日暮旅人がそうであったように、雪路雅彦にもまた興味本位に触れられたくない事柄がある。踏み込まれたくない秘密がある。そして、その大体が『家族』に直結する。

 元市長・雪路照之を父に持ち、十四年前に実母が病死し、六年前に実兄が自殺し、実母が存命の頃から愛人関係にあった継母が雪路家に転がり込んできたのもまた十四年前で、その翌年に腹違いの妹が誕生した。現在、雪路雅彦が『家族』という枠内に収めることができるのはふたりだけだ。すなわち、実父である照之と、半分ではあるが血が繋がった妹・麗羅である。思春期を特殊な家庭環境で過ごしたために『家族』というものに強いこだわりを持つに至り、そのせいで他人が住まう実家は居心地の悪いものでしかなくなった。高校を卒業するとすぐに家を飛び出した。

 しかし、飛び出したものの、二度と敷居を跨がないと決めたわけではない。ときには帰る。そのたびに家政婦から好奇の目で見られてしまうのだが、いちいち気にしない。何かと理由をつけてまで実家に帰る理由はただひとつ、実父と腹違いの妹の様子を時々でも確認せずにはいられなかったのだ。

 家族だから。口では否定的に語っても、それは憧れが強いことの裏返し。雪路雅彦は誰よりも深く、真剣に、『家族』というものに幻想を抱いている。

 故に、雪路雅彦にとって『家族』はとても繊細な事柄であり、軽々しく触れていい場所ではなかった。


「ふざけんじゃねえ!」

 怒号が飛んだ。テーブルを蹴倒し、床に落ちたカップが割れた。廊下からリビングの様子を覗き込んでいた里子の百代灯衣がびくりと身を縮こまらせた。

「そんなに俺が、雪路家が憎いか」

 頭一つ分背の高い相棒の顔を、襟首を掴んだまま見上げる。

 日暮旅人は哀しげに目を細めるだけで何も言わない。

「ずっと思ってた。アンタは他人に近づきすぎる。自分の側へは壁を作るくせにな」

 愛嬌を振りまいて、警戒心を解きほぐして、懐に入り込んで懐柔する。それが探偵・日暮旅人の遣り口だ。姑息で狡猾で、優しくて残酷な手法。

「俺はアンタのそういうところが気に食わなかった。自分を犠牲にしてまで他人に干渉しまくって、引っ掻き回して、見たくないもんを見せ付ける」

 あえて目を逸らしていたコトにまで気づかせるのだ。遠慮なしに心を傷つけにくる。

「アンタがしているのはそういうことだ」

 旅人からはやはり反論がない。目を逸らし、雪路の『声』を視ないようにしている。――らしくなく逃げるな。アンタのそんな姿見たくねえ。

「これ以上ウチの問題に口出しすんな。それで終いだ」

 踏み入られたくない場所なのだ。兄・勝彦については旅人の過去にも関係があり、旅人の人生の復讐に欠かせないキーパーソンであったために探られるのも仕方がないと割り切った。実母のこともその延長線上にあったという程度なのでまだ許せる。だが、そこまでだ。これ以上は、雪路雅彦の領域を侵犯する。心をすり減らす。

「麗子さんのことを調べるのはもうやめろ。いいな?」

 首を絞める勢いで襟首を吊り上げた。痛覚が無い旅人は平然としながらも、言い難そうに言葉を発した。迷いや躊躇いを一切感じさせずに。

 雪路の瞳を真っ直ぐに見つめて。

「やめないよ。一度引き受けた依頼を投げ出すことなんて僕にはできない」

「テメエ!」

 旅人を思い切り壁に押し当てた。むせ返りはするものの、旅人の表情は歪まない。むしろ旅人に暴力を振るったこの手の方が痛かった。すぐにでも放したい。なのに。

 どうしてだよ、アニキ……!

 継母の麗子のことは、雪路にとっていまだ整理のつかない問題である。十四年前、彼女が雪路家にやって来たときから先送りしてきた問題だ、この先一生解決しない心の葛藤であるかもしれないのに、それをよりにもよって旅人に探られるだなんて。

 我慢ならなかった。

 裏切られた気分だ。

「もう付いていけねえよ」

 今回のことで見切りがついた。所詮、この人にとって雪路雅彦は復讐の駒でしかなかったのだ。その生い立ちに同情はしても、寛容になれるほどお人好しのつもりはない。

 襟首を掴んでいた手を放す。旅人の横をすり抜けて、リビングを出る。

「俺はアンタのパートナーを降りる。じゃあな――日暮さん」

 事務所を飛び出した雪路はまたひとつ居場所を失った。



      *   *   *


 七月下旬――。ますます盛りを迎える夏の炎天下、子供たちのはしゃぎ声が園内に響き渡る。保育士の山川陽子は、勤務するのぞみ保育園の元気すぎる園児たちに翻弄されながら忙しない日々を送っていた。勤め始めてから一年と少し。だが、この仕事は一生ものになるという確信があった。それほどまでに適応していた。忙しいけれど、楽しくてやりがいがある、そのように感じられる仕事に巡り合えたことを幸運に思う。

 こうして続けられていることを奇跡のように思う。

 約二ヶ月前のことだ、仕事はおろか日常生活さえ失い兼ねない事態に巻き込まれた。それは暴力団絡みの薬物事件に端を発し、とある探偵の過去から続く復讐へと繋がった。陽子は人質として捕まり違法ドラッグを嗅がされ、事件後一時的に体内洗浄と後遺症の検査で入院した。検査結果こそ問題なかったが、子供を預かる職場に復帰できるかどうか微妙なところであった。

「よーこせんせー、さよーならー」

「さよならー」

 お迎えが来た園児をひとりずつ送り出す。本日の業務ももうすぐ終わる。とても清々しい気分である。

 あの出来事を思い出すたびにこうして無事戻ってこられた喜びを噛み締める。失いかけて改めて大切だと気づかされたわけで、事件そのものをいい機会であったと今では前向きに捉えることができた。

 職員室に向かっているとき、大学時代からの先輩・小野智子先生とすれ違った。

「あ、先輩、お疲れ様でーす」

 すれ違う。その際、脳天にチョップが叩き込まれた。

「山川ー、ちょっといい?」

「痛った……。え? 何? なんで?」

 割と強めのチョップだった。智子先輩の顔は笑っているものの、そこから茶目っ気が微塵も感じられない。目が笑っていない。本気でお怒りになっている。

「え? え? え?」

 何か怒られるようなコトしたっけ……?

「ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「は、はい」

 口調も本気モードだ。反射的に背筋を伸ばした。怒った智子先輩は恐いのだ。普段から大声で怒鳴ることはあっても、それは園児を叱るときのポーズであったり、陽子のような気心の知れた仲間への激励であったりするのだが、本気で怒ったときの智子先輩は反対に静かになる。諭すように叱りつけてくる。

 学生時代、歴史研サークルの合宿で初めてその顔を見た。あまりにギャップがありすぎて不覚にも泣いてしまったことを思い出す。あのときは羽目を外した新入部員をまとめて叱っていたけれど、今は陽子ひとりに向けられている。思わず息を呑んだ。

「アンタ、テイちゃんに何をした?」

「え? テイちゃん? テイちゃんて、あの、……百代灯衣ちゃんのコトですよね?」

「他に誰が居るってのよ?」

 この園に『テイ』という名前の子供はひとりしかいない。ということは、人形のように美しいのにおしゃまで小憎らしくて大人顔負けの言動を繰り出す、あのパパ大好きっ娘のことで間違いないらしい。父親の名前は日暮旅人。血の繋がっていない父子家庭の親子で、それに関して職員の間では共通認識を持っていたらしいのだが、陽子は今年の春までその存在すら知らなかった。まさか今では一緒に夕食を食べる仲になっているとはその頃の自分は夢にも思うまい。

「そのテイちゃんよ。山川さ、最近テイちゃん家に行った?」

「えっと、その、行きました、けど、あまり大きな声で言うのはちょっと」

 憚れるので、声のトーンを落とした。

 陽子は一介の保育士でありながら日暮旅人と百代灯衣親子の家庭に時折訪問していた。当初はだらしない父親にしっかり者の娘というアンバランスさが心配になり、指導目的で押しかけたのがきっかけだった。やがて父親の仕事の方に興味が湧いた。

 日暮旅人は探偵である。聴覚、嗅覚、味覚、触覚の四つの感覚を失っているが、唯一残った視覚にそれらすべての感覚を宿して、さらに人間離れした勘と洞察力を働かせてあらゆる『探し物』を見つけてきた。陽子も何度も世話になっている。彼の住まいでもある探偵事務所に押しかけるのは、もしくはそんな旅人の活躍に惹かれていたからとも言えた。

 とはいえ、やはり一家庭を特別扱いしている現状は、バレれば他の保護者からの批判は免れないだろう。智子先輩は大目に見てくれているから良いけれど、あまり大っぴらに語れることではない。

