序章




「竜は、何のためにいるの?」

 姉の優しい声が問いかけてくる。

「せかいをまもるため」

 ミュースは自信を持って答えた。

「そうよ。ミュースは賢いわね」

 姉が微笑む。

 ひだまりのように温かなその表情に、ミュースは幸せを覚える。

 甘える子猫のように目を細めたミュースの頭を、姉は白くしなやかな手で撫でてくれた。

 姉は、語る。

「竜はね、世界を守るためにいるの」

 それは、もう何度も聞いた話だった。でも、ミュースはこれっぽっちも嫌だとは思わなかった。

「遠い遠い昔、お空の向こうから、たくさんの〈災厄〉が降ってきたの。〈災厄〉は毒を振り撒いて、人も、動物も、草も木も、何もかも殺してしまう。でも、人の力では〈災厄〉を滅ぼすことはできないの。〈災厄〉を滅ぼせるのは、竜だけ」

 姉は翡翠の樹を見上げる。ミュースも倣った。

 眩しい。

 朝も、昼も、夜も。晴れの日も雨の日も。

 翡翠の樹はいつだってきらきらと光り輝いている。眩くもやわらかな緑色の光で、里を、民を、祝福している。

 姉は毎日のようにミュースを翡翠の樹の前に連れてきては、語るのだった。

「竜には〈災厄〉を滅ぼす力があった。でも、〈災厄〉の毒は竜も殺してしまう。竜だけでは〈災厄〉と戦えない。竜たちがどうやって〈災厄〉と戦ったのか、ミュースは知っているわね?」

「しってるよ!」

 ミュースは元気いっぱいに答えた。

「にんげんと、いっしょにたたかったんだよ!」

「そうよ。人間の中に、〈災厄〉の毒を消せる力を持った人たちが現れたの。彼等は竜と一緒に戦った。それが、私たちのご先祖様。始まりの竜使いたち。人と竜は力を合わせて世界を守った。けれど、最後の大きな戦いで、竜の王様が大変な怪我をしてしまったの。もう自分は長くないと悟った竜の王様は、その身を一本の大きな樹に変えた」

「ひすいのき、だね」

 姉は微笑んで頷く。

「竜の王様の体は樹に、流れ出た血は森になった。ご先祖様は竜の王様だった樹を翡翠の樹と名付けて、その周りに里を作った。そして、竜たちと一緒に生きていくことにしたの。いつかまた、〈災厄〉が降り注いだ時に、竜と人が力を合わせて戦えるように。それから〈災厄〉は何度も降ってきた。でも、その度に竜と竜使いは力を合わせて世界を守ってきた……」

