プロローグ



 木々が色づく秋の京都。

 紅葉舞い上げる風にはもう、冬の香りが。


 古都京都、祇園のはずれ、石畳の密やかな小路に佇むふしぎな桃枝骨董店。

 行き場をなくした想いの欠片がひっそりと宿った骨董品がやってきます。

 人のふりした狐が働く桃枝骨董店。

 おちゃめな物知り店主の右腕として、可憐な孫娘の教育係として、今日も狐はてんてこまい。

 おかしな三人が睦まじく暮らしを紡ぐ桃枝骨董店。

 耳を澄ませば、小さな坪庭から虫の声。

 暖簾を揺らすのは、秋風か、それとも――。



     1


 風の匂いが変わった。

 夏の間、陸で溺死できそうなほどだった湿気もどこへやら、濁りのない気持ちのいい風が吹いている。雲も遠く、薄くなった。京都に秋がくる。

 秋っていいなあ、と、朝から小路を掃く手もなんだかウキウキしてリズミカルになる。忌々しい湿気や熱気から解放されて爽快だし、掃除もはかどるし、世界のすべてが芸術的に感じられるし、食べ物だっておいしい。ああ、栗にむかごにサツマイモ。ほこほこ幸せの秋。卵だって秋が一番おいしい。

 そんなことばかり考えているから、自然、視線が鳴神小路の北端《京懐石ゐかり》へ向いてしまう。先週ゐかりは秋メニューへと移行した。栗ご飯だ。お裾分けもらえないかなあ、なんて、ちょっぴり期待してもう四日経つ。毎日ゐかりへ向けて栗ご飯栗ご飯と念力を送っているのだけれど。

 念力が届いていることを祈りつつ、竹箒を片づけ、桃枝骨董店の戸を開けた。

 ひっそりした店内で、古きよき品々が眠りから目覚めようとしている。

 朝の薄明かりの中で見る器が好きだ。白磁や青磁は凜として高貴で、柿右衛門の赤に青みが差して艶っぽい。真珠のようにやわらかく光を照り返す七宝。うっとりする。

 見世と住居とを隔てる暖簾に手をやったとき、寝ぼけまなこをこすりながら二本足で土間を歩いてゆくヤモリを発見した。頭にサンタクロースと色違いのようなナイトキャップを被っている。あんまり当たり前の顔をして歩いていらっしゃるものだから、うっかり素通りするところだった。

「ちょっとちょっとお待ちなさい」

「バレター!」

 捕獲するや、ヤモリは「ぐう」とわざとらしい寝息を立てて寝た振りをした。両手を合わせて頬にあて、自分で「すやすや」などと言う。

 このヤモリ、実は妖である。守宮さんという。どこで化け方を覚えたやら、ヤモリのくせに日中はヒトに化けてヒト生活を謳歌したりしている。やっかいなヤモリなのだ。などと言うときっと、「オマエだってヒトに化けてヒト生活やってる狐のくせに」と言い返されてしまいそうだけれど。

 ピンと尻尾をはじくと、守宮さんは大きな目を面倒くさげに開いた。つるんと澄んだきれいな目をしている。見た目は純真無垢なヤモリそのものなのに。帽子なんか被っているけれど。

「……いったいどんな運命のいたずらで帽子なんて被っているんです?」

 ヤモリのくせに。

「夜なべして作ったんだよ! 文句あんのか!」

「いや、帽子に文句はないんですけど、なぜうちで――」

 言い終える前に、守宮さんは手の中でコテンと眠りに落ちてしまった。ひとの手を枕にしやがって。

「出入り禁止にします」

 店先に放り出そうとぱっと手を開いても、守宮さんはしっかりしがみついていた。つぶらな目で「やだやだ」と言うので虐待でもしている気になる。

「今日だけ! ねっ、今日だけっ!」

 人差し指にぶら下がったままで守宮さんは言った。

「今日だけって、しょっちゅう入り込んでるじゃないですか」

「だって今日雷だもん。雷怖いんだもん」

 格子戸から外を眺めてみる。夜が明けて間もない空には、羽衣のような薄い雲が一筋たなびいているだけだ。

 晴れてんじゃねえか、という目を守宮さんに向けると、

「嘘じゃないやいっ。今日は雷だいっ」

 ヤモリにはわかるのだ、と胸を張って主張した。そういうことはままあるので、そうかもしれないと思えてきた。

 それに、雷が怖い気持ちはよくわかる。私も犬のフリをして生きていた頃、怖くて怖くて桃枝の軒下にうずくまっていたものだ。入れてくれないかなあ、と祈りながら。犬よりずっと小さなヤモリが怖がっている。かわいそう……。かもしれない。