 陽子は周囲を気にしつつ小声で答えた。

「テイちゃんがどうかしたんですか?」

 担当クラスが違うのでいつも気に掛けていられるわけではない。担任の智子先輩は逆に気になって仕方ないという。

「見てるのが辛くなるほど元気がないの。落ち込んでいるというより放心状態ね、あれは。みんなでお遊戯したりお歌を歌ったりしても、いつもだったらフリぐらいならしてくれるのに、ここ二、三日はまるで無気力。目が死んでるっていうか」

「目が、死んで……」

 想像もつかない。頭に浮かぶのはお迎えがパパかどうかで一喜一憂している灯衣のはしゃぐ姿ばかりだ。たしかに、そこから突然放心状態になったら何があったかと心配にもなる。

「風邪を引いたとか虫歯になったとかそういう感じじゃなかったわ。失意ってああいうのを言うんじゃないかしら。テイちゃんだけじゃないわ。毎日送り迎えをしてくれるチンピラの、あの……」

「ユキジ君? 亀吉さん?」

「そうそれ、どっちも。ああ、金髪頭の方は近頃全然顔を見せないわね」

「え?」

「それに、日暮さんも。みーんな様子が変なのよ。全員家族みたいに一緒に暮らしてるって言うし、それならきっとアンタも関係しているに違いないわ。ほら、何があったの? アンタ、何しでかしたのよ? 白状しなさい!」

「し、知りませんよそんなの!? あいたっ!」

 襟首掴まれて詰め寄られ、その勢いで額同士がぶつかった。おでこを押さえる陽子に対して、智子先輩はあまりの痛みに蹲っている。陽子は石頭だった。

 智子先輩は涙目で陽子を見上げた。

「知らないわけないでしょ!? あんまり心配になっちゃったからテイちゃんに直接訊いてみたけど答えてくれなくて、でもアンタの名前出したら露骨に嫌そうな顔して舌打ちしてたわ! 絶対に原因はアンタよ!」

「ええー……」

 ……嫌そうに舌打ちしてたんだ、テイちゃん。見てないところでそういう態度を取られていると思うと結構ショックだ。……なかなかダメージは大きかったが、自分のことはひとまず置いておこう、それより気になることがある。

「みんなの様子がおかしいって、どんなふうにですか? 私、送り迎えのときに偶に亀吉さんを見掛けるくらいだから気づきませんでしたけど」

「その亀吉さんっての? あの人と金髪頭はいつも朝夕交替で来るのに、最近では亀吉さんばかり送り迎えしてて。でも、なんとなく元気ないのよ。偶に一緒に来る日暮さんも表面上はニコニコしてるけど、なんか無理してる感じだし。っていうか、本当に知らないの?」

「まったく。テイちゃんが元気ないのはここ二、三日のコトですよね? なら、心当たりないです」

「アンタが最後に日暮さんトコ行ったのっていつよ?」

「一週間くらい前にお邪魔したのが最後ですけれど」

 すると、智子先輩は拍子抜けしたように呆れ顔になった。

「一週間? 何よ、もっと通い妻やってんのかと思ったら、ずいぶん遠慮がちね」

「だ、だからっ、その表現やめてくださいってば!」

 智子先輩は、大目に見てくれているどころか、むしろ「どんどん攻めろ」と背中をぐいぐい押してくる。男っ気がまるでない陽子を心配しているらしく、陽子と旅人をくっ付けようとしていた。智子先輩はこの手の話になるとお節介を焼きたがるのである。

「いいじゃない。公然と恋人になっちゃえば人目を気にしなくて済むでしょ?」

「気にしますよ! っていうか、恋人になる予定はありません!」

 残念なことに。陽子がその気でも、旅人にその気はまったくないのだ。両親を殺した犯人を見つけ出すことができた旅人は、それのみを目的に生きていたせいか、他のことには無欲だった。現状に満足しており、それ以上を望むのを恐れている節がある。五感が無いことが関係しているはずで、そこを突き崩すのはおそらく至難だ。

 困らせるような真似はしたくない。というわけで、最近では日暮親子の世話を最少限に抑え込んでいた。

「そっかー。山川が原因だっていう確信あったんだけどなー」

 なので、先にチョップで制裁したという。おい。

「いま初めて知りました。旅人さんとユキジ君にはたぶん一週間くらいきちんと会えてないです。……ふうむ、ユキジ君が送り迎えしていないっていうのはたしかにちょっと不自然ですね」

 探偵である旅人の代わりに世話役を引き受けた雪路が灯衣の面倒を見ないのは明らかにおかしい。大学や副業で忙しいのかしら。それとも病気? 何にせよ、真っ当な理由があるなら陽子にも伝わっているはずだ。雪路の私生活は割と謎が多いので、こういうとき憶測を立てるのが難しい。

「テイちゃんが元気ないのと関係あるのかな」

「出過ぎた真似はしたくないけど、他の園児に影響がないとも言えないからね」

 亀吉という存在だけでも影響ありまくりなのである。

「テイちゃんには早く元気になってもらわないと。頼んだよ、山川」

 智子先輩は「後できちんと報告するのよ」と陽子に問題を預けた。


         *


 夕方になり、お迎えを待つ園児は灯衣だけとなった。

 智子先輩から厳命を受けて、陽子が代わりに灯衣のお守りをしに年中組の教室に向かった。床に座り家電チラシを熱心に見ていた灯衣だが、陽子の登場には一切反応しなかった。

「こんにちは。お迎えくるまで一緒に待ってようね。あら? 冷蔵庫買い替えるの?」

「……」

 反抗してかチラシを折って飛行機にして飛ばす。そして、こてんと寝転んだ。

「テイちゃん、元気ないね。どうかしたのかな?」

「……」

「私でよければ相談に乗るよ?」

 膝立ちで距離を詰める。すると、灯衣はゴロゴロと転がって距離を離した。むっとなり、四つん這いの姿勢で灯衣を追いかける。灯衣は壁際まで転がりピタリと止まった。陽子が追いついても微動だにしない。

「テ、テイちゃん?」

「……」

 反応がない。頬をつついてもピクリともしない。こんな灯衣は初めてだ。陽子がちょっかいを掛けると「いい加減にしてっ」と腰に手をやり説教を始めるいつもの灯衣はどこへやら。なるほど。たしかにこの状態が一日中続けば智子先輩でなくても心配になる。

 陽子は灯衣に聞こえるように大きく息を吐き出した。

 今度は真剣な声音で訊ねた。

「旅人さんたちに何かあったの? もしそうなら正直に言って。力になりたいの」

「……陽子先生には関係ないことよ」

 ようやく喋った。しかし、発した言葉は拒絶の割に弱々しい。

「関係ないことない。みんなには何度も助けてもらったもの。今度は私が返す番。だから、テイちゃんも困ったことがあるなら私を頼って。ね?」

「……」

 まただんまりである。いきなり「悩みごとを打ち明けろ」というのは少々急すぎたようだ。しかし、これまで何度も思ったことだが、この子は本当に園児らしくない。まるで思春期の青少年を相手にするみたいに気を遣う。子供なら悩みごとがあれば泣いて喚いて発散するもんじゃないの? 今から我慢強くてどうするの? 大人になったら嫌でも泣けなくなるんだから。

 と、しんみりしている場合じゃなかった。

「お迎え遅いね。今日の当番はユキジ君だっけ?」

「ユキジは来ないわ。今日はカメ」

「え? でも、カメさんなら大体いつも時間どおりに来てくれるじゃない」

「本当の当番じゃないから遅くなってるだけ」

「当番じゃないって?」

 一瞬、躊躇してから灯衣は言った。

「本当はユキジ。でも、もう来ないわ。あと、パパはお仕事でいないから」

「もう来ないって、何で?」

「辞めちゃったもの。探偵事務所」

 何を言われたのかわからず、数秒固まった。「ええっ!?」聞き間違いかとも思ったが、灯衣の表情には諦観がはっきりと浮かんでいた。

「や、辞めちゃったって、ど、どど、どうして!?」

「さあ? パパとケンカしてたからそれが原因じゃない?」

「喧嘩!? け、喧嘩って、な、何で?」

「もう! わたしにばっかり訊かないで! 知らないわよ、そんなの!」

「ご、ごめん」

 癇癪を起こした灯衣は上体を起こすとデタラメに顔を拭った。泣いていた。気づかなかっただけでその目は泣き腫らしたように赤かった。

「テイちゃん……」

「あんな奴、もう知らないっ」

 どれほどの喧嘩だったのだろうか。いくらパートナーでも人間同士だ、意見の衝突くらいあるだろう。実際、旅人と雪路が報酬を巡って言い争っている姿をこれまで何度も見ている。それは大体微笑ましいもので、灯衣もそれはよく知っている。

 身近でふたりを見てきた灯衣をして決別したと思わせたのである。雪路がはっきり「辞めてやる」と口にしたという、それは壮絶な喧嘩だったに違いない。まるで想像つかないし信じられないけれど、深刻さだけは十分伝わった。