 声がした。

 青い空を舞う、まだ若い竜たちの声だ。翡翠の樹の周りを、まるで讃えるかのように飛び、翼を鍛えている。

 彼等の眼には、翡翠の樹の頂が見えているのだろうか。

 幼いミュースには、どんなに背伸びをしてみても雲を貫く頂を見ることはできない。

「ねーさま」

 ミュースは翡翠の樹を見上げたまま、姉に問うた。

「ミュースも、ねーさまみたいにおとなになったら、ひすいのきのいちばんうえ、みえるようになる?」

 姉はくすっと笑って、答える。

「それは、難しいかもしれないわね。翡翠の樹はとても大きいから。でも、ミュースが竜使いになったら、きっと見られるわ」

 ミュースは瞳を輝かせる。翡翠の樹と同じ、緑色の瞳を。

「ミュース、りゅうつかいになれるかなぁ?」

「なれるわ。私は竜使いにはなれなかったけれど、ミュースは大丈夫。だって、あなたは……」

 姉は首を横に振って、言葉を切った。

「ねーさま?」

「竜使いになってね、ミュース。みんなを守れる、立派な竜使いに……」

 立派な竜使いと言われてミュースが思い浮かべたのは、父だった。

 翡翠の里の王にして光竜アムルを従える、最も偉大な竜使い。

「ミュース、とーさまみたいなりっぱなりゅうつかいになる!」

 幼いミュースにも、それがとても難しいことだとはわかっていた。

 それでも、とミュースは両の掌を空に掲げた。

 父の名に恥じない竜使いになりたい。姉の期待に応えたい。あの広く青い空を、竜の背に乗って飛びたい。翡翠の樹の頂を、この目で見てみたい。

 ミュースは緑の瞳に未来を映す。

「ミュースは、どんな竜を片方にしたい? 勇敢な赤竜? 穏やかな青竜? 楽しい黄竜もいいわね。それとも、義に厚い銀竜かしら?」

「くろ!」

「……!」

 ミュースの答えに、姉は息を呑んだ。

「黒……? 黒竜のことを言っているの? どうして?」

 姉が狼狽している理由がわからないミュースは、両手を下ろして小首を傾げた。

「んー……わかんない」

 黒い竜を、ミュースは知らない。翡翠の里にはあらゆる色種の竜がいるが、黒い竜は見たことがない。

 だが、思い描いた未来の自分は――金色の髪を靡かせ、蒼穹を駆けるミュースは、黒い竜の背に乗っていた。

 何故、黒い竜なのかは、ミュースにもわからない。ミュースが一番美しいと思っているのは、父の光竜なのに。

「ミュース!」

 姉が、まるで何かからミュースを覆い隠そうとするかのように抱きしめた。

 そして、姉は語った。

 黒い竜の話を。

 その、怖ろしい伝説を。




一章 禁断の黒




 凍みる。

 息を吸う度に肺腑まで凍りそうになる冷気の中を、ミュースは歩む。

 クルシャ山羊の毛でできた外套も、雪猪の革靴も、この寒さの中では紙にも等しい。

 断続的に吹きつけてくる雪を孕んだ強い風に、足が止まりかける。

〈千年凍土〉

 決してやむことのない吹雪があらゆる生命を凍てつかせる、大陸有数の魔境。人が踏み込めるはずのないその場所に、しかし、ミュースは足を踏み入れていた。

 強風と強風の合間の、風が弱まる僅かなその隙に、前へ進む。

 もう何度も意識を失いかけていた。否、失っていたのだろう。幼い頃の夢を見たような気がする。

(姉様……父様……みんな……)

 姉がいて、父がいて、翡翠の樹は天高く聳えて緑色に煌めき、竜たちは空を舞い、未来がまだ希望に満ちていた、あの頃の夢を。

 歯を食いしばり、目を見開こうとしたが、叶わなかった。歯の根は合わず、瞼は凍りついて開かない。

 翡翠の樹の加護に、ミュースは感謝する。

 翡翠の里の民に、神木たる翡翠の樹は三つの加護を与える。一つ、火に不滅。二つ、冽に不死。三つ、竜を片方とする資格。

 里の民の誰もがそれらの加護を得られるわけではない。だが、ミュースは得ていた。

 この極寒の魔境でミュースが生きていられるのは翡翠の樹のおかげに外ならなかったが、死にはしないというだけで寒いし凍えもする。

 凍えて足が完全に止まってしまえば、おしまいだ。前に進むことも引き返すことも死ぬことすらもできずに、極寒の檻の中に永久に閉じ込められることになる。

 無謀な真似をしていることは、自分でもわかっていた。だが、こうするしかなかったのだ。外に方法を思いつかなかったのだ。

 この地に封じられている黒き竜を解き放ち、片方とする。

 三百年前、世界の守護を天命としていながら、人に仇を為した竜がいた。

 彼の竜は強く、その爪牙を暴悪に振るい、三つの国を滅ぼした。

〈黒竜事変〉と呼ばれるその惨事を引き起こした竜の名は――。

「シャグラン」

 口の奥で、声にならない声として、ミュースは竜の名を呟いた。

 その名は、翡翠の里の民にとっては口にするのも憚られる忌み名だった。

 黒竜シャグランの話をミュースに語って聞かせてくれたのは姉だが、その時、姉の声が震えていたのを今でも覚えている。

 自分はどうだったろうか。とても怖ろしい話を聞いているという感覚はあったが、不思議と怖いとは思わなかった。それどころか、会ってみたいと思った。その、黒い竜に。もちろん、そんなことは口には出さなかった。姉を悲しませてしまうだろうということが、幼い頭でも容易に想像できたから。

 三つの国を滅ぼした黒竜シャグランは、里の外の世界では、大国の軍隊と魔術師たちが力を合わせて戦い、打ち倒したと言い伝えられているらしい。だが、実際は違う。

 黒竜シャグランは死んではいない。大国の軍隊も魔術師たちもたしかにシャグランと戦いはしたが、実際にシャグランを追い詰めたのは当時の竜使いたちと彼等の片方である竜たちであり、そして、シャグランは生きたまま〈千年凍土〉に封印されていると、姉は教えてくれた。

 遠い日の記憶だ。黒竜の話をみだりにしてはいけないと釘を刺されて、ミュースは素直にそれに従った。黒竜の背に乗って空を駆ける自分の姿を想像することもやめたし、そんな想像をしていたということさえ忘れていた。