「雷光一筋光らなかったときは叩き出しますからね」

「今日は雷だいっ」

 全身のバネを使ってぴょんと飛び下りた守宮さんは、見世の店主机に置いてある花瓶を目指した。金木犀を一枝挿している。何をするのかと思えば、器用に尻尾を花瓶の口に引っかけ、逆さ吊りになって花瓶の水で顔を洗っている。敏感肌には金木犀のエキスがいいのだ、とのこと。呆れた。情けをかけてやったことを、さっそくちょっぴり後悔したのだった。


 朝食を中座したお嬢さんは、ヤモリさんにも分けてあげるのだと言って食パンをいそいそと運んでいった。お嬢さんの実験心が動いたのだろう。果たしてヤモリは食パンを食べるのだろうか、と。

「ヤモリって食パン食べるんですかねえ」

 師父に語りかけたのだけれど、生返事ひとつ返ってこない。心配になって覗き込むと、師父はじいっと新聞に見入っていた。地域面だ。

 神社仏閣秋の特別拝観を特集した記事や、丹波栗が出荷のピークを迎えたという秋らしいニュースが並んでいる。嗚呼、栗ご飯。

「今年はゐかりの栗ご飯もらえませんかねえ」

 なんだか恨みごとのようになってしまった。

「栗ご飯、なあー」

 師父はまるで興味がなさそうにぼやけた返事をする。どうも師父の視線は丹波栗の記事には向いていないようだ。

 そこで隣のページに目を移してみると、

【世紀の発見か】

 と何やら仰々しい見出しのついた記事がある。世紀の発見の割に地域面に押しやられているとはこれいかに。つい、興味を引かれてしまった。

 なんでも、桃枝のある東山区祇園町南側と境を接している東山区小松町から、鳥類と思しきミイラが発見されたという。ミイラだなんて恐ろしい。

 ミイラが出たのは桃枝から徒歩5分程度にあるたばこ屋の跡地だ。井上さんというおばあさんが長年営んでおられたけれど昨年お亡くなりになった。関東在住という遺族は特に未練もなかったようで、すぐさま売却され、おばあさん一人には広すぎた大きな家は取り壊されたのだった。

 跡地にはマンションが建つことになった。ここからが京都の面倒くさいところだ。遺跡に被る地域は発掘調査なしに好き勝手に物件を建てられない。井上さんのお宅は珍皇寺旧境内という一般遺跡にばっちり被っていたのである。

 施工主にしてみればさらに面倒なことに、発掘調査の結果十二世紀前後の井戸が発見されたものだから、大学の研究チームなども参加してさらに大がかりな調査となっていた。ミイラはこの井戸の底から出てきたらしい。井戸にミイラ。まるでホラー映画だ。

 ついついのめり込んでいたから、いつの間にかお嬢さんが後ろに立っていたことに気がつかなかった。

「世紀の発見ですって。すごいわ。うちでもそういうのが出ればいいのに」

 私の肩越しに新聞を覗き込んでお嬢さんは言った。

 お嬢さんの言う「うち」は桃枝のことではない。お嬢さんが通う寒梅女子大学のことだ。この度、北側に新しくキャンパスを建設する運びとなった。上京区、中京区、下京区はほぼまるまる何らかの遺跡に被っているので、上京区の寒梅女子大学新キャンパス建設予定地でも発掘調査が進んでいる。

「お皿とか壺のかけらばっかり出るの。あと瓦。つまらない」

 つんとお嬢さんの唇がとがった。文鳥にそっくりだ。かわいい。

「欠片やがらくたと思えばつまらないでしょうけど、人が暮らした証だと思えば少しは楽しいなと思えるはずですよ」

 そう言うと、お嬢さんは文鳥のように黒目がちな丸い目をぱちぱち瞬いてこちらを見上げた。瞼の上がきらきらしている。

「そうね。かけらの一つ一つにも作った人がいて、触れた人がいるのよね」

「そうです」

 にっこり笑って返すお嬢さんの瞼がまたきらきらと光を跳ね返す。お嬢さんがお化粧をするときは、外出するときだ。土曜日の午前中なのに、とふしぎに思った。

「今日何か予定でも?」

「ぐりこ先輩のシフト代わったの。もう行かなきゃ」

 パチンと手を打ち、お嬢さんは椅子に引っかけていたバッグを取って元気に桃枝を後にした。「行ってきます」の声がぼんやり反響した。

 いつもならニコニコと見送る孫煩悩な師父が、新聞に頭を沈めたままちらりともお嬢さんを見なかった。困った困った。

「いい加減、仲直りしましょうよ」

「ハッ。仲直りて。別に、ケンカなんかしてないし。光が怒ってるだけやしぃ」

 ぷい、と何もない壁に向き直りながら師父は言った。あらら、今日もだめか。

 師父とお嬢さんが冷戦状態に陥ってからかれこれ一週間。発端は、お嬢さんの「アルバイトを始めます」宣言だった。

 二ヶ月前だったかと思う。社会勉強かしらと思ったら、お金が欲しいと生々しいことを言うので師父も私もひっくり返った。

 中高という最も多感な時期を、港町横浜の山奥にある女子校という耽美な閉鎖世界でどこぞのご令嬢方と過ごしたお嬢さんは、目下狂った金銭感覚を叩き直しているところなのだ。われわれ庶民は、お金を稼がねばならぬ身分だと。

