プロローグ


 葉桜の季節に桜の樹を意識する人間がどれだけいるだろうか?

 猛暑の夏。

 春になれば自然と視界に入ってくるその桜の樹を、俺は一人で見上げていた。

 当時のことを思いだしながら……。

 頭に浮かんでくるのはいつも散り際の桜の樹の下で佇む彼女の姿だ。

 なんて桜が似合う女の子なんだろう、と最初は思ったけれど。

 それはもう過去の話だ。

 なぜなら……なぜなら今の彼女は――



     第一章


 本をめくる音くらいしか聞こえない図書室で、他のみんながそうするように読書に没頭していると、半分ほど開いた窓から桜の花びらが舞い込んできた。開いていた本の間に落ちたその薄ピンク色のひとひらは昼休みに降った雨のせいか湿っており、文字をにじませるほどではなかったがページの一部を濡らした。

 やべ――

 俺は慌てて花びらをつまみ上げた。読んでいたのは紙が黄色く変色した何十年も前の本だったが、やはり借り物の本は丁寧に扱いたい。

「――ねえ」

 ふぅふぅ、と俺が濡れた部分に息を吹きかけていると、背後からささやくような声がかかった。

「あなたにお願いがあるのだけれど」

「……お願い?」

 側に立っていたのは見知らぬ女子生徒だった。

 リボンの色は赤。ってことは俺と同じ新入生だな。

 だけど同じクラスではない。まだ清和台高校に入学して一週間とちょっとしか経っていないけど、これは断言できる。だってこんなにも存在感のある女子が同じクラスにいたら初日で気づくはずだから。その際立った容姿は、単純に美人と形容するのが正しいと思うけど、不思議と目を合わせていても照れを感じなかった。たぶん綺麗すぎて、美しい花でも眺めているような気分に陥っていたのだろう。

「お願いというのはこれよ」

 唐突に現れたその女子は、黒い髪を揺らしながら隣の席に腰を下ろし、手に持っていた紙束を長机の上――俺の目の前に置いた。

「読んでほしいの」

「……は?」

「これをあなたに読んでほしいのよ」

 黒髪の女子が指差したA4の紙束の一番上には「放課後の静寂」と書いてあった。柔らかい形のフォントで印字されている。

「何これ」と俺は紙束を見下ろしながらつぶやく。「まさかラブレター?」

「だとしたらたいそうな力作ね」

「ま……普通に考えて小説とか詩の類だよな。この紙束の量からいって前者か」

「正解よ。これはわたしが書いた短編小説」

「へえー。……って、ちょっと待ってくれ。俺にこれを読んでほしい? あんたの自作の小説を?」

 いきなりすぎる。そもそもどうして俺に頼むんだ? 面識もないのに。

「あなたにとっては唐突なお願いだったかもしれないけれど、これでも読者の選定には気を遣ったつもりよ。生半可な読書家には読んでもらいたくなかったから」

「その口ぶりだと俺が生半可な読書家ではなさそうに聞こえるけど」

「あなたここの常連でしょう? よく見かけるもの。失礼ながら、何度かあなたが読んでいる本のタイトルを確認させてもらったわ。たぶんこの学校の図書室にしかない蔵書をあさっているのでしょうけれど、随分とマニアックな本を好むのね?」

「ここには市の図書館でも扱ってない希少な本があるからな。正直な話、ここを進学先に選んだ理由の一つだよ。……まあ一番の理由ではないけど」

 この春、進学した清和台高校は、戦前からこの地にある歴史ある公立高校だ。図書室に俺みたいな活字中毒が好む蔵書がそろっているのはそのためである。図書室といったが校舎の中の一室ではなく、ここは独立した一つの建物だから正確には図書館と呼ぶべきなんだろうけど、この学校の生徒はみんな図書室と呼ぶ。たぶん市立図書館が近くにあるからそこと区別するためだろう。

「そういうわけだからお願い。読んで?」

「……ん、ああ」

 横から顔を覗き込む仕草に俺は一瞬ドキッとしたが、すぐに平静を取り戻す。

 なんつーか、えらく強引な子だな。口調とかも同年代っぽくないし、大人っぽいというか、妙に落ち着いているというか。この手のタイプとは初めて出会った。まあ正直言ってメッチャ絡みづらいわけだが……。

 でも、適当に俺をつかまえたわけではなくて、いろいろ調べた上で俺を読者に選んでくれたみたいだし、それを思うと悪い気はしなかった。

「本当に俺なんかが読者でいいのか?」

「ええ。見たところ暇そうだし」

「……なんかさっきと言ってること違わないか? あと俺、普通に読書中だから」

「そんな本、いつでも読めるじゃない。わたしの小説は今しか読めないわよ?」

「どんな理屈だ。ってか、今すぐ読め的な話なのかよ。持ち帰っちゃダメなのか?」

「可及的速やかに読んでほしいわ」

 なんて図々しい。ホント変な子。でも――だからこそ、なのか。この風変わりな女子が、どんな小説を書くのか、ほんの少し興味が湧いてきた。

 だけど安請け合いはよくない。

 こういうときまず気をつけるべきなのは――

「別に……読むのはかまわないけど」

「かまわないけど?」

「読んだあとのこと。ちょっとした感想を口にするだけでいいのか、それともきちんと批評してほしいのか。無条件に賞賛してほしい、ってのは残念ながらなしだ」

「きちんと批評して」

「即答だな」

「言ったでしょう。生半可な読書家には読んでほしくないって」

「それだけ本気ってことか。けど、いいのか? 俺はけっこう容赦ないぞ?」

「問題ないわ。むしろ望むところ」

 黒髪の少女はそう言って不敵な笑みを浮かべた。

 まるで俺が好敵手であるかのように。初対面なのにマジなんなのこのノリ?

「わたしは一年二組の桜庭祥子よ。一応、名乗っておくわ」

「なんだよ、一応って……」

「一応は一応よ」

 答えになってないぞ。

 んー、それにしても桜庭祥子ってどこかで聞き覚えが……。ああ、そうだ。うちのクラスの男子が噂していた。二組に飛び抜けて可愛い女子がいるって。その女子の名前がたしか桜庭祥子。なるほどな。この容姿なら騒がれても不思議じゃない。

「俺は五組の望月譲だ。もしかして名前も事前に調べてた?」

「いえ」と桜庭が首を振る。「ともかく……どうぞ。読んでちょうだい」

「可及的速やかに?」

「許されるのならば」と先ほどとは一転して真剣な顔で言う。

「……ま、別にいいけどな」

 スマホで時刻を確認するとちょうど午後五時を回ったところだった。ここは六時で閉まるけど、短編小説だっていうし、急いで読めば三十分もかからないだろう。

「じゃ、読ませてもらうよ」

 俺は改めてタイトルを確認すると、すぐに一枚めくった。

 正直、期待などしていなかったし、むしろ反応に困る素人丸だしの小説だったらどうしよう、という不安のほうが大きかったのだが――しかし、出だしの一文を読んだ瞬間、そんな考えは吹き飛んでいた。