 だが、ミュースは今〈千年凍土〉にいる。

 瞼を開けることはできないが、それでもミュースの瞳にはたしかに見えていた。この地に眠る、大きな力が。

 確信を持って、ミュースは進む。

 吹きすさぶ風は、雪は、一切の容赦なく侵入者を苛む。

 何度も何度も意識を闇に落としながら、それでもミュースの足は止まらない。

 胸の内で燃え盛る炎が、ミュースを前へと進ませる。

 その炎の名は、憎しみ。

 あの、すべてを失った日から二年。

 憎しみだけを道連れに、ミュースはここまでやって来たのだ。

 不意に、風がやんだ。

 ミュースは足を止め、風に耐えるために下げていた頭を上げた。

 次に、目を開けようと試みた。凍りついた瞼はビクともしなかったが、繰り返し試みるうちに、うっすらと視界に光が差した。

 体力などとうに尽きていたが、搾り滓のような力をさらに振り絞って、ミュースは目を開けた。

 見えたのは、黒。

 すべてが雪の色に染まった純白の世界に於いて、その黒だけが、白く染まることを拒絶してそこに存在していた。

「シャグラン」

 ミュースははっきりとその名を口に出した。

 その黒は、竜とはかけ離れた姿をしていた。生き物の形さえ成してはいない。醜い泥の塊にしか見えない。

 それでも、その黒はたしかな竜の息吹を発していた。


「黒竜シャグラン」

 呼びかけに応えるように、黒はその身を僅かに震わせた。

 ミュースは緑の瞳を凝らす。黒をこの地に封じているものが見えた。

 一振りの長大な剣――それが黒の身を貫き、この地に縫い付けているのだった。

 ミュースは歩み寄り、剣の柄に手を伸ばした。

 ただの剣でないことは明白だった。触れてもいないうちから底知れない力を感じる。あるいは触れた瞬間に、この身は木っ端微塵に消し飛んでしまうやもしれない。

 死は怖くない。怖いのは、このまま何も成し得ないことだ。

 ミュースは黒を貫く魔剣の、真白い剣身を睨み据えつつ、両手で柄を握りしめた。

「……っ!」

 手が触れた瞬間、顔に――というより、左右の目に痛みが走った。

 目が弾け飛んだかと思ったが、視界に変化はない。

 ミュースは歯を食いしばり、弛んでいた手に改めて力を込めた。

 思う。

 これは、きっと、罪だ。

 途方もなく大きな罪だ。

 あの黒竜シャグランが、果たして片方になってくれるだろうか。なったとして、自分に彼ほどの怪物を御することができるだろうか。

 確証も確信もない。

 それでも、ミュースには力が必要だった。たとえそれがどれほどに危険な力であったとしても。どれほどに大きな罪であったとしても。

「私に、力を。父様を、姉様を、里のみんなを……裏切って殺した、あいつを……ユージーンを殺す力を、私に」

 引き抜いた。三百年、黒竜シャグランをこの地に縛り続けた魔剣は、いともあっさり抜けてしまった。

 勢い余って尻餅をついたミュースが顔を上げると、変化はもう始まっていた。

 しゅうしゅうと白煙を噴き上げながら、黒が解けていく。

 泥のような姿が、形を変えていく。

 ほどなくして白煙が散り失せると、そこには一人の青年が、一糸纏わぬ姿で立っていた。

 ミュースはまばたきを忘れた。青年の美しさに、ただただ驚愕した。

 雪を宿したかのように白い肢体は、しかし、無駄なく引き締まり、鋼の硬質さを漂わせている。軽く腰まである髪の色は、肉体とは対照的な黒。一切の光を排除した、どこまでも純粋な黒だ。瞳の色も同じ。そして、漆黒の瞳を宿した双眸は切れ長で、鼻梁は神の造形が如く整っている。そこには一部の狂いもない。

 魔性と神性を両方備えた圧倒的な美貌に、ミュースはまばたきだけでなく、息も思考も忘れて見入った。魅入られた。

 青年もまた、ミュースを見ていた。深く深い奈落を思わせる瞳で、じっとミュースを見下ろしている。

「小娘」

 艶めいた薄い唇が開いて、言葉を紡いだ。

「このシャグランを解き放った愚かな小娘。名を名乗れ」

 やや低い、けれども澄んだ声だった。

「あ……」

 ミュースは思考を取り戻し、名乗った。

「ミュース」

 そして、青年に――シャグランに向けて、右手を伸ばした。

「私は、ミュース。翡翠の里の王、バーフラムの娘」

 シャグランはしかし、ミュースの手を取ってはくれなかった。

「シャグ、ラン……?」

 ミュースの胸は不安に締めつけられた。

 封印を解いたからといって、シャグランが片方になってくれるとは限らない。わかっていたことだ。相手はあの黒竜シャグランなのだ。三つの国を滅ぼした悪鬼なのだ。ミュースを殺したとしても何の不思議もない。彼にはミュースを生かしておく理由がない。三百年ぶりに自由を得て、何故、主などという束縛を受け入れなければならないのか。

