ガラスの引き戸を開けた途端、犬の吐息みたいにねっとりした風が吹きこんできた。一瞬、白く輝いた視界が元通りになる。青いストライプの入った電車が横須賀線のホームに滑りこむのが見えた。

 俺は左肩をなるべく使わずに、回転式の鉄の看板を引きずって店の外へ出る。しばらく手入れされていなかったせいか、表面にはうっすらと埃が貼りついていた。白い塗料で描かれた店名を念入りに雑巾で拭き始める。

 店の名前は「ビブリア古書堂」。

 JR北鎌倉駅のすぐそばにある、昔ながらの古書店だ。俺の名前は五浦大輔。去年大学を卒業し、この店でバイトしている。就活に失敗してフラフラしているところをここの店主に拾われた。一ヶ月ばかり店を休んでいて、数日前に復帰したばかりだ。なまった体に七月の暑さが堪える。Tシャツの背中はもう汗ばんでいた。

「お店、今日はお休みなの」

 くぐもった声に振り向くと、藍色の涼しげなワンピースを着て、日傘を差した年配の女性が立っていた。男のようにさっぱりと短くした白い髪には見覚えがある。午前中よくやって来る客だった。

「申し訳ありません。明日は営業してるんですが……」

「あらそう。じゃ、また寄るわね」

 残念そうな様子もなく、向きを変えて円覚寺の方へ去っていった。たぶん近所に住んでいるのだろう。この店を散歩のコースにしているお年寄りは多いが、ほとんど本を買っていってくれない。三月以降は特にそうだった。

 東日本大震災の後、本を買いに来る客は減った。古書を読む余裕などないのかもしれない。しかもこの一ヶ月、ビブリア古書堂は仕入れや品出しにも不自由していた。俺が左肩の骨を折り、重い本を運べる店員がいなかったからだ。今日は臨時で店を閉めて商品を入れ替えている。

 看板をそのままにして建物へ戻った。背の高い書架が向かい合わせに店の奥へ伸び、床にもうず高く古書が積まれている。棚の商品を入れ替えている今は、普段以上に足の踏み場もない。看板を外へ出したのは作業に邪魔だったせいもあった。

 ここにある膨大な古書の中身を俺はほとんど知らない。長時間活字の本を読んでいると気分が悪くなるという妙な「体質」のせいで、興味はあっても読書ができなかったのだ。

「福武文庫も入れ替えていいですか」

 店の奥に向かって声をかける。返事はなかった。というかカウンターの奥には誰もいない。さっきまでそこで店主が本の値付けをしていたのだが。

 俺は作業を中断すると、足音を忍ばせてカウンターへ戻る。値付けの済んでいない絶版文庫と鉛筆が置きっ放しになっていた。内田百閒『新・大貧帳』。福武文庫。最後のページを確かめると、まだ価格は書きこまれていなかった。

 ぎしりと椅子の鳴る音が聞こえた。

 入荷した古書の整理ができるように、L字型のカウンターの内側には広いスペースが取られている。塀のように本がうず高く古書が積み上がっているのだが、その奥には人が隠れられるぐらいの隙間がある。店主はそこで椅子に腰かけていた。

 背中まで伸ばした長い黒髪。ノースリーブのブラウスにロングスカート、作業用のエプロンといういつもの地味な姿だ。ただ、丸みを帯びたむき出しの肩がなまめかしい。半ば背を向けて座っているので、俺の視線にまだ気付いていない。

 この人の名前は篠川栞子。俺とあまり年齢は変わらないが、ビブリア古書堂の三代目店主だ。並外れた古書の知識と洞察力を活かして、店に持ちこまれる本についての相談事を解決してきた。

 それはいいのだが、気になる本が入荷すると仕事中でも物陰でこっそり読み始めてしまう。そのたびに「仕事して下さい」と注意するのが俺の役目だった。

「し……」

 口から出かかった文句が立ち消えになる。食い入るように栞子さんが見つめているのは古書のページではなく、パソコンの画面だった。この隙間にまで続いているカウンターの上に、デスクトップのパソコンが置かれている。主に通販の業務に使っているのだが、今起動しているのは会計ソフトらしく、細かな数字が並んでいる。この店の収支表のようだった。

「困ったな……」

 ふう、とため息をつき、カウンターの天板に顎を載せる。俺は反省した。仕事をサボってこっそり本を読んでいたわけではなかった。バイト店員の俺と違って、店主には考えなければならないことがいくらでもある。古書店の経営が楽なはずはないのだ。きっと今までも俺の知らないところで真剣に悩んで――。

(ん?)