 一文字、二文字……一行、二行……一頁、二頁……と読み進めていき――

 気づけば最後の一枚をめくっていた。

 A4用紙三十二枚の原稿を読むのにかかった時間はわずか十五分ほど。

 夢中で読んでしまった。ここが図書室で、隣に知り合ったばかりの女子が座っているということを忘れてしまうほどに。

「読んだ……わよね」

 桜庭の緊張した声が俺の意識を現実に引き戻す。

「もう一度読む必要ある?」

「いや」

 俺が首を振ってみせると、桜庭はさらに緊張した声で、

「じゃあ……。その、どうだった?」

 と感想を求めてきた。

 困った。どう返せばいいんだろう……。

 ジャンルは恋愛小説だった。幼馴染みの男女がすれ違いを経て結ばれる、ただそれだけの話で、あらすじにすると陳腐としか言いようがないほどありふれている。だけど文章に不思議な魅力があり、妙に引き込まれた。個性の強い文体ではないのだが、言葉の一つ一つがいろんな角度から俺の心に突き刺さって――つまり……その、平たく言ってしまえば文章がドンピシャで俺好みだったのだ。

 最後まで読み終えたとき、もうめくる原稿がないことを残念に思う自分がいて、軽い喪失感を覚えたくらいだった。

「ねえ、黙ってないで……なんとか言って――」

「震えた」

「……え?」

「心が震えたんだ」

 他に言葉が思いつかなかった。いや、言いたいことは山ほどある。流れるような淀みない文章が見事だとか、平易な言葉しか使われていないのに時々ハッとするような言い回しがあって思わずメモを取りたくなったとか――でも、そんな具体的な感想や批評の言葉よりも先に「震えた」という言葉が勝手に飛びだしてきた。

 たぶん俺は桜庭の書いた小説に心をかき乱されたのだと思う。だから整理された理性的な言葉よりも先に感情を示すシンプルな言葉が出てきたのだ。

「悪い。ちゃんとした批評はまた後日でいいか? なんかこう……上手く言えないんだけど、予想以上にすごい小説だったから……その、驚いてさ」

「面白かった……?」

「え、ああ。そうだな。面白かったよ。こんなにも心を揺さぶられる小説を読んだのは久しぶりかもしれない。プロの小説と比べても遜色ない……って、え?」

 俺は途中で言葉を失った。

 それまで凜とした表情を浮かべていた桜庭の目から大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。

 しかも、涙ぐむとかそういうレベルではなく、今にも泣き崩れるんじゃないか、と心配になるくらい涙があふれていて……。

 え、何? 俺、なんか変なこと言った? なんでこんな急に大泣きを。

 俺が動揺で固まっていると、

「……ごめん……なさい」

 と言って桜庭が口元を手で押さえたまま席を立った。そして髪をなびかせるようにして俺に背を向けると、逃げるようにして図書室の外に――

「ちょっと待…………っっっ! 痛っ!」

 去っていく桜庭の背中に手を伸ばしつつ、椅子から立ち上がろうとしたところ、膝を長机の裏にぶつけてしまう。おまけに左手で持っていた原稿を床にぶちまけてしまった。

「おい、大丈夫か?」

 すぐさま誰かが駆け寄ってきた。悶絶しながら声の主を見やると、担任教師であり数学教師でもある姫路桃子先生と目が合った。脇に分厚い本を抱えている。タイトルを見るに数学関係の本らしい。おそらくこの図書室にある希少な本なのだろう。

 男性教師さながらのビシッとしたスーツ姿の姫路先生は「膝を打ったのか?」と冷静に訊いてきた。

「い、いえ。平気です……」

 俺はなんでもない顔で席を立ち、床に散らばった原稿を拾い始めた。

 姫路先生は何も言わず、一緒に原稿を拾ってくれた。

「たしかうちのクラスの望月だったか? 間違っていたらすまん。まだ全員の顔を覚えきれていなくてな」

「いえ、合ってますよ。望月譲です」と軽く頭を下げながら原稿を受け取る。「すみません、助かりました」

「気にするな。それよりさっき図書室を出ていった生徒だが……」

 姫路先生が出口を目で示しながら言う。

 授業中もそうでないときも厳しい対応が目立つ先生なのでちょっと緊張した。

「泣いていたように見えたが、何かトラブルか?」

「トラブル、というわけでは」

「ではなぜ泣いていた?」

「それは……。その、正直言って俺にも彼女の涙の理由はわかりません」

「ふーん? はぐらかしているわけではなさそうだな」

 先生の表情がいくらか柔らかくなる。

「まあなんにしろ追いかけたほうがいい」

「……ですね」

 ふと桜庭の泣き顔がリフレインした。

 ホント、どうして突然泣きだしたんだろう。

 何が原因か知らないけど、もし俺のせいだとしたら……。

「入学早々、女泣かせの望月、なんてあだ名がついたら困るだろう?」

「はは……」

 お堅い先生だとばかり思っていたが、冗談も言える人らしい。

「先生、ありがとうございました。俺、行きます」

「そうしなさい」

 俺は再度、先生に頭を下げると、桜庭の原稿を持って図書室の外に飛びだした。



 本校舎に繋がる渡り廊下の真ん中で涙を拭いながら桜を見つめる少女が一人――

 声……かけづらいな。

 桜庭は校門まで続く並木道の桜が一望できる場所に立っていた。

 夕日をバックにたくさんの花びらが風で舞い散っている。

 もうどの木もほとんど花びらが残っておらず、昼休みに雨が降ったこともあって今日中に全ての桜が花を散らせてしまうのではないだろうか――そう思わせる物悲しい風景が目の前には広がっていた。

 どこかに移動する気配もないし、彼女が落ち着くまでここで待とう。

 そう考えた俺は図書室の入り口から、夕日に照らされた桜庭と、真っ赤に染まった世界を舞う桜の花びらを交互に観察した。

「……あ」

 そのうち桜庭が俺の存在に気づき、気まずそうに横目で視線を送ってきた。

 目が少し赤いが、もう涙は流れていない。

 そろそろ大丈夫か、と思い俺は桜庭にゆっくり近づいていき、

「これ……返すよ」

 と原稿を差しだした。

「ごめんなさい、取り乱してしまって」と桜庭が両手で原稿を受け取る。

「別に。謝らなくてもいいよ」

「はぁ……みっともない。人前で泣いたのなんていつぶりかしら……」

「いきなりだったからびっくりしたよ」

「わたしも驚いたわ。まさか自分がこんなにも涙もろい女だったなんて」

 そう言って笑顔を見せる桜庭。

「あのさ……」

「ん、何?」

「いや……やっぱいい」

 泣くほど嬉しかったの? そう訊こうと思ったのだが口にするのは躊躇われた。

 誰だって褒められれば嬉しい。だけどさっきの桜庭の涙はそれだけが理由とはとうてい思えなかった。憧れの作家に褒められたとかならわかるけど……。いや、それでもあんな号泣するほどのことではない気がする。やっぱり俺の発言に何か問題があったのか? 別に泣かすようなことは言っていないと思うんだけどなあ。

「望月君、ありがとうね。わたしの小説、読んでくれて」

「感謝したいのはこっちのほうだよ。俺を読者に選んでくれてありがとう」

「ふふ」

 俺の言葉を受けて桜庭が楽しそうに笑う。だけどその笑顔も長くは続かなかった。

「でさ。さっきも言ったけど、具体的な批評はまた今度でいいか? 次、会うときまでに考えをまとめておくから」

「ううん。残念ながらそれは無理な話よ」

「無理?」

「だって今度なんてないもの」

「え?」

「あ、勘違いしないでね。今のは、あなたみたいな人とはもう二度と顔を合わせたくないとか、あなたをわたしの小説の読者に選んだのは間違いだったとか、そういう意味ではないから」

「お、おぉ」

 あれ、どうしてだろう。仮定の話なのに微妙に傷つく。言い方の問題かな。

「じゃあ、どういう意味なんだ?」

「――忘れてしまうからよ」

 俺から視線を外し、宙を舞う桜の花びらを眺めながら彼女が言う。

「忘れてしまう……?」

 ますます意味がわからない。俺をからかってるのか?

