プロローグ 世界で一番、夢の国が似合わない男



 抜けるような青空と春の山々を背景に、レインティア双塔は寄り添うように立っている。その周囲にはぐるりと円を描くように人山ができていた。大勢のゲストたちがレジャーシートを敷き、場所とりをしているのだ。

 信州にあるテーマパーク施設、夢と魔法の国プライマル・ランド。その象徴であるレインティア双塔では、まもなくメインキャラクターのクーガーが登場する大人気のショーが行われようとしていた。

 クーガーは日本で大ヒットした絵本のキャラクターで、子供の頃は誰でも一度は読み聞かされたことがあるだろう。近年ではアニメや映画にもなり、様々なメディアに登場している。そのクーガーの世界観を忠実に再現したこの場所を訪れれば、誰しもお伽噺の中に迷い込んだと錯覚する。子供も大人もレインティア双塔の正門に視線を注ぎ、クーガーたちの登場を今か今かと待ち構えている。そこは笑い声と笑顔の絶えない夢の国だ。

 だが、正門の先には、夢の国とはまったく違う過酷な世界が広がっていた。

「上原。次、腕っ!」

 レインティア双塔の地下、決してゲストが入ることのないバックステージではショーの準備の真っ最中だった。桂木有栖は同僚の上原と一緒に、キャラクターの着付けをしている。

 ボクシングのグローブよりも分厚い手袋をキャストにはめて、二人がかりで大きな頭部を持ち上げる。

「有栖ちゃん、ごめん。ちょっと、これ重い……」

 上原は僅かにバランスを崩す。彼女は女の子にしても小柄な方で、頭部の重量を支えるのがやっとの様子だ。

「大丈夫、そのまま持ってて!」

 ぐっと足を踏ん張り、有栖は渾身の力を込めた。

「……こんのぉぉ、うおりゃっ!」

 およそ女子とは思えないかけ声とともに彼女はキャストにキャラクターの頭部をドスンとはめた。

「さ、さすが有栖ちゃん、馬鹿力……」

 そう口にしながら、上原はキャラクターの出来映えをチェックする。

「うん、ばっちり。今日も格好いいよ」

 ペコリ、と頭を下げてキャラクターは楽屋を出ていった。

「はぁぁ、疲れた。あと何人よ?」

 有栖はぐったりとしながら、その場に座り込む。身につけたショー製作部のコスチュームは汗でぐっしょり濡れていた。

「あとはクーガーだけかな。ごめんね、有栖ちゃん。わたし力なくて」

「しょうがないわよ、こんなの本当は美術部の男どもの仕事なんだし。女子ばっかのコスチュームグループにやらせる方が無茶なのよ」

 キャラクターの着付けはとにかく重労働だ。キャストをキャラクターのフォルムにするために、綿の詰まったボディパットで線を整え、その上からボディファー、通常の数倍はある巨大なブーツに、大きな手袋をつけ、重たい頭部をかぶせる。一体のキャラクターを仕上げれば、またすぐに次が待っている。とてもじゃないが、普通の女子が軽々こなせるような仕事ではない。

「人手不足いつ解消するのかな?」

「当分無理じゃない。どっかの守銭奴が現場の苦労も考えずに値下げしたせいで、ゲストが山ほど押し寄せるようになったんだから」

「有栖ちゃん、守銭奴はよくないよ」

「はいはい」

「でも、沢山のゲストがプライマルに来て、笑顔になってくれるって思うと、疲れなんて吹き飛んじゃうよね」

 瞳をキラキラさせて、上原がにっこりと笑う。ゆるふわのロングヘアといい、そうしているとまるでお人形のようだ。性格どころか外見もがさつな自分とはなにもかも違う、と有栖は思う。同じなのはせいぜい歳が二六だということぐらいだ。

「あんたは純粋で羨ましいわ」

「えー、どうしたの、いきなり? 純粋なのは有栖ちゃんだよー」

「はいはい。早いとこ、クーガーやっちゃうわよ。お腹空いて死にそう」

 有栖は辺りを見回す。広い楽屋では所々でキャラクターの着付けが行われている。順番を待っているキャストが何人もいるが、目当ての人物は見つからなかった。

「シフト間違えてるとかないわよね……?」

「まさかー。それはないよ。だって、渡瀬ちゃんだよ? 仕事がなくたって、プライマルにいるのに」

「あんたもね」

 そう口にすると、バタンッとドアが開き、一人の女性が入ってきた。上原よりも更に身長が低く、髪は邪魔だと言わんばかりに短くしている。

「ごめんなさいっ。遅れましたっ!」

 駆けよってきた渡瀬は、荒い呼吸を繰り返した。ここまで走ってきたのか、全身汗だくだ。有栖が彼女の顔をじっと見る。

「渡瀬あんた、顔色悪くない?」

「え。そ、そうですか?」

 渡瀬は笑みを浮かべるが、どこか力なく、顔色は青ざめている。

「最近シフト入りすぎなんじゃない? 前の休みっていつよ?」

「ちょっと覚えてないですけど、確か先月の――」

「はぁっ? もう今月終わるわよ。そんなに働かせていいわけ?」

「ダンサーは業務委託ですから、そういうのは……」

「だからって、限度があるでしょ。言いづらいんだったら、あたしが言ってあげようか? あんまり働かせすぎて体を壊したら元も子もないって」

「あ、それはいいんです」

「よくないでしょ。今日は馬鹿みたいに暑いし、体調悪いのに着ぐるみ着て踊ったら死ぬわよ。ちょうどいいのがあそこにいるし」

 有栖が壮年の男性に視線を向ける。スーパーバイザーの塩田だ。温厚な性格で、キャストからの信頼も厚い。体調が悪いことを話せばわかってもらえるはずだ。

「言ってくる」

「やめてくださいっ!」

 強い口調で言われ、有栖はびくっとして立ち止まった。

「……ご、ごめんなさい。でも、シフトに穴を空けると、クーガーから外されてしまうので……」

「一回休んだだけで? 元々無茶なシフト組んでる方が悪いのよ」

「代わりはいくらでもいますから。社員の人たちとは違いますし」

 そう言われ、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「ごめん。勝手なこと言って」

「あ、そういうつもりじゃ。気遣ってくれて、ありがとうございます。でも、休んでるよりゲストの笑顔を見る方が、ずっと元気になりますしっ! それに、ずっとクーガーになるのが夢だったんですから、疲れてなんかいられませんよ!」

 上原と同じように渡瀬は瞳を輝かせる。有栖にはそれが眩しくて仕方がなかった。

 プライマル・ランドでは正社員になれなかった人間が、渡瀬のように業務委託やアルバイトという形で大勢働いている。その殆どが熱心なファンだ。このテーマパークが大好きで、ゲストを笑顔にするために日々努力している。素敵なことだと思う。だけど、会社はそれに見合った報酬を払っていない。ここはまさに童話の世界だ。どれだけ頑張っても、見返りはゲストの笑顔だけ。どれだけ献身しても、正社員への登用制度はない。五年も一〇年も安い時給でフリーターを続けている彼らを見ていると、有栖はたまに無性に悲しくなってくる。