 顎をカウンターに載せたまま、ゆっくりと頭を左右に振り始める。

「困ったなー……困ったなー……」

 節を付けて小声で歌っていた。この人の鼻歌を耳にしたことはあったが、歌詞までついている歌は初めてだった。柔らかくてきれいな声だ。俺より年上なのに可愛い。とにかく可愛い。ちなみに俺はこの人と二ヶ月前から付き合っている。

「今月もー、赤字かもー、来月もー、ひょっとしてー、ふんふふーん」

 ただ音程は微妙だ。それになんだか歌詞が暗い。

「どうしようー、大輔くんの、お給料……」

「えっ」

 つい声が出てしまった。ぴんと栞子さんの背中が跳ねて、俺の方にゆっくり顔を向ける。フレームの太い眼鏡の奥で、長い睫毛に彩られた両目が見開かれていた。肌は陶器のように白く、古書だらけのこの空間にしっとりと馴染む。目立つタイプではないが、バランスよく整った容姿だ。ただ、ブラウスを押し上げている豊かな胸元だけがアンバランスだった。もう手遅れだったが、両手でしっかり口を塞いでいる。

「そ、そうですよね……大輔くん、もう戻ってきてるんでした……」

 指の隙間からもごもごと声が洩れてくる。

「すみません、わたし、実は前から独り言で歌っちゃう癖があって……ひ、人前でなるべく出さないようにしてたんですけど、大輔くん、最近お店にいなかったから、つい……あ、本の値付けですね」

 俺が持っていた『新・大貧帳』をもぎ取ると、ぱらぱらとめくって状態を確認する。

「研磨されてスピンも切れているので、均一台でいいです」

 話を打ち切るように本を返してくる。肩越しに見えるパソコンの画面には収支の一覧が表示されたままだ。歌ってしまう癖よりも別のことが気になる。

「店の経営、そんなにまずいんですか」

「……そういうわけでは」

 彼女は気まずそうに言葉を濁す。

「このところ赤字なのは確かですけど……万が一、高額の仕入れがあった時に備えて、ある程度のお金を店の口座に預けているんです。だから、お給料のことは心配しないで下さい」

 あまり安心はできなかった。給料のことはどうでもいい――わけではないが、仕入れの資金に手を付けるのは心配だった。大船で長年定食屋を切り盛りしていた祖母は「金の使い道をきちんと分けるのが商売を続けるコツだよ」と言っていた。万が一に備えている金を俺の給料に回してしまうのは、かなり切羽詰まっていることにならないか?

「俺が休んでたせいですよね。一ヶ月以上も」

 正確には四十日だ。受験生の妹をそうそう手伝わせるわけにいかず、足の悪い彼女一人ではうまく店は回らない。売り上げが落ちるのも当然だった。

「大輔くん」

 栞子さんが声を張った。壁に立てかけてあった支えつきの杖を肘にはめて立ち上がる。少しよろけたので、俺は思わず彼女の腕に手を添えた。こちらを見上げる黒目がちの瞳は怒っているように思えた。

「大輔くんはなにも悪くないです。怪我をしただけでしょう? こんなに早く回復するだけでも凄いです……あの石段から落ちたのに」

 栞子さんの肩がかすかに震えた。自分が落ちた時の恐怖が蘇ったのかもしれない。俺たちは二人とも北鎌倉にある同じ石段から、違う時期に落ちて入院している。もちろん偶然ではない。二冊の太宰治『晩年』をめぐる、とても複雑な事情があった。



 一年前、栞子さんは田中敏雄という古書マニアにストーキングされていた。狙われていたのはビブリア古書堂で代々引き継がれてきた、太宰治『晩年』初版本のアンカットだった。

 田中は栞子さんを石段から突き落とし、今も足に後遺症が残るほどの怪我を負わせた。どう考えてもまともではない男だが、実は俺と血が繋がっている。田中の祖父と俺の祖母は一時期不倫関係にあり、生まれたのが俺の母だった。もちろん知っている人間はごくわずかだ。