「間抜けめ」

 美貌に酷薄な笑みを浮かべて、シャグランは言った。

「つけられたな」

「え……?」

 不意に、背後で殺気がほとばしった。

 弾かれたように振り向いたミュースが目撃したのは、二頭の獣だった。

 狼に似ているが、狼にしては筋肉が発達しすぎている。銀色の体毛は金属めいた光沢を放ち、さながら鎧のようだ。

 ただの狼ではありえない。魔獣でもない。〈千年凍土〉の絶対的な冷気は魔獣の生存をも許さない。

 翡翠の樹の加護を受けた竜使いと火の顕現たる竜。それ以外に、〈千年凍土〉でその命を凍りつかせずにいられるものがいたとしたら、それは――。

「眷属……」

 呟いたミュースの傍らに、シャグランが立った。

「この俺に殺気を向けるか」

 おもむろに、シャグランは両腕を持ち上げ、広げた。

「身の程知らずの阿呆が」

 吐き捨てたシャグランを中心に風が躍り、彼の長い髪を天へと逆立てた。

 風は一瞬でやみ、漆黒の髪が再び背中に流れると、シャグランの身は黒衣に包まれていた。

 魔術のような光景だが、ミュースは驚かない。彼が何をしたのか、ミュースにはわかっていた。

 竜は己の骨肉から、万物を創生する。

 単純な器物から生命まで、その範囲に限りはない。何をどこまで生み出せるかは、竜の力と割いた骨肉の量に左右される。

 シャグランは、おそらくは己の鱗の一枚を、衣服に変えたのだ。人に姿を変えた竜の多くがそうするように。

 黒衣を纏ったことで、この白い世界に於いてより存在感を強めたシャグランは、次に、虚空に左手をかざした。

 掌が裂け、血が噴き出すのと共に、傷口から迫り出てくる物があった。――剣だ。

 シャグランは柄を右手で握り、一息に引きずり出した。

 濡れたような輝きを放つ美しい刃が、冷気を切り裂いて血の飛沫を雪に散らす。

 シャグランが己の骨肉から生み出した剣は、片刃で、独特の反りを有していた。剣は剣でも、刀と称される類の物だ。

 業物であることは明白だった。竜の生み出した刀剣は鋼鉄さえも紙の如く切り裂く。その光景を、ミュースは過去に見たことがある。

「邪魔だ、小娘。死にたくなければ、下がっていろ」

 シャグランはミュースの前に立ち、刀を手にしていないほうの手を、まるで犬でも追い払うかのように振った。銀狼たちにではなく、ミュースに対して。

 その行為に腹を立てるよりも、ミュースはシャグランの言葉に驚いていた。

 死にたくなければ下がっていろ、とシャグランは言ったのだ。

「狼の眷属か。面白くもない」

 面白くないと言いつつ、シャグランは喉の奥で笑っていた。

「どうした、かかってこないのか?」

 銀狼たちは氷の上をうろうろと歩き回るばかりで、襲いかかってはこない。シャグランを警戒し、飛びかかる好機を窺っているのだ。

 ミュースは数歩下がった。

 銀狼たちは、眷属だ。竜が己の骨肉を削り、生命を与えた、いわば竜の分身ともいえる存在だ。並の魔獣より、よほど手強い。

「こないのか?ならば俺からいってやろう」

 シャグランが刀を構えたのと同時に、銀狼たちはついに攻撃を開始した。巨体に似合わない素速く鋭い動きで、シャグランを挟み込む。剥かれた牙と爪は暴悪な破壊力を窺わせる。シャグランといえど、人の姿のままその爪牙をくらえば、命はない。

 だが、シャグランはくらわない。斜め前からの爪も後ろからの牙も、体を軽く傾けただけでいなしてしまった。

「死ね」

 シャグランが一言を言い終える間に、戦いは決していた。

 二頭の銀狼は、頭を、胴を、足を――つまりは全身を切り刻まれて、肉と血の雨と化した。それが、白い世界に、そしてミュースの上に降り注ぐ。

 ミュースは肉と血に塗れたが、悲鳴をあげるようなことはなかった。

 ミュースは、ただただ驚愕していた。

 刹那の間に、シャグランの刀は、一体何度振り抜かれたのか。

 翡翠の里の王の娘として、幼い頃から武術に触れて生きてきた。剣術に、棒術に、体術。剣の修練には特に力を入れた。並の剣士よりは腕の立つ自信があるし、並ではない、達人の域に達する剣の使い手を何人も知っている。いずれも里の竜使いだが、中でも父バーフラムの剣腕は凄まじかった。

 シャグランの腕は、しかし、バーフラムを遥かに凌いでいた。目にも留まらぬ、まさに雷光のような剣閃だった。

「見ていないでかかってこい。一匹残らず細切れにしてやる」

 シャグランが血に濡れた左手を前に伸ばし、人差し指を掻くように動かすと、吹雪の中から新たに獣が現れた。一匹ではない。二匹、三匹、四匹、五匹……十一匹まで数えたところで、ミュースは数えるのをやめた。吹雪の中に、まだまだ影が見える。

