木造二階建てアパートの一室。

 五畳の和室と、ユニットバスと、キッチンのある、狭い部屋で。

『武田、お前ちょっと出られるか』

 光星が勤め先のアオバト引っ越しセンターの社長からそんな電話を受けたのは、夜も十一時になろうかという頃だった。

「今日は吉田さんが出るはずでしたよね? どうかしたんですか」

 小箪笥の側面に画鋲で留めたカレンダーを確認しながら、光星は訊いた。社長は声に心配の色を滲ませて、答える。

『急に体調崩して出られなくなったんだ。風邪だとか言っていたが、熱が四十度近くあるらしい』

「四十度ですか……吉田さんが風邪ひくなんて、珍しいですね」

 光星は自分より五つ年上でなおかつバイタリティーに満ちた女性、吉田優の顔を思い浮かべながら言った。

『全くだな。休みの電話受けた宮地が驚いてたよ。吉田が病欠するのは、多分、入社以来初だ』

 社長は苦笑いでもしているのか、フフッ、と言ってから続ける。

『そういうわけだから、ピンチヒッターって事で、頼む』

 丁度風呂から上がったばかりだった(といってもざっとシャワーを浴びただけの烏の行水だが)光星は、頭をフェイスタオルでガシガシ、乾かすというよりも掻きながら「はい」と返事をした。

「どこに行けばいいんですか」

 夜中だからという理由だけではない、普段からの特徴である抑揚のない口調で、光星は訊いた。

 社長は慣れているので、光星の脱力感漂う口ぶりにも文句を言わなかった。カサカサと、電話の向こうで紙を擦る音をたてながら返事をする。

『墨田区だ。地図を送るから、確認してくれ』

 社長の話を聞く間、光星は表情からは思いも寄らないほどの機敏な動きで支度をした。

 裸だった上半身に適当なTシャツをまとい、床に放り投げてあった、本来なら職場のロッカールームに収まっていなければならないはずの作業服を着る。ブラッドオレンジの果肉と同じ色の地に、白抜きの文字で「アオバト運送」と書いてある作業服だ。

 通話中のスマホを肩と頬の間に挟みながら、仕上げにタオルを頭に巻くと、光星は軍手を手に取った。

 社長は依頼主が若い夫婦である事、現場が2LDKのマンションである事などを簡単に説明してから、こう締めくくった。

『現場には先に寺岡が向かってるから、あとは寺岡の指示に従ってくれ。分かってるとは思うけど、梱包と搬出入は慎重かつ丁寧に……な』

 引っ越し作業に当たる際には、だいたい同じメンバーと組む。その方が連携を取りやすいからで、光星が組むのは同い年の寺岡龍馬、次に吉田が多かった。

「了解」

 短く返事をして、光星は通話を切った。カッターや油性ペン、テープなど、作業に必要な物が入ったウエストポーチを腰に装着すると、アパートを出る。

 階段を下りる間、光星は知らず「やれやれ……」と呟いていた。

 今日は非番だからゆっくりと寝るはずだったが、人手が足りないとこうしてしばしば呼び出される。

「明日も寝不足決定か」

 ため息を噛み殺しつつ、スマホに送られてきた地図を確認してから、光星はバイクにまたがった。

 アオバト引っ越しセンターは、アオバト運送株式会社が行っているサービスの名称である。社長の横沢徳典が五十になった年、今から五年ほど前に誕生した。東京都台東区、上野に営業所を構え、二十三区内で営業している。

 社長とその妻である専務を含め、社員は総勢九名。専務以外に女性は三人で、事務員が一人、他二人は作業員である。小さな会社であるため、社長自ら営業に赴き、しばしば作業員にもなる。専務は経理と事務も兼ねていて、光星達社員から「社長よりも怖い」と恐れられていた。

 社員が過労に耐え切れず突然辞めたり、繁忙期になるとバイトを雇う事もあるが、基本的にはこの構成で営んでいる。

 設立当初は純粋に運送会社として運営していたが、社長の意向で段々と引っ越しを、それも深夜や即日の依頼を受けるようになった。それに伴いアオバト引っ越しセンターというサービス名ができ、今では日中は主に運送業を、夜は引っ越し業務を行っている。