 栞子さんは蔵書を守るために偽物を燃やし、アンカットが失われたように見せかけて、この店で働き始めたばかりだった俺も利用して田中を警察に引き渡した。

 ところが今年の五月の終わり、田中敏雄名義の脅迫状が舞いこんできた――栞子さんの芝居を知っているという内容だ。保釈中の田中に会いに行くと、脅迫状については知らん顔で奇妙な依頼をしてきた。かつて祖父田中嘉雄の蔵書だった、栞子さんの持つアンカットとは別の『晩年』初版本を捜して欲しいという。意図を疑いつつも調べていくと、田中嘉雄は北鎌倉に住んでいた久我山尚大という冷酷な古書店主に脅迫され、『晩年』を強引に買い取られていた。尚大の死後『晩年』を引き継いだのは、寝たきりになっている未亡人の久我山真里だった。

 田中敏雄とは別の意味で『晩年』に執着を抱く彼女は、太宰自家用の一冊を持っているだけでは満足せず、栞子さんの持つアンカットをも手に入れようと画策していた。この店に脅迫状を出したのも彼女の差し金で、俺たちの反応を確かめていた。

 俺は久我山真里の手先になっていた孫の寛子と、『晩年』の奪い合いでもみ合った挙げ句、石段から転げ落ちたというわけだ。

 俺が入院している間に、久我山真里は体調を崩して東京の病院へ移った。脅迫や強盗未遂、傷害などの罪に問われるはずだった。しかし、高齢の彼女から警察は供述が取れず、逮捕された久我山寛子も「『晩年』のアンカットを欲しがっている祖母のために自分がすべてやった」と主張したために、結局すべての容疑が寛子一人に向けられることになった。祖母の罪を被るつもりらしい。俺たちも主犯は久我山真里だと警察に話したのだが、証拠は発見されなかった。

「久我山家の人たちは、最近どうしてるんですか」

 俺が尋ねると、栞子さんは目を伏せた。

「真里おばあさまは今も病院で……昨日、鶴代おばさまと電話でお話ししたら、最近はほとんど意識もないそうです。おばさまもかなりお疲れのようでした。拘置所にいる寛子さんの面会にも通っていますし」

 六月の事件で被害を受けたのは俺たちだったが、久我山真里の娘であり、寛子の母親でもある久我山鶴代も被害者だと思う。二人のしていたことをまったく知らなかった彼女が後始末に奔走している。俺の自宅にも謝罪に訪れて、怪我の治療費と見舞金を支払いたいと申し出てきたが、入院費だけ受け取って後は断った。

 久我山真里たちは『晩年』のアンカットを奪おうと俺を田中敏雄に襲わせていた。田中がぎりぎりのところで俺たちに寝返ってくれなければ、もっと多くの人間が傷ついていたかもしれなかった。

 田中には裁判の判決が下り、今は刑務所で服役している。栞子さんが『晩年』を隠し持っていたことを警察に話しても、判決をそのまま受け入れた。俺たちの方も田中に襲われたことを口外しなかった。

 お互い協力しあったわけだが、決して心から信頼し合っているわけではない。久我山真里の持つ『晩年』初版本をビブリア古書堂が買い取って田中に売る、という約束でどうにか保たれている関係だ。

 もしその約束を果たせなければ、出所後にどんな報復を受けるか分からない。久我山鶴代に事情を話すと、必ず俺たちの希望に添うようにすると応じてくれた。もともと母親から相続する日が来たら、久我山尚大の蔵書を残らず手放すつもりだったらしい。

 今、そのことで一つ問題が起こっていた。

「久我山家にあった『晩年』は見つかったんですか?」

 俺が石段を転げ落ちた日、太宰自家用の『晩年』を含む久我山尚大の蔵書は、久我山家の書斎にある開き戸棚に間違いなく収まっていた。しかし、いつのまにか戸棚は空になっていたという。栞子さんの持つアンカットが奪われそうになった事件と久我山家の古書は直接関係がなく、警察も証拠品として押収しなかったらしい。

 久我山真里がどこかに隠したことは間違いなかった。自分の計画を阻止した栞子さんへの嫌がらせには違いなかったが、容態が悪いせいで行方を聞き出せずにいた。

「鶴代おばさまとお話ししたのはそのこともあったんです。実は悪い知らせがあって……太宰自家用の『晩年』はもう人手に渡っていました」

 栞子さんの返事に、俺は一瞬言葉を失った。

「人手に渡ったって、売られたってことですか?」

「ええ。わたしも油断していました。真里おばあさまの性格上、蔵書を手放したり傷つけたりはしないだろうと……都内の病院に移る前、鶴代おばさまの外出中に知り合いの古書業者を呼んで全部運び出させていました。百万円の買い取り明細が郵送されてきて、おばさまも気付いたそうです。もう真里おばあさまの個人口座に代金も振り込まれています」

「まずくないですか、それ」

 百万円の代金が支払われている以上、取り引きは成立してしまっている。一度市場に出てしまった古書を取り戻すのは簡単ではないはずだ。もし熱烈な太宰ファンの手に渡っていたら、貴重な作者自家用の『晩年』を手放したりはしないんじゃないか?

