たさに、柊二郎は亀のように首を竦めた。

 はあっと白い息を吐く。

 正直なところ早く日本に帰りたい。けれど、すぐに帰れる距離でもない。

 少なくとも兄が定めた留学期間が過ぎるまではこの街にいなくてはならない。たった一年の辛抱だ。そう自分に言い聞かせるけれど、いつも天気が悪くどんよりとしたこの街に十か月以上もいなくてはならないのかと思うと気が滅入る。

 灰色の空に、日によっては鳶色や黄色、黒い霧に包まれるこの石造りの街は、そこここに最新の技術が溢れ、それでいて芸術的で、成程東京に比べてかなり進んだ大都会なのだと思わせられる。けれどどこかそっけなく、殺風景で、疎外されているように柊二郎には感じられた。自ら望んで留学したわけではないという意識もそれを助長させているのかもしれない。自分のような田舎者は相応しくないと、どこか居心地が悪くなる。

 そのせいだろうか、気候や風景ばかりでなく、この国の文化にも柊二郎はなかなか馴染むことができないでいた。パンとポテトと肉ばかりの脂っこい食事は来て早々飽きてしまった。暖房の石炭の煤煙で喉が痛くなるのも辛い。

 それから言葉だ。ある程度英語が喋れると言っても、やはり母語のようにすらすら話せるわけではない。もどかしさが積もって、自分の至らなさを思い知らされる。日本を出てからずっと日本語を話していない苦痛も、それに拍車をかけているのかもしれない。

 異国での生活の不満や悩みを共有できるような友人でもいればまた違うだろうが、幽霊に会うのが嫌で外に出ないのだからそれもできない。結果精神的な鬱屈は徐々に溜まってゆく。

 せっかく海を渡って来たというのに、結局は日本にいた頃と変わらない状況、いや、むしろ悪化しているといえるかもしれない。日本では家族や友人と話したりしてそれなりに人付き合いはしていたのだから。

 苦労してロンドンまで来た意味はあったのだろうか。ここに来たことは無駄ではないのだろうか。幽霊がいない安息の地を望み、家族の視線から逃れるために日本を逃げ出してきた罰が当たったのかもしれない、なんてことまで考えてしまう。

 この憂鬱な気候と、寒さも相まってか、気分はどんどん下降する。

 もう少し暖かくなれば、こうして身を縮めることもなくなり、気持ちも少しは明るくなるのかもしれないが、柊二郎はあまり春という季節が好きではない。

 自分の人生が大きく変わったのが春だったからだ。

 十五年近く前のことだ。その日、幼い柊二郎は家族と一緒に上野にある公園を訪れた。ちょうど満開だった桜を見に行ったのだ。母が懐かしげに何度も言う通り、当時の自分は活発で、どこか落ち着きのない子供だったらしい。

 経緯は覚えていないのだが、その時も家族からはぐれ、迷子になってしまった。

 花見客でごった返す中、泣きながら家族を探していたときだった。優しい声がかけられた。

「迷子になったの?」

 見上げると、柊二郎よりもずっと年上の、十代後半だと思われる少女が立っていた。

「泣かないで。一緒に家族を探そう」

 少女は柊二郎を安心させるように言って、手を引いてくれた。

 少女の言葉で記憶にあるのはそれだけだし、顔もはっきりとは思い出せない。覚えているのはその手が温かくて頼もしかったこと、そして彼女が着ていたのが、深い青色の――瑠璃色の布地に花柄の着物だったことだけだ。

 それでも、彼女を思い返せば心が温まるもので、きっとこの淡い想いは柊二郎にとって初恋にあたるものなのだと思う。

 彼女と共に公園内をあちこち回っていると、おそらく柊二郎の目が家族の姿を捕らえたのだろう。少女の制止を振り切ってそれを追いかけ、足を滑らせた柊二郎は傍の池に落ちた。呼吸ができない苦しさにひたすらもがいていると、少女の白い手が伸びてきて柊二郎の手首を掴んだ。

 意識があったのはそこまでで、気が付くと池の畔に寝かされていた。傍には大泣きしている母をはじめとした家族の顔があった。兄に聞くと、柊二郎が池に落ちたことに気付いた花見客たちがひっぱりあげてくれたのだそうだ。いつの間にか少女の姿は消えていて、お礼を言えなかったのが今でも心残りだ。

 ここで終わればよい思い出として残るだけだったのだろうが、そう現実は甘くない。

 その直後に、おどろおどろしい幽霊を見て気を失い、それを境に幽霊が見えるようになってしまうという衝撃があったため、いい思い出がすぐに嫌な記憶に塗りつぶされてしまった。

 そんなわけで寒さが緩むことはありがたいが、春になっても気分は高揚しないのだ。だが、このまま歩き続けても体が冷えるだけ。

(本でも買いに、チャリング・クロス・ロードにでも行こうか)

 チャリング・クロス・ロードには古本屋街がある。地下鉄や乗合馬車を使わなくても行ける徒歩圏内にあり、柊二郎にとってロンドンにおける唯一の外出先だ。兄にそんなことが知られたら、ロンドンに何をしに行っているのかと激怒されそうだが。

 目的地は決まったものの、周りの景色を見て柊二郎は困惑した。

(ど、どこだ、ここ?)