 夢はいつか醒める。魔法はいつか解ける。そのとき彼らはどうするのだろうかと。ここは夢と魔法を信じられなくなった者にひどく厳しい。有栖がそうであるように。

「あんたが元気なのはわかったけど、今はぎりぎりまで休んでなさいよ。着ぐるみ着ちゃったら休憩もできないでしょ」

「……でも、そんなことしたら桂木さんたちが怒られませんか?」

 渡瀬が休んでいる間、有栖たちはする仕事がない。

「今日のスーパーバイザーは塩田さんだし、たぶん大目に見てくれるわ」

「うんうん、絶対大丈夫だよー。それにわたしたちもちょうど休憩したかったし」

 上原が同意してくれる。

「すみません。ありがとうございます」

 ショーに間に合うぎりぎりまで渡瀬を休憩させ、その後着付けを行う。クーガーの着ぐるみを身に纏うと、彼女は元気いっぱいに楽屋を出ていった。

「ついさっきまで中の人が蒼白い顔してたとは到底思えないわね」

「な、なに言ってるの、有栖ちゃん。クーガーは山ライオンの妖精。中の人なんていないよっ!」

 キャラクターの正体を口にするのはここではタブーだ。ゲストの前やバックステージはおろか、業務終了後だって言ってはならないルールなのだ。

「さっきまで着付けてたくせに、それ言う?」

「有栖ちゃんっ!」

「はいはい。塩田さんがこっち見てる。遅れたって言いに行くわよ」

 有栖たちは塩田のもとへ向かい、遅れた事情を説明した。

「……そうですか。渡瀬さんが」

「すみません。少し遅れましたけど、ショーに万全で臨めた方がいいと思ったので」

 塩田は困ったような顔で考えている。

「しょうがありませんねぇ。渡瀬さんにはがんばってもらってますから。でも、今度からは事前に相談してくださいよ」

 ほっと胸を撫で下ろし、「すみません」と頭を下げた。

「じゃ、昼休憩に入ってください」

「待て」

 塩田の声を打ち消すように誰かがそう言った。振り向くと、いつのまにかそこにスーツ姿の男がいた。げ、と声が出そうになる。プライマル・ランドの社長、久我だった。歳は三〇代前半。サイドを刈り上げ、襟足を短くカットしたツーブロック。太くキリッとした威圧感のある眉。一八〇センチを超える身長。なによりも印象的なのはその鋭い眼光だ。この世に自分の思い通りにならないものなんてないと考えているような傲慢な視線が、有栖は嫌いだった。

「クーガーを休憩させていた間、お前たちはなにをしていた?」

「……なにって、待機していました」

「勝手な判断でする待機は、サボりと同じだ」

 上から目線の物言いにムカッときながらも、有栖はなんとか堪えた。

「クーガーの体調が悪いなら交代はいくらでもできる。お前たちが勝手にサボる理由にはならない」

 言い返したくて仕方がなかったが、選択肢は一つしかない。

「……申し訳ございません」

「休憩したのは何分だ?」

「四〇分ぐらいです……」

「なら、その分は昼休憩で処理する。以上だ」

「はぁっ!?」

 思わず、声を上げずにはいられなかった。

「ちょっと待ってくださいよ」

「以上だと言った。残り二〇分の休憩時間を使ってもいいなら、話は聞くが?」

 ぐっと奥歯を噛みしめながら、久我を睨みつける。激情に任せて一歩足を踏み出すと、上原が右腕にしがみついてきた。

「有栖ちゃん、行こ。休憩なくなっちゃう」

「……わかったわよ」

 最後に文句の一つでも言ってやろうかと思ったら、すでに久我は背中を向けていた。



「なんなの、あの守銭奴っ! 最っ低! キャストをなんだと思ってるのよっ!?」

 バックステージの床を踏み鳴らしながら、有栖はずんずんと歩いていく。

「まあまあ。有栖ちゃん、怒らないで」

「ていうか、あんたこそちょっとは怒りなさいよ。休憩時間二〇分に減らされたのよ」

「うーん。こう考えたらどうかな? わたしたちの休憩時間でクーガーを休ませてあげたの。クーガーが元気なら、ゲストも楽しいよ」

「そういうのなんて言うか知ってる?」

「プライマル・マインド?」

「馬鹿。社畜よ」

 上原が寂しそうな表情を浮かべたのを見て、しまったと思った。

「ごめん。言いすぎだった」

 上原の考えを馬鹿にしたかったわけじゃない。むしろ、すごく素敵だと思うのだ。ここで働く同僚たちはゲストを楽しませることを心から喜べる人たちばかりだ。だが、久我は違う。あいつはみんなが信じている夢と魔法を食いものにして、ただお金が欲しいだけだ。上原や渡瀬が一生懸命働いているのを、扱いやすい奴隷として見ているような気がしてならない。

「でも、久我はほんっとに最悪。相変わらず世界で一番夢の国が似合わない男だわ」

「えー、言いすぎだよ。だって、プライマル・ランドは久我さんが作ったんだよ」

「トンビが鷹を生むことだってあるわよ。作った時点で辞めてくれれば一番よかったのに」

 十字路で上原は右に曲がろうとしたが、有栖はまっすぐ歩いていく。

「あれ? 有栖ちゃん、食堂行かないの?」

「食欲失せた。時間もないし、製作室で寝てるわ」

 上原と別れ、少し歩いた先にあるコスチューム製作室に入った。中には誰もいない。自分の席に座り、机に突っ伏すと、髪の毛が目にかかった。最近は美容室へ行く時間もない。ずっと短くしていた髪も、肩まで伸びた。また前髪だけでも自分で切ろう。

 そんなことを考えながら目を閉じる。だが、久我のことを思い出してムカムカするばかりで一向に眠気はやってこない。仕方がなく、引き出しからスケッチブックをとり出した。思うがままペンを走らせ、五分ほどで描き終える。クーガーのコスチュームデザインだ。カジュアルな格好をすることの多いクーガーだが、意外とフォーマルスーツも似合うのではないかと思っていた。もちろん、プライマル・ランドにはちゃんとしたデザイナーがいるので、ただの気分転換だ。腹が立ったときは、いつもこうして絵を描いている。不思議と気分が和らぐのだ。

 ついでに胸元に花を一輪描き足すことにした。植物園にもない珍しい花だ。名前は知らない。どこで見たのか、昔からよく描いている。

 ガチャッとドアが開く音を聞き、有栖は慌ててスケッチブックを裏返した。

「でも、わたし思ったんだけど、やっぱり有栖ちゃんって優しいよね」

 やってきたのは上原だ。サンドウィッチとパックのジュースを手に持っている。従業員用のコンビニで買ってきたのだろう。

「はい、これ有栖ちゃんの分」

「なにが優しいのよ?」

「いつもの有栖ちゃんだったら、後先考えず久我さんにもっと文句言ってるでしょ。でも、そうすると渡瀬ちゃんが困るかもしれないと思って、すぐに謝ったんだよね」

「よくそんな恥ずかしいこと言えるわ」

 もらったサンドウィッチの包装を外し、有栖はぱくりと食いつく。

「えー、全然恥ずかしくないよ。大事なこと」

 キラキラした瞳で上原が微笑む。初めて会ったときはあざとい子だな、と思ったけど、一緒に過ごす内に全部本気なんだと気がついた。女の子らしくて可愛らしい。童話に出てくるお姫様みたいに純粋で、自分とは正反対だと有栖は思う。あざといなんて考えるような自分とは。

