【最後の日】


 生クリーム色の廊下を歩き、一番奥の病室に入ると、そこにはいつもの笑顔がある。

「あ、英ちゃん」

 僕が入るとすぐ、明日香はパッと顔を上げた。壁の時計は午後一時を回り、食べかけの食事がサイドテーブルに載っている。

「遅いよ、昼には来るって言ってたのに」

「これでも大急ぎで来たんだよ」

「ふーんだ」

 笑顔だったのも束の間、明日香は黒髪をさらりと揺らし、ぷいっと窓のほうを向く。その横顔は透き通るように白く、窓から入る柔らかな陽光が水色のパジャマを輝かせている。

「ほら、ゼリーでも食べて機嫌直せよ」

 僕はベッド脇の椅子に腰かけ、トレーに載っていたゼリーのカップを明日香の前に置く。

「このゼリー、そんなにおいしくないもん。味がちょっと薄いし」

「仕方ないだろ、病院食なんだから」

「じゃあ、アーンって食べさせてくれたら許してあげる」

「バ、バカ、そんな恥ずかしいまねできるか」

「ちぇー。英ちゃんのけちー」

 少女はスプーンを手に取り、ゼリーをちゅるんと食べる。明日のおやつはプリンが食べたいなー、と言いながら、僕をちらちら見る。

 やれやれ、と肩をすくめつつ、僕は降参する。

「じゃあ、明日来るときに買ってくるからさ」

「ほんとう?」

「看護師さんの了解が取れたらな」

「うん。それなら許してあげる」

 少女はにっこり笑う。

「おまえは現金だなあ……」

 いつものやりとりをしたあと、しばらく会話が途切れた。

 窓から入る風が、明日香の黒髪を少しだけ揺らすと、ふいに、彼女はこんなことを言った。


「そうだ英ちゃん、明日は何の日か覚えてる?」


 急な問いかけに、僕は「……へ?」と反応が遅れる。

「明日?」

「そう、明日」

 少女は大きな瞳で僕を見つめる。

 ――明日って、えっと八月十八日か。何の日だ? こいつの誕生日は先月だし……。

「何の日だったっけ」

「ぶー。忘れたのぉ?」

 明日香はほっぺたを膨らまし、怒ったフグみたいな顔になる。

「ちょっと待て、いま思い出すから。モース博士が来日した『考古学出発の日』は六月十八日だし、父さんが立乃川遺跡を発見したのは七月十八日だったし、八月十八日は……あ!」