 中高六年間を姉妹のように共に過ごした大親友、樺山樹里さんと夏休みに遊ぶ計画を立てていたお嬢さんは、その資金として師父がコツコツ積み立てた貯金には手をつけられないと大変賢明な判断をした。そこで、アルバイトでお金を稼ぎ、夏ではなく冬に樹里さんを訪ねることにしたのだった。私はお嬢さんがとても誇らしかった。

 立派になったお嬢さんに、師父は私より複雑な思いだったようだ。成長が嬉しくもあり、さびしくもあり。大人になったなあ、と何度も呟いては、何度も涙を流した。一日中、お嬢さん初めてのアルバイトにふさわしいところはどこかしらと考えたりした。遅くなったら心配だから近いところがいいなあ、なんて言っていたのに……。

「ふんだ。土器洗いなんて」

 プンプン!と、声に出して師父が言う。呆れるのにも飽きてきた。このところ毎日聞いているものだから。

 お嬢さんが初めてのアルバイトに選んだのは、大学が募集していた「土器洗い」だった。新キャンパス建設予定地から出土した物をせっせと洗う。桃枝から多少離れているものの、安心なバイト先だと言って最初のうち師父は喜んでいた。

 師父が気に入らないのは、「土器洗い」を選ぶに至った理由だ。お嬢さんが、大学で一番慕っている瀬川先生にアルバイトを探していると相談し、土器洗いを紹介されたことを知ってしまったのだ。

 とどのつまり、師父はスネているんである。齢七十五にもなって、孫が他の人にアルバイト先を相談したからといって、一週間もスネているんである。大人げないったらない。

 困ったことに、その大人げなさはお嬢さんにしっかり遺伝している。師父が大人げなくツーンとやれば、お嬢さんも対抗してぷいっとやる。まったく困った。

 三日もあれば飽きるかなあと思っていたのに、もう一週間。胸が痛い。胸が痛いと、なんだかお腹もちくちくしてくる。食卓に会話もなくて、このところ食欲がない。ゐかりの栗ご飯なら食べられるかもと思って念力を送っているのに、届かな――。

 

 カッ。

 

 と、何の前触れもなく閃光が走った。

 明かり採りのほんのわずかな窓が捉えた雷光。どきりとする間もなく、鋭い音が響き渡る。うちに落雷したのでは、というほどの衝撃に、家中のあらゆるものが揺れた。

「今のはどっか近くに落ちたやろな」

 がさがさ新聞を畳みながら師父が言った。

 耳を澄ますと、外からまだゴロゴロと雲の中で渦巻くような雷の音がしている。なんとまあ、ヤモリの勘が当たった。

「……お嬢さん大丈夫ですかねえ。傘も持っていなかったような」

 電車の中だといいのだけれど。

 小さい頃、お嬢さんは雷を何よりも恐れていた。大学生になったとはいえ、恐怖心はそうそう克服できるものではない。今頃どこかで震えてやいないだろうか。

「はん! こっ、子供やあるまいしっ」

 つーんとなんでもないフリをしながら、そそくさと師父は戸に向かった。そろっと外の様子を確認している。本当は傘持って追いかけて、今日はバイトを休みなさいと言いたいくせに。強がっちゃってまあ……。

「雨は降ってへんわ。ていうか、晴れてる」

 ホッとしたように師父が言った。お嬢さんが濡れて凍える心配はなくなったわけだ。

「お天気雷、めずらしいですねえ」

「雨降ってへんなら、虫干しやろか」

「秋ですねえ」

 風がさらりとした秋は、虫干しの季節だ。蔵で眠っている古文書類に風を通し、湿気や虫から守る。

 なにせ量が膨大なもので、蔵から出すだけでも一苦労。一度集中が切れると、そこで終わってしまう。だから、昼食の後もささっと作業に移ろうとしたのだけれど。

「秋といえばモンブランやな」

 と急に閃いた師父が、モンブラン食べるまで働きたくないと言い出したのだった。数分しぶったけれど、結局、モンブラン!モンブラン!の声に負けてしまった。


 そんなこんなで、わざわざ鴨川を越え、河原町通も越え、烏丸通までも越えて京都の小さな名店《パティスリー・エス》でモンブランを買った。帰り道、鳴神小路に入ったところでばったりお嬢さんと会った。お嬢さんは北側から、私は南側から小路に入ったのだ。

