第1章 アイオライト


 路面電車に揺られること約十五分。小さな電停で降りると、懐かしい潮の匂いがつんと鼻を突いた。

 穏やかな春の日差しの下、目の前には古いが手入れの行き届いた洋風の街並みが広がっている。オレンジやレモン、グリーンなど、柑橘類を思わせる色使いの建物が道沿いに並ぶ光景は、十年前の記憶と全く変わっていない。

 うーん、と体を大きく開きながら、潮の匂いのする空気を肺一杯に吸い込む。

 そのときだった。にゃあ、と足元から猫の鳴き声が聞こえた。視線を落とすと、そこには焦茶色の猫がいて、金色の瞳があたしを興味深そうに見つめていた。飼い猫なのか首輪をつけていて人懐っこそうだ。あたしは猫の前にしゃがみ込むと、その頭を撫でながら言った。

「あたし、佐原鈴っていうの。今日、この街に引っ越してきたんだ。これからよろしくね?」

 猫はにゃあ、と一鳴きすると、くるりと背中を向け、突然、駆け出す。

「あっ」

 視線で追うと、その先は、まっすぐ続く大通りと、右手奥の丘の上に向けて緩やかに登っていく坂道に分かれていた。猫は坂道の下で立ち止まると、あたしを見てもう一度、にゃあ、と鳴く。

 あたしは息を呑む。ゆるりと登る坂道は桜色に彩られた丘の上に向かっている。手元の地図によれば天辺まで約二キロ。標高は二二〇メートル。平均勾配・九パーセント。体が勝手にうずうずしてくる、相手にとって不足はなし。

「ここは手応えがありそう。見ててね?」

 猫にそう言うと、はやる気持ちを必死に抑えながら折りたたんだ地図をデニム地のショートパンツのポケットにしまい、軽く膝の屈伸運動。続いて、背中のリュックサックを背負い直し、深呼吸を一回すると、

「オンユアマーク……、セット」

 おもむろにアスファルトに両手を着いてしゃがみ、

 ――パァーン!

 頭の中に鳴り響くピストルの音と同時にアスファルトを蹴った。

 スタートダッシュを決め、勢い良く坂道を駆け上がり始める。

 加速とともに、両側の景色も勢いをつけてぐんぐん後ろに飛んでいく。

 吹き下ろしてくる風を真正面から受け止め、後ろに括った栗色のショートポニーを靡かせながら、ゴール目指して突っ走っていくあたしは、まるで小馬になったような気分だ。アスファルトを蹴る自分の足音と、息を吐く音がリズミカルで心地が好い。標高が上がると、左手のガードレール越しに広大な太平洋が広がった。まるで磨かれた宝石がちりばめられているかのように、波間は日の光を跳ね返して眩しく輝く。その上をカモメが一羽、風を切って飛んでいく。

 自然に笑みが零れてくる。

 すごい。今日から、こんな素敵な街に住めるなんて!

 幼少の頃の、おじいちゃんの思い出と一緒にある記憶よりもはるかに綺麗で、走りながら青い海原に見とれてしまう。

 天然石のお店を営んでいたおじいちゃんは、この街の海のことを、いつも『大きなエメラルド』と呼んでいた。ちょっと大げさな気がするけど、でも、やはりそれ以外の表現が見つからない気がする。綺麗なものを形容するには、他の綺麗なもので言い表す他ない。おじいちゃんはいつもそう言っていた。

 これから毎日、エメラルドの海を見ながら走ることが出来る。それを考えると、力強く体中に血液を送り出す鼓動に同調するかのように気分が高揚してくる。呼吸は荒く、息が上がりそうになるけど、それでもスピードを緩めることはない。

 あたしは昔から走ることが大好きだった。体で風を切る感覚がたまらなく心地好かったからだ。中学に入ると同時に入部した陸上部ではコーチや先輩にも恵まれ、県大会の短距離で上位入賞することもしばしばだった。そして今春、あたしは陸上のスポーツ特待生として、この港町にある私立高校に入学することになった。文武両道を掲げるこの学校は、スポーツの強豪校としてしばしば名前があがる一方、大学進学率も高いことでも名前が知られている。

 とはいえ、別にお金持ちとはいえない、ごくごく普通の家に育ったあたしがそう簡単にこの学校に入れるわけがない。授業料は特待生待遇で大幅に免除されているとはいえ、学校付属の高い寮費や独り暮らしをした場合の家賃といった問題が出てくるからだ。その問題が解決出来たのは、この学校の傍に、かつておじいちゃんが住んでいたお店兼住宅があって、今はそこを親戚の叔父さんが引き継いでいたという偶然があったからだ。

 と、そこで、あたしはこの叔父さんのことに思いが至る。

 実は叔父さんとは今まで一度も会ったことが無い。お父さんの弟で、名前が一条瑠璃ということと、お父さんからは「まあ、なんていうか変わってるけど、悪い奴じゃないよ。あと、奴が淹れるコーヒーは美味いな」ということしか聞いていないのだ。

 綺麗な名前だし、天然石のお店の店主ということだから、きっと渋くて優しい叔父さんなのかな、やっぱりお父さんに顔が似ているんだろうか、などと想像は膨らむ一方だ。

 標高は随分上がってきていて、潮の匂いよりも生い茂る草木の匂いの方が強くなっている。あたしは呼吸を整えながら、右に緩やかにカーブする道を曲がりつつ、記憶の中にある、林の中に建つ小さな木造の一軒家を思い起こす。外窓にはいくつかの綺麗な天然石が飾られ、テラスに設けられた小さなカフェでは、髭を生やしたナイスミドルな叔父さんが美味しいコーヒーを運んでくる――。

「なんか素敵だなあ……!」

 思わず口に出してしまった。

 自分の鼓動が大きいのは、走っているからだけじゃなくて、期待と緊張のせいというものもあるに違いない。

 自然と顔がにやけている自分に気付いたあたしが頬を両手でパシンと叩き、そして、一段と走るピッチを上げたそのときだった。


 ――キキキキーッ!!