「思い出した?」

 明日香の顔が期待の色でパッと輝く。

「県立博物館で『大貝塚展』をやる日だ! そうだ、明日からだった!」

「もう〜!! そうじゃなくって、私と英ちゃんにとって大事な日があるでしょ?」

「僕と……明日香の?」

 八月十八日。僕と明日香に関係する日。

 ぜんぜん分からん。

「ヒントをくれ」

「ヒント? しょうがないなぁ……。じゃあ、三年前の八月十八日。これで分かるでしょ?」

「三年前? ってことは、僕らまだ七歳? そんな昔のこと覚えてねえよ」

「あー、もう、本当に覚えてないの?」

 フグ顔がさらに赤くなる。

「もう少しヒントをくれよ」

「今のが大ヒントなんだから、もうヒントないよ」

「なんでそんなに明日にこだわるんだよ」

「だって、私たち今十歳でしょ? 『あの日の約束』から三年経ったんだよ」

「あの日の約束……三年……」

「そうだよ。八月十八日は約束の日。思い出した?」

「いやさっぱり」

「もうっ」

 明日香が手元にあった枕を投げる。「わぶっ」と僕が顔面で受ける。

「なんだよ、そんなに怒らなくたっていいだろ」

「女の子との大事な約束を忘れちゃうなんて、そんなことじゃおムコに行けないよ?」

「いやムコは関係ねぇだろ」

「関係あるもん。そのくらい明日は大事な日だもん」

「じゃあ明日までに思い出すよ」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんじゃダメ。ぜったい」

「分かった分かった」

 僕は肩をすくめて、気安い返事をする。明日香がこんなふうに子供っぽく拗ねるのはいつものことなので、とりあえず話を適当に流しておく。

「あら〜英一くん、今日も熱心ね」

 桃色のナース服の女性が病室に顔を見せる。

「お世話になってまーす」

 明日香が入院して、もう一年。今では病棟の看護師さんともすっかり顔見知りになっている。

「明日香ちゃんね〜、今日は英一くんが来るっていうから朝からウキウキしてたのよ」

「ちょっとエリさん、やめてよ」

「照れない照れない。食事、今日はほとんど食べたのね。やっぱり英一くん効果はすごいわ〜」

「エリさんってば!」

 明日香が顔を真っ赤にして看護師のエリさんの服を引っ張る。エリさんは「ごちそうさま〜」と茶化すように言ったあと、食事のトレーを持って部屋から出て行く。

「もう……」

 彼女はそんな看護師の背中を不服そうに見送る。

「じゃあ、僕はそろそろ」

「もう帰っちゃうの?」

「だって、顔出すだけだって言ったろ」

「そうだけど……今日もおじさんのところ?」

「ああ。熊川遺跡の発掘がヤマ場なんだ。猫の手も借りたいっていうし、僕も本物の遺跡発掘のチャンスだし」

「じゃ、仕方ないかー」

 明日香はちょっと残念そうな顔をしたあと、僕を見つめて言った。

「がんばってね英ちゃん。大発見があるといいね」

 そして彼女は、枕元にある台に手を伸ばし、そこにあった小さな人形を持ち上げた。これはいわゆる『人物埴輪』で、遺跡から発掘された本物の埴輪を元に、僕が見よう見まねで自作したものだ。ちょっとスカートを穿いたような格好の埴輪は、『かわいい! ちょうだい!』という明日香のおねだりで、今も彼女の枕元に居座っている。

「じゃあな。明日もまた来るから」

「明日までにちゃんと思い出すんだよ、八月十八日が何の日か」

「またそれか。分かった、明日にはたぶん思い出す」

「たぶんじゃなくてぜったいだよ」

「へいへい」

「プリンも忘れずにね」

「分かった分かった」

 僕は軽く手を振り、病室を後にする。

「英ちゃん、ぜったいだよー」

 去り際、明日香の声が廊下まで聞こえる。

 まったくあいつ、何をそんなにこだわってるんだ……。僕は生クリーム色の廊下を歩きながら、八月十八日が何の日だったか、思い出そうとする。

 ――三年前の八月十八日。これで分かるでしょ?

 明日香の言葉をぼんやり振り返りつつ、階段を下りると、天井の高い病院の玄関ロビーが見えてくる。

「三年前だから……小学一年の、夏……」

 バス乗り場で待ちながら、病院を見上げる。明日香の病室はC棟三階の一番端なので、なんとなくそのあたりを見ていると、ベッドの上にいる彼女の姿を見つけた。その白い横顔と長い黒髪から、一目で明日香と分かる。

 こうして遠目に見ると、深窓の令嬢みたいだよなあ、と思っていると、やがて明日香のほうが、僕の視線に気づいた。「英ちゃん!」と唇を動かし、手をブンブンと振り出す。窓枠に身を乗り出すようにした彼女を、看護師さんが慌てて止める。

 僕が手を振り返すと、彼女は嬉しそうに叫んだ。

「英ちゃん、また明日ね〜!」



 それが最後の日だった。

 明日香は、その夜に容態が急変して、死んだ。



     第一章 英一



         1


「――あの、ここの欄なんですが」

 その書類を、女性職員はすっと差し出した。


 退学届。


 そこだけやや大きくなった文字が、僕の目に飛び込む。

「……え?」

 一瞬、反応ができなくて、僕は訊き返す。

「な、なんですか?」

「ここです。退学の理由、のところです」

「え、えっと……」

「ここです。ここ」

 職員は痺れを切らしたように、書類の真ん中あたりの欄をトントンとつついた。

「ここ、未記入のままです」

「あ、すみません……」

「埋めてもらっていいですか?」

「はい、あ……」

 僕はポケットを探り、筆記用具がないことに気づく。

 ふーっ、と小さく鼻息を出して、職員が僕のほうにボールペンを差し出す。明教大学百二十周年記念と印字された緑色のボールペンは、やけにつるんとしていて妙に持ちにくかった。

 退学の理由。

 ボールペンを手にして、僕はしばし固まる。

 昨日書類を書いていたときも、そこで手が止まった。大学をやめることは心に決めていたが、いざ理由を問われると言葉にしにくいことに気づき、最後に埋めるつもりで結局忘れていた。

