第一話 銀幕にヌエは踊る



「――失礼しましたっ!」

 何かが砕け散る音が廊下に響いたと同時に、謝罪の声が耳に届いた。

 時刻は午後九時過ぎだ。宴会場の襖を後ろ手に閉めながら、ああ、またやったなと俺は嘆息する。

 行かねばなるまい。声の方向は……あちらだろうか。

 まずは廊下の先に目を向ける。磨き抜かれた木材特有の光沢が目に優しく、弱めの照明と合わさって黄金色に輝くそれは、古き良き日本の伝統美そのものである。

 床板が歩みに合わせて軋んだ音を上げるのも楽しく、仄かに漂う精油の香りが心を穏やかにさせてくれる。迷家荘の廊下は相変わらずの美しさだが、残念ながら浸っている場合ではない。

 早足で進んでいくと、突き当たりの暗がりの中に、うずくまる人影が見えてきた。

「緒方さん……すみません。やってしまいました」

 口惜しげに顔を上げたのは、えんじ色の仲居服に身を包んだ女性。

 その傍らには、無惨にも横転した食器運搬用の台車が転がっている。

「怪我はありませんか? 舞原さん」と訊ねると、

「大丈夫です。大丈夫ですけど……!」

 彼女――舞原玲奈はそこで何故か、俺を睨むように目尻を釣り上げた。

「どうしてここの床板、こんなにガタガタなんですか? 木目の窪みに車輪が引っ掛かりさえしなければ……もう!」

「……何分、古い建物ですからね。なるべく中央を歩くようにして下さい」

 穏やかに声をかけながら手を差し伸べる俺。

 迷家荘は江戸時代に建てられた旅館だ。修繕を重ねているとはいえ、経年劣化は至るところに影響を及ぼしている。踏みならされた床板はしなって浮き沈みしており、細かな段差が各所に発生していた。とはいえ、彼女ほどつまずく人間もそうはいないのだが……。

 負けず嫌いの彼女はやや顔を背けつつも、俺の手を取って立ち上がった。

「申し訳ありません。このような失敗は二度と致しませんので」

 丁寧にお辞儀をして陳謝する彼女。ポニーテールに束ねられた栗色の髪がふわりと揺れ、ほのかに甘い匂いが鼻をくすぐった。

 やがて上体を起こした姿を見て、改めて美人だなと思い知らされる。

 特徴的な大きな瞳は黒目の部分が常人より大きく、ブラックホールのようにこちらの関心を惹きつけてやまない。睫毛は長く眉毛もきりりとしていて、薄いフレームの眼鏡と合わせれば、いかにも仕事のできるクールな女性という感じである。

 だが、その外見から受ける印象とは正反対に、彼女は極めてドジなのだ。

「食器……割れていなければいいんですが」

 心配そうに視線を落とす舞原さん。しかしさっき聞こえた派手な音からして、被害ゼロなど望むべくもない。

 横倒しになった台車を起こしてみると、やはり何枚かの皿が砕け散っていた。

「お客さんが破片を踏まれたら大変です。すぐに掃除しないと」

「いえ。待って下さい、緒方さん」

 彼女は何やら切迫した顔で、周囲をきょろきょろと見回している。

「お銚子が一本、見当たりません」

「…………マジですか」

 まさかどこかに転がっていったというのか?

 それこそお客さんが踏んだら一大事だ。立ち話などしている時間はない。

「ここは俺が片付けますから、舞原さんはお銚子を探しに行って下さい!」

「はい! 任されました!」

 歯切れの良い返事をした彼女は、素早く身を翻して廊下を進んでいった。

 その後ろ姿に一抹の不安がよぎるが、皿の破片で指を切られることを想像すると、この場を任せるわけにもいかなかった。

 彼女が仲居として働くことになったのは一週間前だが、目下のところ旅館の戦力というよりはお荷物。教育係を任された俺の頭痛の種になっている。

 廊下を掃除させればバケツを倒す。窓ガラスを拭かせればヒビを入れる。食器を洗わせればお手玉した挙げ句に破損。配膳など怖くて到底任せられない。

 何より問題なのは接客態度だ。彼女は気合いが空回りするあまり、表情が険しくなる傾向がある。それに加えて、緊張すると声が小さくなる癖があり、お客さんから「え?え?」と何度も訊き返されているのをよく目にする。

 さらに、彼女の切れ長の目が、角度によっては睨んでいるように思われるらしく、仲居の対応が悪いという苦情さえ聞こえてくるようになった。

 その都度、謝罪を繰り返して場を凌いではいるが、今後も無事に済む保証はない。だから片時も目を離せないのである。

 とそこへ、

「――おや、緒方くん。掃除かい?」

「あ、中本さん。ご無沙汰しております」

 破片を壁際に寄せ終わったタイミングで、廊下を通りかかった中年男性に声をかけられた。中本さんは地元の消防団の役員で、迷家荘の常連客でもある。

「はは、見たよ見たよ。新人さんが入ったんだねぇ」

 彼はほっこりと破顔し、

「いやぁ、えらい別嬪さんだったねぇ。緒方くんが羨ましいよ。若女将と両手に花だもんなぁ。このう」

「いえ……そんなんじゃありませんよ。本当に」

「そうかい? でもしばらく仲居さん、いなかったからなぁ。あのえんじ色の着物を見ただけで、おじさんは心が華やいじゃうんだよ」

 頬を上気させて言う彼に、まったくですね、と俺は愛嬌を振りまいて、

「まだまだ不慣れでご迷惑をおかけするかもしれませんが、温かい目で見ていただけると助かります。……もちろん何事も起こらぬよう、細心の注意を払いますが」

「はは、何をそんな堅苦しい。新人仲居の面倒を見るのも常連の務めってね」

 中本さんは朗らかに笑った。

「……でもあの子、どっかで見覚えがある気がするんだが」

「そうなんですか?」と素知らぬ顔をする。「他人の空似ってやつですかね」

「うーん、芸能人か何かに似てるのかも。思い出したらまた言うよ」

「わかりました。どうぞごゆっくりお過ごし下さい」

 俺が頭を下げると、中本さんは手を振りながら廊下を進んでいった。

 どうも今日は日帰り入浴に来ただけらしい。舞原さんと顔を合わせる機会は多くはないはずだ。あの様子なら正体がバレることもないだろう。

 とりあえずこの場を片付けなければならない。破片を台車で隠してお客さんが踏まないようにして、箒とちりとりを取りに行こう。そう考えたところで……。

「ねえ先生。ちょっといいかい」

 と、誰かが俺の袖を引いたのがわかった。

 反射的にそちらに目を向けてみると、相手は十歳くらいの少年である。

 赤い女物の着物に身を包んだ彼は、一見して端整とわかる顔立ちだ。掌サイズの顔には高い鼻筋が凜々しく通り、星のごとく𠖱えた瞳と大人びた表情がミステリアスな雰囲気を漂わせる。ただし髪はボサボサで全く手入れがされておらず、前髪の先が顔の左半分を覆い隠すほど伸びているのが特徴的だった。

「どうした? 何かあったのか」

 少年に訊ねると、「一応教えておいた方がいいと思って」と彼は前置きし、廊下の先へと小さな指先を向けた。

「あの新人、さっき露天風呂の暖簾をくぐり抜けていったけど、いいの?」

「いいのって、何が……」

 訊ね返したその瞬間、

「――うわぁっ! 何で!?」

「――きゃあああああっ!」

 露天風呂の方から、絹を引き裂くような悲鳴が聞こえてきた。

 たちまち俺の頭から血の気が引いていく。

 最悪の想像が脳裏をよぎった。まさか、転がったお銚子が脱衣所内に入り込んでいて、拾いに行った舞原さんがタイミング悪く、浴場から出てきた男性客と鉢合わせしてしまったわけじゃないよな? 

 どうかそれだけは勘弁してくれ。神に祈りたい心境になった俺は、隣に立つ少年へと縋るように目を向けたのだが、

「……うーん。残念ながら手遅れかもね」

 肩をすくめながら苦笑する彼。どうやら慈悲はないらしい。

 迷家荘の守り神である彼――〝座敷童子〟は、「尻ぬぐい頑張ってね」と言い捨て、他人事のごとく口笛を吹きながら去っていった。



「――次回からは気をつけて下さい。脱衣所の入口にお履物がなくても、無人だとは限りません。裸足のまま入浴されるお客様もおられますので、原則として営業時間内は立入禁止と覚えておいて下さい」

「はい……。申し訳ありませんでした」

 穏和な声で𠮟責する若女将に、新人仲居は萎れた花のように頭を垂れる。

 時刻は午後十一時になっていた。館内の消灯と戸締まりを終え、事務所内では最近すっかり恒例となった反省会が行われているところだ。

 舞原さんの教育係である俺も、彼女に続いて「すみません」と謝罪する。すると、桜色の着物を身に纏った若女将――白沢和紗さんはすぐさま相好を崩した。

「大丈夫です。幸いにも、お客様方はお怒りではないようでしたので……。人間誰しもミスはします。大切なのはミスを隠さないことと、ちゃんと教訓にすることです。食器などいくら割れても替えがききますけど、失われた信用は容易くは戻りません。それだけは肝に銘じておいて下さい」

 毅然として苦言を呈しつつも、彼女は慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。

 弱冠二十二歳にしてこの風格。最近はますます女将としての気品に磨きがかかっているようで、まるで自ら発光しているかのごとく眩しく感じられる。

 大和撫子を体現する美しい容姿と、東北美人特有の透明感がある白い肌。清楚でありながら可憐。そんな迷家荘に降臨した和装の天使こと白沢和紗さんは、新人仲居にさらに優しい声をかける。

「舞原さんのこと、気付かれているお客様はおられないようですので、その点は安心して下さいね。ダテ眼鏡作戦が功を奏してますよ」

「ありがとうございます。本当にいろいろとご迷惑をおかけして……」

 しかし舞原さんは一層声を暗くし、

「でも和紗さん。もし私に遠慮されているのなら、気遣いなんていりません。もっと容赦なく𠮟って下さいね。緒方さんも」

 そう口にしながら、真剣な眼差しを俺に向けてきた。

 少々返答を迷ったが、

「……確認しますが、舞原さんは怒られるために、わざと失敗しているわけじゃありませんよね?」

「当たり前です!」彼女は前のめりに訴えてきた。「たくさんミスをするのは、私が単に鈍くさいだけですから! 信じて下さい!」

「ああ……はい。わかりました。信じます」

 そんなに堂々と主張されると、より不安になるのだが……。

 対応に困って和紗さんに目を向けたところで、彼女の背中の向こうから陽気な音楽が聞こえてきた。

 事務所の奥に置かれたテレビの中で、水着姿の女性がビールジョッキを高く掲げ、長い髪と白い肌を強風にさらしている。

『ホップが違うと、ビールも違う! どこまでもクリア!』

 大声でそう叫んだあと、彼女はエメラルドブルーの海に飛び込んでいった。

 夏の間にも何度となく見た、ありふれたコマーシャル映像である。

 しかし今の俺たちの目には、その映像は特別な感慨をもって映った。

「――実物がこんなんで、すみませんね」

 新人仲居は自虐を込めて呟いた。

「きっと幻滅されてますよね。わかってますから」

「い、いえいえいえ!」

 和紗さんが慌てて椅子から腰を浮かせた。

「舞原さんはとても素敵な方ですよ? 役作りの一環とはいえ、同じ職場で働けるだなんて光栄に思っていて」

「フォローなんていりません。この映像だってCG処理してなきゃ見られたものじゃないんですから。本当はこんなにスタイル良くないし。ちんちくりんだし」

「だ、大丈夫です! お客様方にもすごい美人だって評判ですよ? どうか自信を持って下さい!」

 たまらず和紗さんが彼女の手をとって慰めようとする。

 だが俺は心の中で溜息をつき、ただ傍観に徹することにした。彼女たちのやりとりはこの一週間、何度となく繰り返されてきたものだからだ。

 何を隠そうこの新人仲居は、こう見えて女優なのである。

 事の起こりは今から三ヶ月前。とある映画会社から、映画撮影のロケ地として迷家荘を使わせてもらいたいという申し出があったことに端を発する。

 支配人である白沢絃六さんは、その依頼を二つ返事で快諾した。うちのような零細旅館にとっては、願ってもないくらい良い話だったからだ。

 撮影に協力すれば相応の謝礼が支払われるし、スタッフや役者の宿舎としても使ってくれるらしく、その際には旅館を丸ごと貸し切りにしてくれるそうだ。

 一般客が静かに過ごせなくなるのではないかという懸念もあったが、夏休みと紅葉シーズンの谷間となるこの時期はちょうど閑散期であり、現に宿泊予約はガラガラだ。だからメリットの占める割合が大きい商談のはずだった。

 ただ一つ予想外だったのは、ある日その映画の主演女優が押しかけてきて、役作りのため仲居として雇ってくれと頼み込んできたことで……。

「――やればできますよ! 舞原さんは、同じ失敗は二度はしていないじゃないですか。その調子で一つずつ苦手要素を克服していきましょう!」

「そうですね……。頑張ります」

 和紗さんの励ましを素直に受け止めつつも、負けん気の強い舞原さんは奥歯を噛みしめるように頬を強張らせた。すると、

「ほら、表情が硬いですよ? 接客業に一番大事なのは笑顔です。こうやって口角を上げて……」

 和紗さんは右手の指でピースサインを作り、その先で口の端を持ち上げて見せた。

 するとその瞬間、舞原さんの瞳にきらりと輝きが戻り、

「――それはまさか! 『散り行く花』のリリアン・ギッシュですか!」

 たちまち前傾姿勢になり、鼻息荒く和紗さんに詰め寄っていく彼女。

「す、すごいです和紗さん! そんな昔の名作をご存じだなんて……! いえ、でもリリアンの微笑みは、映画史上最も有名な微笑みだと言われてますものね! 私なんかを慰めるために……でもありがとうございます!」

「え、ええ?」

 あまりの豹変振りに戸惑う若女将。

「あの、すみません。リリアンさんってどなたです?」

「は? ご存じないんですか? じゃあもしかして、『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドの方ですか?」

「いえ、そちらの方もちょっと……。古い映画はわたし、全然わからなくて」

「わからない……? そうなんですか……?」

 舞原さんは残念そうに声を沈めた。

 実は彼女は、大の映画マニアなのである。映画好きが高じて俳優の道を志したそうだから筋金入りだ。だから映画の話になると、途端に猛禽のように活性化する。

「でもご存じないのに、咄嗟にできるなんて凄いです。もしかしたら名女優の才能があるかもしれませんよ? この際オーディションを受けてみませんか?」

「ええ!? いや、ちょっと待って下さい!」

 さっきまで舞原さんの仲居修業について話していたのに、いつの間にか和紗さんが芸能界に取り込まれそうになっていた。これは危ない。

「舞原さん、落ち着いて下さい」

 危機感に背中を押され、俺は二人の間に割って入ることにした。

「そろそろ配膳場に行きましょうか。まだ食器洗いの仕事が残っていますから」

「あ、そうでした。すみません」

 彼女はすぐに我に返り、真面目な顔つきになった。

 その様子を見て再認識する。やはり仕事に対する真摯な姿勢は本物らしい。

 和紗さんも俺も、曲がりなりにも接客業のプロとして、役作りのためなんて理由で彼女の失敗を許容したりはしない。あくまで一人の新人仲居として扱うことを条件に舞原さんを受け入れたのである。

 良きにつけ悪しきにつけ、彼女は二つのことを同時にこなせるほど器用ではなかった。仲居仕事をしているときに雑念を抱いている様子はない。むしろ嬉々として雑用をこなしている感すらある。本人の言う通り、ミスが多いのは彼女自身の資質に問題があるのだろう。