 耳をつんざくようなブレーキ音らしきものが聞こえると同時に、目の前を大きな鉄の塊が右から左に通り過ぎていった。

「きゃあっ!?」

 たたらを踏んで止まろうとしたが、風圧で思いっきり体のバランスを崩してしまい、そのまま転んでしまう。

 そのあたしの前を、後輪を思いっきりドリフトさせ、道をふさぐようにして大型バイクが停まった。

 ゴムの焼ける臭いが辺りに漂う中、あたしは地面の上に尻餅をついた状態で、呆然と目の前に現れた銀色の大型バイクを見つめる他無い。

 え……、何、一体、なんなの……!?

 エンストしたバイクにはフルフェイスのメットを被った男が跨がって、しばらくの間、こちらに顔を向けていたけど、やがて唐突に「ちっ」と大きな舌打ちをした。

 あたしはしばらくの間、呆けたように男を見つめていたけど、やがて、ふつふつと腹の底から怒りが湧き上がってくることに気付く。

 今の「ちっ」って、なに? なんで舌打ちされなきゃいけないの!?

 勢い良く立ち上がるなり、地面にまっすぐ伸ばした両腕の先の拳を握りしめ、思いっきり怒鳴る。

「馬鹿っ! 危ないじゃない! 一体、どこ見てるのよ!」

 と、それに反応したのか、男がぴくりと肩を震わせた。そして、ゆっくりバイクから降り、数歩こちらに近付いてくると、やおらフルフェイスのメットを脱ぐ。

「うっ……」

 途端、あたしは予想外の顔に思わず後退った。

 ツンツンに立ち上げた短く刈り上げた黒髪、角張った頬に三白眼。今にも誰かを殺しに行きそうな鋭い視線。

 ……しまった、馬鹿とか言っちゃった……。

 自分の顔がみるみる青ざめるのがわかる。

 そんな相手が斜め上から見下ろしてきて、ドスの利いた低い声で言う。

「……あ? 車道をちんたら歩いてる方がわりぃんだろ?」

「なっ……」

 少し言葉を失うものの、あたしはどっちかというと気が短い方だ。

 思いっきり相手にガンつけながら言ってやる。

「あ、あたしは、走っていたのよ!」

「へえ?」

 と、男が急に近付いてくる。

 そして、無遠慮にあたしの頭から爪先までじっくり眺めると、不意に口の端を歪めて言った。

「その短い足で、か?」

「なっ……!?」

 あまりのことに、次の言葉が出てこない。

 み、短い……!?

 陸上選手として、密かにコンプレックスを持っていたことなんだけど……!

「金魚みたいに口をぱくぱくさせんな」

 せせら笑う相手に、あたしは数回深呼吸をした後、怒りを抑えて言った。

「と……、とにかく危ないじゃない! 足でも折ったらどうするの!?」

「ふん。危ないのはそっちだろ? こんな山道を歩いているヤツがいるなんて普通は思わねーよ。むしろ感謝してもらってもいいくらいじゃねーか? 俺じゃなかったら、お前は今頃、間違い無くあの世に行ってるだろうな」

 小馬鹿にしたようにそう言うと、話はここまでと言わんばかりにメットを被り、バイクに跨がると、ブォンブォンと数回空ぶかしをする。

「じゃあな、お子ちゃまはとっとと家に帰んな」

 片手を上げ、ワインディングしながら、マフラーから排気ガスをまき散らして走り去っていく。

 あたしはしきりに咳き込んだあと、目を吊り上げて、小さくなったバイク男の背中を呆気にとられつつ見送る。

 ちょっと、なに、あれ……!

 気付くとあたしはバイク男の背中に向かって叫んでいた。

「ばっかやろー! あんたなんてバナナの皮に乗り上げてすっ転んでしまえー!」

 その声は空しく、坂の街の空に響いて消えていった。



 結局、後は流すように走り、坂の上に着いたところで、ペットボトルの水で喉を潤す。

 折角気分良く走っていたのに、さっきのバイク男のせいで台無しだ。

 怒りを抑えるべく、あたしは顔をぶるぶると横に振り、深呼吸を数回繰り返すと、視線を前に向けた。午後の柔らかな日差しの下、なだらかな丘に張り付くように立ち並んでいる小さな家々は、まるで良く出来たジオラマのようだ。どこか遠くから、教会の鐘の鳴る音がやさしげに聞こえてくる。

 でも、と、気を取り直す。

 折角の新生活だし、楽しまなきゃね。

 嫌な記憶を頭の中から追い払うと、あたしは地図を手に小綺麗な街並みが続く道を目的地に向かって歩き始める。住宅のすき間を縫うように走る、車がすれ違えるかどうかの細い道を進むと、二階建ての小学校が現れる。春休みなのか、校庭でサッカーに興じている男の子たちを横目に見ながら通り過ぎて、再び住宅街の中に入ると、やがて右側にちょっとした林が迫ってきているのが目に入った。地図ではこの林を抜けた先におじいちゃんの店があることになっていた。

 幼少の記憶ではおじいちゃんの店にどうやって行っていたのかは、靄がかかったかのように朧げだ。確か木々の間を抜けて行ったような記憶はあるが、それもどこか夢現だ。

 地図を見ながら注意深く探していくと、石積みの壁の間に車が通るのは難しそうなほど細い路地を見つけた。ここだろうか。何度も手元の地図と見比べながら、路地の奥を覗くと、その先は鬱葱とした林の中に消えてしまっている。目の前の景色は、はっきりとした記憶としては残っておらず、本当にここで正しいのかいまいち自信が持てない。

 と、足首をなにか、ふわっとしたものが撫でていった。

「わっ」

 慌てて仰け反ると、チリンと鈴の音を立てて、小さな黒猫が目の前をとことこと歩いて行き、小径の先であたしを振り返ると、にゃ、と小さく鳴いた。

「えっと、そっち……?」

 なぜか猫が自分に話しかけてきているような気がしてそう尋ねると、子猫は再び、にゃ、と鳴いて林の中へと歩いて行ってしまう。

 間違っていても戻ればいいんだよね、と思いながら、あたしは子猫の後を追う。両脇の住宅の壁は、すぐに木々の幹に変わり、風に揺れた葉がさわさわと音を立て、鳥の鳴き声が聞こえる。

 緩やかに上っている山道を進むこと約五分。先程の猫の姿も見えず、本当にここでいいんだろうか、と不安に思い始めた頃、唐突に両側の木々が途切れ、菜の花の咲き乱れる小さな広場へと出た。