 深夜の引っ越し依頼は、多い時で月に四~五十件を数える。夜逃げなどではもちろんなく、転勤や契約切れなどで急に部屋を空けなければいけなくなったが仕事が忙しくて昼間の時間が取れない……といった理由がほとんどだが、中には変わった理由で依頼してくる人もいる。

 大抵の依頼主が単身者であるため、作業員も二人組で事足りる。これが、梱包がなされていない即日の引っ越しとなると、三人組になる。

 光星は高校卒業と同時にアオバトに入社し、今年で三年目になる。高校二年生から三年生へと進級する春休みに「時給が高いから」という理由でアルバイトとして入り、働きぶりが良かったのかその年の冬休みに今度はアオバトの方から声がかかって、そのまま居ついた。人の入れ替わりが激しい引っ越し業界では長く勤めている方だと、自分では思っている。

 体力は人並みだったが、この業界に入って重い荷物を持って階段を上ったり下りたりしているうちに、尋常ではないくらいに力がついた。辞めようと思えばいつでも辞められたはずなのだが、何となくタイミングを逃して、今日に至る。

 夜空には満月が浮かんでいた。だが生憎の曇り空で、月明かりはほとんどといっていいほど無い。

 六月下旬の風は夜だというのに熱を帯びていて、全体的に蒸している。昼間は気温が三十三度まで上がった。その暑さが、夜になっても色濃く残っていた。

 日中、昼飯を買いに外に出た時、光星は肌がちりちりと痛むのを感じた。あまり日に焼けない体質だが、その代わり肌が赤くなるので、光星は夏の日差しが苦手だ。

 ぶぅぅ……ん。

 耳元で羽虫の舞う音が聞こえた。思わずぶるりと身震いする。

 音のするあたりで二度三度と手を叩き、そっと掌を確認して羽虫の姿が見えない事を認めてから、光星は落胆した。

「くっそ」

 舌打ちしてから耳を澄ませるが、羽虫はどこかに飛んでいったようだった。

「蚊にさされると、尋常でないくらい腫れるんだよなぁ」

 昨日、一人暮らしをしている部屋の中で、飛んでいる蚊を見かけた。

 ぶつくさと呟きながら、光星はバイクを発進させた。

 仕事帰りのサラリーマンやこれから出歩く若者などとすれ違いながら、光星は細い道をバイクでひた走った。そうしていると、風を感じて暑さもいくらか和らいだ。


 着いた先は地上二十階建ての豪奢なマンションだった。光星が住んでいるチンケなアパートとは違い玄関はオートロック付きで、エントランスには宅配BOXが備えられている。最上階の面積は少なくなっていて、その分バルコニーが広く造られていた。

 外壁は灰色だが、周囲の建物や外廊下の明かりに照らされて、ぼんやりと光っている。

 洒落た造りだった。

 玄関口にバイクを停めた光星は、トラックを横付けして待っていた寺岡と合流した。

「悪いな、急に」

 寺岡は厳つい顔に筋骨隆々とした体つきをしている。髪をある程度伸びるに任せて、ある時突然スパッと切ってしまう光星とは違い、寺岡の黒髪は常に短く刈り揃えられ、肌は一年を通して黒い。といっても日焼けサロンに通っているわけではなく、元々肌が浅黒いのだった。