 息を呑みつつ見上げたシャグランの横顔には、焦りも恐れもない。あるのは、この世のすべてを食らい尽くそうとしているかのような、貪欲な殺意だけだ。

 左手から滴る血を一舐めして、シャグランは銀狼の群れのただ中へと身を躍らせた。

 銀狼たちも一斉にシャグランに襲いかかり、刃と血の乱舞が始まった。

「わ、私も」

 戦わなければ、と腰に手をやったミュースだったが、そこにあるはずの剣が、ない。吹雪の中で落としてしまったのだろう。

「そんな……」

『主様』

「……っ!」

 不意に聞こえた声に、ミュースは身を強ばらせた。

『主様。こっちじゃ、こっちを見よ』

 男か女かでいえば女の声だが、老いているようにも若いようにも幼いようにも聞こえる、これまでに聞いたことのない奇妙な声だった。

 どこから聞こえてくるのかわからないが、近くであることは間違いない。

 ミュースは視線を一巡りさせた後、自らの手許を見た。

 剣があった。刃渡りだけでミュースの背丈の優に三倍はありそうな、長大な剣が。

 シャグランをこの地に縫い付けていた、そしてミュースが引き抜いた剣だ。

『そう、儂じゃ。ようやく気づいてくれたか、主様。さあ、儂を手に取られよ』

 剣が喋っている。信じ難いことだが、そう解釈するしかなかった。

 何故、剣が喋っているのか。何故、ミュースを主と呼ぶのか。わからないことだらけだが、ミュースは剣の柄をつかんだ。

 その長大な見た目に反して、重さをほとんど感じない。これならば振るうことはできそうだが――。

『短いほうが、主様には扱いやすいかね』

 剣全体が白い光を放ち始める。光はするすると短くなって、弾けた。

『これで、どうかね』

 人の身では到底扱えないほどに長大だった剣は、ミュースが一番扱いやすいと感じる長さに――小剣に、姿を変えた。

「あ、あり、がとう?」

 剣に礼を言うという行為に違和感を覚えつつ、ミュースは立ち上がり、小剣を構えた。深く息を吸いながら腰を落とし、地を踏みしめる。何故か吹雪いていないこの場所の雪は薄く、その下の地面は硬く凍っている。

『白蛇じゃ』

「え?」

『儂の名前』

 剣に名乗られるとは思ってもみなかったが、そこに驚くのも今更だろうか。

「わ、私は、ミュース」

『良い名前じゃ。しかし、儂は人の名前を呼ぶのが苦手でな。主様と呼ばせてもらうぞ』

 何故、自分が主と呼ばれるのかは謎のままだったが、ミュースは頷いた。

『儂は竜を殺すために作られた剣じゃ。竜以外にはなまくらじゃがの。相手が竜なら、任せておけ』

「それは、頼もしいわね」

 黒竜シャグランを三百年にも渡って封じ続けた剣なのだ。竜に効く、という言葉は信じるに値する。

 あの銀狼たちは、竜の骨肉から生まれた眷属だ。ならば、この白蛇を名乗る剣はさぞ効くだろう。

『主様、後ろじゃ!』

 白蛇が突然あげた鋭い声に打たれて、ミュースは振り返った。

 血走った赤い眼が、そこにあった。剣呑な牙がミュースを噛み砕こうと迫る。――避けられない。

(――死ぬ)