「ではいきましょうか。……今日は一枚も割らないことを目標にしましょう」

「わかりました。任せて下さい」

 和紗さんに励まされて多少は元気を補充したのか、大きな瞳に活力を漲らせて彼女は背筋を伸ばし、意気揚々と配膳場に向かっていく。

「……あ、そうだお二人とも」

 何かを思い出したように、事務所を出ようとしたところで彼女は振り返った。

「いい加減、私に敬語はやめて下さいね。職場の後輩なんですから――」

 にこりと笑顔を作った瞬間、辺り一面に花が咲いたような錯覚に襲われる。

 こういうときに時折見せる輝きは、確かにテレビの向こう側の舞原玲奈と同一人物だと思い知らされる。

 一瞬、どきりと胸を高鳴らせてしまった俺は、誤魔化すように足を早め、「善処します」と言って先に廊下に飛び出した。

 言い訳をするようだが、彼女の整った目鼻立ちに見とれてしまったからではない。芸能界という異界からの来訪者に、彼らと同じ匂いを感じ取ったからである。

 迷家荘に集う彼ら……。妖怪たちと同じ、トラブルメーカーの匂いをだ。



 それから数日が経ち、待ちに待ったロケ初日がやってきた。

 旅館のチェックアウト時間が過ぎた午前十時。一般客がいなくなったことを確認してから、撮影隊は手早く準備を進めていく。

 その三十名を超えるスタッフは、指示を待つことなく一つの生き物のように統制のとれた動きを見せ、撮影用の大型カメラや重量感のある照明スタンド、レフ板、ガンマイク、そのほか名前も知らない機材を次々に運び出してくる。

 しかし順調なのはそこまでであり、撮影が始まった瞬間から全ては停滞した。

「――何度言ったらわかんだよ! おまえの頭は麩菓子か何かか!? カメラに後頭部向けて演技ができるかい!」

 監督が怒号を上げながら椅子を立ち、舞原さんに向かっていく。

 そしてメガホンでぽかりと殴られた彼女は、項垂れたまま無言で立ち尽くした。

 現在撮影しているシーンは、大ヒット小説『まれびとの花宿』のプロローグに該当する部分だ。

 不慮の事故で婚約者と死別したヒロインが、その婚約者の母親が切り盛りする旅館にやってきて、「この旅館で働かせて下さい!」と訴えるという、たったそれだけのシーンなのだが、これがなかなかオーケーがでない。

 監督いわく、ヒロインである早瀬美月は、過去を振り切り新しい世界に飛び出そうとしている。強い意志とその裏側にある未知への憧れ、社会人経験で培った自信と思い上がりが彼女の胸にはある。

 さらに、亡き婚約者に対するごく微かな親愛の情と、同じ人を失った女将への憐憫。そんな複雑なエモーションを全部飲み込んで心から叫べ。ただし余計なアクションや感情表現はいらない。声だけに全てを込めろ、とのことだった。

「頑張ります……。もう一度お願いします」

「時間をかけりゃ太陽の位置も変わる。照明の配置もいちいち変えなきゃなんねえ。何度も手間をかけさせんじゃねえよ。これっきりのつもりでやれ!」

 威嚇のように顔を近付けながら怒鳴りつけ、舌打ちしながら椅子に戻っていく。

 映画界の重鎮、大沢昭雄監督の風体を一言で表すと、ハワイ帰りのサンタクロースといったところだ。頭には鹿撃ち帽、白髪と白髭に覆われた顔には大きなサングラス。花柄のあしらわれたアロハシャツに短パンを着用し、水色のサンダルに爪先だけ引っかけているというラフな格好だった。

「よぉしもう一回だ! テイク三十……ええい、テイクなんぼか忘れちまったわ! とにかくほれ、スタートっ!」

「――お願いしますっ! 私をこの旅館で……!」

「カット! カットだ! 溜めが全然足りねえ! 慌てんじゃねえよバァカ!」

 激昂した監督が地面にメガホンを叩きつける。それを見てさすがに心配になったのか、三人の助監督たちが歩み寄ってなだめようとする。

 騒然とする現場の空気に、たまらず舞原さんも顔を伏せてしまった。そこへメイク担当の女性スタッフがすかさず駆けつける。

「……あー、暑いわねぇ」

 女将役の大物女優――高峰千鶴子が当てつけのように言い、木陰に設置された彼女専用のチェアに戻っていった。何度やってもできない新人女優に、さすがに苛ついている様子である。

「――まるで戦場みたいだねぇ。あーおっかない」

 すぐ近くから、冷やかすような呟きが聞こえてきた。

 旅館の玄関先から見学していた俺の隣にいつの間にか、座敷童子が意味ありげな笑みを浮かべて立っていた。

「いつまで同じことを繰り返すのかね。彼女、鈍くさいだけじゃなくて勘も鈍いよ。こりゃ前途多難だ」

「おい、他人事みたいに言うなよ」

 今はカメラが回っていないとはいえ、私語を発するのも憚られるほど周りの空気が重い。俺はひそひそ声で返す。

「舞原さんが一生懸命なのは知ってるだろ? ……可哀想じゃないか」

「はは、可哀想とかナンセンスだね。週刊誌読んでないのかい?」

 童子はけらけらと笑いながら続ける。

「この映画の主演はね、本来は〝大場久美子〟がやる予定だったそうだよ。まあ芝居の巧さも実績もあちらの方が上だから当然だ。なのにスポンサーの横槍が入って急遽、舞原玲奈に差し替えられたんだってさ。俗に言うゴリ押しってやつだね」

「詳しいなおまえ……。ゴシップ好きすぎだろ」

 世俗に染まった守り神に白い目を向けつつ、この暇人めと心の中で罵っておく。

 俺が汗水流して働いている間、ずっと部屋でごろごろして過ごし、そのくせおやつ代だけはきっちり財布から抜き取っていくのだから質が悪い。この貧乏神め……。

 やや釈然としない感情は残るが、撮影の裏事情を知るいい機会なので、続けて訊ねてみることにする。

「スポンサーのゴリ押しで決まったキャストに、現場のスタッフたちは納得してないってことか? だからって、こんなイジメみたいな空気作っても仕方ないだろ」

「制作側は制作側で、板挟みなんじゃないかな。製作委員会方式って知ってる?」

「よく目にはするけど、実態は知らないな」

「一言で説明するなら、リスクヘッジのためのシステムだね。テレビ局やタレントの所属事務所、広告代理店や映画会社、映像ソフトの制作会社なんかが、共同で資金を出し合って制作費を分担してるんだ。近年では邦画を上映しても、映画館から得られる利益だけでは赤字になる。だから映画会社の資本のみで映画作りはできない」

「そうなのか? でも『総制作費何億円!』とか景気よく宣伝してるじゃないか」

「実際には、そのかなりの割合が広告宣伝費に費やされてるんだって」

「じゃあ『興行収入何億円!』ってのは?」

「興行収入って言葉の範囲が広すぎるんだよ。劇場公開時の収入は、収益全体の四分の一程度に過ぎないそうだ。だから上映後に映像ソフトにして販売したり、レンタル展開したり、テレビ放映したり、ネット配信したりして徐々に黒字に転換してるわけ。その流通に関わる会社が製作委員会に名を連ね、合議制でキャストや脚本内容まで決めていく。それに従わなければ、撮影をスタートすることすらできないんだ」

「……華やかに見える映画業界も、ずいぶん世知辛いんだな」

 納得できる部分はある。でも舞原さん自身には何の責任もない話だ。結局は単なる八つ当たりではないか。

「監督もスタッフも、最終的には舞原さんの起用を受け入れたってことだろ? なら今さら……」

「だからこそ最初にマウントをとっておきたいんだよ。この現場における上下関係を教え込もうとしてるってわけ。ちょうどあんなふうに」

 童子は言いながら指でさし示す。

 その方向には舞原さんと、白い御髪を夜会巻きにまとめた高峰千鶴子の姿があった。

 群青色をベースに金粉がちりばめられた着物を着た女将は、何やら気怠げな所作で説教をしているようである。

「――やっぱ生で見ても美人だねぇ。オーラが違うわ」

 と、そこで何者かの声がし、続いてペタペタという足音が聞こえてきた。

 中庭の沿道を歩いてきたのは、全身緑色の怪生物、河童だったが――どうもいつもとは装いが違うようだ。

 白磁の皿を頂いた頭には鹿撃ち帽。腫れぼったい両目はサングラスで覆い、水かきのついた手には小さな折りたたみ椅子を握りしめている。

「感激だなぁ。あの銀幕の大スター、高峰千鶴子をこんな間近で見られるなんてよ」

「……おい」と俺は視線を尖らせる。「一応訊くけど、その格好は何だよ」

「礼儀だよ、撮影現場に対する礼儀」

 河童は黄色いくちばしを開いてくかかと笑い、

「てのは半分冗談でよ。周りに野次馬が集まってきてるだろ? あいつらに説明してやらにゃならんと思ってな。映画ってもん自体知らねぇやつらだっているしよ」

「……ああなるほど。目印みたいなもんか。ご意見番はここですよっていう」

 確かに野次馬は集まってきていた。ただし人間ではなく、全て妖怪だ。

 天狗に河童、あとは動物型の妖怪が多い。野次馬という言葉通りの馬面妖怪もいるようだ。

 彼らは基本的に人とは相互不干渉の立場をとっているが、見慣れぬ映画機材に好奇心が刺激されているようで、みな遠巻きにちらちら撮影現場を眺めていた。

「映画撮影隊が来るなんてすげぇことだからな。邪魔はさせられねえ」

 いつも暢気な河童が、珍しく興奮した口調で言う。

「しかもあの大沢組がだぜ? 大栄映画の歴史を作ってきた、名監督と名女優が揃い踏みとくりゃ、邦画好きにはたまらねえ! じっとしてられるかよ!」

「はいはい。でもあんまり偏った知識を広めないでくれよ」

 童子は皮肉をこめたニュアンスで釘を刺し、

「邦画ばかり有り難がる手合いには参るよね。世界にはもっと名作が溢れてるってのにさ。いまだに時代劇と任侠映画しか評価されてない邦画に、未来はあるのかね」

「はぁ? 海外の名前も知らん賞がそんなに欲しいか? 邦画には邦画の良さがある。それがわかんねぇのは、おめえがまだお子様だからよ」

「感性の違いだね。『寅さん』見て涙ぐんでるやつには何も言われたくないよ。刺激の弱い人情ものばっかり見てるせいで脳が退化してんじゃない?」

「おお?」河童はたちまちいきり立った。「なんだ、やんのかコラ」

「あん? ケンカならいつでも買ってやるよ」

「まあまあまあ。おまえたちのこだわりはわかったから……」

 睨み合う二人の間に割って入り、何とか双方をなだめようとする。

「いや、それにしても意外だったな。二人ともすごく映画に詳しいんだな。やっぱり二人で映画館に通ったりしてたのか?」

「…………」

 すると、童子と河童は同時に口を噤み、何故か目を伏せてしまった。

「行ったことないよ」

「遠野には映画館、ねぇからな」

 揃って唇を噛み、口惜しそうに言う二人。

 なるほど。こいつら通ぶってはいるが、テレビで映画が放送されたときにしか目にする機会がないのだ。でも映画が大好きだから、迷家荘に映画撮影隊が来ると聞いて、密かに楽しみにしていたに違いない。

 ならば水を差すのも悪い気がする。気の済むまで撮影現場を眺め、互いの映画論をぶつけ合って欲しい。邪魔はしないようにしようと思っていると、

「――ん。見覚えのないやつが交じってるな」

 不意に、河童がその尖ったクチバシを中庭方向に向けた。

 つられてそちらを見ると……撮影現場にほど近い松の植木の裏側に、身を隠すようにしながら覗いている人影を発見した。

 緑色の和服に袖なしの羽織を重ねた、痩身の青年である。身長は俺よりやや低いだろうか。足元には草履を履いているが、袖と裾から見える手足はとても細長い。

 しかし何より特徴的なのは、その長い黒髪である。髪先が腰帯まで到達するほどに長く、柳の葉のように垂れて顔のほとんどを覆い隠していた。一見して亡霊のごとき風貌だ。

「遠野の外から来た妖怪か?」と声を潜めつつ河童に訊ねる。「危険なやつじゃないだろうな」

「んー、どうかな。大した力は持ってねえと思うぜ? 機会があったら話しかけてみるがよ……どうもそれどころじゃなさそうだ」

 そう呟きつつ、河童は空を窺うようにする。

「こりゃ駄目だ。一雨くるぜ」

 と、言うか言わないかの間に、バケツの水をぶちまけたような大雨がその場に降り注いできた。

 撮影現場が一気に慌ただしくなる。さしものベテラン揃いのスタッフたちも、蜂の巣をつついたかのごとき大騒ぎだ。声を荒らげながら撮影機材をテントや軒下に避難させていく。撮影は一時中断のようだ。

 しかし、大慌てで撤収作業が進む中……たった一人、舞原さんだけは雨の中に立ち尽くしていた。

 こっぴどく高峰千鶴子に𠮟られたのだろう。マネージャーの女性が走り寄って声をかけるも、彼女は両の拳を固く握りしめるようにして、その場を離れようとはしなかった。

 不憫ではある。だが童子の言った通り、同情などナンセンスなのだろう。

 彼女がこれまでいかに努力してきたか、いかに清廉な人柄であるかは何の評価点にもならない。劇場のスクリーンには過程など一切映し出されないのだから。

 安易に慰めるべきではない。今の俺が彼女の力になれるとしたら、教育係としての使命をきっちり勤め上げることだけなのだろうと思う。

「……今日はこれまでかな」

 やがて童子がつまらなそうに言った。すると河童は首を横に振り、

「通り雨だから午後には止むぜ。そんときに議論の決着をつけようじゃねえか」

 すっかり熱が引いた様子で旅館内に戻っていく二人。

 彼らの後について俺も事務所に戻ろうとしたが……あることを思い出して、最後にもう一度だけ撮影現場を振り返ってみた。

 すると松の陰から見ていた青年の姿は、いつのまにか消えてしまっていた。



 それから数時間が経過し、嘘のように雨が止んだ昼下がりのこと。

 日課通りに露天風呂の清掃を終え、脱衣所から暖簾をくぐって廊下に出たところで、誰かに「おおい」と声をかけられた。

「番頭さん、ちょっといいかい」

 満面の笑みで廊下を歩いてきたのは、映画界の巨人、大沢昭雄その人である。

「ど、どうかされましたか?」

 鬼神の形相でメガホンを振り回していた姿を思い出し、思わず声を震わせてしまう。

 大沢監督は数々の名作映画を生み出した、日本を代表する巨匠だ。その映像表現はダイナミズムに満ち、人間ドラマに重きを置いた作風は多くの観客を魅了した。

 だがそんな名監督の威厳はどこへやら。彼は屈託のない顔で手招きをし、

「今からカラスを呼びに行くんだが、あんたも来ないか? 休憩時間なんだろ?」

「カラス、ですか……?」

 業界用語だろうか、と俺は逡巡する。

 確か、選挙カーでアナウンスをする女性をウグイス嬢と呼ぶのだが、男性の場合はカラスと呼ばれるのだと聞いたことがある。それと同じなら、男性のナレーション役を迎えに行くのかもしれない。