 ロンドンの街は細い道が入り組む複雑な作りになっていて、行動範囲が狭くとも、柊二郎は何度も道に迷っていた。あっという間に方向感覚が麻痺してしまうのだ。周りの景色も石や煉瓦造りの建物がずらりと並ぶばかりであまり変化がないのもその一因だろう。まるで迷路である。

 そして今日もまた、似たような灰色の建物の隙間を進んでいたら、見知らぬ下町といったような通りに出てしまっていた。

 そこは市場であるらしく、道路の両側にずらりと露店が並んでいる。一番賑わう時間は過ぎているようで、ところどころ店を畳んでいる露店もあった。

 聞こえてくる言葉も下町訛り。幽霊たちもブルームズベリーの幽霊よりも遠慮がなく、柊二郎の近くまでやってきては「中国人だ」と口々に言い合っている。柊二郎は、日本人だという主張をぐっとこらえた。

 ここはいったいどこなのだろう。無理に進まずに一度戻ったほうがいいだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていたその時、柊二郎はある一点に目を奪われた。

 茶色や灰色ばかりの視界の端に、鮮やかな青色がちらりと見えたのだ。夜が明ける直前のような、凪いだ海のような深い青の布地。その上には薄桃色の花の柄が散っている。それはまさしく、日本の着物――それもあの日、桜並木の下で、自分の手を引いてくれた少女が着ていたものと同じ色、柄だった。

 その振袖に身を包んでいたのは、長い黒髪に黒い目の日本人の少女だ。十代後半ぐらいだろうか。遠目から見てもかなり可愛らしい顔立ちをしていることがわかる。少女はなにをするでもなく、露店の端に佇み、ぼうっと宙に視線を彷徨わせていた。まるですべての感情を放棄してしまったかのような、人形のような無表情。それなのに、どこか寂しさや苦しさを感じて、柊二郎は胸が締め付けられるように苦しくなった。

 その姿はうっすらと透けていて、周りの人々が彼女を気にしている様子はない。間違いなく幽霊だ。

 いつもならばどんな幽霊も無視して通り過ぎるのに、何故か目が離せなかった。まるで引き寄せられるように、足が無意識に彼女の方へと向かっていた。

 少女の目の前に立つ。柊二郎に気付いた少女は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。

「こんにちは」

 何語で何と話しかけてよいのかわからず、迷った挙げ句日本語で言った。

 すると少女は心底安堵したように笑い、日本語で返してきた。

「……あなたの言葉、わかります」

「当然だよ。日本人なんだから、日本語くらい」

「あなたも日本人なんですか?」

「そうだよ。君もそうだろう?」

 どうも滑稽なやり取りだが、少女の表情は真剣で、ふざけているようには見えない。

「君はどうしてこんなところにいるの?」

 柊二郎の質問に、少女は悲しげに首を横に振った。

「わかりません」

「え? もしかして、迷子?」

「いいえ、そういうことではなく、気付いたらこの街にいたんです。ここには、その箱に付いてきたんです。とても大切なものだから、離れたくなくて」

 少女の視線の先には両掌に載るぐらいの大きさの小箱があった。七宝焼の箱だ。西洋風の意匠だが、日本特有の植物の文様が装飾されている。ところどころ汚れていて、古そうな印象だ。

「じゃあ、この箱は、君のものなんだね?」

「そうです」

 箱が置かれているのは、木製の台車の上だった。その箱の他にも、スプーンやら皿やら古道具が置かれている。そしてその奥に中年の女性が立っていた。右頬に大きな痣があるその女性は、胡散臭げに柊二郎を睨んでいる。どうやら、この女性が路上で販売している物であるらしい。突然足を止めて異国の言葉をぶつぶつ呟き出したのだから、冷たいその反応も当然だろう。まだまだ少女に聞きたいことはあったが、ここでこれ以上話すのは無理そうだ。

 少女を見れば瞳が不安そうに揺れていた。このまま柊二郎が立ち去ってしまうと思っているのかもしれない。幽霊と関わりたくないというのが本音だが、彼女を見捨てるようで気が引けた。

「これ、いくらですか?」

 柊二郎が英語で尋ねると、女性は途端に表情を緩ませた。

「この箱かい? お兄さん、お目が高いねえ。こりゃあお買い得だよ。十シリングで買えるんだからね」

「十シリング? そんなに高いんですか?」

 柊二郎は顔をひきつらせた。ロンドンでは一シリングあれば、それなりの質の食事がとれる。そんなに高額なものがこんな下町の路上で売られていることに、疑念を抱くのは普通だ。ぼったくりだろうか。

「高くないさ。むしろ安いぐらいだよ。他では見かけない貴重な品だよ。ほら、この細かいデザインをよくご覧よ。見事なもんだろう? こんな素晴らしいものが場末で売られているなんて変だと思ってるんだろうけどね、これはちょっといわくのある品なのさ。遠い昔、さる貴族の館にあったものなんだ。そこの令嬢が身分違いの恋をして、駆け落ちしたときに持ち出してきたのさ。それがいろんな人の手に渡って、あたしのところに行きついたんだよ」

