「では、特に問題は起こっていないということでしょうか」

「ええ、おかげさまで。仕事は忙しいですけどね」

 火乃宮祈理の問いかけを受け、その向かいに座った青年は人当たりのいい笑みとともにうなずいた。

 見たところ二十代前半、精悍な中背の若者だ。ワイシャツにスラックスというどこにでもいそうな服装で、頭は五分刈り。仕事疲れによるものか目の下には若干の隈が浮かんでいたが、落ち着いた温和な態度を保っていた。首に掛けた名札には勤務先の病院の名前と並んで「経理部 成瀬啓市」と記されている。誠実な人柄を感じさせる成瀬の言葉に、祈理はなるほどと相槌を打ち、手元の手帳に「問題なし」と書き込んだ。

 蒸し暑さがまだまだ続く、九月初めの木曜日の午前九時過ぎ。京都市役所の主事補である火乃宮祈理は、直属の上司ともども、ここ、右京区太秦の総合病院を訪れていた。

 病院最上階にある、職員用の食堂スペースである。午前中の早い時間帯とあって人気がなく、祈理達のテーブル以外は無人だ。成瀬はそれを確認するようにフロアを見回すと、祈理に向き直って苦笑した。

「すみません。わざわざ職場まで来てもらってしまって」

「いえ、お気遣いなく。お忙しいようでしたから」

「まあ、それはそうなんですが……。でも驚きましたよ。前に名前を変えてもらった時は、新しい身分に不都合があったら連絡しろって紙を一枚渡されて、それで終わりだったのに」

「今年入った新人がくそ真面目でいらっしゃるからな」

 呆れたぼやきがぼそりと響く。声を発したのは、祈理の隣に座っていた長身で細身の青年だ。いきいき生活安全課の主任、つまり祈理の上司かつ先輩であり、名前を変えながらずっと京都の公認陰陽師を続けている異人、五行春明である。いつものように公務員らしからぬ春明に、祈理は例によってしみじみと呆れた。

 春明は今日も真っ赤なシャツにストライプ柄のスーツを重ねており、緩めたネクタイは白で、ぴんぴん撥ねた短い髪は銀色。椅子の背もたれにどっかりと体重を預け、長い脚を無造作に組んでいる。紺のサマースーツの上下に白のブラウス、角ばったフレームの眼鏡やアップにしたセミロングの髪、まっすぐ背筋を伸ばして座る姿勢など、いかにも真面目な公務員然とした祈理とは色々な意味で対照的だ。小さな溜息を落とした後、祈理は成瀬の言葉をメモする手を止めて春明に横目を向けた。

「異人法四十二条の四には『前項に従って異人が氏および名を変更したとき、公認陰陽師もしくはそれに準ずる者は一箇年以内に当人に接触し、不都合等が生じていないか確認しなければならない』とありますし、市民の方の声を直接聞くのは、職務遂行の上で当然のことだと思います。主任こそ、もう少し真面目にしてください。仕事中ですよ?」

「うるせえ。こっちはこのスタイルで昔からやってきてるんだ。なあ算盤坊主?」

「まあ、そうですね」

 本当の名前で呼びかけられ、成瀬は苦笑しながら同意した。

 算盤坊主。京都市の隣町、亀岡市に伝わる妖怪である。計算を間違えたことを罵られて自死した僧侶の霊が転じたものとも言われ、その名の通り、算盤を手にした僧の姿で夜半に屋外に現れるとされているが、成瀬の両手は空いていた。

 つい先ほどここで会った時、算盤坊主なのに算盤を持っていないんですねと尋ねたら、「今は小さい電卓がありますし、スマホでも計算できますからね」と返されたことを祈理は思い出す。算盤ではなくとも計算用の道具を持ち歩いてさえいれば、算盤坊主としてのアイデンティティは保てるし、存在が薄れたり消えたりすることもないらしい。祈理は改めて妖怪――異人の特異性を実感し、直後、その事実をあっさり受け入れている自分に少し驚いた。半年前とは大違いだ。

 祈理はもともと公務員志望であったが、妖怪やオカルトについては何の興味もなく、その存在を全く信じていない人間だった。なのでこの春、短大を出て京都市役所に入庁するなり今の部署に配属された時は相当困惑したものだが、色々あったおかげで、この状況にも慣れてきていた。

 祈理の所属先は、京都市環境福祉局いきいき生活安全課、通称「陰陽課」。平安朝の陰陽寮の流れを汲み、公認陰陽師を擁する特殊な部署である。業務内容は、日本国憲法に謳われた「全体の奉仕者」の理念に則り、人間と交じって暮らしている妖怪達の平穏な生活の維持。行政組織の一部でありながら妖怪の代表者により構成された外部組織「御霊委員会」の直属という扱いとなっており、妖怪達にかかわるトラブルの解決や予防、京都の街の霊的な治安の保全なども担っている。陰陽課と妖怪達の存在は一般には伏せられているが、古くからの市民には案外知られていたりもする。

 ちなみに、「妖怪」という表現については「『妖しい』に『怪しい』という名前は実情にそぐわないし差別的だ」との指摘があることからあまり使われず、「異人」「異人さん」と呼ばれるのが一般的だ。同じ理由で、陰陽課の活動の根拠である規則「異人福祉施行規則」も「異人法」と通称されている。ちなみに公認陰陽師は「陰陽屋」と呼ばれることが多い。