 黄一色の菜の花畑の中には一本の道が通り、その先には小さな洋館が見える。

「わあ……」

 思わず感嘆の声を漏らした。朧げだけど、目の前の光景は、確かに記憶の中にある祖父の店と同じだった。ただ、そこに菜の花は無かったような気がする。

 あたしは魅入られたように、菜の花の道を建物へ向かって歩を進めていく。

 洋館は木造で、壁面はシックな焦茶色に塗られている。オレンジ色に塗られた屋根の上では、小さな風見鶏がそよぐ風にゆっくりと揺れている。

 古さを感じる一方で、建物やその周辺はよく手入れされている。前庭のテラスにはクラシックな白いテーブルと椅子が数セット置かれており、壁に掛けられた小さな黒板には、丁寧な字で、ブレンド四〇〇円、キリマンジャロ五〇〇円、本日のおすすめケーキセット、プラス三五〇円といった具合にメニューが記されている。どうやらカフェも一緒になっているらしい。こんなところで暖かい日差しを浴びながら飲むコーヒーはさぞかし美味しいだろうな、と思うが、このテラスもあたしの記憶には無かった。もしかすると、この店を継いだ今の店主――叔父さんが新しく置いた物かもしれない。

「あれ……?」

 と、なぜか急に胸のあたりがきゅっ、と締め付けられるような奇妙な感覚を覚え、思わず手で胸を押さえる。懐かしさとうれしさと同時に、なにか引っ掛かるものを覚えた。それがなにかはわからないが、ただ、どことなく不安にさせるもので……。

 なんだっけ……?

 にぃ。

 そのとき、猫の鳴き声がした。

 気付くと、足元に先程の黒い子猫が座っていて、あたしを見上げて鳴いた。ここの店の飼い猫だったんだ。

 子猫の前にしゃがみ込み、深々と頭を下げて言う。

「はじめまして、佐原鈴です。今日からよろしくね?」

 子猫は小首を傾げて再び小さく鳴くと、尻尾を左右に振って木製のドアの前まで歩いていく。まるで案内しますよ、とでも言いたげな感じだったので、あたしは大人しくそのあとをついていく。

『天然石 ねこまち堂』

 扉の脇にはそう書かれた木製の看板がかけられており、その隣には小さな窓が設けられている。窓にはなんという名前なのかはわからないけど、透き通るような緑色の大きな天然石が飾られていた。

 やっぱりここで間違い無い。『ねこまち堂』っていうのは、恐らく『猫町堂』とか『猫待ち堂』という意味で、そうしたら案内してくれた子猫はここのマスコットなんだろう。とはいえ、こんな店の名前だったかどうかの記憶は正直怪しいし、猫がいた記憶もあんまり無い。

 とにかく、早速、叔父さんに挨拶をしなければ。これから三年もお世話になるんだし、最初の印象が肝心よね。お行儀良くしなくちゃ。そう思いながら、あたしは扉をノックする。

「ごめんください。今日からお世話になる佐原鈴です」

 けれど、扉の向こう側は静かなままで、屋根上の風見鶏がからからと音を立てて回る音だけが聞こえている。

 暫く待ってみても、返事は無い。

 お店なのだから、勝手に開けていいのよね、と思い直し、

「お邪魔しますね」

 と子猫に一声かけた後、真鍮製のドアノブを掴んで扉をゆっくりと引くと、そのすき間から黒猫も中に入っていった。

 あたしも店の中に足を踏み入れたところで、目の前の光景に思わず声が漏れる。

「わあ……」

 学校の教室くらいの広さの、木の壁で囲まれた店内。暖かいオレンジ色の光の下、木のケースや、竹で編んだバスケット、壁に据え付けられたガラス扉の棚の中に、赤や青、緑、黄色といった様々な色、形の石たちが収まり、鈍い光を放っていた。

 飾り棚の上には、天然石を用いて作られた色とりどりの腕飾りや足首の飾り、イヤリングに首飾りなどがところ狭しと置かれている。

 それはまるで、幼少の頃に毎日通った駄菓子屋さんを思わせた。当時のあたしにとって、駄菓子屋さんは絵本の中の『お菓子の家』のような存在だった。魔法のかけられた家に迷い込んだあたしは、魅入られたように棚を彩る石たちに近付いていく。

 竹籠の中に色ごとに収められたタンブルストーンや、掌にすっぽり収まる飴玉のような大きさの石たちの綺麗さに息を呑み、思わず青い天然石の一つにそっと触れようとしたときだった。

「あれっ……?」

 突然、頭にぴりっとした痛みが走り、あたしは手を止めた。

 と同時に、頭の中に奇妙な光景が流れ込んでくる。


 今よりも視点が少し低いが、店の中はほとんど変わらない。違うのは、目の前におじいちゃんがいることだ。優しそうな皺だらけの顔を、更にしわくちゃにしながら、優しそうな大きな手が伸びてきて、あたしの頭をわしゃわしゃと撫でる。

「鈴は良い子だ、本当に良い子だ」

 聞き慣れたおじいちゃんの声。おじいちゃんはなにかあると、すぐにあたしのことを良い子だ、といいながら頭を撫でてくれた。それがとても心地好くて、あたしは撫でられる度におじいちゃんのことが好きになっていった。

「そんな鈴のために、これをあげようねえ」

「なあに、なあに?」

 おじいちゃんは、後ろ手に持っていたそれを勿体ぶったように前に持ってくると、あたしの目の前でかざして見せた。

 それは小石ほどの大きさの天然石を一つ使って作られた首飾り。紺色の紐の先に、海のように青く透き通った天然石が輝いており、中では驚きに目を大きく見開いたあたしの顔が映っている。

 えも言われぬ懐かしさとうれしさと同時に、一方であたしの心に別の感情が流れ込んでくる。悲しさに、寂しさ。


 そして、――悔恨。


 カタン、という物音で、あたしは我に返った。

 いつの間にか頭の違和感は消えていて、目の前の石は相変わらず淡く青い色で輝いている。

 なんだったんだろう、今の。そのときの記憶は靄がかかったように曖昧で、あたしは喉の奥に何かが引っ掛かっているかのような気持ちの悪さを感じる。

 石に伸ばしかけていた手をそろそろと引っ込め、音がした方に視線を向けると、黒猫が飾り棚に飛び乗って、小さな木の置物を倒していた。そして、こちらに顔を向けると、何故か誇らしげに、にゃ、と鳴く。