「ええと、俺が一緒に行ってもいいんでしょうか」

「構わねえさ。……支配人に聞いたが、あんた、小説家なんだってな」

 監督は親しげに肩に手を回してきた。

「それで熱心に撮影を見てたんだろ? だったら遠慮するこたぁねえ。おれも若い頃にはいろんな現場に紛れ込んで技術を盗んでたもんだ。特等席を用意してやるよ」

「本当ですか? ありがとうございます!」

 思わぬありがたい申し出に、興奮を表に出してしまう。

 映画の撮影現場を描いた小説には一定の需要がある。監督の許可を得て堂々と取材できるなんて機会は、今を逃したら二度とないかもしれない。

「ははは! いいってことよ」

 監督はにかっと好々爺の笑みを見せ、

「若い世代への投資みたいなもんさ。いつか、あんたの原作でおれが映画を撮ることだって有り得るしな」

「……い、いえいえそんな、畏れ多いです」

 本心から恐縮したが、監督はガハハと笑いながら思い切り背中を叩いてきた。

「おいおい! 若者はもっと野心を持たなくちゃいけねえよ! おれんとこに本を送ってくる作家はたくさんいるんだぜ? ……実は支配人から、あんたに良くしてくれって頼まれてるしな」

「絃六さんが……? そうだったんですか」

 あの人のやりそうなことだ。少々こそばゆい気持ちになる。

 確かに最近は番頭仕事に集中するあまり、原稿執筆の時間がとれなくなっていた。そのせいで心配をかけてしまっていたようだ。

「でしたらお言葉に甘えて、勉強させていただきます」

「おうよ。ならさっそくうちの車に乗ってくれ。おれらは土地勘ねえから、ついでに案内してくれよ。持ちつ持たれつってやつだ」

 頬に皺を寄せて快活な笑みを浮かべる大沢監督。思っていたよりもずっと気さくで話のわかる人だなと、認識を改めることにした。

 それにしても……映画界の伝説的大監督の手腕を間近で見られるチャンスだなんて、とんでもない幸運に恵まれたものだ。体に羽が生えたような軽やかさで俺は申し出を快諾し、うきうきしながら駐車場へと向かった。



「……それで、どうしてわたくしまで車に?」

 後部座席から不満そうな声を上げたのは、女将姿のメイクを施された大女優、高峰千鶴子さんだ。

 その横には少々距離を置いて、ドアによりかかるように座った舞原さんもいる。

「別にいいじゃねえか。プロモーション活動の一環だよ」

 ロケ用ワンボックスカーのハンドルを回しながら監督が説明する。

「あんた今度、参院選に出るって噂じゃねえか。選挙活動のリハーサル代わりによ、窓からファンに手でも振ってやってくれ」

「冗談じゃありません。人を猿回しの猿みたいに……」

 高峰さんはふんと鼻を鳴らして、窓枠に肘をついた。

「大体……なんでこの子と一緒なんです?」

「いやな、良い機会だから、役者陣の結束を固めてもらおうと思って」

「馬鹿おっしゃいな。騙し討ちみたいに車に乗せておいて、そんな気分になれるはずないでしょう。やり方が強引すぎるんですよ、あなたは」

 やたら重いトーンで言葉を交わす重鎮たち。助手席でやりとりを聞いていた俺は、ようやく監督の真意に気付き、のこのこついてきたことを後悔し始めていた。

 車内にいるのは、大沢監督、俺、高峰千鶴子、舞原玲奈の四人だけ。

 ロケ初日だというのにワンカットも撮影できていないのは、舞原さんの演技が拙いせいだと誰もが知っている。そのことに相手役の高峰さんが苛ついていることもだ。だから二人を同乗させれば、車内の空気が重くなるのは必定である。

 だがどうやら監督は、二人の間にある高い壁を取り払いたいと思っているようだ。その作業の緩衝材として一般人である俺を引き込んだ。どうもそれが真相らしい。

 となると期待されている役割は、この鬱屈した雰囲気を壊すことで……。

「――ええと、そういえば監督!」

 意を決した俺は、わざと陽気に声を張り上げた。

「どちらに向かわれるんです? どこでも案内しますよ!」

「おう、よく聞いてくれたな!」

 待ってましたという顔で監督が口を開く。

「そうさな、この近場に田んぼが広がってる場所はねえかい? できりゃあ稲刈りが終わった直後だといいんだが」

「田んぼに稲刈り……? そこで何をするんです? 撮影じゃないですよね」

「当たり前だ。カメラなんて積んできてねえよ。あんたを誘ったときに、カラスを呼びに行くって言ったじゃねえか。そのままの意味だ」

「そのままって……まさか本物のカラスのことだったんですか!?」

 真っ黒な翼で空を飛ぶ、生ゴミを食い散らかすあいつのことか。どうやら業界用語でもなんでもなかったらしい。

「ほらまた説明不足。監督の悪い癖だわ」

 高峰さんはふっと吐息を漏らし。それから少し声の調子を和らげた。

「ごめんなさいね番頭さん。監督の十八番なんですよ。車の屋根にスピーカーがついていたでしょう? あれでカラスの鳴き声を流しながら走ると、群れを呼び寄せられるんですって。それを撮影しようとしてるのよ。つまりヒッチコックの猿真似ね」

「おいおい!」

 監督が反駁する。

「映画に鳥を使っただけでヒッチコックのパクり呼ばわりかよ! つうか今の若い者はヒッチコックなんて知らねえだろ? なあ舞原?」

「たしなむ程度には存じ上げていますが」

 映画の話題を振られた舞原さんは、急に活き活きと喋り出す。

「カラスといえば、ヒッチコック監督の『鳥』ですよね。普段、何気なく目にする鳥たちが、ある日突然、集団で襲いかかってくるあの恐怖……。ジャングルジムに留まったカラスがだんだん増えていくシーンは衝撃でした」

「おお、よく知ってんな! ……そうそう、観客からはカラスが増えてるのは丸わかりなのに、主人公は背を向けてるから気付かない。じりじりスリルを高めておいて後に爆発させるわけだ。サスペンスの神様の面目躍如ってとこよ」

「よその映画の評論なんてしてる場合ですか」

 冷ややかな声で高峰さんが水を差し、その矛先を真横に向ける。

「下手に知識があるから、他の役者のようにやれると自惚れているのではなくって?

あなたには技術と経験が足りません。雑念を捨て、言われたことだけやりなさい」

「……はい。すみません」

 舞原さんは謝罪を口にしたが、バックミラーに映し出された顔は、明らかにむっとしていた。

「ですけど、前のドラマの現場では、これでいいと言われました」

「だから何? 間違っているのはわたくしたちの方だと言うの?」

「……そうは言っていません。でも本当に私の演技が悪いのか、それとも私が現場にいること自体が気に食わないのか――」

「か、監督! その分かれ道を左です!」

「お、おおよ。こっちだな!」

 咄嗟の判断で進路指示を差し込み、会話の流れを断ち切ることに成功した。

 舞原さんが主役に抜擢された背景に何があるのか、それはわからない。だが少なくとも大沢監督は、純粋に彼女の演技を見てリテイクを出しているのだと思う。

 でなければこうして車に同乗させて、高峰さんと話をさせている理由がわからない。

監督たちは何か大事なことを舞原さんに伝えようとしているのだ。それをどうにかして教えてあげなければいけない。

 車内には沈黙の緞帳が下りてきたが、それを払いのけて俺は口を開く。

「あの! ちょっと質問いいですか? 高峰さんにお聞きしたいんですが」

「ええ、いいですよ。なんでしょう」

「その、演技って、どうやれば巧くなるんですか? 高峰さんみたいなすごい演技をするには、どんな練習をすればいいんでしょう」

「そんなの簡単ですよ。演技しないことです」

 一瞬の迷いもなく高峰さんは答えた。

「所詮ね、頭で考えてできる演技なんて、お芝居の域を超えるものではないんです。決してリアルとは言えない。演技している自覚がある時点で、もうフィルムから浮いた存在になっているんです。特に、大沢監督の映画ではね」

「まあそうだな」

 監督は微笑を浮かべつつ首肯する。

「さっきの話に戻るがよ……観客には見えているのに主人公には見えない、そういうもんが映画にはたくさん映ってるよな? そしてそれが映画を面白くする醍醐味だとおれは思ってる。何故なら、映画という表現ジャンルの魅力には、人間の持つ〝窃視願望〟が密接に関わってるからだ」

「窃視願望、ですか?」

「ああ。相手に視られることなく、一方的に覗きたいってことさ。観客は登場人物の生活を盗み視ることができる。本来、映画ってのはそれだけで面白ぇんだが、そこで役者が下手な演技をしちまうと急速に白けちまう。映像に入り込めなくなっちまうんだよ。おれはそれが一番気に入らねぇんだ」

「じゃあ、私の演技は……」

 ふと後部座席を覗いてみると、舞原さんは視線を落とし、膝の上で握った手の甲を見つめていた。

 大沢監督と高峰さんの穏やかな話し方から、これは自分に向けられた助言だと気付いたようだ。それと同時にプライドを支えていた最後の柱も砕かれたらしく、無力感に打ちのめされた声で、

「個性も出さず、存在感も出さず、自然な演技をするにはどうすればいいんですか」

「強いて言えば、無意識を厚くすること、かしらね」

 すぐさま回答した高峰さんに、舞原さんは懐疑的な眼差しを向けて訊ねる。

「無意識を……ですか?」

「そう。本当に自然な演技、物語に溶け込む演技ってのはね、無意識に何気なく滲み出てくる行動しかないの。だからあなたはいろいろな経験をして、無意識の層をできるだけ厚くしておくしかない。意識した時点で既に駄目。わかるかしら?」

「わかります……とは言えませんけど、何となく」

「それでいいわ」

 大女優は、ほんの微かに口元を綻ばせた。

「でもね、これはあくまで大沢監督の現場に限った話よ。それぞれの舞台、それぞれの監督の下で相応しい演技は違うわ。あなたも長く女優を続けていくなら、一つ一つできるようになりなさい。……まあ今回だけは、あなたが成長するまで気長に付き合ってあげますから」

「は……、はい!」

 思わぬ励ましの言葉に、舞原さんは感動を露わにした。

 たまらずその瞳も潤んでいる。強がってはいても不安だったのだろう。

 車内の空気も次第に柔らかいものになってきた。安堵しながら運転席の方を見ると、大沢監督が満足げな表情で何度もうなずいていた。

「……でもね、差し当たって直さなきゃいけないところもあるわ」

 高峰さんは再び厳しい口調に戻った。

「歩き方もそうだし、視線の運び方もね。発声も訓練が必要」

「わかりました。改善します」

 舞原さんは背筋を伸ばし、真摯な態度を見せる。やっと仲居をしているときの彼女の顔に戻ったようだ。

 その後も大女優からのありがたい訓辞はしばらく続いた。

 やがて車のスピーカーがけたたましくカラスの鳴き声を奏で始めたあとも、二人の女優は熱のこもった質疑応答を止めることはなく、いつしか車窓に流れる景色は帰路のものになっていた。

「――え? これって」

 異変に気付いた俺は、思わず窓を開けて上空を見る。そこにはおびただしいカラスの群れが、不気味なまでに空を黒く染め上げていた。

 空が七割でカラスが三割。本当にそれぐらいの数が集結していたのである。

「おおお! さすが遠野だな。今までで一番多いんじゃねえか?」

 監督は楽しげに笑うと、そこでいきなり真面目な表情になり、

「……跡取り息子を失った旅館には、不幸の象徴であるカラスの群れが押し寄せる。だが早瀬美月という希望の到来によって暗雲は晴れ、新たな舞台の幕が開く――ってわけだ。きっちりリベンジしてみせろよ?」

 監督が後部座席をちらりと振り返ると、舞原さんが目を輝かせながら「今度こそ」と強い返事をする。

 車は最後の上り坂に入り、迷家荘の茅葺き門がみるみる近付いてきた。

 他のスタッフが連れてきたのか、すでに旅館の屋根には数え切れないほどのカラスが留まっており、自らの縄張りであると主張するようにこちらを睥睨していた。

「番頭さんよ、悪ぃが車を頼めるかい?」

 ブレーキを踏みながら監督が高揚した声を出した。

「すぐに行かなきゃなんねえからよ。カラスは学習能力が高いから、撮り直しはきかねえんだ。こっから先は一発勝負よ」

「さっそく撮影されるんですね? わかりました」

 意図を察して了解すると、監督はさらに気っ風のいい笑みを浮かべて、

「任せときな。最高の画をとってやるからよ!」

 門の手前に車を停め、ドアを開けるなり声を上げてスタッフを集めはじめた。

 やれやれ、と続いて高峰さんも車を降り、舞原さんは「行ってきます!」と告げてその後に続いていく。現場に近付くにつれその足取りは、徐々に気合いが漲り確かなものとなっていった。

「――おまえら準備できてんな? すぐにカメラ回せ!」

 監督の指示が入るなり、スタッフ全体が一丸となって動き出し、

「よっしゃ行くぞ! スタートっ!」

 カチンコが鳴らされた瞬間、全ての音が消え、そして――。

 時間にすればほんの数分、いや数十秒だったかもしれない。

 迷家荘の門の外から舞原さんが叫び、高峰さんが振り向いて視線を交わした。

 それから屋根に群がっていたカラスが一斉に飛び立つと、大地には対照的に、決意を宿した立ち姿のまま微動だにしない舞原さんがいた。

 ちらりと見えた彼女の表情は、午前中とは打って変わり、確かな自信に満ちあふれた〝主人公〟のものになっていた。



 その日の夜は大宴会となった。

 どうも大沢組にとっては久々の映画撮影になるらしく、クランクインを機に旧交を温めあっている様子である。

 そんな総勢四十名にも及ぶスタッフの中に、一際目立つえんじ色の仲居服があった。

 午後のカラス絡みの撮影に一発オーケーが出たせいか、いろいろ吹っ切れた様子の舞原さんは、花が咲いたような笑顔を辺りに振りまいていた。

「なんだか、うまくいったみたいですね」

 接客しながら見守る和紗さんも、胸を撫で下ろした様子である。俺は彼女に首肯を返しつつ、注文の品を大沢監督のところへ運んでいった。

「お待たせしました監督。焼酎の河童割りです」

「おお、待ってたぜ。これがそうか……。なかなかインパクトあるな!」

 すっかりできあがった様子の大沢監督は、ガハハと上機嫌でグラスを受け取った。

 ちなみに河童割りとは、お酒に胡瓜のスライスを浮かべただけのものだ。見た目はやや奇っ怪に映るが、ほのかにメロンのような風味が加わって美味しいらしい。

 ただしこのメニューの発案者が河童だというのは、お客さんには秘密である。

「ところで番頭さんよ」

 さっそくグラスを揺らしながら監督が訊ねてきた。

「この旅館ってよ、座敷童子が出ることで有名なんだってな」

「ええ。そうですけど……それが何か?」

「童子神社ってのがあるらしいじゃねえか。できれば明日の朝一番にでも、スタッフ全員でお参りさせてもらいてえんだ。撮影の無事を祈願してな」

「ああ、なるほど。それならお安いご用ですよ」

 映画撮影にはトラブルがつきものだと聞く。天候の不良や機材の故障、演者の体調不良など、不安要素はいくらでもあるだろう。そのため縁起を重んじる古い映画監督は、ロケ地付近の寺社にお参りに行くことが多いそうだ。

「では手配します。明日の八時頃でいいですか」

「ああ、悪ぃけど頼むわ。……自慢じゃねえが、うちの撮影隊は何かとトラブルに縁があってな。毎度毎度、スムーズに終わったためしがねえんだ」

「それは監督ご自身に問題がおありなのではないのかしら」

 そこで口を挟んできたのは、監督と背中合わせに座った高峰さんだ。

「トラブルの元は誰なのでしょうね。胸に手を当てて考えてみるといいのでは?」

「はは、そうかもしんねえな」

 監督はぐいっと焼酎をあおってから答える。

「現場は臨機応変よ。雷が落ちようが石が降ろうが、全てが良い映画を作るスパイスになる。トラブルを歓迎してるわけじゃねえが、起こったものは仕方ねえ。フィルムから消すのは容易いが、それを何とか活かすのが監督の腕ってもんだろ?」