 それはどう考えても嘘だろう。もとの持ち主はそこにいる幽霊の少女なのだから。

 だが、それを女性に言っても不審に思われるだけだ。

「少しまけてくれませんか?」

「仕方がないね。九シリング十ペンスでどうだい」

「二ペンスしか安くなっていないんですが」

「二ペンスも安くしてやってるんだ、お買い得だよ」

 女性は早口でまくしたて――そのせいで柊二郎にはほとんど聞き取れなかった――小箱を柊二郎の目の前に突き付けた。

「さあ、買うのかい? 買わないのかい?」

 完全に足元を見られているのはわかっている。けれど、柊二郎には彼女にこれ以上の交渉を持ちかける技量も度胸もなかった。

 素直に財布を取り出した。

「わかりました……買います」



 小箱を売っていた女性に道を尋ねると、ここはどうやらパディントン駅からそう遠くない場所で、定期的に開かれている市場であるらしい。それならばと、古本屋に行く予定を変更し、それほど離れていないところにあるハイド・パークに行くことにした。

 煤煙にまみれた大理石のマーブル・アーチの脇を通り、演説の声が響くスピーカーズ・コーナーを横目に見ながらハイド・パークに入る。この寒さだというのに、公園内にはちらほらと人影が見えた。冬枯れで木々の葉はなく寂しい雰囲気だが、緑色の芝生の上では子供たちが駆けまわっていて賑やかだった。

 柊二郎はできるだけ目立たないところにあるベンチにどっかりと座り込んだ。

 疲れた。下宿を出てからそれほど経っていないのに、すごく疲れた。

 ふと、少女を見遣ると、彼女は遠くに見えるサーペンタイン池を眺めていた。ここに来るまでずっと、街の景色にはしゃいでいたというのに、口を閉ざし、真剣な眼差しで池を見ている彼女に柊二郎は動揺した。

「どうかした?」

「……この景色、どこかで見たことがあるような気がするんです。どうしてなのかはわかりません。でも、懐かしい気がします」

「じゃあ、この公園に来たことがあるのかい?」

「いいえ、来たのは、初めてだと思います。それに……何かが足りない気がするんです」

 少女はそう言って首を横に振った。

「まあ、公園の景色なんて、どこも似ているだろうし、最近は日本にも洋式庭園はあるから、もしかしたら日本でそういう公園に行ったことがあるのかもしれないよ」

「そう、ですよね」

 少女はまるで自分を納得させるかのように頷いた。そして、今度は物珍しそうにあたりを見回した。

「あの木は楓? 松や梅はないんですね。あれは柳でしょうか、あっちのは桜の木?」

「さあ、どうだろう。花が咲いていないし、よくわからないな。公園の木なんてよく見たことはないけど……日本とは違う品種ならあるかもね。こっちでも桜桃は食べられているから」

 幽霊と話している。意思疎通ができている。それが柊二郎には不思議で仕方がない。

 これまで柊二郎にとって幽霊とは不気味で忌避する存在だった。それ故に幽霊が自分に話しかけたりちょっかいを出してきても、見ない聞かない構わないの三ない運動を実施し、ことごとく無視をしてきた。

 それなのに、彼女に話しかけたのは、そして自分の財布からお金を出してまで彼女を連れてきたのは、同じ日本人だからというだけでなく、きっと彼女が身に着けている瑠璃色の着物が、柊二郎の幼い頃の記憶のものにとても似ていたせいだろう。

「君はいったい何者なんだ? どうしてロンドンに?」

 柊二郎が尋ねると、少女の表情が陰った。

「わからないんです。私、覚えていることがとても少なくて……」

 どうやら少女は記憶喪失のような状態であるらしい。

 彼女が着ている着物は上等なもので、話し方からしてもある程度の教育を受けているようだし、それなりの身分の出であることがわかる。言葉も地方の訛りがないから、きっと東京近辺の出身だろう。

 しかし、そんなお嬢さんの私物があんな下町の路上で売りに出されるだろうか。生前の彼女に何かあったのかもしれない。例えば少女の家は裕福だったが何かの理由で破産してしまい、資産が売りに出され、それが流れに流れてあんなところに来てしまった。その衝撃で記憶が飛んでしまった、とか。

「覚えていることなら何でもいいから話してくれないかな。その箱を追いかけてあの場所まで来たって言っていたよね? その前にはどこにいたんだい?」

「それが、よく覚えていないんです。気付いたら、あの女の人の後ろを付いて歩いていて……」

「じゃあ、あの古道具売りのところにたどり着いた経緯はわからないのかい? この国に来た時のことも?」

「はい……残念ながら」

 少女は後ろめたそうに目をそらした。

「他に覚えていることは?」

「大きなお屋敷のことを覚えています。この小箱はそこで大事に飾られていました。ときどき、女中さんがお掃除に来ていました。そのときにはこの箱の中にはいろいろ入っていたんです。鼈甲の櫛と、小さな十字架がついた首飾り、兎の帯留めです」

 彼女は指折り数えながら言った。

「その屋敷はどこにあるのかは?」

「わかりません。覚えているのはその部屋のことだけなんです」

「その女中さんは東洋人だった?」

 柊二郎が問いかけると「いえ」と少女は否定した。

「黒髪でしたけど、顔立ちはこちらの方そのもので、黒い衣装に白い前掛けを付けていました。言葉もわかりませんでしたし」

 そうなると、その屋敷があるのは日本ではなく英国、もしくは他の西洋の国だろう。完全に作り話だと思っていたが、この少女の話からすると、あの女性の売り文句も嘘ではないかもしれない。もっと詳しく聞けばよかったと後悔する。