「なんか久しぶりに製作室入った気がする。最近全然コスチュームグループのシフト入れてくれないんだよね。本職なのになぁ。有栖ちゃんは?」

「言っとくけど、ここ一ヶ月毎日終電で殺す気かって思うわよ」

「いいな。羨ましい。有栖ちゃんはきっと目をかけられてるんだよ。そのうち昇進するんじゃない?」

「それなら上原が先でしょ。あたしより断然手が早くて、正確なくせに。その上なんでも作れるし。彫金までできる」

「なにか作るのが好きなだけで、仕事には役に立たないよ」

「少なくとも昇進だけはないわよ。そういうのはぜんぶあの守銭奴が決めてるって言うし。どうせ体力だけはあるから、しんどいところに回されてるだけでしょ」

 サンドウィッチを食べ終え、ちゅごごごとジュースを飲み干す。

「もう時間ないでしょ。着替えよ」

 有栖が立ち上がると、上原は机に裏返しておいたスケッチブックを手にした。

「新しいデザインだ。今度のも可愛いね」

「こら、勝手に見るなっ!」

「わたし、有栖ちゃんのデザイン好き。どれもキラキラしてて可愛らしいよね」

 そう言って上原がスケッチブックを返してくれる。

「うるさいわね……。どうせ少女趣味よ」

 そのコスチュームデザインは、決してそうはなれない自分の憧れだ。ただ描く分にはいいが、誰かに見られるのは恥ずかしい。コンプレックスを見られているみたいで。

「いいじゃん、少女趣味。わたしは今のクーガーのお洋服より好きだな」

「はいはい。お世辞はいいから」

 スケッチブックを机にしまい、ドアの方へ移動する。

「あ、待ってよ。お世辞じゃないよー。いつかクーガーが着てくれるといいね」

「それはただの暇つぶし。大体、あたしデザイナーじゃないわ」

 なんでもないフリをして、ロッカールームへ向かった。

 セキュリティキャストの制服に着替えた後、有栖たちはエレベーターで地上へ昇る。レインティア双塔の裏門から出ると、周囲は見渡す限りゲストでいっぱいだ。

「あっつ……」

 やっと桜が見頃になったばかりなのに、今日は夏日だった。セキュリティキャストの仕事は安全管理だ。防災や防犯はもちろんのこと、人が集中するショーやパレードで怪我人が出ないように配慮したり、急病人に対応する。これだけ暑いと熱中症になるゲストがいるかもしれないから、もしものときは対処できるように心がけなければいけない。

 有栖と上原がそれぞれ配置につき、どこかに危険がないか目を光らせていると、大音量の音楽が流れてきた。いかにも踊りたくなるような愉快な曲だ。

 レインティア双塔の正門が開き、飛び出すように走ってきたのはクーガーを始めとするプライマル・ランドの名物キャラクターたちだ。大音量の音楽に負けないぐらいの歓声が上がり、楽しげなステップを刻みながら通りすぎていくキャラクターに向けて次々とカメラのシャッターが切られる。

 毎年行われるオーディションを勝ち抜いたキャストたちだけあって、ダンスは皆一級品だ。その中でも、やはりメインキャラクターのクーガーは群を抜いている。振り向く、手を振る、立ち止まる、そんな何気ない仕草がすでにクーガーなのだ。ただそこを歩いているだけで、ワクワクした楽しい気持ちにさせてくれる。ゲストたちの視線はいつもクーガーに惹きつけられた。

 ショーの半分が経過したが、ゲストたちが観覧エリアから出てくるようなこともなく、トラブルは特に起きていない。何事もなく終わるだろうと有栖はショーに視線を移す。ふと違和感を覚えた。クーガーの位置がいつもと違うのだ。それに足取りもおかしい。どことなく体が重たそうで、あんな振る舞いを渡瀬がするわけがない。

 次の瞬間、ふらっとクーガーはその場に倒れた。なにかの演出だと思ったのか、ゲストたちはまだ事態に気がついていない。有栖は無線に向かって言った。

「防災センターへ。レインティア双塔前でクーガーが倒れました。念のため、救急車の準備をお願いします」

 プライマル・ランドには緊急時に備え、救急車二台が配備されている。正式な許可が下りており、公道での緊急走行も可能だ。

 渡瀬は今日、かなり顔色が悪かった。この炎天下だと熱中症になったのかもしれない。有栖はすぐさまクーガーのもとへ向かう。すると、先にスーツ姿の男がクーガーに駆けよった。久我だ。彼はクーガーの頭部に手をかける。しかし、なにかを気にするようにそこで動きを止めた。プライマル・ランドはクーガーが実在すると謳っている。ゲストの目の前でその正体を晒し、夢を壊すようなことをしてはならない。

「馬鹿っ! そんなの気にしてる場合じゃないでしょうがっ!?」

 有栖はクーガーの頭部をつかむと、勢いよくそれを外した。事態に気がついた他のキャラクターたちが、ゲストから見えないように壁を作ってくれる。

「渡瀬っ!? 大丈夫っ?」

「……あ……う……」

 呼びかけるも渡瀬は意識が朦朧としており、ろくな返事がなかった。とにかく体を楽にしてあげようと、グローブやブーツ、ボディファーなどを脱がしていく。

「有栖ちゃんっ、ストレッチャー来たよっ!」

 上原に誘導されて、救急、消防担当のファイアーキャストがストレッチャーを運んでくる。手際良く渡瀬を乗せ、そのまま待機している救急車の方へ搬送していく。有栖がそれに付き添うと渡瀬は手を伸ばし、譫言のように言った。