 あのふたりがコンビを解消するだなんて、そんなの。そんなの――。

 突然、灯衣は立ち上がった。ふらふらと覚束ない足取りで教室を出て行く。おトイレかな? 何気なく後を追ってみると、灯衣はふらふらしたまま靴を履き替える。

 昇降口に立って行儀よくお辞儀した。

「ユキジが来ないので、ひとりで帰ります。さようなら」

「さようなら、じゃない! ちょっと待ちなさい! それ、全然関係ないから! ひとりで帰らせるわけにいかないから! カメさん来るんでしょ!? 待っていよ! ね!?」

 羽交い締めにして抱きかかえると、灯衣はぶーっと頬を膨らました。油断も隙もあったもんじゃない。落ち込んでいてもやはり灯衣は灯衣だった。

 教室に戻ると、灯衣はふて寝するように寝転がった。

 無気力な背中に訊ねた。

「ねえ、テイちゃん。ふたりが喧嘩したのって、いつ?」

「そんなの知ってどうするの?」

「私もユキジ君が辞めるのは嫌なの。なんとか仲直りできないかなって」

 意固地な当事者に比べ第三者が仲裁した方が仲違いは解決しやすい。それに、大好きな人たちが決別するのを、理由もわからずに受け入れるなんてできるわけがなかった。

 嫌なのだ、そんなのは。

「私たちでふたりを仲直りさせようよ。テイちゃんだってこのままがいいなんて思ってないんでしょ? だったら」

 灯衣はしばらく逡巡した後、ゆっくりと体を起こした。背中を向けたまま、こくり、と小さく頷いた。

 灯衣にとって雪路も家族のひとりである。旅人がパパなら、雪路は兄であろう。

 このままでいいはずがなかった。

「喧嘩したのはこの前の火曜日よ」

「火曜日……今日が土曜日だから、四日前か。その間、ユキジ君は一回も事務所に来てないの?」

「そうよ」

「旅人さんは喧嘩のことテイちゃんになんて話したの?」

「何も。心配しなくていいって、それだけ。わたしには何も説明してくれなかったわ。……でも、喧嘩したあの夜、パパは依頼を受けたってユキジに喋ってた。それを聞いたユキジがいきなり怒り出したの」

 言い争うふたりの会話を廊下で聞いていたらしい。

「ユキジ君が怒ったのって依頼に関係することみたいね。旅人さん、他に何か言ってなかった? どんな依頼だったかとか」

「わかんない。難しいことばかり言ってたから」

「そう」

 困った。仲裁しようにも喧嘩の原因がわからなければ説得する取っ掛かりが掴めない。やはり、ふたりに直接訊く以外に事態を知る術はないようだ。しかし、あのふたりが素直に説明してくれるとも思えなかった。どうしよう。

「でも、依頼した人ならわたしも知ってる」

「え? 誰!?」

 喧嘩の最中に何度もその名前が出たという。そうだった、もうひとりの当事者を失念していた。依頼があったというならば、引き受けた側だけでなく当然申し込んだ側もいる。依頼内容は依頼人に直接訊けばいいのだ。光明を見出した気分である。

 灯衣はしかし、嫌そうにその名前を口にした。

「レイラよ。ユキジの妹の」


         *


 翌日、日曜日。陽子と灯衣は朝から雪路邸を訪問した。

 雪路麗羅とは面識がなかったのでアポイント無しで直接会いに来た。きっちり捕まえられるようにと午前中を狙ったのだが、取り次いでくれた家政婦の一味珠理は「レイラちゃんは基本引きこもってるからいつ来ても会えますよ」と笑い飛ばした。

「でも、ごめんなさい。突然お邪魔しちゃって」

「気にしなくていいですよ。日曜日は私以外に家政婦さん居ないし、お家の人も居るのは奥様とレイラちゃんだけだから。お客さんが来たって聞いたら奥様ならきっと喜ばれるかな。人の話を聴くのが大好きなんですよ、あの人」

「ユキジ君のお母さん?」

「はい。雅彦君が嫌がるから無理だったけど、本当は山川さんやテイちゃんとも会いたがってたんです。ほら、テリーがまだ居た頃に」

 そういえば、そんな名前だったっけ、あの犬。灯衣は独自に『ブブゼラ』と呼んでいたのでそっちで覚えていた。

 珠理とは以前テリーという名前の野良犬を雪路邸で保護したときに初めて面識を持った。灯衣も犬と遊ぶために何度もここに足を運んだ。今日の訪問はテリーが新しい飼い主に貰われて以来初めてで、珠理とは久しぶりの再会であった。

 門を開け、先導してくれる珠理を見る。ジーンズにTシャツというラフな格好の上からエプロンを着けていて、まるで陽子の仕事着のようだった。最初に訪問した際、家政婦と聞いてメイド喫茶のコスプレ服を連想していたが、雪路に「んなわけねえだろ」と呆れられてしまい、かなり恥ずかしい思いをした。珠理は大笑いしていた。

 珠理は雪路の二つ年上、陽子の一つ年下だ。ショートヘアがよく似合う、快活な女性である。雪路に対して遠慮のない物言いをするものの、どこか見守っているような温かさがあった。雪路の態度も普段と違っていて、ふたりは特別な関係なのかしらんと勘繰らずにはいられなかった。

「テイちゃんは今日も可愛いね。綺麗なお洋服! 本物のご令嬢みたい!」

「当然よ。どっかの引きこもりと一緒にしないで」

「あはは。その憎まれ口もいいなー。ほんと可愛い。レイラちゃんとは正反対ね」

 会わせるのが楽しみ、と声を弾ませる。陽子たちの訪問理由を知らない珠理は暢気にウキウキしている。

「私もレイラちゃんにはまだ会ったことがないんです」

「ですよね。あの子、本当に人見知りだから。でも、テリーと遊んでいたときも、ずっと遠くからみんなのこと眺めてたんですよ。だから、おふたりの顔と名前は知ってると思います」

「そうだったんだ。一緒に遊びたかったのかな」

 人見知りと言うし「仲間に入れて」の一言がなかなか言い出せなかったのかもしれない。もう少し気をつけて見ているべきだったか、と陽子が反省していると、

「いーえいえ、むしろ逆かな。アレは早く帰れっていう念を送ってたんです。レイラちゃんの場合、人見知りっていうのは人間嫌いのことだから。自分に害が無いと認めた人以外にはあまり心を開かないんです。結構困ったちゃんなんだなー」

 困ったと言いつつも珠理の笑みは絶えない。そんなネガティブな面すらも愛しく感じているようだった。

「今日来ることは雅彦君は知ってるんですか?」

「えっと……、それはまだ伝えてなくて、その」

「ですよね。大体予想はついてました。レイラちゃんに会おうものならまず雅彦君の許可が要りますもん。私にも連絡は来るだろうし、あのシスコンも絶対付いてくるし。居ないってことは雅彦君には内緒なんだろうなって」

 陽子が言いあぐねただけで確信を得ていた。ちゃっかりシスコンって……。雪路に対してだけは本当に容赦がない。

「あいつ最近、顔も見せないし。ほんと何やってんだか。そう思いません?」

 変わらない笑顔なのに、そう言ったときの珠理の顔はどことなく寂しげに見えた。

 廊下を渡る。初めて入った雪路邸は、外から見るよりも広く、想像以上に豪奢だった。調度品の一つ一つが高級品で、趣味もいい。内装も贅を凝らしているのに嫌みがない。出窓から見えた広大な庭は窓枠に切り取られた絵画のように趣がある。こんな環境で育てば、なるほど、形はチンピラ風でも育ちの良さは隠せまい。

 リビングに通されると、珠理は麗羅を呼びに出て行った。残された陽子と灯衣は出されたお茶を啜りながら静かに待った。壁際のキャビネットに写真フレームが立てられているのに気づいた。灯衣が立ち上がり、陽子も倣って写真フレームに近づいた。

 写っていたのは、今の灯衣よりも幼い女の子と、その子を抱き上げる若い女性。きっと親子で、おそらく麗羅と母親だろう。庭先で写したものや旅行先と思しき写真まで数多く並んでいる。端から順に見ていき、真ん中辺りで近年のものになった。中学校の制服を着た麗羅と和服姿の女性が写る写真は入学式のものか。これが最近のものであるらしい。

「この子がレイラちゃんね」

 麗羅の顔を初めて見た。珠理が引きこもりと揶揄したせいで根暗な印象を抱いた。退屈なのか、写真を撮った人が嫌いだったのか、不機嫌そうに目を細めている。反対に、母親の方は満面の笑みだ。若々しく華やいで見えた。艶っぽく、気品溢れているのに、どこか無防備さが窺える。なんでだろう。笑顔に邪気が無いからかしら。