 なお、異人とひとくくりに言ってもその内実は幅広く、特に歳の取り方は異人の種族や格によって大きく異なる。人間同様に成長して年老いるものや、あるいは不老であっても周囲の市民の認識を操って不自然さを感じさせなくしてしまうもの――これができるのは一部の大物に限られる――なら問題なく人間に交じって暮らせるが、問題はそれ以外の異人である。見た目がずっと変わらなかったり、あるいは極端に成長が遅く、なおかつ他人の認識をコントロールできない異人は、怪しまれないようにするため、定期的に名前や住所を変えることになっていた。

 新しい戸籍などの手配を行うのは陰陽課だが、当の異人にしてみれば社会的には全く別の人間になるわけで、ストレスも発生するしトラブルも起こりやすい。なので、改名を行った異人については最低一年間は経過を観察することと定められており、祈理達が今日ここを訪れたのも、昨年名前を変えた成瀬に話を聞くためであった。面倒がる春明を無理矢理説き伏せて連れてきたのだが、今のところ特に問題は起こっていないようだ。祈理が安堵していると、春明と談笑していた成瀬は丸い頭を撫でながら穏やかに続けた。

「陰陽課さんにはいつもお世話になっています。感謝してもし足りませんが、陰陽屋さんの言われる『昔』――平安の御代のことは、私は存じませんね。ほら、私は新しい異人ですから」

「新しい?」

「ええ、火乃宮さん。算盤坊主は近代になってから生まれた妖怪なんです。しかも生まれは市内ではなく亀岡ですからね。京都市に移り住んだのは精々百年ほど前ですから、この街ではまだまだ新参者で……」

「お前の話はどうでもいいよ。お前の知ってる範囲でも、俺はずっとこんなだったろって聞いてるんだ」

「確かに、私が知っている陰陽屋さんはいつもこんな感じですね」

「な? ほらみろ火乃宮」

「何が『な?』ですか。昔から不真面目だったからって、今適当にやってもいい理由にはなりませんよ」

 祈理が即座に切り返すと、自慢げな顔をしていた春明は「ぬ」と黙り込んだ。その通りですね、と言いたげに成瀬が微笑む。こんな上司ですみません。祈理は申し訳ない顔でうなずき返すと、少し心配そうな目を隣に向けた。

「主任がそういう方なのは知ってますけど、最近、いつも以上に態度が悪い……と言うか、落ち着きがないですよ」

「はあ? そんなことねえよ」

「そんなことあります。気もそぞろって言うんですか? 他に気になることがあるみたいな。この前のお休み、ほら、一緒に寺町に行った日からですよね」

「……よく見てやがるな、お前」

「自然に目に入るんです。同じ寮に住んでて、同じ職場で仕事してるんですから」

 ――それに、わたしは仮にもあなたの主人なのだから。

 祈理は心の中で付け足した。成瀬を初めとするほとんどの異人達は、春明の正体は平安時代の大陰陽師・安倍晴明だと思っているが、実のところは微妙に違う。安倍晴明が使役していた鬼神、いわゆる式神の一体がその正体であり、本名を「白獣」と言う。式神のエネルギー源は主との契約で、今の春明の主は色々あって祈理が勤めているのだが、この関係は二人だけの秘密となっていた。

「寺町で何かあったんですか?」

「うるせえな。何もねえよ」

 心配そうに覗き込む祈理の視線を振り払いながら、春明は足を組み替える。実を言えば何もなかったわけではない。先日、春明の以前の主、つまり安倍晴明を思わせる声がどこからともなく聞こえたのだが、春明はそれを祈理に話していなかった。

 振り向いても誰もいなかったし、気配もなく、聞こえたのはあの一回だけだ。ということは先の主への未練から来た幻聴か、あるいは単なる気のせいだろう、そうに違いない。ここ数日続けてきたように自分に言い聞かせると、春明は頭の後ろで掌を重ね、祈理をじろりと見て言った。

「それより仕事しろ仕事。勤務中の雑談は公務員的にはアウトだろ。ほら、算盤坊主に聞くことはもうねえのか? 聞いた話は全部書いたか? メモリならメモリらしくメモってろ」

「記録は終えましたけど、わたしはメモリじゃなくて祈理です」

 何度目かわからない反論とともに、祈理は手元の手帳を閉じた。ページの差し替えができるバインダー式のこの手帳は、就職前からの愛用品だ。分厚いそれをバッグに収めると、今日の仕事に先立ってコピーしてきた書類が目に入った。

 成瀬啓市こと算盤坊主についての、陰陽課が把握している経歴とプロフィールである。履歴書形式の書類で、異人の種族名や本名や出身、今までに名乗った人間名とその社会的身分などが手書きの文字で記されている。太秦の病院の経理部の成瀬啓市になるまでは、丹波計太の名前で十条でSEをやっており、その下の備考欄は丸々空欄。

 問題の多い異人の場合はここにトラブルについての記録がずらりと並ぶのだが、算盤坊主は僧だけあって実直で真面目なようで、少なくとも記録上では何の事件も起こしていない。こういう人ばかりだと平和で助かるんだけど。そんなことを思いつつ、祈理は姿勢を正して成瀬に向き直った。

「では、今日はありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ。何のお構いもできずに。もう聞き取りはお終いですか?」