「なんの話だ? 忘れてしまうって何を?」

 さらに問いを重ねると、桜庭が今度は俺を悲しげに見つめながら、

「……全て」

 と短く答えた。

 簡潔な回答なのにまるで意味の伝わらない言葉だった。

 さらに問いを重ねようか――

 そう思ったのだが、俺はそれ以上、なんの言葉も発せなかった。

 桜の樹を見つめる桜庭の横顔がとても切なそうで……。

 何も言えなくなってしまったのだ。


   ∞


 人間、過度に動揺すると変な汗が出るらしい。

 こんなにも心臓に悪い出来事は生まれて初めてかもしれなかった。

「ですから新入生のみなさんには何事もチャレンジ精神で……」

 一体どうなっているんだ――

 講堂に響く校長のしゃがれた声を聞きながら俺は状況の整理に勤しんでいた。

 だが額から流れる冷や汗のせいで上手く考えがまとまらない。

 ……おかしい。絶対におかしいぞ。

「我が校は戦前から続く、伝統を重んじる歴史ある学び舎でありまして……」

 校長の長話を聞くのはこれで二度目――

 まるで再放送のドラマでも視聴しているかのような気分だった。

 二度目というのは言葉通りの意味。

 俺にとって入学式はもはや過去の出来事で、今、自分がここにいること自体、何かの間違いとしか思えなかった。

 高校に入学してもう十日近く経っているはずなのだ。

 その記憶がたしかに俺にはある。

 全ての日を明確に覚えているわけではないけど、少なくとも放課後の図書室でどんな本を読んだのかくらいはちゃんと記憶している。

 図書室と言えば昨日は印象的な出会いがあった。もちろん桜庭のことだ。

 日付で言えば四月十八日のことである。

 ところが一晩経って目を覚ましてみるとそこに新しい日常はなくて……。

 俺は壇上の校長から目をそらし、自分の足元を見た。その汚れ一つない真新しい体育館シューズを見つめながら俺は異変に気づいた数時間前のことを思いだす。

 今朝――

 リビングに足を踏み入れると、母親が妙なことを言いだした。

「譲。お母さん、やっぱり仕事抜けられそうにないから、入学式は一人でお願いね」

「入学式? 何言ってんだ、母さん。入学式なんてとっくに終わっただろ」

「あんた寝ぼけてるの? ほら、顔でも洗ってきなさい」

 この時点ではなんだか変だなと思いつつも、母親の言葉を深刻には捉えていなかった。自分の認識と世界の認識に大きなズレがあることに気づいたのは「お母さん、先に行くからね」と母親が仕事に出ていったあと、トースターでこんがり焼いた食パンをかじりながら何げなく点けたテレビの天気予報を眺めていたときのこと。

 ――本日、四月八日の天気は――

 何かの間違いかと思った。四月八日? 今日は四月十九日だろ。

 放送事故ってやつか? 変なの。

 俺はリモコンを操作し、別のニュース番組に切り替えた。

 その後――

 すぐに、嘘だろ、とつぶやきまた別のチャンネルに。さらに番組を切り替え、切り替え、どんどん切り替え、全ての番組を青ざめた顔でチェックした。

 目の前を流れるのは見覚えのある過去の報道ばかり。

 日経平均の暴落、有名ミュージシャンの自殺、とある国会議員の失言問題――

 リモコンを放り投げたあとの俺の行動は素早かった。

 まずスマホで今日の日付を確認。ダッシュで部屋に戻り、ノートパソコンの電源を入れ、こちらもネットに繋いで日付を再確認。だが結果は同じ……。

 あらゆるメディアが同じ日を――四月八日という日付を示していた。

 何がどうなっている? なぜ俺は四月十九日ではなく四月八日にいる?

 いくら自問自答しても答えは出なかったが、通話履歴やメールのやり取りが四月八日以前しか見当たらないことや、最近ダウンロードしたはずのアプリが消失していることなど、次々と今日が四月八日である証拠が出てきた。

 極めつけは、俺が認識するところの昨日(四月十八日)の夕方、図書室の長机の裏にぶつけてできたはずの――

「あざが……ない」



 ――俺は過去にいるのか。

 入学式と始業式を終え、早めの放課後となった穏やかな昼下がり、考えごとをしながらふらふらと校内をさまよい歩き、気づけば図書室に続く渡り廊下から満開の桜を眺めていた。

 ここまで全ての出来事が過去に体験した記憶通りに進行している。

 よくある個人の体験にデジャヴというものがあるけど、あれは感覚としては一瞬だけのもの。それにあれは目の前で起きた出来事が経験するよりも先に脳に記憶されてしまい、まるで過去の体験であるかのように感じる錯覚の一瞬だと、何かの本で読んだことがある。もっとも事実かどうかは知らないけど。

 となるとこれは単なる記憶違いではなくタイムスリップってやつなのか?

 昨日――繰り返すが俺にとっての昨日とは四月十八日だ――は午前を回る前に寝てしまった。どの時点で過去に飛ばされたのかはわからないが、たぶん眠っている間に起きたことなのではないだろうか。

 ん、待てよ。飛ばされたといっても身体ごとじゃない……よな?

 小説などではよく身体ごと過去に飛ばされるパターンと意識のみが遡行するパターンがあるが、俺が体験したタイムスリップはおそらく後者だ。前者だったら過去の自分と遭遇するはずだし、実際、目を覚ましたとき、ベッドで寝ていたのは自分一人だけだった。消えたあざのこともあるし、これはたぶん間違いない。

 意識のみが過去に送り込まれるってことは要するに……って、やめやめ。

 フィクションで得た知識を現実に当てはめるのは危険だ。そもそもまだこれがタイムスリップの類だと決まったわけではないんだし。でも……。俺には四月八日から四月十八日まですごした記憶があるわけで。これを一体どう説明すればいい?

 ったく、なんでこんなことに……。

 俺は満開の桜を眺めながらもはや何度目かもわからないため息をつく。

 そういえば昨日見た桜はもう散り際だったっけ。

 昨日というのはもちろん四月十八日のこと――

 そのとき俺の脳裏に夕日をバックに舞い散る桜の花びらを見つめる桜庭の横顔が再生された。と同時に彼女が去り際に発した意味不明な言葉も。

 ――だって今度なんてないもの。

 ――忘れてしまうからよ。

 ――全て。

 もしかしてあれは予言だったのか?

 桜庭とのやり取りを思いだす。そして考えた。彼女が何を言わんとしていたのかを。だが考えれば考えるほどわからなくなった。だって俺は何も忘れていない。昨日のことを――四月十八日のことを克明に覚えている。

「……ん?」

 校舎に引き返していると、背後で気配を感じた。図書室側からだ。

「あっ」

 振り返ると、そこに桜庭祥子の姿があった。

 夕日と桜と彼女の涙……。

 俺が記憶するところの昨日の光景が脳裏で自動的に再生された。だってそこはまさに桜庭が涙を拭いながら桜を見上げていた場所だったから。

「――桜庭」

 ほとんど無意識のうちに声をかけていた。

 そして、引き寄せられるように黒髪の少女のほうへ。

 だが途中で肝心なことに気づく。

 ……って、何を気軽に話しかけてるんだ。俺は今、過去にいるんだぞ?