「あの……」

「はい?」

 職員が事務的な感じで僕に向き直る。

「その……『一身上の都合』でもよいですか?」

 前にバイト先を退職したときの理由を思い出す。

「それでもかまいませんが」職員は表情を変えずに説明する。「具体的な理由をお伺いしてもよろしいですか?」

「言わなきゃいけませんか?」

「一応そういう決まりでして」

 女性職員が淡々と返すと、僕は内心でため息をつきながら、小さな声で答えた。

「考古学を学ぶのが、苦痛になったからです」

 苦痛、という言葉を使ったことに、自分でも驚いた。同時に、それがしっくりくることにも気づく。

 ――そうか。

 苦痛だったんだ。僕は。

「苦痛ですか」

 女性職員は腑に落ちない表情になる。

 ――しまった。

 僕は自分の失態に気づく。ここはもっと無難に「進路が変わったから」「就職するから」など、それっぽい回答をでっちあげるべきだった。

「とても差し出がましいようですが」若い職員は遠慮のない感じで言う。「大学を卒業しておいたほうが、将来いろいろと有利ですよ」

「……分かっています」

「中退という経歴ですと、採用を渋る企業は少なくないですし、大卒という条件の求人にはそもそもエントリーできません」

「……そう、でしょうね」

「今の学科が嫌ということでしたら、他学科や他学部に転部して、単位を取る方法もあります。共通科目は単位に互換性がありますし、羽村さんは一年次の取得単位数が多いですから――」

「あ、あの!」

 僕は途中で遮る。少し強い調子で言ったためか、女性職員が怪訝そうに眉をひそめる。

「お気遣いはありがたいんですけど、もう決めたことなので」

「親御さんはこのことをご存知ですか?」

「親? 親は何か関係あるんですか?」

 自分の言葉にトゲがあることに気づく。

 いけない、穏便に、さらりと退学したいんだ、僕は。

「ええ、それはもちろんです」女性職員はマニュアルのようなものを見ながら回答した。「退学には保証人および学費支弁者の了解が必要なんです」

「僕はもう二十歳ですよ?」

「でも、学費はご実家のほうで出されているんでしょう?」

「奨学金を借りていますので、学費はそれで払っています」

「でも不足額は親御さんが払っているんでしょう?」

「それも自分のバイト代で払っています」

「うーん、ですけど……」

 マニュアルどおりなのか、それとも親切心なのか。女性職員はさらに突っ込んだ物言いをしてくるようになった。

「では、休学というのはどうでしょう? しばらく頭を冷やして……失礼、考え直す期間があったほうがいいと思います。その上でなお、退学の決意が固いというのなら、そのとき改めて手続きをすることもできますし、親御さんもそのほうが――」

「だから親は関係ないでしょう!」

 思わず声を荒げる。他の職員たちが一斉にこちらを見る。女性職員はびっくりしたのか、目を丸くしている。

 いけない。

 ギュッとズボンの膝を掴む。

「すみません、大きな声を出して」

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

「母親は子供のころに亡くなりましたし、父親も去年亡くなりました。だから両親はおりません」

「え? だけど保証人欄に『羽村忠弘』と、お父様の名前が――」

 そこで職員は「あれ?」と眉をひそめる。

「羽村……忠弘?」

 急に狼狽した女性職員は、「ちょ、ちょっとお待ちくださいね」と席を外し、奥にいた男性職員に書類を見せる。「あの、これって」「なんだ」「この保証人欄にある名前ですが……」「あ!?」という流れのあとで、二人が僕のほうを同時に見る。