「お嬢さん、おかえりなさい」

「天草もおかえりなさい。お買いもの行っていたの?」

 届いていた夕刊を取り、お嬢さんに渡した。

「ええ、師父がモンブランを食べたいと言ったもので。私はお茶の用意をしますから、夕刊はお嬢さんが師父に渡してください」

 そろそろ仲直りしてほしい。という私なりの意思表示。二人とも頑固だから、誰かが背中を押さなくては。

 お嬢さんは何か言いたげだったけれど、私はそそくさとその場を離れた。

 台所に立ってヤカンを火にかけつつ、耳はぴくぴく、師父の部屋の方へ集中させていた。お嬢さんは師父と仲直りしてくれただろうか。襖の奥からはなんの会話も漏れてこない。

 そのうち、お嬢さんがすいーと襖を開けて師父の部屋から出た。無言だ。

 盆にモンブランと煎茶を載せ、襖の前で膝をついて一言かけた。

「師父、入りますよ」

 返事はなかったけれど、開けた。座布団にちょんと座った師父が新聞を読んでいる。お嬢さん、ちゃんと夕刊渡してくれたようだ。

「面白い記事でも載っていますか」

 無言で師父が頷く。手招きされたので横から覗き込んでみた。

【世紀の発見から一転、ミイラ盗まれる】

 とある。朝刊とは違い、地域面を飛び出し大きな扱いになっていた。

「あらら、盗まれちゃったんですか」

「ミイラて、なあ。呪われてそうでおっかないのによう盗むわ」

 扱いが大きくなったものだから、ご丁寧に写真が二つも添えてある。骨付きハムにしか見えないものがミイラで、隣にはなんだかよくわからないCT写真が並んでいる。たしかに、羽を持っているような骨格が見えるけれど、なぜだろう、ぞわっとするほど不気味だ。

「これは呪われますねえ」

「なあ。怖い怖い」

 ぶるぶる、と身震いの真似ごとをした師父は、何事か閃いてぴょんと立ち上がった。空飛ぶスーパーマンのように右の拳を突き上げて言う。

「よっしゃ、柳浦君にも教えたろ!」

 師父の大親友にして桃枝の大事なお客様、能楽師の柳浦先生のことだ。柳浦先生のお宅もうちと同じ《みやこ新聞》だったはず。わざわざ電話しなくても、とは思うけれど。楽しそうだからまあいいや。

「天草、今日のご飯なあに?」

 着替えて居間に下りてきたお嬢さんが言った。

「鮭ときのこのホイル焼きです」

「手伝うことある?」

「いえ、お嬢さんもモンブラン召し上がってはいかがです」

 そこで師父の視線に気づいた。

 お嬢さんと師父がじっと見つめ合い、そして……つーん、とやった。あああ、もう。柳浦先生に電話すると言っていたはずの師父は縁側の方へ行ってしまい、

「曇りやな!」

 と見ればわかることをわざわざ口に出して言った。もう、もう、もう!

「お嬢さん、そろそろ仲直りしませんか! 師父と! ね! 一緒にモンブラン食べてあげてください。エスのモンブランですよ。和栗で、とってもおいし――」

「別に、ケンカなんてしていないもの」

 ぷいっとしてお嬢さんは自室に引き上げてしまった。

 今日はいつもよりも玉ねぎが目にしみた。


     2


 月曜になってミイラ盗難事件に動きがあった。

 われらが《みやこ新聞》によると、なんと有力情報提供者には懸賞金が出るという。

 ケンカ中の師父とお嬢さんも無言で停戦を宣言し、額を寄せ合って新聞にかじりついた。私も後ろから覗いてみる。

 

【世紀の発見から三日 ミイラ 依然行方知れず ついに懸賞金】

 

 東山区小松町から出土した鳥類と思しきミイラが、発表の翌日盗難された事件で、京都府警は、発掘の合同研究チームが懸賞金を設け情報提供を呼びかけたと発表した。懸賞金は上限百万円。

 京畿文化財調査会(京都市中京区、田中晴夫代表)が今年三月から、マンション建設に伴い、近隣100平米を調査していた。先月二日、十二世紀末頃と見られる石組井戸を発見。それにより竹軒大学環太平洋文化研究室(同市北区、喜田憲室長)が調査に加わっていた。周辺からは多数の土器片および陶磁器片が出土しており、今月九日、土器盃に挟まれた鳥類と思しきミイラが発見された。現存する鳥類の骨格との差異が見られたことから謎の鳥であるとして学会をわかせた「世紀の発見」であったが、発表の翌日十日未明、何者かによって竹軒大学環太平洋文化研究室から盗み出されていた。

「ミイラは、外見はほぼ古代エジプト式。CTを撮影したところ体内に幼体と見られる亀の甲羅が確認された。エジプトでもめずらしい例。アビドスで発掘されたアフリカクロトキのミイラにはカタツムリが詰められていた。理由はわからない。調査を楽しみにしていた」