「いえ、寺岡さんのせいじゃないですから」

 光星と同い年だが、入社は寺岡の方がひと月早い。それが理由というわけでもないが、砕けた口調の寺岡に対し、光星は丁寧な言葉遣いになる。

「でもお前」

「非番でしたよ。けど慣れました」

 寺岡の言葉を遮って、光星はそう口にした。寺岡は光星の眠たげな横顔を困ったように見てから、頭を掻き掻き続ける。

「まあ、辛い職業だよなぁ」

「辛くない仕事なんて、ほとんど無いですよ」

「これ終わったら、転職するか」

「お一人でどうぞ。俺はアオバト、好きなんで」

 寺岡の冗談に真顔で返しながら、連れ立って玄関前の石段を上る。明かりの点いたエントランスに入ると、先に光星が口を開いた。

「それにしても、吉田さんが風邪ひくなんて、珍しいですよね」

「うん。明日は雨が降るかもなぁ」

「雹かもしれませんよ」

「お前、ひどい事言うなぁ」

 しょうもないやり取りをしつつ、光星は寺岡と並んでインターホンの前に立つ。

 エントランスは広い造りになっていた。天井も高く、ゆったりとした空間になっている。端には観葉植物が置かれ、見る者の心を癒していた。

 円筒形のインターホンは、ガラス製の自動ドアの手前に設置されていた。寺岡が代表して部屋番号をプッシュし、来訪を告げる。

「お世話になっております。アオバト引っ越しセンターです」

 応対に出たのは、男性だった。

『お待ちしてました、どうぞ』

 声に続いて、ドアが開く。光星達は順に中に入り、揃ってエレベーターに乗り込むと、目的の階に向かった。

 今回の依頼人夫婦が住む部屋は、七階の端にあった。ダブルロックのドアがずらりと並ぶ廊下を、光星達は縦に並んで進んでいく。

 光星が何となく廊下を見回していると、寺岡が振り向いて注意した。

「きょろきょろすんなよ」

 光星は肩をすくめて、それを返事とする。寺岡は悪戯っ子でも見るかのように、苦笑いした。

 光星達が部屋の前に到着するのとほぼ同時に、ガチャリと音をたててドアが開いた。

「お世話様です」

 そう言って顔を出したのは、依頼者――土橋だった。紫フレームの眼鏡をかけ、短髪を整髪料で固めた顔は柔和そうだ。暑い時期だというのに、白いシャツの上からフリース素材のカーディガンを着ている。背丈はそんなに高くはないが、手足が長く、細身であるため長身に見えた。

 その後ろで控え目に笑いながら光星達を出迎えたのは、土橋夫人だ。こちらはフレンチスリーブのボーダー柄シャツを着て、下はスキニーのアンクルジーンズを穿いていた。レッドブラウンに染めた髪を、頭のてっぺんでお団子に結わいている。小柄な事に加えて丸みを帯びた輪郭は、見る者に幼い印象を与えた。

「アオバトさん、お待ちしてました。今日はどうぞ、よろしくお願いします」

 土橋は静かな口調と丁寧な物腰で頭を下げた。土橋夫人も、それに合わせて小さくお辞儀する。

「お願いします」

 光星達も夜であるため、小声で返しながら礼をした。

 玄関から入ってすぐはLDKになっていて、その左隣に洋室が二部屋並んでいた。玄関の右手にはトイレが、左側には洗面室が見られる。LDKの向こうにはバルコニーがあり、各部屋の収納スペースもたっぷりと取られていた。夫婦二人で暮らすには、とても広い造りだ。

 室内の荷物は、全て梱包済みだった。玄関口には封のされた段ボール箱が大中小と、それぞれ所狭しと並べられている。夫婦のみといっても荷物はかなりの量で、梱包に苦労したことが窺える。

 側面には綺麗な字で内容物が記載されていた。普段、書類を書くにしても「字が汚くて読めない」と怒られる事が多い光星には、羨ましいスキルだ。

 段ボール箱は、土橋夫妻の「引っ越し費用をなるべく安く抑えたい」という要望に応えて、一度アオバトで使用された古い物を再利用していた。

 アオバトでは引っ越しに使った段ボール箱を、お客様の要望があれば無料で提供している。段ボール箱自体がしっかりとした作りであるため、一度使ったくらいではビクともしないからだ。

 その代わり、荷物に前の使用者の匂いが移ってしまったり、汚れが付いてしまったりする事がある。そういった事を説明した上で、いくらか安くなるなら、と、土橋夫妻は古段ボールを希望したのだった。

 他にもスーパーなどから段ボール箱を集める方法もあるが、なかなか大きさが揃わないので、アオバトではなるべく古段ボールの利用を勧めていた。

「では、始めさせて頂きます」

 今回現場リーダとなる寺岡が土橋夫妻に挨拶をし、深夜零時過ぎ、おおむね予定通りの時間に引っ越し作業は開始された。

 光星は部屋に残り、寺岡は廊下に戻った。そのままエレベーターに乗り込んで一階で待機する。

 引っ越しは段ボール箱から先にリレー方式で搬出し、トラックに積む。これは作業員一人当たりの移動距離をなるべく短くし、体力を無駄に削らないようにするためである。

 冷蔵庫やタンスなどの大型家具は最後に積み込んでいくのが一般的だ。そうしないと、搬送途中で荷が崩れてしまう。

 逆に、引っ越し先では大型家具や家電から搬入していく。先に段ボール箱を搬入してしまうと、家具家電を運び入れる際に邪魔になる。

 今回は荷物が梱包されていない事が多い即日の依頼と違って、梱包済みの荷物をバケツリレーで積み入れるだけなので、比較すると楽だった。階段ではなくエレベーターを使える事も、有り難い。