「ユキジ君のお母さん、綺麗な人だね」

「そうね。ユキジと全然似てないけれどね」

 知ってか知らずか、核心を突いた。雪路の実母はすでに他界しており、写真の人は継母である。

 でも、反対に麗羅にはやはりその面影があった。はっきり親子だとわかる。

 写真フレームを元の位置に戻す。顔を上げたとき、リビングの入り口に写真の中の女の子が飛び出していた。小さな顔に大きな目。おかっぱ頭が首を傾げてこちらを見ている。一つ写真と違うのは制服姿ではなく外行き用の洋服を着ているということだ。

「レイラちゃん?」

「っ!?」

 陽子が声を掛けるのと同時に、麗羅がびくりと一歩後退った。麗羅の視線は灯衣に向けられており、灯衣が一歩踏み込むたびに一歩後ろに下がっていく。じりじりと距離を保ちつつリビングの隅まで移動し、やがて麗羅が逃げ出すと「待ちなさいコラー!」灯衣が雄叫びをあげて追いかけた。ソファにまで追い詰めると、馬乗りになって頬をつねり上げた。麗羅も必死になって抵抗するもなぜか保育園児に負けている。

「こいつめっ」

「やーん!」

 バタバタ暴れているがどちらも非力なのでただじゃれ合っているようにしか見えず、まるで喚き声が騒がしいだけの猫の喧嘩の様相である。

 陽子はどうしたものかと黙って眺めた。止めた方がいいとわかっているけれど、なんだか可愛いのでこのまましばらく見ていたい気もする。

「あー、レイラちゃんこんなところに居たか。普段は人前に出てこないくせに、もー」

 珠理がリビングにやって来た。揉みくちゃになっているふたりを見て、「どうしたんです? コレ」訊ねられた陽子は「縄張り争い、かな」適当なことを言った。

 麗羅は灯衣を撥ね除けて逃げると、今度は珠理を盾にした。灯衣がなおも追いすがろうとしたので、陽子が慌てて抱きかかえた。「テイちゃん、いい加減にしなさい!」

「逃げるな卑怯者!」

「あーんっ!」

 なおも喚くふたり。しかし、よくわからない戦いはこれをもって一応終結した。

 一体何だったのか。


 仕切り直しとばかりに珠理が淹れたお茶を四人で啜る。

 ほう、と一息吐いた。

「わたし、アンタのこと絶対許さないから!」

 灯衣がフーッと威嚇すると、麗羅は珠理の背中に顔を隠した。よくわからない攻防に苦笑を浮かべつつ、陽子は雪路家を訪問した理由を切り出した。

「実は、旅人さんとユキジ君が喧嘩したんだそうです。それも、かなり深刻な。今日を入れたらもう五日も経つのに今でも仲違いが続いているって」

「へえ、珍しいですね。雅彦君はともかく、日暮さんが一歩も引かないなんて」

「それで、ユキジ君が探偵事務所を辞めるって言い出して」

 珠理がお茶を吹き出した。

「ええ!? 雅彦君が!?」

 しばし唖然とし、焦ったように片手を勢いよく振って否定した。

「いやいやいやいや、それはないです! ありえないです! 雅彦君にとって探偵事務所は我が家も同然。ていうかむしろ、ここより居心地良さそうだったんですよ! それにアイツ、日暮さんのこと大好きだし!」

「でも、ユキジ君、はっきり言ったんだそうです。それにその、レイラちゃんからの依頼が喧嘩の原因だったみたいで……。テイちゃんがふたりの会話を聞いていました」

 灯衣が睨み付ける前に、麗羅はすでに珠理に抱きついて顔を伏せていた。

「私たちはふたりに仲直りしてほしいんです。そのためにも事情を把握しておきたくて」

「なるほど。それでレイラちゃんを訪ねたわけですか。――ほら、レイラちゃん、お顔隠してないで。日暮さんに何か言ったの?」

 珠理が訊ねると、麗羅は言いにくそうに呟いた。

「お、お父さんを……」

「お父さん? お父様じゃなくて? 今、お父さんって言ったの?」

 珠理はなぜかその部分を執拗に確認した。言い回しの違いがなんだと言うのか。

「答えて、レイラちゃん。日暮さんに何をお願いしたの?」

 珠理に促されて、消え入りそうな声で渋々白状した。

「ほ、本当のお父さんを探してって、お、お願いしました……」


      *   *   *


 これは麗羅が母から断片的に聞かされた、雪路照之と旧姓・小平麗子との馴れ初めである。最初の出会いは十五年前に遡る――。


 先口物流株式会社社長・小平万里は、先代より継承してきた貨物運送事業の他に、貸切バス及び乗合バス事業を展開、旅行会社が企画するツアーバスの運行も積極的に受託し、会社の規模は拡大、成功を収めた。それまでは右肩下がりで業績が悪化していたが、そんな中でも小平社長は元来の大らかさを失わず、絶えず社員を励ましてきた。家族にも不安な顔一つ見せずに経営努力をし続けた。成功した後、小平社長を知る者は、皆、彼を賞賛した。人徳があったのだ、惹き付けられる人間は後を絶たず、妻と娘はそんな小平社長を誇りに感じていた。

「どこへ行っても社長の名前を聞きますよ。成功の秘訣は何ですか?」

 小平社長は自宅リビングに客人を招いて世間話に花を咲かせていた。客人は笑顔を湛えて小平社長に教えを乞うた。

「何だろう。信じることじゃないかな。自分を信じ、家族を信じ、部下を信じ、会社を信じること。私が実践したのはそれくらいだ。あとはただ運が良かった」

「幸運を呼び込んだのも実力あってのことでしょう。私ももっと精進しなくては。まずは自分を信じるところから始めてみます」

「失礼します。お茶のおかわりをお持ちしました」

 危なっかしい手付きで湯呑みを差し出したのは小平社長の娘の麗子である。

「これはこれは麗子さん、ありがとうございます。今日学校はお休みですか?」

「あ、いえ。今日の講義は午前中にすべて終わって、それから帰ってきました」

「貴方に会いたがっていてね。飛んで帰ってきたよ」

 小平社長が暴露すると「お父さんったら!」麗子は顔を真っ赤にした。

 麗子はずっと箱入りで育ち、中高大学と一貫して女子校に通い続けた。淑女としての嗜みを身に付け、父親譲りの大らかさもあって、とてもおっとりとした性格をしている。

 父親以外の男性に免疫がなく、親しい付き合いをしたのは目の前に居る客人が初めてであった。

「私も貴女に会いたかった。――と、お義父さんの前で話すことじゃなかったな」

「いいえ! 嬉しいです……っ」

 恥ずかしがって俯く麗子に、小平社長はにこにこと満足そうに微笑んだ。

「麗子をよろしくお願いします。ただまあ、そういうのは契約が片付いてからにして頂けますかな? 舘野君」

 客人――舘野裕吾は麗子を一瞥した後、小平社長に頭を下げた。

「失礼しました。それでは社長、改めましてこちらのパンフレットをご覧ください」

 舘野は外資系保険会社の外交員だった。このときまだ一年ほどの付き合いで、異業種交流会で知人の経営者から紹介されたのがきっかけだ。パッケージングされていないオーダーメイド型の商品を小平社長のニーズに合わせて提案してくる舘野は、言わば人生の相談役として小平社長から厚い信頼を得ていた。

 会社を大きくすることだけに専心してきた小平社長は自省し、せめて家族に残せる物をと生命保険に加入した。これまで保険に関して無頓着であったが、舘野からの親身の説得に心を動かされたのだ。当時、二十七歳の舘野にはお世辞にも敏腕と言えるような風格は身についていなかったが、その分一生懸命さが滲み出ており、小平社長はそこを気に入った。麗子が慕わしく思っていることにも好感が持てた。過保護に育てた娘を嫁がせるならば願ってもない相手だと考え、ふたりを婚約させた。以来、小平社長は舘野を実の息子のように可愛がっている。

「何かあればまた他の医療保険をいくつか持って来てほしい。品定めしてみたい」

「はい。ご提案できるものがあれば真っ先にお持ちします」

 帰り際、玄関先で舘野に今月分の保険料を支払った。この時代ではまだ徴収には集金の形態を取ることが多かった。

「追い出すようで申し訳ないね。この後、人と会う約束があるんだ」

「お気になさらずに。私も夜に麗子さんをお誘いしておりますので。ところで、どなたとお会いになるんですか? 差し支えなければ教えてください。興味があります」

 外交員としての顔を覗かせた舘野に小平社長は苦笑した。

「ああ、もう後ろに見えているよ。意外と早かったな」

 舘野が振り返る。アプローチの先、門扉の前にひとりの男が立っていた。

「あの人は雪路照之さんだよ。私の学生時代からの友人であり、この街のトップだ」

 雪路照之の厳しい眼差しが舘野を射貫いた。舘野は生唾を呑み込むと、そそくさとその場から立ち去った。


 小平社長は雪路照之をリビングではなく自室に招いた。妻と娘には挨拶やもてなしは不要であると言い含めている。代わりに自ら茶を淹れ、雪路照之と向き合った。

「わざわざお越し頂いて恐縮です。本来なら私の方から伺うべきところを。事業が成功したのはすべて市長のおかげです。ありがとうございました」

「この街の発展には貴社の力がどうしても必要だった。利害が一致したに過ぎませんので、礼は不要です。それに、堅苦しいのは無しにしましょう。私と先輩の仲ではありませんか。どうか学生時代のときのように接してください」