「たぶん大丈夫です。業者の方とは連絡が取れました。久我山家から買い取った蔵書はまだ一冊も売っていないそうです。今夜、その方がうちにいらっしゃることになっています。『晩年』をわたしたちに売って下さるとのことで、その相談に」

「そうだったんですね。よかった」

 俺は胸をなで下ろした。取り引きの相手が久我山家からその業者に変わっただけだ。しかし、大丈夫だと言うわりには栞子さんは浮かない顔つきだった。

「どうかしたんですか?」

「気になることがあって……結局、どうして真里おばあさまは蔵書を売ることにしたんだろうって」

「え、そんなの、栞子さんへの嫌がらせじゃないんですか。俺たちと田中との約束を果たせなくするため、とか」

「そのつもりだったなら、一刻も早くどこかのコレクターの手に渡るよう手配していたはずです。特にそういう指示はなかったと業者の方もおっしゃっていました」

「頼みそこなっただけじゃなくて?」

 大したことには思えなかった。なにしろ体調の悪い老人のやったことだ。

「だといいんですが……なにか、裏があるような気がして」

 俺はそれよりも仕入れにかかる費用が気になっていた。まとまった金額が必要なはずだ。大口の仕入れに備えた資金はあると言っていたが、今この店の経営は赤字になっている。本当に大丈夫なのか――気を揉むばかりなのが情けない。

「どこの古書店に買い取られたんですか」

「専門の古書店ではなくて、横浜にある骨董屋さんです。舞砂道具店さんといって、海外のアンティークと洋書を扱われていて……古くから久我山家と付き合いがあったそうです」

「栞子さんも知らない店なんですね」

 彼女はうなずいた。筋金入りの古書マニアでもあるこの人は、当然古書を扱う店にも詳しい。それでも知らない店があるのか。

「十五年ほど前に店舗を閉めて以来、限られたお得意様向けに目録販売だけをやってらっしゃるとか。ほとんど海外で過ごされているとおっしゃっていました。声の感じではかなりお年を召した方でした……わたしの母なら、知っているかもしれません」

 思いがけない人物が話題にのぼって、俺はぎくりとした。篠川智恵子。栞子さんよりも古書に詳しい、油断のならない女性だ。十年前になにかの本を追ってビブリア古書堂から姿を消してしまい、つい最近まで行方が分からなかった。

「どうしてですか」

「母もずっと海外にいて、洋書の売り買いをしてきたはずですから。日本の同業者には詳しいのではないかと……わざわざ聞きたくはありませんが」

 栞子さんの声に棘が混じった。俺は彼女の顔をまじまじと見つめる。この人は母親ととてもよく似ている。だからこそ許せないものがあるのだろう。同族嫌悪というやつだ。でも、もしもう一つの秘密を知ったら、嫌悪する人間がもう一人増えるかもしれない。

 はっきりした証拠があるわけではないが、おそらく久我山尚大は篠川智恵子の父親だ。西鎌倉の深沢に住んでいた愛人との間に生まれたのが智恵子らしい。客を脅迫して取り引きするような、危険な古書店主が栞子さんの祖父ということになる。

「……大輔くん」

 俺がそのことに気付いたのは、肩の骨折で入院している時、見舞いにやってきた篠川智恵子と話したせいだ。たぶん気付くように仕向けられていた。娘と付き合っている俺がどう反応するか、試されている気がする。もちろん誰にもそのことを話していないが――。

「あの……大輔くん。ちょっと」

 俺は我に返った。栞子さんはぎゅっと目を閉じて首をすくめている。

「し、仕事中は駄目です……文ちゃん、そろそろ帰ってきちゃう、から」

 消え入りそうなささやき声で言う。

「なんの話ですか」

「えっ」

 栞子さんは顔を上げる。思ったよりも互いの距離が近い。いや、俺の方が顔を近づけていた。考え事をしているうちに前のめりになっていたらしい。この人が立ちあがろうとした時に添えた手も放していなかった。

 キスしようとしていると思われたらしい。つい彼女の口元に目が行く。ピンクのリップグロスが塗られたつややかな唇は、ほんの少し開いていた。俺の喉がひとりでに動く――その瞬間、母屋と店を仕切っているドアが音高く開いた。