 桜庭と知り合ったのは四月十八日の夕方のことで、この時点ではお互い面識がなかったわけだから……。

「ねえ? どういうことなの?」

 やべ、なんかよくわかないけど怒ってるよ。こっちメッチャ睨んでるし。

 よ、よし。ここは一つ、適当に謝って退散しよう――

「あなたがこの時間にこんなところにいるはずがないわ」

「…………は?」

「ねえ、ここにいるのはあなたの意志? それとも誰かに呼ばれてここに来たの?」

 桜庭はそう言いながらどんどん近づいてきて俺の目の前で立ち止まった。

「さっきからなんの話を……」

「質問を変えましょう」と桜庭が俺の返事も待たずに喋りだす。「あなた、もしかして昨日のこと覚えている? わたしと図書室で出会ったこと」

「そりゃ……もちろん覚えてるけど」

「覚えているの?」

「ん? えーと……あ、あれ?」

 思わずナチュラルに答えを返してしまったが、すぐに桜庭の問いかけの不自然さに気づく。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。昨日って……四月七日のことじゃないよな?」

「そうね」と桜庭は相変わらず怒ったような顔で、「わたしが話しているのは四月十八日のことよ」と言った。

「えっと、つまりどういうことだ?」

 再び疑問で返すが、桜庭からはなんの言葉も返ってこない。

 しかも、言うだけ言ってこちらに背を向けてしまった。

 なんなんだ、この雑な対応。

 俺が肩をすくめていると、桜庭が背中から不機嫌オーラを発したまま、

「……ついてきなさい。答えが欲しければ」

 と言って黒い髪をなびかせながら校舎のほうへ歩を進めた。

 俺はすぐにあとを追った。迷いはあったが今の俺には彼女に従うほかなかった。

 道中も桜庭は多くを語らなかった。いや、何も語らなかったと言うべきか。一方の俺は疑問だらけというか、疑問しかなかったので、矢継ぎ早に質問を飛ばした。

「昨日、妙なこと言ってたよな?」とか「まさか桜庭も未来から?」とか「どこに向かってるんだ?」とか他にもあれこれ口にし、質問攻めにした。

 だが俺の疑問は全て黙殺された。というかなぜか睨まれた。

 結局、桜庭は目的地につくまで終始不機嫌で、昨日とはまるで別人のようだった。



「ここよ」

「歴史研究部?」

 扉の上のプレートにはそう書いてあった。

 桜庭に連れてこられたのは文化部の部室が並ぶ部室棟の一角だった。

「俺らの置かれた状況と歴史研究部にどんな関係があるんだ?」

「中に入ればわかるわ」

 冷たく言い放つと、桜庭はおもむろに扉を開けた。

 そして――

「さようなら」

 そうつぶやいたあと俺の背後に素早く回り込み、勢いよく室内に突き飛ばした。

「ちょ、何すんだよ……!」

 ――ピシャリ。

 直後、扉が閉まった。桜庭が閉めたのは言うまでもない。

「ん、一年生のようだね。お客さんかな?」

「……えっと……」

 室内には四人の男女がいた。

 一人はいかにもモテそうな顔立ちの男子で、パイプ椅子に腰かけ優雅な佇まいでコーヒーを飲んでいた。残る三人は全て女子。窓際で談笑していたようだが、俺の存在に気づくと、値踏みするかのような視線をこちらに向けてきた。

「キミ、名前は?」

 唯一の男子が落ち着いたトーンの声で訊いてきた。

「一年五組の望月譲です」

「今、チラッと見えたけど、もしかして桜庭祥子さんの案内でここに?」

「そうですけど……」

「へえ、それはそれは。珍しいこともあるものだね」

 イケメン男子が驚くような感心するような表情を浮かべると、

「マジで~」「あの鉄の女が?」「冗談きつい」

 と窓際の女子三名がゲラゲラ笑いだした。いずれも俺が苦手とするタイプの女子だということがその笑い方だけでわかった。

「あの……俺はどうすれば」

「桜庭さんは何か言っていた?」

「ついてくればわかる、と。詳しい説明は何も」

「丸投げか。彼女らしいな」とイケメン男子が微笑む。「望月君だったね。どこでもいいから適当にかけて。あ、そうだ。誰か彼にコーヒーを淹れてあげて」

「はーい」

 女子生徒の一人が部屋の隅に置いてある電気ポットの前に駆けていく。

 そのときになってようやく目の前の男子生徒が三年生で、他の女子も上級生だということに気づく。女子は三人とも二年生だった。

 うちの学校、男子はネクタイの色、女子はリボンの色で学年がわかるようになっている。一年生は赤、二年生は緑、三年生は青だ。来年、三年生が卒業すると、入れ替わりに入ってくる新一年生に青があてがわれる。

「どーぞ」

「ども」

 俺がパイプ椅子に腰を下ろすと、そのうち目の前にコーヒーの入ったカップが運ばれてきた。ほら遠慮しないで飲んで飲んで、と茶髪の先輩が俺を急かすので、一礼してからカップを口元で傾けたのだが、その直後、異常な苦味が口の中に広がった。

 ちょ、なんですかこのコーヒー? 砂糖なしのブラックコーヒーなのはわかりますけど、それにしたってちょっとありえない苦さなんですけど……。

「じゃあ、うちらはこれでー」「お先に失礼しまーす」「後輩君、またねー」

 女子の先輩たちは一、二分くらい異常な苦さのブラックコーヒーに苦戦する俺をニヤニヤ笑いながら観賞していたが、そのうち荷物をまとめて部室を出ていった。

 残されたのは男二人だけ。

「望月君。表情から察するに砂糖が欲しいんじゃないのかい?」

「あ、はい……。実は」

「すまないね。彼女たち悪気はないんだが」

「……ああ。やっぱり意図的にこんなコーヒーを」

「お客が後輩だとわかると、いつもこれをやるんだ。最初は単なるブラックコーヒーだったんだけど、平気な人も多いからってことで倍の濃さのコーヒーを淹れるようになってね。最近はお客が後輩で男子だった場合、三倍に設定しているようだ」

「三倍……」

「すまないね。でも、怒らないであげてほしい。緊張をほぐしてあげようという彼女たちなりの配慮だと思うから。砂糖はこれ一本でいいかな?」

 先輩が席を立ち、ポット脇の棚からスティックシュガーを一本手に取る。

「できれば二本お願いします……。あと可能ならミルクも」

「はいはい」と先輩が追加の砂糖とコーヒーフレッシュを手に取る。「そういえば自己紹介がまだだったね。僕は三年の佐々木陽介。所属クラスは……まあ細かいことはいいか。今、キミにとって大事なのはコーヒーに入れる砂糖とミルクだろうし」

「いやいやいや……」

「冗談だよ」

 佐々木先輩はスティックシュガー二本とコーヒーフレッシュ一つ、それからコーヒースプーンを俺に手渡すと、再び長机を挟んだ向かい側の椅子に座った。

 改めて先輩の顔を見る。

 初見でも思ったがどこからどう見てもイケメン。けっこう身長はあるようだけど、柔らかい顔立ちのせいか威圧感はまったくない。髪はやや長め。色は明るくサラサラしている。女子に目つきが悪いとか、髪メッチャ剛毛だねとか言われる俺とは正反対の女子ウケのよさそうなフェミニンな外見をしている。