「はい。何かありましたら、いつでも当課にご連絡を――」

「ちょっといいか? 浮かない顔してるが、何かあったか?」

 会話を締めくくろうとする祈理の言葉を、ふいに春明が遮った。え、と驚く祈理の隣で、春明は身を乗り出して成瀬をじっと見据える。腰を浮かせようとしていた成瀬は、虚を突かれたように静止したが、すぐに立ち上がって苦笑した。

「疲れだと思います。最近、上半期の決算処理で忙しかったので。この病院の会計システムは、使える時間が決まっているんです。定時に帰れるのはありがたいんですが、残業ができない分、休日出勤しないといけなくて」

「それは……大変ですね。労働問題の担当部局を紹介しましょうか?」

「そこまでの問題ではありませんよ。では、仕事があるのでこれで」

 気遣う祈理ににこやかに告げ、成瀬は一礼して職員用食堂を後にした。ドアが閉じるのを見ながら、春明は「はー」と感心と面倒くささの入り混じったような声を漏らし、腕を組んでぼそりと言った。

「わざわざ話を聞きに来るなんて、時間の無駄の極みだと思ったが――来てみるもんだな。あの坊主、何かしらのトラブルを抱えてやがる」

「トラブル?」

「顔色悪かったろ」

「まあ、少しお疲れなのかなとは思いましたけど……でもそれって、ご本人が言ってらっしゃったように、お仕事が忙しいからでは?」

 バッグを膝に置きながら祈理が首を傾げる。馬鹿言え、と春明は即答した。

「あいつは算盤坊主だぞ。計算することが生きがいで、電卓やキーボード叩くのが三度の飯より好きって妖怪だ。そんな奴が経理の仕事で疲れるか」

 そう言うと、春明は上着の内ポケットから二十センチ四方の四角い板を取り出した。薄い板には放射状の線が細かく刻まれ、幾つもの同心円が描かれた円盤が中心で固定されている。陰陽師が占いに用いる六壬式盤だ。使い慣れたそれをくるくると回しながら、態度の悪い陰陽師は隣から覗き込む部下に横目を向けた。

「お前、一目見て分からなかったのか? 算盤坊主は普段はもっとハキハキした奴なのに、見るからにキレがなかったろ」

「無茶言わないでください。わたし、成瀬さんとは初対面なんですから、普段がどうとか分かりませんよ……。と言うか、元気がなかったのって、名前も仕事も変わったからじゃないんですか?」

「どういうことだよ」

「ですから、成瀬さんは去年成瀬さんになったばかりなわけですよね。異人さん同士のお付き合いは続けられるにしても、自分が異人であることを隠していた人達との縁は全部消えてしまうわけでしょう? そこにストレスを感じるのも当然かと」

「バーカ」

 ストレートな悪態が祈理の推理をざっくり断ち切る。子供ですかと呆れる祈理に、春明は式盤を回したり止めたりしながら続けた。

「お前は人間基準で考えすぎなんだよ。人間と異人は違うんだ。人に交じって何百年と生きる異人にしてみりゃ、定期的に名前を変えるのは当然のことだ。ただの当然じゃねえ、千二百年越しの当たり前だぞ? 算盤坊主は比較的若い方だが、何百年も生きてるし、名前を変えるのも数十回目だ。そんなことでいちいちショック受けてたまるか」

「そういうものなんですか」

「そういうものなんだよ。納得しろ」

「主任がそう言われるなら納得しますけど……じゃあ、成瀬さんの悩みの原因は他にあるってことですよね? そこまで分かってるなら、どうしてもっとしっかり聞かなかったんです?」

「相手が算盤坊主じゃなかったらそうしてたがな。坊主だけあって口が堅いんだよ、あれは。他人に余計な迷惑や心配を掛けることが嫌いで、おまけに一度決めたことはやり通す。問い詰めた程度じゃ言わねえよ。俺が本気で脅せば別だがな」

「すぐ非人道的な行為に及ぼうとしないでくださいよ……。でも、放っておくのも心配ですよね」

「誰が放っておくって言った」

「えっ?」

「こっちのほうが早いから追及しなかっただけだよ。今日は木曜日で時間帯はこう、後はあいつの年齢を……よし、出た」

 春明の円盤を回す手が止まり、口元に自慢げな笑みが浮かぶ。祈理には未だに使い方のさっぱり分からないその道具を、春明は「見ろ」と突き出した。

「思った通りだ。見ろ、天盤の徴明と勝先が十二天将の騰虵を差している」

「……すみません。具体的にお願いします」

「手間の掛かる主だな。要するに、算盤坊主の心労には特定の原因ありってことだ」

「便利ですね。でも主任、そういうのって個人情報保護の観点からどうなんです」

「平安人に難しいこと言うなよ」

「生まれは平安でも今の主任は現代の公務員なんですよ? ちゃんとした人権意識を持ってもらわないと困ります。そもそもプライバシーという概念は日本においては一九五〇年代後半に」