「だからいつもスケジュール通りに進まないんですよ。今朝だって三十回もリテイクしなくてもわかっていたでしょうに。すぐに演技指導に入るべきでした」

「馬鹿言え。んなことしたらせっかくの異物感が消えちまうじゃねえか」

 監督は座椅子の上で半回転し、高峰さんの方に体を向けた。

「あの場面はあれでいいんだよ。銀行員やってた小娘が、何の予備知識もなく旅館で働こうとする。それってよ、実績も実力もないド新人が、高峰千鶴子の前に引きずり出されて無様な演技をするってのと変わらねえ。だからわざわざ顔見せの前にロケを組んだんじゃねえか。違うか?」

「思惑はわかってましたけどね」

 高峰さんはこれ見よがしに溜息をついた。

「萎縮させすぎると、後々の演技がぎこちなくなると思わなかったんですか? 大根なら大根で、素材の味を生かす監督さんもおられますよ」

「馬鹿にするない。おれがそんなもんで満足する男か?」

「まったく難儀な方ですね……。番頭さんも呆れてるでしょう?」

「えっ? ええと、それは」

 突然そこで話を振られ、俺はしばし思考停止したが、

「呆れたというよりは、やっぱり映画撮影って凄いなって感心してました」

「おっ? 言葉を濁したな」と監督。

「いえいえ」図星を突かれた俺は、咄嗟に話題を転換する。「カラスも凄かったですよね。ああいうの、いまは全部CGでやってるんだと思ってました」

「はは、馬鹿言うなって。CGは意外と値が張るんだぜ? そんなもんになけなしの予算は割けねえよ」

「節約は結構ですけどね」と高峰さん。「あのカメラと照明だけは、いい加減に変えて頂かないと困ります。あんな骨董品みたいな機材、大沢さんの現場くらいでしか見ることはありませんよ。それこそ事故の原因になりかねません」

「おれはあの味が好きなんだよ!」

 監督がドンと畳を叩いて訴える。

「手に馴染んだカメラさえあれば、おれは何だって撮れる。予算の額もスポンサーの意向も関係ねえ。カラスの件にしてもそうだが、創意工夫でなんとでもなるもんだ。それが映画だよ。わかるか番頭さん。おれたち映画屋はよ、もう現実にすら嫉妬しちゃいないんだぜ?」

 ――ああ、この人は凄いな、と心から俺は思った。

 そう言い切れる自信と、裏付けとなる実績が大沢監督にはある。

 七十近い老人とは思えないほどのオーラに気圧され、俺は相槌すら返せなかった。

 現実にすら嫉妬していない。そう断言できるクリエイターが、この世に何人いるのだろうか。俺も作家の端くれとして、憧憬の眼にならざるを得ない。

「言っておくが、舞原玲奈についても同じだぜ」

 監督は座椅子の背もたれに体重を預け、ゆっくりと酒気を宙に解き放つ。

「演技には褒めるところがねえが、素材は良いものを持ってるよ。磨けば磨いただけ輝く原石だ。だから甘やかさず、時間をかけて育てなきゃいけねえ。おれが映画界に恩返しできるとしたら、そのくらいだからな」

 言葉の内側から熱が伝わってくる。門外漢である俺の胸まで滾らせるほどの情熱。

 もっと俺も原稿を書きたい。面白い小説を書きたい。心底そう思った。

 ぐっと手を握りしめ、しばらくその場で感動に打ち震えていると、

「……多いのよねえ、感化される人」

 高峰さんが俺を見ながら左右に首を振った。

「ねえ番頭さん。今の話は舞原さんには内緒にしておいて下さいね。調子に乗って気の抜けた芝居をしかねませんので。……でもまあ、厳しくしすぎて潰れてもらっても困りますので、適度にフォローしていただけると助かります」

 そう言う高峰さんの顔からは、ギラギラとした業界人特有の険がとれ、娘の身でも案じるかのような年齢相応の柔和さを垣間見ることができた。

「……わかりました。俺にできる範囲で、彼女を支えます」

 微笑混じりにそう答えた。監督も高峰さんも、本当は舞原さんに期待しているのだ。それが何故か、我が事のように嬉しかった。

 そしてふと気付く。どうして俺はこんなにも、舞原さんのことを気遣っているのだろうか。いやそれだけではない。いつからか彼女のことを、自然と目で追うようになっていた気がする。何故だろう。

 一体、何が俺をそうさせるのか。彼女のひたむきさに惹かれるものがあったのだろうか。そのストイックさを見習いたいとでも思ったのだろうか。

 自分でも自分の気持ちがよくわからなかったが……考えても仕方がない。

 和紗さんと三人で和気藹々と接客係をする、そんな今の関係性はとりあえずは悪くはない。そう思った。



 宴会に最後まで付き合っていたため、翌朝は寝不足で頭が重かった。

 欠伸を噛み潰しながら門前の掃き掃除をしていると、大量の落ち葉に交じって黒い羽が何枚か落ちている。カラスたちには悪いことをしてしまった。撮影を見物に来ている天狗に頼んで謝意を伝えてもらおうか、そう思案しながら同時にあることを思い出した。

 そういえば、舞原さんが来ていない。

 新人の彼女には、基本的に俺と同じ仕事をこなしてもらっている。いつもなら隣で箒を構えている頃なのだが……まさか寝坊だろうか。

 生真面目な彼女にしては珍しい。体調不良かと案じながら旅館の方に目を向ける。

 舞原さんには客室の一つを仲居部屋として使ってもらっているのだが……どうやら窓を開けて換気しているようだ。となれば起きているということか。あとで様子を見に行ってみようと考えつつ目を戻すと、そこで、

「緒方さん、緒方さん」

 遠慮がちに潜められた声が、中庭の方から聞こえてきた。

 よく見れば生垣の向こうから、仲居服を着た舞原さんが手を振っている。

「そんなところで何をしてるんです?」

「すみません。ちょっと手が離せなくて」

 箒を置いて中庭に向かってみると、石造りのベンチに腰かけた彼女の姿が見えた。手が離せないって、何をしているのだろう。目を凝らしてみて少々驚く。

「鳩……? いや、それカラスですか? 白いカラス!?」

「そうなんです。この子、群れからはぐれちゃったみたいで……」

 ベンチの端にちょこんと座ったカラスが、彼女の掌に乗ったパン屑を無心でついばんでいる。どうやらそのせいで動けなくなっているらしい。

「昨夜、寝る前に、窓から中庭を眺めてたんです。すると木の枝からぽとんと何かが落ちたのが見えて、気になって来てみたら、この子が倒れてて」

「だから一人で餌を? 相談してくれれば良かったのに」

「いえ、カラスに餌やるのって、あまりイメージが良くないのかなぁって……。確か条例で禁止されてる地域もあるとか」

「よくご存じですね。でも遠野では大丈夫ですよ」

 そういう常識はあるのだな、と意外に思って笑いがこぼれた。

「弱ったカラスを一時的に保護するだけなら何の問題もないです。……そいつ昨日、他のカラスたちと一緒に来たんですかね」

「多分そうです。だから私たちのせいかもと思って、放っておけなくて」

 なるほど、と俺はうなずきを返し、改めてそのカラスを観察してみる。

 全身を包む真っ白な羽毛は綿菓子のように柔らかそうで、上品さや気高さすら感じさせる佇まいである。もしも撮影の都合でここに呼び寄せられ、体力が尽きて群れとはぐれたのだとすれば、確かに俺たちの責任だ。

「……わかりました。しばらく旅館で面倒を見ましょう。俺から和紗さんに頼んでみますよ」

「え? いいんですか?」

「別に隠れてやる必要なんてないです。迷家荘の人たちは寛容ですから、カラスに餌をやるくらいで目くじら立てたりしません」

 行き倒れた妖怪の世話をすることに比べれば、ごく普通のことだ。

 それでなくとも迷家荘には、財布からおやつ代を抜き取る貧乏神とか、酒盛り代を無心してくる河童とか、定期的にブラッシングしないと不機嫌になる妖狐とか、肉球がぷにぷにしている化狸とかが棲んでいるのだ。カラスが一羽増えるくらい問題ない。

「にしても、白いカラスなんて珍しいですね。アルビノでしょうか」

「きっとそうです」舞原さんは笑顔になった。「生まれつきメラニンが欠乏してるんでしたっけ。遺伝疾患の一つらしいですけど、とっても綺麗ですよね」

 彼女は目を細めながら、カラスの背中にそっと触れる。

「実は、私の家の近くにも白いカラスが棲んでいて、時々ベランダに飛んでくることがあったんです」

「へえ、何だか縁がありますね」

「ええ。その子も綺麗で、ずっと触ってみたかったんです。……ふふ、思いがけず夢が叶っちゃいました」

 慈愛に満ちた表情で、優しく撫で続ける彼女。実に幸せそうだ。

 カラスは体力を取り戻せば勝手に飛んでいってしまうだろうが、こんな顔を見せられては野暮は言えない。別れのときが来るまでは、せめてこの触れ合いを満喫させてあげたい。撮影の合間の清涼剤にもなるだろう。

「ねえ緒方さん」

 舞原さんは何やら悪戯っぽい目つきで俺を見た。

「意外に優しいんだな、とか思ってます? 私の株、急上昇ですか?」

「思ってますけど、仕事の評価には影響しませんよ。和紗さんには今日は遅刻してきたと報告しておきます」

「え? そんな、ひどい」

 哀しげに睫毛を伏せ、憂いをこめた瞳を作る彼女。

 きっと大沢監督や高峰さんなら三文芝居だと笑うだろう。だから俺も微笑を浮かべて踵を返した。和紗さんに事情を報告しておかなければならない。

 するとそこで、タイミングよく勝手口の戸が開いて、

「――あれ? お二人とも中庭で何を?」

 若女将が首を伸ばし、不思議そうな顔でこちらを覗き込んできた。

 どうもあちらは事務所内の清掃を終えたところらしい。片手に雑巾の入ったバケツを携えているのが見える。

「和紗さん、いいところに……。実はですね」

 さっそく事情を説明する俺。それに耳を傾けながら、和紗さんはゆっくりとした足取りでこちらに近付いてきた。

「カラスが弱って……なるほど。……ええ、保護するのは大丈夫です。わたしも一緒に世話をしますから。……ところで」

 彼女はベンチのすぐ近くまで歩み寄って、それから首を傾げた。

「その……弱った白いカラスさんは、どこにいるんですか?」

「えっ――?」

 一瞬、頭の中が真っ白になった。和紗さんはきょろきょろと辺りを見回しているが、カラスは目と鼻の先にいるのだ。

「ど、どういうことですか」戸惑いながら俺は声をかける。「舞原さん、そのカラスは一体……? ただのカラスではなかったんですか」

「え? ええと……あは、どういうことなんでしょうね」

 彼女は困った顔をして口元だけで笑うが、内心の焦りが透けて見えていた。

 その反応で全てを悟る。

 和紗さんに見えないこのカラスは、つまりは妖怪なのだ。

 現世と幽世の境界に棲む彼らの姿は、常人には決して見ることはできない。なのに、

舞原さんは俺と同様に、白いカラスがそうだということに気付かなかった。

「つまり……」

 一度大きく息を吸って、やがて俺は核心を口にした。

「――あなたにも妖怪が見えているんですね、舞原さん」

 すると和紗さんは口を押さえて驚き、舞原さんはばつの悪そうな表情をして目を伏せた。どうやら間違いないようだ。

 まさか妖怪が見える女優だなんて……。彼女が迷家荘にやってきたのは、果たして偶然なのだろうか。

 動揺のあまりじっとりと汗をかく俺を、白いカラスは無垢な瞳で見つめていた。



「――ふうん。その子、妖怪が見えてるのか」

 部屋に戻るなり童子に報告したが、あっけらかんとした対応が返ってきた。

 中庭での一件からほんの数分後、俺は六畳一間の自室に若女将と仲居を招き入れた。白いカラスの正体を突き止めねばならないし、舞原さんが本当に妖怪が見えるのかも検証しなければならなかったからだ。

「おいらが確かめてやるよ」

 畳の上に横臥していた河童がよっこらしょと腰を上げ、舞原さんの方にずんずん歩いていく。そして水掻きのある小さな手を彼女の前に突き出すと、

「ひっ」

 短く悲鳴を上げ、舞原さんは正座を崩して上体を反らした。

「おいおい」と河童。「そんなに怯えんなよ。ちょっとショック受けんだろうが」

「……あ、すみません。私、両生類が苦手で」

 やはり見えているらしい。それどころか声まで聞こえているようだ。

 両生類じゃねえよ! と憤慨する河童は一旦横に除けておいて、

「どうして黙ってたんですか。妖怪が見えてるって」

「いえ……、それは……、そのう」

 彼女は身をよじりながら再び正座を整える。その膝には例の白いカラスが行儀良く香箱座りしていた。

「見えるといっても鮮明じゃないんです。私、実はすごく目が悪くって……。だから緒方さんがときどき、緑色の置物と話してるのは知ってたんですけど、まさか河童とは思わなくて」

「……いや、置物と話してる時点でおかしいじゃないですか」

「だから正直、寂しい人だなって思ってました。話し相手になってあげないとって」

「勝手に哀れむのはやめて下さい……。俺、そんなイメージでした?」

 後ろでぷっと座敷童子が噴き出すのが聞こえた。

 友達のいないおまえにだけは笑われたくないが……まあいい。一度気を取り直して、

「つまり、妖怪だと思っていなかったわけですね。座敷童子のことは?」

「この旅館の子かなぁって。……なんか、いろいろ鈍くてすみません」

 ぺこりと彼女は頭を下げた。いや別に謝ることではないが。

「しかし珍しいね」

 童子がテーブルに身を乗り出しながら、興味深げに言う。

「子供の頃に妖怪が見える人間は結構いるんだよ。けれど大抵は、大人になれば見えなくなるもんだ。なのにあんたはそうじゃない。これってかなりのレアケースだよ。僕が知ってる中では三人目だ」

 一人は俺。もう一人は和紗さんの祖父、白沢統司さんだ。しかし俺たちには共通の、ある特殊な事情がある。だから見えても不思議はない。

 ちなみにもう一人、例外として妖怪の声だけが聞こえるケースというのもあったが、その少女の祖先は妖怪だった。となると舞原さんも、何らかの形で妖怪と密接に関わっている可能性が高そうだが……。

「――呪われているんですよ」

 と、そこでどこからか、女性のような高いトーンの声が聞こえてきた。

 しかし誰が発言したのかわからない。和紗さん以外の一同は、みなきょろきょろと視線を迷わせていた。すると、

「あたくしが説明しましょう」

 舞原さんの膝の上で、白いカラスがすっくと立ち上がった。

「……なっ。お、おまえ」

 驚きが自然と口をついて出てくる。

「喋れるのか……!?」

「無論です」白いカラスは羽毛に包まれた胸を張った。「あたくしのことは〝シロ〟とでもお呼び下さい。舞原家を鬼の呪いから守るため、密かに代々の当主を見守って参りました。どうぞお見知り置きを」

「鬼の呪い……? 当主を見守ってきただって?」

「えっ。嘘、本当に?」

 シロの自己紹介に、俺と舞原さんはほぼ同時に懐疑の声を上げた。

 しかしそのすぐ後、彼女はぽんと掌を打って、

「じゃあもしかして、うちのベランダにときどきいた、あの白いカラスって」

「もちろん、あたくしです」

 シロは平然と肯定し、続けて流暢に語り始める。

「本来ならば、見守るだけで正体を明かすつもりは御座いませんでした。ですけど、玲奈様の周囲にこれだけ妖怪がいては、いざというとき近くにいなければ守れません。だから事情を話しておいた方がいいと判断しました」