「日本のことは覚えている?」

「多分、ここが私の家なんだろうなあって建物は覚えています。木でできた家で、とても広々としていました。あの家のことを思い出すととても懐かしくて。私の部屋があったのは南側のとても日当たりがいいところでした。その部屋から見た庭の景色も覚えています。よく、というかそれぐらいしか覚えていないから、私はその景色がよっぽど好きだったんでしょう。一番好きだったのは春です。暖かくなると桜が咲くんです」

「桜、かあ……」

 着物の柄も桜のようだし、少女はよほど桜の花が好きなんだろう。

 柊二郎にとっては、桜もまた複雑な思い出のひと欠片だが。しかもここは公園と池まで揃っている。嫌な記憶を思い出しそうになり、柊二郎はすぐに話題を変えた。

「家族のことは?」

「覚えていません……覚えているのは私をお世話してくれていた女中さんがいたことぐらいです。その人は私のことをお嬢様と呼んでいて、いつも一緒にいてくれていました」

 やはり彼女が良家の令嬢なのは間違いないようだ。

 そして同時に、記憶の中の少女と目の前の少女は違うのだと確信した。あの日の少女は一人で歩いていた。良家の令嬢があんな人が多い場所で一人っきりになることはないだろう。たまたま同じような着物だったというだけだ。

「まだ、名前を言っていなかったね。僕は朝倉柊二郎です。君は?」

「名前も……」

「それも覚えていないのか」

 少女はしゅんとして俯いた。

「いや、ちょっと驚いただけで、君を責めたわけじゃないんだよ。ただ名前がわからないとなんて呼んだらいいのかわからなくて不便だなって思っただけで」

 柊二郎が慌てて弁明すると、少女はぱっと顔を上げた。

「あの、それだったら名前を考えてくれませんか?」

「え? 僕が?」

「私の本当の名前がわかるまでの仮の名前を付けてください。そうすれば、不便ではないでしょう?」

 彼女の言い分はもっともだが急に言われても困ってしまう。女の子の名前など、ちっとも思い浮かばない。柊二郎は少し失礼だと思いながらも少女をじいっと見つめる。

 彼女を見つけたとき、一番印象が強かったのが鮮やかな彼女の着物だった。霧のせいで輪郭がぼやけていた景色の中で、その色は際立ち、目が引き付けられた。

「じゃあ……瑠璃、さん」

「瑠璃?」と少女はその名前をしみじみと呟くと破顔した。

「いい名前です。ありがとうございます、柊二郎君」

「何故、君付けなの?」

「そのほうがいい気がして。柊二郎君だって、私のことさん付けじゃないですか」

「僕もそのほうがしっくり来る気がしたんだ」

 小さな女の子と乳母らしき女性が柊二郎たちの目の前を歩いて行く。その先は公園の入り口だから、きっと散歩が終わって帰るのだろう。帰宅にしては早い時間だが、彼女たちは正しい。この季節、ロンドンの日照時間はとても短い。早めに帰らないと、真っ暗闇の中を歩くことになってしまうのだ。

「そろそろ帰ろう」

 柊二郎はベンチから立ち上がり、小箱を抱えた。すると瑠璃が心細気に言った。

「あのう……わ、私も行っていいですか?」

「ここまで話しておいて、さすがに置いてはいかないよ。着替えのときには部屋の外に出ていて欲しいけどね」

 柊二郎が苦笑して答えると、瑠璃はこくこくと頷く。

 公園を出てオックスフォード・ストリートをまっすぐ進み、帰路は迷うことなくすんなりと下宿まで無事に戻ってこられた。

 煉瓦造りの四階建ての下宿先を見た瑠璃は、わあっと歓声を上げた。

「素敵なところですね」

「そうでもないよ。狭いし隙間風が吹き込んできて、この時期は寒くて眠れないんだ。下宿の主人は、お喋りで、お節介もやいてくるし」

「ふふっ、楽しそうでいいですね」

 グリーン夫人に見つからないように、そそくさと階段を駆け上がる。そして自分の部屋に向かおうとしたところで、ばったり同宿人と鉢合わせた。

 立っていたのは、柊二郎の向かいの部屋に下宿しているヘンリー・ウィルクスだった。フリート・ストリートの出版社に勤める雑誌記者だとグリーン夫人から聞いている。彼とはこの下宿に来たばかりのときに自己紹介をしたきりで、会えば挨拶をかわす程度でまともに話をしたことがない。

 今回も軽い会釈をして通り過ぎようとしたところ、ヘンリーがにこやかに話しかけてきた。

「シュウ、ちょうどよかった。君の部屋を訪ねようと思ったところだったんだ」

「え? ウィルクスさん、何かご用ですか?」

「ウィルクスさんなんて他人行儀だな。ヘンリーと呼んでくれよ」

「は、はあ……」

「それはそうと、今夜は何か予定はあるかな?」

「まあ、空いていると言えば空いていますが」

 柊二郎は言葉を濁したのだが、ヘンリーは嬉しそうに笑った。

「じゃあ、決まりだ。パブに飲みに行こうよ。行きたい店があるんだ」

「突然そんなことを言われてもですね……」

「そのまま出られるかい? ああ、服装は気にしなくてもいいよ。庶民的な店だから、お洒落なんかしなくても大丈夫さ。むしろお洒落なんかまったくしないほうがいい。僕も今コートと帽子を取って来るよ」