「羽村教授の……お子さん?」

 悪い予感が当たる。だからさっさと済ませたかったんだ。

 職員たちが顔を見合わせる。気まずい沈黙が教務課の冷えた空気の中を流れて、なんだか僕はいたたまれなくなる。

「あの」

 僕は立ち上がる。

 これから父のことをあれこれ訊かれるのだと思うと、心底うんざりだった。

「また、来ますから」

 背後で職員たちが何か言ったが、僕はもう振り返らなかった。


         2


 羽村忠弘は僕の父親だった。

 明教大学文学部の教授で、日本の考古学界では一、二を争うほどの知名度がある。とりわけ、父の名を世界的に有名にしたのは、故郷であるN県福野原市の『熊川遺跡』だった。それは日本のみならず世界の人類史を塗り替える大発見とされ、父は考古学の世界的権威となり、同時に、テレビ出演やマスコミの取材などで引っ張りダコとなった。そんなころ、僕が都内の私立中学に進学することが決まり、父とともに職場である明教大学の近辺に引っ越すことになった。ただ、福野原市の実家のほうも、父のコレクションともいうべき石器や土器などの出土品を保管する倉庫として残された。そんなわけで、僕の幼少期は遺跡や考古学と隣り合わせの日々だった。土器や石器などの蘊蓄を子守唄のように聞かされて育ったし、母は物心がつく前に亡くなっていたが、父がいるからさびしくなかった。

 ――ほら、英一、すごいだろう? これは火焔土器といってね、十日町市の笹山遺跡から出た縄文中期のものなんだ。燃え上がる炎のようなこの形状、つくった人の情熱まで伝わってくるだろう?

 遺跡や古代文明のことを目を輝かせて語る父が好きだった。小さいころから父にくっついて遺跡の発掘現場を巡り、数多くの出土品に囲まれて育った僕にとって、父はまさしくヒーローだった。それは世界的に有名だからというだけではなくて、情熱と好奇心に溢れ、泥にまみれながらも決して諦めずに発掘作業に邁進する父は本当に格好良かった。将来は父のようになりたいと思ったし、これまで誰も見たことのないような遺跡を発見して、地中深くに埋もれていた歴史の真実を明らかにするんだ――なんて夢とロマンを抱いていた。そんな僕が、大学の考古学科を目指したのはある意味当然のなりゆきだった。

 だが、その夢は一年前、唐突に終わりを告げる。


 遺跡ねつ造事件。


 遺跡発掘スタッフの内部告発により、父の指揮した発掘現場で重大な不正が行われていたことが暴露された。手口は単純にして悪質。他の地域で発掘された土器や石器を、誰も見ていない夜中にこっそり埋め、それを翌朝掘り出して『発見』を装う。そうした不正がスタッフによって週刊誌にリークされ、父の信用は地に堕ちた。

『羽村教授、遺跡ねつ造』

『まさかの不正、世界的権威の失墜』

『これまでの発見がすべて白紙に――考古学界激震』

 リークされた中には、あろうことか父の故郷であるN県福野原市の『熊川遺跡』も含まれていた。日本最古の遺跡として大変な注目を集め、これまでの日本史、そして世界史を大きく塗り替える世紀の大発見とされた遺跡。それがねつ造だったと暴かれたのだ。

 当然、大騒ぎとなった。

 世紀の大発見は一夜にして世紀の大ペテンに変わり、父を連日称賛していたマスコミは一転して父を非難し始めた。わが家の前にもテレビ局の取材班が犯人を包囲する機動隊のように詰めかけた。最低限の食料を買うためのスーパーの往復でさえ取材の記者たちから逃げまどうありさまだった。

 ――英一、こんなことになってすまない。しばらくは別々に暮らそう。

 父は自分のことよりも、まず僕を心配した。連日メディアの取材攻勢にさらされる息子を、父はなるべくカメラの前から遠ざけようとした。知り合いづてに借りたアパートを用意して、しばらく僕は父と離れて一人暮らしをすることになった。

 父は僕を安全地帯に移すと、自分の潔白を証明しようと動き出した。ねつ造とされた遺跡を巡り、それが本物であることを事実をもって証明しようとした。

 しかし、それはうまくいかなかった。

 最初のうち、父は頻繁に連絡をくれた。毎日僕に電話をかけ、調査の進捗を伝えたり、息子の様子を心配してくれたりした。でも、離れ離れになって一ヶ月もしたころ、急に音信不通になってしまった。マスコミは『疑惑の研究者失踪』とこぞって報道し、父の行方についてさまざまな憶測を並べ立てた。僕は何十回も父の電話をコールし続けたが、父が通話口に出ることはなかった。父との約束には背くことになるが、心当たりのある遺跡をいくつも回った。だが父と会うことはできなかった。