「……そう言ってもらえると助かるよ。雪路君には頭が上がらないな」

 市の観光事業を強化したいと考えていた雪路照之は、経営が不安定であった先口物流に観光バス事業への参入を提案し、旅行会社と提携して市内を走る大型貸切バスの運行を企画した。急発展を遂げる市経済に伴い、観光客の呼び込みに力を入れていた。既存のバス事業組合にではなく新規参入に頼ったのは固定観念や馴れ合いに足を引っ張られたくないという思惑からであり、経営不振の会社に白羽の矢を立てたのは瞬発力を期待してのことだった。その点において、小平社長は考えていた以上に有能であった。雪路照之が認める数少ない人物のひとりとして、こうして交流をマメにしている。

「お体の具合はどうですか?」

 雪路照之が訊ねた。小平社長は困ったように頭を掻いた。

「まさか持病が見つかるとは思わなかった。人生何があるかわからんものだよ」

「先ほどの若者は保険屋か何かですか?」

「そう。娘の婚約者で、頼りになる。今日もいくつか保険を提案してくれたんだ」

「ほう。持病があると加入は難しいのではありませんか?」

「彼は私に合わせた商品を選別して持って来てくれる。その分割高だが、医師の診断を必要とせずに入れるのは有り難い」

「その話、詳しくお聞かせ願いたい。保険屋の彼についても」

 興味があるのか、雪路照之が食いついた。思わぬところから話は盛り上がり、二時間ほどして雪路照之は腰を上げた。廊下でばったり出会した麗子に会釈をし、帰っていった。

「麗子? どうかしたのかい?」

 麗子は雪路照之が出て行った扉を見つめて、不思議そうに言った。

「あの方、私に『強くなれ』と仰いましたわ。どういう意味でしょうか?」

 小平社長は患っている心臓を押さえて口元を固く結んだ。


 一年後、小平万里は心筋梗塞により逝去した。

 小平麗子は母とともに失意に暮れた。父は大黒柱で、すべてにおいて決定権を持っていた。母は父に逆らわず、麗子もまた尊敬する父の言うなりに進路を決めてきた。父を欠いた今、次はどこへ向かえばよいのかわからない。

 そんな麗子の心の支えとなったのが舘野裕吾だった。父が連れて来た、父が選んだ結婚相手。ならば、彼こそが父に成り代わり麗子を導いてくれるものと信じた。舘野は葬儀で慌ただしい中、すぐにあれこれと手を回していた。父の資産の相続税の支払いに現金を用意してくれと頼まれ、母名義で作られた口座から大金を引き下ろした。

 面倒な手続きを一手に引き受けてくれた舘野であったが、しかし、現金を渡す前に彼は姿を消した。忽然と消息を絶ったのである。電話を掛けても、書簡を送りつけても、舘野を捕まえることはできなかった。

 父を亡くし、舘野までいなくなり、麗子は絶望した。

 母とふたり途方に暮れていたとき、最後に手を差し伸べてくれたのが、市長の雪路照之であった。

「お父上には大変お世話になりました。せめてそのご恩返しをさせて頂きたい」

 寡黙で必要以上のことは語らなかったが、麗子はその厳格な態度に徐々に惹かれ始めていく。ちょうどその頃、妻という最愛の人を亡くしたばかりの雪路照之に共感したというのもある。

 その後、母とともに雪路家に厄介になり、程なくして麗羅が誕生した。


 そして、同居して三年の期間を置いた後、雪路照之と麗子は入籍した。


      *   *   *


 今はとても幸せよ――、そう母から度々惚気られるのだと麗羅は語った。

 話を聞いていた珠理が「そういうことだったの」と何やら得心がいったという顔をした。

「前に先口物流について調べてって頼んできたのって、お祖父様の会社を知りたかったからなのね。じゃあ、社会科の宿題の資料集めって言ってたのは嘘だったのね!」

 珠理が叱りつけると麗羅はそっぽを向いた。聞く耳持たぬその態度から麗羅はどうやら内弁慶であるらしい。珠理が普段から甘やかしているのも今のやり取りから窺えた。

「レイラちゃんが言いたいことはわかった。その元婚約者が実のお父さんだと思ったわけね? そして、旦那様が奥様と結婚された理由についても怪しいと睨んだわけだ」

 麗羅は重々しく頷いた。

 陽子と灯衣は話に付いていけず戸惑った。珠理はふたりに向き直ると、説明した。

 先口物流はこの十年もの間にさらに運送・観光事業のシェアを拡大させ、急成長を遂げている。その背景には新社長に就いた雪路照之の手腕があったという。

 先口物流の元社長で、麗羅の祖父にあたる小平万里は、雪路照之とは大学時代の先輩後輩の仲であり、当時貧窮していた雪路照之の面倒を見ていた経緯があった。十五年前、先口物流が赤字経営から黒字へと転換した際には、市長となった雪路照之が大恩ある小平万里に報いるために事業を誘導したと言われている。未公開株を買い占めていたのは成功を見込んでいたためであり、また、小平万里亡き後、社長職に就任したことからも私的に利益誘導が行われていたとする見方もできる。あらゆる企業、団体のトップを兼任している雪路照之ならば会社を立て直すことなど容易だろう。

「つまり、先口物流の社員たちの反感を抑え込むために奥様と結婚された、というような理由も考えられるんです。そんな手を使わなくても会社自体は簡単に乗っ取れたと思うけど、旦那様は妥協しないお人ですし、大恩ある先輩の会社ということもあって粗雑には扱えなかった、というのが私の見立てかな」

 珠理の横で麗羅がぽかんとしている。政略的な結婚であると疑いはしていたものの、そこまで詳細に想像を働かせていたわけではなかったようだ。

「もちろん、奥様のことは愛していらっしゃるでしょう。けれど、そこに計算が一切無かったかというとちょっと疑わしいかな。旦那様ならあり得るかもって思えちゃう」

 顔を顰める珠理であったが、麗羅の隣でこれだけ正直に言えるのはさすがだと思う。雪路どころか雪路家すべてに遠慮がない。極めて理性的なのだ。麗羅がうんうんと相槌を打っているところを見ると、逆にそのドライさが気に入られているようだった。

 陽子は、こほん、と一拍置いた。

「つまりその、ユキジ君のお父さんはお金儲けのためにレイラちゃんのお母さんと結婚したってこと?」

 陽子も雪路から雪路照之氏のことを断片的にだが聞き及んでいる。かなり強欲な人だという印象だ。

「レイラちゃんはそう感じたみたいです。それで、さっきの話に出てきた保険外交員の人が本当のお父さんで、行方を暗ましたのは旦那様が社会的に抹殺なさったからじゃないかって。だって婚約者の存在は会社を乗っ取るには邪魔だもの。旦那様ならそれくらい簡単にできるだろうし――と、レイラちゃんは考えて、日暮さんに元婚約者でお父さんかもしれないその人を探してほしいって依頼したわけ。ね? これで合ってる?」

 麗羅は吟味するようにじっくり考えてから頷いた。

 珠理がさらに訊ねた。

「でも、どうして今さら?」

「最近、噂を耳にしたの。私が本当の娘じゃないって」

「あ……、ああ、それね。あのね、みんなはただ面白がって言ってるだけだからあまり気にしちゃ駄目よ」

 噂の出所は雪路邸で働いている家政婦のおばさんたちである。雪路家の複雑な家庭環境は、題材としてなら下手なドラマよりも面白みがあった。

「でも、お父様ならやりかねない」

 最後にはその一言に集約される。珠理もさっき言った言葉である、訂正したところでもはや何の説得力もない。珠理は溜め息を吐いた。

「それでレイラちゃんはどうしたいの? お父さんがどっちかわかったら何か変わるの?」

「……」

 麗羅は押し黙った。その答えをもしかしたら探しているのかもしれない。

 突然、灯衣が立ち上がって叫んだ。

「そんなことでウチを引っ掻き回さないで!」

 皆、仰天した。灯衣の両目から涙がこぼれた。

「パパとユキジが喧嘩したのよ!? いつもはあんなに仲良しなのに! なのに、なのに……っ! わたし、やだぁ! もうこんなのやだよぅ! いつものふたりがいいよう!」

 ぼろぼろと泣き出した。

 灯衣の脳裏には喧嘩の風景が思い出されていた。


      *   *   *


 五日前の晩――。

 自室で眠っていた灯衣は夜中に、唐突に、目を覚ました。なぜかはわからない。不穏な空気を事前に感じ取っていたのかもしれない。忍び足でリビングへ向かう。扉の向こうから旅人と雪路の話し声が聞こえてきた。嵌め込み窓から覗くと、ふたりはテーブルを挟んでまったりとくつろいでいた。