「はいはい分かった分かった俺が悪かった。つうか、悩みの具体的な内容までは分からねえんだから、別に問題ないだろ」

 心底うんざりした顔の春明が、ポケットに式盤を片付けながら言う。祈理は「確かに」と納得した後、それはそれで不便だなと思った。


「で、この後どうするんです、主任?」

「どうするって何をだ?」

 職員用食堂から階下に向かうエレベーターで、祈理に問いかけられた春明はきょとんと目を瞬いた。何の話か分かっていない顔だ。これだから、と祈理が溜息をこぼす。

「成瀬さんのお悩みの件に決まってるじゃないですか」

「ああ、あれか。まあ、差し迫ったもんでもなさそうだし……一応気にしとくってことでどうだ? で、何か問題が起こったら、その時慌てりゃそれでいい」

「良くないですよ。ちゃんと調べるべきだと思います」

 祈理がきっぱり言い切ると、春明は何も反論せずに肩をすくめて首を振った。お好きにどうぞと言いたげな春明を見て、祈理は呆れた。

 せっかく知識もスキルも経験も申し分ないのに、仕事に対する姿勢はどうしていつもこうなのか。主としてたまには怒るべきだろうか。しかし仕事の上では自分は後輩の新人なわけで、となれば課長の枕木あたりにガツンと言ってもらいたいのだが……。

 とかなんとか祈理が悶々としていると、エレベーターが五階で止まった。壁の案内図によると、この病院は一階から三階までが診察室で、四階から六階は入院用の病室となっている。ということは入院している患者さんか、お見舞いのお客かな。祈理がそんなことを思うのと同時にドアがゆっくりと開き、車椅子に乗った老婦人が看護師に押されて入ってきた。

 若い看護師はまず三階のボタンを押し、いかにもチンピラな春明を見てギョッとした後、祈理の提げている京都市役所の名札に気付いて会釈した。祈理はぺこりとお辞儀を返し、老人に視線を落とした。

 薄いピンクの入院着姿に水色のカーディガンを羽織った、小柄で痩せた老女である。眠いのか、あるいは朦朧としているのか、目はほとんど閉じかかっており、祈理達には気付いていないようだ。髪は真っ白で顔には深い皺が刻まれていたが、くっきりとした太い眉や幅広の瞼、形よく尖った鼻などは、若かった頃の面差しを忍ばせている。車椅子には、老人の名前なのだろう、「高邑八重」とラベルが貼られていた。祈理がその名前を見るともなしに見ていると、ふいに訝るような声が耳に届いた。

「……お前?」

 声の主は春明だ。ポケットに手を突っ込んだまま、静かに息を呑み、眠ったような老女の顔を見つめている。

 と、その声と視線に反応したのか、老女が目を開けた。皺くちゃの顔がゆっくりと持ち上げられ、細い目が瞬きながらぼんやりと春明を見つめる。同時に、エレベーターが静止し、自動アナウンスの声が響く。

「――三階です」

 機械的な音声と同時にドアが開き、老女は看護師に押されて出て行った。春明は呼び止めようともせずにその姿を見送り、扉が閉まってからぼそりと言った。

「あいつ、もうあんな歳なのか……。早いもんだな」

 普段の春明らしからぬ静かな声が、下降を始めるエレベーターに染み入っていく。こんな声も出せるのかと意外に感じながら、祈理は春明を見上げて尋ねた。

「今のお婆さん……高邑八重さんって方。知ってるんですか?」

「ん。まあ……な。俺の知ってる頃は、高邑じゃなかったが」

「やっぱりお知り合いなんですね。声を掛ければ良かったのに」

「馬鹿言うな。しばらく見ない間に向こうは年寄りになってたのに、こっちはずっと若いままなんだぞ。どう説明しろってんだ? 俺の素性を正直に話したところで理解されるとも思えねえし、一般人に明かせる話でもない。大体、あいつと会ったのは何十年も前なんだ。向こうが覚えてるかどうかすら怪しいよ」

「覚えてらっしゃるようにも見えましたけど……」

「それはお前の勝手な判断だろ。普通の人間は忘れる」

 祈理の気弱な反論を、春明の断言がねじ伏せる。春明の口調はいつになく強い。祈理は思わず押し黙り、そして改めて春明の境遇を思った。

 春明は不老の式神なのでずっと若いままだが、周りの人間の知人は皆、自分を置いて歳を取り、そして先に死んでいく。老いないのは羨ましいけれど、春明の立場になってみればこれは相当寂しい状況だ。平安時代から現代までの間に、春明は一体どれだけの別離を経験してきたことだろう。

「主任……大変だったんですね……」

「はあ? 急にどうした? 何でちょっと泣いてるんだお前」

「だって、自分だけ置いて行かれるのって、想像してみたらすごく辛くて、主任が可哀想に思えてきて……。主任も泣いていいですよ」

「泣くか馬鹿。つうか勝手に慮って同情するな。迷惑だ」

「な、何ですかその言い方……! 主任は悲しくないんですか? みんなもっと長く元気でいてほしいとか、ずっと生きててほしいとか思わないんですか」

「さっきも言ったろ。人間と異人は違うし、俺らにしてみりゃそれが当然なんだから、いちいちめそめそしたりはしねえ。あと、『自分だけ置いて行かれる』とか言ったが、それも違う」

 ポケットに手を入れた姿勢のまま、春明がやれやれと首を振る。虚勢を張っているようには見えない言い方に、祈理は小さく首を傾げた。

「と言うと?」

「お前も知ってるだろうが。京都には異人がうじゃうじゃいて、そのほとんどは長命か不老で、俺はそのほぼ全部と顔見知りなんだ。こんな状況で一人だけ取り残される気分になると思うか?」