 ヘンリーは一方的にそうまくし立てると、柊二郎の答えも聞かずにバタバタと自分の部屋に戻って行った。

 英語がわからない瑠璃は目を真ん丸にしていた。

「お友達の方ですか?」

「いや、同じ下宿の人」

「そうなんですか。慌ただしい方ですね」

「そして人の話を聞かない人だよ。困った。僕は行くだなんて一言も言っていないのに……」

「どこかへ誘われたんですか?」

「パブへ行こうって言われたんだ」

「パブ?」

「パブリックハウスっていう、要は酒場のことだよ」

 殆ど話したことがない東洋人を飲みに誘うだなんて、どんな心境の変化があったのだろう。もしや、グリーン夫人に何か言われたのだろうか。「あの引きこもりの日本人をどこかに連れて行ってくれませんか? 大学にも行かずにいつも一人で、友達がいなくてかわいそうなの」とでも言われ、しぶしぶ声をかけてきたのかもしれない。いや、多分その線で間違いないだろう。

「まったく、余計なことを……」

 今更お節介な家主に恨み言を吐いてももう遅い。そもそもはっきりと断らなかった自分が悪いのだ。気は重いが行くしかないだろう。

 はあっと重い溜め息をつき顔を上げると、瑠璃と目が合った。彼女の瞳は好奇心で輝いている。

「……付いて行っていいですか?」

 勝手に付いてくることもできるのに、許可を仰ぐところが何とも律儀だ。

 そして今回もまた柊二郎は否とは言えなかった。



 柊二郎とヘンリーは連れだって下宿を出た。その後ろには瑠璃も付いてくる。

 もうすでにあたりは薄暗くなっていて、街灯の明かりが灯り始めていた。冷たい風が吹くと、まともにあたる顔の皮膚がひりひりと痛む。冬のロンドンの夜なんて一番外に出てはいけないと思うのだが、ヘンリーは平然としていた。この差は何なのだろう。やはり育った環境の違いだろうか。

「それで、どこのパブに行くんですか?」

「ブラック・ライオンというパブだよ。ずっと行きたかったんだけど仕事で行けなくて、僕も初めて行くんだ。そう遠くはないところだよ」

「有名な店なんですか?」

「ある意味有名かな。何しろ幽霊がいるパブだからね」

 思わず柊二郎は回れ右をして下宿に駆け戻りそうになった。

 ちらりと瑠璃の期待に満ちた顔が見えて思い留まる。

「今度うちの雑誌で幽霊の特集記事を載せることになったんだ。今日はその取材を兼ねているんだよ」

「……幽霊の記事なんて、そんなの需要あるんですか?」

「何を言っているんだい、シュウ」

 ヘンリーは大げさすぎるほど目を見開いた。

「今、ロンドンは空前の心霊ブームなんだよ。霊媒師が大活躍で、あちこちで降霊会が開かれているんだ。いかさまも多いようだけれどね。僕が行った降霊会もいかさまで、せっかく幽霊の声が聞けると思ったのにがっかりしたよ。エクトプラズムもただの布だったんだ」

 空前の心霊ブームだと。そんな馬鹿な。

 柊二郎の表情が険しくなるが、隣のヘンリーは気付かないようで喋り続ける。

「降霊会はかの有名なコナン・ドイル氏も積極的に参加していてね、幽霊の存在を科学的に研究するグループもできたりしているんだよ」

「ロンドンには幽霊はいないって聞いてたんですが……」

「それは面白い冗談だね。君はそんな嘘を信じたのかい?」

 ヘンリーは喉を震わせて笑った。

「ロンドンは世界一呪われた都市なんて呼ばれていて、幽霊があちこちで目撃されているんだ。何しろ長い歴史がある都市だからね。一番有名なのはロンドン塔だよ。多くの王族や政治犯が幽閉されたり処刑されたところだ。首のないアン・ブーリンや、強引に王座に就けられたのにもかかわらず九日で廃位となったジェーン・グレイ、幼くして殺されたエドワードとリチャード、二人の王子の姿も目撃されているよ。議会を爆破しようとしたガイ・フォークスの呻き声も夜な夜な聞こえるらしい。タワーヒルやタイバーンには処刑場もあったし、幽霊が出るホテルや劇場もたくさんあるんだ」

 愕然とする。確かに東京よりもロンドンの方が幽霊を多く見るような気はしていたが、そんなに恐ろしい場所ばかりだとは思わなかった。

「今日これから行くパブもその一つさ。多くの人が幽霊を見ているらしいんだ。今日こそ幽霊が見られるかもしれないと思うと、楽しみで仕方がないよ」

 ヘンリーは歌でも口ずさみそうなほどの上機嫌だ。柊二郎はこっそりと背後を盗み見た。

 ヘンリーのすぐ後ろには瑠璃が歩いている。その他にもたくさんの幽霊たちが、彼女を珍しそうに観察していた。つまりは彼の周りは幽霊だらけな状況である。それに気付いていないということは、期待に胸を膨らませている彼には悪いが望みが叶うことはないだろう。そして自分は幽霊が見えることを絶対に内緒にしておこうと心に決める。

 幽霊がいるパブなんて心底近づきたくもないが、ヘンリーも瑠璃も楽しみにしているし、こんな雰囲気の中今更帰るだなんて言い出せなかった。

(仕方がない……幽霊にちょっかい出されても、絶対に無視しよう)