「……桂木……さん……わたし、踊れます……シフトに穴を空けたら……」

 有栖はぎゅっとその手を握り、渡瀬に言い聞かせた。

「うん、わかったから。大丈夫だから、今は休もう」

 渡瀬はストレッチャーごと救急車に乗せられた。ファイアーキャスト一名が後部に乗り込む。運転席にはすでにもう一名が待機しており、発車の準備はできている。

「あたしも行くっ!」

 有栖が救急車に乗り込もうとすると、手首をぐっとつかまれた。振り向くと、引き止めたのは久我だった。

「勤務中にどこへ行く気だ?」

 こんなときにいったいこの男はなにを言っているのかと思った。

「病院に決まってるでしょうがっ。渡瀬を一人にできないでしょ」

「付き添いはファイアーキャストの仕事だ。セキュリティキャストが救急車に乗る業務規定はない」

「渡瀬は友達なのよっ。こんなときに仕事の話をしている場合っ?」

「今は勤務中だ。業務に戻れ」

「友達が倒れたのよっ!」

「業務規定を読め。早退の許可が出るのは親戚からだ」

 杓子定規な物言いに、頭が沸騰しそうだった。

「一緒に働いてる仲間が倒れて、心配にならない方がおかしいでしょっ! あんた、頭がどうかしてるんじゃないのっ!?」

「心配するなとは言ってない。働けと言っている」

「ふざけないでよ……」

 自分でも驚くぐらい低く、冷たい声が出た。だが、久我はまるで意に介さずファイアーキャストに言った。

「なにをしている? さっさと搬送しろ。死なせたら事だぞ」

 それを聞いた瞬間、我を忘れて久我の頬を引っぱたき、怒鳴りつけていた。

「キャストを倒れるまで働かせて、かける言葉がそれっ? なにが夢と魔法の国よ。偽物もいいところだわっ!」

 久我の手を振り払うと、強引に救急車に乗った。

「もういい、好きにしろ。ただし処罰は覚悟しておけ」

「おあいにくさま。もう二度と戻らないわよ、こんな会社。人を甘く見るのもいい加減にしてっ!」

 そう啖呵を切った瞬間、ドアが閉まり、救急車は走り出した。遠ざかっていく久我の表情が面食らったようになっていて、有栖はしてやったとせいせいした。



第一章 紙の上の古城からの招待状



「ええーっ、それで辞めるって言っちゃったのっ!?」

 電話越しに、上原の驚いたような声が聞こえてくる。有栖は木の枝をくぐった。

「そうよ。せいせいしたわ」

「で、でも、口で言っただけなら、謝ればまだ許してもらえるんじゃないかな?」

「嫌よ。なんであんな血も涙もない守銭奴に謝らなきゃいけないわけ? あたしは間違ったことしてないし、それにもう退職届送っといたわ」

 呆れたようなため息が聞こえた。

「渡瀬はどうしてる?」

「元気だよ。もう普通に踊ってる」

 だけど、クーガーは外されたんだろう。そう思ったが、訊くことはできなかった。

「人の心配より有栖ちゃん、辞めちゃってどうするの?」

「そりゃ就職活動するしかないでしょ。安月給だったせいで貯金もないし。これから面接の予定よ」

「もう面接決めたのっ? どこ?」

「テーマパークよ。ちょうどチーフ・マーケティング・オフィサーの求人があったから。本物のテーマパークを作って、あの守銭奴を見返してやるわ」

「テーマパーク? じゃ、受かったら有栖ちゃん県外に行っちゃうの?」

「なんでよ? 県内にしといたわ」

「え? 県内にはプライマル・ランドしかないよ。それなんてところ?」

「確か、紙の上の古城って書いてあったけど」

「そんなテーマパーク聞いたことないけど。どこで募集してたの?」

「どこって、DMがポストに入ってて。条件に人の気持ちがわかることって書いてあったから、これだって思ったんだけど……」

「DMで求人……? 有栖ちゃん、それすっごく怪しくない? 書類審査の返事とか変なところなかった?」

「随時、面接会してるから直接来るようにって書いてあってさ。今ちょうど向かってるところ」

「なにそれっ? 絶対怪しいやつだよっ! ちゃんとぜんぶ読んだ? 怒ったら考えなしになるのは有栖ちゃんの悪い癖だか――」

「上原?」

 スマホの画面を見ると、圏外になっていた。顔を上げてみれば、いつのまにか森が深くなっており、野生の木々や草花の他にはかろうじて道らしきものがあるだけだ。

 上原の言葉が気になり、バッグからDMをとり出す。『紙の上の古城からの招待状』と書かれていた。改めてよく見てみると、切手がどこにも貼ってない。自宅のポストに直接入れられたものだ。中の便箋にはCMO募集の文字があり、必須条件には人の気持ちがわかることと書いてある。給料は三〇万円~応相談。勤務時間は働きたいときに働き、休みたいときに休む。その他すべて応相談。しかも、面接場所の住所は記載されているが、連絡先はない。怪しいことこの上なかった。

 はぁ、と深いため息をつく。やってしまった。あのときのことを思い出しては、久我に対する怒りがどうにも収まらず、ちょうど溜まっていた郵便物の中にあったこのDMに飛びついたのだ。面接日は今日まで、時間が夜八時までなのを確認すると、一も二もなく家を出た。上原の指摘の通り、内容はろくに読んでいなかった。

 どう考えても手の込んだ悪戯かなにかだろう。冷静になってみれば、こんな山と森しかない場所にテーマパークがあるはずがない。帰ろう。有栖は踵を返す。そのとき、バキッと足元から不吉な音がした。バランスを失い、思いきり地面にお尻を打った。

「痛ったぁ……」

 のっそりと体を起こし、大きな木の根に座り直す。足を曲げて右足のパンプスを外してみると、見事なぐらいぽっきりとヒールが折れていた。無性に情けない気持ちになった。

「なにしてるんだろ……」

 癇癪を起こして仕事を辞めて、見返してやろうと怪しいテーマパークの求人に飛びついた。あげくの果てに、こんなところでヒールを折ってるなんて馬鹿みたいだ。冷静になればなるほど、自分が惨めに思えてきて、泣きそうな気持ちになる。

「それもいいかも」

 人前で泣くなんて恥ずかしい真似は天地がひっくり返っても有栖にはできないし、自宅でだって壁が薄かったらと思うと泣くに泣けない。しかし、幸いここには人気がまったくない。

 木の根に座ったまま自分を抱きしめるように小さくなって、有栖は自らの両腕に顔を埋める。感情のままに口を開くと、「あ、あぁ……」とすぐに涙声が漏れた。

 楽しいことがないわけではなかった。特別不幸なことがあったわけではなかった。でも、辛かった。苦しかった。やりたくないことばかりで、納得できないことばかりで、嫌で嫌でたまらない毎日だった。だけど、忙しくて、考える暇もなく、感じる暇もなく、次々とやってくるやらなきゃいけないことをこなすだけで精一杯だったのだ。

 思えばあそこで久我にキレたのも、自分が我慢の限界を超えていたからなのだろう。だから、たぶんこれでよかった。辞めて正解だったのだ。ぽとり、ぽとり、と涙の雫をこぼす度に心が洗われるかのようにすっきりしていく。もしかしたら、神様が泣き場所を与えるためにこの手紙を出してくれたのかもしれない。そんな風に思いながら、有栖は数年ぶりに流した涙に浸っていた。

 そうして、どのぐらい経った頃だろうか。カポ、カポ、と耳慣れない音が微かに響いた。しかし、どこかで聞き覚えがある。有栖は涙を拭いながら記憶を巡らせる。馬だ。確か、馬が歩くときの蹄の音がこんな風だった気がする。だが、こんな森の中に馬がいるのだろうか? 蹄の音が止まった。