「うしっ」

 小さな声ではあったが、光星は腕まくりをして気合を入れると、玄関口に置いてある段ボール箱から順に運んだ。

「靴」と書かれた段ボール箱と、「カバン」と書かれた物とを二つ重ねて持ち、光星は廊下に出た。一人で一度に持つ段ボール箱は、二つが原則だ。

 さくさく歩いてエレベーターで下り、寺岡の許まで行くと、段ボール箱を渡す。寺岡がしっかりと持ったのを確認してから手を放し、光星は部屋まで戻る。

 次は「タオル」と書かれた段ボール箱と「洗剤・シャンプー・コンディショナー」と書かれた箱とを重ねて持った。

 重みがズシリ、腰にくる。

 軍手をはめた手が、早くも汗に滲んでいた。作業着の下に着たTシャツにも汗が染み込んでいく。

 クーラーはすでに専門の業者によって外されていたために、室内はむわむわと蒸していた。当然ながら扇風機も梱包されている。

 まだ六月だというのに汗が容赦なく噴き出し、垂れて目に入る。

 右目に痛みを覚えて、光星は手の甲で目元を拭った。

 知らず、止めていた息を吐く。

 ああ、暑い。早く冬にならないものだろうか。

 内心でそう文句を吐きながら、光星は荷物運びに精を出した。

 土橋夫妻はその間、残りの荷物の片付けと清掃作業を行っていた。土橋夫人が梱包する傍らで、雑巾とハンディスプレータイプの洗剤を持った土橋が、壁を拭きながら時折小声で話しかけている。

 土橋夫妻はとても仲睦まじく、また、常に笑顔だった。普段は他人の恋愛に興味の無い光星が、珍しくも羨ましくなるほどだ。

 夫妻は作業をしながら、想い出話に花を咲かせているようだった。

 土橋夫人が夫の拭いている壁にできた凹みを指差し、

「これはあなたがテーブルを運ぼうとして、付けた傷よね」

 と言えば、土橋も負けじと妻の持つタオルケットを指して、

「これはお前が漂白剤零して台無しにしちゃったんだよなぁ」

 と、返す声が聞こえてくる。

 光星は夫妻の楽しげな会話を横目に、せっせと荷物を運んだ。玄関を終え、LDKを終え、汗だくになりながら一階と部屋とを行き来する。

 部屋に入る度に聞えてくる夫妻の会話の中に、光星は「隣の人」という単語を何度か聞いた。

 段ボール箱を運び終えた光星が戻ってくると、土橋が調味料の入った箱を抱えて部屋を出ようとしているところだった。

「どうかされましたか」

 声をかけると、土橋は眼鏡の奥にある目をキュッと細める。

「お隣さんに、引っ越しで持って行けない調味料をお渡しする約束をしていたんです。使いかけの物もあるんですけど、それでもいい、っておっしゃって下さって」

 呑みかけのお酒や使いかけの調味料、食品の類は、引っ越し前になるべくお客様自身に処分してもらうのが望ましい。どうしても運びたい場合は厳重に梱包する事になるが、瓶などは運搬中に割れたり、洩れたりする可能性があり、トラブルになりやすい。

「お隣さん、ですか」

 夫婦の会話に頻繁に出てきた単語を思い出した光星が、反射的に隣の部屋へと目を向けると、土橋は笑みを深くした。

「女性の一人暮らしなんです。越して来てから何かと仲良くさせて頂いていて。私が引っ越しのご挨拶に伺った時、調味料の処分に困ってるって言ったら、じゃあ下さい、なんて話になったんですよ」

「そうなんですか」

 短く返しながら、光星は自身の近所付き合いの希薄さを思い返し、(ずいぶんと仲が良いんだな)と感心した。

 土橋は袋を軽く持ち上げると、

「ちょっと行ってきます」

 と言い、隣の部屋に向かった。訪問はあらかじめ知らせてあったのだろう、チャイムを鳴らして、夜中だというのにすぐに応対に出た女性と、笑顔で会話する。

 隣に住む女性はストレートの黒髪をひっつめにして、青いフレームの眼鏡をかけていた。疲れが滲み出た顔には、化粧っ気がない。そのせいで五十代に見えるが、実年齢はもっと下だと思われる。毎日背中を丸めながらデスクワークをしているのか、あるいは近眼のせいなのか、猫背がひどい。