「じゃあ、さっそくだけど本題に入ろうか。キミも早く説明が欲しいだろう」

「お願いします」

 俺はカップに砂糖とミルクを放り込むと、かき混ぜもせずに先輩に視線を合わせた。

「さて。本題に入ると言っておきながらなんだけど、まず一つ確認しておきたいことがある。キミは――未来からやってきた。覚えているのは四月十八日の夜まで。異変に気づいたのは今朝。これは合ってる?」

「……は、はい。合ってます。でも、どうしてそれを?」

「僕もキミと同じだからだよ」

「え、じゃあ……先輩も未来から?」

「その通り。まあ、そのあたりの事情についてはあとで説明するとして……」

 先輩は一旦、言葉を切ると、「順序よくいこう」と言って話を続けた。

「キミは四月十八日から四月八日に飛ばされた。記憶を保持したまま意識のみが。身体は間違いなく過去のものなんだ。髪を切ったはずなのに切る前の状態に戻っていたり、怪我が治っていたり……もちろん治ったわけではなく、怪我をしていなかったころの自分に戻ったからなんだけど、とにかく僕やキミが経験したこのタイムスリップは意識のみが過去に送り込まれる――いわゆるSF作品などで言うところのタイムリープという現象だと思われる。他にもいろいろ呼び方はあるみたいだけどね」

「やっぱり意識だけが……」

 これは俺の想像していた通りだった。もう一人の自分がいないことや、膝の青あざが消えていたのが何よりの証拠だ。

「さて。ここで望月君に質問だ。このまま日常をすごし、時間が流れていくとどうなるのか。……どうなると思う?」

「どうなるって。その言い方だとまたよからぬことが起きそうな気が……」

 思ったままを口にすると、

「察しがいいね。その通りだよ。このまま時間が経過すると――」

 と言ったあと、先輩が鋭い眼差しでこう告げた。

「繰り返すことになる」

「繰り返すことになる?」

 先輩が発した言葉をそっくりそのまま疑問形で返す。

 今日はこんなのばかりだ。俺はオウムか。

「繰り返すって……また過去に飛ばされるってことですか?」

「具体的に言おう」と先輩がなめらかな口調で説明する。「今後もキミは四月十九日を迎えることなく、規定の時間になったら何度でも過去に――四月八日に飛ばされることになる。要するに四月八日から四月十八日までの一定期間を何度もループすることになるんだ」

「ループする……?」

「そう」と先輩が真面目な顔で頷く。「時折、現れるんだ。キミみたいにループの中に放り込まれる生徒が。放り込まれるといっても、身体ごとではないから、正確には『ある日突然、意識のみがループするようになる』だね。とにかく一度ループの中に囚われると、四月八日から四月十八日までの十一日間を本人の意思とは無関係に何度も繰り返すようになる」

「なんと言うか、ちょっと現実味が……」

 なんの前触れもなく意識のみが過去に飛ばされる、というだけでも一大事なのに、それが今後何度も起こると言われても、荒唐無稽すぎて実感が湧かない。

 時のループ? 何度も繰り返す?

 まさかそんな突拍子もない現象が起こりえるなんて……。

「そして、最初に言ったように、僕はキミの同類。いや、僕だけじゃない。キミをここに連れてきた桜庭祥子さんもそうだし、さっきまでここにいた女子たちも同じ」

「……え?」

「この歴史研究部に出入りしている人間はだいたい二十人前後……。その全員がループ現象に悩まされているんだ。みんなキミのお仲間なんだよ」

「に、二十人前後……!?」

 それだけの数の人間が一定期間をループしている?

「うん。素直な反応だ」

「いくらなんでも多すぎませんか?」

「何をもって多すぎると言っているのかはわからないけど、事実、それだけの人間がこの世界に迷い込んでいるからね。嘘はついていないよ」

「……や、その、疑っているわけではないんですけど……」

「ちなみに僕は今回で十九ループ目。さっきの子たちも僕ほどではないけど、すでに何度かループしているはずだ」

「十九ループ!?」

 えっと、一ループが十一日だから、かける十九で――二百日くらいか?

「なんか……すごいですね」

「望月君だってすでに一ループしているんだよ?」

「え? あ、ああ……そうか」

 言われてみればそうだ。四月八日をループの開始地点と考えれば、俺はそこに戻ってきたことになる。つまりすでに二周目に突入しているのだ。

「もう一度ループすれば実感が湧いてくるよ。ループの中にいるっていう実感がね」

「そういうもんですか」

「もしもこれが一度限りのことなら、みんな記憶違いですませてしまうと思うんだ。白昼夢でも見ていたのかもしれないと結論づける人もいるかもしれない。でも、これがもう一度起きたら? しかも、同じような状況下にいる人間と出会ったら?」

「そうなったら、もう夢とは思えなく……なりますね」

 そうか。二度、三度と同じことが繰り返し起きれば、それはもう現実と言わざるをえなくなる。先輩が、もう一度ループすれば実感が湧いてくるよ、と言ったのはたぶんそういうことだ。

 でも――

 先輩の話は理解できたが、一気に情報が流れ込んできたせいか、心が酷くざわついていて、未だ落ち着く気配はない。俺は、ふぅ、と息を吐きだしたあと、気持ちを落ち着かせようとコーヒーを飲もうとしたが、

「あ……っ!」

 カップを上手く握ることができず、コーヒーを盛大にこぼしてしまった。

「大丈夫かい?」

「へ、平気です……けど」と俺は机の上に広がった黒い液体を見下ろす。

「はい、これを使って」

 先輩が持ってきた箱ティッシュを使って二人でこぼしたコーヒーを処理する。

「身体や衣服にかからなくて幸いだったね」

「すみません……ボーッとしてました」

「新しいコーヒーを用意しよう」

「や、でも……」

「遠慮しないでいいよ。僕も飲みたいんだ」

「じゃあ、お願いします」

 そう言って頭を下げると、先輩がほぼ空のコーヒーカップを持ち上げた。

「今度はちょうどいい濃さのコーヒーを淹れるから」

 笑顔で準備に取りかかる先輩。なんだか楽しそうである。

 きっともともと穏やかな性格の人なんだろうけど、しかし――

 佐々木先輩のこの異様な落ち着きっぷりはどういうことだろう。

 一定期間をループするってことは通常の時間軸に戻れないってことだよな? いくらなんでも呑気すぎると思うんだけど。最初にいた女子の先輩たちもまるで緊張感がなかったよなぁ……。何度もループしていると感覚が麻痺してくるのかな?

「さて、話を続けようか」

 先輩が同じデザインのカップを二つ並べ、パイプ椅子に腰を下ろす。

「現在、このループに囚われているのは最初に言った通り二十人前後。――いや、曖昧に言う必要はないね。キミを含めて二十人いるはずだ」

「二十人……。きっちりその数なんですか?」

「うん」

「あれ? でも、俺が入ってきたことで一人増えたはずじゃ?」

 人が増えたのに人数が固定というのはおかしい。

「いい指摘だ。だいぶ落ち着いてきたようだね」

 先輩はまるで俺の質問を予期していたかのようだった。

「答えは簡単。キミが入ってくる直前にここを出ていった人間がいるのさ。誰かが出ていけば必ず別の誰かが入ってくる。二人出ていけば二人、四人なら四人。決まって同じ数だけ補充されるんだ。だからこの二十という数は不変なんだよ」

「同じ数だけ……」

 そういう仕組みなのか。って、待てよ。出ていった人間がいるだって?