 その後はヘンリーの幽霊談義を聞きながら、ひたすらガス灯に照らされた道を歩いた。暗いこともあってたちまち方向感覚が麻痺してしまったが、ヘンリーによるとコベント・ガーデンの方へと向かっているという。一人だったら絶対に迷って早々に諦めるだろうなと思っていると、目的地へたどり着いたようだった。

「あった。あそこだよ」

 ヘンリーが見上げた先には、小さな明かりに照らされた古い看板があった。

 店名の通り黒い獅子が描かれている。看板にしては地味で、そこに店があることを知らなければ通り過ぎてしまいそうだ。

 店の周りもしんと静まりかえっていて、本当に営業しているのだろうかと心配になった。

 何となく入りにくい雰囲気だが、ヘンリーは躊躇うことなく重い扉を開けた。

 途端に楽しげな人々の声が勢いよく耳に流れ込み、煙草とアルコールのにおいが鼻を衝く。薄暗い店内は人でいっぱいだった。客は労働者らしい男ばかりだが、ちらほらと女性の姿もあった。少しの隙間を縫うようにして、店員が料理を運んでいる。満員御礼の大盛況だ。扉や壁が厚く、外に音が漏れにくいだけだったようだ。

「いやあ、すごい混んでるなあ。巷じゃあ酒は健康によくないって風潮なのに」

 ヘンリーはカウンターで飲み物を注文した。ご丁寧にも、柊二郎の分も頼んでくれたらしく、目の前にこげ茶色の液体がなみなみと注がれたグラスが差し出される。好意を無下にできずに受け取ると、瑠璃が興味深そうに覗き込んだ。

「それは何ですか?」

「ビールだよ。ビターと呼ばれる種類のね」

「おいしいですか?」

「苦くて僕は苦手」

 生まれて初めて見る酒場の様子に興味を惹かれたようで、瑠璃は姿が見えないのをいいことに、あちらこちらのテーブルを見て回る。

「シュウ、奥の席が空いているよ」

 ヘンリーに促され、柊二郎も店の奥に目を向けた。カウンターからビールを渡してくれた店員もちらりとそちらへ視線を向けたような気がした。ヘンリーが手招きしていたのは、カウンターの一番奥の席だった。

 そこには先客がいた。柊二郎よりも少し年下と思われる青年がこちらを向いて座っていたのだ。柔らかそうな癖のある髪に、大きな瞳が印象的だ。小柄で――あくまで英国人の中ではだが――少年のように見えるのに、この酒場の雰囲気に馴染んでいて貫禄をも感じさせる。柊二郎が思わずじっと見てしまったのはその彼の独特な空気もあったが、何よりもその服装が奇妙だったせいだ。上着も靴も、それこそ小説の挿絵に出てくるような古風な衣装なのだ。

 青年の足元には大きな犬が寝そべっていた。黒い毛並みはつやつやとしていて、触り心地がよさそうに見える。

「シュウ、いつまでそんなところに突っ立っているんだい。こっちに座りなよ」

 ヘンリーが座ったのは青年の隣で、柊二郎に座るよう促したのはまさに彼が座っている席だった。ヘンリーには彼が見えないのだろう。ということはやはり幽霊だ。黒い犬についても何も言及しないので、この犬も右に同じである。

 柊二郎は仕方がなく、更にその隣の椅子に腰を下ろした。

「どうして隣に座らないんだい?」

「特に理由はありませんよ。それより、取材をするんでしょう?」

「そうだった!」

 ヘンリーはビールのグラスを持ったまま、他の客のテーブルに行ってしまった。お目当ての幽霊はここにいるのに、と思ったがそれを彼に知らせる義務はない。

「やあ、ここへ来るのは初めてかい?」

 隣の幽霊が話しかけてきたが、柊二郎は無視してビールを一口飲んだ。やっぱり苦い。顔を顰めると、幽霊の青年は笑い声をあげた。

「苦い? やっぱりお子様には早いのかもな」

 子供扱いされてむっとした。自分の方が子供っぽい癖に。

 それがかすかに表情に出てしまったようで、青年はにやりとした。

「あんた、俺のこと見えてるんだろう?」

 言い当てられて肩が動く。

「やっぱりな。それも声が聞こえてるなんて珍しい。あんた、中国人か?」

 見えてない。声なんて聞こえてない。そう自分に暗示をかけた、のだけれど。

「柊二郎君!」

 タイミングが悪いことに、瑠璃が戻ってきてしまった。

「酒場って賑やかですね! 言葉はわからないけれど、みなさんとても楽しそう。見ていて飽きないです。あら?」

「やあ、かわいいお嬢さん」

 彼はにこやかに瑠璃に声を掛けたが、英語なので彼女にはわからず、首を傾げた。

「なあ、彼女は言葉がわからないのか?」

「柊二郎君、この方はなんと仰っているんでしょう?」

 困ったような幽霊二人に同時に違う言語で質問され、柊二郎は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。



「彼女は英語がわからないんだ」

 柊二郎は観念して英語で答えた。

 瑠璃にも幽霊の青年の言葉を訳してやると、瑠璃はぺこりと頭を下げた。そして彼の足元にいる犬に気付くと、ぱっと笑って犬の頭を撫で出した。どうやら、幽霊同士は触れ合えるらしい。犬も気持ちよさそうに目を細めて尻尾を振った。