 着ているものは小豆色のジャージに、下は何故か灰色のスウェットだった。一体何年間着用しているのか、ジャージはくたびれていて、袖口から糸が出ている。そのジャージの、布が擦り切れて白っぽくなっている肘の周りに、何故か消しゴムのカスがいくつも付いている。胸のところには苗字らしき字が縫い込まれていた。

 いくら仲の良い隣同士といっても、ちょっと気を緩めすぎな格好のように、光星には思えた。男性ならまだ分かるが、女性でその格好はいかがなものなのだろう。第一、お洒落なマンションの雰囲気に、まるで合っていなかった。

 光星は大分前に流行った「干物女」というフレーズを思い出した。綾瀬はるか主演のドラマで、恋愛から遠ざかっている女性をそう呼称していたと、光星は記憶している。そのドラマの中で、主人公がジャージ姿だった事を、光星は思い出していた。

 土橋と隣人は袋の受け渡しを行ったあと、世間話を始めたようだった。

 光星は部屋の中に戻ると、夫妻が寝室として使っている洋室に入った。

 そこにも段ボール箱は溢れんばかりに積み重なっていた。ベッドはあとで光星達作業員が解体して持って行くので、マットだけ外してそのままにしてある。

 ざっと見渡してから光星は、入り口の近くに積んであった段ボール箱から片付ける事にした。多くは「衣服」と書かれていて、その他にもアオバトの用意したハンガーBOXが、壁際に置かれている。

 光星は、まず衣服の入った段ボール箱を二つ重ねて持ち上げると、足早に一階まで運んで行った。寺岡に引き継ぎを終えると、また寝室に戻ってきて新しい荷物を運ぶ。

 こういった繰り返しの作業は、本来なら何も考えずに済ませてしまうのが良いのだが。

 一際重い段ボール箱には、「漫画本」と記載されていた。それが一箱、壁際に寄せられている。

 持った瞬間、光星は小さく「うっ」と呻いた。中には容量一杯、漫画本が詰まっているらしい。今までにも冷蔵庫など重い物を運ぼうとした際に、腰に痛みを感じた事はあるが、小段ボール箱で鈍痛を感じたのは今日が初めてだった。

 他に「本」と書かれている段ボール箱もあったが、その他の、例えばDVDなどと一緒に梱包されていて、量はたかが知れている。漫画本もそんな風に、何か他の物と一緒に箱詰めされていれば、ここまで(重い)と感じずに済んだかもしれない。

 漫画本と書かれた箱にはそれ以外の記載がなく、小説や新書など他の本と比べても、明らかに冊数が多かった。

 光星は気合を入れると、歯を食いしばりながら寺岡の許まで進んだ。

 漫画本に限らず、本や雑誌など詰め込むと重くなる荷物は、小段ボールに入れてもらうのが通常だ。そうしないと、重みで底が抜けてしまうからだ。

 光星は以前に何度か、いわゆる「オタク」と呼ばれる人の引っ越しに当たった事があるが、漫画本の入った段ボール箱の数は、この比ではなかった。あの時はエレベーターもなく、光星達作業員は段ボール箱の重みに何度も(死ぬ)と思いながら階段を下りたのだった。

 光星はその時の苦痛を思い起こし、今回はエレベーターなのだからと、自分で自分を叱咤した。

「お願いします」

 と言って、寺岡に漫画本の入った段ボール箱を引き継ぐ。

 寺岡は「あいよ」と言ってトラックの停めてある方向に消えて行った。それを見届けない内に、光星はエレベーターに足を向ける。

 七階の廊下に出ると、土橋と隣人がまだ話し込んでいる姿が見えた。いつの間にか夫人も参加し、一緒になって盛り上がっている。

 光星が戻ってきたのを見ると、土橋は夢中で話し込んでいる妻をつついた。隣人に軽く会釈して、ようやく解散する。

「すみません、引っ越し中なのに」

 申し訳なさそうに謝る土橋とその隣で頭を下げる夫人に、光星は首を横に振って応えた。

 光星はなおもすまなさそうにする土橋夫妻に軽く頭を下げてから、部屋の中に戻った。寝室に入り、そこで妙な物を見つける。

 空になったとばかり思っていたクロゼットを、扉が閉まっていたので確認のために開けてみたら、蓋の開いた段ボール箱が四つ、二つずつ重ねて置かれているのが目に入った。

 段ボール箱は側面に、アオバトのものとは違う宅配業者のマークが印刷されていた。今回荷詰めされたものではなく、以前から何かを保存するために利用されていた物らしい。段ボール箱は所々薄汚れて、角が一ヶ所潰れていた。