「あ、なるほど」

「分かったら涙拭け。もう一階に着く。ヤクザかチンピラが真っ当な社会人の娘を泣かせたみたいに見られちまうだろ」

 一階の表示が点滅するのを見ながら春明が言う。それは主に主任の服装と態度のせいでは、と祈理は思ったが、面倒なので反論せず、素直に涙を拭いた。同時にエレベーターが止まり、またもゆっくり扉が開く。春明はロビーに歩き出すと、祈理をちらりと見て続けた。

「あとな。寿命の長い短いについて、あんまり考えすぎるなよ」

「え? どういうことです?」

「まあ、お前は大丈夫だろうが……昔、そこのところを考え過ぎて、邪法に走った奴もいたから、一応言っておこうと思ってな」

 受付や会計待ちの患者で賑わうロビーを抜けながら、春明が億劫そうに語る。あまり好ましい話題ではないようだ。祈理は怪訝な顔で春明を見上げた。

「邪法というと、どういう?」

「陰陽術には泰山府君祭って儀式があるんだよ。あの世の王たる泰山府君に祈って命を永らえる……と言うと聞こえは良いんだが、要するに、寿命を切り貼りする術だ。安倍晴明公も得意でな、死にかけた高僧の命を永らえさせるため、志願した弟子の寿命を与えた話が残ってる」

「へえ――って、え? 人のを与えちゃうんですか。伸ばすんじゃなくて?」

「ああ。当然、弟子の方は死んじまうのは織り込み済みだ。こいつはそういう術なんだよ。逸話では神仏の哀れみを受けて双方助かったってオチになってるが、そんな上手い話がそうそう起こるわけもない。こいつを使いたがる貴人が一時増えてなあ。罪人や身分の低い奴の命を付け替えろって、こっそり申し出て来る奴が何人もいた」

「それは……」

「な。コメントに困るような酷い話だろ。人命の軽かった時代でも、さすがに危険視されて、後々には泰山府君祭は全面禁止、秘伝書も全部焼き捨てられたんだが……まあ、そういうことだ」

 ガリガリと頭を搔き、春明が屋外に通じる自動ドアをくぐった。何がどう「そういうこと」なのかは明言していないが、要するに、寿命をどうこうしようなんて考え方は――実際にどうこうできる手段がある以上――危険だからやめておけ、と言いたいようだ。納得した祈理が春明に続いて外に出ると、たちまち熱く湿った空気が二人を包み、祈理の首筋に汗が噴き出した。あと眼鏡も曇った。

 ここ太秦は、中心部の市街地からは少し離れた、昔ながらの町並みが残る静かな一角で、交通量もそれほどではない。なのでビル街のような暴力的な熱気はないが、それでも京都の一部であり、京都の夏は蒸し暑いことで有名だ。

「分かってはいましたが暑いですね」

「そうか? 不便だな人間は」

「いいですよね式神は……」

 祈理とは対照的に春明はけろりとした顔だ。春明の体の周りにはいつも川辺のような清涼な空気が舞っていることを祈理は思い出した。せめてその機能だけでも主に分けてもらえないだろうか、と羨みつつ眼鏡を拭いていると、春明は祈理を置いて歩き出した。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ主任。どこ行くんです? 事務所に帰るなら逆ですよね」

 この後どこかに寄る予定はなかったはずだが、春明は帰るべき方向とは反対に向かって歩いていく。祈理は眼鏡用のクロスを仕舞い、慌てて春明の後を追った。

「主任? 駅はあっちですよ」

「知ってる。それに、お前が言ったんだろうが」

「何をですか」

「成瀬の抱えてる問題をちゃんと調べろ、だ」

 町並みの間を縫うように伸びる私鉄の嵐山線、通称嵐電の線路沿いに歩きながら、春明がぶっきらぼうに言い放つ。その一言に祈理は「え」と目を丸くし、そして春明の顔をまじまじと見た。

「調べてくれるんですか? まだ何も起こってないのに? 主任が? 自分から?」

「驚きすぎだ。俺だってたまには自発的に動くし、それに、式神は主の命令に従うもんだろうが」

「だろうがと言われましても、あんまり従ってもらった覚えもない……」

「うるせえ。ほら、こっちだ」

 そう言って路地に折れた春明の顔は若干赤く、歩調も心なしか速まっている。どうやら、真面目な公務員かつ真面目な式神らしい行動を取っている自分に照れているらしい。そんなことで恥ずかしがらないでください。祈理は呆れ、そして喜んだ。異人の社会は基本的に独自のルールと慣例で動いているから、そこで起こるもめ事を調べたり解決したりするには、この街をよく知る春明の協力が不可欠なのだ。

「やる気になってくれてありがとうございます」

「ニコニコするな、気味悪い」

「だって嬉しくて。これからどうするんです?」

「さっき言ったように、算盤坊主――成瀬は口の堅い異人だからな。となれば本人以外に聞くのが手っ取り早い。幸い、この一帯の出来事に詳しくて、算盤坊主の成瀬とも親しい古株の異人が近くで整骨院をやってやがるから」

「なるほど、その方にお話を聞くんですね。どこに住んでらっしゃるんですか?」

「この先の帷子辻だ。行ったことはなくても、名前くらいは知ってるだろ?」

「ええ。帷子辻って言ったら……」

 視線を空に向け、祈理は図書館で詰め込んだ記憶を探った。もともと祈理は妖怪や伝説には興味がなく、全く知識もなかったが、仕事の上で必要となったら話は別だ。勉強熱心な性格と学生時代に培った暗記力のおかげで、京都や平安朝にまつわる有名な伝承は今や一通り頭に入っているはずだった。