「あ……、ダメだって! お店のもの、いじったりしたら」

 猫を体の前で抱え、倒れた置物を直す。

 そして小さく溜め息を吐きながら、改めて店内を見回す。よく見ると、天然石やそれを使って作られたアクセサリーはただ漫然と並べられているわけじゃなくて、色んな国の工芸品らしきものがアクセントのように置かれている。色鮮やかな織物だったり、薄水色の小さなガラスの水差しだったり、ちょこんと赤い座布団の上に座る白い猫の置物だったり。

 目を瞑った白猫の置物に至っては、黄色い天然石の上に右手を置いており、どことなく招き猫を思わせる。

「よく出来てる……」

 腕の中の黒猫が白描に向かって、にゃあ、と鳴いてみせるが、勿論、置物の猫はなにも答えず、じっとあたしを見つめるだけ。

 と、そのときだった。

 店の奥で扉の閉まる音がしたかと思うと、男の声が聞こえた。

「ちっ。コクヨウ、また入ってきやがったのか。おまえは店には入るなって言っただろーが」

 そして、木製のカウンターの右側にある通路の暗がりの中から、こちらに近付いてくる足音が聞こえる。

 え、えっと……。

 店主……叔父さんに違いない。

 挨拶しなきゃ、と慌てて直立不動の姿勢を取ろうとしたが、腕の中には子猫が収まっていてそれは叶わない。どうしようどうしようと思っているうちに、背の高い男の影が現れる。

「大体、お前にまだその価値はわからんだろうに。セキエイもちゃんと見ておけよ」

 頭を掻きながら現れた男。その人物と目が合い、そして、あたしは大きく目を見開いた後、何度か目を瞬かせた。

「え…………?」

 目の前の男には見覚えがあった。というか、さっき会ったばかりだ。

 ツンツンに逆立てた短い黒髪に、浅黒い肌、相手にケンカを売っているとしか思えない三白眼。

「ちょ、ちょっとあんた、どうしてここに……!?」

 驚きに狼狽えながら後退り。

 体が揺れたせいか、黒猫があたしの腕の中から床に飛び降り、不満げに、にぃ、と見上げて鳴いた。

「あん? それは俺の台詞だ。なんでさっきのチビ猿がここにいるんだよ?」

「……さ、猿……!?」

 頭の中に頭と顎を掻きながらウキーと唸っている猿の絵が浮かんだ。

「一体どういうことよ!?」

「さっき、俺の前にバナナの皮を投げるって言っていたじゃねえか」

 走っている猿が、後ろにバナナの皮を投げ捨てる絵まで浮かび、慌ててそれを頭から消し去る。

 なんて失礼な奴!

 頭ツンツン男は、視線を横に流しながらぶっきらぼうに言う。

「というか、お前、わざわざ俺を追っかけてきたわけ?」

「はあ? そんな暇なことするわけないでしょ?」

「じゃあ、とっとと帰れ。ここはガキが来るとこじゃねえ」

 な、なんなの、こいつ?

 あー、すんごく腹が立ってきた! こいつは叔父さんの店のバイトかなんかだろうか。だったら、今話している相手が誰かわからせて、ぎゃふんと言わせてやる。

「そうね。確かにお客さんじゃないわ」

 あたしは仁王立ちになって、目の前の失礼な男の顔を睨み付ける。

「佐原鈴。ここの店主の姪よ。叔父さんはどこ? 挨拶をしたいんだけど」

 男が作業をする手を止めて、こちらを向いた。驚きに見開かれた三白眼はどうにも間抜けだ。

「マジか……」

 男はそう呟いて、鼻の付け根を両指で押さえる。

 ふふ、驚いてる、驚いてる。そうよね、雇い主の親戚にあんな暴言吐いたんだもの。クビになるかもと脅えているんじゃないかしら。ざまあみろ。

「わかったでしょ? バイト君、さあ、さっさと叔父さんに会わせてちょうだい」

 けれど、男はあたしから視線を逸らし、明後日の方を向きながらなにやらぶつぶつと呟いている。「こいつかよ。ありえねえ」とかなんとか。

「ちょっと、聞いているの?」

 あたしが少しいらっとして言うと、男は右手を気怠そうに持ち上げ、自分の顔を指差して言った。

「…………?」

 あたしが怪訝な顔をしていると、男がやや投げやり気味に言った。

「俺だ」

「…………は?」

「挨拶にしては、随分だな。一体どういう育て方したんだって、兄貴に文句言わねえとなあ」

 目の前の男の言っている意味がわからない。

「ええと……?」

「俺の姪っ子の名前は、佐原鈴っていう名前なんだそうだ。すげえ、信じたくねえけどな」

 溜め息混じりにそう言うと、男は床の上で毛繕いしていた黒猫の首根っこをひょいと摘まむと、店の外へと連れて行った。

 扉が閉まり、鈴が軽やかに鳴る。

 あたしは、口をあんぐりと開けてその場に突っ立っていたが、やがて、大きな悲鳴を上げた。


   *


 目が覚めると、見慣れぬ天井が視界に飛び込んできて戸惑った。まるで旅行先の宿で起きたときのような、そんな奇妙な感覚。何度か瞬きをして、ようやく自分がおじいちゃんの家に来たことを思い出す。

 時刻は午前九時。いつもに比べて遙かに遅い起床時間だ。疲れていたせいもあるけど、おそらくは気の緩み。来週、新しい高校で朝練が始まることを考えたらこんなことじゃいけない。

 山積みの段ボールの合間に敷かれた布団の中から抜け出し、東側の小窓に近付いてカーテンを開けると、眩しい朝の日差しが差し込んでくる。そのままガラス戸を押し開くと、柔らかな春の風とともに草木の清々しい空気が流れ込んできた。あたしは窓縁から半分身を乗り出すと、体の中に溜まった空気を入れ替えるべく、大きく息を吸い込む。

 うーん、空気が美味しい。東京とは全然違う。

 タンクトップとショートパンツに着替え、下ろしていた髪を頭の後ろで結わえる。そして、風を通すために窓を少しだけ開けたままにすると、廊下に出て木製の急な階段を下りて行く。