 と合同研究チームは説明する。

 

 百万円かあ。さすが、私立大学が絡むと太っ腹だ。

 すごいですねえ、と二人に話を振ろうとしたら、いつのまにか停戦は終了していた。お嬢さんはふいっと自分の席に戻り、師父は新聞をめくる。いつまで続くのかなあ、こんな生活……。

 希望は捨てまい。止まぬ雨などないし、終わらぬ戦もまたないのだ。冷戦の象徴だったベルリンの壁でさえ、今や土産物なんだし。大丈夫。きっと大丈夫。家族だもの。

 師父は新聞に夢中のフリをしているから、ひとまずお嬢さんに声をかける。

「寒梅大学でも面白い発掘はありましたか?」

「ぜんぜん、かけらばっかり」

 ふと間を開けてお嬢さんはくすりと笑い、

「竹軒大学も大変ね、盗まれちゃうなんて」

 と言った。首を傾げてしまうほど皮肉のこもった声だった。

 竹軒大学といえば、お嬢さんが通う寒梅女子大学の母体、寒梅大学のライバル大学だ。ここ一世紀ほど飽きもせずにいがみ合っている。部活で対戦すれは、寒梅大学は《梅竹戦》と呼び、竹軒大学の方は《竹梅戦》といって譲らない。入学から七ヶ月、どうやらお嬢さんは愛校心に毒されたらしい。

「光も性格歪んでしもたな……」

 スキップしそうなほど軽い足取りで大学へ向かった孫娘の背中に、師父がそうこぼした。

「師父が素直になれば、お嬢さんだって素直になるんじゃあないですかねえ」

「はん! 僕は素直やんか」

 さすが筋金入りの意地っ張り。手ごわい。負けるもんか。

 とはいえ、しつこく「仲直り」「仲直り」とわめいても逆効果だ。効果的に仲直りへ導くにはどうすればいいのかしらと一日中考えていた。私が悪役を買ってはどうか、とか。師父お気に入りの古伊万里を人質、いや、物質に取って交渉してみようか、とか。解決策を見いだせないまま時は過ぎ、あっという間に夕食の献立を決める時間。

 そこで、鍋に決めた。皆で一つの鍋をつつけば、師父とお嬢さんも仲直りしてくれるかもしれないと淡く期待して。

 

 買い物から帰ると、鳴神小路は井戸端会議の真っ最中だった。めずらしく師父が参加している。師父が手招きするので私も参加した。

 桃枝のお隣《京飴アリス》の有栖さんと、ゐかりのお向かい《くらぶ一樹》のえみ子ママがお互いの腕をぱしぱし叩き合いながら夢中でぺちゃくちゃしているところだった。何の議題かと思えば、盗難ミイラの懸賞金。ご近所スキャンダルに次いで人気が高いのがお金の話題だ。

「やーん。百万円ですってー。是が非でも見つけたいですよねー」

「盗難の懸賞金にしては破格やけど、百万円やなんて、私ら商売人にしたらハシタ金よねえ。すーぐ使てしまうわ」

「やーん、えみ子ママ、世知辛いわー。でも言えてますよねえー」

 師父も、うんうんと頷く。本当に世知辛い。

 百万円がそうワクワクする金額でもないと気づいてしゅんとしていた有栖さんの目が、突如きらりと輝きを取り戻した。

「そうだっ。犯人が桃枝さんとこにミイラをコッソリ売りに来たりして! 前にありましたよね?」

「さすがにミイラはねえ、ちょっとないんと違いますやろか」

 師父が苦笑いする。

「でもでもー、古いものに変わりはないでしょー? エジプトー。ファラオー」

「歴史的な価値のあるもの盗んで売ろうっていう輩にはね、もともと買い手のコレクターと繋がりがあるもんですよ。ひょっこりそこらへんの骨董屋で売ろうなんてことは、まずないですわ」

「なあーんだあー。でもひょっとしてひょっとしたら、警察に通報する前に教えてくださいねっ。見てみたいわあー、ミイラ」

「アンタ、ぽやーんとした顔して、なかなかの肝やね。あんな薄気味悪いミイラ、呪われそうでコワイコワイわ。誰が盗んでまで欲しがるんやろ」

「盗まれたんと違うのかもしらんえ。何世紀かぶりに自由になったんやろし、嬉しい嬉しいいうて飛んでったんかもしらん」

 などと得意げに顎髭を撫でながら師父が言った。

 桃枝のおじいちゃんたらやーねー、と有栖さんの笑い声が小路に響く。いつもの光景だ。けれど、いつもの鳴神小路井戸端会議と何かが違う。何かが足りない。

「……あれ、そういえばゐかりの若大将は? 井戸端会議欠席なんてめずらしい」

 めずらしいも何も、ゐかりの若大将こそ主催者なのに。

「そうなんですよー。おかしいですよね。風邪でも引いたのかしらー」

「いややわ、有栖さん。あの人に限って、風邪やなんて。ふふ」

「それもそうですね、うふふ」

 どちらもみなまで言わないけれど、要するに、バカだから風邪なんて引きやしないという嘲りである。いないところでは何を言われるかわかったもんじゃない。井戸端会議のおそろしさ。