「葬送の地である化野に通じることから、異界と現世の境と言われた幽玄な場所ですよね。美貌で知られつつも若くして亡くなられた檀林皇后が、男の人達の自分への執着心を絶つため、また、世の人に諸行無常の概念を知らしめるために、自分の遺骸を放置させた場所でもあり、地名の由来は檀林皇后の経帷子が舞い落ちたことから」

「解説しろとは言ってねえぞ。知ってるならそれでいい」

「す、すみません……。でも、帷子辻の古株ってどなたです? このあたりで有名な異人さんっていましたっけ?」

「何だ、そっちは覚えてないのか? 高名な歌人が記した妖怪がいるだろうが」

「有名な歌人……?」

 春明の隣で祈理は眉をひそめて首を捻った。京都の怪談を扱った資料はいろいろ読んだが、帷子辻で名を知られた妖怪というのは記憶にない。まだまだ勉強が足りないようだ。でも、幽玄な場所柄や歌人が記したという情報からして、おそらく厳かで雅やかな異人なのだろう。そう思った祈理が確認すると、春明は一瞬眉をひそめて「まあ、そうかもな」とだけ言った。

 そしてそのまま細い路地を歩くこと十分あまり。個人経営の病院が密集する一角の裏道に入った先、古びた木造の整骨院の前で、春明は足を止めた。

 整骨院と言っても、「ほねつぎ・マッサージ承ります(出張も可)」という小さな看板が下がっている以外は、まるっきり普通の町屋である。間口が狭く前庭のない、京都でよく見る外観だ。看板の下には「夏季休業中(暑いので)」というやる気のないプレートがぶら下がっていたが、春明は全く気にせずに戸を開け、薄暗い玄関に踏み込んだ。

「おーい、邪魔するぞ!」

「え。勝手に入っちゃっていいんですか?」

「いつものことだ。お前も来い」

「は、はい……。うわ、暗い」

 春明に続いて玄関に入った祈理は、屋内の薄暗さに驚いた。古い作りの家は窓が小さかったり少なかったりするものだが、いくら何でもあまりに暗い。雨戸を締め切っているのだろうか? 訝る祈理をよそに、春明は再度呼びかける。

「いるんだろ! 出てこい、俺だ俺!」

「聞こえてるよ」

 しわがれた老人の声が廊下の奥から親しげに応じたが、真っ暗なので声の主の姿は見えない。祈理がそちらに向かって目を凝らすと、ふいに廊下の奥で何かが光り、一つ目で人間型のものが現れた。

 より正確に言うと、全裸でなおかつ四つん這い、肛門の位置にソフトボール大の単眼を持ったのっぺらぼうが、後ろ向きに猛スピードでガサガサと這いながら現れ、目をビカビカ光らせた。

「え? ひっ……!」

 恐怖と驚愕と困惑にひきつる声を、祈理は慌てて飲み込んだ。何だこれは。迫力のある異人には慣れたが、こういうタイプは初めてで、そしてあまりに予想外だった。

 思ってたのと違うという声が心の中でわんわん響き、背中には悪寒が走り、次の言葉が出てこない。いつの間にか春明にぴったりくっつく祈理に、家主らしき異人は巨大な光る目を向けて首を――と言うか臀部を――傾げ、春明に向き直った。

「よう陰陽屋さん。どうしたね」

「ああ。ちょっと聞きたいことがあって――っておい火乃宮、お前いつまでくっついてるんだ。離れろ」

「す、すみません……! その、えと、思っていたのとは違う感じの方が出てこられたので、驚いてしまって……。主任、こちらの方は?」

「知らないのか。ぬっぽり坊主だ」

「ぬ、『ぬっぽり坊主』?」

「そうさ。『尻目』って名前のほうが有名だけどね。かの俳人与謝蕪村が、帷子辻の妖怪として紹介なさった、由緒正しいこの地の化け物だよ。『京、かたびらが辻、ぬっぽり坊主のばけもの。めはなもなく、一ツの眼、尻の穴に有りて、光ることいなづまのごとし』ってね。土地柄と合わねえってのはよく言われるし自覚もしてるんだけど、まあ、生まれちまったもんは仕方ない」

 カラッとした自虐的な言葉とともに、尻の目玉がビカビカと光る。よく見るとその体には性器も肛門も体毛もなく、全身がマネキンのようなつるっとした質感で覆われていた。気さくな態度からして危険な異人ではないのだろうが、それにしたって予備知識なしでこの姿を見せられるとさすがに度肝を抜かれる。

 と言うか、この方のどこが厳かで雅やかなんですか、主任? あと、与謝蕪村は歌人じゃなくて俳人では?