「最近、こそこそと何の調査してんだ。また慈善事業してんならマジで怒るぞ」

 雪路が言った。よく言葉にはするものの、これまで本気で怒ったことは一度もない。いつも心配するだけでおしまいだ。怒鳴ったりすることはあるけれど、それも優しさのうちであることを灯衣は知っている。

「今日、舘野裕吾という人の素性がようやく割れた」

「……誰だそりゃ?」

「レイラちゃんのお父さんかもしれない人だ」

 そのとき、空気が変わったのを肌で感じ取った。

「どういう意味だ」

「言葉どおりの意味だよ。僕はレイラちゃんに依頼されてお父さんかもしれない人を探している。レイラちゃんがどこでどう疑いを持ったのか、そのきっかけは知らないけれど、彼女が望むのなら僕は全力で彼女のお父さんを見つけ出す」

「余計なことすんな」

「余計なことじゃない。レイラちゃんにとって大切なことだ」

「アンタがでしゃばることじゃねえって言ってんだ!」

「その反応からすると、レイラちゃんの出自にはやはり複雑な事情があるのかな?」

 そう問われ、雪路は大きく息を吐いた。一旦冷静さを取り戻し、声のトーンを落とした。

「なあ、レイラはまだ中学生だ。たまには馬鹿なことも言い出すだろうよ。そんなもんにいちいち付き合ってんじゃねえ。アンタは、だから、慈善事業はやめてくれって何度も」

「何を恐れているんだ?」

 顔を上げ、旅人の目を覗き込む。雪路は引きつったように笑った。

「恐れる? 何言ってんだ? 俺はただ無駄なことはしてほしくないってそれだけで」

「舘野裕吾、現在四十二歳。外資系の保険外交員で、かつて雪路麗子さんのお父上、小平万里さんのライフプランナーを務めていた。そして、旧姓・小平麗子さんとは婚約関係にあったが、小平万里さんが亡くなられた後に突如失踪した。失踪後の足取りは途切れ途切れだけど、今でも保険業に携わっている。いまだ独身だ」

「やめろ! もういい! 聞きたくねえ! そんな奴は知らねえ!」

 雪路は立ち上がると旅人に詰め寄った。旅人もまた平然と立ち上がり、雪路を至近距離から見下ろした。

「このことはレイラちゃんに報告するつもりだ。でもその前にユキジに聞いてほしかったんだ。ユキジは舘野さんのこと知っていたんだね?」

「……」

「麗子さんは今でも彼と会っている。密会をしている。ここ数年の間、何度も。だからユキジも調べたんじゃないのか。自分の父親が信用できなくて、継母が信じられなくて、だから君は」

「うるせえ!」

 怒鳴り、じっと見ていた灯衣はびくりと体を強張らせ、息を詰めた。

「いいか? レイラの親父がどこの誰でどんな奴だろうとそんなこた正直どうでもいい。だがな、アンタのしていることには我慢ならねえ。舘野を調べるってことは麗子さんを調べるってことだ。俺の実の母親のこともだ! アンタは! 勝彦お兄様のことだけじゃなく全員を根掘り葉掘り調べねえと気がすまねえのか!?」

「誤解だよ。別に興味本位じゃない」

「じゃあなんだよ!?」

「依頼されたからだよ。そう言った」

「嘘吐いてんじゃねえ!」

 旅人の襟首を掴んで締め上げた。むせ返っても込めた力は緩めなかった。

 雪路は、泣きそうな顔で、声を振り絞った。

「アンタは俺に! 俺を含めた雪路家に! 恨みがあんだ! 復讐したいほど憎んでる! 知ってるぞ! そのために俺に近づいた! 俺を利用した! そうなんだろ!?」

「ユキジ! それは違う、僕は」

「何が違うってんだ!」

「落ち着こう。僕はそんなつもりじゃないんだ。話を聞いてほしい」

 旅人に宥められ、やがて掴んでいた襟を放した。

「ユキジ」

「……ああ、そうだな。そうだろうよ。アンタは基本的に善人だ。それはわかってる。だけどな、裏切られた気持ちってのは簡単にリセットしちゃくれねえんだ。頼むよ、アニキ。頼むから、もうウチの人間には関わらないでくれ……!」

「ごめん……、それはできない」

「っ、ふざけんじゃねえ!」

 テーブルを蹴り倒す。家具に八つ当たりし始め、破砕音が響き渡る。旅人はそれを無感動に眺め、灯衣は震えながら涙目に見つめた。

 その後も口論は続いた。灯衣は何度も出てくる『レイラ』という名前を頭に入れた。――レイラ……、そいつがパパとユキジを喧嘩させているの? どうして? 何でふたりともそんなに怒っているの?

「やだよ」

 リビングに割り込んで止めたかったけれど、足が竦んで動けない。大人同士が真剣にぶつけ合う怒気の迫力は、幼い子供にとって天災よりも恐ろしかった。身近な、それもいつでも優しかった人たちの喧嘩である、それだけで世界が崩れるかのような未知数の恐怖であった。

「何度も言わせんな! すぐにこの件から手を引け。レイラには何も言うな」

「断る。僕は彼を見つけた。もう放っておけない。すべてを解明する」

「どうしてもか」

「どうしてもだ」

 口論は平行線を辿り、互いに引く気がないとわかった。

「っ、そうかよ。もう付いていけねえよ。俺はパートナーを降りる。ここは好きに使っていい。全部くれてやる。じゃあな――日暮さん」

 雪路が事務所から出て行った。

 旅人は、泣きべそをかいたままリビングに入ってきた灯衣に気づいていたが、顔を向けることはなかった。外へと続く廊下を、雪路が飛び出して行った方向をじっと見据えている。灯衣は旅人の顔を見て足を止めた。雪路が掴んでいた胸元を掻き毟るようにして握り締め、悲痛な表情を浮かべていたからだ。

 痛ましさが伝わってきた。

「パパ……」

「テイ、僕はこれまでいろんな人たちを裏切ってきたけれど」

 今にも泣き出しそうな顔をした。

「こんなに苦しいのは生まれて初めてだよ」


      *   *   *


 陽子は泣きじゃくる灯衣の背中を撫でさすった。あの気丈な灯衣が人前で涙をこぼしていることに衝撃を受け、すぐに彼女がまだ五歳児であったことを思い出す。どんなに大人ぶって見せても子供は子供。不安と悲しみを今日までずっとひとりで抱え込んできたのだ、それがどれほど心細かったことか。陽子は灯衣を抱きしめずにはいられなかった。

 灯衣を宥めながら、陽子は顔を上げた。

「それで、レイラちゃんは旅人さんから調査結果を聞いたの?」

 麗羅は首を横に振った。

「本当のお父さんかどうかはまだ」

「そう。その辺りはまだ調査している最中なのかもね」

 それにしても、雪路が旅人に対してそこまで頑なになるだなんて夢にも思わなかった。いや、旅人だからこそ、なのかもしれない。雪路は『家族』というものに強いコンプレックスを抱えており、それを旅人に探られたのが重ねて不快だったのだろう。リビングを見渡してみる。写真フレームが目に付いたがどれもおかしなところはない。自分にはわからない、しかしこの家には確かな歪さが存在するのだ。家庭の歪さは普通よそと比較して浮き彫りになるものだが、雪路は中に居てさえ歪と感じていた。それほどまでに普通でない家とはどういうものなのか。陽子にはもちろん想像さえつかなかった。

 リビングの扉が開き、「お客様?」若い、美しい女性が入ってきた。

「奥様!」

 珠理が慌てて立ち上がる。そうか。この人が麗羅の母親の麗子さん。渦中の人だ。

「あ、あ、いいのよ、いいのよ。珠理さんも座ってくつろいでいて。お友達? わあ!良かったわ~っ、レイラちゃんにもお友達ができたのねー」

 麗羅を見て乙女のように声を上げた。まるでそこにだけ花が咲き乱れたかのようなはしゃぎっぷりだ。

 正確に言うと『お友達』ではないので、麗羅は居たたまれずに顔を伏せた。

「これからお出掛けなのかしら? いいわね。みんなでどちらに行くの?」

 お出掛け? 首を傾げていると、誰よりも先に麗羅が答えた。

「お母様には内緒です」

「あら。残念。珠理さん、今度こっそり教えてね」

「は、はあ」

「お母様こそどちらに行かれるんですか?」

「うふふ、私もナ~イショ」

「お祖母様とご一緒ですか?」

「ううん。今日はおばあちゃまの日じゃないの。昔から親しくして頂いている方にお会いするのよ」

 内緒じゃないのか、と陽子は内心で思う。

「そうですか。お気を付けて行ってらっしゃいませ」

「レイラちゃんもね。あ、た~いへん! タクシー待たせてあるのよ。急がなくっちゃ。珠理さん、後はお願いね」

「はい。奥様、行ってらっしゃいませ」

 急ぐと言いながらもゆったりと玄関に向かう麗子。その背中を見送ると、リビングに居る四人は大きく息を吐き出した。

「あの人がレイラちゃんのお母さんか。なんというか」

 歳を感じさせない人だった。話に聞く限り一回り以上歳が離れていてもおかしくないのに、若々しい。可愛らしい人だった。おっとりしながらも所作には気品があって、お姫様という表現が一番しっくりきた。