 生きているときには。

 その翌月、父は山中で遺体として発見された。警察は滑落による事故死として処理し、これで羽村教授研究不正疑惑は渦中の人物の死亡をもって一応の決着を見た。


         ○


 人に会いたくなかった。

 大学の正門から続く坂道を、足早に歩いて降りていく。

 怒ったようにがむしゃらに進むと幹線道路にぶつかり、それを強引に突っ切って進むと川沿いの土手にたどりつく。さすがに川を横断するわけにはいかず、左に曲がって土手の上を歩き続ける。正直、今どこに向かっているのかよく分からない。だがそれは今の僕とまったく同じことで、自分が何を目標にどこへ向かって進んでいるのか、この一年間に何もかも分からなくなってしまった。

 父の事件から一年。今日、大学を訪れたのも一年ぶりになる。

 この間、古書店のバイトも、遺跡発掘ボランティアも、対外的なことはすべてやめて、何をすることもなくぼんやりと過ごす日々が続いていた。大学二年の履修科目はすべて欠席し、試験すら受けていない。あれほど好きだった考古学の書籍も、論文も、遺跡巡りも、今では何一つ興味が湧かず、それどころか、そうしたものを目にするたびに父のことが思い出され、腹の底に重い塊を飲み込んだような気分になる。

『考古学を学ぶのが、苦痛になったからです』

 教務課の職員に答えた言葉は本当のことだった。

 ねつ造事件の発覚当初、僕は父を信じていた。あの真面目で研究熱心な父がそんなことをするはずがないと思ったし、父自身も僕に「これは何かの間違いなんだ」と自分の潔白を告げていた。僕はその言葉を信じ、父の疑いはいつか晴れるはずだと確信していた。

 だが、その想いは、父の死を境にして失望へと変わった。父は己の疑惑を晴らすことなくこの世を去り、父が死んだことで第三者委員会は事実上調査を打ち切った。父の業績も、発見した遺跡もすべて白紙に戻された。マスコミは父が自分の過ちを悔い、死をもって償った、などと報道した。そうした一連の経過の中で、僕の中で憧れと尊敬の対象だった父は急速に色褪せていき、いつしか僕も、父のことを信じられなくなっていった。父に対する怒りよりも、ただただ途方もない失望だけが残された。

 苦痛だった。考古学のことも、父のことも、父の在籍していた大学も、すべてが苦痛だった。何より一番苦痛だったのは、父のことが信じられなくなった自分自身に対してだった。

 ――いったい、これで何度目だろう。

 絶望と喪失の回数を、心のうちで数える。

 幼いころ、母を失った。去年、父を失った。そして――

 ――英ちゃん、すごいね! 大発見だね!

 ふと、脳裏に懐かしい声がよぎる。

 幼なじみの少女――中神明日香。こんなふうに、美しい川面を見ているときはいつも思い出す。

 小さいころ、僕は明日香といっしょに、こんな河原ではしゃぎまわっていた。傍らで発掘をしている父を見ながら、まだ現場に入れてもらえない僕と明日香は、近くの河原の砂利を掘り返したり、泥を漁ったりした。ちょうど、遺跡のそばに化石が多く取れる河原があって、いつだったか偶然発見した貝の化石が少し珍しいもので、地元の郷土資料館に飾られることになった。化石の脇に添えられた『発見者:羽村英一』のプレートを見たときの感動と感激は生涯忘れないだろう。僕は何度も資料館に通い、明日香は自分のことのように学校や近所で自慢しまくっていた。

 ――英ちゃん、やったね! 将来は学者さんだね!

 あのころは毎日が楽しかった。毎日の発掘に胸を躍らせていた。何かが見つかるたびに父がガシガシと頭を撫でてくれた。明日香が手を叩いて喜んでくれた。いま、川面を照らすこの夕陽のように、何もかもが輝いていた。

 だけど、それらは全部なくなった。明日香は十歳で旅立った。父はねつ造を糾弾されて非業の死を遂げた。そして自分は夢も意欲もなく抜け殻のようにただ毎日を過ごしている。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 自分はどこで間違ったのだろう。

 ぐるぐると頭の中で疑問符が巡るが、答えはない。

 そのときだ。

 聞き覚えのあるメロディが鳴り響いた。びくりとしてポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出す。画面には『中神耕太郎』という表示。

 ――明日香のおじさん?