「なにかお困りか?」

 え、と思い、顔を上げる。目に飛び込んできたのは毛並みの綺麗な白馬だった。青年が乗っている。漆黒の髪と、異国の血が混ざった金色の瞳。目鼻立ちは怖いぐらいに整っていて、まるで魔力を持っているかのように有栖の目を惹きつける。

 着ているのはお伽噺に出てくるような中世のフロックコート。色はワインレッドで、豪奢な金の刺繍とボタンが華やかだ。白のベストとスカーフを身につけ、乗馬用のロングブーツを履いている。

 なにこの人!? この格好なにっ!? と喉まで出かかったが、なんとか堪える。いったいどう返事をすればいいのかわからず、有栖はぱくぱくと口を動かすばかりだ。

 すると、青年は白馬から下りてきて、有栖と視線を合わせるようにさっと片膝をつく。花の刺繍が入った白いハンカチをとり出し、彼女の目尻をそっと拭う。

「え……あの……だ、大丈夫だから」

「すぐに済む。いい子にしていなさい」

 有栖が反射的に避けようとすると、子供をあやすように青年が彼女の頭を優しく撫でる。普段なら、見知らぬ男にこんなことをされたら今頃顔面にパンチを入れているところだが、宝石のような金の瞳に見つめられるとなぜか逆らう気力をなくした。

「……はい」

 なされるがままに有栖は涙を拭われる。無性に恥ずかしくて、顔が熱くなった。それが終わると、彼はハンカチをそっと有栖の手に握らせる。

「あの、これ……?」

「おまじないだ。悲しいことがあったら使いなさい。君の力になるだろう」

 おまじないって……ただのハンカチで、よくそんな気障なことが言えるものだ。

「こんなところで、なにをしていたのだ?」

 さっきから喋り方も変だし、この人実はやばいんじゃないだろうか? そんな疑問は見せないようにしながら、普通に返事をした。

「その……紙の上の古城ってところに面接に行く途中で……じゃなくて、それはもういいんだけど。ヒールが折れちゃって」

「安心しなさい。まだ間に合う」

 間に合うってなにが、と訊こうとすると、青年がすっと腕を伸ばす。

「え……きゃっ……!」

 あっという間に有栖は抱き上げられていた。

「あ、あのっ! お、下ろして。下ろしてくださいっ」

「怖がることはない。大丈夫だ」

「そ、そうじゃなくて……」

 こんなことをされたことがなくて有栖は完全に動転していた。あのまま泣き疲れて、実は今夢を見ているのではないかとさえ思えてくる。

「リリ」

 青年がそう呼ぶと、白馬は目の前まで歩いてきて膝を折った。有栖はその背中に乗せられる。たてがみがサラサラしていて、すごく気持ちいい。

「この子、リリって言うの?」

「ああ」

「賢いんだ」

 ほんの僅かだけ、嬉しそうに青年が微笑む。そんな美しい笑顔を有栖は今まで見たことがなかった。彼は有栖を後ろから抱くような格好で、鞍に跨り、手綱を握った。

 リリは立ち上がり、ゆっくりと走り始める。道が悪いにもかかわらず、まるで高級車に乗っているかのような安定感だ。速度はどんどん増していき、景色が高速で流れ始める。しかし、全然怖くない。馬に乗るのは初めてだったが、空を飛んでいるみたいな気分だった。

 どこをどう走ったのか、やがて森の外に出た。目の前に和風の大きな建物が見える。古そうだが、清潔感があった。更に近づいていくと、看板に桜華荘と書いてあるのがわかった。旅館のようだ。

 リリが静かに立ち止まり、青年が地面に下りた。差し伸べられた手を少し戸惑いながらもとり、白馬から下りる。

「そこだ」

 青年は桜華荘を見つめてそう言った。有栖は首を捻る。靴を売っているとも、修理できるとも思えない。しかし、彼は迷わず戸を開け、有栖に中へ入るように促した。仕方がなく、有栖は敷居をまたぐ。どうしたものかと戸惑っていると、青年は視線でじっと訴えてきた。それに負けて、有栖は奥へ声をかけた。

「すみませーん」

 しばらくして、「只今参ります」と品の良さそうな女性の声が聞こえてきた。

「あとは大丈夫だろう」

 そう言って、青年は桜華荘から去っていく。引き止めようとしたが、その前に声が聞こえた。

「いらっしゃい。お一人様?」

 振り向けば、着物姿の老婦人がいた。胸の名札には女将、佐野とあった。

「えっと、すみません。宿泊じゃないんですが……」

 なんと説明したものかと有栖は言葉に迷う。宿泊客でもないのにパンプスをどうにかしたいなんて失礼なようにも思った。すると、佐野は有栖の足元を見た。

「あら、あなたそのパンプス。ヒールが折れちゃったのね。それで困ってるのね?」

「はい。そうなんですが……」

「あなた、足のサイズはおいくつ?」

「二三です」

「よかった。それなら、なんとかなりそう。ちょっと待っててちょうだいね」

 佐野はまた奥の方へ引っ込んでいった。親切というか、すごく感じのいい人だなと有栖は思った。

「お待たせ。これ履けるかしら?」

 佐野は持ってきたパンプスを履きやすいように有栖の方に向けて置いてくれる。新品ではないが、傷もなく、綺麗に手入れがされていた。恐縮しながらも、促されるままに履いてみる。サイズはぴったりだった。

「よかったわ。使ってちょうだいね」

 有栖は返事に迷う。ここまでは車で来ている。もうこれから帰るだけだし、やっぱり遠慮しようと思った。だが、寸前であの青年のことが頭をよぎる。

「……すみません。用事が終わったら、すぐに返しにきますから」

 そう言った瞬間、ぐう、と恥ずかしい音がした。にっこりと佐野は笑った。

「ええと……」

「大丈夫よ。ちょっとだけ待っててちょうだいね」

 止める間もなく、佐野がまた奥の方へ引っ込んでいく。しばらくして戻ってきたかと思うと、手には風呂敷の包みを持っていた。

「はい、おにぎり。これなら歩きながら食べられるでしょ?」

「なにからなにまですいません……」

 恐縮するしかない有栖に、佐野は満面の笑みを返してくれる。

「これからどこへ行くの?」

「えと、紙の上の古城って知ってますか?」

 佐野は首を捻る。

「知らないわね。調べようかしら?」

「いえ、大丈夫です。色々とありがとうございます。帰りにまた寄りますね」

「ええ。いってらっしゃい」

 佐野に見送られながら、桜華荘を出る。すぐにあの青年を捜したが、すでにいなくなっていた。

 さっきは突然のことで頭が回らなかったが、あんな格好をしているということはテーマパークのキャストだろう。というか、そうじゃなきゃありえない。それに、まだ間に合うと彼は言った。つまり、紙の上の古城は本当にある。そして、面接が行われているのだ。招待状は確かに怪しさ満載だが、彼が親切にしてくれたのも事実だ。せっかくこんな辺鄙なところまで来たのだ。テーマパークがあるのなら、見るだけ見てみようと思った。面接を受けるかは、それから決めてもいいだろう。