「……そう、だったの」

 舞原さんは複雑な表情をしていた。唐突な事態に戸惑っているようだが、不可解な点もある。

 シロの発言の中で最も気になる、〝鬼の呪い〟について訊ねないのは何故だろうか。もしや彼女自身、何かを隠しているのではないか。

「緒方さん、ちょっと……」

 少し場が静かになったところで、俺の耳に和紗さんが顔を近付けてきた。

「よくわからないんですけど、白いカラスさんって何の妖怪なんですか? 舞原さんとはどういう関係なんでしょう」

 この場で唯一妖怪が見えない彼女は事情が全く飲み込めていないらしく、不安になってしまったようだ。俺は現状で判明している事柄を説明していく。

「カラスの名前はシロといって、舞原さんの家に昔から仕えているそうです。見た目は本当にただのカラスで、何の妖怪かはまだちょっと……。カラス天狗でもないし、足が三本じゃないからヤタガラスでもないし、もしかしたら金烏かも」

「いいや、こいつは〝式神〟だよ」

 童子は自信ありげに言った。

「誰かに命じられて舞原を守ってるなら、そう考えるしかない。式神は妖怪と違って契約に縛られる存在だからね。僕らとは律儀さが違うよ」

「そこはご想像にお任せします」

 シロは返答をぼやかしたが、確かにそう考えるのが一番しっくりくる。

 式神とは、陰陽師が使役する神霊のことだ。調伏した鬼や動物霊を式神にする例も多いと言われ、その姿は多種多様。契約を交わすことにより、陰陽師の命令を忠実に遂行すると言われている。

「ああ、式神様ですか。小説で読んだことがあります」

 和紗さんは俺の解説にうなずいたが、すぐにまた首を傾げた。

「では中庭に倒れておられたというのは、演技をされていたんでしょうか?」

「それは……どうなんでしょうね」

 と口にしつつ再びシロに目をやった。すると、

「いえ、実は東京から飲まず食わずで飛んできたせいで、少々疲れてしまって……」

「東京? つまり舞原の家から来たんだよね」

 童子が口を挟んだ。

「そりゃ岩手まで来るのは大変だっただろうけど、それにしてもちょっと遅くない?舞原が迷家荘に来て一週間以上経ってるけど」

「ええ、まあ……。実は知り合いの天狗に誘われ、霊力を高める温泉巡りの旅に行っておりまして……。それで来るのが遅れたっていうか」

「はぁ? 守護役なんだろあんた」

「ですけど正直な話、いまや名目だけの話になってるんですよ。……あの鬼、特に害とかないし……。だってこっそり撮影現場を覗いてるだけじゃないですか、ほらあの、緑色の和服を着た、髪の長い……」

「ああ、あの人か」と納得を声に出した。「てっきりただの亡霊だと思ってたけど、鬼だったのか」

「そうですそうです」

 シロが羽ばたいて肯定する。

 するとそこで何故か、舞原さんが「すみません」と頭を下げた。

「本当に大丈夫なんです。あの鬼……私は弥彦くんって呼んでるんですけど、あんなふうに撮影を覗いてるのも、家を出るときにちょっとケンカしちゃったからで」

「……ケンカですか? 鬼と?」

「いつもは仕事場についてくるなんて言わないんですよ? でも今回だけどうしてもって聞かなくて。駄目だって言ったらヘソ曲げちゃって、『もうおまえとは口をきかないからな!』って怒っちゃって」

 ……なんだろう。当初思っていたよりも、ずっとゆるい話のようだ。

 呪っている鬼にも、呪われている舞原さんにも、彼女の守護役にもまるで緊張感がない。これなら放っておいても平気そうだ。

 その旨を和紗さんに伝えると、彼女もほっと胸を撫で下ろした様子で、

「ではシロ様も、鬼の方も、みなさん仲がよろしいということですね?」

「そんな感じです」と舞原さん。「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、この子たちのことは私が責任を持ちますので、どうか」

 シロを胸に抱えながら、頭を下げる彼女。

 すると和紗さんはこぼれんばかりの笑みを浮かべて、

「頭を上げて下さい。問題ありませんよ。ここは迷家荘ですから、妖怪のみなさんも大事なお客様ですよ」

 その通りだと俺もうなずく。迷家荘に妖怪が集まってくるだなんて普通のことだ。相手が式神だろうが鬼だろうが関係ない。

 百鬼夜行すら迎え入れたこの旅館に、いまさら恐れるものなどないのである。

 こうしてシロの面倒は舞原さんが見ることになったのだが……。その裏側でとある企みが進行していることを、その頃の俺たちは知る由もなかった。



 式神シロの到来から、数日の時が流れた。

 映画撮影もやっと軌道に乗ってきたらしく、早朝から深夜まで活気溢れる声が現場には飛び交い、カチンコに記されたシーン数を着実に積み重ねていた。

 相変わらずリテイク回数は多いが、素人目にも舞原さんの演技は良くなってきていると思う。高峰さんの演技指導が的を射ているからだろうが、それでも二人を取り巻く緊張感はいささかも緩まず、むしろ当初より張り詰めているくらいだった。

 だが舞原さんの顔を見ればわかる。彼女は今、楽しくて仕方がないのだ。

 そもそも映画マニアである彼女にとって、昭和の大スターである高峰千鶴子は雲の上の存在だったのだろう。なのに今は直接その声を聞いて、彼女のためだけに時間を割いて教えてくれている。本当は感動で胸がいっぱいに違いない。

 当然疲れてはいるはずだ。舞原さんは時折、頭痛に苦しむように顔をしかめ、眉間を揉みほぐしたりもしている。

 でもその度にシロがどこからか飛んできて、耳元で何かを囁くと途端に笑顔になるのだ。きっと精神的には充実したままだろう。

 だから彼女の勢いは止まらない。撮影現場もそれに呼応して目まぐるしく動き続け、あっという間に日も沈んできた。

 そして夕食もとらぬまま、時刻は午後八時――。

「緒方さん、撮影の方はどうなってます?」

 旅館と白沢家をつなぐ渡り廊下にいた俺のところへ、息を弾ませながら和紗さんがやってきた。事務所で帳簿整理をしていたはずだがもう終わったらしい。

 順調みたいですよと答えると、彼女は俺の隣に立ち、掌でひさしを作って中庭の方を覗き込むようにした。

「うわ、映画の照明ってすごいんですね。中庭が昼間みたいに明るくなってますよ」

「ええ。大沢監督いわく、映画は光と影の芸術だそうです。照明によって顔の輪郭をはっきりさせたり、髪に艶を出したり、心情表現までするんですって」

「へええ。一番大きな照明、すごい眩しさですね。首もあんなに高く伸ばして」

「低くすると灯籠の影が出ちゃうらしくて、設置に苦心してましたね。でも三脚式だと場所を選ばず立てられて重宝するなって、スタッフさんが笑ってました」 

「ふふ、なら良かったです」和紗さんはにこりとする。「笑いがこぼれるような現場なら、きっと舞原さんも伸び伸びできるでしょうから」

「ええ、本当に」

 同意を返すと、彼女はさらに笑顔になった。舞原さんを心配していたのは事実だろうが、彼女自身もかなり機嫌が好さそうだ。

 その理由を知っている俺は、「ところで、いよいよ明日ですね」と水を向けてみた。すると彼女は少しだけ頬を紅潮させて、

「もしかして、顔に出ちゃってます?」

「それはもう、はっきりと」

「やだ……幸村さんには見せないようにしないと……。平常心、平常心」

「別に良いじゃないですか。一年間、楽しみにしてきたんですから」

 そう、和紗さんがこんなに楽しげなのは、明日が九月二十三日――秋分の日だからなのである。

「明日、夕方になったら一緒に行きましょう。瀬織津姫のお迎えに幸村さんも来るそうですから。そこで会えるようにお願いしてあります」

「ありがとうございます。緒方さんには感謝してもしきれません。……本当に」

 和紗さんは目尻を緩めながら、ほろりと表情を綻ばせた。

 女神となった彼女の先輩仲居――幸村織音さんに再会する日を、和紗さんはずっと待ち望んでいた。それを楽しみに一年間頑張ってきたと言っても過言ではない。だから明日はとても大切な日なのだ。

「ふふ、楽しみですね。……あ、緒方さん。撮影が始まるみたいですよ」

 彼女は照れ隠しのように撮影現場に視線を向けた。

「今撮ってるのはどういうシーンなんですか? 相手役の方は、〝福島正隆〟さんですよね?」

 福島正隆は、いわずと知れた有名俳優の名前である。

「結構重要なシーンですよ。福島さんは若旦那役なんです」

「ということは、もしかして舞原さんの?」

「夫になるはずだった人です。まあ序盤で亡くなってしまう設定ですけど」

「ええ? わたしまだ原作の一巻までしか読めていないんですけど、福島さんの出番ってまだあるんですか?」

「そうですね。ネタバレになっちゃうかもしれませんが、いいですか?」

 気を遣って訊ねると、「わたしネタバレとか関係なく楽しめる方なので!」と快活な返事があった。なら遠慮しなくてもいいか。

「……原作の小説では、ヒロインが働くことになった旅館は、実は普通の旅館じゃなかったんです。本当はこの世とあの世の境界にある旅館で……。亡くなってしまった人が、黄泉への旅の前に最後の一夜を過ごす宿だった。それはご存じですか?」

「はい。そして仲居のヒロインが、みなさんの心残りを解消していくんですよね」

 和紗さんはさっそく大きな瞳をうるうるとさせ、

「ということは、二巻では亡くなった若旦那が帰ってくるんですか? 幽霊となった状態で?」

「その通りです。彼はしばらくヒロインのサポート役になるんですが、一緒に過ごすうちに彼女には、生前には芽生えなかった恋心が生まれて……」

「そ、それでどうなるんですか?」

 すっかり物語に引き込まれた様子の和紗さんは、前のめりになって訊ねてきた。

 でもその先は、読んでみてのお楽しみです、と黙っておくことにした。せっかくの名作なのだから、やはり自分で読んでもらった方がいいだろう。

「わかりました! 今度の休みに絶対読みます!」

 和紗さんはすっかり乗り気になったようだ。

 ――と、そこでカットの声が辺りに響いた。

 撮影現場に目を戻すと、舞原さんがメガホンでぽかりとやられていた。どうも福島さんを前に上がってしまったらしく、開幕の台詞をいきなり噛んだようだ。

 でも怒られるその表情に、悲壮感などまるでない。

 きっと高峰さんのときと同じように、何度もつまずきながら緊張を克服し、前へと進んでいくのだろう。俺ごとき部外者が心配を挟む隙などなく、現場は自然のままに流れていくに違いない。

 安心したような、教え子が独り立ちしてしまったような……。少々寂しい気持ちで彼女を眺めていると、不意に和紗さんが隣から顔を覗き込んできた。

「……ちょっと緒方さん、変わりましたよね」

 和紗さんは何故か含みのある目つきをし、

「舞原さんを見る目がすごく優しくなりました。……何かありましたか?」

「え? いえ、特に何も」

 どきりと胸が跳ねたが、俺は動揺を隠そうとする。

「まあ初めてできた後輩ですし、その成長がちょっと嬉しいっていうか」

「それだけですか? ……だって舞原さんとは妖怪が見えるという共通点もあるし、ときどき映画の話で盛り上がってるし、わたしより断然距離が近いし」

「え? そんなことないと思いますけど」

 言葉の意図が読めず彼女の目を見返すと、和紗さんは何やら信じられないような顔をして自らの口を押さえた。

「……あ、すみません。わたし急に、何言ってるんだろう……。すみません。今のは全部忘れて下さい!」

「は、はぁ」

 慌てたように彼女は言って、頭を振って素早くお辞儀をする。

 どういう意味なのだろう。もしかして教育係としては甘すぎると思われていたのか。確かに俺は人を𠮟るのが得意ではないし、そんな資格もまだまだないのだが……。

 それとも、俺と舞原さんに妖怪が見えるという共通点ができて、ちょっと疎外感を感じてしまっている、とかだろうか。和紗さんらしくもない。

「ええと、大丈夫です。忘れますから顔を上げて下さい。いえもう忘れました」

「本当ですか? 良かった……」

 すぐに顔を上げて、ほっと安堵の息を漏らす彼女。

 その心中は読み取れないが、一つだけ腑に落ちたことがあった。

 根拠はないが、理解できた気がする。俺が舞原さんから目を離せない理由は、彼女がよく似ているからだ。

 出会った頃の、和紗さんに。

 天真爛漫で、一生懸命で、なのにどこか危なげで、見えない場所で自省ばかりしていた彼女。

 最近はすっかり若女将が板についてきた和紗さんも、大切な人を失って悲しみの底に沈んだこともある。舞原さんはそのときの和紗さんに良く似ていた。あの、時折見せる作り笑顔の強がりが、特にだ。

 だから気になっていたのだろう。わかってしまえば単純だ。俺は舞原さんを通して和紗さんを見ていた。実に恥ずかしい話である。

 こんなこときっと誰にも言えないだろう。墓まで持っていくしかないな、と後ろ頭を掻きながら苦笑していると――

 その瞬間。

 撮影現場の方で、何か大きな影が動いた気配があった。

 照明スタンドだ、とすぐにわかった。演技に集中する舞原さんの頭上で、重量感のあるライトが会釈をするように首を傾け、そして。

「――避けなさいっ!」

 鋭く声を放ったのは高峰さんだった。

 誰より先に行動に出た彼女は、照明スタンドの前に素早く駆け込み、舞原さんに覆いかぶさるようにして地面に押し倒そうとする。

 視野全体がスローモーションになっていく。折り重なった二人の女優の上に、黒い遮光板に囲まれたライトが、ゆっくりと倒れてきて……。

 やがて、ごとん、と地面を揺るがす音がした。

「……っ! おい! 大丈夫かっ!」

 椅子から立ち上がって叫ぶ大沢監督。

 福島さんも前屈みになって彼女たちの身を案じ、さらに両女優のマネージャーが慌ただしく駆け寄っていく。

 俺だって見物気分ではいられない。焦燥感のまま走り出すと、ぐんぐん現場は近くなり、視界にはすぐさま決定的な場面が飛び込んできた。

「――だ、大丈夫ですか? 高峰さん! 高峰さんっ!」

 体を起こすなり、蒼白な顔で呼びかける舞原さん。彼女はどうやら無事のようだ。

 しかし、身を挺して彼女を守った大女優は、苦悶の表情を浮かべて首を振るだけ。

 倒れてきた照明が当たったのは、どうやら右足首らしい。

 外見からは怪我の程度はわからないが、あの重そうな照明スタンドが直撃してしまったのなら、骨折していても不思議はない。

「……ぐ、うぅ……。あんたがボサっとしてるから……。この馬鹿……!」

 大量の脂汗を浮かべ、恐らくは悶絶するほどの痛みに耐えつつ、それでも憎まれ口を叩いているのはさすがと言ったところか。

 だがこんな事態になってしまっては、もはやカメラを回すどころではない。

 数分後、担架に乗せられた高峰さんはうめき声を上げながら現場を離れ、スタッフの車ですぐさま病院に搬送されていった。

 監督が撤収の指示を飛ばし、間もなく撮影隊は一時解散。

 地面に崩れ落ちた舞原さんは自責の念に苛まれ、ただ嗚咽を漏らすばかり。

 マネージャーと和紗さんが必死に慰めようとしていたが、彼女の涙を止めることは誰にもできなかった。



 やがて一夜が明けたが、迷家荘を取り巻く空気は重苦しさを増す一方だった。

 スタッフの車で運ばれた高峰さんの容態は、未だ不明のままだ。

「……とんでもないことになりましたね」

 門前の掃き掃除をしながら和紗さんに呼び掛けると、彼女も「そうですね」と浮かない顔をして答える。

「高峰さんの怪我、大したことなければいいんですけど」

「ええ。でもあの様子では……」

 と、俺は言葉の続きを濁してしまう。

 事故直後に見た、苦痛に歪んだ高峰さんの表情からして、すぐに治るような負傷とは到底思えない。しばらくは歩くことすらできないのではないだろうか。そうなると撮影の続行は、難しいかもしれない。