 祈理はそんな思いを込めて春明を睨んだが、春明は糾弾の視線をしれっとかわし、ぞんざいに靴を脱いだのだった。

「ここで話すのも何だ。上がらせてもらうぞ」


「勝手知ったる陰陽屋さんなら良かろうと素の姿で出たんだが、まさかお初にお目にかかる娘さんが一緒とは思わなかった。いやはや、驚かせちまってすまなかったね」

 整骨院の玄関から上がって廊下を行った突き当たり、嵐電の走る音が板塀越しに響くささやかな縁側にて。家主である異人は祈理に謝り、禿げた頭をぴしゃりと叩いた。

 年齢は見たところ六十過ぎ、人の好さそうな顔立ちの痩せた老人だ。色落ちしたアロハシャツにハーフパンツ姿で、首には手拭いを掛けて煙管を持ち、い草の座布団に胡坐をかいている。人間の姿になった尻目である。座布団に正座した祈理はいえいえと苦笑し、頭を下げた。この縁側にはちょうど風が通るのか、エアコンもないのに外に比べると随分涼しく、汗はすっかり引いている。

「先ほどは取り乱してしまって申し訳ありませんでした。今年度からいきいき生活安全課に配属されました、主事補の火乃宮祈理です」

「こりゃご丁寧にどうも。あっしは尻目、別名ぬっぽり坊主。こっちの姿の時の名前は小井戸瞳光と申すケチな年寄りでございやす。ひとつよろしく」

「はい、よろしくお願いいたします――って、小井戸さん? そのお名前って確か」

 メモ用の手帳を開く手を止め、祈理は目の前の老人を見つめた。その名前は陰陽課の書類や名簿で何度か見かけたことがある。現在の御霊委員会の惣領役、つまり市内の異人達から選ばれた代表者の一人の名だ。ですよねと確かめると、小井戸は「おや」と細い目を丸くした。

「よくご存じで。仰る通りでして、一応、ジャラジャラの代表みたいなことをさせてもらっております、へい」

「ジャラジャラ? 尋ねてばかりで申し訳ないのですが、えーと、それは」

「江戸時代からこっちに生まれた新顔の妖怪は、まとめてそう呼ばれてるんでさあ。ほら、こっちの方言で、『ふざける』とか『くだらないことをする』ってのを『ジャラジャラする』って言うでしょう……って、ご存知じゃないお顔ですね。まあ、そういう言葉があるんです。あっしらみたいに江戸時代よりこっちに出てきた異人は、お古いお歴々と比べると、やらかすことも能力も規模がどうにも小さいでしょう? それがまるでふざけてるみたいに見えるもんで」

「ひっくるめてジャラジャラなんだ。あんまり良い言葉じゃねえがな」

 小井戸の流暢な説明を春明が補足する。祈理はなるほどと納得し、手帳に手早く書き付けた。そういう呼称があることは覚えておかねばならないが、ジャラジャラというのはむしろ蔑称に近い表現のようだし、軽々しく使わないようにしないと。祈理が自分に言い聞かせていると、春明は縁側の端に腰かけて足をぶらぶらさせながら「で」と続けた。手には麦茶の入ったグラスを持っている。

「成瀬――算盤坊主もジャラジャラの一人だから、こいつの率いるグループになるわけだな」

「なるほど。小井戸さん、偉い方なんですね」

「いや、その言い方は乱暴じゃないですかね、陰陽屋の旦那? 『こいつのグループ』って言われても、あっしはただの名ばかり惣領で、別に元締めでも親分でもないんだから……」

「取りまとめ役をやってるのは事実だろ。そそっかしいが面倒見がいいってのが、お前の貴重な取り柄なんだから」

「そそっかしいは余計ですよ」

 春明に横目で見据えられ、小井戸が視線を逸らしてぼそりとつぶやく。否定しないところを見ると事実のようだ。と、小井戸は煙管を一服吸って言葉を重ねた。

「大体、旦那も知ってるでしょう。ジャラジャラ全体が京の街じゃあ肩身が狭いわけですから、そこの惣領って言ったってたかが知れてまさあ」

「肩身が狭い……? そうなんですか?」

「ええ、それはもう。鬼や天狗やお狐様みてえなお歴々と比べると、影響力も発言力も威厳も格もないのが、あっしらジャラジャラなんですよ。この春に配属されなさった火乃宮さんが、九月になるまであっしと顔を合わせることがなかったってのがね、その何よりの証拠かと」

「な、なるほど……」

 ペンと手帳を構えたまま、祈理はしみじみ納得した。言われてみれば確かに、今まで仕事の上で相談したのも、あるいは相談を受けたのも、鬼と天狗と狐という市内三大勢力の代表か、その仲間がほとんどだ。彼ら三人以外にも御霊委員会の惣領役がいることは知っていたが、関わったことはなかった。

 小井戸はその扱いの悪さを当然のことと受け入れているようで、卑下したり落ち込んだりする様子は全くない。それは春明も同様だったが、祈理は、異人のグループ間の格差が存在するという事実に――そして、そのことに今まで気付かなかった自分に――少なからずショックを受けていた。

「あの、差し支えなければお尋ねしてもいいですか……? ジャラジャ……じゃない、ええと、近世以降にお生まれになった皆さんがそういう扱いなのって、どうしてなんです? やっぱり新しいからですか? それとも能力の規模の問題?」

「どっちもですねえ。異人の格は基本的に古さに比例するし、この街には古株が多いでしょ。平安だの室町だの南北朝だのって時代からすると、江戸時代なんて昨日みたいなもんだ」

「平成生まれからすると、どっちも大昔なんですけれど……」

「このあたりの感覚は異人じゃないとわかんないだろうね。それに、お古い方々に比べると、あっしら近世生まれはどうにもこうにも小粒だ。あっちは史書かそれに近い文献に名前が記されてて、お貴族様なり陰陽師なり武将なりの立派な方と戦ったりかかわったりしてなさるだろ?」