 ミュースが死を覚悟したその瞬間、

「その小娘は、俺のものだ」

 銀狼の巨体が、ミュースの眼前から大きく外れて雪の上に倒れ込んだ。胴にはシャグランの刀が深く突き刺さり、銀色の体毛を血に染めていた。

「俺の許しなく傷つけることは、許さん」

 背後から肩をつかまれ、有無を言わせぬ力で引き寄せられた先は――シャグランの胸の中だった。

「あ……」

「俺が欲しいか、小娘」

 声をかけられて、ミュースは顔を上げる。

 すぐそこに、吐息のかかる近さに、シャグランの美貌がある。深い漆黒の瞳に、見つめられている。

 感情は、読み取れない。シャグランが何を考えているのか、ミュースにはわからない。

 だが、問いには答えられる。

 ミュースは目に力を込めて、頷いた。

「……いいだろう。ならば――」

 シャグランはミュースの前を空けるように半身を離した。

「――俺は、おまえのものだ」

 視界が開け、緑の瞳に映し出されたのは、骸、骸、骸。

 銀狼たちは、一匹残らず死んでいた。

『おやおや』

 白蛇が言う。

『主様も儂も、出番がなかったのぅ』

 肉と血の海を、ミュースは呆然と見つめる。と、その頬から――正確には、頬についた血から、銀色に煌めく煙が上り始めた。血だけではなく肉片からも。

 少しの間の後、骸と化した銀狼たちからも次々と煙が立った。そして、消えた。竜の骨肉から生み出された仮初めの命は、跡形もなく消え去った。

 ミュースは目を伏せた。

 体毛の色が、煙の色が、彼等の創造主が銀竜であることを示している。

 翡翠の里の銀竜は――ミュースが知る銀竜は、彼しかいない。

 彼と、そして彼の主とも、戦わなければならない。殺さなければならない。

「竜使いと竜使いが殺し合うか」

 シャグランの言葉に、ミュースは目を上げた。

「竜使いも、所詮は人間……浅ましく、愚かで、醜い」

「ユージーンは――」

 その名を口にしただけで、ミュースの心は怒りで燃え上がる。叫び出したい衝動にかられる。奥歯を噛みしめることで衝動を抑え込んで、ミュースは言葉を続けた。

「ユージーンは、竜使いこそが世を統べるべきだって言い出したの。それが、自分たちの権利であり、義務だって。

 父様は反対した。当然よ。だって、ユージーンが言い出したことは、竜使いの掟に反していたんだから」

 竜はこの世で最も優れた生き物だ。大空を翔る翼を持ち、すべてを灼き尽くす炎を吐く。その生命力は不死に近く、骨肉から万物を創生する。竜の力を使えば、およそ不可能なことはない。だが、竜は世界の守護者であり、竜使いには私利私欲のために竜の力を使ってはならないという掟があった。その掟を破ることは、竜使いにとって何よりも大きな罪だった。

「世界の為だって、ユージーンは言った。父様は認めなかった」

「それで、その男が謀反を起こした、と」

 ミュースは頷いた。

「ユージーンには五人の同調者がいたの」

 彼等の名前を、顔を、一つずつ思い浮かべる。

 ナーシェル。

 シドウ。

 ツァイリン。

 サレナ。

 アルファード。

 皆、優秀な竜使いだった。父からの信頼も厚かった。彼等が父を裏切り、ユージーンに付いたことが、未だに信じられない。

「ユージーンと五人は、父様を、姉様を……里のみんなを殺した。生き残ったのは、私だけだった……」

 あの夜の光景が、ミュースの脳裏に否応なく甦った。

 無造作に転がる父の首。四肢を切り落とされ磔にされた姉。我を忘れて暴れ狂う竜たちの爪に牙に、次々と引き裂かれていく人々。

 その光景の一つ一つが、ミュースの心に突き刺さり、抉って、決して癒えることのない傷を残した。

 ミュースは、今度は駄目だった。叫び出したい衝動を、こらえられなかった。

「うわああああああああああっ! ああああああああああっ!」

 その場に膝から崩れ落ちて、両手を地面に叩きつける。雪の下の硬い氷を、何度も何度も力任せに叩き続ける。

『主様、痛い! 痛いぞな!』

 握りしめられている白蛇が、柄頭を打ちつけられて悲鳴をあげたが、ミュースの耳には届いていない。

 手の皮が破れ、肉が裂け、血が飛び散ってもなお、ミュースは腕を振りかぶった。

「いい加減にしろ」

 シャグランに左手をつかまれたミュースは彼を振り解こうと暴れたが、シャグランはビクともしなかった。

「怒りはその時まで溜めておけ」

 シャグランのその言葉で、ミュースの頭は冷えた。

 そうだ。怒りを吐き出すべき時は、場所は、今ここじゃない。

 つかまれていた左手が解放されて、ミュースは両腕を垂らした。

『主様よ。自棄を起こすのはかまわんが、儂を巻き込まんでくれい』

 白蛇に文句を言われてしまう。

「ごめ――」

 謝ろうとしたミュースの前に、シャグランが屈み込んだ。不意に視界に飛び込んできた美貌に、ミュースは言葉を失う。

 シャグランは、ミュースの、今度は右手をつかんで持ち上げた。

 その行動の意味がわからずに、ミュースは目を丸くする。

 シャグランはしばしそのまま、そして何も言わずに、ミュースの手を離した。

「あ……」

 ミュースは己の右手を見て、シャグランが何をしたのかを理解した。

 氷を叩いてできた傷が、治っている。興奮していたせいで痛みはほとんど感じていなかったが、頭が冷えれば、それなりの痛みがあるだろう傷だった、はずだ。傷は見当たらず痛みもなく、血の跡は残っているが既に乾いている。払えば落ちるだろう。