「あんたたちは会話ができるんだな。ということは同じ中国人?」

「日本人だよ」

「日本人か。日本人に会うのは初めてだよ。この国の東洋人といったら、中国人の方が身近だからさ」

「いいよ。よくそう言われるし」

 柊二郎が何でもないように答えると、青年はにっこりと笑った。

「ようこそ、ロンドンへ。歓迎するよ。この街は初めてかい?」

「まあね、留学で来たんだ。大学に通っている……一応」

 通っていると、はっきり断言はできなかった。何しろ絶賛不登校中だ。

「彼女はあんたが連れてきたのか?」

「いや、彼女とはロンドンで出会ったんだ。生前の彼女の私物がロンドンで売られていて、彼女はそれに憑いていた。彼女には記憶がないみたいで、何故彼女のものがロンドンで売られていたのか、どうしてここに来たのかはわからないらしいけれど」

「へえ」

 と彼は目を丸くした。店内のかすかな光を反射して、その緑色の虹彩が浮かび上がった。大きなその目は猫に似ているなと柊二郎は思った。

「彼女はどのくらい記憶が残っているんだ?」

 柊二郎はすぐに口を開かなかった。

 瑠璃の個人的な情報を、会ったばかりの素性も知らない幽霊に喋るのは憚られた。

「幽霊のことは幽霊に聞いた方がわかることもあると思うけどな」

 確かに、理には適っているような気はする。瑠璃のことをこのままにはしておけないし誰かに相談したい、と心の底では思っていた。柊二郎一人で抱え込むには重すぎるとも。

 それに彼にはもう二度と会うことはない。話してしまっても問題ないはずという考えもあった。あれだ、「旅の恥は掻き捨て」というやつだ。それで何か打開策があるのならもうけものぐらいに考えればいいと自分に言い聞かせた。

 柊二郎はビールを呷ってから、口を開いた。

「彼女が覚えていたのは、日本の自宅のことや、彼女の小箱が保管されていた屋敷のこと、売りに出される直前のことぐらいだよ。あと、ハイド・パークの景色に見覚えがあるとも言ってたかな。でも、そのくらいだよ。何しろ彼女は自分の名前さえも憶えていなかったんだ」

「でも、さっきあんたは彼女の名前を呼んだだろう? 『ルリサン』って」

「ないのは不便だから名前を考えて欲しいって言われたんだよ。それで、彼女の着物の色から取ったんだ。日本語で瑠璃色というから」

「印象に残る色だよな。ラピスラズリの色だ。いい名前じゃないか」

「そりゃあ、どうも」

「彼女が憑いているのは小箱だったな。それは今どこに?」

「下宿先に置いて来た」

 さすがにここに持ってくるのは不自然だし、瑠璃もあの箱から離れても大丈夫そうだったので、下宿に置いてきたのだ。

「壊れていたりしなかったか?」

「傷はあるけど、壊れているところはなかったよ」

「中には何も入っていなかったのか?」

「なかったよ。瑠璃さんの記憶によると、前はいろいろ入っていたらしいけど」

 彼はちらりと瑠璃を見ると「成程な」と呟いた。

「それで何かがわかるのかい?」

「勿論。彼女が記憶をなくした原因がね」

「え? 本当に!?」

 柊二郎が叫ぶと、近くでカードゲームに興じている一団が何事かと目を向けて来た。ばつが悪くなり、柊二郎は背を丸めて縮こまる。そしてこそっと質問を続けた。

「彼女はどうして記憶がないんだ?」

「まあ、まあ、落ち着けよ。順を追って話そう」と幽霊は勿体付けるように言った。

「俺たち幽霊は生きてる人間からすると、自由気ままだと思われがちだが、実はいろんな制約に縛られている。その最たるものが、この世に留まるためには何かに取り憑かなくっちゃあならないってことだ。それは思い入れのある物や場所だったりする。例えるなら船の錨のようなもので、大きく離れることはできないが、多少周りをぶらつくことはできる」

「そうなのかい?」

「ルリの場合、ロンドン市内は自由に歩けるよ。例外はロンドン塔ぐらいだな」

「そこに何か?」

「あそこにいる幽霊たちは気位が高くってさ。何せ、王族を始め、貴族や政治家と大物ぞろいだ。勝手に入ろうものなら、お付きのものに追い出されるんだよ」

「は、はあ……」

 幽霊の社会もなかなか複雑なようだ。

「そして取り憑いた対象には記憶を預けるんだ。そうして幽霊となってから得た知識や情報を更に積み上げて、記憶を書き加えてゆく。人間なら脳に記憶を蓄積していくわけだけど、幽霊にはそれがない。そもそも肉体がないんだからな。その対象を肉体の代わりにすることで幽霊も日々成長することができるってわけだ。だから今日あんたやルリに出会ったことを、俺は明日も忘れずに覚えていられる」

 柊二郎は素直に感心した。幽霊が見えるようになって久しいがそんな仕組みになっているとは知らなかった。

「でもその弊害もあるのさ。対象にした物や場所に変化が起きると、預けてある記憶も変わってしまう。幽霊になってから得たものは勿論、生前の記憶までもな。もし対象が粉々になるまで壊れてしまえば、記憶もすべて失うんだ。自分が何者なのか、何故死んだのかもわからなくなる。そして自分の存在意義を見失い、心が壊れて彷徨うだけの亡霊となる」