 女性二人が主導権を握った井戸端会議は、未来永劫続くかに思われたけれど、師父がクシュンとくしゃみしたことによってお開きとなった。「桃枝のおじいちゃん風邪引いちゃう! 死んじゃう!」と縁起でもないことを有栖さんが仰ったので。このところすっかり冷えるようになった。秋は逃げ足が速いから、すぐに冬が来てしまう。

 家に入るなり、師父は死んじゃわないように首元をマフラーでぐるぐる巻きにして暖を取った。


 ゐかりの若大将不在の理由は、その日のうちに明らかになった。えみ子ママのにらんだとおり、風邪でもなんでもなかったのである。

 暖簾を仕舞っているときに、お隣から有栖さんが飛び出してきた。その勢いのままさっとうちに入り、興奮気味に辺りをキョロキョロとやった。珍獣が飛び込んできたのかと思った。その場にいた私も大学帰りのお嬢さんも呆気にとられて固まった。

「大変大変っ」

「どうしたんです?」

「ゐかり! ほら、若大将井戸端会議に来なかったでしょ! 大変大変ーっ」

 居間でクロスワードに興じていた師父も出てきた。

「若大将がどうかなさったんですか?」

「結婚よーっ」

 今世紀最大の事件が起きたかのように、有栖さんは両手をドラマチックに振り回しながら言った。結婚よーっ、よりも、火事よーっ、という感じだった。それも、まるで御所でも燃えたかのような。

「結婚、したはるやないですか。若大将。らぶらぶ」

 師父が冷静に言った。

 ゐかりの女将を務める琴江さんと若大将は幼馴染み同士の大恋愛で有名だ。

 育った地区は異なるものの、同じ剣道教室に通っていたらしい。道場一の剣術小町と謳われた琴江さんにあるとき勝負を挑んだ若大将は「俺が勝ったら結婚してくれるか!」と言ったらしい。「ようござんす」と受けた琴江さん。でやあーっと若大将渾身の面は空を切り、琴江さんの胴が見事に決まった。とかいう話が尾ヒレをわんさかつけてこのへん一帯に広まっている。場所も嵐山の竹林だったとか鴨川の河川敷だったとかあやふやだ。何が決め手で琴江さんが結婚を承諾したのかも謎である。

「やだやだ、桃枝のおじいちゃんたらっ。若ボンよっ。若ボンが結婚なのっ」

 まるで漫画のようだった。師父と私はのけ反って驚いたし、お嬢さんは持っていたカバンをどすんと落としてしまった。

「若ボンが大分で修業していたときの彼女なんですって。なーんと体一つで押しかけ嫁入りらしいのっ。押しかけよっ。それで、若ボンに恋してた女給さんたち何人かショックで辞めちゃったんですって。テンテコマイで、若大将大変だったらしいのーっ」

 嘉永の昔から続く老舗の若き後継者、若ボンが結婚。それは、鳴神小路の住人にしてみれば御所が火事になるほどの大騒動なのだった。


 土鍋を囲みながら、夕食は若ボンの結婚話で持ちきりだ。

 師父も私も、若ボンのお尻がオムツでぽっこりしている頃から知っている。ゐかりの向かいで三十年お店をやっているえみ子ママだってそうだし、若ボンが初めて歩いた日をカメラにおさめたのは《ギャラリーとば》のご主人でセミプロカメラマンの鳩羽さんだ。

「若ボンが結婚なあ。ちょっと早いんと違うやろか」

 ちらりと師父がお嬢さんを確認しながら言う。お嬢さんと若ボンは丸三つしか違わない。感化されて結婚に走られちゃ困るとでも言いたげな眼差しだ。

「ゐかりを継ぐぞっていう気持ちの表れじゃないですかねえ。本当に、立派になって」

 涙がちょちょ切れそうだ。もちろん嬉しく思うし、誇らしいし、置いていかれるようでさびしくもある。若ボンが結婚。月日は容赦がない。

「へんよ」

 お茶碗の米粒をつついていたお嬢さんがぽつりとこぼした。

「おにいさん、お付き合いしているひとがいるなんて言っていなかったもの」

「そら、若ボンかてもう立派な青年。小学生の頃と違うんやから、なんでも光に」

「そうじゃなくて」

 お嬢さんが少し、ムッとして師父を遮る。

「七月に建具を替えたとき、おにいさんが手伝ってくれたでしょう? 一緒にお夕飯食べたじゃない。そのとき、天草がおにいさんには願いがあるかって聞いたの」

 そういえばそんなことがあった。あのとき私はご近所さんに願いは何ですかと聞いて回るキャンペーンの真っ最中だった。それというのも自分の願いがわからなかったから。

「ゐかりを継いでゐかりが二十二世紀にも愛されるお店にすることがおにいさんの夢だって言っていたわ。そのためにまず、大女将が笑って認めてくれるお嫁さんが来てくれることが願いって」