 溜息をつきながら客室棟を見る。舞原さんの部屋の窓は閉まったままだ。 

 彼女は事故に責任を感じている様子だ。かなり精神状態が不安定になっているため、今もマネージャーに付き添われている。

 いいや、舞原さんのことも心配だが、それより迷家荘のことを第一に考えねばならない。ロケ地として使用許可を出している以上、もし警察沙汰にでもなれば事情聴取や現場検証に応じる必要がある。それが長時間にわたれば……。

「――おーい、番頭さん」

 とそこへ、駐車場の方から手を振りながらやってくる影があった。

「悪ぃ」大沢監督はいきなり頭を下げた。「事故のことだが、千鶴子から連絡があったんだ。『倒れてきたライトは足には当たってない。転んで足首を捻っただけだから心配しないで』ってよ。昼過ぎには戻ってくるつもりみたいなんだが……」

「ほ、本当ですか? 良かった……」

 安心して体の力を抜く和紗さん。

 けれど、「そんなはずがねえ」と監督はすぐに表情を曇らせた。

「本当に足を捻っただけなら、こんなに治療に時間がかかるはずはねえ。あいつが帰ってきたら、おれが怪我の程度を確認する。それ次第にはなるが……恐らくここに、警察を呼ぶことになるだろう」

「警察を……ですか」

 最悪の想像が現実のものになろうとしていた。

 そんな俺の顔色を見たせいか、監督は「すまねえ」と手を合わせる。

「千鶴子の所属事務所には恩もある。本人がなんと言おうと、内々に済ますわけにはいかねえ」

「で、ですけど……。昨夜の事故に、事件性なんてなかったと思いますが」

「それを警察に証明してもらうんだ。現場の責任者であるおれには、安全配慮義務ってのがある。それを怠っていたとなりゃ、業務上過失傷害の罪に問われることもある。だから警察を呼んで正々堂々、やましいところはないって証明しなきゃな」

 監督の言い分はわかる。きっと難しい立場なのだろう。

 迷家荘としても、敷地内で起きた事故である以上、そうすることが妥当なように思える。しかし昼過ぎに高峰さんが帰ってきて、それから彼女を説得して警察を呼ぶとなれば、現場検証は夜までかかる。俺も和紗さんも事情聴取を受けねばならなくなる。もしもそうなれば……。

「わかりました。お任せします」

 和紗さんは気丈にも笑顔を作り、首を縦に振った。

「本当に悪い。旅館の体面もあるだろうに」と監督。

「いいえ。撮影に協力すると決めたときに、事故が起きる可能性も考えましたから。うちとしては問題ありませんよ」

「……そうか。埋め合わせはきっとする」

 大沢監督は神妙な声でそう告げ、「他のやつらにも説明してくる」と言ってその場を去っていった。

 あとに残された俺たちの間に、重い沈黙が降りてくる。

 けれど、このまま何も言わずにはいられない。俺は必死で言葉を選びながら、

「警察への対応は俺がやっておきます。だから和紗さんは――」

「お気遣いは無用です。わたしは迷家荘の若女将ですから、その責任は果たします」

「待って下さい! 意固地になる必要はありませんよ!」

 思わず声が大きくなってしまった。だって今夜は、和紗さんがあんなにも楽しみにしていた、幸村さんとの再会が叶う夜なのだ。

 なのに涙を飲んで耐えねばならないだなんて……あんまりではないか。

「どうか行って下さい。俺では頼りになりませんか?」

「緒方さんのことはいつだって頼りにしていますよ。ですけどこの旅館の一大事に、全てを放り出して会いに来たと知れば、幸村さんはわたしを許しません」

「それは……」

 そうかもしれない。幸村さんは自分にも他人にも厳しい人だ。

 たとえ一時でも和紗さんが若女将の立場を忘れたなら、彼女はすごく怒るだろうし、それ以上に悲しむだろう。その姿が目に浮かんでくるようだ。

「わたしは大丈夫ですから」

 俺に迷いを断ち切らせるためか、和紗さんはもう一度微笑んで、

「すみません緒方さん。ここの掃除を任せてもいいですか? 監督のお話を支配人に伝えてきますので」

「……はい。わかりました」

 仕方なくそう答え、離れていく和紗さんの後ろ姿を見送った。

 彼女の背筋は変わらず、ぴんと伸びていた。でも残念でないはずはない。

 人間が神になると、その人に関する記憶は消えてしまう。和紗さんは実際に一度、幸村さんのことを思い出せなくなったことがあるのだ。

 定期的に会って記憶を更新しなければ、また忘れてしまうかもしれない。その恐怖が和紗さんの中には拭いがたく存在する。それは間違いないと思う。

 なのに、その一年に一度の機会すら守ってあげられないだなんて……それが悔しくて情けなくて、たまらなかった。

「……何か、何か方法はないのか」

 箒を握りしめながら考える。切迫感に追い立てられるままその場を歩き回り、思考を研ぎ澄ませていく。

 何か、全ての問題を一遍に吹き飛ばすような名案はないものか。そんな都合の良いことを考えながら周囲に視線を巡らせていると、

「……なんだ?」

 視界の隅で何かが動いた気がした。

 注意深く気配を探ってみると、中庭の端っこに、緑色の和服を着た青年が立っているのが見えた。

 いや、立っているだけではない。何やら足元に指をまっすぐ伸ばしている。

 あそこは確か、昨夜の事故の原因となった、倒れてきた照明スタンドが置かれていた場所では……。



「――なるほど、土を掘った形跡があるね」

 中庭にやってきた童子が、いつになく神妙な声で言った。

「例の鬼が教えてくれたのかい? んで、そいつはどこにいるの」

「近付いたらどこかへ逃げていったよ。それより童子、この痕跡は何なんだ?」

「そうだね……。照明が倒れた拍子に三脚の先が掘り起こした、にしてはかなり深いところまで土が軟らかくなってる。誰かが穴を掘ったと見る方が正しいね」

「つまりどういうことだ?」

 核心を訊ねると、童子は薄笑いを浮かべ、

「照明スタンドは自然に倒れたわけじゃない。トリックがあったってことさ」

「トリック……。やっぱりそうなのか」

 この痕跡を目にしたときから、直感的に疑ってはいた。あの事故は人為的に引き起こされたものなのではないかと。

 昨夜の事故当時、撮影現場は照明によって煌々と照らされ、三十人近いスタッフが見守る衆人環視の状態だった。だが視線は演者に集中し、照明機材の足元はカメラにも映らないから死角になっていたはずだ。その状況を誰かが利用したとすれば……。

「やれやれだね。どうしてもっと早く僕に相談しなかったのさ」

 童子は肩を竦め、呆れたように鼻息を吹いた。

「熟練の映画屋たちが雁首揃えて撮影してたんだろ? なのに、照明が倒れて演者が怪我するだなんて、そんな初歩的なミスが起きるもんか。そもそも照明が演者に近い位置にあること自体、例外的な措置だったんじゃないの?」

「ああ」と俺は肯定する。「遠くから照明を当てると、灯籠の影がカメラに映り込んでしまうみたいだった。だからこの位置に三脚を設置する必要があって、ライトの首を高く伸ばしていて……」

「なら偶然でなく必然だね。ロケハン、もしくはリハーサルの時点でそこにスタンドが立てられることはわかっていたはずだ。だったら仕掛けを打つこともできる」

「誰かが倒れるように仕組んだってことか」

 しかし、一体誰がそんなことを?

 現在も監督たちは宴会場にこもり、事後の対応を検討している。高峰千鶴子の所属事務所は業界の最大手だ。そこがスポンサーから降りるようなことがあれば、映画の話が白紙に戻ってしまう可能性もある。なのにスタッフの中に裏切り者がいるというのか。信じがたい。

「――犯人の狙いが、舞原玲奈の降板だとしよう」

 童子は口元に拳を当てたポーズをとり、推理を展開し始める。

「彼女にはスポンサーのゴリ押しで抜擢されたという背景がある。それを面白く思わない勢力がいたとしても不思議じゃない。だから照明を倒して怪我をさせ、役を降ろさせようとしたわけだ。偶発的な事故による負傷なら、監督も業務上過失傷害に問われることはない。犯人はそう思っていたんだろう」

「だけど、まさかこんな強硬手段に出るなんて……。あの照明はしばらくあの場から動いていなかったはずだ。さすがに手で押して倒すわけにもいかなし、犯人はどんな方法で三脚を倒したんだ?」

「そんなの簡単だよ」

 童子は軽い調子で言って、その場にしゃがみ込んで土を撫でた。

「三脚のうち、前方に伸ばした足の下に穴を掘るんだ。この穴は、足がようやく落ちるくらいの細長いものがいいね。そして穴の上に板か何かを渡し、足先はそこに載せておくってわけ」

 身振り手振りを交え、彼は説明を続ける。

「板には穴を開け、ロープを通しておく。……黒いゴムに包まれた配線コードを使うのがいいかな。撮影現場の足元には無数のコードが走ってるからさ。……んで板の上に砂をかけて隠せば準備は完了。舞原が近付いてきたタイミングを見計らい、離れた場所からコードの端を引けば、板が外れ三脚の足先が穴に落ちる」

「つまり落とし穴方式か」

 腕を組んで想像する。ようするにスタンドの下にあらかじめ落とし穴を掘っておき、遠隔操作で三脚の先がそこに落ちるよう仕組んだわけだ。

 照明スタンドの重心――一番重量があるのは頂上のライトだ。前傾してバランスを崩してしまえばあとは倒れるしかない。現場に残った穴は、事故のどさくさに紛れてこっそり土をかけて埋めてしまえばいい。

 だがそれが事実だとすると、もっと難しい問題が浮上してくる。

「……シンプルなトリックだけに、証拠もないよな。ならどうやって犯人を特定すればいいんだ? スタッフは三十人近くもいたんだし、おまえだってあの場を見ていたわけじゃないしさ」

「確かにね。映像にも残っていないだろうし、目撃証言に頼るしかないけど、それも望み薄かもね」

「なら結局、何もわからないってことじゃないか」

 犯人が誰であれ、その思惑が何であれ、すでに完全犯罪は成立してしまっている。一人一人に事情を訊ねてみればまた違うかもしれないが、部外者である俺たちには、これ以上の詮索をする資格があるとも思えない。

 さしもの童子も、次の一手が出せない様子だ。「んー……」と思案顔で唸りながら辺りを少し歩き、やがて晴れ渡った空を見上げながらぽつりと呟く。

「……いやはや、芸能界ってのは怖いねぇ」

「今さら何だよ。犯人が特定できないからって現実逃避か?」

「それも仕方ないじゃない。きっと舞原がいる世界は、遠野よりよほど化け物まみれなんだよ。〝鵺〟の住処ってやつだ」

「……鵺、か」

 頭の中で思い浮かべて、即座に暗澹とした気持ちになる。

 鵺とは、夜な夜な不気味な鳴き声を上げることで知られる妖怪の名だ。

 ただもともとは、〝トラツグミ〟という鳥のことを鵺と呼んでいたらしい。例えば『源平盛衰記』には、その化け物の頭は猿、背は虎、尾は狐、足は狸、音は鵺と記述されている。これは鳴き声はトラツグミに似ていたという意味だ。

 鵺のような声で鳴く正体不明の化け物が変じ、いつしか鵺という名前の妖怪がいるという認識が定着してしまったわけだ。そんな由来があるせいか、現在でも正体不明の化け物や怪事を言い表すのに、鵺という呼称が使われることがある。

 舞原さんを撮影現場から排除しようとしたのは、得体の知れない誰かの悪意。

 それは、芸能界という鵺そのものなのかもしれない。



 その後も、犯人の特定につながる手掛かりは見つからず、悶々とした気持ちを抱えたまま時間だけが過ぎていった。

 証拠と呼べるほどの確証がない以上、誰かに相談するわけにもいかない。現時点では全ては憶測に過ぎないし、ぴりぴりとした旅館内の空気をこれ以上悪化させたくもなかった。

 各人がそれぞれに複雑な想いを胸に秘めた状態で、病院から帰ってくる高峰さんをただ待つこと数時間。

 やがて昼過ぎになり、一台のロケバスが駐車場に戻ってきた。

 後部座席から降りてきた高峰さんは、松葉杖をつきながら無言でどこかへ向かおうとする。そこへ何人かスタッフが補助につき、丁重に客室へと連れていった。

 それからすぐに大沢監督が怪我の程度を確認するため、女性マネージャーと一緒に室内へと入っていった。結果がどう出るかわからないが、まさか壁に耳を当てて盗み聞きするわけにもいかない。

 和紗さんと舞原さんと三人。特に会話もなく、事務所で結論が出るのを待っていると、しばらくして監督が「ちょっといいかい」と呼びに来た。

「千鶴子のやつが話があるそうだ。舞原、おまえ一人で来てくれってよ」

「私、一人でですか」

「ああそうだ。話の内容はわからねえ。だがおまえさんとの話が終わるまで、おれらには何一つ教えてくれねえんだってよ。……あいつ、言い出したら聞かなくてな」

「わかりました。すぐに行きます」

 何やら決意を込めた眼差しをして、舞原さんが席を立った。

 しかし、彼女を一人で行かせていいものかと俺は思う。あの事故を誰かが仕組んだのだとすれば、高峰さんだって容疑の対象からは外れない。いやむしろ……。

「――あの、すみません」

 気付けば俺は、手を上げながら席を立っていた。ここで何もせずにいたら、真実を探求する機会が永遠に失われてしまう、そんな気がしたのだ。

「俺も一緒に行っては駄目ですか。舞原さんはうちの仲居見習いでもありますし……。番頭として高峰さんのお見舞いもさせていただきたいので」

「いや……それは、どうかな」

 監督は明らかに困惑した顔になった。当然だろう。俺だって少々苦しい理屈だとは自覚している。

 だが監督はしばし逡巡したあとで、

「……そうだな。むしろその方がいいかもしれねえな」

「ということは……同席していいんですね?」

「ああ。何となくだが、今の千鶴子と二人きりにはさせねえ方がいい気がするんだ。ずっと撮影現場と役者を見てきた、このおれの勘だがよ」 

 監督は快活な笑みを見せながら、「任せたぜ」と軽く肩を叩いてきた。

 隣で舞原さんがほっと息をついたのがわかる。やはり彼女も不安だったのだろう。

 和紗さんも胸元で両手を握り、頑張って下さい、と視線で俺に伝えてくる。

 これで全力を尽くせる。そう思いながら事務所の出入口へ爪先を向けたところ、

「――よしよし。じゃあ話がまとまったところで、行こうか」

 ガラス戸がすっと開き、顔を出したのは座敷童子だった。

 彼は何やら含み笑いをしつつ、俺たちに手招きをし、自信に満ちた口調でこう告げたのである。

「いやぁ腕が鳴るね。さすがの僕も、鵺退治は初めてだよ――」



 高峰さんの待つ部屋の前で、舞原さんはぴたりと歩みを止めた。

 彼女は何かを恐れているようだ。顔を伏せてじっとドアノブを見つめる。どうしても最後の一歩が踏み出せない、そんな様子だった。

「邪魔するよ」

 だが童子はまるで空気を読まず、するっと割り込んで簡単にドアを開けてしまった。

 こいつはまた適当に……と内心呆れながら彼の後ろに続くと、仕方なく舞原さんもついてくる。

 失礼します、と声をかけながら下足場で履物を脱ぎ、襖を開けてみると部屋の中央には布団が敷かれていた。しかしそこに高峰さんの姿はない。

「――まったく、ひどい目にあいましたよ」

 そんな声がした方向を見ると、広縁の安楽椅子に腰かけた熟年女性の姿があった。

 右足首には包帯が巻かれているが、服装にも化粧にも乱れはない。恐らくは周囲に無用な心配をかけまいという配慮だろう。さすがは名女優といったところか。

「新人をかばって怪我をするとはね……。もう少し若ければちゃんと避けきれていたのに、恨めしい限りだわ」

「こ、このたびはご迷惑をおかけして、何と言っていいか」

 前に出て謝罪しようとする舞原さんに、高峰さんは「待ちなさい」と言って掌を向けた。

「謝っていただく必要はありません。わたくしが勝手にあなたをかばっただけのこと。恩を着せるつもりもございません。……けれど」

 彼女は優雅な仕草で肘かけに頬杖をつき、

「説明はしていただけるのでしょうね」

「……説明、といいますと」

「わかっているでしょう? どうしてあのとき、あなたは倒れてくる照明を避けようとしなかったの?」

「…………それは」

 追及された瞬間、舞原さんはきゅっと唇を結んだ。

 どういうことだ、と俺の中に新たな疑念が生まれる。

 考えてみると確かにそうだ。照明スタンドはあのとき、少しずつ傾きを増しながら倒れてきた。決して避けられない速度ではなかったはずだ。

 なのに舞原さんは、全く動こうともしていなかった。演技に集中するあまり気付かなかったのだと思っていたが、そこに何か別の理由が……?