 キッチンを覗き込むと、テーブルの上には、六枚切りの食パンが袋のまま置かれており、その脇に、

『遅え。朝食は七時だ』

 という書き置きが一つ残されていた。

 書き手の性格をそのまま表したようなメモをそのまま丸めてゴミ箱に放り込むと、冷蔵庫の中から牛乳とバター、卵にベーコンといったものを適当に取り出し、朝食の準備を始める。

 昨日はそれはそれは最悪の一日だった。やさしいおじいちゃんの後を継いで、この天然石のお店『ねこまち堂』を経営している叔父――一条瑠璃は、優しい穏やかな男性かなというあたしの想像を根本から覆す、ヤンキーとかチンピラとかいう言葉の合う男だった。

「……あの顔で、あの瑠璃っていう名前は綺麗すぎない?」

 食パンをトースターに突っ込みながら独りごちる。

 昨晩の衝撃的な出会いの後、あたしはよろめくように、自分の荷物が置かれている部屋に向かった後、半ば呆けながら荷物の片付けに取りかかり、夕食はカロリーメイトで済ませ、シャワーも適当に浴びたような気がする。

 人をバイクで轢きかけた上に、女の子を猿呼ばわりするようなガサツで乱暴な男と同じ屋根の下で高校の三年間を暮らすなんて、考えただけで暗澹たる気持ちになる。本当にあり得ない。かといって出て行くことなんて出来ないし。

 ベーコンを挟んだ食パンを口の中に押し込みながらあたしは考える。

 なんとか、この事態を打開する方法はないものか。自分が出て行くことが出来ないとしたら、たとえば逆に……。

「……あいつを亡き者に出来たら……」

 そう言いながら牛乳の入ったコップに手を伸ばしかけたとき、ひょいとそのコップが持ち上げられてしまった。

「誰を亡き者にするって?」

「………………っ!?」

 テーブル脇に立っていた人物の姿を見て、あたしは思いっきり喉を詰まらせた。

 慌ててコップを取り返して中身を一気に飲み干し、大きく深呼吸した後、当の人物を睨み付けると、瑠璃はTシャツにジーパンという格好で、腰に手を当ててあたしを見下ろしてきた。

「まあいいや。くだんねえこと考えてねーで、それ食ったら掃除しろ。台所に廊下、客間に風呂場。水回りは念入りにな。居候なんだから、家賃分は働け」

「うっ……」

 一応、それはその通りだからぐうの音も出ない。でも、だからって、あの偉そうなものの言い方はどうなの?

 奴は、ここ片付けておけよ、とぶっきらぼうに言い残すと、お店に続く廊下へと歩いて行った。

 ああ、腹が立つ!


   *


 引っ越し荷物の中から取り出したエプロンを着けると、あたしは店の中に入った。

 お客さんは誰もいなくて、柔らかな春の日差しが差し込む店内では、色とりどりの天然石が淡い光を放っていて、その光景はまるで南国の浅瀬の海を思い起こさせた。

 あたしは思わずその光景に見とれかけたものの、すぐに自分のやるべきことを思い出し、腕まくりをしながら、姿の見えない店主に尋ねる。

「ねえ、掃除用具はどこ?」

 だが、壁時計の針がチクタクと動く音が聞こえるだけで、返事は返ってこない。

 眉間に皺を寄せ、教室の広さほどの店内を探すが、姿は見えない。おかしいなと思ってカウンターに向かうと、その奥に扉のついた小さな空間があるのに気付いた。今はその扉は開け放たれていて、奴はその中にある机に向かって、なにやら、手作業をしていた。

 箒はどこにあるの? と、尋ねようとしたところで、けれど、あたしは思わず口を噤んだ。

 奴は左手に細い銀色のチェーンを持ち、それを右手の小さなペンチのような道具で手早くねじっていた。そして、凹みの一つに透き通った海色の小さな石をはめ込むと、そのアクセサリーを右から左から、ためつすがめつ見た後、再び石に向き合う。目眩がしそうな細かい作業を、馴れた様子で進めていくその手つき。

 そして、視線を奴の顔に移した途端、あたしは、思わず息を呑む。石をまっすぐ見つめる真剣な眼差しに、軽く引き結ばれた唇。思い出の中のおじいちゃんの面影がそこにあった。一瞬、十年前に戻ったかのような錯覚すら覚えた。

 やがて、奴は小さく息を吐くと、手元のチェーンをゆっくりと持ち上げる。それは真ん中に小さな海色の石が埋め込まれた首飾り。窓から差し込む春の日に照らされた石は、小部屋の中を明るい海の中へと変える。

 とそのときだった。

 あれ……?

 またも、頭に痛みを覚えた。

 昨日、この店に来たときと同じような、ぴりりとした痛み。

 呼吸も少し荒くなり、あたしが頭を右手で押さえると同時に、再びセピア色の映像が頭の中に流れ込んでくる。


 ……海のように青く透き通った天然石の中では、驚きに目を大きく見開いたあたしの顔が映っていた。

 おじいちゃんは、長い顎髭を撫でながら、にこにこして言った。

「鈴はとてもいい子だけど、ときどき、道を間違えてしまうことがあるねえ」

 あたしはきょとんとしてその顔を見上げる。

「迷子……? あたしはもう、昔に比べれば、そんなに迷子になったりしないよ。ちゃんと地図を見たりするし」

「わはは。そういう意味の間違いじゃないよ。いいかい、鈴は正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、と素直に言える子だ。でも、それは、目の前にあるものがきちんと見えていることが大前提なんだよ。だから、もし鈴が、霧の濃い森の中に迷い込んでしまったりしたら、本当は正しいことでも間違っていると言ってしまったり、その逆もあるかもしれない」

 おじいちゃんの言うことは難しくて良くわからなかったけど、おじいちゃんが自分のことを本当に大切に考えて言ってくれている、ということだけはわかった。

 おじいちゃんは再び頭を撫でてくれると、

「だから、鈴が道に迷うことが無いように、これからはこの石を身につけておきなさい」

 そして、おじいちゃんはあたしの背中に回ると、首飾りを首の後ろで固く結んでくれた。銀の細いチェーンで結ばれたその真ん中では青く透き通った石が光を反射して鈍く光っていた……。