「確かに、そうですね」

「対するあっしらは、胡散臭い噂話の聞き書きか怪談集にしか出てこないし、やることだって肝試しに来た馬鹿を驚かせるくらいが関の山。化け物としての等級が違うんだね。で、そんな情けない化け物にしてみりゃ、歴史のある街に住まわせてもらってるだけで充分だから、扱いに文句を言う気はないよ」

「お言葉ですが、それは良くないと思います」

 明るく笑う小井戸を前に、祈理はきっぱり言い切った。座布団の上に正座したまま背筋を伸ばし、眼鏡越しの視線を小井戸に向け、真面目な声で先を続ける。

「現代の市民社会においては、誰であっても等しい権利を有していますし、そうあらねばなりません。これは異人さんにおいても無論同様ですから、能力や生まれた時代によって社会的な待遇が左右されることは、決してあってはいけないとわたしは考えます。つきましては、綿密かつ客観的な調査を行った上で、異人さんを対象とした啓発運動を広く実施する必要が――」

「長い。今する話じゃねえだろ、それ」

 まぜっかえしたのは春明だ。縁側に両手を突き、庭に足を投げ出した姿勢の公認陰陽師は、祈理に「何しに来たんだお前」と冷たい目を向けた後、小井戸に向き直って肩をすくめた。

「驚いたろ? 今年の新人はこういう奴なんだ」

「ははあ、こりゃまた実直な娘さんが来なすったもんだねえ……。いや、そう思ってくれる役人さんがいるだけで、あっしは充分嬉しいよ」

「どういたしまして……。ですけど、そこで満足するのは駄目だと思います。誰かが声をあげないと現状は改善されませんし、そのためには当事者が」

「お気持ちはありがたいがね。建前と現実は別物なんだよ。この街では殊に」

 しみじみとした小井戸の声が、説教じみた祈理の言葉を遮る。言外の説得力に思わず口ごもってしまう祈理の前で、小井戸は煙管をくわえて煙を吸い、首を振って苦笑した。

「それに、あっしらがこういう扱いなのには、他にも理由があるからねえ……。力が弱いだの歴史が浅いだの地味だの、そういう単純な話だけでもないんだよ。陰陽屋の旦那は覚えてるだろ?」

「忘れられると思うか? 秋になると嫌でも思い出す」

 狭い庭の小さな石灯籠を見ながら、春明が抑えた声で応じる。その細めた眼は厳しく、どこか遠くを見ているようで、口調は普段と違って寂しげだ。祈理はその理由を尋ねていいものか迷ったが、春明はあっさり話題を切り替えてしまった。

「そんなことより本題だ。おい尻目、お前、算盤坊主の成瀬は知ってるな?」

「成瀬? そりゃあ、同じジャラジャラ仲間だからね。それに、奴さんの今の職場はここから近いから、駅から病院に向かったり帰ったりするのもよく見かけるが……しかし、あの朴念仁の堅物がどうかしたのかい? 何かやらかすような甲斐性があるとも思えないが」

 小井戸が不可解そうに腕を組む。成瀬が何か悩みかトラブルを抱えているようだと祈理が説明すると、小井戸は少し思案した後「あれかもしんねえな」とつぶやき、煙草盆に灰を落とした。意外そうに反応したのは春明だ。

「心当たりがあるのかよ。『ほれ見ろ、何もなかったじゃねえか、バーカ』ってなるに違いないと思ってたから、わざわざ来てやったのに」

「主任そんなこと考えてたんですか? それで小井戸さん、何が」

「ああ。仕事帰りの成瀬の後をね、おかしな様子の女がつけていくのを見たんだ」

「おかしな様子? はっきりしねえな。具体的に言え」

「電柱に隠れながらこそこそと、こう、つかず離れずって感じで、成瀬を見張ってたんだよ。一回だけじゃねえぞ? 二回……いや、三回は見たな。おかしな輩がいるもんだと思ったが、もしかして、アレなんじゃねえかな。ほら、何だっけ、頼まれもしないのに付きまとう……崇徳院じゃなくてスイカズラでもなくて」

「もしかしてストーカーですか?」

「そうそうそれそれ!」

 祈理の言葉に小井戸が強くうなずく。どんな間違い方だと春明は呆れたが、小井戸はその指摘を無視し、勢い込んでさらに続けた。

 曰く、算盤坊主は気配りのできる男であるから、ストーキングに気が付いていないはずはない。だが同時に彼は、他人に迷惑を掛けたりトラブルを起こすことをひどく嫌う。その真面目な性格が災いし、ストーカーを問い質すことも誰かに相談することもできず、一人で抱え込んでしまっているのではないか、とのことだった。


 かくして、成瀬の心労の原因の目星は案外簡単に定まったのだが、小井戸の推理には今のところ何の裏付けもない。本当にストーカーがいるのか、そして成瀬がそれに悩んでいるのかを確かめないことには何も始まらないのだ。

 とりあえず本人に聞けばいいのでは? と祈理は思ったが、成瀬をよく知る小井戸が「もし悩んでてもあいつは絶対に言わない」と主張。それに春明も同意したため、祈理の提案は却下されてしまった。

 その後、課に持ち帰って課長の枕木を交えて検討した結果、祈理と春明が成瀬を尾行、実態を確認することとなった。陰陽課の実働役は二人しかいないので、大体の仕事は祈理と春明に回ってくるのである。