 たしかに、そんなことを日本酒で顔を赤らめて若ボンが言っていたような気がする。いつになく饒舌になっていた。

「お付き合いしているひとがいる感じじゃなかった」

「彼女さんを大女将が認めてくれたらええなってことやったん違うかな」

「おばあちゃまに認めてほしいのなら、おにいさんは外堀から埋めるわ」

 自信たっぷりにお嬢さんが言う。その根拠は私にもなんとなく覚えがあった。

 若ボンが中学二年生のときだ。桃枝に同級生の女の子を連れてきた。大人びた中学生のお姉さんに遊んでもらえたことがお嬢さんは嬉しくて、そして――。

「彼女さんがどんなに素敵なひとか、わたしに証言させるはずだもの」

 おばあちゃん子で大女将に頭の上がらない若ボンは、何があっても大女将を落胆させまいと小さな頃から必死だった。涙ぐましいほどに。大女将の方もそんな若ボンが可愛くて仕方ない。

 そして大女将が若ボンの次に甘いのが、一緒に育ったうちのお嬢さんである。たいていは「光ちゃんが言わはんにゃったら、ええ人なんやろうねえ」ということになるのだった。お嬢さんが京都を離れ聖バルバラ女学院へ行くまでの間に、そういった小細工に四度ほど加担させられていた。

「へんだわ」

「そんなヤキモチ焼くこともあれへんのに」

 ふいーっとため息まじりに師父が言った。お嬢さんの頬がみるみるぷくーと膨らんでしまう。あわわ、怒ってる……。

 宥める間も与えてくれず、お嬢さんは無言で食器を運び、無言で自室に引き上げてしまった。ああ、せっかくのお鍋が。ほのぼの家族だんらんが。

「師父ー。変やなあって合わせてあげてもよかったでしょうに」

「なんでや。僕、悪くない!」

「悪いなんて言ってません。仲よくしてほしいんですっ」

「仲悪くないっ」

 仲がいいほどケンカするだとか、いやよいやよもなんとやらとか、本人同士はそれでいいかもしれないけれど。心を傷めている者がいるかもしれないことに気づいてほしい。仲のよさの裏返しだからといって、親がケンカばかりしていたら子供は傷つくと思う。

 まあ、私はもう八百歳超えているので子供だなんて言っていられないのだけども。

 それにしても、ああ、お腹がちくちくする。

「なんえ、おまえ、もう食べへんのか」

「仲直りしてくれたら食べます」

 師父だってお嬢さんにスネられてちょっと食欲をなくしたくせに、気にしてないもんとばかりに、意地を張って私の残りまでぜんぶ食べた。嫌いなニンジンまで。

 師父が夜中に起きて胃薬を飲んだこと、私は知っている。薬瓶が出しっぱなしだったから。


     3


 翌日、鳴神小路の空気は朝から張りつめていた。

 おかしなことに、9時までやってこないはずの有栖さんがなんとご主人を伴って7時に現れ、8時には店を開けていた。店はご主人に任せて有栖さんは小路をうろうろしている。お向かいの鳩羽さんも同じように店先をぐるぐる回り、何かに備えている。あやしい。

 極めつけはえみ子ママだ。出勤は夕方なのに、お昼前にはバッチリ決めて参上した。いつもの着物姿ではなくてツイード素材のツーピースだった。ピンク色なのでよく目立つ。有栖さんと鳩羽さんに、お勤め御苦労とおにぎりを差し入れしている。見たことのない光景だ。すごくあやしい。

「えみ子ママ、ずいぶんお早いんですねえ」

「今日はお店お休みよん」

「……お休みなのに、なぜ?」

 私の手にも余ったおにぎりを握らせながら、えみ子ママがそっと耳元でささやいた。

「そらアンタ、確認せなあかんでしょう」

「確認?」

「若ボンのお嫁さんやないの。しっかりしよし」

 背中をバンと叩かれた。

 なるほど、有栖さんも鳩羽さんも、ゐかりに身を寄せているとかいう若ボンの彼女がひょっこり出てくるのを狙っているのだ。悪趣味なことである。

「若ボンと光ちゃんはこの小路の宝物。私らかて、なあ、気が気じゃないのよ」

 愛されて育つというのも、なかなか大変なことであるらしい。

 東山区は全国的に見ても高齢者の割合トップとあって、子供が年々減り続けている。お嬢さんや若ボンが通った小学校も、付近の小学校五つと統廃合でなくなってしまった。二人が宝というのは、あながち大げさでもないのだ。