 スマホのGPS機能を使い、招待状に記載されていた住所を入力する。すると、森林一帯がマークされた。有栖は地図の地形からテーマパークがありそうな場所に見当をつけ、また森の中へ入っていった。



 結論から言おう。迷った。森の中をしばらく進むと、車一台分ぐらいの幅がある土の道が現れた。草や木の根などは残っているが、明らかに人が使っていそうだった。きっとこの先がテーマパークに続いているはずだと思い、喜び勇んでその道を歩いていったのだ。

 だが、三〇分歩いても、一時間歩いても建物らしきものは見えてこない。いくつもの分かれ道があり、まるで迷路だった。迷ったと気づいた頃には日が暮れており、降り注ぐ月明かりとスマホの明かりだけが頼りだった。

 現在位置を確認しようにも、森の中は圏外で調べることができない。仕方なく、コンパス機能を頼りになるべく同一方向へ進もうと思った。しかし、日が暮れた状態で獣道を進むのは不安で、結局、道なりにぐるぐると同じところを回る羽目になった。

 面接時間の夜八時はとっくに過ぎ、とにかく帰りたかったが一向に森から出られない。次第に肌寒くなってきて、とうとう霧まで出始めた。月明かりも届かないようになり、一寸先は殆ど闇だ。歩き疲れて足が痛くなってきたが、有栖は前に進んだ。

 不安だった。目的地も帰り道も、今どこを歩いているのかすらわからず、その上視界は殆どない。春とはいえ信州の夜は気温が低く、もう迷ったどころの騒ぎではないと気がつく。完全に遭難していた。

 それでも、もう少しできっと戻れるはずだと自分を奮い立たせ、懸命に足を動かした。しかし、刻一刻と足は重くなっていき、休憩時間が増えていく。そして、とうとう有栖は動くことができなくなり、その場に座り込んでしまった。

 時計を見れば、もう深夜一二時近い。電波が届く場所があれば救助を呼ぼうと思っていたが、森の中はどこも圏外で、更には充電まで尽きてしまった。

 絶望的な気分になりかけるも、焦ってはいけないとなんとか平静を保った。気温が低いとはいえ、凍死するほどではない。桜華荘でもらったおにぎりもまだ残っているし、休めばまた歩けるようになるだろう。朝になって霧が晴れれば、案外もう少しで森から出られる場所にいるかもしれない。

 ふう、と深呼吸をして、有栖は体を小さくする。そのとき、遠くから鐘の音のような音が響いた。

 やっぱり、人がいるのだ。有栖は反射的に立ち上がり、耳をすます。だが、鐘の音はもう聞こえてこない。けれども、視界にぼんやりとした明かりが映った。

 緑色の小さな光だ。チカ、チカとついては消えるのを繰り返している。一つだけではなく、いくつもあった。蛍だ。まだ四月なのにどうしてだろう?

 すると、まるで交信するかのように一斉に輝き始めた蛍の光で暗闇が照らされ、辺りがうっすらと見えてきた。

 遠くになにか動くものがある。黄色くて丸い、乗り物のような物体だ。そこへ向かって有栖は大声で叫んだ。

「誰かいますかーっ? 助けてくださいーっ!」

 しかし、こちらに気がついた気配はない。なにか注意を惹きつける方法はないか。スマホは電源が切れているし、他に目立ちそうなものは……? はっと気がつき、有栖はあの白馬の王子様からもらった白いハンカチをとり出した。

「助けてくださーいっ!」

 白いハンカチを頭上で振りながら、力の限り叫んだ。すると、有栖に気がついたのか、ゆっくりと動いていた黄色くて丸い物体が停止した。

「こっち、こっちでーすっ! 助けてくださーいっ!」

 黄色くて丸い物体が有栖の方に動き始める。くねくねと曲がる道を進むようにしながら、だんだんと近づいてきていた。

 やがて、カッポカッポという蹄の音と車輪の音が聞こえてきた。目の前に姿を現したのは、可愛らしいカボチャの馬車だ。

「おねーさん、こんなところでなにしてるの?」

 そう舌っ足らずな高い声を発したのは、馬車を走らせていた御者だ。巨大なカボチャの頭をすっぽりとかぶり、黒マントを羽織った姿は、ハロウィンなどでよく見かけるジャックオーランタンだった。華奢な体をしており、小さな女の子のようだ。

「……あの、実は遭難しちゃって」

 口にすると、ひどく恥ずかしい台詞で、有栖は赤面してしまう。

「遭難、おー」

 なぜか感心しているような反応だった。

「おねーさん、もしかして紙の上の古城へ行く途中だった?」

「ええっと、そうだけど」

 そっか。こんな仮装をしてるってことは、テーマパークの人に違いない。

「あなたは紙の上の古城の人?」

「そうだよ。僕はジャックオーランタンのジャック。おねーさんは?」

 こんなときにまで役になりきってるなんて不思議だと思った。

「桂木有栖」

「じゃ、有栖。馬車に乗りなよ」

 その言葉にほっとして有栖はカボチャ形の馬車に乗った。

「有栖は僕たちの仲間になりに来たんだよね?」

「ええと、うん、まあ、一応そう言われればそうなるかな……」

「それじゃ、紙の上の古城へつれていってあげるよ」

 ジャックが手綱を引く。二頭の馬が歩き出し、馬車が動く。

「でも、大丈夫なの?」

 もう深夜一二時を過ぎている。面接時間が終わっているどころか、テーマパークがやっているとは思えなかった。

「もちろん。みんな歓迎してくれるよ」

「こんな時間に?」

「そうだよ」

 あっけらかんとジャックが笑う。夜遅くまでやっているテーマパークなのだろうか? 有栖は疑問に思ったが、今日はもう疲れ果てていた。馬車の中は少し温かく、気が緩んだのか、彼女はいつのまにか眠りに落ちていた。



「有栖、有栖」

 自分を呼ぶ声が聞こえ、有栖ははっと目を覚ました。すると、視界いっぱいに、大きな古城があった。その周囲は湖沼に囲まれており、よく見れば陸地がどこにもない。古城は水の中に立っているのだ。月明かりが湖面をキラキラと反射し、まるで絵本の中に迷い込んだみたいな光景だった。

 こんなテーマパークがあったなんて全然知らなかった。

「着いたよ。あれが僕たちの住処、紙の上の古城だ」

 御者台からジャックが言った。振り向いた姿を改めて見て、有栖はカボチャ頭が本当によくできてると思った。質感といい、色といい、まるで本物のカボチャみたいだ。コスチューム製作の仕事柄、そういうファンタジーなものを作ることは多々あったが、ジャックのそれは正直どうやって作っているのか見当もつかない。

「どうしたの?」

「そのカボチャ頭、すごいね。本物みたい」

「あははっ、なに言ってるの、有栖? これは本物だよ」

 心底おかしそうにケラケラとジャックが笑う。まさか本物とは思わなかった。

「じゃ、重くない?」

 素朴な疑問を漏らすと、ジャックはきょとんと小首をかしげる。そして、再びケラケラと笑った。

「重くないよ。有栖は変わってるね」

 そんなに変なことを訊いただろうかと有栖は思う。そのとき、ニャー、と鳴き声がした。黒猫が一匹、ぴょんぴょんと跳ねてジャックの隣に乗ってきた。胸に白い三日月の模様がある。