「?」

 封がされていない事を不思議に思って引っ張り出した光星は、中をちらっと見た瞬間、やたらと目が大きい女の子の絵と目が合って、驚いた。

「わっ」

 思わず声が洩れたが、よく見ればそれは少女漫画雑誌の表紙だった。

 光星の全く知らない女の子のキャラクターが、表紙を笑顔で飾っている。細い輪郭線ははっきりと描かれておらず、ところどころ消えかかっているように見えるのは、光が差している事を表現しているのだろう。まつ毛が長く、肌が白く、全体的に幼く見えるよう描かれている。瞳はキラキラと輝いていて、笑顔が眩しい。

 女の子は巫女のような格好をしているので、日本人だと想像がつく。だが髪の色はワインレッドで、瞳は葡萄色だった。

 雑誌のタイトルは『月刊ラズベリー』で、少女漫画に疎い光星には全く聞き覚えのないものだった。吉田に訊けばあるいは知っているかもしれないが、まさか仕事中に、それも病気で休んでいる相手に電話をかけて訊くわけにもいかないし、そもそもどういった系統の雑誌なのか、そこまでして知りたいとも思わない。

 雑誌の保存状態は、すこぶる良かった。表紙に歪みもなく、色もほとんど褪せていない。

 恐らくは土橋夫人が最近購入した物だろう。夫人の見た目は二十代半ばといったところだが、少女漫画雑誌を買っていてもおかしいとは思わない。

 しかし。

「へぇ、こんなの取ってあるんだ」

 漫画雑誌を購入する事はあっても、読んだら即捨ててしまう光星にとって、それは「変わった行為」だった。

 以前担当したオタク系の客は、大量に保存してある漫画雑誌を指して「雑誌掲載時とコミックスとで台詞が違う」とかいう事を、引っ越しの最中であるにもかかわらずドヤ顔でとくとくと語っていた。そういった、変な言い方をすれば「プレミア付き」の物かと思い、光星は一番上の一冊を手に取ってパラパラとめくってみた(寺岡に見つかったら、確実に怒られる行為だ)。

 しかし、光星が見て違いが分かるはずもない。

 光星はすぐさま、雑誌を元の場所に収めた。そしてすぐに、引っ越し作業に戻る。

 けれどその時、隣のLDKでカーテンを外していた土橋夫人が光星の独り言に気づいたらしく、ひょいと顔を出した。

「どうかしましたか?」

 そうして、光星の前に置かれた段ボール箱を見つける。

「あ、それ!」

 光星が何か言う前に土橋夫人は、はにかんでいるとも喜んでいるともつかない顔になった。光星の側までやって来ると、膝を折って座る。

「私の荷物なんです。昨日取り出して、遅くまで眺めてたから、しまい忘れてて……」

「そうなんですか」

 光星が返す側から、土橋夫人は段ボール箱に手を伸ばすと『月刊ラズベリー』を一冊手に取った。パラパラとめくって、懐かしい、などと口にする。

「実は、昨日も遅くまで読んでたんです。もう何回も読んでるんですけど、毎回毎回、読みだすと止まらなくなっちゃって」

 照れたように笑う土橋夫人に、光星は「だったら今読むのは遠慮して頂けませんか」と言いかけて、やめた。

 土橋夫人は旦那と思い出話に花を咲かせていた時よりも、いい笑顔をしていた。よほどこの漫画が好きなのか、瞳が表紙の女の子に負けないくらいに、キラキラと輝いている。

「……」

 光星は何となく所在無くなって、すすす……、と土橋夫人から離れた。その間にも、土橋夫人はどんどんページをめくっていく。

 普通に考えたら引っ越し作業中にやるべき事ではないのだが、土橋夫人はすっかり自分の世界に入っているようだった。まるで、試験勉強が嫌になって突然部屋の模様替えを始める中高生のように、荷物の整理も忘れて雑誌に夢中になっている。