 視界は急速に現実の色を取り戻す。それと同時に、あたしの心の中に流れ込んでくる、なんとも言えない、悲しい、後悔の感情。どうしてこんな気持ちになるんだろうか。

 なにか大事なことを忘れているような気がするけれども、ちっとも思い出すことは出来ない。なにかがそれを阻んでいるような……。

「どうした?」

「……え?」

 不意に声を掛けられ、あたしは我に返る。

 怪訝な顔付きにあたしは慌てて目を背け、怒ったように言った。

「箒とちりとり! どこにあるか教えてくんなきゃ、掃除、出来ないんだけど」

「今、手が離せねー。自分で探せ」

「は? だから、場所がわからないから聞いているんだけど」

「セキエイの隣に縦長の物置があるだろ。それぐらい見当つけろ」

「むかつくなあ……」

 石英って確か白い天然石だったよね、と思いながら店の中を探す。一つ一つの石の名前が書かれたプレートを順番に見て行って、すぐに石英を見つけるが、下に引き出しがあるだけで、言われたような縦長の物置なんてありやしない。

「セキエイは猫だ。白い猫。そこにいるだろうが」

 ぶっきらぼうな声に促されて店内を見回すと、あたしの視界に白い猫の置物が入った。すました表情で目を瞑ったままの猫の置物は、昨日も思ったけど、本物と見まがうくらいよく出来ている。

 それにしても、置物に名前をつけるなんて、ヘンな奴。そんなことを考えながら、そのときふと、あたしは、さきほどまでの頭のぴりりとした違和感が綺麗に消え去っていることに今更ながらに気付いた。一体なんだったんだろう、と首を傾げながら、気をとり直すと箒やちりとりなどの用具一式を取り出し、掃除に取りかかる。

 毎日、掃除はされているらしく、そんなに汚れているわけではなかったし、最初はちょっと面倒に感じたけれど、結局、店内の床の拭き掃除、掃き掃除だけじゃなくて、仕上げにモップがけまでしてしまう。自分でしっかり掃除をすることで、どこになにがあるか、ちゃんと覚えられると思ったし、それ以上に、これからお世話になるおじいちゃんの家に対してよろしくお願いします、という気持ちを込めて掃除をすることも礼儀だと思ったからだ。続いて、喫茶スペースのあるテラスの掃除をしていると、不意に右の足首になにか柔らかいものが纏わり付くのに気付いた。

 視線を落とすと、そこには焦茶色の猫。あたしの足に両前足を絡ませてひっしと抱きついている。

「わっ?」

 直後、物陰に隠れていたのか、昨日の黒猫――コクヨウまでもが、たたっ、と飛び出してきて、あたしの左足に抱きついた。

「ええと、なにしてんのよ」

 両足を猫にホールドされてしまったあたしは、仕方なくそのまま二匹をずるずる引っ張りながら、店内へと入っていく。昨日、瑠璃は店内でやんちゃをしていたコクヨウを怒っていたが、この際、気にしてなんかいられない。

「ちょっと、これなんとかしてくれない?」

「猫くらいでうるせえなあ」

 カウンターの中に入って、相変わらず顔に似合わず細かい作業を続けている瑠璃に文句を言うと、奴は露骨に面倒臭そうな顔を向けて言った。

「『セキエイ』、コクヨウとメノウをなんとかしろ」

 と、どこからか、にゃ、という鳴き声が聞こえたかと思うと、なにかの条件反射かのように、あたしの足首に纏わり付いていた二匹の子猫が同時に離れ、床の上で行儀良く並んでちょこんと座った。

 え……、ちょっと今のなに……?

 頭の中に、調教された猿軍団の映像が浮かぶ。

「こいつらの飯はキッチンにあるから。あと、飯終わったら、コクヨウとメノウは外に出しておけ」

「え? 餌当番まであたし?」

 文句を言うが、既に奴の視線は手元に戻されていて、耳には一切入っていないようだ。

 また猫たちに絡まれても困るし、と、仕方なくキッチンに行って戸棚の中を漁ると、すぐにカリカリの箱を見つけることが出来た。

 けれど、戸惑ったのは餌皿の存在だ。猫は二匹しかいないのに、皿はなぜか三枚ある。一枚は予備なのかとも思ったけど、皿にはそれぞれ猫の名前らしきものが書かれており、コクヨウ、メノウ、セキエイとある。

 コクヨウとメノウはいい。けど、セキエイって? 確か、置物の名前だったような……。

 とりあえず全部を持って店に戻る。

「ねえ、この『セキエイ』、ってのは、どうすればいいの?」

「あん?」

 奴は不機嫌極まりない顔でガン付けてきた。

「どうするって、なにをだ」

「いや、餌を出すかどうか」

「出すに決まってんだろ。あと、セキエイが最初な。でないと、メノウもコクヨウも食わねーから」

 置物の猫に餌? お供え物ということだろうか。

 カリカリを入れた餌皿を手に、あたしは目の高さよりちょっと高いところ、赤い座布団の上に鎮座し、相変わらず目を瞑ったままの『セキエイ』と向き合う。

 まじまじとその顔を覗き込んでみるものの、やっぱり身動き一つしない。でも、毛並みは本物の猫っぽいし……。ちょっと迷った末に、あたしはそっと右手でセキエイの首を撫でてみるものの、反応はちっとも無し。

 やっぱり剥製かなんかじゃないのかな?

 とりあえず仏壇に供えるみたいな感じで『セキエイ』の前に餌皿を置いた後、床にメノウとコクヨウの分のお皿を置いたら、二匹の方はもう待ちきれないといった様子で頭を皿に突っ込んでがっつき始めた。

 気持ちの良い食べっぷりを眺めながら、あたしの方は何時頃にお昼にしようか、朝遅かったからもう少し後でもいいかな、などと考えているうちに、はたと重要なことに気付いた。

 ……やっぱり、ご飯はあいつと一緒に食べることになるんだろうか?

 昨晩、今朝とたまたま別々だったけど、いつまでもそういうわけにはいかない。すごくご飯が不味くなるに違いない、なんてことを考えているうちに、あたしは更に悪いことに気付き、頭を抱えて蹲った。

 そもそも、ご飯を作るのは誰なんだ。家賃分働けとか言ってくるあいつのことだ、やっぱり三食作れとか言ってくるに違いない。

 いやいや。それは断固拒否しかない。

 正直、料理の腕には自信が無いし、部活が始まったら三食作っている余裕なんて全然無い。百歩譲って当番制だ。

 今のうちに宣言しておかなければ。そう思って拳を握りしめながら立ち上がったときだった。

 店の扉につけられている鈴がカランカランと大きな音を立てて鳴り、誰かが店内に入ってきた。

 振り向くと、そこに一人の婦人の姿。ちょっとふくよかな感じの人で、水色のワンピースにオフホワイトのカーディガンを羽織っている。地元の人だろうか?