「そ、それってここから出ていく方法があるってことですか?」

「その通り」

 そっか……。ちゃんとあるんだ。何度もループするっていうから永遠に出られないのかと思った。でも、だからか。先輩が落ち着いているのは。

「それでどうすればここから出ていけるんですか?」

 俺がそう訊くと、湯気が立ち上るコーヒーカップを先輩が口元で傾けた。

 その後、ふぅ、と息をつき、急に真面目な顔つきになった。

「望月君。ここから先は特に大事な話になる。心して聞いてほしい」

「は、はい……」

「ループから抜けだす方法――」

 先輩はそう言うと一呼吸置いた。

 ごくり、と俺が唾を飲み込むと、次の瞬間、先輩が口を開き、

「――それは恋だよ」

 と真顔で言い放った。

「…………………………はい?」

 パイプ椅子から転げ落ちそうになる。古臭いコントみたいに。

 そんな俺を嬉しそうに見つめながら先輩が補足を加える。

「同じ境遇の誰かと恋愛関係を築くこと。それが脱出の条件なんだ」

 え、それって恋人を作らないとここから出られないってこと? マジで?

「恋愛が成就した二人は次のループから外れることになる。そして、二人出ていけば必ず新たに二人、ループの中に入ってくる。二組出ていけば四人だね。今回、直前に出ていったのは一組だから、入ってくるのは二人。一人は望月君、キミだね。もう一人、女子が一人入ってきているはずだけど、残念ながらそれが誰なのかはまだわかっていない。望月君みたいに初日で判明するケースは決して珍しくはないんだけど、発覚が遅れるケースもけっこうあって――」

「……えーと」

「どうしたんだい、望月君?」

「いや……その」

「もう一度言ったほうがいいかい?」

「……それは大丈夫です」

「信じられないかもしれないけど全て本当の話だよ。先々、実際にループを出ていくカップルを目撃することになるだろうし、そうなったら嫌でも信じるようになる」

「あ、いえ。先輩の言葉を信用していないわけではなくて……」

「ふむ。もしかして『そんなことかよ』って拍子抜けしたのかな?」

「そんな感じです……」

「これを明かすとだいたいの人は望月君みたいな反応をするね。脱力したり、呆れたり。あとは笑いだす人もいる。一番困るのが頑なに信じない人。ある種の現実逃避なんだろうけど、そういう人を納得させるにはとにかく時間をかけるしかない」

「もしかして佐々木先輩はいつも新しく入ってきた人にこうやって説明を?」

「そうなんだ。いつの間にかそういう役回りにおさまってしまってね。今、言ったように脱出のキーワードは恋愛だから、キミみたいな新入り君をぞんざいに扱うわけにはいかないんだ。恋愛対象はループの中にいる人間に限られるから。つまり入ってくる人たちはみんな大事なお客様ってわけだ。もっとも僕は男だから今回に限っては損な役回りだけど」

 そう言って先輩が楽しそうに笑う。嫌味のない人である。俺は昔から年上の、特に男の先輩というものが苦手で、会話が続かないというか、間がもたないのだが、この先輩となら何時間でも話していられそうな気がする。

「もう察しているかもしれないけど、この歴史研究部に出入りしている生徒はループの関係者であってここの部員ではないんだ。この部はもともと幽霊部員の巣窟でね、活動らしい活動はまったくしていないから空き部屋同然になっているんだよ。ちなみにここがループ関係者のたまり場になっているのは、ループ期間中に他の生徒や教師に見つかったり、咎められる心配がないことがわかっているからなんだ」

「安全地帯を間借りしているわけですか」

「もうずっと前からそうみたいだね」

「具体的にはいつごろからなんですか?」

「それは……今となってはもう誰にもわからないよ」

「わからない?」

 どんな問いにも明確に答える、なんでも知っていそうな先輩が初めて首を横に振った。

 どういうことだろう。誰にもわからないって……。

「これはあらゆることに言えるんだけど、たとえばループがいつから始まったことなのか、恋愛が脱出の鍵だということを最初に突き止めたのは誰なのか、歴史研究部というコミュニティができたのはいつのことなのか、なぜ清和台高校の生徒だけがこんな不可思議な現象に巻き込まれるのか……これらの疑問に答えられる人間はもはやループの中に残っていないんだ」

 残っていない――

 俺は先輩の言わんとしていることをようやく理解した。

「そうか……。恋が叶うと、みんなここから出ていってしまうんだ」

「まあなんと言うか、部活の代替わりと同じだよ。何代も前の部のことなんて知りようがないだろう?」

「わかりやすいたとえですね、それ」

「何事も正確に伝えればいいというものでもないようでね。この手のたとえ話はたくさん用意してあるんだ」

 そっか……。佐々木先輩は今回だけではなく、もう何人もの新参者にループの仕組みを解説しているんだ。理解が早い人、遅い人、理系の人間、文系の人間――きっと様々なタイプと接してきたはずだ。今の形に落ち着くまでに、一体どれだけの苦労があったことか。それを思うと、自分のことではないのにため息が出た。

「望月君。僕の話にわかりにくいところはなかった?」

「いえ」と俺は即座に首を横に振る。「驚くことは何度もありましたけど、説明そのものはスムーズでわかりやすかったです」

「それはよかった」

 先輩が満足げに頷く。

「うーん、みんな望月君みたいに理解が早ければ、僕も楽ができるんだけど……。まあ、それはともかく……僕が知っているのはこの程度。口頭で説明したから抜けがあるかもしれないけど、しばらくすごせば人伝いにいろんな情報が耳に入ってくると思う。本当は文書にまとめて、それを読んでもらうのが一番いいんだろうけど、ループの性質上、形の残るものは次のループに持ち越せなくてね」

「……なるほど」

 情報は全て人からの伝聞。記録を残すことができない以上、人の口から伝わった知識や情報を頼りにするしかない。つまり、文字という概念がなかった時代における口頭伝承とか口碑伝承みたいなやり取りがここでは基本なのだ。ネットで検索すればたいていの情報が手に入ってしまう現代人の俺たちにとっては馴染みのない習慣だ。

「そういう意味では歴史研究部というコミュニティが果たす役割は大きいよ」

「ですね。自力じゃ気づけないことも多いでしょうし」

「もっとも、基本的なルールを把握してしまえば、あとは恋愛に没頭するだけなんだけどね」

「となると、みんながここに集まるのは主に恋人探しのため……」

「うん。だから重苦しい雰囲気はまったくない。人によってはここでの生活を満喫しているフシすらある。それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないけど」

「満喫ですか……」

 そんな人もいるんだな。俺はたとえ何度もループを体験し、ループ内での生活に慣れたとしても、そんな気分にはなれないと思う。俺にとって恋愛というものは誰かに強制されて「じゃ、やります」と軽いノリで臨めるものではない。