 彼は目を伏せて寂しげに語った。もしかしたら、これまでにそうした心が壊れてしまった同胞を見た経験があるのかもしれないと思うような横顔だった。

「じゃあ、瑠璃さんは……」

「おそらく、その小箱に記憶を預けていたんだろうな。そして、中身が取り出されたから、記憶も失った」

「それは、中にあったものを元に戻せば、彼女の記憶は戻るかもしれないってこと?」

「おそらく」と青年ははっきりと言い切った。

 柊二郎は瑠璃にもう一度目を向けた。細く白い手で黒い犬を撫で続けている彼女の瞳は、楽しげだった先ほどとは打って変わって、どこか茫洋としているように見えた。その横顔に、柊二郎の胸が痛む。瑠璃はやはり不安なのだ。自分の名前さえもわからないのだから、当たり前だ。

「記憶さえ戻れば……」

 彼女自身、何者なのかを思い出す。名前も、何故ロンドンのあんな場末に来ることになったのか、その理由も。

 瑠璃の黒髪と振袖が揺れる。彼女と、あの日、柊二郎の手を引いてくれた少女は別人だ。頭ではわかっているが、どうしても彼女と瑠璃の姿が重なって見えてしまう。だからだろうか。放って置けないと思った。

 彼女の記憶の欠片を探して、記憶を戻そう。

 まずは明日、小箱を買った場所へ行ってみよう。小箱を売っていたあの女性ならば何か知っているかもしれない。またガラクタを売りつけられるかもしれないけれど、うまくいけば、箱の中身がどこにあるのか、その手がかりが掴めるかもしれない。せめて、それがロンドンの中であってくれたらいいのだが。

 しかしそれで何の情報も掴めなかったときはどうしようか。知り合いも少ないから伝手もない。数少ない知り合いだって、ブルック夫妻やグリーン夫人にはこんな話はできないし、ヘンリーには雑誌のネタにされるだけだ。そもそも親しい友人もいないから、こんなところで変な格好をした幽霊に相談する事態になっている。それも、もう二度と会うことはないだろうから、という前提でだ。

「協力しようか?」

 ずっと相談相手になっていた青年が軽い調子で申し出た。

「手伝うよ。あんただけじゃあ頼りないしな」

「いや、でも……」

「大丈夫、大丈夫。そう心配するなって。こう見えて自由な時間はたっぷりあるんだ。何しろ幽霊だからな。それに、ロンドン在住歴は長いから、きっと役に立てるよ」

「ありがたいけど彼女のものがロンドンにあるとは限らないし……」

「それだけの手がかりじゃあ、砂漠の中から一粒の砂を見つけ出すようなものだろう? それに幽霊には幽霊のやり方があるのさ。なあ、ブレイク」

 青年の足元に寝そべっていた黒い犬の耳がぴくりと動いた。むっくりと起き上がり、大きな欠伸をした。

「こいつの鼻はすこぶる優秀なんだ。もしかしたら、その小箱のにおいから中身の場所を探し当てることができるかもしれない」

「本当かい?」

「多分ね」

「この犬は君の犬?」

「いや、こいつはセントポール大聖堂の近くのニューゲートに住み着いている犬さ。ニューゲート監獄の黒い犬って噂を聞いたことないか? この街では結構有名なんだけど」

「か、監獄?」

「そう。昔々、魔法を使ったっていう罪でとある学者がニューゲート監獄に収監されたんだ。その年は食糧不足で囚人たちは空腹のあまりそいつを食べてしまった。その夜から炎の目を持ち、口から血を滴らせた黒い犬が目撃されるようになり……」

「説明しなくていいから!」

 監獄と聞いただけで恐ろしくなり腰が引けた。ただの大人しい犬だと思っていたのに、そんないわくつきの幽霊だったとは。愕然としつつその犬を見ると、注目されたのが嬉しかったのか彼はぱたぱたと尻尾を振った。

「一人で探し回るより、俺たちと一緒の方が早く見つかると思うけどね。それが彼女のためにもなる」

 そうだろう、と同意を求められ、柊二郎は口ごもった。

 それを同意と受け取ったのか、青年はにやりとした。

「決まりだな」

「いや、僕はそんなこと言っていないけど」

「ノーと言わなかっただろう?」

「そうだけど」

「だったら、イエスってことだろう?」

「それは違うと思う」

「じゃあ、どんな答えがあるんだよ」

「それは……えーと」

「この店から出るのも久しぶりだなあ。外はどれくらい変わっているんだろう」

「君、僕の話を聞いているのかい?」

「さあ、忙しくなるぞ。ルリ、これから宜しくな!」

 彼は瑠璃の両手を握ると、ぶんぶんと振った。

 状況がわかっていない瑠璃は目を白黒させている。

 親身になっているというより、面白がっている気がしてならない。彼に相談したことを早くも後悔し始めた。やっぱり無視すりゃよかった。柊二郎に演技力がないばかりにこんな事態になってしまうだなんて。

「そういえば、名前を聞いていなかったな」

「……朝倉柊二郎です」

「シュージロー、シュージローって呼びにくいな」

「周りの人にはシュウって呼ばれてるよ」

「じゃあ、シュウだな。俺のことはジャックと呼んでくれ」

 宜しくと言って、ジャックは右手を差し出した。少年のような無邪気な笑顔に逆らえず、柊二郎はその手を握る素振りをした。

 多分周りからは一人で怪しげな動きをしているように見られているんだろうなあ、と思いながら。