「こんにちはー。今日も良い天気ねえ」

「あ、こんにちは……」

 朗らかに挨拶され、あたしも咄嗟に頭を下げるが、ここは「いらっしゃいませ」の方が正解なんだろうか。でも、別に接客までやれなんて言われていないし……。

 婦人はカウンターの傍まで行くと、奥の工房を覗き込みながら言った。

「るりちゃん、うちの主人がお願いしていたもの、あるかしら?」

 ややあって、工房からいかにも迷惑そうな表情の瑠璃が顔を出した。

「用意出来ていますよ。今、持って行きますから、テラスで待っていてください。それと、その呼び方は止めて頂きたいんですけど」

「あらら、ごめんなさいね。るりちゃん。……じゃなくて、店長さん」

 婦人が口に手をあてて、おほほほ、と笑いながら、外のテラス席へと出て行く。

「瑠璃ちゃんねえ」

 と、あたしがにやけていたら、奴が思いきり睨んできて言った。

「手伝え」


 トレイでコーヒーを運んでいくと、婦人はコクヨウを抱きかかえてご満悦だった。そして、エプロン姿のあたしを見るなり、大きな目を更に大きく見開き、まじまじと見つめながら言った。

「あらら、あなた、新入りさんだったの? もしかして、あなた、あのワイルドさに惹かれちゃったのかしら? 格好いいわよねえ、るりちゃん、私ももう少し若ければ」

「い、いえっ! そういうのじゃなくて! あたしは単なる親戚でして……」

「あら? じゃあ、従兄妹?」

「め、姪です。佐原鈴といいます。宜しくお願いします」

 ぺこりと頭を下げると、おばさんは更に食い入るようにあたしの顔を見つめてきて、

「確かに、目元が似ているわよねえ」

 げげっ。そんなことない! 絶対無い! という悲鳴を必死に押し殺しながら、ご注文は以上でお揃いですか? と尋ねるのは省き、ぺこりと頭を下げて退散を試みたのだけれど、この婦人はすっかりあたしの方に興味を持ってしまったらしく、なかなか離そうとはしてくれない。代わりに解放されたコクヨウの方はメノウと一緒に菜の花畑で蝶を追いかけ回している。

「それにしても、るりちゃんにこんな姪っ子さんがいたなんてねえ! じゃあ、春休みで遊びにいらしたの?」

「い、いえ! 春から近くの高校に通うことになったので、それで……」

 仕方なく、と言いそうになるのをなんとか堪える。

「るりちゃんの家に下宿ということね。素敵ねえ。じゃあ、近くの高校って、もしかして、希望ヶ丘学園かしら?」

「はい……」

「そうなの! あの学校に入れるなんて、るりちゃんもあなたも、やっぱり同じ優秀な血が流れているのねえ!」

 ふくよかな体を揺らしながら、大げさじゃないか、と思うくらい驚きの表情を浮かべる。

 奴と一緒にまとめられたことに引っかかりを覚えたが、それよりも前に大きな誤解を打ち消すべく両手を振る。

「で、でも、あたしはスポーツ推薦で……」

「そんなの関係無いわよ。あの学校のお眼鏡に適ったんでしょう? 自信をお持ちなさいよ。うちの息子なんて両方ともからっきしで、公立校行きだったんだから!」

 必死にへりくだる一方で、あいつも同じ高校だったのか、ということを知ってちょっと複雑な気分になった。地元なんだから、そう驚くことじゃないのかもしれないけど。

 そんな会話をしているうちに、瑠璃が箱に入れた石を持ってきた。

 今朝から奴が作業をしていた緑色の石で作られた首飾りだ。婦人はそれを受け取ると、早速チェーンを首の後ろで引っかけ、喜びを隠しきれない様子で、ペンダントを首もとで揺らして見せる。

 まるで緑の生い茂った小さな島をそのまま固めたかのような石。それは、銀の鎖と瑠璃の手によって組み合わされ、お守りのように婦人の襟元で淡い光を放っている。

 あたしの視線はそのきらきら光る緑色の天然石に釘付けになる。

 あれ……?

 そのとき、あたしの頭が、またも、ぴりりとした痛みを訴える。

 まただ。

「ええ、いいわ。とても素敵!」

 婦人の声が急速に遠ざかっていく。

「るりちゃん……、店長さんいつも、素敵なアクセサリーを作ってくれて本当にありがとうねえ」

「お礼なら旦那さんにおっしゃってください。誕生石を贈りたいっていうご依頼をいただいたものですから」

「ええ、お父さんにも早速お礼の電話をしなくちゃねえ! あ、うちのお父さん、単身赴任中なのよ。で、誕生日プレゼントを用意しておいたから『ねこまち堂』に取りに行け、って電話があったの。横着よねえ……」

 二人の会話がはるか遠くから聞こえてくるが、その内容は頭に全く残らない。まるで草原を渡る風の囁き声であるかのよう。

 それと同時に、あたしの頭に何かを後悔する気持ちが流れ込んでくる。

 けれど、なにを悔いているのか、はっきり思い出すことは出来ない。

 ただ、胸が締め付けられるように痛くて、その場にしゃがみ、しくしくと静かに泣きたい、そんな切ない気持ち。

 …………………………。

 ……………………。

 ………………。

 …………。


「……おい。なにぼうっとしてやがる」

「え……?」

 あたしは顔を上げる。

「聞いていたか?」

「えっ……、えっ……、え……?」

 瑠璃が怪訝な顔でこっちを見ていた。

「中から取ってきてほしいもんがある。『セキエイ』の下の引き出しに入っている石だ。一つ箱に入れて持ってこい」

「あ、う、うん……」

 あたしは少し混乱しつつ、相変わらずペンダントに夢中な婦人に頭をぺこりと下げると、店内へと戻る。

 今の、なんだったんだろう。

 店内に入り、相変わらず目を瞑ったまま、座布団の上に鎮座している『セキエイ』に近付くと、瑠璃の言う引き出しはすぐに見つかった。それに手をかけようとして、ふと、あたしの視界に、先程置きっぱなしにしてしまった餌皿が入った。そして、何気なく中を覗き込んで、うーん、と唸る。やっぱり中身は残ったままだ。