「難しい顔をしているね」

 俺の心の内を察したのか、先輩が優しい口調で言った。

「望月君。ループの中でどうすごすかはキミの自由だよ。この部室に顔を出すのだって強制ではない」

「でも、みんなここに出入りしているんですよね?」

「そんなことはないよ。だいたい全体の半数くらいかな。キミをここに連れてきた桜庭さんなんか普段は寄りつきもしないよ」

「そう……なんですか」

「それにキミはループの中に迷い込んだばかりだ。あまりかまえず、気持ちが落ち着くまでのんびりすごすことをおすすめするよ」

 先輩の言葉を聞いて少し気が楽になった。きっと誰に対してもこういうアドバイスをしているんだろうけど、この人の口から出てくる言葉にはわざとらしさがないし、上級生にありがちな上から目線のエゴもない。大人だな、と思う。

「さて、今日はこれくらいにしておこうか」

 そう言って先輩が制服のポケットからスマートフォンを取りだす。

 連絡先を交換し合うのかと思ったら、

「うん。そろそろ望月君にお迎えが来るころだね」

 とスマホの画面を眺めながら微笑した。

「お迎え?」

「実は、望月譲という生徒がループの中に入ってきたらすぐに知らせてほしい、とある人に頼まれていてね。キミが最初のコーヒーを飲んでいるときに『三十分ほどしたら部室に来るといい』とメールを打っておいたんだ」

「ある人って……俺の友達ですか?」

「ああ」と先輩が嫌味のない口調で、「女の子だよ」と言った。

「――じょ、女子」

 直前に部室に集まる人たちの主目的が恋人探し、という話をしていたせいか、俺の脳裏に浮かんできた女子の顔は、必然的に一人に限定された。

 その女子とは、同じ中学出身で、バスケ部のキャプテンを務めていた、真面目だけどどこか抜けたところのある、ポニーテールの似合う……俺の想い人。

「こんにちはー!」

 扉が開き、明るい声が室内に響き渡ったのはそのときで。

「あー! 本当にユズいるしー!」

「お前は……」

 扉を開けたのは先輩が言うように女子だったが――

 現れたのは俺が想像していた人物ではなかった。

「あかり。よりによってお前かよ」

「え、何? なんでガッカリしてるの? 酷くない?」

 西沢あかり。

 やってきたのは俺のことを「ユズ」のアダ名で呼ぶ、腐れ縁の幼馴染みだった。


   ∞


「え? 佐々木先輩ってうちの学校の生徒会長なのか?」

「なんで気づかないかなー」とあかりが先に電車に乗り込み、空いている座席に腰を下ろす。「入学式二度目でしょ? 会長、挨拶してたじゃん」

「だった……かな」

 隣に座り、膝の上に荷物を置く。

 放課後、午後五時、六時くらいになると車内はそれなりに混み合うが、今日は学校が午前中で終わりだったので、そのあと歴史研究部に立ち寄ったものの、まだ夕方前なので人はまばらだった。

「俺、出席番号後ろのほうだし、視力もそんなによくないから、顔なんてぼんやりとしか認識できないからなぁ。部室では緊張でそれどころじゃなかったし」

「そっかそっか。まー、初日だもんねー」

「あかりのときはどうだったんだ」

「初日のこと?」

 ああ、と頷きを返すと、あかりが半笑いでこう言った。

「あたしはねー、超泣いた」

「……泣いた?」

「だって、朝起きたらなんでか知んないけど過去にいて、でもそれに気づいたり変に思ってるの自分だけっぽいし、もうわけわかんないじゃん? 入学式には出たけど、そのあと教室に戻ってるとき急に不安になってきて、わー、ってなっちゃって廊下のど真ん中で号泣」

「お前、昔から泣き虫だもんな」

「うっさいなー」

「で? 号泣して、そのあとは?」

「颯爽と会長が現れてあたしを抱きしめてくれた……」

「なんだって?」

「……わけもなく、普通に『大丈夫?』って泣き崩れるあたしを支えてくれて。まあそこからはユズと同じパターン。部室で説明を受けて……でも、あたしバカだから日が暮れるまでかかっちゃって……はぁ。頭の悪い質問ばっかで申し訳なかったなぁ」

「なるほど」

 容易に想像がついた。あかりとは小学生のころからの付き合いだから、時のループに巻き込まれようと、予知能力を授かろうと、殺人事件の容疑者にされようと、その後の展開を思い浮かべるのはそう難しいことではない。

「んー、もうちょっと会長とお話ししたかったなー」

「お前……まさかとは思うが」

「あ、ユズわかる? ピンときた? わかっちゃった? ねえ、わかっちゃった?」

「何そのリアクション。うざ……」

 俺の幼馴染みは子供っぽく、愚直で、泣き虫で――

「ふっふっふ。あたしは会長の心を射止め、そして二人でこの不毛な無限ループから出ていくのだー!」

 でも――

 この素直で真っ直ぐなところは武器だ。俺は恋愛に関しては奥手もいいところなので、あかりみたいに何も考えずにストレートを放れる人間が正直羨ましい。

「だからさー、ユズー。あたしと会長が上手くいくように協力してくれよー」

「お前が狙う相手ってたいていスペック高いよな」

 あかりは昔からこう。好きになるのは決まって年上のイケメン。中学のときも、将来の日本代表だと騒がれていたサッカー部のエースだとか、芸能界にスカウトされたことがあると噂されるアイドル顔の先輩だとか、今回みたいな落ち着いた雰囲気のフェミニンタイプにも弱い。結局、告白には至らず遠くからキャーキャー眺めているだけのことも多いが、何度か告白したことはあったはずだ。ただ残念ながら思いが通じたことはなかった、と思う。俺の知る限りでは。

「今回は勝算あるのか? 会長さん、いかにもモテそうな人だし、競争激しいんじゃないのか?」

 大人っぽい性格に加え、あの容姿だ。あの爽やかすぎるほど爽やかな顔立ちは世の多くの女子の心を射止めるに違いない。

「と思うんだけど、けっこう長くループの中に留まってるみたいだし、特定の女子と仲がいいってわけでもなさそうなんだよねー」

「そうなのか? あー、そういや佐々木先輩、今回で二十ループ目前だって言ってたし、相手がいるならとっくに出ていってるはずだよな」

「そーそー。だからあたしにもチャンスあるんじゃないかなって。あ、言ってなかったけど、あたし、今回で四ループ目だから。ユズより二周だけ先輩だね」

「二周程度で先輩面されても」と俺は肩の力を抜く。「しっかし、まさかお前とこんな状況で遭遇するとは思わなかったぞ。腐れ縁、ここに極まれりって感じだな」

「あっはっはー。三瀬ちゃんじゃなくて残念でしたー!」

「…………それを言うな」

 三瀬――フルネームは三瀬佳織と言う。

 会長が「女の子だよ」と言って真っ先に思い浮かべた人物である。

 言うまでもなく俺の想い人だ。中学三年の夏休みからずっと心の中で想っている相手だが、今に至るまで想いを告げたことはない。去年の秋、志望校が同じだと知って「同じ高校なら上にあがってもチャンスが……」という慢心が俺の中に生まれたこともあって、未だに友達以上の関係には発展していない。もし俺か三瀬が清和台に落ちていたら春休みあたりに告白していたかもしれないが……。