 前触れのない電話に、いぶかしく思いながら通話ボタンを押す。

「はい、羽村です」

『英一くんか?』

 少しくぐもった感じの、枯れた声。確かに明日香の父親の声だ。

「はい、英一です。おじさん、ご無沙汰しております」

『急に電話して悪いね。来月は明日香の法事をやるんだが、英一くんにもぜひ来てほしいと思ってね』

「法事……」

 明日香が亡くなって十年。彼女の家は仏教なので、今は七回忌でも十三回忌でもない中途半端な時期と言える。

 ――なんだろう、今になって。

『来月十四日の予定だけど、英一くんの都合はどうかな?』

「はい、大丈夫です」

 予定は何もないから、調べるまでもなかった。

『よかった。英一くんが来てくれたら明日香もきっと喜ぶよ。それじゃ、詳しい時間とかはメールで送るから。アドレス、変わってないよね?』

「はい、前と同じです」

『それで、今度の法事、明日香のことで少し相談があってね』

「なんでしょう」

『今さらかもしれないんだが、明日香の遺品を、思い切って整理しようかと思っているんだ。それで、英一くんにも少し手伝ってほしくてね』

「そう、ですか……」

 心の中に、明日香の顔が浮かぶ。

 最後の日。病院の窓から見た明日香の姿はとても元気そうで、その晩に亡くなるなんて思いもしなかった。「英ちゃん、また明日ね〜!」と元気よく手を振った姿が、今も目に焼き付いて離れない。幼いころからご近所で、遊びに行くときもいつもいっしょで、これからもそれがずっと続いていくのだと信じていた。それが、あの日を境に、すべて断ち切られた。

 あの笑顔は、もう存在しない。

『……もしもし、英一くん?』

「あ、すみません……」

 亡き幼なじみのことを思い出し、一瞬だけ上の空になっていた自分に気づく。携帯電話を握り直し、しっかりしろ、と自分に言い聞かせる。

 そのときだった。

 ――ん?

 土手の前方に、人影が見えた。

 最初、それは夕陽を背後から浴びて、ひとつのシルエットにすぎなかった。通話のために立ち止まっている僕に、それはだんだんと近づき、やがて人物の相貌が明らかになる。

「あ……」

 スカートが風に揺れ、ふわりと裾がはためく。大きな麦わら帽子の下には色白の顔、そこに猫のように輝く大きな瞳と、やや紅潮した頬。右の口角をくいっと上げた悪戯っぽい笑顔が、僕にまっすぐ向けられている。

 それは少女だった。

 小柄で、華奢で、儚げに微笑む一人の少女が、僕の前で立ち止まった。

 僕は愕然と目を見開く。

 驚愕。絶句。唖然。どんな言葉でも言い尽くせぬ、雷に打たれたような衝撃。

 眼前の光景に目を疑い、息を吸うのも忘れ、心臓が迫りあがるように跳ね、僕は硬直する。

 ――なんだ、これは。

 ありえない。

 あるはずがない。

 そんな、

 はずが、

 あるわけ――

『もしもし英一くん? それで、明日香のことなんだが……もしもし? もしもし?あれ、聞こえてるかい?』

 だらりと下がった手から、携帯電話がするりと地面に落ちる。

 夕陽をまぶしく受けた土手の上で、僕はただ、立ち尽くす。

 気づけば、お互いに見つめ合っていた。少女の瞳に僕が映り、僕の瞳は少女に釘付けになる。

 そして少女の唇が、ゆっくりと咲く薔薇のように開いた。


「久しぶりだね、英ちゃん」


 そこには十年前に死んだはずの少女が、あのときと変わらぬ姿で、僕を見て微笑んでいた。



     第二章 明日香



         1


「ひゃっぱりかひふぁんでいちわんおいひいのはじゃむふぁんらね(やっぱり菓子パンで一番おいしいのはジャムパンだね)」

「…………」

 僕は菓子パンを頬張る『少女』を、ただ見つめる。

 土手で衝撃の『遭遇』を果たし、しばらく歩いて下宿のアパートに戻ってきたのがつい先ほど。買い置きの菓子パンを『少女』が猛然と食べ始めて今に至る。お腹が減っていたらしい。

 幼い少女を一人暮らしの男の下宿に連れ込むなんて、知らない人に見られたらかなりやばいことは分かっている。こういうことは警察に届け出るべきなのも分かっている。

 だが、少女は当然のごとく僕の後をついてきて、離れようとしても親を慕う雛鳥みたいに執拗にくっついてきた。何より、死んだ幼なじみにそっくりであるというショックが、僕から冷静な判断力を奪っていて、気づいたらこうして家で『保護』する形になっている。