「やあ、クロロ。ただいま」

 ジャックがそう言うと、まるで返事をするみたいに黒猫がニャーと鳴く。そして、カボチャ形キャビンの窓へぴょんと飛び込み、有栖の膝へ着地した。

「可愛い。人懐っこいね」

 クロロはそのままちょこんと座ると、物珍しそうにじっと有栖を見つめてきた。月明かりに照らされたクロロの瞳は紫色に光っていた。

「彼女は有栖だよ。僕たちの仲間になりに来たんだって」

「猫に言ってもなんのことかわからないよね」

 有栖がクロロの頭を撫でようとすると、黒猫はニャーと若干不機嫌に鳴き、気安く触れるなとでもいうように猫パンチでその手を払った。

「あれ?」

「あははっ、猫扱いしたから怒ったんだよ」

「猫なのに……?」

 再び猫パンチを食らった。まるで有栖の言うことがわかっているかのようだ。

「有栖。ここからは歩きだよ」

 ジャックは馬車を停めて、御者台から降りる。有栖が立ち上がろうとすると、クロロは膝の上からさっとどいた。扉を開け、馬車から降りる。すると、クロロが有栖の肩に飛び乗り、ちょこんと座った。

「嘘、すごいね。賢すぎない?」

 そんなことはない、というようにクロロが有栖の頭に猫パンチをした。しかも、左右の前足をつかって連続でだ。

「あー、わかった。わかったから。怒らないでよ」

 笑いながらもそう言うと、まるで納得したかのようにクロロは姿勢を正して前を向いた。本当にわかっているのだろうか?

「まさかね」

「どうしたの?」

 ジャックが不思議そうに小首をかしげる。

「ううん、なんでもない。そういえば、これからあのお城につれてってくれるの?」

「そうだよ。だって、有栖は僕たちの仲間になりに来たんでしょ?」

「そうだけど、でもね、事前に連絡もしてないし、こんな真夜中にいきなり来られても迷惑でしょ。それは紹介してくれるなら嬉しいんだけど……」

 正直、面接を受けるかまだ決めていなかったが、さすがにそうとは言えない。

「明日の方がよくない?」

「ふふっ、変な理由」

 まさかそんな言葉で片付けられるとは思わず、有栖は唖然としてしまう。

「大丈夫だよ。仲間になりたいなら、僕たちはいつでも大歓迎だから」

 ジャックは構わず歩いていく。有栖はただついていくしかない。すぐに湖畔に到着したが、古城に続く橋はどこにも見当たらなかった。

「ねえ。どうやってお城まで行くの?」

「すまない。そこを通してくれるかな?」

 後ろから爽やかな声をかけられ、有栖は慌てて道を譲る。

「すみま……きゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 有栖の口から悲鳴が上がる。声をかけてきたのは目と口の周りに血が塗られた男だった。顔は土気色で、まったくといっていいほど生気が感じられない。

「これはしまったな。まさか一目見ただけで黄色い悲鳴を上げさせてしまうとは。自分の美しさが憎いよ」

「ぞ、ぞ……」

 歯の根が合わず、言葉がなかなか出てこない。男は続けて言った。

「わかっているよ。造形美といいたいんだね。この僕が」

「ゾンビみたいな顔してなにありえない解釈してんのよっ!」

 あまりにも男が理不尽なことを宣うので、初対面にもかかわらず声を荒らげてしまった。だが、自分で言ってようやく合点がいく。たぶん、男はゾンビのメイクを施したこのテーマパークのキャストなのだろう。

「確かに僕はゾンビだよ。しかし、お嬢さん。よく見てごらん。腐ってないだろう?」

 ドヤ顔で男は言った。

「それがなんなわけ……?」

 有栖が投げやりに問いかけると、今度はジャックが答えた。

「骸は世界一綺麗な死体なんだよ。死んだときの保存状態がよかったんだ。ノーライフヴィーナスっていうゾンビ界のトップアイドルなんだよね?」

 その言葉に気をよくしたのか、骸はビシッと腕を交差しながら、心臓を撃ち抜くような指の形を作った。

「惚れるなよ」

「キャラ作り大変そうね……」

「ふ。あいにくと生まれつきこうでね」

 すごい。かなりアグレッシブな設定にもかかわらず、完全に役になりきっている、と有栖は素直に感心した。改めて骸の顔を見れば、目と口に塗られた血のメイクも、赤いアイシャドウと口紅のようで怪しい色気さえ感じさせる。それに彼自身が、そこらのモデル顔負けのイケメンだ。惜しむらくはメイクのせいだろうが、異様に顔色が悪いということか。

「ところで、お嬢さんは新入りかな?」

「……まだ」

 なんと答えるべきか迷い、そう言った。

「これから王子に会ってもらうんだよ」

 有栖の頭にあの白馬に乗った青年の姿が浮かぶ。

「王子って、どんな人?」

「このモンスター・ランドを作った人だよ。支配人なんだ」

 テーマパークの名前はモンスター・ランドというのか。ジャックオーランタンやゾンビに扮したキャストがいるし、西洋の妖怪がテーマなのだろう、と有栖は思った。

「創設者で支配人なのに、テーマパークのキャストもやってるの?」

「そうだよ。王子はヴァンパイアなんだ」

「王子まで化け物なんだ……」

 とはいえ、ヴァンパイアなら見た目はそう人間と変わらないだろうから、王子にするのもありかもしれない。やっぱり、あの白馬の青年が王子なのだろうか?