 この一大イベントを教えてあげると、師父までも喜んで若ボン嫁ウォッチに参加した。ゐかりの大女将がうちのお嬢さんを可愛がってくれているように、師父も若ボンを可愛がっている。

 鳴神小路でただ一人、お嬢さんだけがつーんと無関心を装っていた。若ボンが一言も彼女のことを話してくれなかったのがよほどショックだったのだろうと思う。スネている。これはきっと、師父のDNAに違いない。

 鳴神小路の住人の努力もむなしく、結局その日は誰も若ボンの彼女を拝むことはできなかった。よほど大変なのか、若大将はまたも井戸端会議を欠席した。

 

 井戸端会議には、鳴神小路に隣接する御陵前通や青梅小路の皆さん、花街の置屋を仕切るおかあさん方も参加して大盛況だ。広くて人がいないからという理由で、鳴神小路の路上から《ギャラリーとば》へと会場が移された。

 とばでは今月「裸婦スケッチ展」をやっている。大胆に踊る裸婦、恥じらう裸婦、上半身だけの裸婦、と様々な裸婦が壁を飾る。そこへ町内のお年寄りが詰めかけたものだから、なんだか妙な雰囲気だ。まるでマッチしない。

 私は参加するつもりなどなかったのに、オークション帰りに見つかって引っ張りこまれてしまった。

「一歩も出はらへんやなんて、おかしな話やね」

「ゐかりのお手伝いしたはんのとちゃうの? 女の子何人も辞めてしもたて聞いたえ」

「大女将が許すかいな? いきなり連れてきて、そんな。なあ? 若大将かて、寝耳に水やー言うて、かわいそうに四苦八苦」

「それがあ、大女将は賛成なんですってえ!」

 お耳の遠い高齢者を気づかってか、有栖さんが大声で言った。

 一斉に、えぇーっとどよめく。

「アタシ、飴の納品に伺ったんですね、ほら、ゐかりがお客様のお帰りにお渡ししている大人気の飴、うちのなんです。うふっ。そのときに、ちらっと若大将とお話ししたら、やーん。なんとなんと、大女将ったら先代の大女将から受け継いだ帯留めを若ボンのお嫁さんにあげるって仰ってるんですって!」

「いやっ、琴江さんかわいそにな! 琴江さん飛ばして、若ボンのお嫁さんにあげるやなんて。いや、むごいむごいわあ」

 むごい、むごい、と念仏のようにぶつぶつ呟く面々を、権力のない私や鳩羽さんが遠巻きに見つめる、という図になった。

「そない言うたかて、息子の嫁よりは孫の嫁の方が可愛いもんと違う?」

「それはそやけど。ほな、琴江さんは反対やろねえ」

「うちかて反対やわ。だいたい、早すぎる。若ボンみたいな現代っ子は二十歳超えてもまだまだ子供え。昔は十五で元服したんやぞお、なんて言うような時代と違うねんし」

「ほんま、ほんま」

 ダムが決壊するのを目の当たりにしているかのようだった。誰かが「反対」の言葉を口にした瞬間から、反対反対と話がおかしな方向へ進んでしまった。

 若ボン結婚反対のデモ行進が結成されるすんでのところで、えみ子ママが沈黙を破って宣言した。

「私は賛成やね!」

 ざわつく群衆の中、隣の鳩羽さんだけが静かに、音ひとつ立てず拍手した。

「若ボンが選んだ子やもの。私ら周りがとやかく言うことやないでしょう。大女将が賛成なんやったら尚更やないの。琴江さんかて、息子の幸せが一番に決まってる」

 しん、と静まり返るギャラリー。さすがはえみ子ママ、と、私も鳩羽さんに倣って拍手しようとした。

 ところが、息を吹き返した反対派が「でも」「せやけど」と反論を始めたせいで、えみ子ママが徐々にヒートアップしてしまった。

 些細なことにもすかさず牙をむき、噛みついてゆく。気がつけばさながら猛獣のように誰も手がつけられなくなっていた。

「ええか! 反対なんやったらまず私を殺しよし! このえみ子の屍跨ぐ覚悟があらはんにゃろね!」

 にゃろね……にゃろね……にゃろね……とこだましたえみ子ママの言葉が消えると、そこで井戸端会議は解散となった。

 いつもパワフルでこの界隈を仕切っている風のえみ子ママでも、ここまで熱くなることはそうそうない。鳩羽さんが私の腕を叩いて現実に戻してくれるまで、私はその場にぽかーんと立ち尽くして取り残されていた。