 呆れているとも感心しているともつかないため息を小さく洩らして、光星は他の荷物の搬出に取りかかった。壁際に置かれたハンガーBOXを押しながら部屋を後にし、一階で待っていた寺岡に引き継ぐ。その次は段ボール箱を運び出し、それを二回繰り返して戻ってくると、土橋夫人は丁度二つ目の箱の中身を取り出して床に並べていたところだった。

 二つ目にも手を出すのか。

 まるで見本市のようになった寝室の光景に、光星は半ば呆れつつも、床の上の荷物を見回した。

 光星の足元からクロゼットにかけて、風景ばかりを収めた写真集や、レオタード姿の女性がポーズをとっている妙な本、それと木製の人形が点々と並べられていた。整理し直そうとでも思ったのだろうか、引っ越し作業員である光星にしてみれば迷惑な話だ。

 お客様の荷物をなるべく踏まないように一歩踏み出して、

「何だコリャ」

 女性の写真集を見つけた光星は、思わず口走っていた。

 タイトルには英字で『ポーズ カタログ』とあった。表紙には三人の女性が写っていて、それぞれ歩きながら振り返っていたり、足の裏を見ていたり、こちらに向けて片足を上げていたりと、バラバラなポーズを決めている。そして写真と半ば重なるように、それらをデッサンした絵が印刷されていた。

 光星の疑問を耳にして、土橋夫人はくるりと振り返った。本を片手に、悪戯っ子のように笑う。

「これ、デッサンの参考にするために買ったんです。こういうのがあると、便利なんですよ」

 それを聞き、光星は内心で首を傾げた。

 デッサンをする時にあると便利な本を持っているという事は、土橋夫人は画家なのだろうか。

 それにしては、土橋夫人の手は綺麗な物だった。絵具一つ付いておらず、爪も丁寧に磨かれている。それに何より、土橋家の荷物には、イーゼルやキャンバスといった道具が見当たらない。

 考える光星の目に、人形が映る。

 光星は爪先立ちで歩くと、屈んで人形を手に取った。角度を変えて、あちこち観察する。

 人形には目も鼻も口もなく、服も着ておらず、男女の区別もなかった。ただ「人の形をした木」といった風で、光星には、

(ポーズカタログと一緒にあるくらいだから、これもデッサンに使うのかな)

 という事くらいしか分からなかった。

 土橋夫人は段ボール箱の中に残っている物を一つ一つ取り出して、確認し始めた。どうしようかな、などと呟くのが聞こえる。

「この箱の中身、未整理だったんですか」

 訊くと、土橋夫人は苦笑した。

「いえ、整理はしてあるんですけど、まだちょっと迷ってて」

 捨てるか否か引っ越し当日になっても迷うという事は、この箱の中に収まっている物は全て、土橋夫人にとって思い入れのある品なのだろう。

「あ、ごめんなさい! 邪魔ですよね」

 土橋夫人は光星が人形を片手に突っ立っている事に気づき、慌てて床に並べた物を片付け始めた。急いで、けれど慎重に箱の中へ戻していく。それを見て、光星は人形を、丁寧な手つきで箱に収めた。

 土橋夫人は風景を収めた写真集を手に取ると、段ボール箱にしまう前に、まだ迷う表情を見せた。この期に及んで悩むというのは、物に対しても人に対しても執着心の薄い光星にとって、少し面白い反応だった。光星は土橋夫人の隣に座ると、クロゼットを指差した。

「拝見してもよろしいですか」

 とにかく、荷物もそうだがまずは心の整理が終わらなければ、搬出もできない。

 軽く手伝うつもりで声をかけると、土橋夫人はパッと笑って「どうぞ」と答えた。

 三つめの箱を覗くと、そこには先程の少女漫画と同一タイトルのアニメを録画したDVD―Rが何枚かと、パッケージ販売されたDVDが九本、そしてその九本をまとめて販売されたDVDBOX、アニメに使用された楽曲を収めたサウンドトラック、アニメ誌の切り抜きを貼ったスクラップブック、グッズがしまいこまれていた。