 釈然としない思いを抱えつつ、あたしはゆっくりと引き出しを開け、そして息を呑んだ。

 そこには数多の橙色の天然石が一つずつ、小箱に入れられた状態で収められていた。そして、中には『瑪瑙』と書かれた紙が入れられていて、その筆跡は明らかにおじいちゃんのものだった。

「痛っ……」

 頭痛がますます酷くなる。右のこめかみを押さえるが、落ち着く気配は無い。

 とはいえ、ここでのんびりしていたら、後であいつになにを言われるかわからない。

 あたしは箱に収められた一つの焦茶色の瑪瑙を手に取り、

 ――そして、

「きゃっ!?」

 今までとは比べ物にならない、痛みが襲った。

 続いて、あたしの頭にまるで洪水のように流れ込んでくる、あのときの記憶。


 ……おじいちゃんから首飾りをもらって、少し大人になったような気がしたあたしは、うれしさのあまり、毎日、朝から夜まで、どこに行くにしても、首飾りを身につけて、あちこちを駆け回っていた。

 けれど、ある日の昼過ぎだった。烏帽子岩の見える浜辺で走り回っていた時、

「あれ……?」

 あたしは首にかかる重みが無くなっていることに気付いた。

 ふと胸元を見て、喉が一気に渇くのを感じた。

 青い石の首飾りが鎖ごと無くなっていた。いつ無くしたのかわからない。

 それからあたしは半べそを掻きながら、一生懸命浜辺を捜し回った。けど、結局、夜になっても見つけることは出来なくて……。


 ……思い出した。

 急速に視界が色を取り戻していく中、あたしはぺたんと床の上に尻餅をついた。

 あたしがこの家に来てから、時折感じていた、悲しさや、後悔、罪悪感の理由。

 口の中に苦いものが広がっていく。なんで、今の今まで、忘れていたんだろう。

 あたしは呆けたようにその場に座ったまま、一切身動きが取れなかった。


 ――ぺろり。


 と、突然、鼻の頭をなにかに舐められた。

「えっ、えっ……!?」

 我に返ると、目の前には、あたしをじっと見つめるアーモンド型の目。

 にゃあ。

 白い猫が一鳴きすると、ぷい、と顔を背け、店の奥へと歩いて行き、ぴょんと棚の上に飛び乗ると、座布団の上に座って目を瞑った。

 ええと……、あれ?

 目を瞬かせる。

 あれって、確か『セキエイ』とか言う置物の猫だよね? 今、動いていなかった……?

「おい、どうした?」

 棚の陰から顔を出したのは、瑠璃だった。

「あ……」

 慌てて起き上がろうとするが、体に力が入らない。結局、怪訝そうな顔をした瑠璃に引っ張られるようにして立ち上がり、驚くと同時に、ばつの悪さを覚える。

「あの、お客さんは……?」

「とっくに帰った。石もセキエイが代わりに持って来てくれたしな」

「『セキエイ』……?」

 きょとんとしていると、奴はちょっと怒ったように言った。

「今、じゃれあっていたじゃねーか。あいつが棚の上から降りるのは珍しいんだけどな」

「そ、そうなの……?」

 あたしは再度、セキエイを見つめる。どう見ても剥製の置物にしか見えないんだけど……。

 ふと、気付くとさっきまでの頭痛は消えていた。だけど、代わりに重たく、悲しい気持ちで自分の心の中が満たされているのがわかる。

 なんであんな大事なことを、あたしは忘れていたんだろう……。

 と、瑠璃が急に顔を覗き込んできた。

 真面目な瞳に見つめられて、あたしは思わずどきりとし、慌てて体を引く。

「な、なによ、一体……」

「それより、おまえ、なにか石に怖がられるようなこと、したか?」

 ……へ?

「どういう……、意味?」

「ああ。そうだ。今、周りの石がおまえに脅えているんだ」

「はい?」

 意味がわからない。

 一体、目の前の男は何を言っているんだろう。

 石が怖がるとか、脅えるとか。おちょくられているの?

 けど、瑠璃は至って真剣な表情のままで、いつものように、こちらをからかっている風ではない。

「言い方を変えてやる。お前には、石を苦手に感じるような思い出でもあるのか。……あるいは、そんな出来事を思い出したのか? 見えたのか?」

 凄みの利いた口調に息を呑み、同時に気味の悪さを感じる。なんか、こいつ、いつもと違うんだけど……。

「わ、悪いけど、あんたが言っている意味、全然わからないんだけど」

 怖くなって立ち上がろうとした瞬間、不意に彼の手が伸びてきて、あたしの腕を掴んだ。その力は強く、払いのけることは出来ない。

「お前、今、昔の出来事が見えたんだろ?」

「…………!」

「それに、自分じゃ、どこまで気付いていたか知らないが、昨日からおまえは無意識のうちに石に触れることを怖がっていた。違うか?」

 あたしは何も言えなかった。体は動かず、心臓が早鐘のように鳴っている。腕に鳥肌が立っていく。

「思い当たること、あんだろ?」

「か、仮にあったとして……、それをあんたに言ったところでどうなるっていうの?」

 三白眼がいつもにまして細められて、なんだか、怖い。

 あたしは後退ろうとしたが、腕を掴む手の力が強く、一歩も動けない。

「いいから話せ」

 心なしか、声のトーンがいつもより低い。

 どうして、こいつ、急にこんなに問い詰めてくるんだろう……?

 真正面に瑠璃の顔がある。視線は射貫くようにまっすぐあたしに向けられており、顔を逸らす事が出来ない。

「……あんた、なにか、あたしの知らないことを教えてくれたりするわけ……?」

 震える声を必死で抑えながら頷くと、瑠璃は腕から手を離し、代わりに肩を軽くたたき、

「ああ。ま、おまえが全部正直に話してくれたらな。とりあえずテラスで待ってろ。コーヒーでいいな?」

「……う、うん……」

 瑠璃はあたしの返事も聞かず、さっさとキッチンの方に向かってしまう。

 一体、なんだっていうの……?