 左手の傷も同様に完治していた。

 シャグランが治してくれたのだ。竜の血には癒やしの力がある。しかしそれは、誰にでも効くというものではない。竜の血が癒やすのは契約を交わした竜使いだけだ。

 竜使いと竜の契約に、特別な儀式は必要ない。竜使いが竜に力を求め、竜がそれに応じれば、契約は成される。竜を無理矢理に従える術もあるにはあるが、掟に反する外法だ。

 シャグランの血がミュースの傷を癒やした。それは、彼がミュースを主として認めた証拠だった。

「言ったはずだ」

 シャグランの右手がミュースの頬に触れた。頤をすくい上げて、彼は言った。

「おまえは俺のものだと。俺のものを勝手に傷つけるな」

「は、離して……っ!」

 ミュースはシャグランの手を振り払った。

 彼が言ったことは、決して間違ってはいない。契約下にある竜使いと竜の関係は、主と従ではあるが、同時に対等でもある。

 しかし、それを言葉で、ましてや美しい青年の姿で言われてしまうと、羞恥を覚えずにはいられなかった。

「ふん……で、どうする。俺はもう、この場所には飽いている」

 シャグランは問いながら、氷の地面に突き刺さっていた刀を抜いた。

 ミュースは深呼吸を一度、気持ちを落ち着けて、答えた。

「アシュターラ王国へ。ユージーンは、そこに居る」

 ミュースは視線を巡らせる。

「でも、まずはここから出ないと……」

 シャグランが縫い付けられていた付近だけは吹雪いておらず、見上げてみれば空は青い。

「空を飛べれば……」

 ミュースの視線を受けたシャグランは、刀を手にしていない左手で上衣をつかみ、ちぎるような勢いで引いた。

 黒い上衣は破れ、空気に溶け込むように消えた。

 白い上半身を再び露にしたシャグランは、歯を食いしばって体を前に折った。

「ぐ……おお……!」

 背中の右側が盛り上がり、裂けて、

「おおおおおおおおおおっ!」

 血を噴き上げるのと共に翼を現した。

 そして、シャグランはがっくりと片膝をついた。肩が、激しく上下している。

「え……?」

 ミュースは面食らった。

 何故、シャグランは竜の姿に戻るのではなく、人の姿のまま翼を現したのか。それも、片翼だけ。

『ククク……』

 ミュースの右手に握られていた白蛇が笑った。

『あやつはの、竜の姿に戻ることができんのじゃよ、主様。三百年、儂の力を受け続けた……まあ、後遺症じゃな』

「そんな……」

 人の姿のまま、竜の力を存分に振るうことはできない。つまり、竜の姿に戻れないシャグランは、全力では戦えないということだ。

『時間が経てば、戻ることもあるじゃろうて』

「黙れ。忌々しい蛇め」

 片膝をついた格好のままのシャグランが顔を上げて、ミュースを――その右手の白蛇を睨んだ。

「小娘、そいつを捨てろ」

『おっと。そいつは御免だね』

 白蛇は、先と同じように光を放つと、今度は飴のようにぐにゃりと歪んでミュースの手首に巻き付いた。さながらそれは、蛇を模した腕輪だった。

『儂はあやつの天敵じゃ。こうして肌身離さず身につけておれば、あやつが主様に物騒な真似をすることもあるまいて』

 ミュースは逡巡の末に頷いた。

 主従関係が成立したとはいえ、相手はあの黒竜シャグランだ。敵を倒してくれたし怪我を治してもくれたが、全面的に信じることなどできるはずもない。

 自らの片方を信じられない。竜使いとしては恥ずべきことだが、シャグランのことは、復讐のための刃として割り切るしかない。

「……ちっ」

 舌打ちして立ち上がったシャグランが、やや覚束ない足取りながらも歩み寄ってきて、ミュースにまるで覆い被さるように手を伸ばした。

 反射的に逃れようとしたミュースだが、自分が避けたらシャグランが倒れてしまうのではと思い、踏みとどまった。

 シャグランは半ば倒れ込むようにミュースを抱きしめると、飛んだ。

 それは、文字どおりの飛翔だった。

 ミュースは首を捻り、蒼穹を見た。

「飛ん、でる……」

 涙が出た。

(飛んでいるんだ、私……。竜と、一緒に……)

 幼い頃に思い描いた光景とは、ずいぶん違う。

 天高く聳える翡翠の樹はなく、黒竜は人の姿をしていて、その翼は片方しかない。

 理想とはかけ離れた歪な形にはなってしまった。それでも、ミュースは竜使いになったのだ。

(姉様……父様……)