 そうはならなかったので現状維持が続いている。

 もっともいい意味での現状維持ではない。ああ、俺って不甲斐ない。

「あ、ほら、暗い顔しないのー」

「暗くもなるわ……」

 ループの中にいない相手と結ばれてもループを脱出することはできない。あかりのような同類と恋愛関係を築くことでしか元の時間軸には戻れないのである。

 会長やあかりによると「恋愛の成就」とはお互いの気持ちが通じ合った状態、つまり両想いであることが確認できた状態を意味するらしい。口先だけで「好きです」と言って相手が「私も」と心にもない返答をしても、それはなんの意味もなさないのだという。もちろん片方だけでも無意味だ。また、たとえ好き合っていたとしても、それを言葉にして確認していない状況では、脱出の条件を満たしているとは言えないらしい。たとえばループを訪れる以前からカップルだった二人がいたとしても、ループの中で改めて気持ちを確認し合わないと脱出は不可能なのだとか。過去、実際にそういう事例があって、それで判明したことなのだと、佐々木会長が言っていた。

 そして――

 三瀬は……俺の好きな人は、こちら側にはいない。

 この世界に存在はしているが、ループのことは認識していない。

 だとすれば俺は――

「よし、ユズー。景気づけに肉いこー。お肉、肉肉ー!」

「また唐突だな。今夜か?」

 あかりはいつもこんな調子なのでいちいち驚いたりはしない。

「うん。しかもあたしのおごりだよ? ちなみにお店は川渡駅の西口近くにある高級焼肉店『アカザワ』を予定しております! 閣下!」

「誰が閣下だよ。ってか、大丈夫か? あそこ、食べ放題とかないし、控えめに食べても一人一万は見ないと厳しいと思うけど」

 以前、家族で食べにいったときは一人頭一万五千円くらい取られたと思う。

「ふっふっふ、ユズはわかってないなー」

「なんだよ、その微笑み。俺が何をわかってないって?」

「いいかね、望月君?」

 あかりがわざとらしい口調とともにメガネのズレを直す――といってもこいつはメガネなんてかけていないから真似だけだ。そもそもあかりは頭脳派って柄じゃない。スカート短いし、髪も若干染めているし、通学用のカバンにはファンシーなアクセサリーがじゃらじゃら。これで日サロなんかで肌を焼くようなことがあったら、今後の付き合いを考えなければならないが、肌は幸いにして天然のままだ。

「――我々は無敵なのだよ」

「無敵? なんの話だ」

「だーかーらー」と早くも頭脳派キャラが崩壊し、頭の悪さを爆発させる。「お金を使うとなくなります。でもループすると、あら不思議! 使ったはずのお金が財布に復活しているではありませんか!」

「あ、そうか……」

 ループするということはあらゆる状況が過去の状態に戻ることを意味する。

 保持されるのは俺たちの記憶だけだ。

 ここから脱出することを考えなければ何度でもループを繰り返すわけで、それは言い換えるならほぼ無限にやり直しが利くということ――ゲームみたいにリセットが可能だということだ。

「このループの性質を利用すれば財布の中とか貯金の額とか気にせず、なんでも買えちゃうってわけ」

「なんでも……」

「ユズだったらやっぱり本かな?」

「今なら百巻以上続くあのシリーズだって買えるのか……!」

「余裕余裕」

 何が無敵だよ、と思ったが――本当に無敵じゃないか!

 すげぇ、マジすげぇ。

 あかり並みに頭悪い表現だけど、もうそれしか言えない精神状態だわ。

「ふふ」

「はは」

 俺たちはひみつ道具を手にし、悪知恵を思いついたのび太君の気持ちで微笑み合った。傍から見るとマヌケな光景だったと思う。

「あかりはどうせ服ばっか買ってるんだろ」

「にしし。まーね。普段、手を出せない高級ブランドも買いまくりよ。ループすると手元から消えちゃうのが難点だけど、買いたい服を買えるのはやっぱサイコー」

「今なら多少冒険したところで痛くも痒くもないわけか」

「時は金なりってこういうことだよね?」

「……ちゃんと辞書を引きなさい」

 その後、電車が自宅最寄りの駅に停車し、俺たちは連れ立って下車した。

 時刻はまだ午後四時前と、日は傾き始めているが外は明るい。焼肉食べるぞー、と張り切るあかりだったがお店に向かうにはまだ早い時間帯なので、一旦それぞれの自宅に戻ることにした。

 その間、あかりはいろんなことを饒舌に語った。

 ループのメリット・デメリットに始まり、会長との出会いをもう一度詳細に語ったり、タイ料理にハマッていること、最近聴いた洋楽のおすすめ、果てはループの中だからと思いつきで犬を飼ってみたものの散歩の途中でリードを離してしまい、街中を捜し回る羽目になってしまったこと……。あかりの話がころころ変わるのはいつものことなので特に気にならなかった。話題も知っていることのおさらいや、ループと関係あるようで関係ないあかりの日常話がほとんどだったので驚きはなくて。

 だが自宅が見えてきたころ「ループの中に現在誰がいるか」という話になって、あかりの口から桜庭の名前が出たことで俺は歩みを止めた。

「ん、どうしたのユズ?」

「別に」となんでもないフリをし、再び歩きだす。「桜庭って二組の人だよな?」

「そうそう。一年生の間では有名人だよね。特に男子の間では」

「まあ美人だからな」

「でもあの人、超冷たいの。聞いた話じゃ、誰が話しかけても基本無視みたいで、あの会長の言葉すら聞き流すんだって。当然、歴史研究部には絶対近寄らない」

「……へぇー」

「たぶん恋愛する気がないんだろうって先輩たちは言ってる」

「恋愛する気がない……」

 昼間、渡り廊下で出会ったときの桜庭の素っ気ない態度を思いだす。

 一方的に話すだけ話し、「ついてきなさい」と俺を歴史研究部に連れていき、「さようなら」と冷たく言い放ち、部室の中に突き飛ばした。酷い扱いを受けたが、桜庭の本質があかりが言うような人間であるのならば別段おかしな態度ではない。

 だけど――

 俺は知っている。

 桜庭の笑顔を、緊張した面持ちを、彼女の涙を……。あのときの表情豊かな桜庭と今日ループの中で出会った桜庭はまるで別人のようだった。

 一体どちらが本物の桜庭なのだろうか――

 ふとそんなことを思った。

「完全に孤立してるみたいだよ、桜庭さん」

「でも、あの見た目だし、言い寄ってくる男子は多いんじゃないか?」

「ないない」とあかりが首を振る。

「ん? なんでそう言いきれるんだ?」

「だって桜庭さんって――もう三年もループの中にいるんだよ?」

 とんでもない答えが返ってきた。

「…………は? 三年? 何かの冗談だろ?」

 佐々木会長の十九ループだって十分驚きに値する期間だったけど。

 まさかその上をいくとは。でも、三年って。本当かよ?

「嘘じゃないって。会長も同じこと言ってたし」

「三年って何ループすればそんなに……」

「さあ。計算してみたら」と言ってあかりが俺の自宅の前で立ち止まる。「でも、桜庭さんに告白する男子がいないのも頷ける話でしょ?」

「ああ……」

 三年間、誰とも恋愛せずにループの中に留まっている刺々しい性格の女子――

 そりゃ敬遠されて当然だ。

 恋愛対象に桜庭を選ぶということは茨の道を突き進むことを意味するわけで。

「ユズも気をつけなよー? ループするからって何をやっても許されるわけじゃないんだから。変なこと、たとえば女子に強引に迫ったり、しつこく口説いてみ? すぐに歴史研究部伝いに悪評が広まって、恋愛しにくくなるから」

「……心得ておくよ」

 あかりが口にする話題はくだらないことが九割以上を占めるが、その言葉だけは記憶に留めておこう、と思った。


   ∞