「お嬢さん、なにをぼーっとしているのかな? 王子に会うなら早く来たまえ」

 骸はそう言うと、湖沼に向かって足を踏み出した。

「えっ、危なっ……ええっ!?」

 骸の体は宙に浮くかのように水面スレスレを歩いている。

「どうしたの、有栖? 早くおいでよ」

 ジャックが同じように湖面の上を歩いていく。どういうことかと目を凝らすと、透明なガラスの橋がかかっていた。それで宙を歩いているように見えるのだ。

「……ていうか、これ、わかってても怖いんだけど」

 恐る恐る水面に足を踏み出すと、コツンとガラスに当たった。ふう、と胸を撫で下ろし、慎重な足取りで透明な橋を渡っていく。

「有栖、どうしてそんなにゆっくりなの?」

 ジャックが振り返った。骸は有栖のことなど気にせずにどんどん先へ進んでいく。

「だって、どこに橋があるかわからないでしょ」

「大丈夫だよ。踏み外しても落ちるだけだから」

 ジャックは無邪気に言う。

「それ、大丈夫じゃないんだけど……」

「ほら、早くおいでよ」

 ジャックは有栖を手招きしながら、後ろ向きで古城へと歩いていく。本当に落ちることなんかなんとも思ってなさそうだ。

「早くって言われても……」

 すると、肩に乗っていたクロロが鳴き、ガラスの橋へ飛び降りた。そして、有栖の方を一瞬見ると、ゆっくりと彼女の前を歩き始めた。

「もしかして、橋がある場所を教えてくれてるの……?」

 返事はない。しかし、クロロのすぐ後ろについていけば落ちる心配はなさそうだ。

「ありがとう、クロロ」

 お礼を言うと、クロロは一瞬こちらを振り返り、ニャーと鳴く。その後、再び橋の上を歩き始めた。

 なんとか橋を渡りきると、目の前に大きな門があった。すでに開いており、古城の中が見えている。クロロがげしげしと有栖の足を引っかいてきた。

「ええと、乗りたいのかな?」

 しゃがみ込むと、クロロはぴょんっと有栖の肩に乗った。そのままジャックの後ろについてお城の中へ入る。

 石造りの建物で、天井も床も綺麗に磨かれている。上と下へ長く続く巨大な螺旋階段が怪しい雰囲気を醸し出していた。まさに化け物たちの住処といった雰囲気だ。

「王子はたぶん書斎にいると思うから」

 そう言って、ジャックは螺旋階段を上がっていく。有栖も後に続くが、そういえば骸の姿がないことに気がついた。

「ねえ、骸はどこに行ったの?」

「有栖がなかなか来ないから、飽きてどこか遊びに行ったんじゃないかな」

「ずいぶん飽きっぽいね……」

 なかなか来なかったといっても、せいぜい二、三分ぐらいの話だ。

「ゾンビは体だけじゃなくて、気も腐りやすいから。すぐやる気をなくすんだ。でも、骸はまだ性根まで腐ってないから大丈夫」

「そうなんだ……」

 ゾンビの設定少し盛りすぎなんじゃないか、と有栖は思った。

「そこを曲がったところだよ」

 上階に辿り着くと、通路に入り、右に曲がった。突き当たりに扉があった。そこが書斎なのだろう。ジャックはノブを回す。ガチャガチャと音がしたが、開かない。鍵がかかっているようだ。

「あれ? 王子、開けてーっ」

 更にジャックはガチャガチャとノブを引っ張る。支配人を訪ねるのにこんな態度で大丈夫なのだろうかと有栖は他人事ながら不安を覚える。

「ねえねえっ、王子ってばー」

「王子は今デッサン中だわ。あんまり騒ぐと機嫌を損ねて大変なことになるわよ」

 そう声をかけてきたキャストを見て、有栖はまた悲鳴を上げそうになった。今度は狼男だ。全身を覆うモフモフの毛並みも、獰猛な牙も、大きな手の鋭い爪も、どこからどう見たって本物のようだ。モンスター・ランドの特殊メイクはハリウッドよりもすごいかもしれない。

「ところでそちら、どなた?」

「有栖だよ。僕たちの仲間になりに来たんだ」

 有栖の代わりにジャックが答えた。

「あら、そうなの。あたしは狼子。よろしくね」

「は、はい。よろしくお願いします」

「なによ。堅苦しい喋り方しちゃって。とって食べたりしないわよ」

 とりあえず、疑問点が一つ。狼子は一九〇センチを超えていそうなぐらいの長身で、プロレスラー並みの隆々とした体格の持ち主だ。声も低く、野太い。だが、この喋り方から察するに――

「狼子さんは、その……こっちの方ですか?」

 有栖は右手をピンとそるように立てて左頬に寄せた。

「いやん。それは言いっこな・し・よ」

 狼男が内股になるのは、ものすごいギャップだ。

「ところでさっきデッサン中って言ってましたけど……?」

「だから、堅苦しいって言ったでしょ。ここじゃそういうのはなし。わかった?」

「え、ええと……うん。わかった」

 そう口にすると、上出来とでもいうように狼子はウインクをした。

「王子はたまに絵を描くのよ。そんなときはなに話したって殆ど上の空で全然聞いちゃくれないわ。挨拶は明日にした方がいいんじゃないかしら」

 モンスター・ランドの経営もキャストの仕事もして、その上絵も描くなんて、ずいぶん多才だと有栖は思った。しかし、挨拶を明日にするというのは願ったりだ。

「じゃ、そうしてもらおうかな」

「もう他の連中には会ったのかしら?」

「ゾンビの人には。骸っていう名前の」

「それなら、お城を案内してあげるわ。途中で他の連中にも会うでしょうし。ジャック、あんたも来る?」

「行くよー。それに元々、僕が有栖を案内してたんだし」

「そ。じゃ、有栖、行きましょ。そーね、まずはどこがいいかしらね?」

 言いながらも、狼子は歩き出した。

「あ、ちょ、ちょっと待ってっ!」

 慌てて有栖は彼女を引き止める。

「ん? どうしたのよ?」

「えーと、案内してくれるのは嬉しいんだけど、実はあたしまだここで働けるのか決まってなくて。招待状をもらって面接を受けに来たんだけど、迷ってる間に時間も過ぎちゃったし……」

「あら、そうなの? そんなの気にしなくてもいいじゃない」

「さすがにそういうわけには……」

「そ? 有栖は人間みたいなこと言うのね」

 これはまた役になりきっているのだろうか? 判断がつかず、有栖はひとまず当たり障りのないように答えることにした。

「そりゃ、人間だし」

「え? 人間?」

 狼子が素で聞き返してくる。心なしか、狼狽しているような反応だ。

「嘘……冗談でしょ?」

 びくびくしながらジャックが訊く。意味がわからず、有栖は頭を悩ませる。

「……あ、そっか。もしかして、モンスター・ランドだとみんな化け物だから、人間だっていうのは冗談になるってこと? そうでしょ?」

 そうに違いないと得意げに口にするも、狼子とジャックの反応は芳しくない。二人は無言で顔を見合わせている。

「あ、あれ? 違ったの?」

 狼子がじっと有栖を見つめてきて、深刻そうな口調で言った。

「有栖、もう一度訊くけど真剣に答えてくれるかしら?」

 なにがなんだかわからないが、ともかく、有栖はこくこくとうなずいた。

「あなたは本当に人間なの?」

「そうだけど……狼子さんだってそうでしょ?」

 言った瞬間、怯えるようにジャックが後ずさった。

「ど、どうしよう? 僕のせいだっ!」

「ジャック、落ちつきなさいよ。ただの悪戯かもしれないわ!」

 半ばパニックを起こしたかのように二人は叫ぶ。

「有栖、招待状をもらったって言ったわよね。見せてくれるかしら?」

「う、うん……」

 バッグから招待状をとり出し、狼子に差し出す。途端に彼女の顔色が変わった。

「そんな……!」

 狼子が切羽詰まった声を出す。そのとき、クロロが有栖の肩から飛び降りて、招待状を口に咥えた。

「あ、こらっ、クロロ」

 有栖が呼び止めるも、クロロは走り去っていく。

「クロロ待って。僕も行く!」

「有栖はここで待っていて。くれぐれもここにいなさいよ!」

 狼子はそう言い残し、ジャックとともに招待状を咥えた黒猫を追いかけていった。