「ところで、レイラちゃん、どこかに出掛けるつもりだったの? ていうか気づかなかったけど、外行き用の格好よね、ソレ」

 よく見れば、麗羅の脇にはショルダーポーチまで置かれてあった。自宅で持ち歩くには不自然な小物で、麗子はそれを見て出掛けるのかと問うたのだ。

 麗羅は頷き、すっくと立ち上がる。

「お母様の後を付ける」

「え!? そ、そんなことしていいの?」

「お母様は月に一度同じ人に会いに行ってる。今日がその日。そしてその相手が元婚約者」

 全員、息を呑んだ。

「……それ、本当なの?」

 珠理が訝しがると、麗羅は得意げに胸を張った。

「毎月、ちょっとずつ調べて、何度も確かめた。駅前のホテルの喫茶室でいつも会ってる。日暮さんにはそのことを伝えて相手の男の人を探ってもらった」

 どこから取り出したのか、チェック柄のハンチング帽を目深に被る麗羅。どうやら形から入るタイプらしい。尾行しようという意気込みだけは充実していた。

「日暮さんにだけ頼ってられない。私にできることはやるつもり」

「わたしも行く!」

 灯衣も憤然と立ち上がった。麗羅は一瞬怯んだが、灯衣の視線は窓外に向けられている。すぐにでも仲良しだった頃の旅人と雪路を取り戻したい、そんな決意が漲っていた。

「これで全部解決しちゃえばおうちは元どおりになるわ!」

 麗羅と灯衣は頷き合い、たったかたー、と出て行った。呆気に取られた陽子はしばらく動けずにいた。あんなにいがみ合っていたのに、どうしてここに来て息が合うのか。

「えっと、どうすんのコレ?」

「私はまだ屋敷から離れられないし。山川さん、付いていってあげて。いま止めてもどうせいつか同じように尾行しちゃうだろうから、やり過ぎないように見張っててくれると助かります」

「……やり過ぎないようにか。尾行して、はい終わり、じゃないもんね、当然」

 麗子が元婚約者と会っているのはすでに知っているのだ、重要なのはそこで交わされる会話である。盗み聞きまでするのはさすがに躊躇われた。

「それは、うん、止めた方がいいですね。遠くから見るに止めて、奥様にはバレないようにしてください。レイラちゃんのことどうかよろしくお願いします」

「う、うん。わかった。何かあれば連絡するね」

 珠理と携帯電話の番号を交換し、慌てて麗羅たちの後を追い掛けた。


 珠理はひとりきりになると早速メールを打ち始めた。

「まったく。拗ねるとすぐに家出するんだから。そろそろ帰ってあげなさい、よ!」

 意地っ張りな放蕩息子に送信した。


         *


 そのホテルは駅前の大通りから一本路地を挟んだ小道に入り口があり、格式はあるもののお忍びで利用されることが多い。示し合わせが無くても立地がその手の客を引き寄せるのか、ロビーに現れる人々はどこか落ち着きがない。麗子にはそういった機微が見られなかった。慣れのせいもあるのだろう、堂々と二階ラウンジに入っていく。

 ラウンジ内に客は疎らだが、待ち合わせに利用されるため入れ代わりが激しく、賑やかだ。麗子が着いたテーブルにはすでに男が座っていて、麗子を歓迎した。

「やあ。毎月、この日が待ち遠しいよ。麗子に会えるこの日がね」

「舘野さん……」

 相手は元婚約者の舘野裕吾である。スーツを着ており、清潔感があった。麗子の容姿に比べても遜色なく、傍目からは美男美女のカップルのように見えた。

「体調はどうだい? 近頃はぐんと気温が上がって暑いからね、熱中症に罹っていないかと心配している」

「ありがとう。私もレイラちゃんも元気よ」

「レイラはきちんと学校に行っているかい? ああ、そうか。今はもう夏休みだね。海に山に出掛けたりするのかな」

「あの子はお家が好きみたいだからあまり外出しないの」

「それはよくないな。引きこもっていたんじゃ体に悪い。家族で出掛ければいいのに」

「……」

「俺ならそうするよ。麗子とレイラと三人で、親子で、いろいろな場所を巡りたい。家族旅行がしたい。叶うならね」

「あの、舘野さん」

「聞かせてくれないか? 最近のレイラのこと。話しておくれ。俺たちの娘の日常を」

 ウェイトレスが注文を受けに来てようやくふたりの会話は途切れた。



 麗羅たちは衝立を挟んだ隣のテーブルを占拠していた。舘野の顔を知っていた麗羅がこの席を陣取り、母親がやって来るのを息を殺して待っていた。

 聞こえてきた会話に衝撃が走る。会って早々、舘野から麗羅の実父であるかのような台詞が次々と飛び出し、麗羅を呆然とさせた。

「……」

 どうしよう――、陽子はもはやこの場から麗羅を連れ出せる空気でないことを悟った。当初は麗子を尾行するつもりがあっさり撒かれてしまったので(タクシーを見失った)、今度は待ち伏せする作戦に変更した。ラウンジに入り一番奥のテーブルに座る男性を指して「あの人です」と言うから少し離れたこの席に座ったのに、まさか本命は隣のテーブルだったとは。見事に一杯食わされた。どうやら麗羅は陽子まで警戒していたらしい。意外と頭が回るのはさすが雪路の妹と言ったところか。

 そんな麗羅もあまりのショックで目を見開き固まっている。掛ける言葉が見つからず、麗羅の隣でお行儀よくオレンジジュースを飲んでいる灯衣に救いを求めて視線を送るが、無視された。

 隣では会話が再開された。麗子がたどたどしく娘の様子を語っていた。

「黒猫のチビちゃんと家中追いかけっこしててね、それでその、えっと」

 麗子の口調からは空々しい気配が感じられた。まるで言いにくそうにしている。

「なんだい? いつになく会話が拙いじゃないか。今さら緊張してる?」

「いえ、そうじゃありませんけど」

 舘野も同じ感想だった。ということは、いつもはもっと流暢なのだろう。

 夏休みに入ってからの生活を話し終えると、今度は夏休みに入るまでにあった出来事を話し始めた。話題は麗羅の誕生日に及んだ。

「それでね、雅彦さんが携帯電話をプレゼントしてくれて、レイラったら」

「麗子、その話は今度にしよう」

 雪路の名前が出た途端、舘野が遮った。


「時間もないことだしね」

「あ、……はい。ごめんなさい」

「何を謝る。別に雪路照之の息子の名前が出て来たから止めたわけじゃないよ」

 いや、明らかにそうだろう。時間がないだなんてそんな素振りこれまで一切見せなかったのに。

 と、これまで固まっていた麗羅が不機嫌そうに衝立を睨んでいた。

「娘と仲が良さそうで何よりだよ。俺はいまだに独身だからね、そういうアットホームな空気に憧れるよ」

「あの」

「誤解しないでくれ。責めてるわけじゃないんだ。俺はこうして麗子から話を聞くだけで満足している。本当だ。麗子が幸せならそれでいい。俺は雪路照之に嵌められてすべてを失った。愛する女性と娘まで奪われた。それでもこうして会えているのだから神様に感謝したいくらいだよ。不幸せでも生きていこうってまた思えるんだから」

 台詞とは裏腹に冷たい声だった。嫌みにしか聞こえない。

「ああ、思い出すなあ。もう十四年も前になるのか。小平社長――君のお父さんが亡くなられた後だ、俺は小平社長が家族に隠していた借金を返すために駆けずり回っていた。婚約者だったからね、君を貰うつもりでいたから当然でしょ? しかし、保険は下りたが返済には足りなくてね、君と君のお母さんに心配させてはならんとひとりで頑張っていたんだ。そんなときだ、雪路照之が現れて俺に脅迫を……っ」

 必死に激情を抑え込み、声を震わせた。

 麗子も、盗み聞いていた麗羅も息を呑み、続く舘野の言葉に耳を傾けた。

「俺は奴を許さない」

 十四年前のことである、小平万里の葬儀の後、舘野の元に故人の友人であった雪路照之が訪れ、小平家から一切の縁を切るようにと迫られた。

 若輩の舘野には麗子や先口物流の経営は任せられないという一方的で無茶苦茶な言い分であった。当然反発した舘野であったが、雪路照之は暴力団を差し向けて恫喝した。暴力には屈しなかったが噂が立ったことで保険の仕事がやりにくくなり、巻き添えを恐れた同僚や友人たちからも見放された。社会的に追い詰められたとき、雪路照之は最後通牒を投げかけた。「この町から出て行け。さもなければ命の保証はない」すでに生活基盤さえ失っている、生きるためには逃げ出すほかなかった。