「正直に話しなさい」

 高峰さんはさらに厳しい目つきを向けてくる。

「撮影中、あなたは何度か、頭痛に耐えるような仕草をしていましたね。眉間を押さえながら目を閉じて、深呼吸をして……。だから疑ったのよ。もしかするとあなたが、何かの病気を隠しているのではないかって」

「…………」

 舞原さんからは返答がない。

「ねえ」と大女優は追い討ちをかける。「あなたがあのとき、照明を避けられなかったのは、その方向が見えていなかったからではなくて? ……いえ、昨夜だけではありません。あなたはロケの最中、極力照明を見ないようにしていた。だからスタンドが倒れてきても反応することができなかったのでは?」

「見えて、いなかった……?」

 我知らず、その言葉を鸚鵡返しにする俺。

 そうだ……。確か舞原さんは、以前に言っていたではないか。『私、実はすごく目が悪くって』と。それがもっと深刻な意味だったとしたら?

 仲居仕事の最中にドジばかりしていたのも、床の段差につまずいたりしていたのも、もしかして全ては――。

「黙ってちゃわからないわ」高峰さんが声を尖らせる。「あなたをかばって怪我をした、そのわたくしにまで秘密にするの? それがあなたの礼儀なの?」

「…………いいえ」

 そこで舞原さんはようやく口を開いた。

「すみませんでした。全てをお話しします」

 観念したようにそう言った。一度息を吐いて全身の力を抜くようにして、

「〝先天性無虹彩症〟。私の目には生まれつき虹彩がありません。そのせいで視力が極端に弱いんです。外見だけは虹彩つきコンタクトレンズで誤魔化していますが」

「やはりね……。それで合点がいきました」

 高峰さんはその答えを予想していたのか、驚いた様子も見せず言葉を続ける。

「虹彩というのは、視覚に届く光量を調節するための器官でしたか。あなたには生まれつきそれがないのね。だから人より光を眩しく感じる。……確か、羞明という名前の症状だったかしら」

 すると舞原さんはこくりと首肯した。

 なるほどねぇ、と俺の隣で座敷童子が感嘆の声を上げる。

「そりゃ大変だ。撮影現場の照明は常人でも眩しいからね。でも舞原の目にはもっと強烈な刺激として感じられていたわけだ。それこそ、鋭い針で直接眼球を突かれているみたいだったろうね」

「……全て、おっしゃる通りです」

 一拍の沈黙を挟み、舞原さんが胸に手を当てながら告白し始めた。

「私はこの病気のことを、ずっと誰にも言えずにいました。事務所もマネージャーも知りません。もしバレたら主演の話もなくなると思って、だから……」

「馬鹿ね。隠し切れると思っていたの?」

 高峰さんはきっと眉をひそめた。

「隠したまま、撮影を乗り切れると本当に思っていたの? あなたごときの拙い芝居でスタッフ全員を騙せるとでも? ずいぶん自信過剰ね」

「いえ……、そういうつもりでは」

「無理よ。このままの状態で、あなたが主演を務めあげるなんて到底無理」

「ま、待って下さい! そんなことはありません!」

 舞原さんの声が必死なものに変わった。

 高峰さんは遠回しに『役を降りろ』と言っている。それを察したのだろう。

「できます! 絶対にやってみせますから!」

 果敢に抵抗しようとするが、しかし。

「考えてもみなさいな。もしあのまま照明があなたのところへ倒れていたら、きっと大怪我していたでしょう。この先同じような事故が起きない保証は?」

「ありません、けど」

「それだけじゃありません。撮影は今後、もっと過酷になるでしょう。あなたの目は本当に耐えられるの? それが原因で失明してしまう危険性はないの? もしも主演女優が撮影中の事故で失明したなんて話が公に出れば、この映画は公開中止に追い込まれるかもしれない。あなたはその可能性を考えた? それでもなお、身勝手な理屈で病気を隠し通すつもりなの?」

「…………」

 舞原さんは再び沈黙に追い込まれた。

 彼女の身に降りかかる言葉は、鋭利な正論ばかり。とても覆せそうもなかった。

 反論しないということは、本当に失明の危険性はあるのだろう。だったら役なんて降りた方がいいに決まっている。彼女はこれから先も長い人生を生きていかねばならないのだから。

 けれど彼女の心情を思えば……。ここで引き下がれば、どうあれ彼女の目のことは周囲に知れ渡る。二度と主演女優なんて回ってこないだろう。役者を廃業することだって考えねばならない。

 ならどうする。どうすればいい。

 何が正しいのか、俺にはわからなくなっていた。だがこの場には幸いにも、どんなときでも俺の迷いを晴らしてくれる、頼りになる相棒がいるのだ。

 一縷の望みに懸けて、俺はちらりと隣に立つ少年を見た。すると……。

 彼はなんと、笑っていた。

 全てを見透かしたような表情で、くつくつと笑い声を上げながら、

「はん。盗人猛々しいとはこのことだね。自ら全てを仕組んでおいて、上から目線で説教するとは大した面の皮だ。さすがは名女優ってことか」

 彼はそう言って、足早に前へと進んでいく。

 高峰さんのすぐ傍に近寄っていき、そして小さな指でさし示した。

「ここだよ、ここ」

 そうか――。

 童子が言わんとすることを察して、俺は思わず溜息をつきそうになった。

「いいかい先生。舞原も聞きなよ」

 童子は真剣な声で俺たちに告げる。

「照明が倒れてきたのは事故じゃない。誰かがトリックを用いて倒したんだ。証拠はすでに消されているけど、その計画に高峰千鶴子が関与していた、たった一つの可能性がここにある」

 彼がまっすぐ指先を向けていたのは、包帯につつまれた高峰さんの右足。

 つまり、それが全ての鍵なのだ。

「断言するよ」

 と童子は続ける。

「女優業への愛とプライドの塊、それが高峰千鶴子という存在の本質だ。だから僕は確信してるよ。このおばさんは、自分が怪我をしたら撮影の続行が難しくなることを誰よりも知ってる。だから怪我など断じてしていない。この包帯を取り去れば全てが解決するはずさ」

 彼の言葉は単純明快だった。

 他ならぬ高峰千鶴子自身が、この狂言を仕組んだ張本人なのだ。

 協力者は他にいるだろうし、目的もまだわからない。舞原さんに自ら役を降ろさせたかったのか、はたまた別の思惑があったのか、それは不明だが……。

 今回の事件において焦点になるのは、高峰さんが本当に怪我をしたのかどうかだ。

 仕掛けを知っているとはいえ、下手をすれば照明が足を直撃してしまう。そのぎりぎりを見極めなければいけない。彼女にそれができたかどうか。

 加えて、あのとき俺は見たはずだ。照明が落ちてきたあと、地面に倒れながら激痛に身もだえする高峰さんの姿を。脂汗を浮かべて真っ白に血の気の失せた顔をして、うめき声を上げ続けるあの姿を。

 あれが本当に、演技だったというのか? いくら往年の名女優とはいえ、汗や血のめぐりといった生理現象までコントロールすることが本当に可能なのか。俄には信じられないが……。 

「信じなよ、先生」

 混迷から思考が停滞する中、童子がまっすぐな目でこちらを見る。

「僕を信じろ。そして昭和の大スター、高峰千鶴子を信じろ」

「…………っ」

 信じるさ。信じてる。おまえを――。

 自らを奮い立たせるため心の中で繰り返す。童子がこれだけ自信を持って断言しているのだ。この包帯の内側には、傷一つない足首がある。間違いない。

 番頭の立場からすれば、旅館のお客様の包帯を剥ぎ取るだなんてできない。当たり前だ。それでも今はやるしかない!

 胸に大きく息を吸い込んだ俺は、そのままの勢いで前傾し、

「――し、失礼しますっ!」

 意を決して高峰さんの足元に飛び込んだ。

「なっ、何をするのあなた!」

「確かめさせて下さい!」

 素早く包帯に手をかけ、力を込めて引きおろす。まるで靴下を脱がせるようにだ。

 するとほどなく包帯はよじれ、その隙間から白い肌がむき出しになった。 

「あっ……」

 しかし思わず声を漏らす。足首には確かに、痛ましい痕跡が刻まれていた。

 何針か縫ったばかりのような、生々しい傷だ。俺はたちまち蒼白になり、手を離して後ずさる。

「下らない真似を……。気は済んだかしら」

 高峰さんは厳しく目を吊り上げた。

 だが振り返れば、童子が首をゆっくり横に振っている。

「特殊メイクだよ。相手は映画女優。その程度の仕掛けはしてると思ってた」

 彼の自信は全く揺らいではいなかった。

 だが……これ以上どうやって確かめればいいのだろう。

 傷口に指を突っ込んで引っ張ってみろとでもいうのか。さすがにそこまでは俺たちにはできない。舞原さんも固唾を吞んで成り行きを見守っているだけだ。

 途方に暮れていると、高峰さんが重い溜息をついた。今度こそ本当に怒らせてしまったに違いない。怒鳴り声に備えていると、

「……さすがに番頭さんには怒れないわね。まあここまでにしましょう」

 と、彼女はいきなり和やかな口調に転じた。

「多分、あなたの思った通りですよ。この傷跡は特殊メイクで作ったもの。わたくしは怪我などしていません」

「――――は?」

 あまりにあっさりと、拍子抜けするぐらいさっぱりとした声で、高峰千鶴子は自らの罪を認めた。

 たまらず俺と舞原さんは、互いに目を丸くして見つめ合う。

 するとそこへ、ふふっ、という含み笑いが聞こえてきた。

「まさか包帯を外そうとするだなんてね。その勇気に免じて、認めてあげましょう。全てはわたくしが仕組んだことです」

「ど、どうしてなんです?」

 いまだ動揺が収まらない様子で、喉を震わせながら舞原さんが訊ねた。

「どうしてそんなことを、する必要があったんですか?」

「あらあら、言わなければわからないかしら」

「じゃあ、そんなに私を、この映画から降ろしたかったんですか!?」

 突然、感情の幅が振りきれたように、舞原さんは声を張り上げる。

「高峰さん……どうして? ずっと憧れていたのに……! 心から尊敬していたのに、

そんなに私が目障りだったんですか!? こんなことをしてまで!」

「降りろだなんて、一言も言ってないでしょうに」

 高峰さんは安楽椅子からすっと立ち上がり、窓の方へと体を向けた。

「今さら主演女優を変えるなんて、できるわけがありません。それこそ撮影中止になってしまいますよ」

「…………えっ?」

 舞原さんは疑問を短く口に出し、いよいよ当惑した目で俺の方を見た。

 混乱するあまり、寄る辺を求めているような表情だ。俺もようやく高峰さんの動機に見当がついたところなので、説明してやりたいが少々難しい。

 頭の中で縺れ合った糸を解きほぐしつつ、俺は彼女に言葉を投げかける。

「これは俺の考えですけど……高峰さんには、舞原さんを撮影現場から追い出すつもりなんて最初からなかったんですよ」

「は……? それ、本当なんですか?」

「ええ。ちょっとやり方はハードでしたが、舞原さんのことを思っての行動だったと思われます」

「聞き捨てならないですね。なんでわたくしが?」

 高峰さんは不満そうに横顔だけを見せて訊ねてきた。

「番頭さんにはわかったというのですか? わたくしの考えが」

「大体のところは。……恐らく高峰さんの目的は、舞原さんが自ら秘密を打ち明けるように仕向けることですよね。でも舞原さんには意固地なところがあるし、並大抵では弱音も吐かない。だから目の病気のことをカミングアウトさせるため、自分のせいで大女優に怪我をさせたという、その負い目を利用しようとした」

「……良い線をいっています。でもそれだけじゃありません」

 高峰さんは苦笑してみせる。

「本人が役を降りるというなら、止めるつもりはありませんでした。その程度のことで潰れるなら、どのみち長くは女優を続けられませんよ。目の病気が進行する前に、辞めてしまった方がいい」

「ですけど、本人が辞めないというのなら……力になってくれるつもりでいるということですよね?」

「まあそうですね。わたくしの要望は最初から一つだけ」

 彼女は振り向いて、舞原さんに真摯な眼差しを向けた。

 そして大女優の威厳を感じさせつつも、柔らかい声で告げる。

「スタッフのみなさんに、あなたの秘密を打ち明けなさい。そして大沢監督に最良の手段を考えさせるの。あなたの目の負担にならないような撮影方法をね。……まずは照明器具を一新させ、カメラも高感度のものに変えるべき。他にも改善できるところは山ほどあるはずよ。そうでなければあなた、本当に失明してしまうわよ?」

「まさか」

 舞原さんは、はっとなって口を押さえた。

「そのために、事故を装って……?」

「当たり前でしょう」

 高峰さんはしっかりとうなずき、

「もう一つ誤解をといておきましょうか……。確かに元々、主演は大場久美子さんがやる予定でした。でも大沢監督があなたに目をつけて、周囲の反対を押し切って無理矢理に抜擢したんです。ご自分で各スポンサーを全部説得して回ってね。……だからわたくしもスタッフの皆さんも、最初からあなたに期待していたんですよ?」

「本当、に――?」

 舞原さんの瞳はみるみる潤んでいく。

 すると高峰さんはやれやれと溜息をつき、

「わかってもらえたならいいんです。あまりみなさんを待たせても悪いわ。早く謝りに行きましょう」

「謝りに行く、ですって?」

 俺が訊ねると、大女優は改まった顔つきになり、こちらに正対して頭を下げた。

「番頭さん。お騒がせして本当にすみませんでした。若女将にも後で謝らせていただきますので、今はどうか行かせて下さいな。監督とスタッフのところへ」

「では、高峰さんが直接事情を説明されるということですか?」

「ええ。当然のことでしょう」

 彼女はそこで、すっきりとした晴れやかな笑みを見せた。

 これまで銀幕の頂点に立ち、数多の男を魅了してきた彼女の笑み……本当に芸術の粋に達していると思わされるほどの輝きに、俺は一瞬見とれてしまう。

「もちろん、舞原さんにも一緒に謝ってもらいますよ? 病気のことを秘密にしていてごめんなさいとね。……でも大丈夫。主演女優と助演女優が並んで頭を下げれば、きっと誰も怒れやしないから」