「いちゃいちゃしてるカップルはいねがー!」

 なまはげ風のセリフとともに現れたのは、高校生ぐらいの小柄な娘だった。膝下までのハーフパンツとボーダーのTシャツを着た姿は、たった今海から帰ってきたように見える。小麦色に日焼けした肌にポニーテールがよく似合っていた。小動物っぽい顔立ちも全体的な雰囲気もまったく違うが、この娘は栞子さんの妹だ。名前は篠川文香。今、夏休み中の高校三年生だ。

「あ、本当にいた……」

 ばつが悪そうな笑みを浮かべる。

「ごめん。本当にごめん。冗談のつもりだったんだけど……いやいやいや、いいからいいから。そのままそのまま、そのままそのまま……」

 両方の手のひらをこちらに向けたまま、後ずさりで母屋に引っこもうとする。

「ま、待って文ちゃん! 誤解だから」

 栞子さんが慌てて呼び止めた。誤解かどうかは微妙なところだと思う。


 携帯の画面の中で白いベビー服姿の赤ん坊が、濃い色のサングラスをかけた初老の男性に抱っこされている。場所は縁側で、背後にガラス戸が写っている。二人とも目を細めてカメラを見つめているが、眉間にはそっくりのしわが寄っていた。間違いようのない血の繋がった親子だ。

「本当にねー、坂口さんにそっくりなの」

 篠川文香は自分の携帯を見せながら言った。今日、彼女は逗子に住んでいる坂口夫妻のアパートに行っていた。坂口が『論理学入門』という本を売りに来たことがきっかけで俺たちと親しくなった。今月のはじめに子供が産まれ、俺と栞子さんの代わりに出産祝いを届けてもらった。本当は俺たちも行きたかったが、仕事もあって都合がつかなかった。

「でもね、しのぶさんにも似てるんだよ。男の子だけど」

 次の画像で赤ん坊は丸顔の中年女性の膝に移っていた。坂口の妻のしのぶだ。誰か冗談でも言ったのか、顔中を口にして笑っていた。笑い声がここまで聞こえてきそうだった。確かに顔の輪郭はよく似ている。

「こういうの見てるとさー、そのうちあたしも赤ちゃん抱っこする日が来るんだなーって思うよ」

「そのうちって……文ちゃんの子供?」

「あたしのわけないじゃん。お姉ちゃんにだよ。いつ結婚してもおかしくないんだから」

「なっ」

 栞子さんは喉になにか詰まったような声を上げた。

「そんなことあるわけないでしょ! け、結婚なんてまだ先で……大輔くんのお母様にもきちんとご挨拶してないんだから!」

 もうそこまで考えていたのか。言われてみるとまだうちの親と会ってもらっていなかった。結婚するつもりで付き合い始めたのに間が抜けている。

(今度、うちに来てもらおう)

 ただ、彼女が言ったように結婚するのはまだ先だと思う。

 怪我の治療中につくづく思い知った。体を動かせなくなると、俺はなに一つ仕事ができない。去年、入院しながらこの店を経営していた栞子さんとはまるで違う。体力だけが取り柄のままでいいとは思えない。この人と結婚したとしても、自分がビブリア古書堂でどう働いていくのか、少し時間をかけて考えたかった。

「あ、そういえば五浦さん」

 携帯を仕舞いながら、篠川文香が俺に話しかけてきた。

「志田さんってどうしてるか知らない?」

「志田さんか……」

 鵠沼にある橋の下に住んでいたホームレス兼せどり屋だ。三ヶ月ぐらい前までよくこの店に顔を出していた。威勢がよくて気前もいい、さっぱりした性格の人だった。もしここへ来ていたら、栞子さんとの結婚について話を聞いてもらっていたかもしれない。ビブリア古書堂の内情や、篠川母娘の関係について詳しく知っている年長者の知り合いは志田ぐらいしかいなかった。

「いや、俺も知らない。四月の終わりから突然店に来なくなって……電話もメールも全然来ないし」

 以前にも数日ふらっといなくなることはあったが、今回は様子が違う。志田のねぐらがあった引地川の橋の下を見に行くと、寝起きしていたテントはきれいに片付けられていた。古書を売りに行っていた他の古書店にも、やはり五月以降は姿を見せていないらしい。

「志田さんのことでなにかあった?」

「奈緒ちゃんがね……さっき鎌倉駅で会って話したんだけど、夏休みに入ってから志田さんをあちこち捜してるみたいなんだ。受験勉強で忙しいのに『先生が行き倒れになってるかも』って、すごく心配してて」