 町を追われてからも不幸は続いた。噂やレッテルはどこに行っても付いて回る。保険業界は思いのほか狭く、名前を名乗るだけで失った仕事は数知れない。あるいは、舘野をよく思わない者たちからの妨害や嫌がらせも頻繁にあった。ノルマのために客の保険料を支払ってまで契約を結んだことも一度や二度ではない。収益よりも出費の方が多くなり、もちろん赤字で、なぜこの仕事を続けているのかわからなくなる。そんなとき、麗子が雪路照之の元に嫁いだことを耳にした。目の前が真っ暗になった。

 やがて立ち行かなくなった舘野はなんとか国から金を借りられたのだが、極貧生活からは抜け出せず、保険業には就業制限があるので自己破産もできない。最後に頼ったのは闇金で、そこからは絵に描いたような借金地獄が続いていく。

 舘野は遠くへ逃げた。泥水を啜りながら懸命に生きたのは、偏に、雪路照之への復讐を誓っていたからだ。いつの日か舞い戻り、元婚約者と、彼女のお腹に宿した子を取り戻す。その執念だけを糧に今日まで生き延びた。

「五年前、ようやくこの町に帰って来られた。嬉しかったよ。君に会えて。君が幸せそうに暮らしていて。本当に、幸せそうで、何よりだ」

 憎悪はやがて幸せに暮らす母娘に向かっていった。

 舘野の目の奥にほの暗い狂気が漂った。麗子は舘野の話にわずかに相槌を打つだけで、俯いたまま彼の顔を見ようとはしなかった。

「今でも借金の山を抱えているよ。なんとか少しずつ返していけているが、まだ完済の目処は立たずだ。まいったよ。生活費さえままならない。ははっ」

 乾いた笑いにすら鋭利な刃が仕込まれている。

「あの、これ……少ないけれど取っておいてください」

「ふうん。そんなつもりじゃなかったんだけど。いつも悪いな。でも、支えられていると思うと少しだけ前向きになれるよ」

 衝立の向こうでは、おそらく、金を渡していた。舘野は何度も今の話を聞かせており、その度に金を無心してきたのだ。

「なあ、今度レイラに会わせてくれよ」

 麗羅の肩がびくりと揺れた。実父とはいえ、狂気を孕んだ人間に会うのは想像しただけでも身震いする。縋るように衝立を見つめた。

「それは……できません」

 麗子は、しかし、はっきりと拒絶した。

「なんで? 会わせてくれるだけでいいんだ。そうすれば俺も生きる希望が湧く」

「でも、レイラが混乱します」

「大丈夫だよ。もう中学生なんだろ? 折り合いくらいつけられるさ。真実は知っておいた方がいい。それに、レイラは君に似て顔が整っている。あと数年でどんどん美人になるぞ。今からめぼしい相手を探してもいいんじゃないか? 俺が話をつけてやるよ。いろいろ居るんだ。将来有望な人たちがね」

 なんともきな臭い話である。とても娘の幸せを願っているようには思えない。麗羅の顔は青ざめていて、目に見えて全身を震わせた。

「そういうのまだ早いと思うんです」

「そうかい。わかったよ。俺は父親らしいこと一切させてもらえないんだな」

「そ、そういうわけじゃ……」

「いいよ。わかった。もう付きまとったりしない。俺のことは忘れてくれ。もう次に会うときは他人だ、俺たち」

 舘野が立ち上がった。その際に立てた椅子を引く音は暴力的だった。もはや他人だと宣告したその口調には、何かをしでかそうとする気配を滲ませた。

「あの! 待って」

「何だい? 何を待ってほしいって?」

「レイラには会わせられませんけど、今日みたいにお話ならお聞かせできます。だから」

「そうか。俺、そんなに暇じゃないんだ。資金繰りで大変でさあ」

「来月はもっと多めに持って来ますから」

「あれえ? なんか催促しちゃったみたいだ。これじゃあ俺、最低じゃんか」

「違います。私がそうしたいんです! た、……ゆ、裕吾さんを支えてあげたいんです」

「ふうん。そこまで言われたら仕方ない。君にまだ愛されているならこの先もなんとか生きていけそうだ。じゃあ、来月と言わず、来週辺りまた会おうよ。時間作れるだろ? なにせ君はろくに家事もしない主婦なんだから」

「……」

「連絡待ってるよ」

 帰り支度を整える舘野以外に、誰ひとりとして音を立てられなかった。身動ぎできず、ただただ舘野が立ち去るのを待った。陽子は無意識のうちに心臓を押さえていた。胸が張り裂けそうに苦しい。人ひとりの人生の重みをぶつけられた思いだ。

 一方的で粘着したやり取りだったのに、舘野を心底憎いとは思えなかった。本人が語る不幸話は大抵大袈裟に脚色されるものであるが、婚約者と子供を失ったことは事実だ。たとえ逆恨みであったとしても、誰かを恨まずにはいられないほどに、性根を腐らせるほどに、舘野は長年理不尽に晒された。彼に対し、怒りよりも憐れみが湧き上がった。きっと、麗子も同じ思いだろう。だから舘野に貢いでいるのだ。贖罪のつもりで。

「退屈だわ。一体何の話をしているの?」

 灯衣が欠伸を噛み殺した。理解はしていなくても茶番であることを見抜いていた。客観的に見れば、舘野が麗子の負い目に付け込んで恫喝しているにすぎない。本来、同情の余地などない。それはわかっているのだが。

 灯衣の真後ろの席に座っていた人が「同感だ」呟き、移動した。その人は衝立を迂回して、立ち去ろうとする舘野の正面に立った。

「? 何だ、君は?」

「雅彦だよ。アンタの嫌いな雪路照之の息子だ」

 深く被っていた野球帽を脱ぐと鮮やかな金髪が流れ出た。陽子と麗羅、灯衣さえも吃驚して腰を浮かした。

 舘野は喉を鳴らした。

「き、君が? いやあ、想像していたよりもずいぶんと」

「柄が悪そうか? お生憎様だな。俺は麗子さんやレイラみたいに世間知らずのお人好しじゃないんで」

 舘野の頬がひくついた。陽子は初めて見たが、舘野はあご髭を蓄え、精悍な顔つきをしていた。しかし、雪路に睨まれた今、目を泳がせて視線を合わせようとせず、とても弱々しく映った。

「アンタ、他にも三人女囲ってるだろ。独身が聞いて呆れるぜ。ただふらふらしてるだけじゃねえか。相手の弱みに付け込んで金銭を巻き上げる小悪党。俺の嫌いなタイプだ。ぶっ殺してやりたくなるよ」

「ひっ」

「失せろ。二度とこの人の前に姿を見せんな。いや、この際だ、この町から出て行け。次会ったときは命の保証はしねえぞ」

 舘野が悲鳴を上げて逃げ去った。雪路に、雪路照之の面影を見たのかもしれない。

 麗子が立ち上がり、陽子たちは咄嗟にテーブルに顔を伏せた。

「雅彦さん」

「アンタももう帰ってくんねえか。今はまだ顔も見たくねえんだ」

「ごめんなさい」

 麗子もいなくなり、にわかに空気が弛緩した。

 雪路が衝立の上から陽子たちを見下ろした。

「趣味悪いぞコラ」

「き、気づいてた? でも、どうしてここが?」

「おまえらを尾行するなんざ目を瞑ってでもできらあ。麗子さんもレイラが居ることに気づいてたぞ。ぎこちなかったのはそのせいだ」

 これには陽子も驚いた。だって、とても敏感なタイプには見えなかったから。それとも、自分の子供にならすぐに気づけてしまうものなのか。

「悪かった。あの野郎がここまでクズだとは思わなかった。知っていれば俺だって……」

 旅人が一歩も引かなかった理由である。麗子に不干渉を貫いていた雪路ではどのみち舘野の正体を知ることはなかっただろう。己の不明を恥じ、歯噛みした。

「けど、脅しておいたからもう大丈夫だろ。ああいう輩は女子供にしか強気に出られないもんだ。安心しろ。そんでな、レイラ」

「っ」

 雪路の手が麗羅の頭を鷲掴みにした。

「おまえは俺の妹だ。わかったな」

 誰の子だろうと関係なく――そう言いたいらしい。その不器用でぶっきら棒な物言いは微笑ましくあったが、もっときちんと言ってあげればいいのにとも思う。

 麗羅は首を傾げた。やはり、いまいち伝わっていなかった。不機嫌そうに雪路の手を払いのけた。

「ユキジ」

 ラウンジから出て行こうとする雪路を灯衣が呼び止めた。

「探偵、やめちゃうの?」

 ばつが悪そうに視線を逸らす。一回だけ手を振ると、今度こそ背中を向けた。

「多分大丈夫」

 陽子は灯衣を後ろから抱きしめると、そう言った。

 きっと大丈夫。

 雪路が出て行く間際に見せた表情は晴れ晴れとしていたから。