 そう言ってぺろっと舌を出し、その笑みを悪戯っぽいものに変化させる。

 なるほど、と深く納得する。本当の目的はそれだったのか。

 自らを悪者にして、舞原さんと同じ地平に立って、彼女が秘密を告白できる舞台を作ること。それが大女優の狙いだったのだ。

 全ての謎が明らかになった、その瞬間に、

「うぅ、あ……っ」

 舞原さんがほろりと涙をこぼし、すぐに両手で顔を覆ってしまった。

 漏れ聞こえる嗚咽に乗って、彼女の気持ちが空気を伝播してくるようだ。

 本当はずっと不安だったのだろう。目の病気を隠して芸能活動を続けるのが容易だったはずはない。きっとたくさんの苦労があったはずだ。

 高峰さんはそれに誰よりも早く気が付き、そして誰より早く行動した。舞原さんを救うためにだ。自身を犠牲にする覚悟をしてまで。

 憧れだった大女優がこんな事件まで起こして、自分のためにスタッフに一緒に頭を下げてくれるというのだ。それがどれだけ嬉しいことなのかが伝わってきて、不覚にもこちらの涙腺まで緩んでしまった。

「……馬鹿ね。女優が泣くときは、手で隠すもんじゃないわ」

 高峰さんが歩み寄り、彼女を優しく抱き寄せる。

「女の涙は宝石なんだから、見せつけてやりなさいな。それに本番は今じゃないわ。もう少しあとにとっておきなさい」

「…………はい、高峰さん」

 舞原さんは涙に濡れた顔を上げ、少しだけ笑顔を覗かせつつ、そう答えた。

 互いに体重を任せ、信頼を表現する二人の姿はあまりにドラマチックで、俺も童子も言葉を失ったまま、ただその多幸感に満ちた眩い光景に酔いしれた。



 そうして二人が事情説明に赴いて数時間。

 スタッフが集まった宴会場は異様なまでの静けさに包まれていたが、高峰さんが後ろ盾についてくれている以上、あちらは大丈夫だろう。

 それに今は他にやるべきことがあった。

「――ほら和紗さん。迎えが来ましたよ。ちゃんと天女の羽衣は持ってますか?」

「え、ええ。でも本当にいいんでしょうか」

 彼女は若女将の装いのまま、頭にベールのような薄絹をかけていた。どうやら準備は万端のようだ。

「まだ問題が全部解決したわけじゃないのに、私だけ旅館を離れるだなんて……」

「少なくとも警察沙汰にはなりませんよ。あとはスタッフ間の問題です。和紗さんは早く行って下さい」

 彼女の手を引いて、強引に門前まで連れ出していく。

 日照時間の短い遠野では、秋には午後五時過ぎに日が落ち、暗くなりはじめる。早く目的地に着かねば、幸村さんとゆっくり話ができなくなるかもしれない。

「何をぐずぐずしてんだよ」

 と、童子がそこで和紗さんの背を押した。

「迎えが来てるから早く乗りなよ。ほら、あそこに止まってる人力車だ」

「あ、え……? 座敷童子様……? その、お久しぶりです。いつもお世話に」

「そういうのは道中で聞くから。とにかく乗れって」

 強引に和紗さんを人力車に乗せようとする童子。

 天女の羽衣はその使用者の目に、秋分の日だけ妖怪の姿を映す力を与えるそうだ。だから和紗さんにも、今は座敷童子が見えているのである。

 事態に戸惑いながらも、彼女は抵抗もそこそこに席についた。

「じゃあお願いします」とすかさず俺は声をかける。

 人力車を引くのは、般若面をつけた着流し姿の男、鬼若丸だ。

 彼は顎で会釈を返し、人力車を引いてくるっとターン。そのまま素早く坂を下りて車道を走り抜けていった。相変わらず運転が荒いようだが……あのスピードなら余裕で間に合うだろう。

 さて。これにて一件落着か、と安堵の息をつく。

 いろいろなことがありすぎて全身に疲労感が押し寄せてきているが、全てが丸く収まったおかげで達成感もあり、実に心地いい気分だった。

 緊張から解き放たれたせいか、そこで不意に、俺は思い出し笑いをしてしまう。

 和紗さんはまだ知らないが、実は人力車を引いているのは、亡くなった彼女の祖父なのである。

 それをいつか明かす時が来たならば……彼女は一体、どんな顔で驚いてくれるのだろうか。きっと涙ながらに祖父と抱き合って、再会を喜ぶに違いない。

 そんな楽しい想像に胸を膨らませながら、俺は一人、旅館の事務所へと戻った。



 映画スタッフの会議は長引いているようだ。

 時刻はもう午後十時を過ぎた。他にやることもなく、事務所で呆然とテレビを見ていたところで、出入口の戸から荒っぽいノックが聞こえてきた。

「――番頭さんよ、ちょっといいかい」

「大沢監督……。あの、舞原さんと高峰さんは? 撮影はどうなるんですか?」

 たまらず勢い込んで問いかけると、

「あー……それな。えーっとな」

 何やら言いづらそうに頭を掻く監督。

「結果から言うとな、旅館に迷惑をかけるのは避けられたんだが、いろいろ予定を変えなきゃいけなくなってな。それで会議が長引いてんだが……まあいいや、ちょっと付き合ってくれねえか」

「付き合うって、どこへです?」

「風呂だよ」

 監督は親指を立てて後方に向け、

「仕事は終わってんだろ? 先に行って待ってるから、ゆっくり来てくれ。そのときに全部話すからよ」

「わかりました。すぐ準備します」

 二つ返事で了承し、監督が風呂場に向かったのを見届けてから、部屋に着替えを取りに戻った。

 話の内容が気になり、思わず早足になりながら、折り返し露天風呂へと向かう。

 素早く暖簾をくぐり、簡素な造りの脱衣所に着衣を脱ぎ捨て、浴場につづく階段を降りていくと、いきなり湯気がもわっと視界を覆い尽くした。

 まずは掛け湯を少々。刺激的な高温に身震いしながらも体を洗い、いよいよ湯船に侵入する。爪先から慎重にお湯にくぐらせていくと、ビリビリとした感覚が皮膚を走り抜け、やがて体の芯まで到達した。

 迷家荘の露天風呂は、加温なし加水なしの源泉掛け流しである。水温はやや高めだが、慣れると丁度よく感じるようになってくる塩梅だ。

 夜風に乗って舞い落ちる紅葉をかきわけ、湯船の中へと侵入する。すぐそばには手の届きそうな位置に清流が流れていた。あの透明度の高い川面に触れたなら、きっと身も凍えるほどに冷たいに違いない。その想像がかえって温泉にいる自分を幸福たらしめるのだ。

 頭上を見れば満天の星。最高のロケーションに心がふわりと浮揚していく。

 するとそんな中、湯煙をかきわけて人影がこちらへ近寄ってきた。

「――悪ぃな。わざわざ来てもらってよ」

 大沢監督は本日何度目かわからない謝罪を口にし、

「あまり他のやつらに聞かれたくない話だったから、場所を選ばせてもらったんだ」

「それって高峰さんと舞原さんのことですよね」

「まあな」監督はにやりとする。「話は聞いたぜ。番頭さん、大した活躍だったそうじゃねえか。千鶴子のやつがいい度胸だって褒めてたぜ? 今度エキストラでカメラに映ってみるかい」

「いやいや、さすがに畏れ多いです」

 考えるまでもなく辞退したあと、

「……それで、結果はどうなったんですか?」

「どうもこうもねえや」

 監督は湯の中で肩を竦める。

「千鶴子のやったことはとても褒められたもんじゃねえ。でもよ、涙ながらに謝られて、しかも舞原のためだっていうんだから……もう責められやしねえだろ。感化されて泣き出すやつまで出る始末だ」

「あ……はは、何となく想像できます」

 高峰さんがその気になれば簡単なことだろう。

 でもとりあえず、悪い結果にはならなかったようだ。一安心して吐息を放つ。

「まったく、千鶴子のやつ」

 大沢監督は溜息交じりに続ける。

「長く使ってた照明だったのに、簡単にぶっ壊しやがってよ。恐ろしい女だぜ……。

ロケをはじめた直後から、ずっとおれに言ってやがったんだ。いつまでこんな旧式の機材を使うのかって。よその現場じゃ考えられない。カメラも照明も骨董品もいいところだって、そりゃもう不満タラタラでな」

「それなら俺も聞いた覚えがあります。……えっ?」

 ふと気になった。もしや監督は、高峰さんが撮影機材を一新させるためにこの事件を仕組んだと思っているのだろうか。

「ああもちろん、千鶴子にその意識はねえんだ」

 監督はすぐに俺の疑惑を取り払い、

「というより、あいつの頭にあるのは、良い映画を作ることだけなんだよ。そのために行動してたら一石三鳥の手になっただけだ。つまり舞原の秘密を暴き、撮影機材を一新させ、ついでに役者陣とスタッフの信頼をそっくり自分に向けさせる、ってな」「そ、そこまで全部計算の上ってわけじゃ、ないですよね?」

 一瞬、冷や汗が出た。確かに全てが高峰さんの利益になっている気がする。

 思えば照明を倒したトリックにしてもそう。そこまでするか、という引っかかりが最後まで俺にはあった。あれも彼女なりの演出だったのだとすれば……。

「打算じゃねえんだ。それが本能でできる女なんだよ、あいつは」

 やがて監督は静かに語り出す。

「昔からそうなんだ。千鶴子の銀幕デビュー作を撮ったのはおれだが、歌劇団出身のあいつは鼻っ柱が強くて誰の演技指導も聞かず、さんざん手を焼かされた」

 きっと夜空に思い出を投影しているのだろう。視線をはるか遠くに向けながら大沢監督は続ける。

「……その映画のラストシーンは、ヒロインの女子高生が、自転車に乗ったまま堤防から海に飛び降りるってものだった。もちろんスタントなんてなしだ」

「スタントなし、ですか。あの高峰さんがそんな体を張った演技をしてただなんて、ちょっと想像つきませんね」

「そういう時代もあったってことさ、……でもよ、おれ自身もあとから知った話なんだが、あいつは自転車には乗れないし、泳げもしなかったらしくてな」

「ええ!? まさかそれを黙ってたんですか?」

「びっくりするだろ? 撮影の間は澄ました顔で過ごしながら、内心びくびくして、毎日一人で練習してたそうだ」

「でも監督が知らなかったってことは、そのまま成功しちゃったんですよね」

「そうさ。本番がはじまったら一発で成功させて……。堤防からずぶぬれで上がってくるなり、まっすぐにおれんとこに走ってきて、抱きついてきやがったんだ」

 ふう、と監督はそこで吐息をついて、

「泣きながら言うんだ。『ちゃんとできた! ねえアタシちゃんとできてたでしょ?オーケーよね監督!』って有無を言わさぬ勢いでよ。……それがちょっと感動的だったらしくてな、スタッフたちもつられて泣き出したんだ。ようやくクランクアップなんだって勝手に盛り上がって、仕舞いには拍手まで起こった」

「今回と同じだったんですね」

「ああ」と監督は笑う。「おれはオーケーなんて出しちゃいなかった。なのにあいつにもぎとられたってわけさ。そんな映画は、後にも先にもあれ一本きりだ」

「……すごいですね」

 思わず感心してしまった。幾多の観衆を魅了してきた銀幕の大スターは、デビュー作から今日に至るまで同じ輝きを保ち続け、伝説を作り続けている。

 同時に、深く納得もした。

 当時の高峰さんもまた、誰にも言えない秘密を抱えて撮影にのぞんでいた。そしてたった独りでその不安と戦い、勝利した。その経験があったからこそ舞原さんに力を貸そうとしたのだろう。

 まるで敵わないな、と思い知らされる。どうやら芸能界の鵺は、俺たちの手に負える相手ではなかったようだ。

「魔性の女ってやつさ。番頭さんも気をつけなよ? ババァだって甘く見てると人生狂わされることになる。あいつの魔性に囚われた哀れな男は、十人二十人じゃきかねえんだからな」

「肝に銘じておきます」

 笑って応えると、監督は満足そうに顔を綻ばせて背伸びをした。

「ん……。ちょっとのぼせちまったかな。先に上がらせてもらうぜ」

「大丈夫ですか? お部屋まで付き添いましょうか」

「老人扱いすんなって。まだまだ現役よ」

 監督はワイルドな笑みを見せて立ち上がり、少しふらつきながらも出入口の方へと向かっていった。

 想像していたよりも小さな背中を眺めながら、そういえばと俺は思い出す。

 大沢監督も高峰さんも、いまだに独身のはずだ。もしや最後に言っていた、魔性に囚われた哀れな男というのは……。

 いや、邪推なんてやめておこう。

 ただ一つ確かなことは、二人とも最高の映画を作るために心血を注いでいるということだ。掛け値なしに、己の人生の全てを燃やし尽くしても構わないと思っているのだろう。

 ならば彼らに見込まれた舞原さんは、これからもっと輝くに違いない。

 きっと凄い映画になるぞという予感が胸に湧いてきて、今から楽しみな気持ちを抑えきれなくなる俺だった。



 つい長湯をして、俺ものぼせてしまったようだ。

 部屋に戻って頭を冷やそう。足元を見ながら慎重に廊下を歩いていると、俺の部屋の前に長身の影が立っていることに気が付いた。

「――あのう、すみません」

 今朝ヒントを与えてくれた、緑色の和服の青年である。

 初めて聞く彼の声は、意外にも少年のように高い音程のものだった。

 こんなに接近したのも初めてだ。長い髪の隙間から少しだけ顔の輪郭がわかる。

 小さな顔に切れ長の目。細面で鼻は高く、顎は鋭角に研ぎ澄まされている。きっと髪をまとめれば美形なのだろうと思った。

「何か、用かな」と俺が訊ねると、

「ああ、うん」青年が答えた。「実はお礼を言おうと思って」

「お礼って、何の……」

 訊ね返した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

 のぼせたせいか、と思ったがどうやら違う。突然周囲の重力が何倍にもなったかのように体が重くて仕方がないのだ。たまらず膝を折り、前屈みになって廊下に両手をついてしまう。

「そうそう。これはお礼だよ」

 青年の口調が明らかに変わった。

「いや、本当に助かった。あのまま揉め事が続いてたら、オレが直接手を下さなけりゃいけなくなるとこだったからな。……まあ別に、あいつらを皆殺しにしてやっても良かったんだが、玲奈のやつが怒るだろうから」

「……皆殺し、だって?」

 物騒な発言に、思わず体が強張る。

 しかし立てない。それどころか指一本動かせなくなっていた。いつからこの異変は起こった? 恐らくはこの青年の、鮮血のように赤い瞳を見た瞬間から……。

 辺りの空気がぴしりと音を立てて張り詰めていく。もはや疑いようもない。彼の目から放たれる異様な圧力が原因に違いなかった。

 肌の表面は粟立ち、全身から汗が噴き出してくる。体の芯から大音量で警戒警報が聞こえてきた。

 ようやく断定する。こいつはヤバい!

「――ははは、気付くのが少々遅かったな」

 邪悪な思念を湛えた顔つきで、彼は俺を嘲笑いながら言った。

「光栄に思えよクズ。このオレ様がわざわざ足を運んでやったんだからな。――そう、この史上最強の鬼、酒吞童子様がよ!」