 奈緒ちゃん――小菅奈緒は篠川文香と同じ高校に通っている。小山清の『落穂拾ひ・聖アンデルセン』という新潮文庫をきっかけに志田と親しくなり、河原で本の話をするようになった。彼女は志田を「先生」と呼んで慕っている。

「もし万が一のことがあったら、どこかの古書店に連絡が行ってると思う。出入りしてた店の住所とか電話番号のメモを必ず持ってたし……たぶん引っ越しただけじゃないかな」

 俺はちらっと栞子さんを窺った。自分の意志で引っ越したと考える理由はもう一つある。この数ヶ月、栞子さんは志田の話に自分から触れようとしない。なにか知っているからじゃないかと思う。四月の終わり、栞子さんは『彷書月刊』という雑誌のバックナンバーをめぐる相談事に乗ったのだが、志田が姿を消したのはその直後だった。志田の友人が関わっていた一件だ。

「うん、まあ、そうだよね……志田さん、そこらで行き倒れちゃう人には思えないし。でも引っ越すなら引っ越すで、みんなに挨拶ぐらいしていけばいいのに」

 確かにそうだ。理由があってどこかへ行ったにしても、後から手紙の一つぐらいは出せるはずだ。義理堅い性格だと思っていたのだが。

「奈緒ちゃんにはあたしから話しとく。あんまり心配しなくても大丈夫だと思うって」

 篠川文香はそう言って、姉の方を向いた。

「じゃ、あたし夕方まで自分の部屋で課題やってるね。台所にお茶菓子用意してあるから、お客さんが来たらそれ出して」

 彼女は母屋へのドアを開けようとする。俺は首をかしげた。昼間に来客があるように聞こえるが、そんな話は初耳だった。

「待って文ちゃん……お客様がいらっしゃるのって、夜だったわよね」

 慌てたように栞子さんが声をかける。振り返った彼女の妹は喉まで見えそうな勢いで大口を開け――いきなり天井に向けた顔を両手で覆った。

「うわー、やっぱ聞いてなかったかー。確認するんだったー。失敗したー」

「えっ、どういうこと?」

「朝ご飯の後で話したじゃん。今朝早くその人から電話があって、ひょっとしたら今日の午後に行くかもしれないって……お姉ちゃん、生返事だったから耳に入ってないかなーって思ったんだよね……」

 話を聞くうちに栞子さんの顔色が変わっていく。なにか思い当たることがあったらしい。

「ひょっとすると、あの時……『本を読むか歯磨きするかどっちかにして』って注意された後……?」

「そうそこ!」

 篠川文香はびしっと姉を指差した。読書の最中なら聞いていなくても不思議はない。というか、歯磨きの最中でも読書するのかこの人は。意外でもなんでもないが。

 その時、表のガラス戸が開いた。

「ごめんください」

 歌っているように節をつけた挨拶が店内に響いた。真っ青なストライプのスーツを着て、同じ柄の帽子をかぶった小男が開きっぱなしの敷居をまたいでくる。オレンジ色の太いネクタイが目に眩しい。革製らしいアタッシュケースを提げている。

 七月の北鎌倉の風景にまったく馴染まず、くっきりと浮かび上がって見える。一瞬、知らない芸能人が立ち寄ったのかと思った。

 丸みを帯びた体型だが、足取りは軽やかだった。すいすいと本の山を避けて俺たちのいるカウンターへ近づいてくる。毒気を抜かれた俺たちは誰も口を利けなかった。

「ビブリア古書堂の皆さん、初めてお目にかかります。舞砂道具店の吉原喜市と申します」

 のんびりしているが張りのある声で名乗り、芝居がかったしぐさで帽子を取った。一本の毛もない頭がてらてらと光沢を放っている。彫刻刀で削ったようなはっきりした目鼻立ちだが、口元や目尻のしわもはっきりと目立つ。かなり年を取っているようだった。

「太宰治『晩年』のお取り引きの件で伺いました。今、お話しさせていただいてもよろしいですかな」

 頭がやっと働き始める。この老人が久我山家から尚大の蔵書を買い取った業者なのだ。今まで知り合ったどんな古書店主ともタイプが違う。容姿にも服装にも隙がなく、隅々まで注意は行き届いているが、どことなく人工的な匂いがする。まるで一から作り上げたキャラを忠実に演じているみたいな。

 俺はうっすらと胸騒ぎを覚え始めていた。