 喜びを伝えたい人は、もういない。

 自分が失ったものの大きさを改めて思い知ったミュースは、シャグランの胸に顔を埋めて泣いた。

 シャグランは、何も言わない。

 かつて三つの国を滅ぼした悪逆の竜は、少女の涙を、ただ黙って受け止めていた。


 空を、駆ける。

 この世で、翼を持つ者たちと竜使いにだけ許される行為は、しかし、長くは続かなかった。

 片翼という不均等な姿勢により、ただでさえ傾いていたシャグランの体が不意に大きく傾いて、風に流された。――落ちていく。真っ逆さまに。

 ミュースには為す術がない。シャグランの腕の中で、ただ息を呑むことしかできない。

 シャグランが歯を食いしばり、体に力を込めたのがわかった。

 地面に激突する寸前で、シャグランは片翼を大きく動かし、体を浮かび上がらせた。それが限界だった。

 シャグランはいよいよ体の制御を完全に失って、墜落した。

 地に落ちた瞬間の記憶は、ミュースにはない。直前に、気を失っていた。

 目を覚ましたミュースは、シャグランの体が弛緩していることに気づいて、焦りを覚えた。

「シャグラン!」

 呼びかけに、「……っ」、シャグランは苦しげな呻き声を返した。生きては、いる。

 ミュースはシャグランの腕を抜け出し、彼の状態を確認して愕然とした。

 翼が、もげていた。

 ミュースは地に膝をついて、シャグランの体に触れた。白い肢体は、どこもかしこも擦り傷で赤く染まっている。

「あ……」

 気づく。傷だらけのシャグランとは対照的に、自分はまったくの無傷であることに。

 シャグランが庇ってくれたのだ。それ以外に考えようがない。

「シャグラン……」

 ミュースの呼び声に応えた――のかどうかはわからないが、シャグランがおもむろに起き上がった。

 ミュースを一瞥して、シャグランは深い息を一つ、吐いた。果たしてそれはため息なのか、ミュースが無事だったことへの、安堵の息だったのか。

「目障りだ、小娘」

 どうやら前者だったらしい。ミュースはシャグランの背後に回りつつ、視線を巡らせた。

 見えたのは、雪のかかった山と黒麦畑。そして、小さな集落。見覚えのある光景だった。〈千年凍土〉に向かう際に通った道だ。見えているあの白い山を越えれば、〈千年凍土〉に入る。

 ミュースは少なからず落胆した。竜の翼ならアシュターラまで一息に飛べるだろうという期待は、叶わなかった。

 視線を、シャグランに戻す。

 座ったまま、シャグランは肩を大きく上下させていた。墜落による負傷もさることながら、片方だけとはいえ翼を現すという行為が、相当に苦しかったのだろう。……その翼も、もげてしまったが。

 もげ落ちた翼と、シャグランの背中の傷に、ミュースは胸が締めつけられる思いがした。

 翼は竜の象徴だ。多くの神経が通った繊細な部位でもある。翼を尊ばない竜はいない。主以外の人間を背中に乗せたがらないのは、翼を触られるのが嫌だからだ。主だけが、翼に触れることを許される。

 ミュースはシャグランに歩み寄り、地に両膝をついた。そして、手をかざし、触れた。シャグランの背中に刻まれた、痛ましい傷に。

 触れた瞬間、シャグランの背中が震えた。

「あ……」

 ミュースは、自分がとんでもない真似をしていることに気づいた。

 シャグランの背中に――翼がもげた傷にミュースが触れたのは、半ば無意識に取った行動だった。

 短い時間とはいえ、自分を空へと誘ってくれたシャグランの翼が失われてしまったという事実が悲しくて、シャグランの背中に刻まれた傷が痛ましくて、思わず手を伸ばしてしまったのだった。

 ミュースは身を硬くした。当然振り払われると思った。だが、そうはならなかった。振り払われるどころか、ミュースが手を離そうとすると、

「そのまま、触っていろ」

 意外な言葉が返ってきた。

 ミュースは戸惑いつつも、そのまま傷に触れ続けた。

 懐かしさにも似た感情が、胸に込み上げてきた。この気持ちはなんだろう?

 目頭が熱い。理由もわからないまま、ミュースは泣き出したくなった。

 涙をこらえているうちに、シャグランの傷は癒えていった。ミュースが何かをしたというわけではない。竜の、強靱な生命力が為せる業だった。

 擦り傷は綺麗に消えたが、背中には傷跡が残った。

『これでは当分は……いや、二度と飛べんかもしれんのう』

 右手首の腕輪――白蛇が言った。

「そんな……」

 二度と空を飛べない。蒼穹の申し子である竜にとって、それはどれほどの苦しみなのか。

「小娘」

 シャグランが言った。

「いい加減、その手を離せ」

「えっ」

「手を離せと言っている」

「…………」

 釈然としない思いに眉根を寄せつつ、ミュースは手を離した。

 ミュースには、シャグランがわからない。

 実際に、〈千年凍土〉に封印されていた以上、三つの国を滅ぼしたという彼の悪行は事実なのだろう。

 その、悪逆の黒竜シャグランが、何故に主従の契約を結んでくれたのか。その理由が判然としない。

 封印を解いたミュースに、彼なりに恩義を感じているというのだろうか。悪逆の黒竜に、そんな発想があるものなのか。それとも、ただの気まぐれ、酔狂なのだろうか。

 ミュースは首を横に振った。

 なんだって、かまわなかった。契約は既に成立しているのだから。

 契約が成されてしまえば、竜はもう主である竜使いを殺すことはできない。主を手に掛けようとすると、壮絶な苦痛がその身に降りかかるのだ。

 黒竜シャグランを相手に、真っ当な竜と竜使いのような関係など期待してはいけない。

 利用するのだ。復讐のための刃と割り切って、利用する。

 ミュースは立ち上がって、シャグランに命じた。

「立って。治ったなら、動けるでしょう?」

 治ったといっても、翼を失った直後なのだ。まだまだ、立ち上がるのも苦しいだろう。

 自分の吐いた言葉に、ミュースは気持ち悪くなった。だが、これから黒竜シャグランという化け物を御していかなければならないのだ。甘い顔をしてはいられない。

「……ふん」

 シャグランは鼻を鳴らしただけで何も言わず、立ち上がった。

 ミュースは彼に背中を向け、心の片隅で「ごめんなさい」と詫びながら、言った。

「ついてきて」