 ――というか。

 なんだ、これは。

 冷静になればなるほど、やはりこれはありえないことなんだという常識的かつ論理的な結論に落ち着く。

 中神明日香は死んだ。

 十年前のあの夜、病院で息を引き取った。享年十。お通夜にもお葬式にも参列したし、冷たくなった白い明日香の顔を見た。火葬場で荼毘に付され、骨と灰だけになった彼女を見た。この目ではっきりと。

 だからこんなこと、ありえるはずがないんだ。

 しかし、だとすればこの少女はなんだ? 幽霊か? ゾンビか? 幻覚か?

「ええと、十年ぶりくらい? 英ちゃん本当に背が伸びたよね。最初見たとき、英ちゃんだって全然分からなかったよ〜」

 まるで久々に会った親戚みたいに、少女は親しげに語る。

「……ええと、あのさ」

「なに?」

 少女はきょろりと僕に目を向ける。

「いったいその……どちらさま、ですか?」

 思わず変な敬語になる。見た目は少女だが、とにかくとんでもない超常現象に違いないからだ。

「……? どういう意味?」

 少女は首を傾げ、僕を見つめる。

「な、名前は?」

「中神明日香」

「…………」

「……ふぇ?」

「じゃあ、仮に『明日香』としよう」

「仮にって何よ」

 『明日香』は不満げに頬を膨らます。そういう仕草まで本当によく似ている。

「お、おまえは、どうしてここにいるんだ?」

 単刀直入に訊いてみる。これが僕の幻覚や幻聴なら、この質問には何の意味もないことになるが、それでも訊かずにはいられない。

「どうしてって……。それ、どういう意味?」

「いや、だからさ」僕は遠慮がちに言う。「おまえ、ほら、その、十年前に……」

「死んじゃったこと?」

「あ、ああ……そうだ、うん」

 死、という言葉が彼女の口から飛び出してきて、僕は妙に戸惑った。

 やっぱり彼女は死んでいるのか。いや、それは知っていたけど。

「おまえは十年前に、その、亡くなって……、だけど今、ここにいる。どうしてだ」

「さあ」

「さあって、おまえ……」

 僕は呆れたような、肩透かしを食ったような気分になる。

「だって、気づいたときにはこうだったし」

「うーむ……」

 僕はうなるしかない。

 目の前に、死んだ幼なじみそっくりの少女。でも生きている。だけど死んでないとおかしい。

 考えれば考えるほど、ますます混乱する。

「まあ、なんでもいいじゃん」少女は軽い調子で言う。「とにかく英ちゃんに会えたのが一番うれしいの」

 ころころと、本当に屈託のない笑顔で彼女は言う。

「えっと、幽霊とか、亡霊とか……そういうことなのか?」

「幽霊? 亡霊?」

 少女は目をぱちくりさせ、自分の体を見る。

「ちょっといいか?」

 僕は彼女に向かって手を伸ばす。

 彼女も僕に手を伸ばし、すぽっと嵌るような感じで握手をする。

 柔らかい。温かい。ちゃんと、触れられる。

 幽霊にしては生々しいし、死体にしては温かい。確かに存在する、少女の実体。

 どうにも現実感がなくて、二の腕を触り、肩を叩き、頭を撫で、頬に手をやったところで、

「英ちゃんってば」少女が身をよじる。「なんかやらしい」

「ち、ちげーよ」

 そんなつもりはなかったが、手を引っ込める。

 存在する。

 間違いなく、そこに、『明日香』の体が。

 まったくもって信じがたいが、とにかく実在する。どうにも否定のしようのない事実。

 だけどやっぱり訊いてしまう。

「誕生日は?」

「七月二十日」

「好きな食べもの」

「菓子パン」

「好きな海洋生物」

「スカシカシパン」

「クラスメートの猿渡くんのあだ名」

「猿やん」

「小一のときの担任」

「星野先生」

「クラスの昭島さんと喧嘩した理由は?」

「絵が下手だってからかわれた」

「星野先生が『明日香ちゃんは大物だなあ』と評した忘れ物」

「……ランドセル」

「家に救急車を呼ばれた理由」

「……便器にお尻がハマった。って、さっきからなんなのこの質問!」

 少女がぷりぷりと怒り出す。ふくれっ面がフグみたいになる。