 DVDBOXは最近になって発売された物なのか、HDリマスター版と書かれていた。DVDを持っているのにわざわざ同じ内容のBOXを買うというのは、どういう心境なのだろうか。

 作品名は『夢色☆ふしぎ絵巻』。口に出すのが少し恥ずかしいが、少女漫画はきっとおおむねこんなものだろう、と光星は思った。

 光星はアニメ自体に詳しくないが、わざわざDVDBOXにまとめ直されて発売されるのだから、余程の人気作品だと知れた。

 グッズに使用されているキャラは全て、漫画の――『夢色☆ふしぎ絵巻』の主人公らしき女の子と同じだった。ステーショナリーセット、半透明のバッグ、化粧ポーチなどは、雑誌の付録だった事が窺える。

 よっぽど思い入れがあるんだな、と、光星は感心した。その情熱が、少し羨ましくさえ思える。

 光星は知らず、口元が緩んだ。

 大切に保存されていた品々を、光星はそっとしまいなおした。

 先程の写真集とは別の本を手に、まだ「うーん」とうなっている土橋夫人をちらりと見てから、光星は段ボール箱を軽く叩いた。

「CDやDVDが入ってますけど、クッション材をお入れしますか?」

 運搬中に万が一割れてしまうかもしれない事を考えて、そう提案すると、土橋夫人は本を持ったまま顔を上げて「はい」と答えた。しかしすぐに訂正する。

「あ、やっぱりいいです、そのままで」

 光星は頷き、段ボール箱を一旦脇に除けると、確認する。

「では、こちらの段ボールは閉じてしまってもよろしいですか」

 土橋夫人の「はい」という返事を受けて、光星はウエストポーチからガムテープを取り出し手早く封をすると、最後の箱に目を落とした。

 中にはGペンや丸ペン、雲形定規にスクリーントーンが何枚かとB4サイズのケント紙が数点、羽箒、ホワイト、インクなど、アナログ漫画を描くのに必要な道具が綺麗な状態で一式揃っていた。他にノートが一冊、隙間に立てた状態で保存してある。

 余程丁寧に扱われていたのか、ペンにはインクの染み一つ付いていない。スクリーントーンにも皺が一切なく、ケースに入れられた状態で保管されている。

 ノートを半分取り出して見れば、段ボール箱の側面に記載されていた字とは違う、丸みを帯びた筆跡で「ネタ帳」と書かれてあった。

 それを見て、光星は謎が解けた思いがした。

 成程、土橋夫人はどうやら、少女漫画家であるらしい。それも、かなり人気の。

 先程の人形や妙な写真集は、漫画を描く際の参考にするものだろう。だからタイトルが『ポーズ カタログ』なのだ。

 これまでの経緯から考えるに、『夢色☆ふしぎ絵巻』というのは彼女の作品だと推察できる。だから掲載誌やDVDを大切に取っておいたのだ。漫画雑誌の方は、もしかしたら初回などの大事な話が載った、記念号なのかもしれない。

 大事に取ってあった物の正体を知って、光星は人知れず頷いた。

 光星はネタ帳をそっと元の場所に押し込むと、土橋夫人を振り向いた。かなり長い間捨てるか否か迷っていたポーズカタログを、丁度元通りしまったところだった土橋夫人に、そっと話しかける。

「大事にされてきたんですね。これだけ保存状態がいい物って、なかなかないですよ」

 すると土橋夫人は照れているのか、頬を赤く染めた。

「主人にはちょっと呆れられてるんですけどね」

 照れ隠しなのか、そんな事を言って、土橋夫人は頭を掻いた。光星は小さく笑うと、段ボール箱を閉じて、蓋の上に手を置く。

「こちら、どうされますか?」

 土橋夫人は言葉の意味が分からなかったらしく、反応が一瞬遅れた。一拍の間を置いてから光星を見返し、瞬きをする。

「あ、えっと……」

 土橋夫人は逡巡するように天井を見上げてから、

「閉じて、運んじゃって下さい」

 と、答えた。悩んだ末に、結局捨てない事を選んだらしい。

「分かりました」

 光星は頷くと、段ボール箱の蓋を閉じ、ガムテープで封をした。側面に何も書かれていなかったので、一言断ってから油性ペンで手早く書き込む。

 土橋夫人は少しの間光星の作業を見ていたが、やがて気持ちを切り替えたのか、すっくと立ち上がった。