 ――嘘だろ……。

 返ってきた答えは、どれも本物の明日香でなければ知りえない事実ばかりだった。誕生日やクラス担任の名前はともかく、赤の他人がここまで調べられるはずがない。

「やっぱり、明日香……なのか?」

「そうだよ」

「…………」

 明日香。

 本当に、明日香なのか。

 もしこれが本当に明日香ならば、どんなに嬉しいか。

 ずっと会いたかった。ずっと謝りたかった。ずっと後悔していた。

 でも、彼女は死んだ。死んでしまった。

 だからやっぱり、明日香であるはずがない。

 明日香に会えた嬉しさと、現状の不可解さ。どうにも気持ちの整理がつかない。再会を喜んでいいのか、蘇った死者を怖がればいいのか。僕の中で懐かしさや不気味さがないまぜになり、混沌としたままそれは落ち着く気配を見せない。

「そ、そうだ、ご実家に、電話、しないと……」

「それはダメー!」

「え? でも……」

「ね、それはあとでいいじゃん?」

「そういうわけには……。あと、病院とかも、行ったほうが……」

「いいのいいの」

 少女は手を振る。

 それから僕は『中神明日香』の実家に電話しようとしたが、「やーめーてー!」となんだか慌てた感じの彼女に妨害された。二度三度ともみ合いを続けるうちに、大事なことに気づく。

 考えてみれば、電話をかけてどうする。『おたくの死んだはずの明日香さん、十年ぶりに蘇ったみたいです』――いやいや、頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。しかも法事に来てほしいと言われたばかりでこんなことを言ったら、冗談にしても悪質すぎる。

「分かった分かった、連絡しないから」

 とりあえずはそう言うしかない。

「よかったぁ……」

 少女はほっとした感じで胸を撫で下ろす。どうしてこんなに嫌がるのか。やはりいろいろと不都合なのか。なんとなくまずいのは分かるけど。

 ちょっと会話が途切れたあと、

「……で、どうするんだ。これから」

「これからって?」

 少女はいつの間に持ってきたのか、牛乳パックからマグカップにどぼどぼとおかわりを足している。遠慮がない。

「だって……何かワケがあるんだろ」

「ワケ?」

「ワケがなきゃ戻ってこないだろ」

「そうなの?」

「僕に訊かれても」

「んー」

 少女は顎のあたりにひとさし指を当てて、小首を傾げる。彼女の物を考えるときのスタイルだ。

「戻ってきた理由は分からないけれど、ひとつ、したいことがあるの」

「したいこと?」

「そう」

 少女の瞳がきらりと輝く。いたずら好きの猫のような瞳が、まっすぐ僕を映す。

「ほら、英ちゃん、覚えてる? 私が死ぬ前の日のこと」

 死ぬ前の日、という言葉に僕は詰まる。こいつは自分が死んでいるからいいのかもしれないが、死ぬとか死んだとかいう言葉はやっぱりちょっときつく響く。

 少女はかまわず続けた。

「あの日、私言ったよね。『約束、覚えてる?』って」

「約束?」

「あ、やっぱり忘れてる! 英ちゃんひどい!」

「もうちょっと分かりやすく説明してくれ。急にそんな昔のことを言われても……あ」

 そこで僕の脳裏に記憶が蘇る。

 それはあのときの明日香の言葉。


 だって、私たち今十歳でしょ? 『あの日の約束』から三年経ったんだよ。


 ――そうだ。

 僕は思い出す。あのときも明日香はそんなことを言っていた。

「八月、十八日……」

「あ、思い出した!?」

 少女の顔がほころぶ。

「もしかして、七歳のときにした、あの約束のことか?」

「そう!」

「『大人になったら、掘り出そう』っていう……」

「そう、それだよ、それ!」

「二人でいっしょに埋めた――わぶっ!」

 そのとき、少女が僕に飛びついてきた。僕は下宿の畳の上に盛大に後頭部をぶつける。

 僕に柔らかなぬくもりを預けながら、瞳をきらきらさせて少女はあのときの『答え合わせ』をした。


「探しに行こうよ、タイムカプセル!」